国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

未曽有の「人類の危機」

2023年を振り返って、根本かおる国連広報センター所長の寄稿をお届けします。

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年の瀬を迎え2023年を振り返るとき、10月7日の世界を震撼させたイスラム組織ハマスなどによるイスラエルへのテロ奇襲攻撃と大勢の人質の拉致、そしてそれに対するイスラエルによるガザへの攻撃と民間人が置かれている阿鼻叫喚に飲み込まれてしまっている自分がいます。アントニオ・グテーレス国連事務総長の12月22日の今年の締め括りにあたる記者会見もガザ一色の内容になり、今の国連の状況を反映するものとなりました。

グテーレス事務総長は会見で、「世界中の紛争地域や災害現場で奉仕した人道支援のプロたちから、今日のガザで見られる光景ほどのものは見たことがないと聞く」と述べた。 

 

ガザ危機が勃発する直前の 10 月初め、フィリップ・ ラザリーニ国連パレスチナ難民救済事業機関UNRWA) 事務局長がガザの中学生3人とともに訪日し、シンポジウムやミーティングでご一緒する機会があっただけに、国連広報センターの職員も私も10月7日を境に起きている出来事から大きなショックを受けています。

折しも今年は日本政府が UNRWA への支援を開始してから70年の節目にあたり、多くの日本の関係者に会い、日本からのこれまでの寛大な支援に対して感謝を伝えるための訪日でした。

同時に、パレスチナともイスラエルとも良好な関係を築いてきた日本において、記者会見メディア・インタビューを通じて「平和からこれほど遠のいたことはない。パレスチナ難民の多くが国際社会から見捨てられて、絶望感が広がっている。このままでは危機が再燃する」と警告のシグナルを発し、難民への支援を続けパレスチナ問題の解決に正面から取り組むよう、強く訴えていました。その矢先に、この紛争が起きたのです。

10月初め、国連広報センターを訪問したUNRWAのラザリー二事務局長(右から3人目)や清田明宏保健局長らとともに(右から2人目) (c) UNIC Tokyo

愛する家族を人質に取られたイスラエルの人々のいたたまれない表情、そしてガザの圧倒的な破壊と人々の絶望とを映し出す映像が、報道とSNSを通じてひっきりなしに流れてきます。私自身コソボブルンジ、ネパールなどで紛争の現場を見てきましたが、人口密集地ガザでの破壊のレベルは想像を超えるものです。グテーレス事務総長は11月6日の記者会見で「ガザでの悪夢はもはや人道危機(humanitarian crisis)ではなく、人類の危機(crisis of humanity)だ」と評しています。

(c) Ashraf Amra /UNRWA

ヴォルカー・ターク国連人権高等弁務官は、ハマスが残虐行為を行い人質を取ったことを戦争犯罪だと指摘するとともに、イスラエ ルがパレスチナの一般市民に対して「集団的な処罰」を行い、学校 や病院を攻撃し、北部から南部へ強制的に避難させていることに ついて、区別・均衡・予防措置を含む国際人道法のルールを厳守していなければ戦争犯罪に当たる可能性があると非難しています。これほどまでに「国際人道法」が多くの関係者から言及されることは近年なかったことだと思います。

エジプトとガザ地区の境界にあるラファ検問所を訪れたターク国連人権高等弁務官。多くの国連幹部が現地に入り人道の危機を訴えた (c) OHCHR

兵糧攻め、あるいは食料がガザに運び込まれても激しい戦闘で食料に安全に提供できない・アクセスできない状況が続き、国連世界食糧計画(WFP)はガザの全人口が深刻な飢餓に、4人に一人が最も深刻なフェーズである壊滅的飢餓に直面していると警告を鳴らしています。人々が食料配布用のトラックの荷台に乗り食料を奪うということも起きてしまっていますが、援助関係者が驚いたのは、人々が逃げずにその場で食料を食べ始めるというこれまでに見たこともない光景が繰り広げられたこと。人々がいかに食料難の極限状態に追い込まれているかを表しています。

ガザの人口の85%にあたる190万人が家を追われ、国内避難民となっている (c) UNRWA 

最悪の数字

この原稿を書いている12月25日の時点で、ガザ保健当局の発表で、ガザ地区の人口のおよそ1パーセントにあたる2万人超が殺害されています。最前線で支援にあたる人道支援要員も例外ではなく、UNRWAの職員が確認されているだけでも142名も殺されました。一つの危機で亡くなった国連職員の数としては最多という悲しい記録です。亡くなった同僚たちは、絶え間ない砲撃と飛び地の完全包囲のさなか、ガザ地区の 220 万人の命をつなぐ支援活動を行っていました。彼らは学校の校長、教師、産婦人科医を含む医療従事者、エンジニア、サポートスタッ フ、心理学者でした。それぞれが信念とやりがいを持ちながらパ レスチナ難民のための活動にあたっていたのです。

11月13日、犠牲となったスタッフを追悼し、世界各地の国連事務所で国連旗が半旗で掲揚された (c) UN Photo/Evan Schneider

私も過去に紛争と隣り合わせの国の最前線で国連の人道支援活動にあたった経験がありますが、一人でも職員が殺害されると、残された者は悲しみに打ちひしがれ、「明日は我が身」とおののくと同時に、「なぜ自分でなく、あの同僚だったのか」という自問自答にがんじがらめになることがありました。家族や親戚はもとより142人もの仕事仲間を失い、UNRWAの職員は激しい砲撃のもとでギリギリの救援活動を行う一方で、同僚の死に向き合わなければならず、その苦しみいかばかりかと慮らずにはいられません。UNRWAで保健局長を務める清田明宏さんは「現地出身のUNRWAの職員は何度も戦闘を経験している。ガザでも空爆や銃弾を避けながら、対応に追われた時がある。だが今回の戦闘は規模が全く違う。戦禍は甚大で、終わりが見えない。戦後復興の枠組みも分からない。初めての事態だ」と深く憂慮しています。

避難所でヘルスケアにあたる医療スタッフ。自ら家を追われたスタッフも多い。 (c) UNRWA 

日本に事務所拠点のないUNRWAに代わり、国連広報センターは微力ながら、ガザの人々の命をつなぐ支援活動を行う現場の声を日本の方々に届ける努力を重ねてきました。11月29日の「パレスチナ人民連帯国際デー」には、市民社会が企画したガザのドキュメンタリー映画の特別上映会にてグテーレス事務総長のこの記念日に寄せるメッセージとともに清田明宏UNRWA保健局長のメッセージも紹介させていただきました。

 「今日、パレスチナ人民連帯国際デーの11月29日は、10月7日に始まったガザの戦闘の53日目になります。この53日でガザは全く変わってしまいました。多くの子供たちが命を落とし、生き延びた子供たちも家を失いました。本来なら夢を育てる国連の学校がすべて避難所になり、勉強の機会が奪われました。人道支援物資は未だに圧倒的に不足、子供たちの食糧状況は悪化、飲料水も足りず、寒い冬の到来もあり、子供の下痢は昨年と比べて40倍増えました。子供たちの命や夢が奪われています。

 子供たちに罪はありません。パレスチナ人民連帯国際デーの今日、ガザの子供たちのために、ぜひ強い思いを広げてください。全く変わり果てたガザの街の中で、避難所の中で、絶望に押しつぶされているかもしれないガザの子供たちに、一人ではないんだ、決して置き去りにはしないんだ、という声を届けてください。UNRWAもガザの子供たちを守るために非常に厳しい中、必死で仕事をしています。ガザの子供たちの命を繋ぐために、ぜひ皆様のご協力をお願いします」

UNRWAの学校に避難する少女。収容可能な人数の数倍の人が避難し、屋外で過ごさざるを得ない人も多い。 (c) UNRWA 

国連の「様々な顔」を意識して欲しい

UNRWAをはじめ国連世界食糧計画(WFP)、国連児童基金UNICEF)、国連人道問題調整事務所(OCHA)、世界保健機関(WHO)などの国連の人道支援機関は様々な制約の中でガザで活動し、人々の命をかろうじてつなぐライフラインの役割を担っています。国連には様々な顔があり、人道部門が紛争下で果たしているライフライン的な役割も国連の顔の一つであるとともに、ニューヨークの国連本部を舞台に繰り広げられる国連外交も国連の異なる顔です。国連外交の主役は加盟国政府であって、国連という場を生かすも殺すも加盟国次第なのです。例えば安全保障理事会において、事務総長はブリーフィングを行うことはできるものの、決定は理事国の専権事項です。

