国連諸機関の邦人職員幹部をはじめ、様々な分野で活躍する有識者を執筆陣に、日本がこのパンデミックという危機を乗り越え、よりよく復興することを願うエールを込めたブログシリーズ。読者の皆さまに今後の日本と世界を考えてもらう一助となるよう、執筆者には組織を代表するのではなく個人の資格で、時には建設的な批判も含めて、寄稿いただいています。第13回と第14回は、秋山信将さん(一橋大学大学院法学研究科/国際・公共政策大学院教授)からの寄稿を二部構成でお送りします。今回は前編として、パンデミックにおける多国間主義、そして国際機関の体制改革の重要性について考えます。
※文中の写真はいずれもイメージで、文章と直接関係はありません。
コロナ危機は新しい、実効的な多国間主義を考える契機である(前編)
はじめに:グローバリゼーションの反逆
新型コロナが我々の生活に与えた影響は、質的にも、また規模の面でも莫大なものであることは言を俟たない。
人類の、あるいは国際社会の発展の歴史という視点から見ると、今我々は、我々がこれまでたどってきたグローバリゼーションの歴史から逆襲を受けているようでもある。「国際社会」がグローバル化していく過程は、また、感染症がグローバル化する歴史でもあった。
「コロンブス交換」とは、アメリカの歴史学者アルフレッド・クロスビーの有名な言葉だが、食物や動物など多くのものが大陸を超えて行き交うことで、世界中の生態系、社会生活を変えてしまったことを指す。この「コロンブス交換」によってヨーロッパにはジャガイモやトウモロコシがもたらされ、アメリカ大陸には、牛や馬、ヒツジといった家畜がもたらされた。ほかにも奴隷がアメリカ大陸にもたらされ、世界の生態系や生活様式などあらゆるものが変革した。両大陸間で交換されたものはそれだけではない。感染症もまた「コロンブス交換」によって大西洋を渡った。ヨーロッパからアメリカ大陸には、コレラ、インフルエンザ、マラリア、ペスト、天然痘、結核などがもたらされた。遺伝的に免疫を持たないアメリカ大陸の先住民族は、これらの病気によって壊滅的な被害を受け、レコンキスタから100年後、メキシコの原住民の人口はレコンキスタ前の3パーセントにまで減少してしまったとの研究もある。
また、アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされた感染症の一つに梅毒があると言われている(諸説ある)。ヨーロッパにおける梅毒のアウトブレークがはじめて記録されたのは1494年のことだった。フランスの侵略を受けていたイタリアのナポリで起きたものである。このヨーロッパでの初めてのアウトブレークからわずか4年後の1498年には、梅毒はアジアに到達していた。そして、日本ではじめての梅毒の記録は、1512年の大坂での症例である。ヨーロッパへの伝播から20年で(ヨーロッパから見て)世界の東の果てまで到達したということになる。ちなみに鉄砲は、種子島に伝えられたのが1543年なので、8~9世紀の唐で銃の嚆矢といえる「火槍」が発明されてから600年ほどかかったことになる。ある意味では、感染症は、戦争のあり方を、そしてそれによって政治のあり方を変えることにもなる近代的な兵器よりも、30年も早くグローバル化したということになる(なお、その40年後には日本は世界最大の銃保有国になっている)。それでも、当時新しい病気が地球を一周するのには20年かかった。
しかし、新型コロナは、中国の武漢で初めての症例が世界保健機関(WHO)に報告されたのが2019年12月で、それからわずか5か月で世界中ほとんどの国で感染が確認され、死者の数は半年で50万人近くにまで膨れ上がった。
現在のところ、この感染症に対する有効な治療方法は確立されておらず、ワクチンなど感染を防止する医学的手法が見つかっていないため、人の移動が著しく制限され、また物流も滞っている。アウトブレークの第二波、第三波を避けるためには、今後も人やモノの移動は一定程度制限されるであろうし、かつてのレベルにまで人やモノの流れが回復するのには時間がかかるであろう。カネや情報の移動はそれほど制約を受けないのかもしれないが、生産や物流などの経済活動は停滞し、いくつかの分析は世界経済の回復には数年を要するとの見方を示している。
一方、密集を避け、リモートでの会合が常態化するなど、人々の行動様式も変化していくであろう。感染症の封じ込め対策を進める中で、人々の間には、移動の自由を奪い、そして安全のために自由を抑圧することを一定程度許容するマインドを生んだ。これは、国家の権威への依存の高まりと民主主義や人権といった、これまでの我々の「自由な」社会が依って立ってきた基盤の浸食でもある。
また、新型コロナのパンデミックは、国際協調が「主権国家」の前にいかに脆いものであるかを白日の下にさらした。シェンゲン条約による人の往来の自由は閉ざされ、輸送途中のマスクや人工呼吸器でさえも国家間で奪い合う事態まで起きるありさまは、近代か中世を彷彿とさせるようでもあった。いくつかの国は、今回の危機を教訓に、医療機器などを戦略物資と位置付け国産化を進めたり、また産業のサプライチェーンの国内回帰などを進めようとしている。
