国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

国連加盟60周年記念行事サイドイベント 【写真パネル展・動画上映 オープニング・セレモニー】

            -今年は日本の国連加盟60周年-

12月12日、日本の国連加盟60周年を記念する「国連と日本の歩みを紹介する写真パネル展覧会・動画上映会」のオープニングセレモニーが国連大学で開催されました。国連広報センターを含む8つの国連諸機関と外務省の代表が一同に会し、60周年の記念すべき節目を大いに盛り立てました。この写真パネル展覧会・動画上映会(12月12日~22日開催)は、国連加盟60周年記念行事(12月19日)のサイドイベントとして実施されたものです。

 

テープカットは、日本に事務所を構える国連諸機関が一つになって日本政府と日本の人々に感謝を表し、さらには日本と国連との連帯感を多くの方々と共有する機会にもなりました。

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外務省からは、水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官(左から5番目)。国連諸機関からは(左から)、スティーブン・アンダーソン 国連WFP日本事務所代表、国吉 浩 国連工業開発機関東京事務所所長、木村 泰政 UNICEF東京事務所代表、沖 大幹 国連大学上級副学長、根本 かおる 国連広報センター所長、ダーク・ヘベカー 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日代表、田口 晶子 国際労働機関(ILO)駐日事務所代表、ンブリ・チャールズ・ボリコ 国連食糧農業機関(FAO)駐日連絡事務所所長。©UNIC Tokyo

 

その後、外務省の水嶋光一 総合外交政策局審議官と、国連を代表して開催場所となった国連大学より 国連大学上級副学長の沖 大幹が挨拶を行いました。

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                      水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官〔大使〕©UNIC Tokyo

国連に加盟し、国際社会に本格的に復帰したあの1956年から60年。水嶋審議官は、今まで日本が歩んできた長い道のりを感慨深く振り返ると共に、国際的な平和と安全をはじめとする国連の目的に基づいて、日本は今後も重要な役割を果たして行きたい、と述べました。

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               沖 大幹 国連大学上級副学長 ©UNIC Tokyo

次に、開催場の国連大学及び国連諸機関を代表して、今年の10月に国連大学上級副学長に就任した沖教授が挨拶に立ちました。副学長は「唯一日本に本部を置く国連機関として国連大学は、シンクタンクの役割をより一層果たし、日本と世界の両方に貢献していきたい」と述べました。

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写真パネル展覧会・動画上映の開催を記念し、テープカットを行う根本かおる国連広報センター所長 (右から2番目)©UNIC Tokyo

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外務省による「日本と国連の歩み」のパネルコーナー。日本の国連加盟から今日までを歴代の総理大臣や、国連で活躍してきた日本人職員らの写真と共に振り返ることができます。©UNIC Tokyo

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国連諸機関の活動紹介パネルも設けてあり、国連広報センターからは、今年実施した「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの優秀作品などを紹介 。また、来月NHK総合(1月3日)とNHK WORLD(1月22日)で放送予定の番組 「世界のハッピーを探して ~若者たちのフォトコンテスト~」の宣伝チラシにも、多くの方の関心が寄せられていました。©UNIC Tokyo

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                   学生フォトコンテストの優秀作品とSDGsについて説明をするインターン ©UNIC Tokyo

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 イベントの最後には、外務省と国連の職員らで、SDGs達成に向けた連携を確認しました。©UNIC Tokyo

 

映画『母と暮らせば』を通じて、長崎から平和について考える

国連広報センター所長の根本です。日本の国連加盟60周年の今年は、いつにも増して国連と日本の歩みの「これまで」と「これから」について思いをめぐらせています。

 

国連総会が1946年に採択した第1号決議は、広島・長崎への原爆投下によってもたらされた惨禍を受けて、原爆を含む大量破壊兵器の廃絶を目指すものでした。以来、核軍縮国連の重要課題であり続け、日本は1956年の国連加盟以降、3人もの軍縮担当の国連事務次長を輩出し、国連軍縮会議を1989年からほぼ毎年日本でホストし、今回で26回、長崎での開催は3回目となります。

 

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長崎原爆資料館に足を運ぶ海外からの国連軍縮会議参加者。長崎で実際に起きた被爆の惨状を肌で感じる。(外務省提供)

 

今年の国連軍縮会議は、核兵器禁止条約の交渉と2020年のNPT再検討会議にむけたプロセスが来年から始まるのを前に12月12日から長崎で開催されました。11日にはそのプレイベントとしてユースをまじえたスペシャルなイベントがあり、私も出席しました。

 

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         日米露のユース非核特使による声明と提言(外務省提供)

 

日米露のユース非核特使による提言の発表と活動報告、さらには長崎の原爆投下で一つ一つの家族にどんな悲しみが生まれてしまったかを描いた映画『母と暮らせば』の上映という盛りだくさんのプログラムで、上映のあとには、本作を監督した山田洋次さん、主演の吉永小百合さん、日米のユース代表、映画のストーリーを形作る上で自身の証言を提供した土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表という、世代と国境を越えた豪華な顔ぶれでのパネルディスカッションを行い、その進行役を務めました。会場となった長崎大学では、原爆投下で900人近い学生や職員が亡くなっています。

 

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パネルディスカッションの様子(左から根本かおる国連広報センター所長、山田洋次監督、女優吉永小百合、土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表国連アジア太平洋平和軍縮センター(UNRCPD)提供

 

1945年8月9日午前11時2分、主人公の長崎医科大学に通う福原浩二(二宮和也)は長崎の原爆で跡形もなく被爆死。それから3年後、その助産婦を営む母・伸子(吉永小百合)のもとに原爆で被爆死したはずの浩二が亡霊となって現れる…というストーリーです。丁度一年前、原爆投下から70年の昨年12月12日に封切りになった『母と暮らせば』。東京で見ていましたが、舞台となった長崎で観賞し、ひときわ胸に迫るものがありました。

 

パネルディスカッションでは、まずユースから感想を語ってもらいました。登壇した長崎大学の河野さん(ユース非核特使経験者)は「息子の浩二が長崎大学で夢を追いかけるために勉強しいてるのが自分と同じ立場、その中で家族が支えてくれて愛する人がいる。71年前も今も同じ世界で生きていたと感じました。その世界が、1つの核兵器によって一瞬でなくしたことは、核兵器はいかに愚かなものかと感じました。モンゴル、中国、韓国を訪問して若者に非核を伝えてきました」、アメリカのキンバリーさん(ユース非核特使)は「間違った兵器を正しく使える、ということはありません。非人道性、核兵器廃絶は大きいテーマだけど、1人1人の問題とするとシンプルに感じました」と振り返りました。

