第7回アフリカ開発会議(TICAD7)が2019年8月28-30日、横浜市で開催されます。日本では6年ぶりとなるTICADに向けて、国連広報センターはアフリカを任地に、あるいはアフリカと深く結びついた活動に日々携わっている日本人国連職員らに呼びかけ、リレーエッセーをお届けしていきます。
取り上げる国も活動の分野も様々で、シリーズがアフリカの多様性、そして幅広い国連の活動を知るきっかけになることを願っています。第17回は、国連ハビタット福岡本部本部長補佐官の星野幸代さんです。
第17回 国連ハビタット
星野幸代さん
~日本の埋め立て処分技術移転を通じて エチオピアのゴミの都市化問題を考える~
2017年3月、エチオピアの首都アディスアベバのダンプサイト(ゴミ山)の一部が崩落し、ゴミ山の斜面に張り付くように連なっていたウェストピッカー(waste picker)らの住まいが下敷きになりました。一部報道によると、犠牲者は200人にも及ぶとされ、この大変痛ましい事故は、遠い日本でもその日のテレビのニュースにおいて取り上げられました。
アディスアベバ市長からの支援要請を受け、国連ハビタットはエチオピア事務所と福岡本部(アジア太平洋地域本部)の合同で、事故直後より現場状況の緊急アセスメントや緊急措置のアドバイス、また再崩落防止のための安全なダンプサイトの形成・運営に関する事業化の検討を始めました。これらアセスメントには、福岡大学名誉教授の松藤康司先生にもご同行いただきました。
国連ハビタットは、現在では日本のスタンダードである「福岡方式」と呼ばれる準好気性埋め立て処分技術が生まれた福岡市に事務所を置き、開発者の1人である松藤先生とは20年に渡ってアジア太平洋地域の各国、また最近ではアフリカにおいて、技術アドバイスをいただきながら多くの廃棄物事業を実施しています。実は、偶然にもエチオピアにおいてはアムハラ州都バヒルダール市での廃棄物事業の準備中に、アディスアベバで崩落事故が発生したのです。現場では、削られた斜面から煙や炎が燻り、高さ50メートルもあるゴミの山の頂には複数の深い亀裂が走るなど、いつガスへの引火や再崩落が起きてもおかしくない状況でした。
国連ハビタットは日本政府の支援を得て、「アディスアベバ・コシェ地区に於ける『福岡方式』の導入を通じたゴミ処分緊急改善支援」事業を実施しました。改善に際しては、崩落した部分を中心にゴミを開削し、棚田のような形状の安定勾配を確保し、福岡方式の基本である、ゴミ層への空気を送り込むことによる有機物とガスの分解および大量の浸出水の排水と調整を図りました。事業期間は2018年4月より1年。ダンプサイトは開発途上国の都市の裏側の象徴のようなものですが、未分別のあらゆるゴミが40年堆積したアディスアベバのゴミ山は扱いが困難で、重機が何度も埋もれて故障してしまったり、重機のオペレーターが怖がって帰ってしまったり、想定外のアクシデントの連続です。また、工事中でも毎日首都から排出される3,000トンのゴミがおかまいなしにダンプサイトに運び込まれ、そして開削すればするほど滝のように溢れ出る真っ黒な浸出水との格闘でした。
優れた技術の移転により改善事業を早期に実施することはもちろん重要ですが、同様にゴミ山を衛生的な埋め立てに改善し、より長期に安全に使用できるようメンテナンスやオペレーションのノウハウ、ゴミの分解メカニズムなどに関する基礎知識、将来的な分別やゴミ減量に向けた知識などを、いちばん現場に近い行政や業者、運搬業者、ウェストピッカーに理解してもらうことが、持続性のカギとなります。
アディスアベバのダンプサイトには、ゴミを拾って生計をたてるウェストピッカーと呼ばれる人たちが2,000人いると言われています。ゴミ山の上に住む人、周辺に住んで毎朝ゴミ山に「通って」来る人など様々ですが、できて40年ですから、ここに生まれ、親子2代でゴミを拾う人も珍しくありませんし、エチオピア国内の他の地域からやってきた人たちも多く、共通の言語はないのが実情です。このゴミ山の緊急改善事業を開始し、我々が現場に通い始めた初期のころは、見慣れない「外国人」がカメラや計測機などを抱えて現れたため、警戒する様子も見せていましたが、彼らとも仲良くなるうちに、事業に関心を持つ人も増えていきました。
