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わたしのJPO時代(18)

 

「わたしのJPO時代」第18弾は、国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局でコミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソンを務める堀幸恵(ほり・ゆきえ)さんのお話をお届けします!

島嶼国フィジーでJPOをスタートした堀さんは環境情報、ジェンダー、砂漠化対処プログラム、そして広報と、様々な分野をわたってキャリアを築いてきました。自らの得た経験、スキルを基に将来の自分を決める“progressive experience”のお手本のような堀さんに、その原点であるJPO時代を語っていただきます。

 

 

                                      国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局

                     コミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソン

                                             堀 幸恵(ほり・ゆきえ)さん

 

                                                     ~そして道は続く~

 

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堀幸恵(ほり・ゆきえ):国連砂漠化対処条約事務局(UNCCD)コミュニケーション・チームリーダー・スポークスパーソン。1992年Cornell Universityコミュニケーション論修士号取得後、NTT勤務を経てフィジーにあるUNICEF太平洋諸国事務所にてJPO。以降、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)にて環境、ジェンダーのプログラム、ニューヨークの国連本部にてECOSOC政策、事務次長室執務、国連砂漠化対処条約事務局にてアジアプログラムに携わる。国連サバティカルプログラムを活用し2009年、London School of Economicsコミュニケーション論博士号取得。2008年より現職。

 

 

わたしのJPO時代 ― 国籍を問わず、JPOを経験した国連職員の間でかなり盛り上がるトピックです。考えるに、その理由は二つ。一つはJPO間のつながりは意外と広く、「じゃあ、あの人知ってる?」というネタで初対面の相手とも話が広がること。もう一つはやはり、多くのJPO経験者にとってJPOが最初の国連のアサイメントであり、最も印象に残る体験だからにほかならないでしょう。

 

私がJPOとしてフィジー共和国の首都スバに本拠を置く国連児童基金UNICEF)太平洋諸国事務所へ赴任したのは、ほぼ四半世紀前のことです。最初にJPO制度を知ったのは留学先大学の留学生課にあった外務省国際機関人事センターの張り紙でした。当時は選考から決定、実際の派遣までに要した期間が長く、人事センターからの通知にも、「その間待たずに他の仕事を見つけて下さい」というようなことが書かれていたと記憶しています。私の場合も派遣までにほぼ2年かかり、その間は東京のNTTで働いていました。修士課程で異文化コミュニケーションを専攻したこともあり、派遣先は国連教育科学文化機関(UNESCO)を希望したのですが、人事センターの方にUNICEF国連開発計画(UNDP)の方がJPO期間後に残れる確率が高いとのアドバイスを受け、最終的にUNICEF太平洋諸国事務所のJPOポストに応募しました。今思えば、このアドバイスは的を射ていたと思います。なぜなら国連はいったん正規職員として入ってしまえば、ポストや機関を異動することは比較的容易だからです。

 

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                      バヌアツの離島で。子どもの栄養のための「家庭菜園プロジェクト」を視察(1992年)

 

 

1992年7月、フィジーでの日々が始まりました。UNICEF太平洋諸国事務所は当時、南太平洋島嶼国13カ国のプログラムを管轄していました。プログラム管理官の下に2名のJPO、数名の国連ボランティア(UNV)及びコンサルタント、ローカルスタッフという小さな事務所でしたのでJPOにも大きな責任が回ってきます。私の担当はバヌアツとマーシャル諸島。当時バヌアツの人口はおよそ16万、マーシャルに至っては5万人でした。小さな島国で、たとえ政府高官がTシャツにぞうり姿で仕事をしていたとは言え、彼らとプロジェクト運営について話し合うことは、最初は緊張の連続でした。生真面目にも毎回、「言うことリスト」を作ってミーティングに臨んだことを覚えています。

 

しかし担当国を訪れるたびに顔なじみも増え、出張が楽しみとなりました。現地で働いている国連関係者、NGOや日本の青年海外協力隊の方々とも仲良くなり、バヌアツでは仕事の後に薄暗い“カヴァBar”で泥水みたいな色のコショウ科のローカルな飲み物カヴァ(アルコールは含まないものの鎮静作用があり、飲みすぎると酩酊状態になる)を飲みながら、遅くまで話をしたりしました。ちなみに私の夫は同時期にUNDPフィジー事務所に派遣されていたドイツ人JPOです。バヌアツ公務員による長期ストライキのため多くのプロジェクトが停滞し、共にその対応策を練ったことが知り合うきっかけとなりました。

 

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                            マーシャル諸島の首都マジュロで。ユニセフの家庭菜園プロジェクトに携わる
                                         コミュニティーの人々から、花冠の歓迎を受ける(1994年)

 

 

この時期に右往左往しながらも現場で仕事を学んだことは、のちに国連の地域事務所や本部事務所に勤務する上で、大変役に立ちました。まだ若く、ある意味怖いもの知らずで、たくさん恥を掻いた分、得るものも非常に大きかったです。JPOの2年間のラーニング・カーブの跳ね上がり方は、すさまじいものがあったと感じます。

