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わたしのJPO時代(13)

「わたしのJPO時代」第13回は、元WFP 国連世界食糧計画国連WFP)のアジア局長、忍足謙朗さんの話をお届けします。偶然にも外務省の方から国連で働かないかと声を掛けられたことからUNDP(国連開発計画)で働き始めた忍足さん。小さなリビアのオフィスで根幹にかかわる仕事を任され、開発分野における国連全体の活動を学ぶ事ができたそうです。

 

                 元WFP 国連世界食糧計画国連WFP)アジア局長 忍足謙朗さん

          ~偶然受けたJPO、ゼロからのスタート~

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                                                    (国連フォーラムより転載)

 

アメリカのバーモント州 School for International Training 大学院にて行政学修士号を取得。修士論文執筆中にサンフランシスコの日本総領事館でアルバイトをしているときに国連職員と出会う。国連開発計画(UNDP)リビア事務所でJPOとしてプログラムオフィサー、国連人間居住計画(UN-HABITAT)ケニア本部でプログラムオフィサーを務める。WFP 国連世界食糧計画国連WFP)ザンビアレソトクロアチアカンボジア、ローマ、コソボ、タイ、スーダン事務所で勤務し、その後、タイ事務所にてアジア地域局長を務める。2015 年から日本に拠点を移し、 国際協力に興味をもつ若い世代の育成に力を入れている。

 

 

今から36年前の1980年、私はサンフランシスコでなかなか進まない修士論文を書きながら、日本領事館でアルバイトをしていました。この先、アメリカに留まろうか、日本に帰って仕事を探そうかとさんざん迷っていた時期でした。そんな時、偶然領事館に立ち寄った外務省の方にJPOを受けてみないかと聞かれたのが、国連で働くことになったきっかけでした。筆記試験はなく、直接ニューヨークの国連開発計画(UNDP)の本部に面接に呼ばれたのですが、UNDPなど聞いたこともなく、当時はネットで調べることもできず、面接を待っている間にあたりに置いてあったUNDPのパンフレットを焦って読んだのを覚えています。今思い返しても、よく受かったなと笑ってしまいます。

 

しばらくして電話がかかってきました。いただいたオファーは北アフリカリビアへの赴任でした。リビアなんてどこにあるのかも知らず、UNDPの仕事の内容も全く想像できませんでしたが、アメリカか日本かと迷っているのに疲れていた私は、思い切ってこの第3の選択肢、アフリカに飛びついたわけです。説明会も研修もなく、契約書と国連パスポートと航空券を発行する旅行代理店の名前が郵送されてきて「サッサと行け」という感じでした。出発前に唯一自分で行った準備は、アラビア語の学校にしばらく通ったことぐらいです。契約はP1の Step 1とプロフェッショナルの中では最低ランクでしたが、まあ当然です。まだ、24歳でした。

 

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                                       愛車でリビアの隣国チュニジアへドライブした筆者

 

リビアで行われていた国連のプロジェクトのほとんどは、リビア政府がオイルマネーで活動費をまかなっており、そこで初めて国連食糧農業機関(FAO)、国連児童基金(UNICEF)、国際労働機関(ILO) 、国連工業開発機関(UNIDO)、 世界保健機関(WHO)、国連人間居住計画(UN-HABITAT)などの国連の専門組織と専門家の存在を知りました。現在のJPO候補者の方達から見たら「まさか」と思われそうですが、そんな無知をあまり引け目に感じることもありませんでした。

 

ゼロからのスタートでしたが、オフィスが小さかったこともあり、私のような下っ端でもプロジェクトの予算管理から政府との調整、次のUNDP5カ年計画の基本デザインまでほとんど任せられ、少し鼻が高かったです。そして初めての国連の職場がUNDPで良かったと思うのは、様々な国連組織との調整が主な仕事だったため、少なくとも開発分野においては国連全体がどのような仕事をしているのかがわかった事です。少し不満だったのは、あまり現場に出る機会がなく、首都トリポリでのデスクワークが中心の仕事だったことで、リビアを探検するのは毎日会うほど仲良くなったパレスチナ人やエジプト人の友人達とでした。

 

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                             2年目のJPOを終え、同僚たちが送別会をしてくれた時の一枚

 

JPOの2年目が終わる頃、UNDPには残れないことがわかり、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と信じて何通もの手紙をいろいろな国連組織に送りつけて、就職活動をしました。おかげさまで、ニューヨークの国連本部とナイロビに本部を持つHABITATからオファーをもらい、アフリカの異なる地域も経験したかったこともあり、HABITATのプログラムオフィサーとしてケニアに赴任しました。楽しい仲間に囲まれて、ケニアも大好きだったのですが、6年ほど仕事をした後、やはり現場で仕事がしたいという気持ちが強くなり、自分には開発支援より結果が(恐らく)見えやすい人道支援の方が向いているかもしれないと思うようになりました。

 

そこで、WFP 国連世界食糧計画国連WFP)に、「何月何日にローマ本部に寄るので会ってほしい」と自分勝手な手紙を書き、それを本部に勤めていたアメリカ人の大学時代の友人に託しました。行ってみると、幹部レベル5、6人との一対一の面接が待ち受けていました。面接を終えて、その同じ日の夕方に国連WFPの人事室に立ち寄ると、「こいつを雇え(Hire him)」と書いてある手書きの紙切れを見せられ、「まだどこで仕事してもらうかわからないけど、君を雇うよ」と言われて、その展開の速さにびっくりしました。

 

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                                            リビアにて、上司の娘さんたちと笑顔の筆者

 

その後は組織を変わることなく、国連WFPに25年勤めたわけですが、食糧支援というわかりやすい活動内容、緊急支援のスピード感、子ども達が笑顔でご飯を食べるのを自分の目で見られるシンプルな満足感がやはり自分に向いていたのだなと思います。初任地となった国連WFPザンビア事務所は小さな事務所で、当時住んでいたケニアから自分の四輪駆動車でキャンプをしながら到着しました。その後、レソトボスニアカンボジア、ローマ本部、コソボ、タイのアジア地域事務所で経験を積み、2006年にスーダン事務所を任せられました。ここは、国連WFPが世界中で使う総予算と職員の4分の1をつぎ込む、当時は世界最大の事務所でした。77国籍からなる300人のインターナショナルスタッフと3000人近い現地スーダン人スタッフと一緒にした仕事は、辛い経験や決断もありましたが、最高にやりがいがあり、本当に楽しいものでした。

 

最後に、国連WFPの人事制度では自分から次に赴任したい空きポストに応募するのが基本ですが、私の場合は少し特殊で、組織から特定のポストを依頼される事が多く、自由にキャリアを組み立てた記憶はそれほどありません。その代わりというわけではないですが、どのポストでもかなり好き勝手にやらせてもらったと感じています。自分のリーダーシップのスタイルは、そういった自由な雰囲気の中で、上司や同僚、もちろん部下からも、様々な考え方を吸収することで、培ったものだと思っています。