ガザ危機において国連が機能不全に陥っているとの批判がしばしば寄せられますが、これはあくまでも、平和と安全を維持することに主要な責任を負う国連の主要機関である安全保障理事会が機能不全に陥っているのであって、国連全般が機能不全と評するのは不正確でしょう。ガザの人々への救援活動を提供している国連の人道支援部門はフル回転しているのは、前述の通りです。

安保理でのガザ危機の協議は、これまでにアメリカが決議案に対して2回拒否権を行使するなど、度々暗礁に乗り上げてきました。12月6日にはグテーレス事務総長が「事務総長は、国際の平和及び安全の維持を脅威すると認める事項について、安全保障理事会の注意を促すことができる」とする国連憲章99条を彼の任期で初めて適用し、まさに決死の覚悟でガザ地区での人道停戦を安保理に対して求めました。しかし、これを受けて提出された決議案も12月8日、アメリカの拒否権行使を受けて否決され、成果を上げられませんでした。

新たな決議案はぎりぎりの文言調整のために4日連続で投票が延期され、12月22日にようやく可決されました。紆余曲折を経て何とか採択にこぎつけた安保理として2つ目の決議は、あくまでもガザ地区への人道支援の拡大が内容の中心であって、敵対行為の停止については「敵対行為の停止に向けた条件をつくるよう求める」と言及するにとどまっています。

12月22日の安全保障理事会では、ガザの市民に対し、即時で安全かつ妨げられない、大規模な人道支援の提供を要請する決議案が採択された (c) UN Photo/Loey Felipe

安保理が2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻以降、大規模な紛争を前に十分にその機能を果たせていないのに対して、活発になっているのが国連総会の動きです。「緊急特別会合」を開催し、10月27日には人道目的での休戦などを求める決議を121か国の賛成で採択、そして12月12日には即時の人道的停戦を求める決議を前回採択時よりも賛成票を大幅に増やして153カ国の賛成で採択しています。日本も、最初の決議案には投票を棄権しましたが、2つ目の決議案には賛成票を投じました。決議に法的拘束力はありませんが、国際社会の総意として、侵攻を続けるイスラエルに停戦を強く訴える形になっています。平和と安全保障について、国連総会により大きな権限を与えていくべきだとの声が非常に高まっています。

さらに、総会では安保理で拒否権が行使された場合に総会を開いて理由の説明を求めるという、リヒテンシュタインが主導した決議が2022年4月に採択されています。拒否権行使を思い留まらせるまでの効果はなくとも、常任理事国に対して道義的な責任を求められるまでにはなっています。これも加盟国政府の知恵と経験に基づくものです。

 

2024年を照らす希望を

愛する家族を人質に取られた人々やガザの子どもたちを取り巻く状況が改善する兆しがないまま、2023年が暮れようとしています。

グテーレス事務総長は国連職員にあてた一年を締めくくるメッセージで、「来年は間違いなく挑戦的な年になるだろう」と語ると同時に、「どこに行っても、共通の利益のために協力する人々から湧き出てくる希望に、人々が深い飢えを抱いていると感じる。協力は人類最大の希望であり、それは国連で働くスタッフが日々実現しているビジョンだ」として、私たち職員が希望を持ち続け、平和・持続可能な開発・人権のために世界を結集して自分の役割を果たし続けることに期待を託しています。

2024年9月には、国連中心の多国間システムの刷新と多国間主義への信頼回復という非常に野心的なアジェンダを俎上に載せた「未来サミット」が開催されます。未来サミットに向けて、どのように「希望の灯」を示していけるかは国連にとって大きな課題です。国連広報センターとしては国連の高官の訪日などの機会を活かして発信していく計画です。

さらに、「1.5℃の約束」キャンペーン3年目 を2024年1月1日から125のメディア・団体と発進する上で、「地球沸騰化」時代への危機感をより強く持ち、気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)で示された「化石燃料からの脱却」を推進するアクションを積極的に提案していきたいと考えています。

さらに、今回ご案内した国連の多様な顔を日本の方々に一層理解していただき、国連の場で議論されるグローバル課題をより自分事化していただけるよう、日本における広報アウトリーチに誠心誠意努めてまいります。

どうぞ良いお年をお迎えください。

2023年9月16日、SDGサミットを前にニューヨークの夜空がドローン・アートで彩られた。SDGsの実施は2024年から後半戦に (c) Projecting Change/Marie Lombardo

 

リレーエッセイ「人権とわたし」(6)小保方智也さん:国連特別報告者(現代的形態の奴隷制担当)の活動から

 

 今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

 採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ最終回となる第6 回は、国連特別報告者(現代的形態の奴隷制担当)務める小保方智也さんです。

2022年より英国ヨーク大学国際人権法教授。専門分野は現代的形態の奴隷制と国際組織犯罪。2000 年に法務補佐として国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所で難民保護に従事。これまでに英国のキール大学、クィーンズ大学ベルファストや、ダンディー大学でも教鞭を執る。2020 年5 月から国連人権理事会の任命にもとづき「現代的形態の奴隷制担当の国連特別報告者(UN Special Rapporteur on Contemporary Forms of Slavery )」を務める。 

 

国際人権法との出会い

 今年は世界人権宣言採択の75周年ということで、改めて人権の大切さを考える良い節目の年です。宣言が採択された1948年と2023年を比べると、人権に対する認識や国際社会の取り組みも少しづつですが発展してきたと思います。特に昨今ではウクライナパレスチナでの紛争などの人道危機に対処するはずの国連安全保障理事会もうまく機能しない傾向が続き、国連人権理事会の重要度が上がってきたと思います。

「世界人権宣言」初期の文書。法的・文化的背景を異にする代表が集まって起草が行われた UN Photo/Greg Kinch

 私が人権に初めて興味を持ったのは大学生4年生の時。国際人権法のコースを受講した時に非常に感銘を受け、もう少し深く勉強をしたいと思いました。そのコースを担当されていた当時の教授が英国のエセックス大学で学ぶ事を勧めて下さり、渡英することを決意しました。エセックス大学の人権修士プログラムは充実したもので、国際人権法の他に人権政治や哲学コースもあり、幅広い観点から人権を学ぶ事が出来ました。国際人権機関でエキスパートとして活躍されていた教授陣が直接教えて下さったのも一つの魅力でした。

 その翌年はイギリス南部ブライトンにあるサセックス大学に移動し、国際刑事法の修士プログラムに参加しました。当時は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ICTY)やルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)も活動している最中で、国際刑事裁判所ローマ規定が採択された年でもあったので、とても良い時期に国際刑事法を学べたと思います。

ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)の設置を決める安全保障理事会決議955の採択の様子(1994年)UN Photo/Milton Grant

国際人権法・刑事法を守り活かしていく道へ

 元々は博士号もイギリスで取得する予定でしたが、少しでも実務経験を積むために1年間日本に帰国する事にしました。サセックス大学のプログラムが修了する頃、当時まだ乃木坂近辺にあったUNHCRにインターンシップがあるかどうかメールを送り、数日後インターン歓迎という返信があったので、帰国したらすぐUNHCRで働くことになりました。職務内容は主にリサーチでしたが、始めて数か月後当時法務補佐を務めていた方が産休に入ったので、期間限定で法務補佐の職を継ぐことになりました。難民保護や政府、市民社会とのやり取りなど、非常に忙しかったですが、毎日勉強になる日々過ごす事が出来ました。

 UNHCRでの任期が無事終了し、ノッティンガム大学で博士号を取得するため2000年の9月渡英しました。テーマは国際人権法の人身売買に対する役割で、各国に課せられた法的義務などの研究をしました。博士課程が修了するとスコットランド北アイルランドイングランドで国際人権法や英国刑法などを20年近く教えてきました。その傍らで人身売買や現代的形態の奴隷制の研究を重ね英国議会、EUIOM(国際移住機関)UNODC(国連薬物犯罪事務所)などで独立専門家としてアドバイスなどをしてきました。

 そして2020年、新型コロナウイルスの真っただ中、国連人権理事会から「現代的形態の奴隷制担当の特別報告者」に任命され、今年で2期目に入りました。私たち人権理事会のエキスパートは一般的に「特別手続きの任務保持者」と呼ばれており、一個人がなるテーマ別と国別の「特別報告者」の他に5人から構成される「作業部会」もあります。日本の方々がご存じなのは、おそらく今年公式訪問した「ビジネスと人権の作業部会」ではないでしょうか「国連」というタイトルはついていますが、独立性を保つため実は私たちは無報酬、無給でこの職務にあたっており、正式な国連の職員ではありません。

