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「わたしのJPO時代」 (5)

「わたしのJPO時代」第5弾として、モルディブ国連常駐調整官兼国連開発計画(UNDP)常駐代表の野田章子さんのお話をお届けします!国連に勤めて18年になる大ベテランの野田さん。これまで様々な経験を積まれてきた中で、JPOでの3年間を「心に響く思い出でいっぱい」と振り返ります。

 

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   モルディブ国連常駐調整官兼国連開発計画(UNDP)常駐代表 野田章子(のだしょうこ)

   (写真:2015年8月24日、モルディブでの国連開発援助枠組の調印式にて。写真右が筆者)

慶応義塾大学大学院修了(政治学修士)。三菱総合研究所を経て、1998年からUNDPタジキスタン事務所に勤務した後、UNDPのコソヴォユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)の各事務所を経て、2002-2005年はUNDP本部でマーク・マロック・ブラウン前総裁のもとでプログラムスペシャリストを務める。その後、国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)、パキスタン国連常駐調整官事務所での勤務を経て、UNDPモンゴル事務所常駐副代表、UNDPネパール事務所長を歴任。2014年10月よりモルディブ国連常駐調整官兼UNDP常駐代表。

 

JPOの体験に関する原稿を依頼された時、最初に思い浮かんだのはJPOになるまでの期間でした。高校と大学で計2年間の留学経験があるといえども、帰国子女でもなく、大学院も日本で修了している私にとって国連で働くということは夢のまた夢、まさかJPOに合格するとは思いませんでした。ましてや現在のように国連の代表として一国の国連の開発計画を指揮するような立場に就くなど考えられませんでした。ただチャレンジ精神だけは人一倍。だめもとでとにかく諦めず、そして悔いのないようにJPOの試験に備えたのを記憶しています。JPOに応募した1996 年は日本のシンクタンクに勤務して1年ほどが経っていましたが、日本社会の窮屈さ、女性への偏見には既に嫌気がさしており、何とかして世界に羽ばたいて憧れの開発の仕事に就きたいという一心でした。           

 

JPOの合格通知を受け取ったのは同年12月。そこからまた1年を経て、1998年1月に国連開発計画(UNDP)のJPOとしてタジキスタンに赴任しました。タジキスタンルーマニアという選択肢がありましたが、内戦が終結し和平協定が1997年6月に結ばれたタジキスタンの方が国連の役割がより重要ではないかと考え、迷わずタジキスタンを選びました。

 

 

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     タジキスタンにて邦人職員と久しぶりの日本食(うなぎ)の夕食 (1999年11月)

 

タジキスタンでの2年間、1冊の本になるくらいの経験をしました。和平協定が1997年6月に結ばれたとはいえ、国内の政治は不安定、治安も悪いままでした。実際、私の赴任のタイミングも外国人の拉致事件と重なり、出発予定の3日前に急きょ延期となり、2か月遅れで1998年1月に赴任しました。その後も治安はよくならず、同年6月には、元筑波大学助教授で、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に派遣されていた秋野豊政務官が銃撃される事件が起きました。治安の悪化と邦人職員の保護という理由から事件後、私もウズベキスタンに1か月避難しなければなりませんでした。また翌年8月にはタジキスタンに活動拠点を広げていたウズベキスタン反政府勢力による国際協力機構(JICA)専門家の拉致事件が起こりました。この様な治安のため、午後6時から朝の日の出時まで外出禁止令が下され、特別の許可無しには仕事後に出かけることもできませんでした。

 

治安の悪さに加え、生活条件は殊更大変でした。水道水は薄茶色く濁り、雨が降ると濁りが増します。日本のコンビニほどの小さなスーパーマーケットでは品切れが頻繁で、出張で首都ドゥシャンベに来る同僚にツナ缶を頼んだのを覚えています。インターネットも無く、1日に2回キエフに回線をつなげてメールをダウンロードするという何とも原始的なネット環境でした。

 

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        上司の送別会でタジキスタン環境省の幹部と(1999年10月)

 

ここまで書くと、開発の仕事を目指した方もやる気が萎えるかもしれませんが、この様な状況だからこそ仕事のやりがいがありました。私はジェンダーの担当となり、現地スタッフと毎日、プロジェクトの進捗状況について話し合い、現地視察を行い、受益者の声を直接聞き、どうすればタジキスタンの女性のエンパワーメントに貢献できるかを日夜考えていました。その頃のタジキスタンには日本をはじめとする主要ドナーがほとんど現地に駐在所を設けていなかったので、開発パートナーとしてのUNDPの役割はとても重要でした。私は日本政府からの資金調達の担当として、ウズベキスタン在駐の日本大使館とも様々な協力体制に関する協議をしました。まさに仕事漬けの2年間でした。

 

2004年、当時勤務していたUNDPニューヨーク本部から中央アジアに出張する機会があり、タジキスタンにも立ち寄りました。5年の歳月を経て治安も安定し、かつては日没と同時に人影が消えていた目抜き通りも、夜中過ぎまで人で賑わっていました。店の数も増え、品数も比較にならないほどでした。ジェンダーのプロジェクトの受益者にも会うことができ、プロジェクトのお陰で生活が良くなったと直接聞くことができました。仕事に没頭していたあの頃が懐かしく思われ、また少しでもタジキスタンの女性のエンパワーメントに貢献できたとこを嬉しく感じました。

 

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     タジキスタンにて担当していたジェンダーのプロジェクトの視察 (1999年4月)

 

今年で国連に勤めて18年目になります。タジキスタンの後、JPOの3年目を紛争直後のコソボで、それから旧ユーゴスラビア、ニューヨーク本部の総裁室を経て、混乱が続くコンゴ、地震直後のパキスタン、鉱山開発に注目が集まるモンゴル、憲法制定を含む和平過程の途上にあったネパールに赴任し、現在は政治不安が続き、気候変動の影響を諸に受けているモルディブ国連代表として慌ただしい毎日を送っています。それぞれの国を発展させていく上での重要な転換期の現場に居合わすことができ貴重な経験をしてきましたが、その中でもJPOの3年間は心に響く思い出でいっぱいです。