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国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

わたしのJPO時代(11)

「わたしのJPO時代」第11弾、今年最初の回として根本かおる国連広報センター所長の話をお届けします。当時の年齢制限ギリギリでのJPOデビューだったので、JPO後につながりやすい派遣先にこだわって飛び込んだ国連の世界。そして、報道記者として勤めていたテレビ局からJPOとして難民支援の現場で働くことは「違和感のない転職」だったと語っています。

 

                 国連広報センター所長 根本かおる

            ~難民保護のイロハを学んだJPO時代~

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東京大学法学部卒。テレビ朝日アナウンサー、記者勤務を経て、フルブライト奨学生として米国コロンビア大学大学院に留学し、国際関係論修士号取得。1996年から2011年末までUNHCR国連難民高等弁務官事務所)職員として、アジア、アフリカなどの難民援助の最前線で支援活動にあたるとともに、ジュネーブ本部で政策づくり、および世界の民間部門からの活動資金の調達のとりまとめを行う。UNHCR在籍中にWFP(国連世界食糧計画)広報官、国連UNHCR協会事務局長もつとめた。フリー・ジャーナリストを経て、2013年8月より現職。

 

国連広報センターでは、JPOを経験して様々な国連機関で活躍する方々に体験を語っていただく「わたしのJPO時代」シリーズを2015年春からお届けしています。

 

このシリーズ担当の私は、皆さんの原稿に「最初の読者」として目を通す特権にあずかっているのですが、まさに「人に歴史あり」。それぞれに異なるチャレンジに直面し、悩みながらも周りに支えられて乗り越えてこられたことを個性豊かにつづってくださっていて、いつも原稿をいただくのが楽しみです。

かく言う私もJPO経験者です。ジャーナリストとして専門分野を持ちたいという気持ちから、報道記者として勤めていたテレビ局を休職してニューヨークのコロンビア大学国際関係論大学院に留学しました。95年、大学院の夏休みを活用してUNHCRネパール事務所の難民キャンプでの活動にインターンとして関わって国連機関を内部から見ることができたことから、取材対象や憧れの存在ではなく、自分が携わることのできる存在としての「国連の仕事」に興味を持つようになったのです。

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            インターン時代、ブータン難民たちと(1995年)

 

面接を経て第一希望のUNHCRに受け入れてもらえることは決まったものの、テレビ局を辞めて33歳という当時の年齢制限ギリギリでのJPOデビューでしたから、JPO後につながりやすい派遣先にこだわりました。

実は、最初オファーのあった二つの派遣先を断わっています。内部情報を「取材」すると、最初のオファーはもうすぐ閉鎖される事務所だとわかり、それでは次につながりません。二つ目のオファーは先進国での広報の仕事で、まずは難民の権利保護に正面から関わりたいと国際人権法、国際難民法を専攻していた自分の希望とは異なっていましたし、「最初から先進国だとなかなか次につながりにくい」というUNHCR日本人職員の方からのアドバイスもありました。

三番目のオファーは、トルコ•アンカラでの難民認定審査を行う保護官の仕事でした。情報を集めてみると、この事務所は大変評判がよく、日本人JPO受け入れの実績もあり、難民認定審査という難民保護の基礎をしっかり学べると次につながりやすいということがわかり、迷わず受けることにしました。結論的には大正解、取材して粘った甲斐がありました。

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       ネパールのブータン難民キャンプでUNHCR現地事務所の所長として(2006年)

 

主に隣国のイラク、イランでの迫害を逃れて庇護申請した人々から聞き取り調査をして、国際法に照らして難民として保護すべきかどうかを判断するという仕事を担当しました。トルコは地理的限定つきで難民条約を批准していましたので、ヨーロッパ以外からの難民についてはUNHCRがトルコ政府を補完する形で、UNHCRのマンデートに基づいて自ら難民認定審査を行っていたのです。サダム・フセインイラク政府軍がイラク北部のクルド人自治区に侵攻するとイラクからの庇護申請者が急増するなど、国際・国内政治と直結していました。