国際秩序を支えるはずの大国に目を向けると、いち早く危機からの脱出を宣言した中国は「健康一帯一路」戦略を打ち出し、「マスク外交」にいそしむ。そして、米中の戦略的競争が激化する中で、米国首脳は、国内政治的要素もあるとはいえ、パンデミックの発生に関し中国責任論を強硬に展開し、さらにWHOについて、その立場が中国寄りであると批判し、脱退を宣言した。この数年、米中の戦略的競争と対立の激化の中で、地政学の復権が言われている。新型コロナのパンデミックをめぐる国際政治の喧噪は、こうした見方を補強するようにも思える。「主権国家」の本質がむき出しになった現在の状況では、国際協調という言葉がむなしく響く。
グローバリゼーションは止まらない:多国間主義は重要であり続ける
しかし、グローバリゼーションによって受ける恩恵にいったん味を占めた人類は、グローバリゼーションという人類の発展パラダイムを放棄することはできないであろう。加えて、情報やデータ、通信など、おそらく今後我々の生活を規定していく上で極めて重要な意味を持つことになるであろう技術は、不可避的に「国境」という概念とは親和性が薄い。
おそらく、我々は、当面のところ、変容しながらも深化するグローバリゼーションと主権国家の権力の肥大化という二つの潮流が引き起こすパラドクスの渦の中で泳いでいくしかないのであろう。
感染症のパンデミックに留まらず、経済格差と不平等、気候変動問題、テロ、大量破壊兵器の拡散など、今国際社会が抱える問題は、グローバリゼーションが変質し、主権国家間の利己的な利益追求が主流となる近代(あるいは19世紀的世界)へと国際政治の時計の針が逆回転したとしても、それによって解消されるものではないどころか、深刻さを増すことになろう。その原因も影響もグローバルな課題は、いずれにしても国際社会の協調なしに解決することは不可能であり、国際社会は、これらの問題を解決することなしに、持続可能で平和な生活を獲得し維持することはできない。
本来であれば、このような国際協力を調整し推進する役割をになうのが国際機関であるはずだ。しかし、残念なことに、国際機関もまた、新型コロナの犠牲者となりつつある。WHOによる新型コロナの危機対応については、アウトブレーク初期の段階で適切な情報提供や移動制限等の警告を発することができなかったという、組織の活動の実効性に係る不満が高まったことは否定できない。それゆえに各国からの信頼を獲得するのに失敗したという面はあろう。だが、トランプ大統領のWHO脱退宣言に象徴されるように、各国からの批判の中には、WHOが中国の影響下にあり、中国に対して妥協的なアプローチをとったがゆえに正確な情報を国際社会に対して伝えることができなかったのではないかという、中国の台頭に対する脅威論を念頭に置いたような極めて政治的な文脈での批判も少なくなかった。
しかし、そもそも国際社会は主権国家によって構成され、国際機関はその主権国家の集合体でもある。感染症の流行に関わる情報は、経済活動、社会の安定にとって大きな影響を与えうるものであり、国家安全保障という観点からも極めて高い機微性を備えているということに留意する必要がある。理念上は、そうした各国の個別利害を乗り越え、国際社会全体の福祉のために自国(自政府)に不利な情報であったとしても積極的に情報を共有し、国際機関(今回の場合にはWHO)をハブとして国際協力を推進すべきなのであろう。しかしながら、現実にはそのような理想的な協力体制の構築は容易ではない。
中国からWHOへの情報提供に関しては、今後様々な調査などでその実態が明らかになっていくであろう。その是非については、正確な情報や調査報告を受けて議論することが必要である。同時に、一般論で言えば、このような国際機関加盟国からの情報提供の不備や協力的な姿勢の欠如というのは、中国に固有の問題ではなく、他国であったとしても起こりえる事態でもある。これは、善悪の問題というよりも、国際社会の構造自体に由来する問題である。主権国家という制度、そして秩序や法執行をつかさどる中央権力が不在で、各主権国家がそれぞれ独立して存在し、時に利害をぶつけあうのが国際社会の現実である。
もちろん、それが現実だからと言って国際機関不要論や国際協力批判論に与するのは単純に過ぎる。すでに述べたように、国際社会の安定と繁栄を望むのであれば、国際社会における協力なしに解決が不可能な諸問題に取り組む必要がある。それは、気候変動や大量破壊兵器の拡散、経済格差や不平等などの問題は、放置しておけば人類の生存や我々の社会の持続可能性に大きなリスクをもたらすものであるからだ。
であるならば、今挙げたような国際社会の制度的な特性と、それによってもたらされる国際機関の機能的限界をよく見極めて、国際機関をどのように活用するのが最適なのか、という視点からもう一度国際機関の体制や機能を見直すガバナンスの改革を構想していくべきであろう。
後編では、この国際機関の体制や機能、また他ステークホルダーとの連携の有⽤性について、考えてみたい。
日本・東京にて
秋山 信将