 任務保持者のポストは定期的に人権理事会より公募されており、私の場合2019年の11月に応募しました。最初の書類審査は各国大使などから構成される諮問グループ(Consultative Group)で行われ、ショートリストに残った候補者は後日電話で面接を受けます。その後推薦リストが諮問グループから人権理事会の議長に提出されます。議長は色々なステークホルダーと意見交換の後最終候補者を決め、そして人権理事会から正式に任命されます。

2023年ニューヨーク国連本部で報告書をプレゼンテーション 

国連特別報告者の仕事とは

 主な仕事はまず事実調査で、毎年テーマ別の報告書を作成し、人権理事会と国連総会に提出します。報告書の中では実務的な勧告を各国政府や他の関係者に対し行っております。招待された国を公式訪問し各国の現代的形態の奴隷制への取り組みなどを調査します。その際は政府関係者のみならず、市民社会労働組合、学者、労働者、そして被害者とも直接お会いし聞き取り調査します。人権侵害の疑惑がステークホルダーから通報されると国や企業に通知書を送り、事実確認や現状完全を勧告する「コミュニケーション」というシステムも活用します。

 私自身が就任してから今まで訪問した国はスリランカモーリタニアコスタリカ、カナダとコートジボワールです。私の任期が終わる前に、出来れば日本にも公式訪問出来ればと思います。

カナダで労働者の権利の向上と保護に貢献するグループCanadian Labourへの聞き取り調査にて(後列左から3人目が筆者)

 

 世界人権宣言の第4条は奴隷制度や奴隷売買を禁止しています。宣言自体は法的効力がありませんが、後に「市民的及び政治的権利に関する国際規約」やヨーロッパ、アメリカ、そしてアフリカに存在する地域別の人権法に反映されており、そして奴隷制の禁止は慣習国際法の一部であるとも認められております。しかし残念ながら強制・児童労働、性奴隷、強制・児童婚などの現代的形態の奴隷制は上昇傾向にあり、各政府や企業の取り組みが不十分なのは明らかです。刑法や労働法などの法整備を強化するのは勿論のことですが、その他に被害者の救済と保護、そして現代的形態の奴隷制を生み出す原因(例えば、貧困、不平等、差別など)もきちんと解消していかなければなりません。

詩人の谷川俊太郎さんとアムネスティ・インターナショナル日本がわかりやすい日本語に訳したバージョンの世界人権宣言より第4条

 国際社会も今後より強力なリーダーシップを発揮しなければ、SDG8/ターゲット8.7(児童労働を含めた現代的形態の奴隷制を2030年までに撲滅する)の達成もできなくなると懸念しております。私としても色々なステークホルダーが一体となってこのターゲットが達成出来るよう、対話や勧告などを通じて日々努力を重ねて参ります。

国連人権理事会で現代形態の奴隷制に関して報告する筆者

リレーエッセイ「人権とわたし」(5)前田直子さん:拷問禁止の歩みと直面する課題

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第5回は国連拷問禁止委員会で委員を務める前田直子さんです。

京都市出身。京都大学法学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修了(京都大学博士(人間・環境学))。外務省専門調査員(在ジュネーブ日本政府代表部)、外務事務官として国連での人権外交に携わる。その後神戸大学助教を経て、日本の女子大学として初めて法学部を設置した京都女子大学に着任。国連や欧州の人権保障制度、入管法制等を研究対象とする。2021年秋、日本人として初めて国連拷問禁止委員会委員に選出される。

拷問等禁止条約の歴史

 みなさんは「拷問」と聞くと何をイメージされるでしょうか。ドラマや映画、ニュースで見たり聞いたりすることはあるけれども、自分自身には現実味のない遠いものと感じられるかもしれません。

 国際社会における拷問禁止の主要な枠組みとして拷問等禁止条約があります。「拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」(日本語公定訳)という長い正式名称をもつ条約です。1970年代にアジア、アフリカやラテン・アメリカのいくつかの国々で、軍事独裁政権あるいは開発独裁体制が生まれ、緊急事態であるとの理由付けの下に、拷問、強制失踪や司法手続を経ない即決処刑が横行しました。国連でもそのことが大きな問題となり、1975年に国連総会にて拷問等禁止宣言を採択し、それを基礎としてこの条約の起草作業が進められました。

 来年2024年は条約採択40周年を迎えます。条約をとりまく時代の変化に鑑みると、日本語の名称で「等」と略されている部分の重要性も増していると感じているところですが、この点については後で述べたいと思います。

 条約は1984年12月に採択され(1987年6月発効)、2023年10月末の時点で、加盟している締約国は173カ国となっています。日本も1999年に加盟しました。締約国数の観点では、さらに多くの国家が締結している人権条約は他にありますが、国家権力の行使に一定の制約をかけることが主眼の拷問等禁止条約の性格に照らすと、国家のみならず市民社会を含めた国際社会が、拷問やそれに準じる取扱いや刑罰の禁止の重要性を広く訴え、粘り強く活動してきた成果と言えるでしょう。現在もさらにすべての国が加盟してくれることを目指して、拷問禁止委員会も活動を続けています。

1984年12月10日、国連総会で拷問等禁止条約が採択される様子。条約は、拷問を国際的犯罪だと定義し、締約国は拷問防止に責任を持つと主張し、犯罪実行者を処罰することを締約国に求めている。 UN Photo/Yutaka Nagata

 また条約の附属の議定書として、拷問等禁止条約選択議定書が2002年に採択(2006年発効)されています。選択議定書は拷問「防止」に主眼を置き、議定書の下に設置されている拷問防止小委員会が、締約国の様々な拘禁施設の視察を行い、その結果について報告・勧告を発出しています。2つの委員会は、常に連携を重視してそれぞれの活動を展開しています。その他、同じ条約の枠組みでは強制失踪条約(同委員会)、国連人権理事会の下での特別手続関連では拷問特別報告者らとの情報・意見の交換も定期的に実施しています。拷問禁止に関するネットワークが構築されてきています。

条約の射程:世界人権宣言とのつながり

 拷問等禁止条約は、その前文にも書かれているように、世界人権宣言第5条「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けることはない」の規定にルーツを有します。また今日の条約の運用状況に照らすと、世界人権宣言のその他の規定(第3条(生命・身体の自由)、第8条(効果的救済)、第9条(逮捕、抑留又は追放の制限)、第10条(公正な裁判)、第11条(無罪推定)、第14条(迫害からの庇護)等)とも密接にかかわる権利・義務規定を備えていると実感するところです。

詩人の谷川俊太郎さんとアムネスティ・インターナショナル日本がわかりやすい日本語に訳したバージョンの世界人権宣言より第5条

 条約第1条は拷問の「定義」を定めていますが、そこでは、①拷問は身体的なものであるか精神的なものであるかを問わない(形態)、②情報や自白を得たり、罰したり、脅迫・強要したり、差別したりすることを目的とし(目的)、③故意に人に苦痛を与える行為であり(意図)、④公務員その他公的資格で行動する者による行為あるいはそれらによる煽動・同意・黙認の下に行われる行為(行為者)、と大きく4つの要素が含まれています。政権による拷問や誘拐、あるいは日本に対しても指摘される刑事手続き上の課題等については、この定義に照らして検討できますが、様々な事例のなかには、目的や意図を証明するのが難しいものも多く、救済すべき事案であると考えられる場合でも、第1条だけでは十分にカバーしきれないのが実情です。

条約解釈の発展:ジェンダー平等の推進

 冒頭で、拷問等禁止条約の「等」が重要性を増していると述べました。条約では第1条に加えて、「その他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける」取扱いや刑罰を第16条で禁止しています。こちらについては、拷問禁止委員会の立場は、虐待の程度や目的・意図の厳格な立証は必要としないとしています。そのぶん被害者にとっては、第16条の違反を問う間口が広がることになります。

 条約のテキストは、それが起草された時代の背景や法原則、価値観等が反映されているわけですが、それにとどまらず、時代とともに移り変わり発展する「生きた文書」であることが重要です。情勢に応じた解釈の発展が求められます。

