こんにちは、千葉です。国連広報センターで、国連寄託図書館の活動のコーディネートを担当させていただいております。
つい先日、およそ30年のときを超えて、国連寄託図書館の長い歴史の物語の一端に触れる出会いがありましたので、ご報告したいと思います。
その日の朝は、曇り空。あまりはっきりしない天候でした。
いつも通り、机のコンピューターに向かって、自分宛てにどさっと届いているe-mailの対応処理などにおわれていると、遠い沖縄からはるばる国連広報センターをお訪ねになられた方がいらっしゃいました。
沖縄科学技術大学院大学の日笠誠さんと、名桜大学の前学長で、琉球大学名誉教授の瀬名波榮喜さんのお二人です。日笠さんは、昨年設立された、沖縄の11大学のコンソーシアムの事務局長、瀬名波さんはコンソーシアム沖縄代表理事をお務めでいらっしゃいます。
大学コンソーシアム沖縄設立記念シンポジウム2014
お二人は、このコンソーシアムの国連アカデミック・インパクト(AI)への参加について、国連広報センターにご相談に来られたのです。
所長の根本と職員数人が同席して、お話を伺いました。コンソーシアムの構成メンバーである琉球大学が国連寄託図書館に認定されていることから、その関係のお話があればと、私も急きょ同席させていただくことになりました。
さて、コンソーシアムについてお二人のお話を伺い、センターからのご説明、ご助言などもひととおり終わって、ひと段落したときでした。
「実は、その昔、琉球大学に国連寄託図書館を誘致させていただいたのは、私でした・・・」
瀬名波さんが、控え目に、穏やかな口調で、話しはじめられたのです。
「え~!」。
みな思わず感嘆の声を上げました。こういう形で、沖縄と国連のつながりの歴史の一ページを書いた方にお会いすることになるとは、誰も思っていませんでした。
琉球大学図書館
瀬名波さんのお話は、はるか30年以上前の1980年代半ばに遡っていきました。
私たちがお話を伺っていると、広報センターの所長室の窓から、いきなりザーッと降りだした雨が見えました。
瀬名波さんによれば、当時、琉球大学の図書館館長として、沖縄と国連をつなぐために、ぜひ国連寄託図書館としての認定を受けたいとの強い思いをもって、国連広報センターに相談に来られたそうです。ところが、瀬名波さんを待っていたのは、残念ながら、日本で、あらたな国連寄託図書館を認定するのは難しい、というにべもない返事だったそうです。
でも、瀬名波さんはあきらめませんでした。
そのあと、瀬名波さんはすぐにニューヨークへと出発することを決意します。国連本部に行って、担当者と直談判しようと考えたのです。
そして、ニューヨークで、ハマーショルド図書館の館長と会うところまでいきました。
A general view of the Dag Hammarskjöld Library.
5 August 1977(UN Photo/Yutaka Nagata)
ところが、やはり、その返事は芳しいものではなく、日本には、もう標準以上の数の国連寄託図書館が設置されており、これ以上は認められない、と言われたそうです。
国連広報センターの所長室からみえる雨はさらに強くなっています。まるで、瀬名波さんの当時の思いの強さが激しい雨と化しているようでした。
当時、コスト面を含めた諸事情から新規の認定というのは、確かに難しかったのだろうと思います。でも、瀬名波さんの誘致への思いは強く、食い下がり、ハマーショルド図書館の館長に対して、次のような問いかけをしたそうです。
「日本といっても、沖縄は米軍基地が集中し、米国人も6万人いるのをご存知ですか。」
瀬名波さんよれば、当時のソ連出身の館長の態度がその瞬間、変わったそうです。
「おいおい、なぜ、そういうことを早く言わないのかい。ぜひ、沖縄に国連寄託図書館を設置しようじゃないか」
結果、当時としては異例の速さで手続きが進み、それからわずか3か月のスピード承認。
その後、ニューヨークの日本政府代表部の黒田大使、外務省本省の山田国連局長のご支援も得て、琉球大学図書館は1986年、晴れて、国連寄託図書館に正式に認定されたそうです。
A section of the Woodrow Wilson Reading Room.
27 May 1987(UN Photo/Yutaka Nagata)
もしかすると、ハマーショルド図書館での館長との会話の部分は、瀬名波さんが私たちを楽しませようと、多少、ストーリー仕立てにされたのかもしれません。
ハマーショルド図書館長も、瀬名波さんもお互いに退職が近づいていた年齢で、気心があったことと、手続きを急ぐ必要があったことも手伝った、と瀬名波さんは回想されました。
でも、当時の冷戦下の国連と国際情勢を考えれば、瀬名波さんの戦略が功を奏したというお話しも納得という感じです。いずれにしても、この日、私たちは、ドラマの脚本にもなりそうな、沖縄と国連をつないだストーリーをもつ方がいたことを初めて知ったのです。
瀬名波さんのお話しを伺っていると、瀬名波さんの思いに比して、当時の国連広報センターの対応は冷淡だったのだろうと思えました。所長の根本は当時に思いを馳せて、お詫びするとともに、30年のときを経て、沖縄と国連をあらたにつなぐ、コンソーシアムのAI参加のご相談に来られた瀬名波さんに深い感謝と労いの言葉をお伝えしました。
写真左から根本所長、瀬名波代表理事、千葉
そのあと、瀬名波さんと所長の根本、そして私で記念の写真をとらせていただいたあと、瀬名波さんとかたい握手をさせていただきました。
その日の夜の最終便で沖縄に戻られるというお二人をお見送りしたあと、一仕事終えて、昼食をとりに外にでると、さっきまでの土砂降りの雨は上がっていました。思わず沖縄につながる空を見上げました。
千葉の過去のブログを読む
→「アウトリーチ拠点としての図書館と持続可能な開発目標(SDGs)」
→「持続可能な開発目標(SDGs)と初等教育~八名川小学校をお訪ねしました」
→国連事務局ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)をご存知ですか
→「佐藤純子さん・インタビュー~国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化~」
→ 「北海道にみた国連につながる歴史ー国際連盟と新渡戸稲造」
→ 「国連学会をご存知ですか」-今年の研究大会に参加してきましたー」