 

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   長崎大学の河野さん(右)とアメリカのキンバリーさん(左)が映画の感想を述べる(外務省提供)

 

これを受けて、山田監督は「長崎大学の学生の浩二が死んでしまった話ですが、こういう悲劇が第2次大戦中、何百万どころでない犠牲者1人ひとりにあったのだと想像してもらいたかったからです」と映画制作の動機を語りました。さらに、「愛する人と暮らして子供を作るということが、ついえてしまった。それは世界中の人にとって共通の悲劇です。僕ら戦争を経験した世代は、それを伝えていくのが責務だと思います」と自らの気持ちを強調しました。

 

国内外で原爆詩の朗読を行っている吉永さんは、「核兵器を廃絶するため、もっと声を出して世界に向かってアピールしなくてはいけないと撮影中に感じていました。海外での朗読詩の活動は、これまでオックスフォードやシアトルでもやったことがあり、今年5月にバンクーバーでも行いました。そこで彼らが本気で考えてくれていることが伝わり、胸が熱くなりました」と思いを語るとともに、核兵器の廃絶にむけた動きに関係国の間に大きな溝があることについて「核の廃絶に意見が一致しないのが悲しいが、あきらめないで声をだして、核のない世界にしようと言い続ければ、きっと実現すると願っています。小さな力だけど行動したいです」とも述べました。

 

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  山田監督(左)と主演の吉永小百合(右)が本作と核兵器廃絶に対する思いを語る(外務省提供)

 

外務省の武井政務官は「戦後70年、伝えることができにくくなっています。語り部が10年後どうなっているかと思うと映画に残してもらえてありがたいですし、伝えていかねばなりません。こういう時だから日本から唯一の被爆国として世界に訴える重要性を考えています」、キム国連軍縮担当上級代表は「若い世代が核兵器を作ったのではありません。核兵器は古い世代により作られたもので、若い世代にこそ廃絶にむけたリーダーシップをとってほしい。我々は核兵器を廃絶させる責務を負っています。そこに行き着く道筋が難しいですが、来年から新たな交渉をします。多くのプロセスがありますが、各国と話し、理解し敬意を払い目標に向かいたい。誰でも、どの国でも話し合いで解決しないことはないと思います」と述べました。当時長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の学生だった土山元学長は、「核兵器廃絶には理論と感性の両方が大切で、理論が難しくなったときには、感性に訴えるということが有効で、見終わってしみじみと原爆の非人間性、戦争の不条理を考えさせられました」と語りました。

 

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  武井政務官(左)とキム国連軍縮担当上級代表(右)が映画を受けて感想を述べる(外務省提供)

 

締めくくりには、吉永さん、山田監督からそれぞれ「若者のつながりについても心強い。白熱して話し合って、世界の若者が心つないで、1日も早く核廃絶がきてほしいです。ぜひお願いします!」「「絶望するのは簡単。若者が情熱的に議論したと聞いて、希望を抱きます。ぜひがんばって」と若者へのエールが送られました。

パネルディスカッションという場を通じて世代を越えてバトンが渡される瞬間に立ち会えた - 司会をしながらそう手ごたえを感じました!

 

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         ユース代表とパネルディスカッション登壇者による写真撮影(外務省提供)

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イベント後、興奮さめやらぬ中、キム国連軍縮担当上級代表(左)と山田監督(中央)と写真を撮る根本かおる所長(右)(外務省提供)

 

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (7)

黒田順子(くろだ みちこ)さん

 

国連の本部と現場の狭間で、結果を出すために奔走した日々-

 

第7回は、国連機関で30年に及ぶ勤務経験を持つ黒田順子さんです。東ティモール国連平和維持および平和構築活動に官房長(Chief of Staff)として携わった経験を中心にご紹介します。国連の調停者(メディエーター)の資格を有する黒田さんは、その知識を応用することにより紛争予防にも貢献するなど、東ティモールの平和づくりに尽力されました。現在は、米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員として紛争解決、国際交渉、国際安全保障の授業を担当し、若い世代にご自身の培われた経験を精力的に伝えていらっしゃいます。  

 

                第7回:  国連平和維持および平和構築活動 元官房長 黒田順子さん

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【1974年、津田塾大学国際関係学科卒業。1978年、ベルギーのカソリックルーバン大学で修士を取得。ジョージタウン大学大学院とジュネーブの高等問題国際研究所に留学し、1980年に筑波大学大学院で修士号を取得。ジュネーブの国際労働機関(ILO)、国連欧州本部を経て、ニューヨークの国連本部事務局に転勤。マネージメント・アナリスト、評価、監査の仕事を経て、PKO局に移動。国連平和維持活動に関する業務、オンブズマン室で職場の紛争管理の仕事を歴任。2004-2006年、国連東ティモール平和維持及び平和構築活動(UNMISET/UNOTIL/UNMIT)で官房長として勤務。2007年より国連本部に戻り、能力開発プログラム(Capacity Development Programme)の特別シニア・コーディネーター。2010年からはコンサルタントとして国連に勤務。2011年から米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員を務め、現在に至る。2016年から、国連のエグゼクティブ・コーチとしても活躍】

 

国連職員になるきっかけ

 

中学、高校生の頃、日本はなぜ第二次世界大戦に参加したのだろうかということに疑問を感じていました。やがて社会科の授業で国際連合のことを知り、国連憲章や人権宣言を学んだ際には、世界にはこのようなこともあるのかと感動しました。もともと将来は医者になりたかったのですが、父親に説得されて断念し、大学では国際関係学科に進みました。そんなわけで大学時代は反抗期で、あまり熱心な学生ではありませんでした。それでも国際法だけはとても面白いと思い、勉強しました。卒論を書くために国連総会の決議文を探す必要があり、図書館で見つけた時には、身体が震えるほど興奮したのを覚えています。そして、いつかは国連で働きたいと考えるようになりました。卒業後は米国企業に就職したものの、仕事内容には満足していませんでした。

 