 この条約に関する発展の1つにはジェンダー平等の推進があると考えます。ジェンダー平等については、それを主眼とする女性差別撤廃条約の貢献が広く知られているところですが、拷問等禁止条約の文脈においても、性暴力、人工妊娠中絶、LGBTに関する問題が議論されています。ドメスティック・バイオレンス(DV)の禁止・防止を例にあげると、犯罪化・国内法整備(第4条)、被害者の救済申立て(第13条)、救済付与・リハビリ提供(第14条)等は条約の範疇となります。

 実際に、日本も2013年報告審査に関する拷問禁止委員会から改善勧告として、包括的な国内戦略の策定、身体的精神的ヘルスケアの提供、救済申立てへのアクセス保障、DV事件の効果的かつ公平な捜査と責任者の訴追、性的暴力に関する啓発活動等を要請されています。2024年4月1日に施行されるDV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の一部を改正する法律(令和5年法律第30号))では、保護命令制度の拡充や保護命令違反への厳罰化が図られるようですが、こうした国内法の運用が世界人権宣言や人権諸条約の趣旨に沿ったものとなるよう期待しています。

「すべての人に自由、平等、正義を」と謳う世界人権宣言

 一方で、各人権条約に設置されている委員会内でのジェンダー平等推進も大きな課題です。拷問禁止委員会はとりわけ、女性委員の少なさが長年指摘されています。現在(2023年11月)も10名の委員うち女性は3人にとどまり、国連人権条約機関の中で最も少ないと言われています。さらに2023年10月に実施された半数議席改選の選挙を受けて、2024年1月から2年間は、女性委員は日本とモルドバからの2名だけになります(10名の委員構成は、アメリカ、チリ、メキシコ、トルコ、中国、日本、モルドバ、モロッコデンマーク、ロシアとなる予定)。拷問禁止の世界にジェンダーの視点を取込み、法理をさらに発展させるためにも、微力ながらも頑張っていきたいと思っています。

ターク国連人権高等弁務官(右から5人目)と拷問禁止委員会。左端が筆者。

パンデミックと分断の危機を乗り越える

 最後に、拷問禁止に立ちはだかる課題について述べたいと思います。

 新型コロナウイルス感染症の拡大(パンデミック)は、私たちの日々の生活から国際情勢全般までを一変させました。ご存知のとおり、国連自体も対面での会議開催ができない時期があり、人権条約機関も各国の報告審査や個人通報、実地調査等の活動を一時停止することを余儀なくされました。バックログと呼ばれる積み残しの審査や案件を、いかに迅速に消化していくかは早急に解決の道筋を立てなければならない課題です。

 しかしそのような機構運営上の問題だけでなく、より実質的な問題、すなわちパンデミックによる人権状況の悪化はより深刻になっています。過密状態での長期収容、裁判手続の遅延、被拘禁者の医療アクセスの制限、難民等庇護を求める人々の押返しあるいは移動禁止等、感染症対策との関係では非常に難しいことであるものの、私たちを取り巻く人権問題は複雑化することになりました。拷問禁止委員会においても、かつては生じなかったこのような喫緊の課題について、どのような勧告をするべきか、各国情勢に関する情報を収集し、委員間で時間をかけて議論を重ね、検討する場面が顕著になりました。

 また、パンデミックによる国内外の分断だけでなく、国連中心の人権条約制度自体も、人権観を巡る分断の危機と常に背中合わせにあるように感じます。普遍的人権保障の枠組みに非協力的態度を示す国があったり、宗教原理を掲げて女性の権利を著しく制約する政権国家があったり、LGBTを処罰する国内法制定が広がりを見せたり等、世界には様々な懸念事案があります。他国の人権状況・問題へのコメント・批判は内政干渉であるという国際的人権保障の根本をゆるがす捉え方もまた、なかなか根強いものでありますが、これは人権条約機関の活動において、様々な国家との対話で乗り越えなければならない課題です。

 パンデミックや紛争を経て人権をめぐる分断が先鋭化しないよう、世界人権宣言75周年が、国家、市民社会、国際機関等のあらゆるアクターによる連携の下で、これまでの歩みを振り返り、将来展望について積極的に議論する契機になればと願っています。

 

(注)コラムに記した意見は所属委員会を代表するものではなく、私個人の見解とご理解いただければ幸いです。

2003年12月10日の人権デーに、国連本部ビルに浮かび上がった「拷問禁止」を訴えるアート・インスタレーション UN Photo/Eskinder Debebe



 

リレーエッセイ「人権とわたし」(4)石川准さん:障害者権利委員会委員としての4年を振り返って

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第4 回は、2017年から2020年まで、国連障害者権利委員会委員を務めていた石川准さんです。

 

障害者権利委員会委員としての4年を振り返って

富山県魚津市に生まれる。16歳の時に網膜剥離のため失明。東京大学点字入試で初めて合格。東京大学大学院社会学研究科修士課程、博士課程を経て、1986年に静岡県立大学国際関係学部専任講師となる。1999年からは同教授として、社会学・障害学の教育や研究に取り組む。また、支援工学分野の研究開発者として視覚障害者向けのソフトウェアを多数開発しており、静岡県立大学発のベンチャー企業であるエクストラでは代表取締役を務めている。2012年から10年間、内閣府障害者政策委員会委員長を務める。また、2017年から2020年まで、国連障害者権利委員会委員(2019年から2020年までは副委員長)を務める。

 

私は2017年から4年間、障害者権利委員会という障害者権利条約の条約機関の委員を務めました。条約機関とは、国際人権条約の締約国が条約の規定をどのように履行しているかを監視する、独立した専門家機関のことで、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の下に、9つの主要人権条約すべてに設置されています。条約機関は、締約国が条約を履行するよう促すことで、人権の普遍的かつ効果的な保護を実現することに貢献しています。

 

国際連合ジュネーブ事務所のエントランスに並ぶ万国旗 ©︎ Jun Ishikawa

 

条約機関の任務はそれぞれの人権条約によって規定されており、障害者権利委員会の任務は、以下のとおりです。

  • 締約国から提出された報告書を審査するとともに締約国政府との建設的対話を実施し、締約国に対して、条約の履行状況を改善するための勧告を行う。

  • 条約の特定の条項に関する一般的意見を採択し、その解釈を明確化する。

  • 個人からの申立てを審査し、人権侵害が認められる場合には、締約国に対して適切な措置をとるよう勧告する。

  • 締約国による系統的または深刻な条約違反を調査し、締約国に対して適切な措置をとるよう勧告する。

障害者権利委員会の委員としての4年間は、忘れがたい経験でした。私は春と夏の2回、ジュネーブでそれぞれ4週間を過ごしました(もっとも、最終年はコロナのため、春は中止、夏はオンラインでの開催となりました)。月曜の早朝から金曜の夕方まで、長い会議が続きました。当初、英語の長時間シャワーで私の脳は極限まで疲労し、シャットダウンすることもしばしばでした。

障害者権利委員会に参加する著者(左) ©︎ Jun Ishikawa

そんなとき、庭の芝生の上にピクニックシートを敷いて仮眠をとることもありました。連日の会議の激務を乗り越えるためのささやかな工夫でした。

 

心身ともにリフレッシュすることを試みながら、次の会議へと向かう日々だった
©︎ Jun Ishikawa

2019年からは、さらに責任が増し、副委員長として審査国政府との建設的対話の議長などの役割を果たしました。

建設的対話では、ギリシアの代表団が休憩時間に会議室のなかで円陣を組んで答弁の準備をする姿が印象深く、熟議の長い伝統を感じました。ルワンダは大量虐殺の悲劇を乗り越え、政府は修復的正義の努力を積み重ねており、障害者政策においても積極的な姿勢を見せ、未来に希望を感じました。

国別報告者として、ミャンマーパレスチナの障害者グループ・市民団体からは直接切々とした訴えを聞き、障害者権利委員会への厚い期待をひしひしと感じました。

インドの女性障害者のグループからは交差的差別の訴えを聞きました。「交差的差別」(Intersectional discrimination)は聞きなれない言葉かもしれません。少し説明します。交差的差別は、個人が複数のアイデンティティや社会的カテゴリーに属しているために経験する重層的な差別を指します。インドの女性障害者は、障害と性別、さらに身分、宗教、階級に関わる交差的な差別を経験していると訴えました。

ところで、障害者権利委員会の会議は国連欧州本部の会議室で開かれます。広大な欧州本部の敷地内や周辺には、平和や国際協力を象徴するさまざまな彫像やアートワークがあります。

