国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

北海道にみた国連につながる歴史-国際連盟と新渡戸稲造

          ー北海道の国連寄託図書館を訪ねましたー

みなさま、こんにちは。

国連広報センターで、国連寄託図書館のコーディネートや研修などを担当しております、千葉と申します。

10月の終わりに、国連寄託図書館のひとつである北海道大学附属図書館を訪ねてまいりましたので、ご報告します。

北海道大学では、10月から11月にかけての約2週間をサステナビリティー・ウィークとし、持続可能な社会について考える取り組みを行っていますが、今年は同大図書館がその一環として、市民向けに、国連とその活動、国連の文書資料、国連寄託図書館をご案内するイベントを企画したのです。

私はその講師としてお招きいただき、伺いました。

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図書館でのイベントは2日間にまたがり、両日ともに、40名を超える同大の大学生や院生、教員、図書館、メディア、一般の方々のご参加がありました。

国連広報センターとして、「持続可能な開発目標(SDGs)」の実現に向けた広報に力を入れて活動するなか、道民の皆さんに、SDGsを含めた国連の広報、国連資料のご案内をする機会をいただきましたことを感謝しております。 

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イベントは、以下のような内容で行われました。 

初日の10月28日(金)は、「世界のルールの作り方・使い方‐人権に関する国連諸機関の仕組みと情報の調べ方‐」と題するワークショップ。図書館、報道機関、大学生・大学院生、教員、一般市民の方々が参加され、人権メカニズムを知るとともに、国連文書を調査する能力を身につけていただきました。

詳しくは、http://sustain.oia.hokudai.ac.jp/sw/2016/jp/rule/  

二日目の10月29日(土)のイベントは、「聞いて見て知る国連の活動と北大図書館」。国連とその活動に関するお話しと図書館ツアーを組み合わせたイベントで、幅広い層の市民の皆さんにご参加いただきました。

詳しくは、http://sustain.oia.hokudai.ac.jp/sw/2016/jp/lib/ 

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二日目のセミナー&ツアーには地域の高校生も参加してくれました。文科省の指定するスーパーグローバルハイスクール(SGH)、札幌聖心女子学院高等学校の生徒さんたちです。来年2月に研修目的でニューヨークの国連本部を訪ねるご予定という同校の皆さんは現在、来年に向けた準備を進めているところで、この日のイベントの参加もその一環だったそうです。生徒の皆さんからは研修旅行前の緊張を感じましたが、お話しを聴いていると、それ以上に、将来、国連で働いてみたい、よりよい世界をつくるのに役立ちたい、という思いが強く伝わってきました。 

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また、札幌市内から、お母さんといっしょに参加してくれた女の子もいました。小学3年生ながら、これからは国連や地球的規模の諸問題のことをもっといっぱい考えていきたいという気持ちを話してくれたことにとても勇気づけられました。この女の子が24、5歳になる頃、世界はSDGs達成期限年の2030年を迎えることを思いました。 

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さて、今回の私のブログでは、こうしてせっかくの訪問の機会を得たこともあり、国内の寄託図書館のなかで、もっとも北に位置する、この北大図書館について、少しばかり詳しくご案内したいと思います。 

まずなによりも、北海道大学自体が、国際連合というより、国際連合がその創設にあたって、その経験に多くを学んだ平和のための国際機関、国際連盟(1920-1946年)に深い縁があることをご紹介します。 

国際連盟で事務次長を務めた新渡戸稲造(1862-1933年)が実は、北海道大学の前身である札幌農学校の第2期生だったのです。(その後、同大学で教員としても11年間在籍)。 

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               (写真:北海道大学大学文書館提供)

『武士道』(1900年)を著したことでも有名な新渡戸は、国際連盟で、スウェーデンフィンランドの間にあるオーランド諸島の帰属問題の平和的解決を図ったことで、また、同連盟のもと、ユネスコの前身とされる国際知的協力委員会の設立に大きく貢献したことで、世界的にその名を知られるひとです。 

北海道大学大学文書館をはじめとする各施設には、新渡戸が書いたり、使ったりしたものの実物やレプリカが多く展示されています。 

このたびのイベントの合間に私もそれらを見学させていただく機会を得ましたが、その際、とてもよくしていただいたのは、大学文書館の山本さんです。山本さんは大学文書館の技術専門職員で、そうした貴重な資料にとても詳しい方です。 

まず感激したのは、農学に関する英語講義のノートでした。新渡戸がそこに清書した英文はまるで印刷された文字。褐色に色あせた古いノートを至近距離で見ていると、10代後半の新渡戸の若い希望に満ちた息遣いが聞こえてくるようでした。 

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                (写真:北海道大学大学文書館提供)

札幌農学校第2期生全員の成績表の展示もたいへん興味深いものです。新渡戸(当時は養父の太田姓)は、第2期生で第3位。優秀な成績です。とくに英語の点数が秀でています。ただ、成績順位のトップに内村鑑三という名前が書かれていたのを発見してびっくり。あの著名なキリスト教思想家、内村鑑三が新渡戸の同期生として、札幌農学校に学んでいたのです。10代後半のふたりが、いったいどのような会話を交わしていたのだろうか、とおもわず想像をめぐらせました。 

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                (写真:北海道大学大学文書館提供)

農学校の学生時代、読書家だった新渡戸が書き込みをしてしまった図書館の蔵書も残っています。そのひとつ、シェークスピアの『Hamlet』のレプリカが展示されていました。見ると、確かに赤線や青線が引っ張ってあります。赤線は、新渡戸が良い文章だと思ったところ、青線は良い思想だと思ったところだそうです。読書に没頭する青年の新渡戸が、図書館の大切な蔵書であるにもかかわらず、思わず赤色や青色の線を引いてしまって、農学校の教授陣や友人からずいぶんと叱られたり、からかわれたりしたのじゃないかなと想像すると愉快でした。 

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             (写真:北海道大学大学文書館提供)

新渡戸が事務次長を退任する1926年に同期生の宮部金吾に送ったという書簡も展示されていました。国際連盟用箋を用いたものです。レプリカでしたが、特別に実物も見せていただきました。

そこには、次のような文章がつづられています。 

「僕も今年一杯で満七年奉職した。エライ事もせぬ代り、太した失敗もなく、此の風変りの役所に勤め、兎に角何より、馬鹿にもされずに、日本の為めに高位をふさへて居た。明春は帰りて全国を廻はり度い。遠方から見ると、我邦の足らぬ点が見えてならぬ」

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友人に宛てたそんな手紙を書いてから10年もしないうちの1933年、日本は国際連盟からの脱退を表明することになりますが、同年10月に新渡戸稲造もその生涯を終えています。新渡戸が書いた手紙の実物を間近に見ながら、そのことに思いを馳せました。

 この新渡戸を輩出した同大の附属図書館が今、国際連合の寄託図書館として活動していることを思うと感慨深いものがあります。 

さて、この図書館について、ご紹介します。 

同大に国連寄託図書館が設置されたのは日本の国連加盟から6年後の1962年のことだそうです。最初は、同大経済学部が、限られた国連資料のみを受領する「一部寄託図書館」という指定を受け、その後、1979年に、全資料を経済学部から附属図書館本館に移管。そのあと、1995年に、受領対象が決議や報告書などの公式ドキュメントに広がる「全部寄託図書館」へと指定変更されました。

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全部寄託図書館になってから2年後の1997年には、この図書館で、年次会議が開かれています。そこで全国の寄託図書館の皆さんがお集まりになって研修に励まれました。振りかえれば、国連寄託図書館を担当するようになってまもない私が全国の寄託図書館の皆さんに初めてお会いして、ご挨拶を交わしたのが北大の図書館でした。 

2008年には、潘基文事務総長のご夫人がこの図書館を訪れておられます。G7洞爺湖サミットに参加する事務総長に同伴して来日された際のことです。ご夫人は実はかつて司書を務められていたことがあり、それもあって、ユニセフの集いへの出席やスピーチなどの忙しいプログラムの合間を縫って、この図書館を訪問し、国連寄託図書館としての活動を視察され、当時の館長(現、逸見勝亮名誉教授)ともお会いになったのです。その際、私も随行員として、ご一緒したことを覚えています。 

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 現在、国連寄託図書館の担当職員として勤務しておられるのは長嶋岳生さんと細井真弓美さん。お二人とも学生時代は図書館学を研究された、図書館に情熱を傾ける方です。 

今回の国連寄託図書館としてのイベントの開催を中心になって企画されたのが、人一倍エネルギッシュな長嶋さん。細井さんは中学生のときに市内の図書館ツアーで書庫の匂いに魅了されたのがきっかけで図書館に働くことを夢みたという、図書館をこよなく愛する素敵な方です。

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          (写真:左から、長嶋さん、眞野さん、細井さん、千葉さん) 

北海道の雄大さのなかで、国際連盟で活躍する人材を輩出した歴史をもつ大学に置かれ、熱意あふれる職員の方々が今日の国連と地域をつなぐ国連寄託図書館。

ぜひ、みなさまも一度、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。 

あらためて、北大附属図書館職員の皆さん、ほんとうにお疲れ様でした。

* *** *

今週、11月10日(木)、11日(金)の2日間、国連広報センターは全国に置かれた14館の寄託図書館の皆さんを東京にお招きし、年次研修会議を開催します。当センター職員一同、皆さんと一年ぶりに再開し、活動報告をお聴きするのを楽しみにしています。


(千葉のブログを読む)
「アウトリーチ拠点としての図書館と持続可能な開発目標(SDGs)」
「持続可能な開発目標(SDGs)と初等教育~八名川小学校をお訪ねしました」

「国連事務局ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)をご存知ですか

 ~昨年12月14日、筆記試験が実施されました~」

「佐藤純子さん・インタビュー~国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化~」

「国連学会をご存知ですかー今年の研究大会に参加してきました」

「沖縄の国連寄託図書館を想う」

「国連資料ガイダンスを出前!」

「国連資料ガイダンスをご存知ですか」
「国連寄託図書館をご存知ですか」

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (7)

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(7)

野口元郎さん

~ 世界初の被害者信託基金を理事長として率いて ~

 

オランダのハーグにある国際刑事裁判所(International Criminal Court, ICC)は、国際社会で最も重大な犯罪「ジェノサイド」「戦争犯罪」「人道に対する犯罪」などを犯した個人を裁くため、2002年に初めて常設で置かれた国際刑事法廷で、日本は最大の分担金を拠出しています。人材面でも、最高検察庁検事の野口元郎(のぐち もとお)さんが2016年4月にICCの被害者信託基金(Trust Fund for Victims, TFV)理事長として再選され、国際刑事法廷としては初となる基金を通じた賠償と被害者支援を進めるなど活躍しています。法律家として様々な国際組織に関わってきた野口さんからお話をうかがいました。(聞き手: 国連広報センター 根本かおる)

 

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               野口元郎(ノグチ モトオ)

東京都出身。東大卒。検事任官、法務省法務総合研究所教官。アジア開発銀行(ADB)法務部で国際機関内弁護士、国連アジア極東犯罪防止研修所(UNAFEI)教官、法務総合研究所国際協力部長などを務める。日本の国際刑事裁判所ICC)加盟、カンボジア特別法廷(ECCC)設立関連業務に従事。ECCC最高裁判所国際判事。スリランカでは失踪者調査委員会の国際諮問委員を務め、現在も2国間支援の一環として助言などを行っている。2012年ICC被害者信託基金理事会の理事に選ばれ、2013年より理事長

 

根本:野口さんは、カンボジア特別法廷最高裁判所国際判事、そしてICC被害者信託基金理事長と、国連につながるお仕事を長く務めていらっしゃいます。国際的な司法の場に携わるやりがい、醍醐味としてどんなことを感じていらっしゃいますか?

