「わたしのJPO時代」第15回は、WFP 国連世界食糧計画(国連WFP)南部アフリカ地域局のプログラム・アドバイザー、浦香織里さんのお話をお届けします。JPO時代に築いた人脈のおかげで国連WFPから2度の短期契約と正規職員のオファーを受け、働くチャンスに恵まれた浦さん。JPO時代に担当した現金・バウチャーの分野が国連WFPで主流化されたことを受けて、浦さんはこの分野を担う職員になっています。様々な障害を粘り強さで突破してきた軌跡を綴ってくださいました。
WFP 国連世界食糧計画(国連WFP)南部アフリカ地域局プログラム・アドバイザー
浦 香織里(うら かおり)さん
~国連機関で働く夢への道 JPO制度でつかんだ機会~
2001年Wesleyan University卒業、2002年London School of Economics国際関係学修了。大和証券SMBC、ゴールドマン・サックスにて、投資銀行業務に従事。その後、NGOのJEN(東京、レバノン、南スーダン)にて主に緊急人道支援に従事した後、国連WFPギニアビサウ事務所にてモニタリング、国連WFPモザンビーク事務所にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムを担当。その後、在カメルーン日本大使館にて経済協力を担当、国連WFP西アフリカ地域局にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムのアドバイザーを担当。JICAセネガル事務所(農業・農村開発担当)、国連WFPローマ本部(現金等による支援に関連したシステム担当)を経て、2014年より現職。
国連職員を目指そうと思ったのは、高校生のとき、電車の中吊り広告で、国連職員のキャリアパスが説明された本を見かけたのがきっかけでした。当時、1年間アメリカの高校での交換留学を経験した後だったこともあり、英語を生かして、何かだれか人のためになる仕事ができないかと漠然と考えていたのですが、この広告を見たときに、やっと自分のやりたいことが具体的な職業として見つかったと直感したことを今でもはっきり覚えています。そしてその本の中に、JPO制度についても記載があり、いずれはJPOを受けようと決心しました。
そしてその本にJPOに受かる人たちは、英語圏での学士又は修士を取った人が大半であるという記載があったために、思い切ってアメリカの大学に進学することを決め、その後イギリスの大学院で修士も取得しました。しかしいざ国連機関や国際的なNGOの仕事に就こうと就職活動をしてみると、応募書類をたくさん送りましたがどこにも当たらず、面接にも呼ばれない状況でした。親にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないと思ったことと、日本のNGOの求人広告には「職務経験最低3年」という記載があったことから、とりあえず職務経験3年の条件をクリアするために、いずれは援助の仕事に就きたいと願いつつ、まずは民間企業へ就職をすることにしました。
JPO時代、モザンビークにて。国連WFPのバウチャー(食糧引換券)を使用した受益者から聞き取り調査を実施(著者提供)
第一希望ではない仕事でもとりあえず3年はいなければ大した学びにもならないだろうと思い、3年は頑張ることにしました。そして日本にある投資銀行で合計3年働いた時点で、転職活動を開始しました。そこで幸いにも日本の人道支援NGOのJENで働く機会を得ました。初めは東京でのドナー(支援者)対応、その後レバノンでの人道支援、それから南スーダンでの人道支援に携わることができました。JENの先輩方からは、人道支援のいろはを教えていただき、大変いい経験になりました。
JPO試験は、民間企業からの転職活動時に受験をしていたのですが、JENで働き始めて1年ほどたって合格が決まりました。JENでの仕事も大変有意義なものでしたので悩んだのですが、せっかくのチャンスでしたので、オファーを受けることにしました。その時点であまり自分の学位や経験に専門性がありませんでしたので、人道支援の中でもあまり専門性が問われず、また国際機関を良く知る方から効率的でいい仕事をしているという話を伺っていた国連WFPを志願しました。
モザンビークにて。食料品を買うための現金がチャージされたカードを配布 (WFP/Marta Guivambo)
JPOでは、国連WFP ギニアビサウ事務所にモニタリングと評価担当のプログラム・オフィサーとして赴任しました。しかし、当時の上司の方とあまりうまくいかなかったことなどもあり、2年目には国連WFPモザンビーク事務所に赴任地を変更することになりました。