なかでも「壊れた椅子(Broken Chair)」は有名です。壊れた椅子は高さ10メートルにもなる巨大な椅子で、国連欧州本部の前の広場に、国連欧州本部と向き合うように、応答を求めるように設置されています。壊れた椅子の一本の足が折れたデザインは、対人地雷の使用禁止を訴えており、「ハンディキャップ・インターナショナル」という市民団体がスイスのデザイナーに制作を依頼し、1997年8月に国連広場に設置されました。ジュネーブ市民から絶大な支持を受け、今日まで平和へのメッセージを送り続けています。

 

ジュネーブレマン湖の西端に位置する湖畔の都市です。そこから西にローヌ川が流れ出し、リヨンを通って南下しマルセーユのあたりで地中海に注いでいます。アルプスの最高峰モンブランジュネーブの東方、フランスとイタリアの国境にあり、天気が良ければジュネーブからはっきり見えるそうです。湖は冬の寒さを和らげ、夏の暑さを抑える役割を果たしています。

ジュネーブにはおいしい食材がたくさんあります。ペルシュという湖の淡水魚もそうです。私がジュネーブに行く機会があればもう一度食べたいと思うのがペルシュのフリットです。クリスピーに揚げられたペルシュは、レモンを添えて食べることが一般的です。

天気の良い時のレマン湖(左)ジュネーブの食材、ペルシュで作られたフリット(右)
©︎ Jun Ishikawa

ヨーロッパの諸都市はおそらく多くの日本人がイメージするよりもずっと北に位置しています。ジュネーブは北緯46度、パリは48度、ベルリンにいたっては52度です。稚内は北緯45度ですから、いかに北に位置しているかわかります。ヨーロッパの人々が、夏の到来を待ちかね、夏の終わりには早くも暗い冬のことを思って憂鬱な気分になるというのは頷けます。

パレ・デ・ナシオンの広場に設置されている「壊れた椅子(Broken Chair)」と万国旗の前にいる著者 ©︎ Jun Ishikawa

障害者権利条約の話にもどしましょう。この条約は主要人権条約のなかでも最も遅れてできた条約です。遅れてできた条約だからこそ、それだけ新しい考え方を取り入れた条約ともなっています。

この条約には多くの重要な考え方が盛り込まれていますが、特に革新的とされる考え方や原則として以下の点が挙げられます。

  • 障害者もまた、すべての人権と基本的自由を平等に享受する権利を持っていると規定している。

  • 障害を、障害を持つ人が社会と相互作用するときに生じる障壁として再定義している。

  • 障害者が直面する障壁の除去のための環境調整を拒むことを含め、障害を理由とする差別を禁止する法整備を締約国に求めている。

  • すべての人がアクセスしやすいように設計された商品や環境を実現する施策を締約国に求めている。

  • 障害を持つ人々が自分の人生についての決定を下す能力と権利を持っていることを強調し、そのための支援を締約国に求めている。

  • 障害を持つ人々が社会の全ての面で完全に参加する権利を確保するように締約国に求めている。

  • 独立した監視枠組みを国内に設置し、障害者の、監視への参画を確保するように締約国に求めている。

障害者権利条約は日本にも大きなインパクトを与えました。条約批准のために制度改革が実施され、障害者基本法の改正や、障害者差別解消法の制定などが実現しました。また内閣府障害者政策委員会が設置され、政府は障害者権利条約の批准に際して障害者政策委員会を「独立した国内監視枠組み」に指定しました。

私は内閣府障害者政策委員会の委員長を2012年から10年務めました。国連障害者権利委員会による対日審査はコロナの影響で遅れ、2022年の夏に実施されました。私も独立した国内監視枠組みの責任者として審査に出席し、冒頭ステートメントで、知的障害者などの法的行為能力を制限する成年後見制度から法的行為を支援する支援付き自己決定制度への改革が検討されていないこと、精神障害者の非自発的入院と緊急手段でも最終手段でもない身体拘束をなくすためのロードマップが策定されていないこと、特別支援学校と特別支援学級に在籍する児童生徒が引き続き増加しており分離教育からインクルーシブ教育へのパラダイムシフトが行なわれていないこと、を主要な懸念事項として指摘しました。

主要な懸念事項を示しえたこと、独立した国内監視枠組みをなんとか機能させられたこと、監視枠組みが機能していることを建設的対話の場で示しえたことで肩の荷が下りた思いです。

2008年に発行した障害者権利条約の下、障害者の権利のより効果的な保護に向けた政府や市民社会との対話が続いていく ©︎ Jun Ishikawa

改めて国連障害者権利委員会と内閣府障害者政策委員会の活動を振り返ってみると、多くの人々がそれぞれの場所と立場でできることを行い、それが繋がって道が開けてくることを実感できたのは得難い経験でした。

リレーエッセイ「人権とわたし」(3)寺谷広司さん:世界人権宣言採択75周年に寄せて――自由権規約委員会委員の立場から

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第3回は、自由権規約委員会で委員を務める寺谷広司さんです。

 

世界人権宣言採択75周年に寄せて―自由権規約委員会委員の立場から

自由権規約委員会の会期が通常行われているパレ・ウィルソン内。
世界人権宣言採択75周年のブースに立つ筆者。

東京大学大学院法学政治学研究科教授。東京大学法学部を卒業後、東京大学北海道大学などで国際法、国際人権法、国際刑事法などを専門に教鞭をとる。1998年-2000年ケンブリッジ大学ローターパクト国際法研究所客員研究員、2010-11年コロンビア大学ロースクール客員研究員、2010年ミシガン大学ロースクールおよび、2015年コロンビア大学ロースクールの交換客員准教授・教授も務める。国際法学会理事、国際法協会理事、等。2017年-2021年強制失踪委員会委員。2023年から自由権規約委員会委員。

 

1.はじめにーー世界人権宣言の誕生

 1948年12月に採択された世界人権宣言が、今年、採択75周年を迎えます。4分の3世紀は中途半端な数え方かもしれませんが、しかし、人のほぼ一生分(世界の平均余命は約73歳)だと考えると、なかなか感慨深いかと思います。国連(United Nations)は、その主たる目的は国際平和・安全の維持ですが、民主主義・人権保護を目指して枢軸国と戦った連合国(United Nations)側がつくった組織でもあります。世界人権宣言は第3回の国連総会で、冷戦開始の少し前に反対票なく採択されました。

国連広報局によってつくられた「世界人権宣言」パンフレット表紙のフランス語版、ロシア語版、英語版、中国語版複製(1948年)UN Photo

2.後継者としての自由権規約

 世界人権宣言は国連総会決議として採択された文書なので、法的拘束力がありません。また、宣言はするものの、履行を確保する制度上の裏付けがありません。そこで、その後、条約化を目指して20年近くをかけて議論して採択されたのが、社会権規約自由権規約の2つです(自由権規約の選択議定書を含めて数えれば3つです)2つに分けて採択されることになったのは、当時の国際社会の認識として自由権こそ「本当の」人権であり、社会権はそうでなく、条約化されるとしても別々の条約とすべきだとする理解があったためです。この状況は、国際情勢の東西対立や南北対立とも対応しています。

 自由権規約には現在173国が批准しており、相当数の普遍性を獲得しています。そして、この自由権規約の国家による履行を監督する機関が、自由権規約員会です。英語の正式表現は“Human Rights Committee”というごく普通のものですが、これは当時、並ぶものがほとんどなかったためです。その後この種の委員会が増えたため、日本語では「自由権規約委員会」と表記して区別するのが一般的になっています。

 対比的にいうと、上記事情のために社会権規約自体には履行確保の委員会が条約に規定されておらず、経済社会理事会がこれを設置したのは1985年になってのことでした。また、自由権規約にやや先行して人種差別撤廃条約も1965年に採択されており、監督機関を有しませんが1948年採択のジェノサイド条約を人権条約の先行として位置づけることも多いです。ただし、これらは特定主題の条約であり、社会権規約自由権規約のようにカテゴリカルに広く権利を対象としているものとは対比できます。

 

3.自由権規約委員会のお仕事

 では、委員会は実際にはどのように国家の条約履行を監督するのでしょうか?