そんなある時、国連での勤務経験を持つ大学教授にこう言われました。「国連で働きたいのなら、修士を取りなさい」。私は奮起し、偶然にも新設大学院での募集を見つけて応募したところ、入学が叶ったのです。大学院時代には奨学金を得て、ベルギーや米国、スイスへの留学も果たしました。一心で勉強し、外務省のアソシエート・エキスパートの試験に合格したのは29歳の時でした。ジュネーブの国際労働機関(ILO)での勤務を皮切りに、私の国連でのキャリアが始まったのです。その後、ジュネーブ国連欧州本部に移り、ニューヨークの国連本部に転勤となりました。PKO活動の現場で勤務した約2年も含め、およそ30年にわたって国連機関に勤務しました。

 

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          ニューヨーク転勤後、国連本部の前で、家族と共に(1992年)

 

ニューヨーク国連本部での勤務 ― 政策決定に参加する醍醐味を知る

 

最も印象に残っている仕事は、国連の平和維持及び平和構築業務に、本部と現場の双方で携わったことです。2001年から2003年まではニューヨークのPKO局で、PKO業務を強化する仕事に関わりました。冷戦時代に安全保障理事会が麻痺していたことの反動から、当時はPKOに関する決議が急に乱発されるようになっていました。事務局側には経験や能力が十分に備わっていなかったため、コフィー・アナン事務総長(当時)が国連平和活動の再検討を行うために独立パネルを設置し、PKO業務の強化のための勧告を発表したのです。これが2000年に発表された「ブラヒミ報告書」です。PKO局はこれを受けて、強化策を講ずるべく、企画と実行の準備をしていました。

 

そうした背景の中で、私はPKO局のマイケル・シーハン事務次長補に認められ、直属の部下になりました。シーハン氏は米国の元軍事人で、ホワイトハウス勤務経験のある大使級の外交官で、大変なやり手でした。私がマネージメント分析や戦略展開などのアイデアを提案すると、即座に取り入れてくれました。特に印象に残っているは、PKO特別委員会(C-34)で構成国を相手に、速攻展開能力(Rapid Deployment Capacity)を強化するための対策を提案し、説得する任務を任された時のことです。当時、C-34では委員会のメンバーを相手にプレゼンをすることなどなかったので、この試みは歓迎され、その結果、構成国とPKO局との関係が改善されて各国政府のサポートを得ることができました。総会が国連事務局の提案を受けて1.4億ドル相当のプロジェクトを許可したのは、当時としては異例でした。実はその頃、私は自動車事故で足を骨折していたため、C-34の会合には車椅子で参加したこともありました。そうした状況も影響したのかわかりませんが、国連の政府間交渉の面白さと重要さを、しみじみと噛みしめた次第です。

 

東ティモールPKOミッション ― 本部と現場の狭間で

 

一度は現場で働きたいと考えていたところ、東ティモールの平和維持活動と平和構築活動を担当するミッションで官房長(Chief of Staff)のポストに就くことになりました(2004-2006年)。同国での平和維持活動は、その任務内容の変遷によって、国連東ティモール支援団(UNMISET)、国連東ティモール事務所(UNOTIL)、国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)へと変わり、UNMITは2012年12月末にその任務を終了しています。

 

私が官房長に就いた当時、日本の長谷川祐弘氏が東ティモールを担当する国連事務総長特別代表を務め、アトゥール・カレ氏が代行でした。カレ氏は現在、国連のフィールド支援担当事務次長(フィールド支援局長)です。こうした方々の下で勤務できたことは幸運で、PKOオペレーションに関する多くのことを学びました。東ティモールでの勤務は私の30年の国連のキャリアで最も興味深く、かけがえのない経験です。自分の力を全て出し尽くしたと言えると思います。

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東ティモール国連事務総長特別代表代行を務め、現在はフィールド支援局を率いるアトゥール・カレ事務次長と共に(2005年)

 

官房長時代の2006年4月、東ティモールで紛争が再発しました。治安も政治も不安定な中、軍事部門の提出した陳情書を政府がまともに取り扱わなかったことから不満が浮上し、エスカレートしました。デモ隊行進に発展し、首都ディリで暴動が起こりました。東部対西部の紛争により、家の焼き討ちなどへ拡大し、15万人の避難民と30数名の犠牲者も出ました。このような経験は、私にとって初めででしたが、官房長としては船が沈んでも現場にいる意気込みで構えていました。そんな中、デモ隊の指導的立場にあった将校から、政府側とのメディエーション(Mediation、仲介)を行ってほしいと要請されました。メディエーター(Mediator)の資格を取っていた私は、こうした機会が訪れることを願っていました。ところが仲介予定の当日、本部のPKO局から「応じるべきでない」と携帯電話を通じて言われました。国連憲章の第33条にその可能性が示されているはずですが、PKO局の指令は絶対です。現場では広義のMediation が実際には行われていたものの、PKO局はMediationの必要性についての認識がなかったのでしょう。私は大変に悔しい思いをしました。

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            東ティモールで。遠隔地への視察はヘリコプターを使って

 

当時の東ティモール政府はオーストラリア政府に軍を派遣してもらい、治安問題は一件落着したかに見えました。しかし、紛争の原因を解決したわけではないので、不安は残りました。同年夏に長谷川特別代表は帰国され、多くのPKO要員も徐々に去って行きました。その後、特別代表代行としてUNMITを主導したフィン・リースケン氏は官房長である私を信頼して下さり、文字通り二人三脚で当時の状況を乗り切ったと言えます。2006年4月の紛争再発は5月には襲撃事件へとエスカレートし、東ティモールの警察官や国連の要員に死傷者も出ました。この件に関して、東ティモール政府は国連に特別調査を依頼し、10月2日にそれが発表されることになっていました。私は調査結果に名前を挙げられた兵士たちが反発して襲撃を始め、紛争が再び勃発するのではないかという早期警報と危機感がよぎりました。このことを特別代行に伝えると、「確かにそうだ。予防措置を取ろう」ということになり、残った職員と協力しながら紛争要因の分析をし、早期警報シナリオを作りました。そのうちに、やはり対話が必要だということで、政府の高官や主要機関、そして軍事、警察部門へと代行と共に連日出向いて回り、対話を試みました。その結果、最も良い方法は当時のグスマン大統領が他の指導者と一緒になり、国民の前に出て話をすることだろうということになりました。カトリック教徒が90%以上の国なので神父の承諾と協力も得て、ディリにあるすべての教会にポスターを貼ってもらうことにも同意してもらえました。

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     グスマン大統領と共に。東ティモール政府とUNMITSETのサッカー対抗試合で(2004年)

 

