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「わたしのJPO時代」(8)

「わたしのJPO時代」第8弾として、国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)の民政部副チーフ、原田宗彦さんのお話をお届けします。原田さんは国連訓練調査研究所(UNITAR)にてJPOとして勤務し、「他の機関やNGO等でも役に立ちそうなプログラム管理の過程を一通り学んだ」と振り返ります。

 

               国連キプロス平和維持軍(UNFICYP) 民政部副チーフ 原田宗彦さん

                                                ~挑戦、成長そして出会い~

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早稲田大学在学中に冷戦後の国際政治の大きな変動を目の当たりにし、漠然とはしていたが安全保障における国連の役割に興味を持ち、ロンドン経済政治大学院(LSE)やジュネーブ高等国際問題研究所(HEI)等で国際関係学を学んだ後、JPO制度を経て1999年1月に国連に入る。最初のフィールドは東ティモールPKOで2002年10月から国連事務総長特別副代表補佐官を1年半経験。ジュネーブの職場に戻るもPKO にはまり半年しないうちにコソボPKOに政務官として参加。現地で2年半の勤務を終えると、今度はPKO局ニューヨーク本部に移りコソボを担当。コソボの一方的独立宣言の対応、そしてEUミッションの展開に伴う国連コソボPKOの改造を見届けた後、スーダンに政務官として赴任。2011年7月南スーダン独立後には現地で国造り支援ミッションに参加。2013年2月より国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)で民政部副チーフとして勤務。

 

私が理想と期待を胸に国連職員としての道を出発したのはもう17年前になります。ジュネーブ高等国際問題研究所に在籍している頃にJPOの試験を受け、修了するころにジュネーブに本部がある国連訓練調査研究所(UNITAR)に派遣されることになりました。派遣といってもジュネーブに住んでいたのでそのまま居座ったといった方がいいかと思います。

 

私の大学院の選択は戦略的でした。日本で学部生だった頃に国連に興味を持ったので国連に先輩を輩出している大学院を希望しました。ジュネーブに着いて学生寮に入った直後に国連人道支援局(当時はDHA)で働いているフィンランド人大学院生に出会い、ジュネーブに来て正解だと思ったのをよく覚えています。国連をとにかく身近に感じる環境でした。私も大学院在籍中に国連人権高等弁務官事務所(UNOHCHR)や国連難民高等弁務官事務所UNHCR)といったところでインターンをして政府、国連、またはNGOで将来活躍されることになる様々な方々に出会う機会を得ました。国連を目指すならジュネーブ高等国際問題研究所(現在はジュネーブ高等国際問題開発研究所)は特にお勧めです。

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                                                  ニューヨーク時代PKO局の同僚と

さて、首尾よくJPOを通ったのはいいのですが少なくとも当時は必ずしも自分の希望する国際機関に行けるとは限りませんでした。外務省も高い人件費を出して投資するわけですからいくら本人が希望しても生き残れそうもない国際機関には人材を派遣することはしません。私は難民、人道そして安全保障問題に関わりのある仕事に就きたかったのですが、そういった機関では当時JPOの生存率がかなり低く、国連事務局にはその頃は基本的にJPOを派遣していませんでした。そこで勧められたのがUNITARでした。日本政府は当時UNITARに財政的な支援をしており、UNITAR側も(後にわかったのですが)喉から手が出るぐらい日本人職員を望んでいたそうです。何といっても予算で一番高くつく人件費が2年から3年UNITARにとっては「ただ」になるわけですからこんなおいしい話はないわけです。たまたまそこに紛争予防のトレーニングプログラムがあったのでそこに最終的に落ち着きました。割合と小規模の国際機関は大口の出資国の人事に関する「口出し」に弱いので、生き残ることがまず先決なら派遣先としては穴場かも知れません。

 

UNITAR では他の国際機関やNGO等でも役に立つプログラム管理の過程を一通り学びました。ここでのプロジェクトはすべて開発途上国政府職員向けのトレーニングプログラムを作ることでした。プログラムを企画し、ドナー国から資金を調達し、その資金でプロジェクトを運営し、最後的にドナー国に報告するというものでした。僕の仕事は上司の紛争予防プログラムのトレーニングプロジェクトを支えることから始まって、JPOを終える頃には人間の安全保障に関するプロジェクトを立ち上げるところまでやらせてもらいました。また、開発途上国に出かけて研修を開くこともやり、ある程度の「フィールド」の経験もさせてもらいました。人間の安全保障プロジェクトに関しては日本政府が一番の資金援助国であり、日本政府にプロジェクトを売り込むことを期待されていました。

 

私はJPOを3年に延長してもらい、4年目以降はUNITARの正規職員になりました。若かったのでしょう、私はジュネーブという場所柄もあってありとあらゆるレセプションに顔を出し、多くの外交官や国連職員の知己を得ました。国際会議や第一回SRSG セミナー(UNITARが始めた国連事務総長特別代表を集めた勉強会で、現在では毎年恒例となっている)に参加しいつしかフィールドに行って「現地」の仕事がしたいという思いが募り始めました。UNITARを通じて仕事を一緒にさせて頂いたUNDP東京事務所所長の長谷川祐弘さん(当時)に誘われて、東ティモールに展開していた国連平和維持活動に参加してからこの部門の仕事にはまり、現在にいたっています。

 

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                                                    コソボ官房室で一緒に働いた現地の人たちと 

今考えるとJPOプログラムで学んだことも無論大事ですが、それよりも寧ろ仕事を通じて出会った方々から自分の新しいキャリアの局面が開かれていったんだなぁと思います。JPO を終えて6つ目の勤務地で働いている昨今ですが、そこには多くの段階で後押してくれるか引っ張ってくれる先輩達がいました。JPOプログラムはそう言ったネットワークの場を提供してくれるのではないでしょうか。人との出会いを大切に。