 

よく経験者が語るように、本部や大きな地域事務所で人脈を作ることが“ポストJPO”に有利につながることは確かです。一方、小国の事務所にもチャンスはあります。フィジーの場合、少ない日本人同士は仲が良く、日本大使館の方々にも大変お世話になりました。この時、国連競争試験の案内を大使館からもらったことが、のちの国連本採用につながりました。また、UNICEFのみならず他の国連事務所の職員とも知り合う機会が多く、将来について親身に相談に乗ってもらったのも大きなメリットでした。

 

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                                       経済社会局事務次長室での勤務最終日、同僚たちの心遣いに感謝

                                                        (ニューヨークの国連本部で、2007年)

 

 

UNICEF太平洋諸国事務所での勤務を経て、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)そしてニューヨークの国連本部と、それぞれの赴任地でポストをいくつか替わり、その間にサバティカル制度を利用して大学院に戻ったりもしました。現在はドイツのボンに本部を置く国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局で広報課のチーフおよびスポークスパーソンをしています。UNCCDは職員数が全体で60数名の小さな条約事務局です。啓蒙プログラム活動にはUNICEFでもUNESCAPでも携わりましたが、直接広報の仕事に関わるのはUNCCDが初めてでした。

 

きっかけは2007年10月、事務局長の着任に伴い、大幅な組織改革が行われたことです。当時、人を斬るよりも内部スタッフを活性化しようと考えた事務局長が、人事コンサルタントのアドバイスを受けて事務局の全職員の学歴と経歴を洗い出した結果、コミュニケーションの学位を持つのが私だけだったというのがその理由。「一年やってみて結果を出せば、そのままチーフのポストを与える」との事務局長の言葉を受け、それまでのアジアプログラム担当官からの転身でした。以後の数年は新しい課の立ち上げ、コミュニケーション戦略の立案などプレッシャーの毎日で、一時は顎関節が開かなくなるほど働きました。そして何とか課が軌道に乗り、現在に至ります。

 

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                                          砂漠化により移住せざるを得ない状況に置かれた人々の数は、
                                                  2045年までに1億3,500万人にのぼると推測される
                                           ©Photo by Benno Neeleman, 2009 UNCCD Photo contest

 

 

UNCCDでの仕事はやり甲斐もあり、充実しているものの課題は山積みです。広報担当としての問題はまず、「砂漠化問題が実は砂漠のことではない」ことがあまり知られていないこと。砂漠化は乾燥地における土地の劣化、その結果起こる食料危機、長引く干ばつ、環境移民、果ては紛争や気候変動への世界的影響などに密接に関わる問題ですが、特に日本を含む先進国の人々にはあまり関心を持ってもらえません。「砂漠」という言葉自体が自分とは関係のないどこか遠くの問題だと解釈されてしまいがちだからです。しかしながら2012年の国連持続可能な開発会議(リオ+20)以来、地道に続けてきたロビー活動が功を奏し、砂漠化対処は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」で目標の1つとなりました(ゴール15)。今後、一人でも多くの方に砂漠化を“自分に降りかかる問題”として捉えて行動してもらうことが私たちUNCCDの課題です。

 

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                                                     2015年にトルコの首都アンカラで開かれた国連
                                       砂漠化対処条約第12回締約国会議(COP12)でUNCCDの同僚たちと
                                                                  ©Photo by IISD/Francis Dejon

 

 

ドイツ・ボンでの勤務は10年目に入り、今までで一番長い赴任地となりました。国連ではキャリアを積むために通常、人事部の決定でなく自分で挑戦したい仕事や行きたい国での空席に応募してポストを獲得しなければなりません。そのためには自分の仕事に責任を持ち、なおかつその仕事の遂行において自分がどう貢献したかを、次のステップにつなげるようアピールできることが極めて重要となります。よく国連の空席募集要項に ”progressive experience” と記載されていますが、まさに、これまでに自分の得た経験、スキルに基づいて将来の自分の道を決めていくわけです。

 

実はJPOを経てから私の国連での担当は環境部情報、社会部ジェンダー、ECOSOC政策、事務次長室付、砂漠化対処アジアプログラム、そして現在の広報とかなりバラバラです。キャリア形成のためには専門性を高めるべきではないのかと自問自答を繰り返しつつも、これまでの四半世紀にこのprogressive experience、今までの経験を元に前進すること、ができたのはとてもラッキーであり、今の私の強みでもあります。もちろん平坦で真っ直ぐな道ではなく、ましてや一人で築いてきたわけでもありませんが、JPOとしての2年間が今ここにつながっていることは間違いありません。

 

JPOはやる気と気概があれば、多少の失敗も経験と見なしてもらえる学びの期間です。「よく国連はどんなところですか?」と聞かれますが一言で説明するのは非常に難しいです。働く国、機関、同僚によって全く状況が異なるからです。国連を目指される皆さんには是非JPO制度を利用してまず自分の目で国連を見ていただきたいです。その経験を元に道は続いていくでしょう。