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「わたしのJPO時代」(2)

「わたしのJPO時代」第二弾は、国連児童基金(UNICEF)東京事務所副代表の山口郁子さんのお話をお届けします!母親として育児に励む傍ら、NPOや日本政府及び3つの国連機関(UNICEFUNESCOWFP)でキャリアを積まれてきた、力強い経歴の持ち主です。

 

国連児童基金(UNICEF)・東京事務所 副代表 山口郁子さん

~「異例尽くし」のJPO時代を振り返って~

 

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山口郁子(やまぐちいくこ)

国連児童基金 (UNICEF)東京事務所 副代表

国際基督教大学教養学部教育学科卒業後、ロンドン大学教育学研究所大学院国際比較教育学博士前期過程。大学院修了後、(社)日本ユネスコ協会連盟にてプログラム・オフィサー、1996年より国連ボランティアとしてカンボジアユネスコプノンペン事務所に赴任し、成人識字教育プログラムのチームリーダーとして活動する。1998年からはパキスタンイスラマバード日本大使館経済班のチーフNGOアドバイザーとして日本政府草の根無償資金協力の実施に携わる。2002年にJPOとしてUNICEFジュネーブ事務所の緊急支援局着任、のちに同事務所広報官、及び子どもの権利アドボカシー・オフィサーなどを歴任。2006年末にWFP国連世界食糧計画 日本事務所 支援調整官に着任し、日本政府との渉外全般のチームリーダーを勤める。2010年1月よりUNICEFに戻り、現職。日本政府との渉外、パートナーシップ推進、政策アドボカシー及び資金調達の責任者を務める。専門は子どもの権利と教育。

 

私のJPO時代は33歳の時、UNICEFジュネーブ事務所の緊急支援局への着任からスタートしました。UNICEFが活動する150以上の国と地域の人道支援をサポートする部局で、NYと並ぶ本部機能を持ちます。当時、JPOはフィールド派遣が基本でしたが、私はその直前パキスタンカンボジアに5年間勤務し人道支援も経験していたこと、4歳の娘がいたことが考慮されての派遣となりました。派遣先決定の際は在ジュネーブ日本政府代表部外務省人事センターにサポートしていただきました。JPOは、家族や人生設計を考えると応募をためらう方も多いと思います。でも、やりたいという気持ちがあるなら、とにかく応募してみて、その過程でベストな派遣先やキャリアパスを探していくことも十分可能です。私自身そんな一人でした。

        

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UNICEFジュネーブ事務所広報官時代。スーダン北部でUNICEFが実施する遊牧民の移動式小学校のプロジェクトの広報・資金調達のために2週間にわたり遊牧民のコミュニティを取材。

 

緊急支援局ではフィールド・サポートを担当し、緊急事態が発生した際に、国や地域に必要な人・物資・資金などの支援を確保するという業務に携わりました。スピードと調整能力が必要とされ、赴任当初は電話会議で飛び交う略語だらけの会話に圧倒され、何が起きているかを把握するのがやっとでした。でも緊急支援という重圧によって、かなり早く仕事を覚えたと思います。この仕事は職員数1万人を超えるUNICEFの全体像が学べる貴重な体験でもありました。また、国連人道問題調整事務所(OCHA)との「機関間常設委員会 [Inter-Agency Standing Committee (IASC)]」に関わる業務も担当し、人道支援の横断的な調整の仕組みも学びました。

心に残っているのは2003年のイラク戦争で、特徴的だったのは3月の有志連合軍によるイラク侵攻が「事前に予測できる危機」だったことです。緊急支援は不測の事態に備える大切さは叫ばれていても、実際は事後対応に追われるのが常ですが、この時は戦争回避に向けての交渉を進める国連の努力と並行して、人道機関が一丸となって物資の予備配置などの準備活動を展開しました。ドナーから準備段階への多額のご支援も得られました。今年3月には第三回世界防災会議が仙台で開かれましたが、事前の備えへの投資の重要性が強調されるたびに、この当時のことが思い起こされます。

イラク戦争は世界中が固唾をのんで見守っていたので、メディアへの対応が重要でした。緊急支援局は広報局と、ジュネーブ国連本部定例記者会見で発信するメッセージを毎日打ち合わせます。その業務を通じて、当時の在ジュネーブUNICEF報道官が、JPOの二年目は自分の下で働いてみないかと声をかけてくれました。JPOの途中での異動は一般的でなく、緊急支援の仕事も学びが多く迷いましたが、日本政府からせっかく与えられたJPOの派遣期間に、吸収できることは全てしようと思い異動を願い出ました。この時も在ジュネーブ人事センターにはサポートしていただきました。改めて振り返ると異例尽くしのJPOだったようですが、私の希望を支え応援して下さった皆様には今でも感謝しています。

 

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UNICEF東京事務所から日本政府が支援するアフガニスタン中部ダイクンディ県首都ディリのコミュニティ妊産婦養成学校や小学校などを視察。アフガニスタン事務所の同僚と国連のヘリで移動中。

 

異動後は半年の延長を含めJPOを一年半務め、任期が終了した後は正規ポストで広報官に採用されました。スマトラ島沖地震ダルフール危機もあり、子育てをしながら時はあっという間に過ぎ、その後はUNICEFを一旦離れ世界食糧計画(WFP)に移りましたが、再びUNICEFに現職で戻ってきました。最初のフィールド勤務の時に授かった娘は今年17歳になりました。

実は、私の本来の専門は教育と子どもの権利だったので、当初緊急支援や広報というポストには不安もありました。でもJPOという立場だったからこそ新しい分野の仕事にも挑戦できました。予測不可能だったキャリアパスを振り返れば、専門である子どもの権利にも一貫して関われていますし、JPOがきっかけで携わった広報や渉外・資金調達の仕事もその後のキャリアに大きく影響しました。UNICEFでは途上国での活動が組織の根幹ですが、ジュネーブの仕事も私には鳥瞰図のように組織全体を見る目を養ってくれた貴重な経験となりましたし、経験したこと全てに無駄なことや回り道はなかったと痛感しています。