 代表的には国家報告制度があります。各締約国が自国の人権状況の報告書を自身で作成して、それを委員会が審査します。いわば国家の自己評価なので、国家側からしても第三者から強制される性格が少なく利用しやすい制度です。もちろん、自己評価なので評価が甘くなるのではないかと思うでしょう。そこで、国家から独立した国内人権機関(日本にはありません)や、市民社会からの情報提供が重要になってきます。カウンター・レポートなりアルタナティヴ・レポートなりと呼ばれます。国家報告の審査は、国家代表と委員会の間で二日にわたって対話形式で計6時間行い、その後に、委員会内で検討し、最後的に「総括所見」という報告書を提出します。日本については、昨年2022年に第7回の国家報告審査が行われました(ちなみに、委員は出身本国の審査には加われません)

今年ジュネーブで開かれた第138回セッションの様子。

 

 履行確保のためのもう一つの重要な柱は、個人通報制度です。先に挙げた(第1)選択議定書を選択した国のみ参加するいわばオプショナル・コースであり、現在117か国が参加しています(日本は同議定書を批准していません)。国内で利用できるすべての措置を尽くした後、被害にあった個人が訴えを直接に委員会に持ち込めます。これが画期的な制度であったのは、1966年当時、国際社会といえば基本的には国家間関係であるところ、個人がそこに登場するからです。最終的には、裁判所でいう判決に相当する「見解」を委員会が出します。

 自由権規約委員会は、18名の国籍の異なる選挙で選ばれた委員から構成されます。現在の男女比は11:7で、地域では欧米がやや多く、アジアからは韓国のSohさんと私だけでややアンバランスです。委員たちの現在ないし以前の職は、私のような大学教員のほか、裁判官、検事、外交官、人権擁護者、国連職員などですが、この委員会は特に法律に精通している人がほとんどであることが特徴で、委員会への信頼の源泉の一つになっていると個人的には思っています。

 会期は年3回、ジュネーヴで行われます。通常、3月、7月、10月で、それぞれ4、5週間ほどです。これだけでは足らず、実際には公式の会期の一週間前から半数近くの委員が「ボランティア」で集まって個人通報の審議をしています。個人通報制度は他の人権条約機関にもありますが、老舗でかつカバーしている権利の範囲の広い自由権規約委員会への付託件数は突出していて、処理し切れていないためです。「ボランティア」とはいえ、そもそもこの作業がないと委員会の仕事が回らないので、誰かが必ずやらないといけません。このほか、コロナ禍を経験した人類の英知でオンライン会合が会期外でも時々あります。日本から参加するときは時差の関係で通常深夜に及びがちで、体力的には少々きついです。また当然ですが、国家報告なり個人通報なりの準備自体は会期期間外になりがちです。私の体感では、半年近く、委員会の業務に関わっているような気がします。ちなみに、当地での生活費等を除くと給与名目の支給はありません。ええ、かなりブラックな団体というべきかもしれません。

パレ・ウィルソンの外観。初期の国際連盟が入り、現在は国連人権高等弁務官事務所が入っており、国連旗が掲げられている。

4.委員としてのmindset

 ここまで書いていていて何ですが、実はこの原稿は2023年の10月会期に出かける飛行機の中で書いていて、暗い機内で独り目を瞑っていると、なぜ、こんなハードな仕事をしているのだろうかと想いを巡らせがちです。筆者の本業は大学教員であり、法学という実務的な学問を専攻しているとはいえ実務家ではありません。本業の論文執筆は締め切りを守られることの方が珍しくなりましたし、小さい子供と離れて過ごすのは少々きついところもあります。幸い、私の所属する大学と同僚、妻をはじめ家族の理解・協力があるので、何とかやっていけています。

 モチベーションの一つは、やはりこの仕事自体が楽しいからです。自分の専門分野の最前線を見ることができ、能力のある同僚達――そして、それより多くいる後ろで支えてくれているスタッフ達――の献身的働きぶりには心の底から感銘を受けています。しかし、より大きい側面は、あえて臆面もなく言えば「世のため人のため」です。あるいは、自分が恵まれていることの社会への恩返しです。逆に、自分のためならここまではやらないし、多分できないと思います。もっとゆったりしたペースで、もっと家庭生活とバランスを考えて仕事をするでしょう。そもそも研究者になる人間は、自分で好き勝手にやりたい人種です。ですから、自分のする決定が、関係者の人生をかなり直接に影響するというのは結構なプレッシャーとなります。何でもかんでも人権侵害と言って済むような話ではなく、実際に、様々なバランスの中で悩むことは多く、委員会内でもよく意見は対立します。それは研究対象として悩ましい論点だというタイプだけでなく、諸々の矛盾や無力感を引き受けることでもあります。「世のため人のため」――そして、意見が違ってもそうした志を共有できる同僚委員と励まし合い、共により良い社会を作ろうと思えることが大きな支えです。

審議が行われる会議場で。委員長のTania María ABDO ROCHOLLさんと

 意外に思うでしょうけれど、私自身は「人権」を崇高な理念だとは思っていません。人権は、個々人の幸福の条件であって、幸福は各人で努力しなくては実現できませんし、人権を持っているからと言って立派な生き方ができるわけではありません。しかし、考えてみて下さい。拷問されないとか、恣意的に逮捕されないとか、そんなの、たり前じゃないですか。つまり、崇高な理念であってはいけなくて、当たり前の現実でないといけないんです。人権が政治体制を問わずに実現されるべきだというのは、それが当たり前の条件だからと私は理解していてます。しかし!多くの国で、それが実際には難しいのです。

 

5.結び

 迂闊にも、委員としての心の在りようを晒しました。ところで、これもまた当然のことですが、人権の保護・伸長といったことは自由権規約委員会だけでできるわけではなく、むしろ、諸国家、各国の諸団体、市民社会、そこに属する人々、つまり社会に生きるすべての個々人の心の在りようにかかっています。

 先に、自由権規約は世界人権宣言とは異なり、法的拘束力があって委員会による制度的な履行確保を備えていると言いましたが、そうした制度も、個々の委員や関係者の志、さらには社会の各所で生きている個々人の志がなければ動きません。世界人権宣言の起草者の一人であるエレノア・ルーズベルトさんの有名な言葉が繰り返し引用されるのは、この点からしてもとてもよく理解できます。

“Where, after all, do universal human rights begin? In small places, close to home – so close and so small that they cannot be seen on any maps of the world. Yet they are the world of the individual person; the neighbourhood he lives in; the school or college he attends; the factory, farm or office where he works.

https://www.un.org/en/teach/human-rights

 

結局のところ、普遍的人権はどこで始まるのでしょうか。小さくて、身近な、それゆえに世界のどんな地図でも見つけられないすぐ足元から始まるのです。けれども、それこそが一人一人が生きている世界なのです。人権は、暮らしている地域、通っている学校や大学、働いている工場や農場、オフィスなどから始まるのです。(国連広報センター訳)

委員会の仕事で世界人権宣言を参照することはあまりないのですが、世界人権宣言は人権の保護・伸長にとって重要な源泉だといえるのです。Happy birthday、75歳、おめでとう。これからも宜しく。

 

ブラジルの画家オタビオ・ロス氏による世界人権宣言啓発のイラスト。
第一条からの文言「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」が添えられている。

 

リレーエッセイ「人権とわたし」(2)大谷美紀子さん:なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第2回は、国連子どもの権利委員会委員を務める大谷美紀子さんです。

 

なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

1987年、上智大学法学部国際関係法学科卒業。1990年より弁護士。人権問題に関心を持ち、子どもの権利条約について学んだことがきっかけで、人権教育、国連の人権活動、国際人権法に関心を持ち、米国に留学。国連人権高等弁務官事務所ニューヨーク事務所でインターン。1999年、コロンビア大学国際関係公共政策大学院修了。帰国後、2003年、東京大学法学政治学研究科修士課程専修コース修了(国際法専攻)。弁護士として、また、NGO活動を通して、子どもの人権、女性の人権、外国人の人権問題に取り組む。2017年から、日本人初の国連子どもの権利委員会委員(2025年まで)。2021年5月から2023年5月まで、同委員長。

 

 私の職業は弁護士です。それとは別に、私は、2017年から、国連子どもの権利委員会の委員を務めています。また、2021年5月から2023年5月までの2年間は、委員長も務めました。いずれも、日本人として初めてということで、インタビューを受け、新聞でも取り上げていただきました。その中で、どうして国連の委員になろうと思ったのか、また、子どもの人権問題について取り組む思いについて、よく質問されました。そこで、改めて、私が子どもの権利条約について取り組むようになったきっかけや思いについて、書かせていただきます。