朝から晩まで事務所の地下にあるインタビュー•ルームに籠り、拷問や弾圧の話を通訳を通じて聞き続けるという精神的にはキツイ任務でしたが、マスコミでのインタビュー取材に通じる部分があり、違和感のない転職でした。

認定審査には庇護申請者の出身国の政治、人権状況について精通していることが求められ、この地域については素人同然の私は、とにかく沢山の文献を読み込んだことを覚えています。慣れてくると、ある特定のグループについて難民認定する際のガイドライン作りも任せてもらえました。難民認定審査のアセスメントを書く上でも、ガイドラインのドラフトを行う上でも、マスコミで鍛えられていた「端的に書く」という力が大変なアセットになり、いろいろと任せてもらえたのだと思います。

 

また、オフィスには同時期にスウェーデン、ドイツ、イタリア、フィンランド、アメリカ (そして、後にはもう一人日本から) のJPOの仲間がいて、上司たちがJPOを育成しながら仕事と責任を与えることに長けていたのです。JPOを半人前としてではなく、将来のある人材として育ててくれたアンカラ事務所には心から感謝しています。自分が恩恵を受けた分、今は逆の立場で、インターンやJPOをこれからを担う人々として激励しています。

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       ネパールのブータン難民キャンプ現地事務所所長として女性に対する暴力を廃絶する行進(2006 年)     

 

トルコの警察当局に申し入れをするということも担当させてもらいました。庇護申請者の強制送還という問題が起こりがちで、イラク、イランとの国境地帯に出張して、庇護申請者を審査せずに強制送還することがあってはならないと警察当局に掛け合ったのです。クルド系の人々が多く住む地域で、家々の壁には銃弾の跡も見られ、ピリピリした空気が張り詰めていたことを覚えています。トルコ国内のクルドの問題にトルコ事務所は直接には関わっていませんでしたが、出張の際に垣間見た厳しい現実や都会との格差は強く印象に残っています。

  

プライベートでも、トルコの歴史と文化は何とも興味深く、暇を見つけてはトルコ国内各地を旅していました。旅行や出張で英語が通じない地方に行ったときに困らないようにと、トルコ語も楽しみながら学びました。


また、世俗主義のトルコではイスラムでもお酒はOK。事務所では毎週金曜日の夕方にハッピー・アワーが開かれ、水を入れると白濁するトルコ名産の「ラク」というお酒が楽しみでした。トルコ特有の穏健なイスラムは、イスラムと出会う入口としては大変ありがたいものでした。

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      ケニアのダダーブ難民キャンプでソマリアから逃れてきた子どもたちと(2009年)

 

オフィスには大勢のJPOがいましたので、オフィスとしてJPO後のポスト獲得を応援することが当然のことになっていていました。成功術をみんなで共有するというオープンなカルチャーがあり、みんなからの刺激と激励を受けて、遠慮することなく工夫することができたのはありがたかったですね。自分の希望を上司に伝えて支援してもらうこと、希望ポストの人事権を持っている人につないでもらうこと、自分を売り込むために休暇を取ってどんどん本部に足を運ぶことなどがその例です。


上司の勧めもあり、私はJPO時代にフランス語を個人レッスンを受けて習得し、ジュネーブ本部まで行って上司が紹介してくれたGreat Lakes Regionを担当するデスク・オフィサーに会って、結果としてフランス語圏のブルンジでの正規ポストにつなげることができました。

JPO時代に難民の権利保護のイロハを叩き込んでもらえたおかげで「難民保護」、およびマスコミでの経験をもとにした「広報」とが自分のキャリアの二つの柱になっています。是非多くの方々にJPOというメリットの大きいチャンスに挑んでいただきたいと願っています!

 

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 昨年、10月24日に行われた国連70周年記念「世界の名所を国連ブルーに」キャンペーンで司会を務める筆者。ジャーナリストや広報官としてのキャリアが、今の国連広報センターでの活動につながっている。