こうしたプロセスは、国連事務総長やその代表に与えられた権限の一環である「斡旋(good offices)」です。多くのグループと対話をしたことで、一般市民の参加を進め、包括性(inclusiveness)が確保できたと思います。グスマン大統領が国民の前に出て話をすることに関しては氏の承諾を得ることが必要でしたが、なかなか承諾が下りず、こちらも辛抱強く粘りました。最終的には「OK」と言ってくださり、国連のミッションはこれを支援するという合意を取りつけることができました。後日、大統領は他の4人の指導者と一体になって、国民にテレビでメッセージを送ったのです。「東ティモール人は平和愛好者である。今回、国連からの報告書が発表されても、すぐに反応してはいけない。事実を受け止めよう。必要なことは、法の支配にのっとり、我々自身で措置をとるのだ」と。今でも、当時の大統領の姿が思い起こされます。その結果が講じて、報告書が発表された際に、武器を取る者は誰一人としていませんでした。早期警報と勘に基づいて早期対応したことは正解だったと思い、とても嬉しかったことを覚えています。この時ばかりはPKO本部も私たちの仕事を評価してくれました。現地の平和にとって重要なことをすれば、納得してくれるのだと私は確信しました。

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     2006年5月の危機後、IDPキャンプに避難した東ティモールの子どもたちとの対話から

 

これからの人生設計

 

私は、働くために生まれてきたと考えています。命のある限り、社会に貢献し続けるつもりです。現在、米ニューヨークのマーシー大学で教鞭を取っています。目を輝かしながら私の講義を聞いてくれる学生を指導し 、エンパワーすることは喜びです。同時に、国連でも時々コンサルタントとして勤務しています。政治局のMediatorとして、そして国連開発計画(UNDP)の平和構築アドバイザーとしてスタンバイしています。今後は原稿や論文を書いて、国連に関することを発信できたらと考えています。最近、ライフコーチの訓練を受け、国際コーチ連盟から認定されました。実は、このブログを書いている最中に国連から連絡があり、国連のエグゼクティブ・コーチになりました。国連の指導者を相手にコーチングをすることは、国連の仕事に携わることになり、光栄であり、生き甲斐です。

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   模擬国連ニューヨーク大会後の国連での表彰式。マーシー大学は見事入賞を果たした(2015年)

 

日本の若者、特に国連職員を目指す若者に対して期待すること

 

まず、自分が何をやりたいのかを見つけて下さい。心から湧き立つほどやりたいことを見つけて下さい。すると必ず、道が開かれます。自分の人生は、自分で決めることです。そうすれば、絶対に悔いのない人生が送れます。国連は完璧ではありませんし、全員が必ずしも平等ではありません。でも、それが自分のやりたいことであるなら、生きがいと喜びを見出せます。日本人には、独特の資質や能力があります。私たちは勤勉さ、誠実さや、信頼、さらには人の意見を聴く姿勢と能力、そしてそれを深く読み取る能力などに長けています。国連は他の文化や国から来た人々と顔をつき合わせて国際的な仕事ができ、世界が見えてきます。やる気があり、集中すれば大丈夫。ぜひまい進することをお勧めします。

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(10)

第10回 国連の障害者権利委員会のメンバー、石川准さん

~障害者が「楽しい!」と感じられるような研究を柱に~

 

世界人口は約74億人、そのうち約15%の10億人が何らかの障害を持っていると言われています。日本では、約7%の方が何らかの障害を有しています。そのような障害を持つ人々の社会参加や就業の推進のために、日本社会にはまだまだやるべきことが多いように感じられますが、2020年に開催される東京オリンピックパラリンピックを控え、一般の人々の間に障害者、および、共生社会の構築についての意識が徐々にではありますが高まっています。このような中、国連の障害者権利委員会の委員に今年選出された石川准先生にお話を伺う機会をいただきました。

 

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石川 准 (いしかわ じゅん)

<略歴>

【富山出身。16歳のとき網膜剥離により失明。全盲受験で初の東大合格を果たし、同大学にて社会学博士課程単位取得退学。社会学博士。現在、静岡県立大学 国際関係学部教授、東京大学先端科学技術研究センター特任教授。社会学ではアイデンティティ・ポリティックス論、障害学、感情社会学を専門とする。支援工学分野では、日本語英語自動点訳プログラム、スクリーンリーダー、点字携帯情報端末GPS歩行支援システム等の開発をしてきた。2012年より内閣府障害者政策委員会 委員長、2017年1月より、国連の障害者権利委員会の委員も務める。】

 

  1. 国際社会のなかの日本 

 

Q. まずはこの度、国連の障害者権利委員へのご就任おめでとうございます。日本として、権利委員会に日本人がメンバーとしていることは心強いことですね。

 

A. そうですね。政府にとっても障害者団体にとっても、悪いことではないと思います。委員は中立な立場でいるべきなので、直接日本のために何かができるということにはなりません。日本の政策について他の委員に理解していただくという点では、微力ですが、日本人の存在があると良いと思います。

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2014年 ニューヨークの国連本部で開催された締結国会議でのスピーチの様子

 

Q. 障害者の権利における国連の役割、または日本の役割についてお聞かせ下さい。

 

A. 人権は国連の活動の3本柱の1つと言えます。戦後さまざまな分野で人権に関する国際的な基準を作ってきたので、障害者権利条約が出来たことのインパクトは計り知れません。日本を含む先進国だけではなく途上国も、障害者権利条約という1つの枠組みに基づいて障害者政策を実施していくという、普遍的な考え方を確立できたと思います。国ごとに経済的、政治的、社会文化的な状況が違うので、障害者権利委員会による総括所見において、現状を踏まえた実効性のある、建設的な所見をだしていくことが期待されています。

 

Q. 他の先進国と比べた日本の現状と課題について、どのようにお考えですか?

 

A. 第一回の日本の政府報告は、今年の6月末に国連に提出されています。障害者政策委員会は国内監視機関としてその政府報告の中に監視機関の意見を入れさせていただきましたが、特に、精神障害者の地域移行が他国に比べてかなり立ち遅れていると思います。病院に長期入院されている方々がかなり沢山います。また、自己決定を支援する仕組みが弱いです。

 

例えば、日本では、知的障害の方々に対して成年後見制度が広く活用されています。誰かが本人の利益を守るために代理で決める、という制度です。後見人という仕組みによって、利益を脅かされる可能性が高い方々を守っていこうとしてきました。しかし、きちんと支援すれば自分で決められる方々に対しても、過剰にこの仕組みが使われてしまうと、本人は置き去りになったまま誰かが代わりに決定してしまういわゆる「パターナリズム的」支援になる傾向があります。