 

野口:ICC国連そのものではありませんが、国連との関係は非常に強く、ICC設立条約のローマ会議は国連事務総長が招集しました。法の支配は安倍政権でもプライオリティの高い分野ですが、戦後70年あまり、一貫して平和に対する貢献を貫いてきた日本人の実務家としてこの分野に従事するのは意味のあることだと思います。エキスパートとして貢献するわけで、自分の国籍は直接問題になりませんが、カンボジアの場合、日本が特別法廷の設置運営に至るまで全面的にサポートして資金的にも最大の拠出国だったこともあり、日本から判事を是非出してもらいたいという状況でした。

 

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国際刑事裁判所ICC)は国際社会で最も重大な犯罪を犯した個人を訴追、処罰するため、ローマ規程に基づいて1998年に初めて常設で設置された国際裁判所で124か国が加盟しています(2016年6月現在)。アメリカがローマ規程を批准しておらず加盟していない中、日本は最大の分担金拠出国で、全体の17%にあたる年間約30億円を負担しています。ICCの被害者信託基金(TFV)は、管轄権の範囲内にある犯罪の被害者とその家族に①有罪判決に基づいた被害者賠償、②物理的・精神的リハビリ、物資供与などを行っており、日本を含む各国や団体、個人から任意拠出された資金が使われています。TFVは②の支援として、ウガンダコンゴ民主共和国で性的暴力の被害者や元児童兵などを対象にプロジェクトを実施し、2014年10月から2015年6月までの期間に約6万人、家族やコミュニティーを含めると約12万7000人が支援を受けました。①の有罪判決に基づいた被害者賠償については、これからの課題になっています。

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国際派への転身

根本:国際的な道を目指そうと思われたのは、いつごろですか。

 

野口:実を言うと、あまりそういうことは考えていませんでした。若い頃、検事の仕事にそういうオプションはあまりなかったんです。留学したいという気持ちは割と早くからありました。1年アメリカに留学しましたが、その他に役所の仕事を続けながらできる国際関係の仕事は限られていました。それも一生に一回そういうポストについて、3年ぐらいやって、後はまた役所での本来の仕事に戻るというパターンしか想定できませんでした。私の場合、丸20年続けて国際関係に従事しているわけで、結果的にそうなったという面が強いですが。最初に法務省で法整備支援の仕事をしたのに始まり、アジア開発銀行(ADB)、それからカンボジア特別法廷最高裁判所国際判事、いまのTFVの仕事、スリランカの仕事も少ししていますが、一つひとつはその前の仕事の経験がベースになっています。

 

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             インタビュー中の野口さん ©UNIC Tokyo

 

根本:最初はこういうポストに日本人として是非やってみないか、と役所の方から提案されたのか、それとも野口さんが見つけられてトライしてみたいなということだったのか、どちらだったんですか?

 

野口:後者ですね。私は当時法務省で法整備支援に従事していましたが、その関係でADBに出張したのが縁で、国際機関のローヤーという仕事を知りました。法務省からの出向は前例がありませんでしたが、英語力も含め、ここで自分の法律家としての能力を試したいという気持ちから応募しました。法務省には出向の意義を説明して何とか認めてもらいました。今振り返れば、ADBで上司も同僚も部下も外国人、言葉は英語だけという職場環境で4年間働いたことが、その後別の国際機関で幹部クラスのポストに就くための基礎になっています。日本人には国際機関でも十分にやっていける優秀で勤勉な人が多いのですが、最初に入るときの敷居がなかなか高いので、ダメもとのつもりでどんどんチャレンジするのがいいでしょう。

 

ICC被害者信託基金理事長としての仕事

根本:現在は、ICC被害者信託基金の理事長として人々をまとめる立場でいらっしゃいますね。

 

野口:TFV理事長は、リーガルなポストではなく、どちらかというと外交的なポストと言えます。理事長は5人の理事の代表に過ぎず、上下関係はありません。被害者への支援をなるべく速やかに意味のある形で提供する、その目標に向け組織を最も効率よくパワフルなものにしようと知恵を出し合います。いずれにしろ中央集権的というより、分権的な小さな組織であり、様々な利害関係者の間で最も有効な方法を考えながらポジティブにやっていくことを心がけています。

 

根本:実際、現場で被害に遭った方々に会われて対話するような機会はありましたか。

 

野口:理事長になってから1年の間にコンゴ民主共和国ウガンダの現場視察に行きました。たどりつくだけでも一日がかりのかなりの奥地で、想像を絶する劣悪な環境でした。そういうところに縛り付けられて動けない、場合によっては家族にも見放されているような人たちに、生きる希望を何がしかでも与えられればと考えています。非常に地道な地元NGOの働きがなければ、到底できる仕事ではないですね。我々が支援するのは、中央政府や地方政府の支援が及んでいない、ほかのドナーによる支援と重複しないものに限られており、なおさら困難が伴います。NGOの助けを借りながら地元コミュニティーを巻き込んで、被害者の属する社会にも問題意識を持ってもらい、再発防止にも貢献するような形で支援できればと思っています。

 

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2013年9月、ウガンダ北部とコンゴ民主共和国で行われているTFVの被害者支援プログラムの現場を訪問 (前列左端が筆者) ©ICC

 

「賠償」というと、損害賠償としてのお金を配るようなイメージで捉えられがちですが、そうではありません。被害者に尊厳を取り戻してもらうため家族に認めてもらい、村のメンバーに戻って、というところから始めて、最低限の生活の糧を得るための基礎を与える。女性なら裁縫道具や小さな料理屋、男性ならオートバイの修理工としての技術を提供するなど、スモールビジネスの元手の提供や職業訓練など、生活を支えていけるような基盤を援助します。彼女ら・彼らは、もともとひどい被害に遭っている上、家族や社会の受け入れ方や扱い方で二重の苦難にあえいでいる人が多いのです。そういう面で、男性社会を含むコミュニティーの側に、例えば強姦被害者や児童兵への認識を変えてもらうという啓蒙や意識改革も必要です。

 

根本:被害者信託基金(TFV)が、平和構築の意味合いを持つようなプロジェクトを行うのはどんな理由があるのでしょうか。

 

野口:確かにそこは線引きが難しいところで、一般の人道支援組織とどこが違うのか、常に出てくる問題です。ICC設立条約であるローマ規程の枠組みの中でやっていますから、人道に対する罪といった裁判所の管轄犯罪の被害者でなければ、我々のプロジェクトの受益者になれない、というのが一応の線引きです。刑罰で罰するという「応報刑」の司法の機能に加えて、司法の過程を通じて損害を回復し、加害者と被害者との間の関係を修復する、比較的最近の考え方が国際刑事裁判に反映されつつあり、TFVは初めての本格的な試みです。

 

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                        ©TFV

 

ローマ規程が採択された1998年のローマ会議では、検察官の管轄権の行使といったような、主権と絡むところに議論の時間の大半が取られ、被害者参加や損害賠償の仕組みについては本格的議論をする時間がないまま、NGOが中心となって提案した内容でパッと決まってしまった。ですから、国際刑事裁判としては前例がない状態で、実際にどのような仕組みで機能するのかについてあまり議論されないまま今に至っているところがあります。法律的に適切で実務的にも運用可能な制度をこれから作っていかなければなりません。

 

世界初の試みへの、日本政府からの積極的な支援

根本:日本政府は女性の輝く社会、裏を返せば紛争下における暴力の問題に熱心に取り組む姿勢を示していますが、野口さんがいらっしゃる信託基金に対しても日本政府からの積極的支援があるのでしょうか。

 

野口:TFVに対しては、2013年に私が理事長になった後、初めて1億円近い任意拠出をしていただきました。2014年6月にロンドンで開かれたG7の枠組みでのPSVI(Preventing Sexual Violence Initiative)サミット[1]も政府は全面的にサポートしており、TFVやUN Womenへの拠出なども行っています。

 

[1]紛争下で「武器」として使われるレイプや性的暴力について話し合った 「紛争下における性的暴力の終焉に向けたグローバル・サミット」では、加害者不処罰を終わらせ、国際的な取り組みを強化することが確認された。

 

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UNHCR特使であるアンジェリーナ・ジョリーさんが2016年4月TFVを訪れ、戦争犯罪の被害者支援や尊厳回復の重要性を訴えた。ジョリーさんは2014年のPSVIサミットを当時の英国外相と共同主宰するなど、紛争下の女性に対する暴力をなくすために積極的に活動している  ©ICC

 

根本:旧ユーゴ国際刑事裁判所ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)には被害者を救うような信託基金はあったのですか。

 

