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「わたしのJPO時代 」(4)

       

「わたしのJPO時代」第4弾として、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所の古本秀彦さんのお話をお届けします!テロが発生したり、派遣先が変更になったりと、さまざまな紆余曲折を乗り越えてきた古本さん。そんなJPO時代を振り返り、「何事も、やってみる。その結果が何か次につながる」と力強く語ります。

 

          UNHCR駐日事務所 渉外担当官 古本秀彦さん

           ~数々の紆余曲折を乗り越えたJPO時代~

       

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               UNHCR駐日事務所 渉外担当官 古本秀彦

駒澤大学法学部政治学科卒。サセックス大学現代紛争平和学修士。日本のNGOにて、スリランカおよび東京勤務の後、国際協力機構(JICA)ジュニア専門員(平和構築)。広島平和構築人材育成センターの初年度立ち上げ、コンサルタント会社勤務を経て2010年よりUNHCRイラン事務所准プログラム担当官、イエメン事務所プログラム担当官。内閣府国際平和協力研究員を経験した後、2015年6月からUNHCRに戻り、駐日事務所渉外担当官として、日本政府や民間企業との渉外、資金調達業務を行っている。

 

大学生時代の難民キャンプにおけるボランティアが、私の原体験となりました。大学院で修士号を取った後、NGO勤務から始まり、扱ってきた分野は多岐にわたるものの、広く平和構築支援に携わるキャリアを形成してきました。そうして2007年にJPO合格、しかし私が実際にJPO勤務を開始できたのは、多くの紆余曲折を経て2010年でした。

 

ポストのオファーを受けた任地でテロが起こったり、その他にも多様な物事に翻弄され、JPO派遣が、何度も後倒しになりました。そして実は、当初、希望していた派遣先機関はUNHCRではありませんでした。しかし、色々な事情により先方でJPO受け入れが不可能となった時、学生時代の難民の人々との交流を思い出し、「それなら初心に帰ろう」と、UNHCRが思い浮かびました。それが、私にとって残念な気持ちを拭い去る、最も自然な選択肢と感じられました。

 

さて、派遣先がUNHCRに変更になっても、紆余曲折は続きます。アフガニスタンのポストで、アポイントメント・レターにサインまでしたところで、またテロが起こります。最後に、UNHCRイランのテヘラン事務所勤務のお話が出た際、「ビザがいつ取れるか分からないから、数ヶ月待機しているように」という連絡に痺れを切らせ、UNHCR本部のJPOユニットと交渉したところ、意外なまでにすんなりと、ビザが取れるまでジュネーブの本部勤務というアレンジが可能となり、こうして晴れてJPOを開始することができました。

 

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         イラン:アフガニスタン国境へ向かう出張中、タイヤのパンク記念の一枚

 

ジュネーブに到着すると、イラン担当のデスクは、丁度翌日から開始される8日間連続の研修に私を放り込みました。研修の内容は、UNHCRの予算構造、予算の扱い方から、当時新しくUNHCRが本格使用を始めた事業管理のソフトウェアと、多様な事業管理ツールの使用方法でした。さらに別途、ドナーからいただいた援助資金の扱い方についても、ジュネーブ本部勤務の日本人先輩職員から教え込まれました。その後、思いの他早くイランのビザが取れてジュネーブを出発する前、ある先輩職員から、「君が研修で学んだことは、しっかり使えれば大きな武器になる」と言われました。

 

こうして、イランに赴任した私は、勤務開始早々、次年度計画・予算策定、各国ドナーへの報告書、各種案件のプロジェクト内容の確定といった業務に追われました。しかし、何もかもが初めてかというと、そういうわけではありませんでした。過去にNGOやJICA等で行ってきた、多様な文書作成や事業の予算管理といった経験は、仕事を進めていけばいくほど、意外なまでに共通点が多いものであることもわかってきました。ジュネーブでの研修のおかげもあり、忙しくもなんとか仕事をこなすという日々を続けて1年が過ぎました。

 

 

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      イラン:難民キャンプで、子供たちにデジカメで撮った写真を見せている筆者

 

JPO2年目は上司の変更に伴い、新たな分野を経験させるという方針の下、他国連機関との連携に関する多様な業務をほぼ一手に担当することになりました。今までイランでは、他機関との連携といったことがほとんど行われてこなかったことからJPOでも担当させてもらえたのだろうと思います。この結果、国連開発援助枠組み(UNDAF)改定プロセスを始め、多様な国連カントリーチーム(UNCTUN Country Team)のテーマ別グループに参加できたことで、他機関との調整の進め方などを学ぶ貴重な機会になりました。特にUNDAF改定では、「難民」をイランの開発課題の一部に入れ込むことに成功し、今も課題として議論される人道支援と開発の連携に小さな貢献ができたと思います。

 

JPO2年目が終わりに近づく中、イランでの1年間の延長を希望していましたが、同時にUNHCRのJPOユニットの勧めで、短期契約(TA: Temporary Assignment)のポスト希望者リストにも入れてもらっていました。任期終了まであと2ヶ月となったある日、突然メールが来てイエメンの首都サナア勤務の半年間TAのオファーを受けました。イランで継続するか、半年間のTAに賭けてみるか迷った末、イランのUNHCR代表の「これは絶好の機会だ。挑戦してみろ」という言葉に後押しされ、JPO任期残り1ヶ月を残して赴任したイエメンで、結果としてその2ヵ月後に正規ポストに就くことができました。

 

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                   イランにて

 

JPOから正規ポスト獲得までの流れを思い返すと、何が良いことにつながるかは分からないものだと、改めて思い起こされます。散々にJPO開始を待たされた結果のUNHCRジュネーブで丁度受講することができた研修は、今考えてもあまり例が無いほど充実したもので、業務に取り掛かる際の大きな支えになりました。また、指示されて良く分からず始めた他機関との連携業務も、意外な成果にたどり着きました。さらに、イエメンに赴任した際には上司から、UNHCRの新しい事業管理ソフトウェアやツールをしっかりと業務で使えるプログラム・オフィサーは(当時)未だ少なく、結果として私にまでオファーが廻ってきたと教えられました。

 

何事も、やってみる。その結果が何か次につながる。JPO時代を今改めて思い返すと、このような感想を持ちます。そして今、東京で、ほぼ完全なデスクワークをしていると、動機の大切さを思います。メールの先に、動く支援がある、支援がたどり着く人がいる。それを大切にしながら、仕事に取り組んでいきたいと考えています。