モザンビークでは、現金やバウチャー(食糧引換券)を使ったプロジェクトの担当のプログラム・オフィサーになりました。当時はまだ国連WFPにとってこの分野は新しい試みで、国外で食糧を購入した後に船やトラックを使って食糧そのものを届ける従来のやり方よりも、現金やバウチャーを支援対象の方々に配って地元のお店で使っていただき食糧を調達してもらうほうが、地元の経済のためになることや、支援を受ける人々がそれぞれの世帯に見合った支援物資を選べることができるという点で利点があることから、試験事業を数カ国で実施している時期でした。特に国連WFPのガイドラインもまだ策定されていなかったので、数少ない学術論文やNGOが作成しているガイドラインを見ながら勉強し、都市部での現金の配布、都市部でのバウチャー、農村部での現金の配布等のプロジェクトを立ち上げて実施しました。
モザンビークでは今でも大変尊敬する非常に優秀な上司にも恵まれ、私のパフォーマンスも高く評価していただき、とても充実した日々を送りました。JPO派遣期間の3年目の延長についても、国連WFPモザンビーク事務所側が経費を半額負担しなければならなかったのですが、問題なく承認されました。
ジンバブエにて。WFPから配布された現金で食糧を購入する女性 (WFP/David Orr)
JPO後、国連WFPで引き続き職務を続けたかったのですが、人事ルールがその年変更となり、内部の職員にしか応募できないポストにJPOが応募できなくなったこと、そして私の担当分野では外部者が応募できる空席が出なかったことから、国連WFPでの正規職員としての採用には至りませんでした。
国際協力分野の仕事を探したところ幸いにもカメルーン大使館での経済協力担当の書記官のお仕事が見つかりしばらく勤務させていただいていたのですが、1年もたたないうちに国連WFPの時に知り合った本部の現金・バウチャーの担当部署の方から直々にお電話をいただき、西アフリカにある国連WFP地域局でのこの分野でのアドバイザーのポストの打診がありました。モザンビーク時代に、現金・バウチャーに関する会合がローマ本部であり、その場で自分が立ち上げた事業のプレゼンをさせていただいていたことで、その方が私のことを覚えていてくださったのがきっかけだったようです。短期契約だったのですが、やはり自分が興味のある人道支援分野でキャリアを伸ばしていきたいという思いから、このオファーを受けることにしました。
西アフリカ地域局では約1年勤務し、その後短期契約ということもあり、ポストの財源がなくなったことから一度また国連WFPの外に出てJICAで勤務させていただいたのですが、その1年後にまた前回と同じようにまた現金・バウチャーの分野で短期契約のオファーを国連WFPローマ本部からいただき赴任しました。その後まもなく現在の南部アフリカ地域局での正規職員のオファーをいただき、現在に至っています。
ジンバブエにて。バウチャー番号などが書かれたスクラッチカードを用いて食料品の支払をする女性(WFP/Victoria Cavanagh)
国連WFPでのキャリアを振り返ると、JPO時代にたまたま担当した現金・バウチャーの分野での仕事が生かされて、現在の仕事につながっていることは言うまでもありません。この分野が私がJPOで働き始めたころから急成長したことも幸いしましたが、やはりこの時代に出席した会議を通じて築いた人脈や、あまり前例がない時代に実際のプロジェクトを立ち上げた経験は、正規職員のポストを得られた大きな要因となりましたし、今の仕事にも大変生かされています。また当時は国際協力には全く関係のない仕事だと思っていた民間企業での職務経験も、所属部署が企業の買収・合併を担当していたこともあり、多くの関係者の意見を調整・集約するスキルや、契約書交渉のスキルなど、現在の現金・バウチャーの配布事業で生かされていることが多く、人生どんな寄り道をしようとも、その中からも活かされるものがあるものだと感じます。また、大使館やJICAでの勤務でも日本のODA政策や様々な援助スキームを学ぶことができ、現場で日本との具体的な連携を考えていくうえでも役に立っています。
ケニアにて。支援を受ける可能性がある人々に、どんな配布方法が適切か聞き取り調査を実施 (著者提供)
国連機関は組織内で一緒に仕事をした経験のある人たちを採用する傾向が強いことから、JPO制度はそういった機会を与えてくれるという意味で、非常に大事な制度だと思います。この制度がなければ、人脈を作ることもできませんので、過去の2度の短期契約や正規職員のオファーをいただくということも無かったと思います。そういった機会を与えて下さった日本政府と国連WFPに大変感謝しています。