野口:なかったです。被害者が刑事裁判に参加し、損害賠償を請求できる仕組みを本格的に取り入れたのは、カンボジアの特別法廷とICCが初めてです。カンボジアの場合、信託基金がなく、被告人に資力がない限り損害賠償できなかったんですね。私が従事した1件目の判決でも損害賠償命令を出しましたが、被告人が無資力という認定で意味のある解決が提供できなかった。そういう意味でICCのTFVは、初めてそのための制度的保障を設けた例です。そもそも私がTFVの理事に日本から初めて立ったのも、それを実現したいという目標があったからです。制度の大枠はローマ規程や下部規則に書いてあるのですが、実際に動かすためのプラクティカルな仕組みがまだありませんでした。それをウガンダコンゴでやってきた支援プログラムの経験を活かして、損害賠償としてのプログラムのための新しい仕組みを作っていかねばならない。これが結構大変で、私も2期目に入ったところですけれども、あと2年半の間にどこまでやれるものかとちょっと焦っているところです。

 

法律家が国際的なキャリアを目指すために

根本:最近は日弁連も法曹関係者に、国連機関でのキャリアについてガイダンスすることも多くなってきましたね。

 

野口:なかなか思ったほど日本人スタッフの数が増えないですね。総論で日本人職員を増やそうという部分で反対する人は誰もいない。しかし、実際に空席情報を見て応募して数人のショートリストに残れるかというレベルの問題になると、個別の応募者の競争力が問題になる。まだまだ競争力が足りないし、それを組織的にサポートする仕組みもない。日本人も、数十年前は世界に出ていって追いつけ追い越せという燃えるようなパワーがあったのに、今は、日本でのポジション確保が優先課題になって動きが取れない人が多いように思いますね。例えば、弁護士は自由業のように見えても、事務所内の競争があって、5年目10年目みたいな勝負所で別のことをしていると、パートナーに残れないとかね。端で見るほど自由が利くわけではないようです。

 

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            インタビュー中の根本所長 ©UNIC Tokyo

 

根本:検事はどうですか。

 

野口:検事は仕事の幅の広い職業です。国際機関の場合、応募して何年も待たされます。これはクライアントを抱えてとてもできることではない。むしろ公務員の方が、応募しやすいかもしれないですね。ただ日本の役所は、個人が自由に応募することは原則として認めてないというか、私は将来国際機関に行きたいので個人的に応募します、というのは役所が歓迎するようなことではないということは未だにありますよ。でもあまり役所に遠慮していると、いつまでたっても何も進まない。私も最初にADBにに行ったころは、出向として認めてもらえなければ役所を辞めてでも行くくらいのつもりでおりましたので。

 

根本:希望は出せるんですよね。

 

野口:希望は出せますけどね、希望が通る保証はない。昔から与えられた仕事を全力でやることが宮仕えであると言われているんです。欧米の発想では、そんなことをしている暇はないわけで、自分がやりたいことができる職場に行けば良いわけです。元々政府職員だった人でも、国連やADBに移っている人は結構います。日本人で活躍している人も多いのですが、まだまだ多数ではない。それこそ根本所長みたいなキャリアの方にアピールしていただいて欲しいですね。

 

根本:手を変え品を変えやっていきますので、ご協力いただければと思います。

 

野口:就職前の人、つまり大学生や大学院生に対して発信するのは相当有効だと思います。私も東大でここ7、8年ゼミをやっているのですが、長くやっていると、忘れたころになって、当時の学生が弁護士になって、フィールドに出ている、という人もちらほら出ています。教育の持つ中長期的な効果は大したものがあります。地道に情報発信していると、こちらの知らないところで、何らかのヒントを得て、道を開いている人もいますから。

 

根本:私も出張先の南スーダンNGOの日本人職員の方に「私はあなたの講演を聞いて難民に興味を持って、こちらの方向に進みました」と言われ、驚きました。責任重大です。在京の国連の事務所として、これからも情報発信を積極的に行っていきます。国連の強みは、世界の最先端を行く人たちにご登場いただけたり、そのような方々と触れ合える場を作ったりすることができるところですので、そんな機会を提供していきたいと思います。

 

       www.youtube.com

 

 

 

わたしのJPO時代(16)

「わたしのJPO時代」第16回は、国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官、伊東孝一さんのお話をお届けしします。JPO試験合格後、外務省からのポスト提示を待たず、自身で就職活動をした伊東さん。当時国連本部に日本人JPOは皆無でしたが、国連本部 政治局アジア太平洋部の政務官ポストを獲得されました。JPO時代の国連本部での経験が、その後のフィールド勤務においても現場と本部の両者の視点を持って仕事を進める基盤になった、と教えて下さいました。

 

 

        国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官

          伊東 孝一(いとう たかかず) さん

        ~「やる気と体力」で勝負、国連本部でのJPO~        

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      2016年9月、ロンドンにて開催された国連PKO防衛大臣級会合にて(伊東さん提供)

東孝一(いとう たかかず):国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官。東京外国語大学卒、ロングアイランド大学院社会学修士。富士銀行、国連日本政府代表部勤務を経て、2002年度JPO合格。2003年、UNDPコソボ事務所にて安全保障部門改革担当後、2004年より国連政治局で北東アジア担当。2006年、国連東ティモール統合ミッション政務官、2008年より東ティモール担当事務総長特別代表付き特別補佐官。2012年より現職。

 

 

誤解を恐れずに言い切ると、国際社会より国連に課せられた任務は大きく分けて3つ。国際の平和と安全の推進、経済社会開発、そして人権。僕は、これまで15年近くに渡り、1つ目の国際の平和と安全に関わる仕事を、国連日本政府代表部時代も含めると、ニューヨーク、コソボ、ニューヨーク、東ティモール、ニューヨークと、紛争地の現場と国連本部を行き来しながら続けてきました。

 

多くの人にアドバイスを頂いたり、助けて頂いたりしながら、微力ながらも世界がより平和になるようにと、努力を続けて来られたことは幸せだと感じています。こんな僕の国連キャリアを支えるバックボーンは2つあります。そのうちの大きな一つが、JPO時代の仕事の経験と学びです。

 

JPOは、国連事務局本部で政務官として北東アジア(中国、北朝鮮、韓国、日本、モンゴル)を担当しました。僕がJPO試験を受験した当時、日本の外務省では、JPOは、主に UNDP,UNICEF, WFP, UNHCRといった国連関係機関に派遣し、開発や人道支援に携わらせることを想定していたようでした。JPO試験合格者は、外務省からいくつかポストを提示されるのを待ち、そのうち自分の希望に近いポストを選んで開発途上国に赴任するというのが、当時お決まりのコースでした。僕がJPOを受験した2002年まで、国連本部で勤務する日本人JPOは皆無でしたが、僕自身はUNDPコソボ事務所でフィールドを経験していたこともあり、国連本部で広い視野を身につけた上でまたフィールドに出たいと思いました。そこで、外務省からフィールドポストを宛てがわれるのを待つのではなく、本部での政務ポストを求め、勝手に就職活動をしました。国連本部で知っている人に自分の履歴書を送付し「政務分野でやる気と体力だけはあるJPOを採用したい方を紹介してください」とお願いしてまわりました。そんなメールの一つが、既に国連政治局で活躍されていた邦人女性職員の方の目に止まり、その方の紹介で国連本部政治局アジア太平洋部の政務官ポスト獲得となりました。

 

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アフガニスタン出張中、事務次長についた身辺警護官達と。当日カブールにて自爆テロが2件発生したため、通常3名のところ2名増員。(伊東さん提供)

 

JPO時代は、事務総長をはじめとする国連幹部に提出する北東アジア情勢に関する分析や幹部が各国首脳・外相と会談する際に使用する発言要領、対外的に発出する事務総長声明などをバンバン書いて、最初は上司にバンバンダメ出しされていました。そのうち、なんとかコツが掴め、JPO期間中に、素早く必要な情報を入手・整理・分析して、簡潔にまとめる力がつきました。この経験・学びがあったからこそ、JPO後赴任した東ティモールで、すぐに現地の政治・治安情勢や国連の活動について安保理に提出する事務総長報告の取りまとめをまかせられたり、政治・治安情勢が急激に悪化し、緊迫した状態でも、ある程度落ち着いて仕事が出来るようになったのだと思います。もう8年前の話になりますが、東ティモールの首都ディリで、銃撃戦に巻き込まれそうになったことがありました。朝のジョギング中、浜辺でラモス・ホルタ大統領(当時)を見かけ挨拶している際に銃声が響きはじめました。あとになって分かったのですが、反乱軍の集団が浜辺近くの大統領公邸を襲い、公邸を警護する国軍の兵士らと撃ち合いになっていたのでした。大統領は身辺警護と公邸に戻ろうとし、公邸の門にたどり着く前に複数の銃弾を浴び重傷をおいました。

 

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                反乱軍に襲撃されたグスマン首相の車両(UN Photo)

 

僕は国連の危機管理センターに事態を報告したあと事務所に出向き、そこから数日間は、上司・同僚らと共にほとんど休むことなく、襲撃事件が大規模な暴動・紛争へと繋がらないよう、襲撃を行った反乱軍やその支配下の勢力に影響力を行使できる政治家らへの働きかけ、情報収集・分析、本部そして安保理への報告作りに取り組みました。グスマン首相(当時)の車列も反乱軍に襲撃され、一時はディリの一部市民が国内避難民化する事態となりましたが、大統領は奇跡的にも助かり、首相も軽い怪我で済み、国内避難民もそれぞれのコミュニティーに帰り、 反乱は拡大することなく収束しました。

 

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           ホルタ大統領、銃撃戦でおった重傷の治療を終え帰国(UN Photo)

 

 今の仕事でも、JPO時代に情報分析・文書作成能力を鍛えられたことが役に立っています。国連総会、アフリカ連合のサミット、PKO関連の閣僚級会合などでは、事務次長が一日に何名もの防衛大臣や外務大臣などと連続して会談を行うことがあるのですが、これらの会談用の発言要領やブリーフ資料を限られた時間の中で用意し事務次長をサポートできているのはJPO時代の経験・学びのおかげです。

 

 またJPOを国連本部で行ったことで、各国の国益の対立や足の引っ張りあい、国連内の官僚主義や縄張り争いなど、あまり美しくない政策レベルの国連外交の現実を見てからPKOの現場に出たことも、とても役に立ちました。フィールドにいて、国連本部から、長ったらしくて意味が不明瞭な指示が来た際には、国連部内の調整がうまくいかなかったのだなと推測できたり、国連本部の仕事の仕方や出来ることの限界がある程度分かっているからこそ、本部からの支援をあまり期待せず、余計な指示をもらわないで、ピンポイントで本部の同僚らに動いてもらえるよう公電の出し方・タイミングなどを工夫できました。

