国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

スーダンからの退避

 

スーダンで活動中の筆者

【略歴】本多麻純(ほんだ・ますみ) 大学卒業後民間企業での勤務を経て国際協力を行うNGOに入職。東北やハイチの地震被災者支援、シリアやミャンマーアフガニスタンスーダンにおける地雷対策を含む人道支援に従事。休職中、2017年から2019年までスウェーデン、ウプサラ大学にてロータリー平和フェローとして平和紛争修士号を取得し、卒業後一年間は同学部で研究助手およびロータリー平和センターのコーディネーターとして勤務。2021年10月より国連地雷対策サービス部(UNMAS)スーダン事務所プログラム・マネージメント・オフィサーとして勤務。

※クレジットのない写真は筆者提供

 

Family Duty Station(家族随伴が許可されている赴任地)での戦闘

「明日、一人15㎏までの荷物をまとめて集合場所に集まってください。翌日未明に陸路での退避を開始します。」

ようやく出された退避命令。スーダンの首都、ハルツームで激しい戦闘が始まった4月15日からちょうど一週間経った金曜日のことでした。

戦闘開始からの7日間、私は夫と子どもと共に自宅のアパートで、近づいたり遠のいたりする銃声や空爆音に恐れおののきながら、家に残っているわずかな飲料水、食料そして発電機用の燃料を節約しながら籠城していました。人生で一番長く感じたこの7日間に息子は7歳になりましたが、やっと馴染んできた現地の学校の友達を招いたささやかな誕生会の計画は言うまでもなくキャンセル。ごちそうもプレゼントもない誕生日、家族3人で生きてこの状況を脱出することを祈り、「安全な場所に行ってから必ず誕生会をやり直すからね」と約束して過ごしました。

戦闘開始直後に市内の国際空港が爆破され、あっという間に空路退避の可能性は断たれました。近隣都市にある国内線空港も占拠され、そこへ行くための経路が戦闘でふさがれていました。そして、合意しては反故にされる休戦協定の知らせに退避への希望が薄らいでいきました。連日行われる国連の調整会議では、食料や水、また通信手段が尽きてきているという職員の状況が共有され始め、退避に向けた具体的な方策も見えておりませんでしたが、最終的に、700人を超える国連職員や国際NGO職員、外交官、その家族など希望者全員を陸路で一斉に退避させるという、半ば、賭けのような決断が下りました。

首都ハルツーム、アル・タイフ地区で爆発の後に立ち上る煙 ©Open Source

やっと脱出できる。しかし、私たちは自家用車もなく、近隣の戦闘音は鳴りやみません。逃げようとした外国人や地元スーダン人でも、兵士に荷物や車を奪われたり、暴行されたりというニュースがすでに飛び交っており、どうやって国連職員の集合地点に行くかが問題でした。そんな中、UNMASの同僚が私たちの救出作戦に手をあげてくれました。彼の自宅から私のアパートまで2キロメートル強。よく仕事帰りに送ってくれた経路ですが、今は武装した兵士であふれる危険な道のりでした。

地雷や不発弾などの爆発物処理の専門家だけあって、防護服をまとい、UNロゴの入ったブルーヘルメットをかぶり、私たちを迎えに来てくれた同僚のその姿はまさにヒーローでした。同じ10キログラムもする防護服とヘルメットをもう一セット持ってきていて、「ちょっと我慢してね」と言いながら息子に着せてくれました。

問題だらけではあったものの住み慣れた家にたくさんの思い出の品、なけなしの財産すべてを残して、ようやくの出発です。私たちがいるからと、自分も避難せずに留まってくれたアパートの管理人には、手元にあったスーダンポンドの現金を渡し、お礼を言って別れました。車に乗り込み、安堵の気持ちと同時に、緊張も高まります。

 

緊迫するチェックポイントを抜け800キロを移動

往路では12ヵ所のチェックポイントを潜り抜けてきたとのこと。難なく通過できたから大丈夫だと同僚は言います。途中、散弾銃で打ち抜かれた住居を横目に、次から次に出てくるチェックポイントをやり過ごします。武器を持った兵士に怪しまれないよう、あえて窓を開けて両手を出すよう言われ、その通りにしていました。