 

Q. 日本が模範とすべきような国はありますか?

 

A. 知的障害の方々に対する成年後見制度に関しては、条約が求めているレベルに達している国はほとんどないほど難しい問題です。どの国にとってもチャレンジです。また、精神障害者の地域移行に関しては、OECD諸国の中で日本ほど遅れている国はほとんどないと思います。40~50年前はどの国においても多くの精神障害者は施設にいたのですが、今では地域移行が進んでいます。そもそも長期入院の背景には、地域で暮らしていくための支援が不十分なため、行き場を失って入院が長期化している、ということがあります。日本ではこのことを社会的入院と呼んでいます。

 

2.  自らの存在意義を追求しながら、人生を楽しむ

 

Q. 石川先生は社会学者でありながら、プログラマーでいらっしゃいますよね。お手元にある端末はなんですか?こちらもご自身が開発されたのですか?

 

A. 点字携帯端末ですね。ブレイルセンスと言います。ブレイルは点字なので、「点字の感覚」という意味です。このハードウェアは韓国製ですが、入っているソフトウエアのかなりの部分を私が開発しました。

 

色んなことができるんですよ。音も出ますし、点字でも表示してくれます。Wi-Fiブルートゥースにも繋げますので、電子メールにもフェイスブック等にも対応できます。国連の障害者権利委員における選挙活動でもこれでプレゼンテーションをしましたし、議長をしている政策委員会でも、これでメモを取りながら委員の皆さんの議論を調整しています。

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ブレイルセンスU2。上半分は点字キーボードで、点字の6点入力ができる。下半分の黒い帯状の部分は点字ディスプレイで、白いピンが浮き上がって点字を表示する。ワードプロセッサー、電卓、予定帳、アドレス帳、コンパス、FMラジオ、音楽再生、録音などパソコンのように多彩な機能を搭載している。インターネットに接続し、電子メール送受信、SNS、チャットなども使うことができる。(詳細は 有限会社エクストラ ブレイルセンスU2日本語版の製品ページ >> ブレイルセンスU2日本語版)

 

Q. これは誰もが簡単に使えるようなものなのでしょうか?

 

A. ある程度習熟までに時間はかかります。利用者を支えるサポーターが全国にいて欲しいのだけども、なかなか難しくて。例えばパソコンですと、パソコンボランティアとして健常者のひとたちが色々サポートしてくれるんですね。でもこの端末は、そもそもこの端末を使える人じゃないとサポートできないので、健常者のサポーターを募るのはなかなか難しいです。普段自分が使ってないものを人に教えるのは困難ですからね。現状は、自分で説明書を読めば使いこなせるような一部の人たちと、販売会社のユーザーサポートに頼っています。

 

視覚障害であれば画面を音声で読み上げるソフトウェアをパソコンに入れておけば自動音声読み上げにより操作することができますが、盲ろう者の場合はやはり点字で読み書きする機器がないとコミュニケーションが取れないのでより切実です。盲ろう者協会も、熱心に支援していますが、自分には無理だと途中で諦めてしまう人も多くいます。そこをなんとかしなければいけない、と思っています。今回のインタビューに一緒に来てくれた永井(石川研究室のスタッフ)も、盲ろう者にブレイルセンスを教える活動のお手伝いをしています。

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インタビュー中の石川先生(UNIC Tokyo)

Q. 人と人が繋がり、巻き込んでいくことで、可能性の幅が広がるのですね。

ところで石川先生は、初の点字受験東大合格者ということですが、どうやって乗り越えられたのですか?

 

A. 元々弱視でしたが、高校生の時に見えなくなりました。2年弱入院した後、通常の学校から盲学校の高等部に転校し、3年間通いました。そこで初めて点字を習い、白杖(はくじょう)をついて歩くスキルは同級生に教えてもらいました。また大学受験の際には母親が参考書や問題書を片端から録音してくれたので、それを聞いて勉強しました。

 

3.  挑戦し続ける

 

Q. 先生の最近の研究の中心はどういったものがありますか?

 

A. 最近のコンセプトは「楽しい支援工学」です。今までは役に立つ支援工学、つまり教育や就労にとって“どうしても必要な支援機器”の研究や開発をやってきたのですが、今は、障害を持った人々が「楽しい!」と感じられるような研究を一つの柱にしています。もう一つは、障害者政策に関わるような研究、例えばアクセシビリティーに関する研究などが多いです。といっても実際は研究よりも実務系の仕事に追われています。(笑)

 

Q. アクセシビリティーについての研究とは、具体的にはどういったものですか?

 

A. ひとつはGPSの研究です。これは10年くらい手掛けています。最近は視覚障害者の移動支援の研究の一環で、拡張現実巨人将棋(AR巨人将棋)というイベント型の実証実験を行いました。広いフロアを大きな将棋盤に見立てて、視覚障害の方に歩いてもらいます。駒を発見したら詰め将棋の問題を頭の中にいれて解く、というゲームです。

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写真(左):予行演習の様子

写真(中央):プレイヤーが将棋盤のマスを踏んで駒を発見すると、システムが「1四 攻め方 香車」のように読み上げ、位置情報とそこにある駒の情報がわかる。
画面上では、キラキラと光りながらCGの駒が出現する。

写真(右):詰将棋に正解すると、画面に巨人の手が出てきて駒を動かす。

(石川先生HPより >>石川 准 ウェブサイト | アクセシビリティは高い技術と正しい思想により実現する)

 

Q. 反響はどうでしたか?

 

A. みなさんすごく喜んでやってくださいました。歩きながらランドマークの情報を聞き、そして自分の頭に地図を作る、というのは視覚障害者にとってとても難しい。このことが如何に大変なことか、という実証実験でした。

 

Q. 今後先生が挑戦してみたいと思う分野はありますか。

 

A. ディープラーニング(深層学習)です。人間よりも強いコンピューター将棋ソフトや囲碁ソフトが開発されているように、今までコンピューターは人間には勝てないと思われていましたが、プロよりもコンピューターの方が良い結果を出せるようになってきました。今後は、ディープラーニングの先端的な研究成果を支援工学に応用できればと願っています。

 

Q. 研究において、ご自身で常に心がけていらっしゃることはありますか?

 