 

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   東ティモールで一緒に働いた同僚たちとニューヨークで同窓会。筆者は上段右から2番目(伊東さん提供)

 

逆にしばらくフィールド勤務をしたあと国連本部に戻ると、現場の経験が国連本部での仕事に役立つなと感じることが多々あります。ずっと国連本部にいても現場の視点を持てる優秀な国連職員の方もいますが、僕自身は、残念ながらそのような才能はなく、紛争地でも安保理議場でも、実際に出向いて自分の目で見て、自分の肌で感じないと駄目なようです。今後も本部とフィールド勤務を出来るだけ交互に行っていきたいと思っています。

    

バックボーン、2つ目は、ワーク・ライフ・バランスに繋がるのですが、トライアスロンです。仕事は大事ですが、仕事ばかりしていても駄目。学生時代からJPO時代までは、飲みにばかり行ってましたが、JPO後ぐらいからはトライアスロンやマラソンにはまり、飲みに行く回数も減り、トレーニングをしたり、レースに出ることを、仕事の良い息抜きにしています。トライアスロンでは、ここ数年、アイアンマン・レースと呼ばれる3.8キロ泳いで、180キロ自転車に乗ったあと42.2.キロ走るレースに一年に一度出るようにしています。アイアンマンのレースに出ている間は10時間以上、食事もせずトイレにも行かず運動し続け、極限まで自分を追い込みます。ゴールした時の達成感は何ものにも代え難いものがあり、間違いなく仕事にも良い影響を与えています。ランニング中に、ふと煮詰まっていた仕事の案件の突破口が見えたり、解決策が思い浮かぶことがありますし、仕事が忙しくて大変な時があっても、アイアンマンに比べたら楽だよなと思うことが出来ます。アイアンマンレース出場は、妻との夏休み旅行も兼ねているので、一石三鳥です。

 

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             アイアンマン・レース無事完走(伊東さん提供)

 

僕の国連キャリアにとって、JPO時代の経験と学び、そしてJPO後にはまったトライアスロンが、大事なバックボーンとなっています。トライアスロンに限らず、仕事以外でも何か自分が夢中になって楽しめることや、大切な人との時間があると、より仕事に打ち込めるのではないかと思います。国連を目指される方には是非JPO受験と、ご自身にとってのトライアスロンを見つけられることをお勧めします!

 

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (6)

第6回  国際刑事裁判所ICC) 尾﨑久仁子次長

~国際社会の共通利益を追い求める上で、「日本人がいるとチームがしまります!」~

オランダのハーグにある国際刑事裁判所(International Criminal Court/ICC)は、国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を、国際法に基づいて訴追・処罰するための歴史上初の常設 の国際刑事裁判機関です。 国際社会が協力してこうした犯罪の不処罰を許さないことで、犯罪の発生を防止し、国際の平和と安全の維持に貢献します。1998年に採択されたローマ規程によって設立され、2002年から活動を開始しました。

 

ICC国連から独立した組織ではありますが、人道に対する罪を訴追する常設の国際裁判所を設立する考えは、1948年のジェノサイド条約の採択との関連で早くから国連の場で審議されました。また、国連安全保障理事会ICCで訴訟手続きを開始することができ、ICCが管轄権を持たないような事態についてもICCに付託することができます。

 

日本は2007年にICCに加入し、トップの財政支援国としてICCの活動を支えてきました。それと同時に、人の面でも、アジア出身の女性としては初めてICC裁判官となった外交官出身の齋賀富美子さん(2007-2009)に続き、同じく外交官出身の尾﨑久仁子さん(任期2010-2018)が裁判官として法の支配の推進に貢献しています。さらに尾﨑判事は2015年からICCの次長として裁判所のマネージメントを担っています。なんと現在のICCでは所長、2人の次長、そして検察官も4人全員が女性です。一時帰国中の尾﨑次長から貴重なお話をうかがいました。(聞き手: 国連広報センター 根本かおる所長)

 

2016年10月8日付、日本経済新聞に掲載された尾﨑さんのインタビュー記事

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114654j:plain        2010年、ICC裁判官就任にあたって宣誓する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

                                          尾﨑   久仁子 (おざき くにこ)

【1979年外務省入省,外務省条約局,国際連合日本政府代表部法務省刑事局などで勤務したのち,法務省入国管理局難民認定室長,外務省人権人道課長,東北大学大学院法学研究科教授などを歴任。2006年国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)条約局長,2010年国際刑事裁判所(ICC)判事に就任。2015年からICC次長。】

 

根本:日本はICCを積極的に支援していますが、日本では一般的にはあまり知られていない存在かもしれませんね。そもそもどんな経緯から生まれた裁判所ですか?

 

尾﨑:戦争犯罪や人道に対する罪を処罰することが基本的人権の維持につながるという発想は古くからあり、本来それは各国がやるべきことと考えられていましたが、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダの虐殺をきっかけに、国連安全保障理事会が旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ルワンダ国際刑事裁判所を設置しました。これを契機にもっと普遍的なものを作らないといけないという世界的な動きの中で生まれたのがICCです。国連総会がそのお膳立てをしてローマ規程を交渉し、その採択の結果生まれました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114903j:plain        1998年ローマでの国際刑事裁判所の設立に関する国連全権外交使節会議(通称ローマ会議・ICC提供)

 

ICCは、各国の国内刑事司法制度を補完するものであって、関係国に被疑者の捜査・訴追を真に行う能力や意思がない場合等にのみ、ICCの管轄権が認められるという「補完性の原則」のもと、活動しています。

 

根本:活動を開始したのが2002年ですから、まだ若い組織ですね。

 

尾﨑:設立準備段階から働いている職員でさえ、よもや設立されるとは思っていなかったんですよ。まさかの合意、まさかの設立でした。10数年前は誰も実現できるとは思っていなかった、国際的に処罰を課す、不処罰の文化をなくすという理念がここ5,6年でようやく確立され、ICCの組織・活動も定着してきたと思います。様々な判例が蓄積され、国際裁判所としての実体が出来上がってきました。ただ、簡単に入れるところはすでに加盟して、このところ加盟国の増加が鈍っていますね。加盟国は124カ国で(2016年7月28日現在)、ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカに加盟国が集中しています。アジア、アラブ諸国の多くがまだ加盟していませんね。アメリカ、中国、ロシアは入っていません。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115017j:plain                  2016年4月、オランダ国王出席のもと、ICC本庁舎の開所式が行われた(ICC提供)

 

根本:ICCの次長になられて1年あまりになりますが、ICC次長というのはどんな役割を担うのでしょうか?

 

尾﨑:ICCには18人の裁判官がいます。その中から所長と2人の次長が選ばれるのですが、3人とも裁判官としての職務は引き続き行います。所長は対外的にICCを代表する仕事が増えますが、次長は所長とともに裁判所内部のアドミニストレーションについて最終決定を行うことが主たる役割となっています。アドミニストレーションは裁判が円滑、効率的、効果的に行われることの礎になっているという面からも重要です。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115059j:plain             2015年4月、ICC次長として、パレスチナICC加入を歓迎する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

 

根本:ICCの所長、2人の次長、そして検察官という幹部4人全員が女性ですね。

 

尾﨑:検察局のトップが女性だということは大きいですね。検察官自身も、女性に対する暴力のケースを積極的に捜査しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115144j:plain                              国連安全保障理事会で発言するベンソーダICC検察官(ICC 提供)

 

裁判官の仕事の中で女性だから男性だからという違いは感じられませんが、裁判所長会議に参加する3人は外部に発信していくという役割を持ちますので、その上で女性だということは大きな意味がありますね。

 

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根本:ICCに付託される事案の多くが紛争下の女性に対する暴力に関するものですね。

 

尾﨑:レイプ被害は戦争のあり方が変わっていないことの現われだと思います。女性へのレイプが普通のことと思われていた時代が長かった。いかに「女性が一種の財産として扱われる」ことから脱却するのか。そのためには、一つには犯人への処罰、そして時間はかかりますが教育ですね。一朝一夕にはいきません。少しずつではありますが、脱却できている国は増えてきていますし、女性への暴力に対する問題意識は確実に世界的に広がりつつあります。諦めることが一番よくないと思います。高齢者、子ども、女性に対する虐待もすべて同根でしょう。問題意識を広げ、実態が見えるようにし、教育し、処罰する。これを粘り強く行う、ということですね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115252j:plain                   正義のための国際デー(7月17日)で、SNS啓発キャンペーンを展開(ICC提供)

 

根本:特に印象に残っている案件や瞬間として、どんなものがありますか?

 

尾﨑:今まで携わってきた案件は中央アフリカ、ケニア、コンゴ民主共和国などです。一つ一つに固有のむずかしさがありますし,手続きも長期に及ぶんですね。やはり実際に被害に遭われた方が証人として法廷に参加してくださるということには胸を打たれます。英語もしゃべれず、およそ外国人を見たこともないような田舎から、裁判のためにオランダのハーグまで出てきてくださるわけですね。もちろん裁判所の心理専門家などがサポートしますが、「正義がほしい」と辛い気持ちを克服して証言してくださることに、とても励まされます。

 

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              インタビュー中の尾﨑さん ©UNIC Tokyo

               

根本:ICCにとって、日本は一番の分担金拠出国ですね(2016年の分担率:16.5%)。ICC内部からご覧になって、日本の役割はどのように尾﨑さんの目に映りますか?

 

尾﨑:日本がそこまで大きな役割を担っているということは、内部からはあまり感じられないかもしれません。というのも、やはり日本人の人的存在感が小さいんですね。ようやく書記局に一人、日本人が幹部のポストで入りましたが、最もコアな裁判部には日本人は一人もいません。日弁連とも話し合いをしていますが、日本の法律家で国際機関を目指している人がそもそも少ないんですね。日本で法律の教育を受けた人は世界で大きく貢献することができると私は信じていますので、日本の法律家に是非ICCに来てもらいたいです。

 

根本:日本の法律家はどういう面で大きく貢献することができるのでしょうか?

