第二次世界大戦終結から77年の今を生きる私たちは、過去の「過ち」から、そして今、世界で起こっている出来事から何を学び、どう平和に貢献できるのか。9月26日の核兵器の全面的廃絶のための国際デーにあわせて、アートやテクノロジーを通した戦争体験者の「想い・記憶」の継承に取り組む東京大学学生の庭田杏珠さんが、「自分ごと」として想像し、考える大切さを今を生きる私たちに訴えかけます。
第二次世界大戦終結から77年。今年も「いつも通り」8月6日はやってきた。コロナ禍とはいえ、広島平和記念公園には、アントニオ・グテーレス国連事務総長をはじめ世界中から多くの人が訪れ、祈りを捧げた。
しかし、原爆投下前、この場所が4,400人の暮らす繁華街・中島地区だったことを、そして多くのお店や旅館、民家が立ち並び、今の私たちと変わらない一人ひとりの日常が営まれていたことを、どれだけの人が想像できただろうか。
「記憶の解凍」のはじまり
私は被爆国・日本、そして広島に生まれ育った。幼少期から、毎年8月6日の原爆の日が近づくと平和学習が行われる。真夏の体育館に全学年が集い開催される平和集会では、気分が悪くなり高熱が出てしまうこともあった。被爆による惨状を受け止めきれず、次第に平和学習がとても苦手になった。
そんな時、母がこう話してくれた。
「大人でも恐ろしいと思うんだから、まだ子どもの杏ちゃんが怖いと思うことは仕方ないことだよ。でも、被爆者の高齢化は進んでいて、今お話を伺わなかったら『世界で初めて原子爆弾が広島に落とされた』事実はいつの間にか、忘れ去られてしまうよ。惨状を見られなかったら目を閉じてお話を伺うだけでも良いよ。」
今から振り返ると、当時の私なりに「もし戦争が起こって、同じように原爆が投下されたら」と、辛いけれど精一杯想像力をはたらかせて、「自分ごと」にしなければと努めていたのだと思う。
そんな私の意識が大きく変わったのは、小学5年生の時、広島平和記念公園のフィールドワークでもらった1枚のパンフレットがきっかけだった。被爆前と現在の平和公園が見比べられるようになっていて、戦前の日常を捉えた白黒写真が掲載されていた。「今の私たちと変わらない日常があって、それがたった一発の原子爆弾で失われてしまったんだ」と、今までとは違った想像力をもって、初めて「自分ごと」として捉えることができた。
当時の作文に「広島に生まれた者の使命として、被爆者の方々の思いを受けつぎ、伝えていきたい」と記している。しかし、小学生の私には、どのように伝えることができるのか分からず、新聞やテレビ、本などから平和関連の情報を収集して学んだ。
そして高校1年の夏、平和公園で偶然出会ったのが、濵井德三さんだ。実はその前日、録画していた地元テレビ局制作のドキュメンタリー番組を観ていた。そこで紹介されていた男性の語りと、目の前にいる濵井さんがお話される内容がとても似ていたので尋ねてみると、驚いたことにご本人だった。
生家は、中島本町で「濵井理髪館」を営んでいた。77年前の「あの日」、たった一発の原子爆弾が、大切な家族全員を一瞬にして奪い去ったことを知った。疎開中だった濵井さんだけが助かった。パンフレットのあの街に生まれ育った濵井さんを前に、とても不思議なご縁を感じた。廃墟と化す前の中島本町で、濵井さんが大好きな家族と過ごした日常を知りたい。8月6日のことはお話しできないし今の人には理解してもらえないと思うけれど、中島本町のことならと、濵井さんは快く証言収録を引き受けてくださった。
ちょうどその1週間後のワークショップで、AI(人工知能)による自動色付け技術を知った。白黒写真には「過去」の人として写っていたはずが、カラー化写真では「今」の人として立ち現れ、何を話しているのか思わず想像してみたくなった。
証言収録の日、濵井さんは、疎開先に持参したために残った、被爆前の家族との日常を捉えた貴重な白黒写真約250枚が収められたアルバムを持参された。
片渕須直監督のアニメ映画「この世界の片隅に」の冒頭シーンに、濵井さんの家族が数秒登場する。濵井さんは、家族に「会う」ために、何度も映画館を訪れたという。
「カラー化した写真をアルバムにしてプレゼントして、家族をいつも近くに感じて欲しい」
ただその想いから、カラー化を始めた。
当初はAIだけでカラー化してセピアっぽい色調だったが、ご覧になった濵井さんは「家族がまだ生きとるみたい。昨日のことみたいに思い出すねぇ」と、とても喜ばれた。白黒写真を見ていた時には思い出せない、新たな記憶がよみがえる。カラー化写真をもとに戦争体験者と対話を重ねることで、「記憶の色」がよみがえる様子から「記憶の解凍」と呼びはじめた。
手作業で色補正する技術も身につけて、今ではAIによる自動色付けは1割ほど、手作業によるカラー化が9割を占める。1枚のカラー化写真がうまれるまで、とても時間はかかるけれど、それをご覧になった提供者の喜ぶ笑顔は、何よりの原動力になっている。
カラー化していくにつれ、少しずつ写真の中の情景や人々に、命が吹き込まれたように見えてくる。その時はいつも嬉しい気持ちになる。笑い声、におい…その場面に入り込んでしまいそうになる。また、写真提供者と対話を繰り返すことで、当時の情景をより想像できるようになり、一度も会ったことがないのに、まるで話したことがあるような感覚になる。それらと同時に、鎮魂の想いも込み上げてくる。
日常の中で伝えるには
中島地区出身の方々から写真を提供していただき、取り組みを続けている。その中で受け取った戦争体験者の「想い・記憶」を、より多くの人に共感とともに届ける手段の一つが、映像を通した伝え方だと感じる。