 国連子どもの権利委員会は、1989年に国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」(子どもの権利条約)を批准・加入(条約に参加する手続)した国(締約国)による条約の実施状況を監視し、改善のための勧告を行う活動をしています。委員会には、締約国から指名された候補者の中から締約国による選挙で選ばれた18人の委員がいます。委員は、自国の代表でもなく、国連の職員でもなく、個人専門家として活動します。具体的には、1年に3回、4週間ずつスイスのジュネーブに滞在し、締約国から提出された報告書について、ユニセフなどの国連機関、NGOや子どもたちから情報提供のために提出された報告書も参照しながら、締約国の代表団(関係各省の大臣や職員、ジュネーブに常駐する大使などが中心)との間で条約の実施状況について質疑応答を行い、その結果に基づいて勧告を採択します。

ジュネーブで子どもの権利委員として活動する筆者

 実は、私は、子どもの頃から、将来は、人のために役に立つ仕事をしたいと思っていました。高校生の時に、国連のことを知り、国連で仕事をしたいと思うようになりました。そこで、外交官や国連での仕事を目指す学生が学べるという上智大学法学部国際関係法学科に入学し、国際機構論や国際政治などを勉強し始めた1983年、アメリカがユネスコ脱退を表明し、衝撃を受けました。アメリカのような強大な力を持った国の存在、パワーポリティクスの現実を見て、自分が国連という組織に入って何ができるのかと無力感を感じたのです。大学を卒業したら企業に就職するという日本の多くの大学生のキャリアパスに比べて、当時、国連職員になるための情報も乏しく、社会に出て早く仕事に就きたかった私にとって、国連職員へのキャリアパスが具体的に描きにくかったことも一因でした。

 国連職員になるという具体的な目標を失った私は、悩んだ末に、かわりの職業を選ぶかわりに、まずは、専門的な力をつけようと考え、法律を選びました。友人の一家が法律問題を抱えて一緒に悩んだことや、私の学科が法学部の中にあり、法律科目を勉強して身近に感じていたこともありますが、社会で人のために役に立つ仕事をするうえで、法律の専門知識は必ず力になるに違いないと考えたことが一番の理由です。そして、私は、研究と実務のうち、実務を選びました。社会の中で直接、人と関わる形で人のために仕事をしたかったからです。そのためには、司法試験に合格して資格を取らなくてはいけないとわかり、司法試験を受けることにしました。

 こうして、私は、1990年に弁護士になりました。そのための勉強の中で、日本国憲法の平和主義、人権について学び、熱い思いを抱きました。ところが、弁護士になってすぐに見た現実の社会には、憲法に書かれている平等や人権の理想とは程遠い、差別や人権侵害がありました。そんな中で、弁護士であることから、人権について講演を頼まれたことがありました。私は、社会の中で、弁護士は人権の専門家と思われているにもかかわらず、憲法の人権論を勉強してきた以外に、人権問題についての深い理解や人権感覚を磨くような教育を受けてきたわけではないことを恥ずかしく思うようになりました。特に、憲法で学んできた、人権侵害とは、国家による個人の人権の侵害であるという考え方と、実際に社会の中で人々が差別され、人権が侵害されていると感じる場面の多くは、他の個人や企業との間で起きていることとのギャップを強く感じました。また、裁判所は人権救済の最後の砦というけれど、弁護士を見つけ、依頼することの困難、裁判の費用と期間、裁判の過程での二次的被害の問題にも気付きました。

 こうして人権問題について考えるようになった後、1993 年に、子どもの権利条約のことを知りました。

子どもの権利条約が採択された国連総会(1989年)には、当時のユニセフ親善大使オードリー・ヘップバーン氏も出席  UN Photo/ John Isaac

 また、ユニセフで開発教育を担当していた方が来日し、お話を伺う機会がありました。その話に刺激を受け、私は、差別や人権侵害が起きた場合の裁判による救済が必要であるのと同時に、差別や人権侵害が起きないような社会にするためには、遠回りではあるけれど、教育が重要ではないかと考えるようになりました。こうして、弁護士の仕事をする傍ら、図書館に通い、「人権教育」について書かれた本を探している中で、ある日、国連広報センターからの情報で、1993年6月にウィーンで開かれた世界人権会議で、人権教育の重要性が強調され、そのための取組みが始まったことを知りました。1994年の国連総会で、1995年から2004年までの10年間を、人権教育のための国連10年と定める決議が採択されたというのです。もっと知りたい!と思って、国連広報センターに問い合わせをしましたが、それ以上の詳しい情報はまだないと言われ、私は、国連寄託図書館として指定されている東京大学総合図書館に、国連総会決議を調べに行きました。

170か国以上が参加したウィーンでの世界人権会議(1993年)  UN Photo

 これが、私が国連の人権活動に関心を持つようになったきっかけです。私は、国連が第二次世界大戦後の1945年10月に創設された時、国連憲章の中で、国連の目的の1つとして、平和と並んで人権が明記されたことを知りました。平和の実現のためには、世界中ですべての人の人権が保障されなくてはいけないという思想に感動しました。国連は、国連憲章の目的に基づいて、1946年に世界人権宣言の起草を開始し、東西冷戦の始まりとベルリン封鎖という緊張した国際情勢の中で危ぶまれながらも、1948年12月10日、初めての世界共通の人権基準として、世界人権宣言を採択したのです。そして、国連が、人権を教育によって普及するために世界人権宣言を500以上もの言語に翻訳し普及に努めてきたこと、さらに、世界人権宣言を法的に拘束力のある条約を起草し採択してきたこと、条約によって設立された委員会が条約の実施を監視する活動をしてきたこと、こうした国連による人権活動について学びました。

世界人権宣言のポスターを掲げる起草委員会のエレノア・ルーズベルト委員長(1949年)
UN Photo

 特に、私が感銘を受けたのは、人権教育のための国連10年行動計画の中に謳われていた人権教育」とは、人権という普遍的文化を構築するために行われるものであり、知識だけでなく、スキルや態度の形成が重視されていたことでした。差別や人権侵害が起きない社会にするためには、すべての人の人格・尊厳、人権を尊重し、差別をしないということが、一人ひとりの考え方や価値観、態度の中に育まれ、行動基準になっていくことが大事だと漠然と漠然と感じていたことに対して、国連から、そのとおり!と言ってもらえた気持ちがしました。

子どもの権利条約の採択30年を記念した総会のハイレベル会合で、「We the Children」の合唱を披露する子どもたち(2019年)UN Photo/Manuel Elías

 そのような「人権教育」は、子どもから始めることが重要です。実際、子どもの権利条約29条には、こどもの教育の目的の1つとして、人権の尊重を育成することが挙げられています。そして、子ども自身が自分の人権を知り、一人の人格として尊重され、尊厳を持って扱われ、他人の人権を尊重することを学ぶには、家庭、学校、地域で、子どもにかかわるすべての大人の考え方、言葉づかい、態度、行動の中に人権が根付いていくことが必要です。

 

クリーンで健康的かつ持続可能な環境への子どもたちの権利を守るために、国連子どもの権利委員会は各国がとるべき指針を発表し、そのプロセスには日本の子ども1500人も参加。子どもと気候変動など、新たな課題にも取り組む。

 

 子どもの人権に焦点をあて、子どもの人権教育を進めることが社会の変革につながる!-これが、私が子どもの人権条約の実施に取り組むようになった理由です。この原点を忘れずに、今後も、子どもの人権のために、力を尽くしていきたいと思います。

子どもの権利委員会メンバーとともに(2列目中央が筆者)OHCHR ウェブサイトより 




リレーエッセイ「人権とわたし」(1)秋月弘子さん:幸運な国の不運な女性?

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第1回は女子差別撤廃委員会委員を務める秋月弘子さんです。

 

幸運な国の不運な女性?