 

尾﨑:日本は様々な法体系を受け入れてきた国なので、ハイブリッドな法律体系に柔軟だと思います。また、日本では法律を学ぶときに比較法の観点を取り入れるので、他の国の法学教育と格段な違いがあります。日本人の法律家はICCで貢献できると思います。日本側から見ればプレゼンスを高めることができますし、ICC側から見ても、日本の法律家に備わっている資質を求めています。さらに、私の経験値から言えることですが、日本人は粘り強く、あきらめずに最後までやり通す。責任感が強く、やるべきことはきちんとやる。そして、日本人がいると、チームがしまります!

 

根本:尾﨑さんは外交官出身ですが、ICCの前は、ウィーンのUNODC(国連麻薬犯罪組織)の条約局長も務めていらっしゃいますね。以前から国際機関に関心があったのですか?

 

尾﨑:国際機関に入りたいからUNODCに行ったのではなくて、刑事司法関連の国際法に関心があったので手を挙げて、行ったんです。

 

根本:外交官と国際機関とで、働く醍醐味にはどんな違いがありますか?

 

尾﨑:外交官は日本の国益を一番に考えて行動します。共通利益を目指すときも、何が日本の利益かが基準ですね。それに対して、国際機関では国際社会の共通利益についてまず考えます。一国の国益を考えるよりも難しいですが、それがかえっておもしろい部分でもありますよ。あと実感するのは、国民性とは別に、職業に特有の特性というものがあって、どこの国出身であっても法律家は法律家。これが共有の基盤となっています。

 

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                                     所長の根本かおる(左)と尾﨑さん ©UNIC Tokyo 

 

根本:最後に、国際機関に関心のある若い世代へのメッセージをお願いします。

 

尾﨑:国際機関で働きたいという学生は大勢いますが、国際機関はたくさんある道の一つに過ぎません。単に国連に入りたいという気持ちだけではなく、自分のやりたいことをきちんと考えて、その選択肢の中に国連を入れる、というアプローチであるべきだと思いますね。日本でも以前と比べれば仕事の流動性が生まれているので、国際機関ありきではなく、何に貢献したいのか、ということを見つめて、しっかりとした思いを持っている人にICCの存在をアピールしていきたいです。

 

 

 

 

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (5)

日本人元職員が語る国連の舞台裏 ~ 日本の国連加盟60周年特別企画 ~ (5)

川端清隆さん 

世界平和の実現に日本も強い覚悟を

 

連載第5回は、国連本部の政治局に長年勤務された川端清隆さんです。世界がまだ冷戦下にあった1988年に国連に入り、激変する政治状況のなかで25年にわたって安全保障理事会を支える安保理部を中心に要職を歴任されました。国連在任中は安保理の他に、アフガニスタンでの和平交渉やイラク戦争への対応に尽力されました。退職後の2013年からは、福岡女学院大学の教授として活躍されていらっしゃいます。国際の平和と安全の維持という国連の最も本質的な活動の舞台裏について、川端さんからお話をうかがいました。

 

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                 川端清隆(かわばた きよたか)

【1954年、大阪生まれ。通信社記者を経て、88年より国連本部政治局で政務官として勤務。95年まで安全保障理事会部に所属し、安保理の運営や安保理改組を担当。95年から04年まで政治局地方部(アジア課)に移籍し、アフガン和平交渉やイラク戦争への対応に携わる。アフガン和平においては、ボン和平合意の達成に尽力。04年からは安保理北朝鮮の核・ミサイル問題やシリア紛争などを担当。13年、国連早期退職して福岡女学院大学国際キャリア学部教授に就任。著書に「イラク危機はなぜ防げなかったのか 国連外交の六百日」(岩波書店)や「アフガニスタン 国連和平活動と地域紛争」(みすず書房)など。最近の論文に「安保法制の課題と問題点 - 日本は国連を活用して対米偏重を改め、自立した未来志向の国家戦略を築け」(WebRonza 朝日新聞社、2015年9月)など。】

 

根本:川端さんは本部の政治局でも安保理部でのお仕事が長かったのですね。安保理部という部署はどんな仕事をしているのですか?

 

川端:国連で働いていた25年のうち、6割は安全保障理事会を支える安保理部での勤務でした。安保理部の役割としては、まずスムーズに、タイミングよく会議を開けるように準備する。次に、決議案などの決定がスムーズに出るように理事国をサポートすることなどです。特に重要なことは、安保理の審議や決定の記録を整理することです。公式会議は議事録がありますが、非公式協議は公式な記録がないので、ノートを取ってその日のうちに報告書をまとめて事務総長に報告せねばなりません。

 

私が国連に入ったのは1988年で冷戦の末期でした。東京で採用通知を受け取りましたが、配属先は「政治安保理安保理部」という大変重要そうな名前の部署でした。当然、喜び勇んでNYに向かったのですが、実際の国連の職場では大きな驚きが待っていました。国連創設から冷戦期を通して、政治安保理局のトップはソ連出身者が勤めており、他の局員も東ヨーロッパか親ソの途上国出身の官僚で占められていたのです。スタッフの殆どは社会主義圏の出身で、西側出身者は私だけという事実に直面し、おおいに戸惑いました。ちなみに、冷戦期の国連事務局は世界情勢をそのまま映したような体制で、アメリカは総会を担当する局、イギリスは特別政治局(後のPKO局)をそれぞれ掌握していました。局間の交流や協力はほとんどなく、国際政治の力学を忠実に映す国連の現実を思い知らされました。

 

職場環境は、現在では想像もできないほど殺伐としていました。当時はまだ東西両陣営の間の不信感が根強く、同僚としての意識は希薄でした。例えば、私と同じ政治安保理局で働いていたソ連出身の同僚は、国連から直に給料を現金で受け取ることをソ連政府により禁じられていました。彼らは国連から給料を小切手でもらい、それをソ連国連代表部に「差し出し」、代わって本国の等級に従って生活費を受け取っていたのです。これは亡命を防ぐためですが、出身国政府の指示を受けない「中立の国際公務員」とは名ばかりですね。そんな状況ですから、敵対する資本主義陣営出身の私はなかなか安保理の会議に出させてもらえなかったし、上司の部長と局長はまともに私と話してもくれない。「何でここに日本人がいるんだ?」という感じで見られ、疎外感を感じる日々が続きました。

 

仕事の進め方も、今から思うと滑稽な秘密主義がまかり通っていました。例えば、ソ連出身の局長は一日のうち数度、側近だけを引き連れて政治安保理局があった事務局ビル35階の長い廊下を端から端まで往復します。不思議に思って同僚に聞くと、「(欧米による)盗聴防止のため」という説明でした。盗聴されているかもしれない局長室では、大事な話はできないという訳です。事務局内に疑心暗鬼が渦巻いていたのですね。

 

根本:川端さんはマスコミのご出身ですから、通信社時代に鍛えた簡潔に、分析的に書くというスキルは役立ったのではないですか?

 

川端:それが最初はまったく役に立ちませんでした。当時の仕事の流れは、まず安保理での審議の要旨をまとめて、それを担当部長がチェックしたうえで事務総長室にあげるという仕組みでした。ところが、要旨の作成は客観性重視というより、政治的バランスを最優先するものでした。つまり、アメリカの発言について3行書けば、たとえ内容がなくともソ連についても必ず3行書くように言われました。自身の判断で審議内容にメリハリをつけてまとめることなど、到底許されなかったのです。また理事国の発言は一言一句言ったままにしか書けないという有様で、解釈や分析の余地はほとんどありませんでした。これでは、記者としての経験は全く役に立ちません。

 

必然的に、当時の安保理の記録は本質からかけ離れた手続き上の問題に終始しており、外部の者が読むとほとんど意味不明です。政治的な発言など、安保理の本質にかかわる正確な記録の不在は、冷戦期の安保理審議の研究が進まない原因の一つといえます。

 

根本:1991年にソ連が崩壊してから、変わりましたか?

 

川端: ソ連の消滅は、国連を東西イデオロギー対立のくびきから解き放ち、事務局の環境を一変させました。それまでギスギスしていた雰囲気は消え去り、人間関係も正常化が進みました。今では笑い話ですが、ソ連崩壊直後のある日、ソ連出身の政治局長とたまたまエレベーターの中で二人きりになった瞬間がありました。それまでろくに話かけてくれなかった局長ですが、この時の態度は様変わりで、彼は私の手を握り締めて「カワバタ、これから一緒にやっていこうな」と、顔を紅潮させて切実に呼びかけました。政治体制が変わるとこんなにも態度が変わるのか、とビックリしました。

 

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     1994年ジェノサイド直後のルワンダPKO本部で事務総長特別代表と(川端さん提供)

 

根本:安保理の非公式協議は私たちにはうかがい知れない世界ですが、どんな感じなんですか?

 

川端:決議案の草案作りなど、安保理の本質的な話し合いはほとんど非公式協議で行われます。非公式協議に使用される部屋はわざと狭く作ってあり、公式会議室の3分の1ほどの大きさしかありません。出席者の肩と肩が触れあうほどの狭さです。理由は、建前にとらわれない自由で親密な会話を促進するためです。だから、非公式協議の記録は存在しません。1セッションは2~3時間で、安保理部は概要をその日のうちに事務総長に報告します。

 

根本:まさに「奥の院」ですね。シリア紛争などについて安保理が機能していないとの批判がありますが、どんな条件が整えば、合意しやすくなるのでしょうか?