A. 支援工学と言うのは元々不完全なもの、不正確だという側面があります。つまり100点は目指さないで、99点を目指していく。GPSを使った視覚障害者の移動支援についても、GPSは常に正確な位置情報を出せるわけではなく、例えば東京の渋谷近辺 のように高層ビルが多くある場所だと、相当誤差が出てきます。「そんな危ないもの使えない」という人には勧めることはできません。それを十分理解して上手く使える人向きなのです。それ以上どうにかして下さい、と言われてもどうしようもなく、「それはそのようなもの」と割り切る必要があります。

 

そもそも視覚障害者が一人で歩くことは、極めて困難なことですし、初めての場所を歩行すること自体が無謀です。なので、現時点で可能な限り十分な支援をする。特定の場所や実証実験で上手くいったとしても、どこでも実現可能になる訳ではありません。そういう意味で、私がやってきた支援工学系の開発は不完全なものばかりだと言えるでしょう。しかし、その不完全さについて「だからダメ」と言ってしまうのは簡単ですが、それが全く無い時と比べれば答えは明らかでしょう。

 

4. 不完全さを受け入れ、受け入れてもらう。100点は目指さない

 

Q. 2016年の4月に障害者差別解消法が施行され、障害者雇用促進法が改定されました。これらについて、どのような期待をお持ちですか?

 

A. 障害者差別解消法では2つのことを禁止しています。ひとつは、障害を理由とした不等な差別的な取り扱いを禁止しています。もうひとつは、過度な負担でない場合に合理的配慮を提供することを公的機関は義務、民間事業者は努力義務を負う、ということです。つまり、「合理的配慮」の不提供を禁止しています。

 

例えば、学校や職場において、聴覚に障害がある人ですと何かしらの代替的手段 ― 手話通訳やパソコン要約筆記がなければ授業が理解できません。そういった支援の提供を求められたときに、過度な負担ではないのに学校側が提供しない、というのが禁止されるということです。障害のある人は門前払い、などもかつてはありました。けれども、それは障害者差別解消法においては不当な差別的取扱いとして禁止されます。その上で、それぞれの障害に応じた合理的配慮の提供が義務として、あるいは努力義務として求められるようになりました。

 

Q. 社会が皆で支えあっていくという「合理的配慮」が、社会に浸透していくといいですね。

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 ブレイルセンスでメールをチェックする石川先生(UNIC Tokyo)

A.  「合理的配慮」への理解が広がるよう努めていきたいと思います。障害者雇用促進法の改定でも、ほぼ同様の内容が盛り込まれ、就労に必要な合理的配慮が求められます。例えば視覚障害の人が使えるコンピューターの提供であるとか、人的サポートなどが合理的配慮にあたります。事業者単独では限界があるので、国のアクセシビリティー政策が重要です。

 

今までは合理的配慮をしないことは不当なことではなかった。今まで自発的な善意だと思われていたことが、社会的には義務と見なされるので、事業者の立場からすると戸惑いもあるでしょう。しかし、建設的対話を通してどこまでが「合理的配慮」なのかという社会的合意は徐々に熟していくものだと思います。なお個人と個人の間の気遣いや配慮、善意は障害者差別解消法の施行前後で何か変わるということはありません。気遣いは気遣い、配慮は配慮、善意は善意です。

 

Q. 最後になりましたが、日本の若者に、期待も込めてメッセージをいただけますか?

A. リスク・テイク-危険を承知で取り組むこと-をした方がいいと思います。どうしようかな、と迷ったときはまずはやってみる。しかし、あれもこれも、とならないように。一度にできることは限られているので、目の前にあることから一つずつ、一歩ずつ、進めていくことが大切です。

 


あと、100点を目指さないことですね。完璧でなくてもいい。90点のものを95点のものにしようと思うと倍の努力が必要になりますし、さらにその95点を98点までにしようとするとまた倍の努力が必要で、指数関数的に増えていきます。100点にしたければ仕事を限定する必要があります。多くのことをこなすにはある程度、一つひとつは不完全さを受け入れ、相手方にも受け入れてもらうことが大切なのです。

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インタビュー後の記念撮影(左からインターンの秋本、城口、

石川研究室の永井さん、石川先生、UNIC妹尾広報官)

フォトコンテストの大賞受賞者、ニコラスとの一日 

国連広報センターインターンの李 ソミンです。1025日、前日に行われた「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの授賞式のために、ニコラス・モンテベルデ=ブスタマンテさん(大賞受賞者)来日しました。二日かけて、ちょうど地球の裏側から来たニコラスさんですが、常に笑顔を絶やさない好青年でした。短い間でしたが、私たちインターンは、彼と一緒にSDGsのことを語り合いました。

 

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ニコラスさんは、授賞式翌日、朝からNHKのインタビューを受け、午後の撮影から我々インターン4名も同行し、楽しい時間を過ごすことができました。

 

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ニコラスさんは、今年23歳のペルーの首都、リマ出身。リマにあるUiversidad Peruana de Ciencias Aplicadas (UPC)大学でコミュニケーションとジャーナリズム専攻する4年生。

今回受賞した写真の「El OJO DEL CONSUMO(消費者の目)」を通して、海洋汚染の深刻さを指摘するとともに、これからの私たちの消費パターンの見直しを提言しました。

 

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当日は、NHKの特別番組の撮影で、代々木公園から原宿竹下通りを通り抜け、渋谷にいたるルートを歩きました。レンズを通して、彼の視点から見る日本におけるSDGsを考える時間となりました。

ニコラスさんは、とてもフレンドリーで、前日に伝えたインターンの名前全てちゃんと覚えてくれました。興味ある分野や何を勉強しているのかということについても、気さくに話してくれました。また、ペルー出身であることに誇りを持つ彼は、自国のことに詳しく、ペルーの歴史や、建築、教育、食文化など幅広く、興味深い話をしてくれました。

 

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彼は渋谷での取材中、何度も立ち止まり、誰にも気づかないようなクモの巣や街灯の上のカラスなど撮っていました。普段見過ごしてしまうような些細なことも、彼といると見えてきて、その一つひとつがとても新鮮に感じられました。  

 

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また、彼は自転車に乗っている人にとても興味を持っていました。その理由を尋ねると、「自転車は環境にやさしい、僕はペルーで自転車を広めるための活動もしている」と、日本で自転車が普及していることをとても関心していました。日本は自転車の使用率が高く、それが環境保護に繋がっているということに、彼のお陰で気づかされました。

撮影の途中、渇いた喉を潤すため、ペットボトルの飲み物を買って彼に渡しました。しかし、彼は「環境のために、ペットボトルの飲み物は飲まないようにしているんだ」と言い、その代わりに持っている大きな水筒から水を飲みました。生活の細かいところまで根付いている彼の環境保護の精神に感銘を受けました。