亜細亜大学国際関係学部教授、2019年1月より国連女性差別撤廃委員会委員。国際基督教大学大学院行政学研究科博士課程修了(学術博士)。国連開発計画 (UNDP) プログラム・オフィサー、北九州市立大学助教授、コロンビア大学大学院国際公共政策研究科客員研究員などを経て、2002年より現職。主な著書は『国連法序説』(単著、国際書院、1999年)、『国際社会における法と裁判』(共著、国際書院、2014年)、『人類の道しるべとしての国際法』(共著、国際書院、2011年)など。©︎ Hiroko Akizuki

 

世界人権宣言採択75周年、おめでとうございます。

第二次世界大戦前、人権問題は国内管轄事項とされ、いずれかの国で甚だしい人権侵害があったとしても、一般的には国際的な場で議論されることはありませんでした。それが、国連が創設されたことにより、「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重する」ことが国連の目的となり(国連憲章第1条第3項)人権は国際問題化されました。その後、国際社会における人権問題への取組みは目覚ましく発展してきました。その発展の第一歩となったのが、1948年に総会決議として採択された世界人権宣言です。

私は今、国連の女性差別撤廃委員会の委員として、各国における女性と少女の権利保護の進捗状況を監視する仕事をしています。

女性の権利に関しては、世界人権宣言第2条で、すべての人は性別、その他の差別を受けることなく権利と自由とを享有することができると規定しています。1966年に採択された「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」、および、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」も、第3条において、男女の同等の権利を保障しています。その後、女性の権利に関するいくつかの条約の採択を経て1979年に「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女性差別撤廃条約)」が採択されました。

189ヵ国(国連加盟国のアメリカ、イラン、スーダンソマリアパラオ、トンガが批准しておらず、国連非加盟国であるクック諸島パレスチナが批准している)が締約国となっている女性差別撤廃条約は、ほぼすべての国が参加する普遍的な条約です。また、国籍、教育、保健、雇用、意思決定への参加、女性に対する暴力、売春による搾取など、女性が直面するあらゆる問題、および、農山村の女性、先住民の女性、障害を持つ女性、庇護を求める女性、性的少数者の女性など、脆弱な女性の問題のほぼすべてを扱うことのできる包括的な条約となっており、まさに「女性の権利章典」となっています。

 

ニューヨーク国連本部で開かれた2022年の「女性に対する暴力撤廃国際デー」記念式典では少女たちが合唱を通して女性に対すジェンダー平等を訴えた ©︎ UN Photo/Loey Felipe


女性差別撤廃条約によって設置された女性差別撤廃委員会は、締約国が国内で女性差別撤廃条約をきちんと履行しているかを監視し、女性の権利の進展を評価し、さらに進展させるための方法を勧告しています。1回の会期で8ヵ国ずつ、1年に3回で合計24ヵ国の審査を行っていますが、女性の権利状況は、国によって大きな違いがあります。

 

現在の女性差別撤廃委員会は、アジア太平洋、アフリカ、欧州、中東、南米の様々な国から選出された委員で構成されている。 (右から2人目が筆者、OHCHRウェブサイトより)

 

封建的、伝統的な国では、未だに女性が権利の主体とはみなされず、男性の所有の対象であるかのように結婚、就職、居住、離婚、財産の所有などで差別を受けたり、夫が妻に暴力を振うことが許されたりしています。女性個人の人権よりも家父長的な家制度が重視され、レイプされた娘を父親が殺害(名誉殺人)することが横行している国もあります。法律で禁止されているにもかかわらず、女性性器切除(FGM)が文化、伝統、慣習の名のもとに行われている国もあります。

日本のように法律で男女平等が規定されている国においても、実社会の中では固定化された男女役割分担(ステレオタイプ)意識が根強く残り、「男性は社会に出て働く、女性は家で家事、育児、介護を行う」ことを前提とした社会制度・構造が残っています。女性差別撤廃条約は、法律上の男女平等だけを目指しているのではなく、事実上の平等、つまり、実社会の中での実質的なジェンダー(社会的、文化的に作られた性差)平等を目指しています。国連は、完全にジェンダー平等な社会ができるまでには300年近くかかると報告しています。社会を変えるために、人々の心の中にあるジェンダーに関する無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)と真剣に取り組まなければなりません。

北・西欧の人権意識が高いように見える国でも、裁判制度の中にジェンダー差別が残っています。まだ裁判官、検察官に男性が多く、判断を下す際に無意識の偏見(たとえば、痴漢や性暴力に会った女性は、男性を誘惑するような肌を露出した衣服を身に付けていたに違いない、など)が左右する可能性があるからです。ジェンダーに配慮した(ジェンダー中立的な)判断を下せるように、司法関係者の啓発を続けていく必要性があります。

持続可能な開発目標(SDGs)の目標5「ジェンダー平等を実現しよう」のターゲットうち、現時点で達成が見込めているのは15%のみだ ©︎ UN Photo/Manuel Elías

締約国の条約履行の監視以外にも、女性差別撤廃委員会は、40年以上も前に採択された女性差別撤廃条約を、国際社会における人権意識の向上、人権問題の変化に適応させるために、一般勧告と呼ばれる新たな解釈を採択したり、女性差別撤廃条約選択議定書の下の個人通報手続および調査手続により、権利侵害の被害女性からの通報を受け付けて救済したり、重大な権利侵害の状況を調査したりもしています。

最近の世界的課題としては、女性に対する暴力の増加があげられます。とくに、コロナ感染症パンデミックで家に閉じこもる時間が増えたため、世界的に家庭内暴力が増えたことが報告されています。また、女性が職を奪われ経済力を失う、家族が家に居ることにより家事、介護の負担が増えるなど、女性にとくに大きな負担がのしかかっています。コロナの影響の緩和策、コロナ後の経済政策の中で、とくに女性の過剰な負担を取り除くようなジェンダーに配慮した政策が望まれます。

また、保守主義の台頭と人権擁護者に対する抑圧や暴力の増加も危惧されます。これまで認められていた中絶を禁止し、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツを否定する動きが増えています。また、性的志向性自認(SOGI)という言葉を使うことすら否定するような動きもみられます。もちろん、LGBTIの方々に対する暴力、そして、女性の権利およびLGBTIの方々の権利保護を求める人権擁護者に対する暴力、殺害なども見られます。世界が一丸となってジェンダー平等に突き進む未来が見えないことが本当に心配です。

アフガニスタンで唯一の産科病院で、女性たちが待機している © UNICEF/Shehzad Noorani

 

さらに、アフガニスタンでは、実効支配を確立したタリバン事実上の当局が、女性の教育の権利、働く権利を奪ってしまいました。追い詰められた女性の中で、健康被害も出ているようです。タリバン当局には、女性と少女の権利を守るよう説得していかなければいけないのですが、タリバン当局は国民を正当に代表していないという正統性の問題があるため、タリバン当局の正統性を認めないという立場を明確にしながら、タリバン当局を説得していかなければならないという難しい問題が生じています。また最近は、アフガニスタンの状況を「ジェンダーアパルトヘイト」と定義し、この「ジェンダーアパルトヘイト」という言葉を国際法に取り込むべきだという主張も出てきており、新たな課題となっています。

 

2023年4月、国連安全保障理事会は、タリバンがアフガンニスタンで国連の女性の現地職員が勤務することを禁止したことを非難する決議を全会一致で採択 ©︎ UN Photo/Loey Felipe

 

日本に関しては、ジェンダー・ギャップ指数で146ヵ国中125位である、という事実は広く知られているのではないかと思います。なぜそれほど低いのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本は政治と経済の分野で大きな問題を抱えています。政治の分野は国会議員の女性比率が10.3%で193ヵ国中164位、経済の分野では女性管理職比率が低く146ヵ国中123位です。どちらも、意思決定過程への女性の参加が低く、ここが日本の大きな問題となっています。つまり、ジェンダー平等を進めるために社会を変革しなければいけないのに、女性が意思決定に参加していないため女性の意見が法律、政策等に反映されず、男性優位な硬直的な社会を変えることができない、という状況に陥っています。社会全体で女性の参加、リーダーシップの必要性を考え、少なくとも30%は女性の参加を確保するためにクオータ制を導入する必要があります。

 

日本の国会議員に占める女性の割合は1980年には他国と同程度だったが、いまは大きく後れを取っている ©︎ 亜細亜大学

途上国や紛争地域のように、今日、明日、命に危険が及ぶ可能性が高い国は、女性の大臣たちが、女性を保護し、能力を強化するための政策を熱く語ってくれます。貧しく危険な状況にある女性を心配しながらも、彼女たちにはより良い未来が来るのではないかと期待をもって話を聞くことができます。振り返って日本の現状を見ると、今日、明日の命の危険性が少ないことは日本の幸運ではあるが、命の危険性がないからこそ、人権を真剣に考える機会が奪われ、ジェンダー差別を深刻な人権問題としてとらえられていない現状は、日本の女性の不運なのではないかと感じてしまうのは私だけでしょうか。