 

川端:やはり安保理常任理事国が当事者になっている案件は、意見をまとめるのが難しいですね。これは、国連の集団安全保障が「大国間の協調(Concert of Great Powers)」に依拠しているためです。大国、つまり常任理事国の間の協調を担保しているのがいわゆる拒否権です。

 

シリアについては、アサド政権を擁護したい、存続させたいと思っているロシアと、アサドではだめだ、何らかの形で国民の和解政権をつくりたいと思っている欧米とで、決定的に考えが分かれてしまいました。特定の紛争を安保理の議題にするかしないかは、憲章上は手続き上の問題(procedural matters)として扱われるため、拒否権は適用されません。したがって、安保理はこれまでシリア問題やウクライナ問題を審議することはできたのですが、制裁決議は言うに及ばず非難声明を含めて、拒否権が適用される本質的な決定は一つもできませんでした。他方、常任理事国の利害に直結しないアフリカの紛争解決など比較的まとまりやすく、冷戦後に安保理は同地域で積極的に平和活動を実施することができました。実際、現在展開している国連平和維持活動(PKO)の8割はアフリカに集中しています。

 

安保理北朝鮮に対しても、数次にわたる制裁決議を採択することができました。これは中国を議長国とする6ヶ国協議という枠組みが合意され、中国を多国間外交の場に引き込むことに成功したからです。しかし、金体制の崩壊につながるような経済制裁に慎重な中国と、何としても核・ミサイル開発を止めたい米国との間に、まだ大きな隔たりが見られます。

 

残念ながら理事国が分裂し、安保理が機能しない場合は、私たち国連事務局はほとんど何もできません。しかし、紛争を座視することは許されません。戦いが長引き膠着状態に陥ったとき、国連事務総長は解決に向けた独自のイニシアチブをとることがあります。シリアについても、ロシアと欧米の間の橋渡しのため、国連はアナン前事務総長、ブラヒミやデミストゥーラなど、最高の交渉者を送り出してきました。また、PKOや人権監視団の派遣を提案することも可能です。紛争原因の調査などを目的とする事実調査団の派遣や、紛争を未然に防止する予防外交の実施も、事務総長の重要な役割の一つです。

 

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        2012年シリア外相と和平調停にあたるコフィー・アナン特使(UN Photo)

 

根本:安保理は週末でも緊急に開かれますね。皆さん、どのようにスタンバイしていらっしゃるのですか?

 

川端:安保理はいつ招集されるか分からないので、一年365日、一日24時間対応できるように、夜間や週末はローテーションで緊急時のためにスタンバイしています。1990年代当時はまだ一般に普及していなかった携帯電話を支給され、緊急時に連絡が出来るようにしていました。

 

安保理を緊急招集するためには、「3時間ルール」というものが適用されます。理事国が緊急会議を要請する場合、要請時から会議の開始まで、事務局に対して少なくとも3時間の猶予を与えるという原則です。これは、6ヶ国語の同時通訳、文書係、会場の整備係、広報担当者、政治局担当者、警備員などの必要人員の招集に、最低限このぐらいの時間が必要だからです。

 

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             安全保障理事会の公式会議場 (川端さん提供)

 

根本:冷戦が終わって国連PKOに紆余曲折があった90年代を川端さんは安保理部からご覧になったのですね。

 

川端:冷戦時代は安保理の協議は、「国連は何が出来るか」より「何が出来ないか」の話し合いでしたね。そもそも民主主義や人権の定義が、欧米とソ連圏では大きく違っていました。非同盟諸国も、国連に名を借りた大国の「新植民地主義」を恐れるあまり、民主化、人権や法の支配の促進など平和構築活動に消極的でした。つまり、今では当たり前になっている選挙支援や人権擁護も、平和活動の一環としての実施はタブーだったのです。内政不干渉の原則という憲章上の制約も当時はありました。しかし冷戦後は、安保理は紛争原因を除去するための平和構築活動に本格的に乗り出せるようになったのです。結果として、PKOの活動内容が充実し、PKOの増加につながりました。90年代の前半には、PKOは最初のピークを迎え、PKO要員の総数が7万人を超えました。

 

ナミビアカンボジアなどのサクセスストーリーは、長年の紛争の末に当事者が疲れすぎて「どうにかしてくれ」と国連に相談するケースが多かったんだと思います。アメリカ対ソ連の構図が消えて、どちらかに頼ればお金+武器がもらえる、という前提がなくなったから国連に頼るしかなかった、という面もありました。それで国連が行えること自体も増えていったわけです。ソマリアでは、国連PKOが自衛以上の武器使用を禁じられたいわゆる「PKO三原則」から脱皮して、軍閥武装解除などの任務遂行のために武力を使えるようになりました。しかし、急速なPKOの役割拡大の結果、さまざまな失敗や挫折が続きました。ソマリアPKOで大失敗し、さらにルワンダでは大虐殺を許してしまった。ボスニアでは自らが設定した人道保護区を防護しきれず、NATOにとって代られてしまいました。相次ぐ失敗のため90年代の後半には、PKOの規模はピーク時の7万人から一気に2万人に減ってしまいました。成功の高揚感から絶望の奈落へ、まるでジェットコースターに乗っているような気分でした。

 

根本:現在PKO要員は制服組、文民あわせて12万人規模になっていますね。数がそんなに少なかった時代もあったとは信じられません。当時現場に行かれることもありました?

 

川端:私は1994年の夏、ルワンダPKO(UNAMIR)の増強を応援するためにNYから現地に乗り込みました。国民の一割にあたる80万人が、政府部隊と政府が支援する民兵によって虐殺された一か月後のことでした。いまでもルワンダでの体験は、私の平和観の原点であり、平和活動のあり方に大きな影響を与えています。戦場体験がない訳ではありませんでしたが、あれだけの死体を目の当たりにしたのは生まれて初めてでした。大量虐殺は国際社会の眼前で、わずか2か月という短いタイムスパンの中で嵐のように実行されました。首都キガリでは埋葬が追い付かず、浅く埋められた死体を犬が掘り返すというような現場を見ました。その犬たちが夜には、PKO本部の周りで遠吠えを繰り返すものですから、プロの軍人たちの間でも耐えかねて情緒不安定に陥る者が出る有様でした。

 

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              1994年ルワンダ難民の子ども(UN Photo)

 

根本:私は、川端さんがお書きになったアフガニスタンに関する本を通じて、川端さんの存在を知りました。どのようなきっかけでアフガニスタンに関わるようになったのですか?

 

川端:私がアフガニスタンの担当者になったのはまったくの偶然でした。1995年の夏に前任者が突然解任され、たまたま新しいポストを探していた私に機会が巡ってきたわけです。しかし機会といっても、アフガン紛争は当時「国連和平活動の墓場」と呼ばれ、解決不可能なやりがいのない任務と考えられていました。実際、政治局の同僚の間では、一旦アフガン紛争の担当者になってしまうと、定年退職までずっと抜けられないという認識があって、誰も担当をしたがりませんでした。当時私は「安保理改組に関する特別作業部会」を担当していました。作業部会ではスエーデンの国連大使が議長を務めていましたので、退任のあいさつに行くと大使は私に、「アフガニスタンが平和になるか、安保理改革が実現するか、どちらが先に達成できるか賭けよう」と冗談を飛ばしました。当時は安保理改組と同様に、アフガニスタンは絶対に解決しない紛争の一つと考えられていたのです。

 

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    1996年アフガン和平活動中に国連代表(右から2人目)とバーミアンで(川端さん提供)

 

実際、私が担当してから最初の6年間、アフガン和平はまったく進展しませんでした。アフガン当事者間の権力抗争、周辺国の干渉、米国など大国の無関心、イスラム原理主義の台頭、などの要因が重なってにっちもさっちもいかない袋小路に陥っていたのです。ところが、アフガニスタンを巡る国際情勢は、6年目の初秋に激変しました。2001年に9・11対米同時多発テロが起こって、アメリカをはじめとする欧米諸国が紛争解決に本腰を入れ始めたのです。好機を逃さぬため国連は、元アルジェリア外務大臣ラクハダール・ブラヒミアをアフガニスタン担当事務総長特別代表に再任命しました。10月初めに、ブラヒミに同行してワシントンに行ったのですが、国連の通常の窓口である国務省ではなくいきなりホワイトハウスに招待されました。そこではチェイニー副大統領がブッシュ大統領の代理として出てきて、ブラヒミに「タリバン政権崩壊後の政治的空白を埋める」よう要請しました。軍事的局面を扱う米国と、政治的局面に責任を負う国連との、二人三脚の始まりでした。

 

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          1998年ブラヒミ特別代表とバーミアン石仏の前で(川端さん提供)

 

根本:あれから今年で15年になりますが、アフガニスタンの情勢は緊張が高まっていますね。川端さんはどのようにご覧になりますか?

 

川端:アフガン紛争の本質は近代化の失敗です。乱暴を承知で申し上げると、アフガニスタンは日本の明治維新と同じ時期に近代化のプロセスを始めましたが、内政は上手くいかなかったものの、武器や資金の支援など外国人を利用するのはすごく上手でした。しかし外部の支援に頼りすぎて、自力での近代化を怠ってしまった。国家予算の大半を外国に頼る「支援依存国家」に成り下がってしまったわけです。干渉国を利用していると思い込んでいるうちに、自身の自立心を徐々に失くしていったのかもしれません。その結果アフガニスタンでは、王政、立憲君主制、共和制、共産主義イスラム原理主義など、ありとあらゆる制度が試されましたが、いずれも無残な失敗に終わりました。最後に残されたのが、ムハメッドが生まれた7世紀への回帰を目指す、タリバンが掲げる超原理主義というわけでしょう。一方日本は独自の近代化に成功し、紆余曲折こそありましたが、今日の平和と安定を築くことができました。

 

根本:国連の中枢である政治局の仕事に長年携わられて、日本にどんな期待をお持ちですか?