退避中の車中から。前方には隊列をリードする車両が並ぶ

中間地点を超えたころ、あるチェックポイントを通り過ぎようとしたときに呼び止められました。心臓が止まりそうになりながらも、平静を保ちつつ、兵士の命令通り車を降りました。防護服が重たく、自力で出られない子どもに手を貸します。英語がまったく通じず、何を言われているのかわからないまま、3人の兵士に銃口を向けられ、ひざまずくよう命じられ、私たち一人ずつの入念な身体検査が始まりました。すべてのポケット、リュックサック、車に積んでいた荷物もくまなく手を入れられました。子どもの防護服の内側までしらべていました。また、途中、近隣で交わされる銃撃戦の音がこだまし、私たち大人3名がひざまずいた状態のまま、子どもだけ数歩大人たちから離れたところへ誘導されたときは、一瞬、すべての終わりが頭をよぎり、深い恐怖に襲われましたが、金目の物と携帯電話を盗りきると、他の荷物をしまって行けと合図されました。

このとき、子どもの荷物には、昨年のクリスマスにサンタクロースからもらったロボットのおもちゃが入っていて、それを取り出した兵士がそのおもちゃを不思議そうに調べ「これは何だ?」とジェスチャーしていました。きっとロボットのおもちゃなんて手にすることのない幼少期を過ごしたのでしょう。また、兵士にしては皆とても華奢な体つきでした。彼らももしかしたら少年兵だったのかもしれない、などと想像しながら、なんとか命が助かってよかったと胸をなでおろしつつ、止まらないアドレナリンラッシュに身を任せるしかありませんでしたが、私たちをわずかな時間拘束した彼らが今ここに至った経緯について思いを巡らさずにはいられませんでした。子どももさぞかし怖かっただろうと、抱きしめ、「じっと静かに我慢していて偉かったね」とその勇気を心からほめたたえました。

その後、長い、長い5キロメートルの移動の末、他の国連職員や国際NGOの職員などが集う集合地点に到着しました。普段、仕事のミーティングや休日のカフェなどで見知った顔も、皆避難生活に疲弊しきっていました。お互いの無事を喜び、苦労をねぎらいあいながら、翌日の長旅に備えてしばしの休息をとります。翌朝未明、何十台もの大型バスやミニバス、その他数えきれないほどの車両で隊列を組み、800キロメートルを超える陸路での大移動が始まりました。途中、様々なトラブルはあったものの、大きな事故はなく、全員無事に一次退避先であるポートスーダンにたどり着くことができ、そこからは各自国外の目的地に向けて、旅立っていきました。

ポートスーダンに到着し、ヴォルカー・ペルテス国連事務総長特別代表(SRSG)兼国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)代表(当時)が皆に慰労と激励の言葉をかける

このとき、私たちを含む邦人やその家族四十数名は、日本政府が用意してくれた輸送機に乗り、いち早くスーダン国外への脱出がかないました。調整に奔走してくださった在スーダンおよび在ジブチ日本大使館の職員のみなさま、また自身も被災しながら退避邦人の心身の健康を最優先してくださったスーダン大使館医務官の先生に心より感謝申し上げます。

 

スーダンの今

邦人の退避が完了してから日本での報道がめっきり減ってしまったスーダンでの紛争。激しさを増しながら今でも続いています。直近の報告では、4月15日以降、550万人が避難を余儀なくされました。このうち110万人は国外へ逃れ、チャドやエジプト、南スーダンなどの近隣諸国で難民となっています。残りの440万人は、国内でより安全な場所に移り、劣悪な環境にあるIDP(国内避難民)キャンプなどで暮らしています。

これまでも民族紛争が絶えず、低開発に苦しんできたスーダンでは、多くの国連機関やNGO人道支援や開発支援を行ってきていました。さらに、気候変動の影響にも脆弱であるため、干ばつや豪雨の被害が著しく、国民の多くが大規模な食糧支援や生計支援に頼ってきていました。

2021年に完成した地雷対策研修センター。日本の支援への感謝が示されている。

今回は、これまでの紛争や人道危機と異なり、首都ハルツームが激戦地となりました。それにより、これまで支援を実施してきた国連機関やNGOのほとんどが一時的に機能不全に陥ってしまい、人道危機はより一層深刻さを増しています。10月現在、援助機関は現地での活動を再開しつつありますが、それでも各地で続く戦闘と日々悪化する人道ニーズを前に、必要とされる支援のほとんどが届けられていません。

 

おびただしい数の不発弾

私が所属する国連地雷対策サービス部(UNMAS)は、能力強化や資金調達、またプログラム運営支援などを通じてスーダン政府が実施する地雷対策活動を支えてきていました。また、2021年以降は国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)の一部として、文民保護や平和構築の分野において、ミッションの活動も支えてきました。国際連合安全保安局(UNDSS)と協力して、新しく赴任した国連職員やNGOスタッフを対象に爆発物リスクに関する安全研修を実施したり、他組織の依頼を受けて道路に地雷・不発弾の危険がないかを調査するなど、スーダンで活動する援助関係者の安全を守る重要な役割を果たしてきました。