 

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天気が徐々に悪くなり雨が降り始めると、彼は何度も、「I feel like I am in the wonder land(まるで今ワンダーランドに来ているようだ)」と、私たちに「日本に来たんだ」という感動を伝えました。私たちにとっては、渋谷も、雨も、見慣れた景色でしたが、彼の言葉で日常が非日常になった瞬間でした。

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最後に、ニコラスさんは「私たち個人ができることは小さなことかもしれない。しかし、自分は環境保護に関していい見本でありたい。それによって周りの人の意識を変え、世界をより良い場所にできると信じているからね」と熱く語りました。この二日間を通して私たちインターンは、彼の環境に対する信念を感じ取り、持続可能な開発目標(SDGs)で掲げる地球規模の問題を「自分ごと」としてより身近に感じることができました。

 

 

「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテスト 授賞式

 

10月24日(月)、国連広報センターと上智大学共催の「わたしが見た持続可能な、開発目標(SDGs)」フォトコンテスト授賞式が行われました。関係者席を含め約250席準備した会場は満員となり、大盛況でした。

 

大賞(外務大臣賞)に輝いたニコラス・ブスタマンテ=モンテベルデさんは、リマにあるUiversidad Peruana de Ciencias Aplicadas (UPC)大学のコミュニケーションとジャーナリズム専攻の4年生です。授賞式のために、ペルーより来日し、岸田文雄外務大臣から賞状が授与されました。

 

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左より岸田外務大臣、ブスタマンテ=モンテベルデさん、審査委員長を務めた写真家、レスリー・キーさん

 

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大賞(外務大臣賞)を受賞したモンテベルデ=ブスタマンテさんの“EL OJO DEL CONSUMO”(消費者の目)

 

受賞作品のリストは、次のブログURLをご覧ください。

 

blog.unic.or.jp

 

主催者の国連広報センターを代表して根本かおる所長が挨拶を行い、「今回のフォトコンテストは、学生の皆さんにSDGsを“自分ごと”にできるとても良い機会でした。常に、何ができるかを考えることが重要です」とメッセージを送りました。

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国連広報センター 根本かおる所長 

 

審査委員長のレスリー・キーさんからは、「今回のフォトコンテストの作品は、作者のSDGsに関しての視点とメッセージが含まれています。他の多くのコンテストと一線を画しているのは、そのメッセージ性の強さです。写真は世界を変えるんだ!と改めて感じることができました」と述べ、今回のコンテストを通して自分の原点を見直す機会になった、と講評をいただきました。

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 レスリー・キーさんからの講評

 

 

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集合写真

(前列)上智大学 水島教授、Christian Dior PRグループシニアマネージャー藤本さん、フォトジャーナリスト安田さん、上智大学グローバル化推進担当理事 プテンカラムさん、国連広報センター 根本所長、写真家 レスリー・キーさん、ニューズウィーク日本版フォトディレクター片岡さん、ゲッティイメージズジャパン 党さん

(中段)左より西谷さん、パンさん、今井さん、佐藤さん、モンテベルデ=ブスタマンテさん、小森さん、中牟田さん、上澤さん、山崎さん

(後列)左より上智学院グローバル化推進担当理事補佐 曄道さん、㈱シグマ 新妻さん、㈱ニコン 立木さん、外務省国連企画調整課 臼井課長、㈱良品計画 石原さん、上智大学藤村学務担当副学長、上智大学総合グローバル学部 植木教授

 

また、今回の授賞式では、早見優さんとレスリー・キーさん、根本かおる国連広報センター所長による対談も行いました。

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 写真(左) 根本所長 (右) 早見優さん、レスリー・キーさん 

 

対談では、「私なんて、ではなくて、私でもできること、を考えて欲しい」(根本所長)、「諦めずに、常に働きかけること、アクションに繋げていくことが大切」(早見優さん)、「少しでも自分の余裕をつくって隣の人を助けて、人と人をつなげていきたい」(レスリーさん)と、決して持続可能な開発目標(SDGs)は遠い存在ではなく、身近なところから一人ひとりが行動をしていくことを呼びかけました。

 

より多くの方々にSDGsに関心を持っていただくよう、大賞を含む入賞作品の写真展も11月18日(金)まで上智大学にて開催しました。

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詳細については、http://www.unic.or.jp/news_press/info/21151/

 

国連アカデミック・インパクト(UNAI)のメンバー大学である上智大学のHPでも紹介されました。

「日本の国連加盟60周年・国連デー記念イベント」を開催し、岸田文雄外務大臣にご出席頂きました|上智大学 公式サイト

 

フォトコンテスト詳細はこちら

【日本の国連加盟60周年記念事業】応募受付を開始! 「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテスト | 国連広報センター

 

 

「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテスト 受賞作品一覧

大賞(外務大臣賞)

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“EL OJO DEL CONSUMO” (消費者の目) ニコラス・モンテベルデ=ブスタマンテ / ペルー

ペルーのカヤオにある海洋保護区を訪れたとき、廃棄されたタイヤが沢山あるのに気づいて、とても気になりました。海洋汚染はいま人類が直面している大きな問題の一つです。私たちの中毒的なまでの消費と廃棄の繰り返しが、私たちの街を、土壌を、海を、そして自分までをも汚染しています。私たちの海を、タイヤやゴミのないより良い場所にできるかどうかは、私たち次第なのです。

 

優秀賞(3点)

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“SMILE OUT OF DISASTER” (笑顔で災害を乗り越える) ネルメッシュ・シング・グルディブ・シング / マレーシア

母親と姉と東インドへ旅行した時に撮った写真です。市場で買い物をしていたら、土を袋に積み、回収トラックへ載せている女性に気がつきました。彼女は一瞬拾っていた土のにおいを嗅ぎながら微笑みました。洪水の被害者になった後、再び立ち上がる機会を与えてくれた「土」に対する感謝の心を持っているのだ、と教えてくれました。自然災害と向き合っていくためには、自分と自然との関係、また、心の豊かさを大事にするべきだと感じました。
 

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“FLOOD AID” (洪水被害者の支援) ヒルミ・ハリズ・ビン・マハボト / マレーシア

マレーシアの東部にあるクランタン州は、ほぼ毎年のように雨季には洪水に襲われます。一緒に活動していた人道支援のボランティアたちが支援物資を仕分けているところです。2階から彼らに指示を出していた時にこの風景を撮影しました。この写真を共有する最大の目的は、若者にボランティア活動を推進することです。より良い社会の構築のためには、人々の協力が欠かせないからです。