 

川端:まず、日本はもっと平和活動の専門家を育てなければならないと思います。アフガニスタンの担当のときに日本に積極的に関与してもらおうと、日本にいる専門家を探そうとしましたが、アフガン文化や歴史の専門家はいたけれども、政治を知っていた人はほとんどいませんでした。日本にはアフリカ紛争の専門家も少ないですね。

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2001年ボン和平合意署名後にシュミット独首相(前列中央)、ブラヒミ特使(前列右から4人目)、アフガン当事者らと(川端さん提供)

 

加えて、日本には「からだを張って何とかする」という発想をもっと強く持ってもらいたいです。汗をかかなければ、犠牲を払わなければ、見返りはない。関わるからには、日本は本質的な部分を肩代わりするぐらいの「覚悟」を持つ必要があります。当然、平和活動への参加は危険を伴います。しかし、国連の平和活動の本質は、日本を含めた加盟国による「リスクの分かち合い」なのです。日本だけが安全地帯にとどまり、他人事のように「平和」を語るわけにはいきません。

 

アフガンについても、日本は復興支援国会合を東京で開催しましたが、肝心の和平会議はドイツのボンに持っていかれました。同様のことを日本はカンボジア和平でも行っていますが、振り返ってみてパリ和平会議を記憶する人は多くいますが、東京での支援国会議を覚えている人はどれほどいるのでしょうか。

 

平和の達成には、実際に現地を訪れ、紛争地の人々に寄り添う必要がります。「日本も汗をかいてくれ!」とかつてブラヒミが言っていましたが、日本には是非、国連の平和活動の一員になってほしいと願います。それこそが、本当の支援でしょうし、積極的に参加すれば和平の専門家も育つはずです。紛争の現実を知ってこそ、我々日本人は平和とは何かを身をもって感じ取ることができるのではないでしょうか。

 

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       国連広報センターにて。川端さんと所長の根本かおる(右) ©UNIC Tokyo



 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (5)

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(5)

指揮者 栁澤寿男さん

~ 異なる民族が「共に栄える」音楽を目指して ~

 

国連を自分事に」シリーズ第5回は、バルカン半島の異なる民族出身のミュージシャンが演奏する「バルカン室内管弦楽団」を2007年から率いてきた、指揮者の栁澤寿男さんです。栁澤さんは、来る10月17日、18日に国連欧州本部のあるスイスのジュネーブで、日本の国連加盟60周年記念事業として開催されるバルカン室内管弦楽団による平和祈念コンサートを指揮します。バルカン地域出身者を含む多国籍の奏者が民族共栄を祈って演奏するコンサートに向けた意気込みなどについてお聞きしました。

 

平和祈念コンサート詳細

バルカン室内管弦楽団コンサート : ジュネーブ国際機関日本政府代表部

 

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             栁澤寿男(ヤナギサワ トシオ)

 1971年長野県生まれ。パリ・エコール・ノルマル音楽院オーケストラ指揮科で学び、佐渡裕大野和士に指揮を師事。スイス・ヴェルビエ音楽祭指揮マスタークラスオーディションに合格し、名匠ジェイムズ・レヴァインクルト・マズアに師事。2007年、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者に就任し、同年にバルカン室内管弦楽団を設立。2014年、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件から100年の節目に、国立劇場でバルカン室内管弦楽団による第九平和祈念コンサートを開催する。また、世界平和のためのコンサートなどにも尽力。現在、バルカン室内管弦楽団音楽監督、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者、ベオグラードシンフォニエッタ名誉首席指揮者、ニーシュ交響楽団首席客演指揮者。

 

 

根本:栁澤さんのバルカン室内管弦楽団での活動、もうすぐ10年になりますね。来日コンサートには私も何度か足を運ばせていただきました。何がきっかけで、栁澤さんはこの多民族の楽団を結成しようと思われたのですか?

 

栁澤:バルカン室内管弦楽団は公式には2007年結成ですが、本当はマケドニアユーゴスラビア連邦の国立歌劇場の指揮者をしていた頃、民族対立というものを初めて目の当たりにして、2006年にまず始めようとしたのですが、うまく行きませんでした。

大失敗してしまい、一度諦めざるを得なかったんです。2007年に国立歌劇場とケンカして辞め、心配した周りの日本人の方々がつないでくださったおかげで、コソボフィルハーモニー管弦楽団の指揮の仕事を見つけることができました。コソボフィルの音楽監督のバキ・ヤシャリさんとの出会いが、もう一度バルカン室内管弦楽団を立ち上げようという気持ちに火を着けてくれました。コソボ紛争で身内を2人亡くし、「何かあったら自分は楽器を捨てて銃を取る」と言っていたバキさんが、私が指揮を振り終わった時に「あんなことを言って悪かった、やっぱり音楽に国境はあってはいけない」と言ってくれたのです。

 

彼の「音楽に国境があってはいけない」という言葉に促され、今度は、「民族融和」ではなく、民族が共に栄えるという「民族共栄」の室内管弦楽団を目指そうと思いました。民族融和は、対立を前提にした考え方で、これではなかなか受け入れてもらえない。対立ありきで何かをしようとすると、皆から抵抗があった。皆で栄えようだったらいいけれども、融和だと抵抗を持たれてしまう、と感じたからです。

 

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         著書「戦場のタクト 戦地で生まれた、軌跡の管弦楽団」©UNIC Tokyo

 

根本:バルカン半島の民族対立に当事者と関わることのなかった日本人だからこそできることでしょうか?

 

栁澤:セルビアセルビア人とコソボアルバニア人の文化交流はとても少ないのが現状です。来年オーケストラが10周年を迎えるのでベオグラードで演奏会をしようとしていますが、コソボの人がベオグラードで演奏会をすることは可能でしょうが、ベオグラードの人がコソボに行くのは難しい。治安というよりも、むしろ周りの目を気にし、プリシュティナに行って演奏をやるなという話になるんです。バルカン室内管弦楽団プリシュティナでの演奏会では、演奏者はマケドニア人とアルバニア人だけで、セルビア人は来ませんでした。コソボで演奏会をしたのは、セルビア人とコソボアルバニア人が2009年に交流した際に、(南北に川で分断された)ミトロヴィツァでの橋の南側と北側でやったコンサートくらいしかありません。必要な連絡調整も本人達同士ではコーディネートできないので、日本人が間に入ってやるしかないですね。

 

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          2009年ミトロヴィツァでの初めてのコンサート(栁澤さん提供)

 

根本:バルカンの異なる民族と信頼関係を築く上で、どんなことを大切にしていらっしゃいますか?

 

栁澤:まず彼らのコミュニティーの中に入っていくことですね。商社もそうかもしれませんが、遠隔操作で日本の職員が現地にいなくて、現地スタッフだけでまわしていてもだめで、自分がそこにいって、その人達の本質を知ることが大切です。現地では自分の今までの常識は通じない。バルカンでは、自分の常識が通用しないと痛感しました。彼らの生活や考え方を知った上で、一緒に仕事をしていかないといけない。同じ釜の飯を食うということわざがありますが、現地でしっかり彼らと一緒に何が出来るかを考えないといけないでしょう。それから、上から目線ではなく、謙虚な気持ちを持つこと。日本から途上国に行くと、自分の方がすごい所から来ていると、上から目線になりがちです。自分達の文化の方が優れているとか自分の方が良い生活をしていると思ってしまう。日本の方が進んでいる部分を教えてあげようだとか、やってあげようと思ったら、絶対にいけない。一緒にやっていく、共栄することがまず第一です。日本のオーケストラみたいにしようとしても、向こうの人は分からないし、それではついてきません。相手の優れている点はたくさんあり、そこをちゃんと認めて、自分が出来ないことは自分で認め、彼らから学ぼうという謙虚な姿勢が必要です。

 

根本:来年で結成から10年。演奏に進化はありますか?

 

栁澤:一昨年くらいまではオーケストラとして下手だったかもしれません。一緒にやること自体が大変だったので、クオリティーはあげようがなかったんです。コソボのミトロヴィツァでやる時もまず治安を維持して演奏するなど、お互いにどういう人かも分からずただ演奏するだけで精一杯でした。いつまでも今のままのクオリティーでは難しいので、クオリティーをあげようとしています。昨年ベオグラードで世界的バイオリニストの諏訪内晶子さんも含めて47名で演奏会をした時くらいからかなり上手くなってきていると手ごたえを感じています。フランクフルト放送交響楽団という世界有数のオーケストラの人も一緒に混ざるなど、徐々にクオリティーもあがってきています。また、日本政府がコソボフィル、サラエボフィル、ベオグラードフィル、マケドニアフィルなどほとんどバルカン全域に文化無償援助を行っていることは素晴らしいことだと思います。旧ユーゴ紛争以前にあった旧ユーゴの多民族のオーケストラが奏でていたと言われている音色が、日本人の音楽家もしくは企業支援、日本政府のバックアップによって復活させることができたのは、この地域に関わる日本人としてとても嬉しいことです。お互いの信頼関係がないとできないことでしょう。

 

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      2015年に行われたバルカン室内管弦楽団ベオグラード公演にて(栁澤さん提供)

 

根本:栁澤さんはコソボで盲腸をこじらせて、九死に一生を得るような体験もしていらっしゃいます。そこまでしてバルカン地域に関わろうとする理由はどこにあるのでしょう?

 

栁澤:それはバキさんの言葉に尽きますね。自分の近くで戦争に行きたいという人をあまり見たこともありませんでしたし、憎しみの塊みたいだった人が、自分の音楽を聴いて変わったことにとても感動しました。

 

根本:栁澤さんは世界各地のオーケストラを指揮してこられましたが、バルカンの人々が奏でる音の特徴ってありますか?

 

栁澤:アルバニア人は違いますが、彼らのほとんどがスラヴ系民族なので、やはりスラヴであるチャイコフスキードボルザークなど、そういう音色にぴったり合う音を出しますね。弦楽器の音がすごく鳴るという特徴はあるが、それが復活してきていることは指揮をしている側としても嬉しく感じます。今チャイコフスキードボルザークの名演奏はウィーン、ベルリン、ニューヨークといった経済の集まる所が上手となっているが、その中でオリジナルの文化圏のスラヴの人たちが出す音で上手な演奏ができるのは素晴らしいことだと思います。

 

根本:2014年には、第一次世界大戦勃発から100年という節目に、大戦の引き金となった事件が起きたボスニアサラエボで、バルカン室内管弦楽団による平和祈念コンサートをなさいましたね。そして、今年10月には、日本の国連加盟60周年の平和祈念コンサートをジュネーブで指揮されますね。

 

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         2014年サラエボ国立劇場での第九平和祈念コンサート(栁澤さん提供)

 

栁澤:駐セルビア日本大使ご夫妻が熱心に働きかけてくださったおかげで、今日のジュネーブでのコンサートにつながりました。ジュネーブにある国連欧州本部と市内のヴィクトリアホールとで2回演奏会を行いますが、コソボ国連加盟国ではないので、コソボの演奏者たちは国連欧州本部でのコンサートには参加しません。コソボが国かどうかについて触れてもしょうがないけれども、それよりもバルカン地域が国連とつながってほしい、地球全体で平和になってほしいという思いがとても強いので、バルカン全域の国と地域を含めてそういう形になったらいいと願っています。

 

根本:ところで、栁澤さんは小さい頃から指揮者を目指していらっしゃったんですか?

 

栁澤:いえいえ、まったくの偶然です。音楽は好きでしたが、それを職業にするのは大変だし、考えていませんでした。たまたま旅行先のウィーンで小澤征爾さんの演奏会に行き、日本人が一人で外国人をまとめている姿を見て、一人のサムライスピリッツのようなものを感じ、彼のまとめていこうという姿に感動したんです。小澤さんを見て指揮者になりたいと思ったわけですが、ここまで大変だと知っていたら自分は指揮者を目指さなかったと思いますよ。

 

根本:バルカン室内管弦楽団を率いて活動するには、お金もかかりますね。どのように工面し、そしてどのようにモチベーションを作っていらっしゃるのでしょうか?