2018年、山浦徹也さんと共同制作した「『記憶の解凍』〜カラー化写真で時を刻み、息づきはじめるヒロシマ〜」は、被爆前の中島地区の日常をテーマにした初めての映像作品だ。「国際平和映像祭(UFPFF)2018」で「学生部門賞」を受賞し、NYでの映像上映会でスピーチさせていただいた。その際に直接海外の方からいただいた“I’m so impressed!!”という共感のメッセージから感じたのは、原爆や戦争によって一瞬にして穏やかな日常が失われることを、カラー化写真を通して国境を越えて伝えることができるということだ。
2021年には、五感を通してより感性に響く伝え方をしたいと、カラー化写真と音楽のコラボレーションに挑戦した。広島のシンガーソンクライターHIPPYさんとピアニストのはらかなこさんと楽曲「Color of Memory〜記憶の色〜」を、映像作家の達富航平さんとMVを制作した。歌詞には、濵井さんや中島地区出身の方々をはじめ戦争体験者と共に辿る記憶、過去から未来へつながっていく記憶、そしてさまざまな視点からの平和の願いを込めた。家族がまだどこかで生きていると信じて、戦後70年までお墓を建てられなかった濵井さん。平和公園を訪れる時には、地面の下に眠っている街・人を想像しながら歩いてほしいという想いを、MVの映像に込めている。
そして2022年1月24日の「教育の国際デー」にあわせて、国連広報センター制作の動画「広島:記憶を解凍する – 色彩でよみがえる人々の暮らし(Hiroshima: Rebooting Memories - lives recalled when colours are added)」が、国連軍縮部より公開された。「記憶の解凍」の取り組みを例に、核軍縮における若者の役割の重要性について、世界へ普遍的なメッセージを発信する動画を制作していただいた。
“The World WarⅡ is a “past” event in our own history, but it is a “present” issue that threatens our own daily life.”
公開1ヶ月後に始まったロシアによるウクライナ侵攻で、動画の中で私が述べたこの言葉はより現実味を帯びることになった。いまだ終戦の兆しは見えていない。そう遠くない過去と同じように、戦争によってあっという間に、日常が失われていく。
動画に込められた、大切な人を奪っていった原爆や戦争に対する怒りや憎しみ、悲しみではなく、それらを乗り越えて「もう誰にも同じ思いをさせてはならない」と願う、戦争体験者の切実な想いに共感する。
「TEDxUTokyo2022」のワークショップでは、日本語字幕付きで16分30秒のロングバージョンの動画 をワールドプレミア公開し、国連広報センター所長の根本さんと「平和な世界を創るためにあなたができること」をテーマにした対談が実現したことで、大学生を中心とした参加者の若者と共に「平和」を考える時間を持つことができた。
核廃絶・軍縮の実現、戦争や紛争もなく、さまざまな社会課題が解決されるという大きな「平和」に加えて、私たち一人ひとりにとっての小さな「平和」、例えば何の心配もなく1日を過ごせること、自分のためだけではなく他人のために時間を使うことなど、「平和」について多くの人が「自分ごと」として想像し、考える時間を持つことが重要になるだろう。
そして、これらの映像をきっかけに、8月6日、9日、15日といった特別な日だけではなく、「日常」の中で戦争や平和について考え、一人でも多くの方の心に戦争体験者の「想い・記憶」が響くことを願っている。
一人ひとりの「平和」をきづく
「本当に生き残ったのが申し訳なかったんですよ、戦後。みんないなくなったから。だから親御さんが残っていらしたら、顔を合わせないんですよ、私たち。それくらい辛かったんです。今ウクライナのことで胸がいっぱいなんです。かわいそうでかわいそうで。」
「今テレビで戦争のことばっかりですからね、なんとか早く止めてほしい。あれは良くないですね。人間の欲ですね。欲を捨てたら何にもないのにね、平和ですのに。」
中島地区出身・中村恭子さんは、溢れそうな涙を堪えながら、そう語ってくれた。
争いは、「いま」に始まったのではなく、ずっと前から「遠い」国で、絶えることなく続いてきた。そして、ロシア・ウクライナ間での争いが長期化するにつれ、「第三次世界大戦」という言葉すら囁かれるようになり、私たち人類は不安定な世界を生きていると実感する。そう遠くない過去の悪夢を、誰が再び望むのだろうか。戦争、そしてたった一発の核兵器によって、一瞬にして日常を奪われ、悲しみ苦しむ光景を想像できないほどに、人間は愚かではないはずだ。
どうしても、戦争を体験した当事者にしか分からないことがある中、私たち若者にできること。それは、当事者に寄り添い、受け取った「想い・記憶」をそれぞれの形で伝えていくこと。例えば戦争体験者の「記憶の色」を表現したカラー化写真や映像、音楽といった「想像の余地」を残したアート作品は、五感をつかって「自分ごと」として想像してもらうことができる。あらゆる境界を越えて、それぞれが何かを感じることができる。そして、受け取り手が、また次の発信者となる。これこそ、あたらしい継承なのではないだろうか。
実際に広島を訪れて、平和公園の地面の下で静かに訴え続ける、一人ひとりの魂の声に耳を傾けてみてほしい。私は、これからも「記憶の解凍」をライフワークとして続け、社会に開かれたさまざまな「平和教育の教育空間」、そしてメッセージを伝える表現の幅を広げていく。
「いつの日かまた あなたと出逢い その時は地球とみんなが 笑ってるかな」(「Color of Memory 〜記憶の色〜」歌詞より)
そう信じて、広島に生まれた者の使命を果たしていく。