地雷探知機の機能を点検するUNMAS職員

前述の通り、スーダンでは、独立した1950年代以降、数年から数十年にもわたる紛争が何度も繰り返されてきました。これらの紛争で使われた地雷やその他の爆発物による汚染を、2002年以降20年以上かけて取り除き、実に138平方キロメートルを安全な土地に戻し、復興・開発を可能にしてきました。残りの汚染地域は約33平方キロメートル。2027年までにすべての地雷を除去し、「地雷のない”mine free”スーダン」を実現しようと、計画を練り直したところでしたが、今回の紛争で多くの兵器が使われ、おびただしい数の不発弾が新たな汚染を生んでいます。

西ダルフール州にある世界食糧計画(WFP)事務所の敷地内で見つかった不発弾。
UNMAS職員が危険サインを立て除去。

現在特に懸念されているのは、戦闘の舞台の多くが、ハルツームを含む都市であることです。人口密度の高い都市部で爆発性兵器が使用されることによって、攻撃対象だけでなく、多くの民間人が被害を受け、また住居や上下水、電気、ガスなど生活インフラ、そして病院や学校などの公共施設が破壊されます。将来停戦合意がなされ、市街地に残された不発弾を処理する際も、住宅街やインフラ設備の中や付近に残された不発弾を、周辺の住民を危険にさらさず、また建物崩壊など二次被害を起こさずに安全に処理するためには、これまでスーダンでは必要とされなかった特殊な技術と経験が必要です。

スーダン初の試みとして女性の地雷除去員を育成する研修での卒業式の様子。
(2021年12月)

さらに、今回の紛争が始まるまで地雷や不発弾のリスクにさらされていなかったこれらの都市部に住む人々は、爆発物の回避教育を受けたことがありません。スーダンの国内外に避難している人々のうち7割以上がハルツームから逃げてきていますが、こういった人々が、不発弾で溢れる街に戻るとき、また避難先で地雷原や不発弾を目にしたときに安全な行動をとれるよう、今、回避教育を行うことが喫緊の課題です。

今年9月に行われた爆発物危険回避教育の様子

スーダンに平和を

19世紀前半以降エジプト、イギリス、そしてイギリスとエジプト両国による征服、植民地支配が続き、独立運動を経て1956年に独立したスーダンですが、その前年1955年には北部と南部の内戦が始まり、20年以上続きます。その間にも、何度も軍事クーデターが繰り返され、1983年には第二次内戦が開始。そして2003年には「21世紀最初の大虐殺」とも呼ばれるダルフール紛争が起きます。2005年の南北和平合意を経た2011年の南スーダン独立後も、スーダン国内では、ダルフール紛争を含む、民族や宗教といったアイデンティティを軸とした紛争が各地で続き、無数の民間人が犠牲になっています。

2019年、スーダンは歴史的転換点を迎えます。民主化を求める市民のデモを背景に、軍部がバシール大統領を拘束・解任し、30年以上続いた独裁政権が終焉を迎えたのです。翌年2020年には、ジュバ和平合意が結ばれ、(一部を除く)主要反政府勢力とスーダン政府間の和解が実現しました。しかしながら、待望された民主主義と平和をスーダンの人々が勝ち取ろうとしているまさにそのとき、さらなる軍事クーデターが起き、民政移管を進めていた暫定政府が国軍に乗っ取られる形となりました。全国で、民衆による抵抗運動が展開しましたが、治安部隊によって激しく鎮圧されていきました。

この間、国連含む国際社会は、クーデターを糾弾しつつも、スーダンが、一度乗りかけた民主化に向けたレールに戻れるよう、軍隊を含む各方面のアクターと対話や調整を進めていました。その結果暫定文民政府設立のための枠組みが2022年12月に合意されたのですが、それも束の間、わずか4ヵ月後に激しい戦闘が始まってしまいました。

今回退避では、とても怖い思いをし、たくさんのものを失った私たちですが、家族や友人を奪われ、生まれ育った家や財産、仕事を失い、さらに民主化と平和への希望を踏みにじられたスーダンの人々の怒りと悲しみはいかばかりか。一日も早く、停戦が合意され、人々の安全が守られることを願ってやみません。そして、スーダンに真の平和が訪れ、人々が、肌の色や部族、宗教、性別やジェンダーによって命を奪われたり、住む場所を追われたり、基本的人権を否定されたりすることなく、豊かで尊厳のある生活を送れる社会が実現されることを強く願いつつ、今は、爆発性兵器による被害が少しでも減るよう、日々の業務に努めてまいります。

休暇中に家族で訪れたスーダンのピラミッド。
平和が訪れ、再びこの美しい風景を見ることができますように。