 

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              コソボ戦争によって壊れた家(栁澤さん提供)

 

栁澤:私のバルカン室内管弦楽団での活動はほとんどボランティアで、お給料はありません。コソボフィルのお給料はむこうの相場ですから月3万円くらいしかありません。今は日本とバルカン地域とを行き来しています。以前はむこうに行きっぱなしだったが、今は春とか秋等まとめて行き、その際はコソボだけじゃなくベオグラードやニーシュなど行き、一年の3分の1くらいバルカン地域に行っている。その際は無給に近い状態なので、日本にいる間にとにかく稼いでいます(笑)。

 

バルカン室内管弦楽団の演奏者たちは普段安い給料で働いているので、オーケストラとしてきちんとお礼をするということ、ボランティアではないということ、プロフェッショナルとして保障するということがとても重要だと考えています。そして、西側に通用するクオリティーを持つことを目標にする。紛争の跡地みたいなところには楽器店もなく、指導者もいない。そのような場所でクオリティーの高いオーケストラを作ることは極めて難しいけれど、資金の力でそれを作ることができれば、彼らにとってもステータスと思えるようになり、それに参加したいという夢が生まれます。

 

自分の国を捨ててどこかに行きたいと思っている人達には、夢ができることは非常に大切です。そこにちゃんとしたものを作り、保障をすることは戦争の跡地にどこでもドアを作るようなものですね。そこに来て一生懸命やれば、日本、アメリカ、スイスなどにも行けるし、世界的なソリストとも競演出来るというモチベーションにもつながる。そのようなチャンスに恵まれない人達に、チャンスを作りたい、というのが私の願いです。

 

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         インタビュー後の記念撮影(左: 根本所長、右: 栁澤さん)©UNIC Tokyo

2016年夏季インターンを終えて

 本日をもって、国連広報センターの2016年夏季インターン5人がインターンシップを終了します。今回は、6月から3ヶ月にわたったインターン生活の振り返りを、Q&A形式でお届けします。

UNIC Tokyo’s summer 2016 interns finish their internship session today! The five interns, who have been interning with the UNIC Tokyo office since the end of June, take a look back on the ups and downs of their three month internship with a Q&A blog post!

 

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【2016年夏季インターンメンバー】

小杉京香 Kyoka Kosugi  ブラウン大学 国際関係学部 社会・安全保障学科
Brown University - International Relations

ジェニー・ホロウェー Jenny Holloway  オックスフォード大学・日本研究
University of Oxford - Oriental Studies, Japanese

小久保彩子 Ayako Kokubo 一橋大学 社会学
Hitotsubashi University - Faculty of Social Sciences

チョ・ソユン Soyun Cho 早稲田大学 国際教養学部
Waseda University - International Liberal Studies

小林薫子 Kaoruko Kobayashi 東京大学大学院 公共政策学部
The University of Tokyo - Graduate School of Public Policy

 

~2016年夏季インターンを終えて~

 

Q: 一番印象に残った出来事は何でしたか?

Jenny: 一番印象に残った経験は、私のインターンシップの最初の一週間に行われた日本人のパラリンピック選手のマセソン美季さんのインタビューです。その時は、インターンシップが始まったばかりだったのでUNICがパラリンピックとどのように関係しているのか分かりませんでした。しかし、マセソンさんとのインタビューをきっかけに、マセソンさんが女性パラリンプック選手として、今まで経験した事と、2020年東京パラリンピックに向けての仕事についての話を聞いてから、国連の仕事の目標は、核兵器をなくすのような深刻なことだけではなく、スポーツでも平和と平等を作れることが分かるようになりました。

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Kyoka: 広島と長崎の平和記念式典に参加するためにキム・ウォンス国連軍縮担当上級代表が来日した時にお会いできたのが一番印象的でした。キム代表と写真家のレスリー・キーさんが学生向けのトークイベントにゲストとして登壇し、なぜ持続可能な開発目標は平和構築に不可欠なのか、そして私たちが学生として何ができるのかを語ってくださいました。とても貴重なお話が聞けて、インターン期間中の一番印象に残った経験となりました。

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Soyun: NGOピースボート」が主催した出港式に参加したことが一番印象的でした。私たちが出港式で見届けた第92回のピースボートは、軍縮と平和のメッセージを伝えるために全世界を航海するプロジェクトです。出港式の前の参加者の方々の記者会見で、被爆者の方から直接お話をうかがったことが特に印象に残っています。被爆でお兄さんを亡くされた方のお話でしたが、何十年もの時が経っても悲しみが癒えないことを感じました。記者会見を通じて、ピースボートに乗船する人々の心持ちや思いを感じ取ったうえで参加した出港式はより意味深く感じられました。私にとって忘れられない経験です。

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Q: インターンを通して学んだこととは?

Kyoka: 国連広報センターの運営するブログや、参加させていただいたインタビューなどを通して、「国連の仕事」は簡単に一括り出来ないほど、いろんな種類の仕事や職場がある事を学びました。国連の傘下にある機関や団体ひとつひとつの活動があって、初めて幅広い環境や地域で深刻な課題に取り組むことができることを改めて認識することができました。この3ヶ月を通して、自分が将来どんな機関でどのような仕事に携わりたいのか、より具体的なイメージをつかむことができました。

Ayako:国連についての理解が深まったと同時に、広報活動に携われたことは貴重な経験でした。一つの記事が新聞に載るまでに取材依頼など数々のステップがあること、注目を浴びる出来事の裏側で、リアルタイムでメディアの動きをモニタリングしていること、一字一句までこだわって注意深く発信しようとする姿勢…普段何気なく世の中に溢れる情報にふれていましたが、その背景にこれだけの細やかな動きがあるということはとても印象的でした。広報センターに身を置いたからこそ体得できた「広報」の視点でした。

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Kaoruko: 私はUNICでのインターンを通し、広報活動の大切さを学びました。まず毎朝行う新聞クリッピングでは国内問題、国際問題など世界で起きている出来事を認知することの大切さを改めて実感しました。またUNICのブログ作業やFacebookのポスト作成を通じ、国連が取り組んでいる幅広い課題を多くの人に知ってもらう大切さも学びました。特に持続可能な開発目標(SDGs)についてはフォトコンテスト、テーマソングのお披露目会など様々なイベントに携わることができました。国連が取り組む課題解決のためにも、まず多くの人が課題を認知することが重要です。その上で、UNICが行っている広報活動に自分も携わり、その大切さを経験することが出来ました。そして、実際に国連で働く方々と出会い、現場でのお話も伺うことが出来たのも、とても貴重な経験となりました。このインターンシップを通し、国連をより身近に感じるようになったと同時に自分の夢をより明確にすることが出来ました。

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Q: なぜこのインターンに応募しようと思いましたか?

Ayako :以前から、どうすれば地球規模での豊かさを実現できるのかという問題意識がありました。環境問題の解決や平和の維持は一朝一夕では実現しない、では私に何ができるのだろうかと模索していたとき、このインターンシップを見つけました。国際機関の取り組みを内部から実感することが、この先の社会と自分の関わり方を考えていく際に貴重なものさしになると思い応募しました。

Soyun: 国際学校から国際関係に興味を持つようになりましたが、大学2年までは漠然と卒業したら国際機関で働きたいと考えていたに過ぎませんでした。3年生の時に交換留学をした際、国際機関に興味を持っている人達に出会うことができ、今から将来にどのような道に進みたいのかを真剣に考えることになりました。これがきっかけで、留学から帰って過ごす長い夏休みの間に国連インターンをやりたいと思い、UNIC Tokyoに応募しました。

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Kaoruko: 私は人生の半分近くを海外3カ国で暮らした経験や学部時代に国際関係を専攻した経験などから、将来は国際機関で働きたいと考えるようになりました。そこで、国連の活動について知るためにUNIC で広報活動に携わり、国連の働きや日本と国連のつながりを学びたい思い、このインターンシップに応募をしました。


Q: What did you find the most challenging?

AyakoI think the most challenging element of the internship was to inform the worldwide problems as not distantly but closely related issues with us. Several experiences from the internship made me reflect on the connection between the UN and the public. I personally assume that many people think works of the UN are not directly linked to their day-to-day lives. Through this internship, I have been convinced that it is significant to think what each of us can do to achieve global goals.

Kyoka: I think the most challenging aspect of the internship was learning how to cater information towards a Japanese audience, that has specific societal expectations in regards to the media they consume. Slight differences in the delivery of these information can have distinct implications, especially because subtlety plays such an important role in Japanese semantics. Through composing social media posts and translating articles for UNIC, I gradually learned how to highlight certain aspects of an event or UN initiative to make the organization more accessible and relatable to the Japanese public. These past three months have allowed me to reflect on the importance and responsiblity that comes with a position that involves disseminating information.

 

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Q: What have you gained from the experience?

Jenny: Spending a summer living and working a 9 till 5 internship in a country that is not home is not without its challenges. However, I have learnt to embrace the challenging aspects. For example, as a foreigner, UNIC Tokyo is a unique place to gain an insight into the role of the UN in Japan, and to understand what causes are particularly important to the Japanese public. I feel like this understanding is something that I can use to help shape my career choices and goals for the future.

Soyun: UNIC is a unique place where I could experience the international atmosphere of the UN and Japanese atmosphere at the same time. Doing office work and communicating with staff members and other interns in English and Japanese taught me what it is like to work in an international office. I also had an opportunity to meet Japanese UN staff members from different areas of work and different UN offices. Listening to their stories was a meaningful opportunity for me because the experiences they spoke of cannot be earned without working at the field. It motivated me a lot to consider wokring at an international organization.

 

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Q: What advice would you give to future international applicants?

Jenny: Before applying, think carefully about why you want to do the internship and what you want to gain from it. This will help you make an impression during the interview, and also allow you to ask the right questions in order to understand whether or not it is the right job for you. A three month internship is a fairly big commitment, particularly coming from abroad, and it does not hurt to be certain before starting. Once you are here, you’ll find that the UNIC office and your fellow interns are easy to get along with, make friends and make the most of being in Tokyo!