 

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REUNION” (再会) 山川 侑哉 / 日本

現代の奴隷制度ともよばれる人身取引、世界には2,000万人以上の被害者がいると言われています。持続可能な開発の先に、被害に遭われた方々が無事大切な人と再会でき、そして新たな被害者が生まれることがない世界であることを心から願います。この写真を通して、一人でも多くの方がこの問題について考えるきっかけとなれば幸いです。

 

特別賞(Dior ウーマン・エンパワメント賞)

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“FEMALE EDUCATION” (女子教育) 小森 康智 / 日本

今なお女性を差別する風潮が残るインドで、幼い少女が強くたくましく勉学に励む姿を、嘘偽りなく写しました。

 

入賞(10点)

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“WHITE TRANQUIL” (白い静寂) ユ・ハイトン / 中国

白い風力タービンと雪に覆われた地面は、一分の隙もない完璧な共同体のように見え、この美しい景色を撮らずにはいられませんでした。風力タービンは自然景観美を壊すことのない、人類の手による数少ない建物だと思います。環境へのダメージを最小限に抑えて、クリーン・エネルギーを得る人間の気品を反映しているように感じます。エネルギーを専門にする学生として、また生粋の写真好きとして、人々のエネルギー効率と環境保護への関心を高めたいと思い応募しました。

 

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“THE STRENGTH OF THE COMMUNITY” (地域社会の強さ) ジェシカ・アルメイダ / ブラジル

この写真を通して伝えたかったことは、地域社会を支援することがいかに大事か、ということです。活力のある地域では、人々がお互いに協力し合って、持続可能な社会をつくることができます。この2人の女性のように、他人の思いを感じ取り、痛みや喜びを共有できるようになれば、私たちは変化を起こすことができると信じています。SDGsは遠くで起こっている問題だと思わず、身近な問題から皆で考えていただけたらな、と思います。

 

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“CRYSTAL” (クリスタル) 外山 慎一郎 / 日本

水は日本にいれば手軽に手に入るものですが、多くの国で水道水は飲むことができず、摂取するための水は買う場合がほとんどです。私たちが生きるために作物や家畜を育て、自身の渇きを潤すための真水は非常に限られたものであります。水が持つその希少さと、その澄み切った一瞬の美しさを感じ取っていただきたいです。

 

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“ON HIS WAY HOME AFTER FETCHING WATER” (水汲みの帰り道) 西谷 廉 / 日本 

2015年11月にザンビア滞在中に撮影した写真です。孤児院が併設された小中学校に住み込みで活動していました。写真に写っている孤児である少年とも共同生活を行いました。上下水道の発達していないザンビアでは、生きていくために欠かすことのできない水を井戸から汲み運ぶという行為は、毎日の日課であり、日常的な風景です。
ここで生きるということを象徴した一瞬だと感じ、シャッターを切りました。

 

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“DONATION FOOD” (寄付された給食) パン・ユニエン / 中国

ミャンマーの首都ネーピードー周辺にあるシュウェジン村には、まだ電気もありません。しかし、村人は教育を重要視し、数年前から自分たちで小学校をつくりました。2011年以来、ミャンマーの政治は大きく変化し、教育に使う予算も全予算の0.5%から3%に増えました。この学校の教員数も6人に増えましたが、それでも1年の予算は40万チャット(約4万円)しかありません。1年間365日の食事のなかで、給食の寄付はとても小さい貢献ですが、希望と未来の象徴を意味しています。

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“LITTLE SEED OF LIFE” (小さな命) 今井 香琳 / 日本

私の作品は日本で見つけた、ちょっとした風景の切り取りに過ぎません。しかし、ふと目に入ってきたこの雑草に、小さい存在ながら何かとても力強いものを感じました。雑草でもこんなに輝いて見えるんだということを表現したく、またこの小さな発見の大切さを伝えたく、写真に収めました。SDGsに関しても、人の手次第でその行き先は自在に変えることができます。小さな発見や働きかけが、未来の地球を少しずついいものにしていくことができるのではないでしょうか。

 

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“CREE'S HOPE” (クリー族の祈り) 佐藤 誉翼 / 日本

授業で学んだ事がきっかけで、カナダの先住民の方々に会いに行きました。そこで聞いた彼らの過酷な経験は衝撃的でした。例えば、白人の教育機関への入学を強要されたり、白人には免疫があるが先住民にはないために、彼らだけに病気が流行ってしまったり、などです。そんな中、彼らの立てたティーピー(テント)のなかでお祈りをしました。それも踏まえて、タイトルには「クリー族の願い」ではなく「クリー族の祈り」を起用しました。

 

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“DEAR HUMAN” (ディア・ヒューマン) 中牟田 知樹 / 日本

自然や生命本来の輝きに魅せられ、地球の美しさを切り取ったつもりが、ゴミの放置という人間の愚かな行為までもが映り込んでしまいました。SDGs、持続可能な開発目標は人類という枠組みで達成すべき、非常に重要な課題です。しかし、私たち人間が地球の独裁者になってしまわないように、自身で気をつける必要があります。この写真が、SDGsは人類だけでなく、地球のための目標でもあるということを再確認できるきっかけとなれば幸いです。 

 

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“INDIGENOUS CHILDREN IN BANGLADESH” (バングラデッシュに住む先住民の子どもたち) 上澤 伸子 / 日本

バングラデシュの北部国境地帯で災害調査をしていた時に撮った写真です。少数民族ガロの村人へのインタビュー調査で、災害常襲地域の苦労話を聞き、どんよりと重い気分になりました。その直後、あぜ道を歩く下校途中の子どもたちと出会って励まされました。ガロの人たちは貧しいけれども、子どもたちにできる限りの教育を施したいと考えています。

 

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“INDIGENOUS CHILDREN IN BANGLADESH” (バングラデッシュ ダッカの街角の活況) 山崎 崇央 / 日本

研究の一環でバングラデシュ ダッカを訪れました。絶対的貧困者数の削減を達成するなど、開発援助が成果を挙げつつあるバングラデシュの街角は活気にあふれています。経済成長に伴う歪みもあるものの、着実に明るい方向に向かっている、と肌で感じました。 また、郊外でも道路整備などインフラ整備が国連や各国援助機関の支援のもとで進んでおり、協調的な援助と、それによる成果が感じられました。