そのうちの1人バルナバスは英語が得意で、作業の内容について度々尋ねてくるようになりました。バルナバスに何故英語が話せるのか聞いてみると、自分はウェストピッカーの中では珍しく高校まで通って英語を学んだが、そのころ両親の離婚や親の失業などが重なり、仕事も得られず、未来の展望もてないままここに辿り着いてゴミを拾うようになって8年になるのだと話してくれました。ゴミ拾いはつらい仕事だが、ここに来ると大勢のもっと厳しい境遇の仲間がいるのだとも言いました。
松藤先生をはじめ福岡大学の先生や専門家によるゴミの組成や水質やガスの検査に大変強い関心を示し、また、先生たちから学校で学び専門知識を得て社会に貢献することの大切さを教えられた彼は、事業が始まって半年、ちょうど事業の折り返しのころ、中退していた医療大学にもどり、公衆衛生を専攻するようになりました。大学の講義のない日は、ダンプサイトに来て、学費や生活費を稼ぐために働いています。「自分は、ウェストピッカー出身の初めてのドクターになる」と言っていますが、学校では、同級生の関心は日本と変わらず芸能界やファッションなどが中心で、話が合わないのだと苦笑いしています。大学に通うバルナバスは、他の同年代のウェストピッカーの青年たちからも信頼されていて、我々国連ハビタットやアディスアベバ市の環境局とウェストピッカーたちとの話し合いが行われる際には、彼がウェストピッカーたちの状況を代弁したり通訳してくれたりしました。
この事業を通じて、我々は毎日平均20~25人のウェストピッカーの青年たちを作業員として雇用しました。年齢は16才から30歳前後、ゴミ山に生まれ、ゴミ山で育った若者たちです。彼らはいわゆる「ゴミ拾い」以外の収入を得たことはありませんし、誰かに雇用されるとか、毎日決まった時間に働くという経験がありません。そのため、当初は毎朝時間どおりに来なかったり、作業の途中にいなくなったり勝手に休憩したり、仲間割れをして急に喧嘩を始めたり、なかなか思うように進みませんでした。ですが、仕事の習熟とともに勤務態度もずいぶんと向上し、毎朝朝礼をして「Safety First(安全第一)」と合言葉を復唱するようになり、スキルも目に見えて上達していきました。数十人いる中でも特に責任感が強くリーダーシップを発揮する者は、グループのリーダーに任命し、石積み、ガス抜き管の設置、ジャカゴの設置など先々の作業の確認や人数の確保などを頼めるようになりました。エチオピアにも「天と地ほどの差」という表現があるそうですが、リーダーの1人ビルークは「自分たちの生活は天と地ほど激変した。日本から来た専門家に技術を教えてもらい、毎日きちんと働き、家族や両親を養うことができるようになった。これからも、この仕事を続けていきたい」と言ってくれました。
ウェストピッカーや近隣の住民たちとの交流を通じて、彼らも崩落事故によって、大切な家族や親しい仲間を亡くし、住まいを亡くした被害者であり、二度と事故は起こしたくない、このゴミ山を安全な場所にしたいという思いは、我々にも劣らない強いものだということがわかりました。当初、「ウェストピッカーを作業員として雇用しマネジメントするなど到底無理だ」と悲観的だったアディスアベバ市側も、現在では彼等を市管轄の別の作業にも雇用するようになり、良好な関係の構築とともにゴミ山の安全な運営に貢献しています。
私自身は、国連ハビタット福岡本部の職員であり、アフリカ勤務ではありません。それでも、この事業の実施中、1年のうち100日をアディスアベバのゴミ山の現場で過ごしました。都市の経済社会活動のすべての終着点であるゴミの現場が教えてくれることは大変多く、また、ゴミの都市化や気候の変動(特に雨量の増加)に伴い、アディスアベバと同様のゴミ山の崩落事後が、アフリカ・アジアなど地域を問わず増えている背景が見えてくるようになりました。
この事業は日本政府によるフェイズ2の支援が決定し、開削した法面の安定化・緑化や水路のろ過などを行う予定です。ゴミ山との格闘は、これからも続きます。