日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。
連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第1弾は、伊勢桃代(いせ ももよ)さんです。国連に28年間勤め、主に国連大学の創設や国連職員に対する研修制度の充実に関わっていらっしゃいました。日本人の国連職員の草分け的存在として、苦労も多かったことと察しますが、「ワルトハイム元事務総長とダンスしたこともあるんです」と、当時のことを微笑ましく思い返していらっしゃいました。
第1回:国連大学初代事務局長 伊勢桃代さん
【慶應義塾大学卒業後、シラキュース大学で社会学修士号、コロンビア大学で都市計画修士号を取得。1969年に国連本部に勤務。1985年には国連本部研修部部長を務め、1988-1989年国連大学事務局長として活躍。1997年に国連を退職し、1997年-2004年アジア女性基金専務理事。現在、国連システム元国際公務員日本協会(AFICS-Japan)会長】
―国連職員になるきっかけは何でしたか?
初めから日本で就職することは考えていませんでした。というのは当時の日本にはまだ女性が自分の力を伸ばせるような仕事は無いと感じたので。そこでアメリカに留学し、卒業後は米国家の差別と貧困格差の無い社会創生の仕事に携わり、ニューヨーク市においても「貧困との闘い」政策に市職員として従事しました。しかし、こういった仕事はアメリカ社会を熟知していないと無理だと思ったのと、米国市民権を持たない外国人達がニューヨーク市職員として働くということが疑問視され始めており、もっとグローバルな環境で働くことを目指しました。国際公務員として政府からの独立と中立を守る観点から、日本政府からの支援などは受けず自分で国連本部ビルの門を叩いて応募しました。
―どのような仕事をされていたのですか?
私は28年間国連職員として働いたのですが、最初は経済・社会開発担当でした。その後国連大学の創設と国連職員の研修の充実に努めました。国連大学には明石康氏のお蔭で国連総会決議が出た殆んど直後から関わることになりました。まずは東京の帝国ホテルに準備事務所を開設することから始まり、私が所長として任された国連大学ニューヨーク事務所、そして初代国連大学事務局長として初代学長との二人三脚での大学運営に関わりました。
研修では、部下の扱いや組織をリードするとはどういうことか、職員に期待することなど、幅広い分野に取り組みました。私はとにかく研修の重要性を強調し、事務総長以下すべてのスタッフに研修が必要だと申してきました。特に高官がしっかりしてないと部下は育ちませんので、幹部の意識改革が必要でした。事務総長の中でもブトロス・ブトロス・ガーリ氏は私の意見に耳を傾け、強く後押ししてくださいました。国連総会第5委員会にて人材育成や研修に関する予算を取る決定的瞬間が私の目の前でなされた時、私はブトロス・ガーリ事務総長の真後ろに担当官として座っていました。事務総長があんなにも力を入れてくださったことに感激しました。
当時の私の国連での長年の努力が報われるような出来事が、つい最近ありました。昨年秋、国連採用説明会のために訪日した国連の人事担当、国連人的資源管理部アウトリーチ・ユニット長のジョン・エリクソンさんは当時私のいた人事部で働いていました。彼に東京で会った際にこう私に言ったのです。「伊勢さんの熱意が叶って、今の国連の研修制度、特に上層部の研修は素晴らしいものになっています」こんなに嬉しいことはありません。
国連大学創設当初、様々な機会に国連大学のことをアピールする伊勢さん
パーティーで、ワルトハイム事務総長とダンスをしました
―どの事務総長に仕えたのでしょうか。
ウ・タント、ワルトハイム、デ・クエヤル、ブトロス=ガーリ事務総長に仕えました。
左から、ウ・タント第3代事務総長、ハビエル・ペレス・デ・クエヤル第5代事務総長、ブトロス・ブトロス=ガーリ第6代事務総長
―事務総長と印象的なエピソードはありますか?
当時広報担当事務次長でいらっしゃった赤谷源一さんが、研修も兼ねて国連広報局主催のパーティーに私を誘ってくださいました。そこには当時のワルトハイム事務総長もいらっしゃり、なんと彼とワルツに合わせて踊ったのです。外交官を多く招いていたそのパーティーでは、国連職員として事務総長と一緒に踊る幸運に恵まれたのは私ぐらいでした。緊張を隠せない私に対して、事務総長は家族のことなどをお聞きになったと記憶しています。
ワルツの国オーストリア出身のクルト・ワルトハイム第4代国連事務総長
研修にて講演する伊勢さん
ストラディバリウスを最高のコンディションにして次の人に渡すこと。それが私の役割
―国連憲章は、次世代にきちんと伝えていかなければとおっしゃっていますね。
私の友達にチョン・ミョンファという有名なチェリストがいます。彼女はストラディバリウスを持っていて、飛行機に乗るときもファーストクラスの隣の席に置いて、しっかりとシートベルトも締めるらしいです。ミョンファさんは「自分はこのストラディバリウスを弾くだけの能力を持たなくてはならないのだけど、もっと大事なことは、これを最高のコンディションにして次の人に渡すこと。それが私の役割です」と、話してくれました。
私はこの話に感激し国連憲章への思いを国連を退職する際の送別会でしました。今の世界の状況下で、193カ国全てから合意を得て現在の国連憲章を作ることは到底不可能なように感じられます。ですから、私たちの役割は国連憲章を次世代に伝えることなのです、と述べました。そうしたら、これに大きな反響がありました。国連には憲章や理念があり、それをぶれることなく使い管理すれば、今でも太鼓のように打てば返ってくると思います。
国連広報センターにて、インタビューの様子
日本の若者には、世界に目を向けてほしいですね
―日本の若者へ何を期待しますか?
日本の若者には世界に目を向けて欲しいです。国際的感覚を持つことは非常に大事ですから。日本から外を見ているために、日本的な感覚から抜け出せないまま外を見ている若者もいるようです。これからは、外からも日本がどう見られるかを把握してもらいたいと思います。また、国連といった国際機関で働くという意欲を持って、インターンから始めてもいいので、外に出て行って欲しいです。同様に日本の外から日本に戻って来る人の受け入れ態勢も必要だと感じます。国際感覚が豊かな人材が必要な企業などには、もっと機会を作って欲しいですね。
それから「グローバル」と「国際」とは違うと思います。国際は、国家体制がそこに含まれており、一方、グローバルは国境を越えています。私はグローバルな政治や体制を動かしていける力をつけてほしいと思います。国連で働くというのは、そういう感覚と力を養えるよい機会になると思います。できるだけ多くの皆さんに参加して頂きたいです。
伊勢さんを囲んでインターン 磯田恭範(左)とインターン 島僚之介(右)