国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

2016年夏季インターンを終えて

 本日をもって、国連広報センターの2016年夏季インターン5人がインターンシップを終了します。今回は、6月から3ヶ月にわたったインターン生活の振り返りを、Q&A形式でお届けします。

UNIC Tokyo’s summer 2016 interns finish their internship session today! The five interns, who have been interning with the UNIC Tokyo office since the end of June, take a look back on the ups and downs of their three month internship with a Q&A blog post!

 

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【2016年夏季インターンメンバー】

小杉京香 Kyoka Kosugi  ブラウン大学 国際関係学部 社会・安全保障学科
Brown University - International Relations

ジェニー・ホロウェー Jenny Holloway  オックスフォード大学・日本研究
University of Oxford - Oriental Studies, Japanese

小久保彩子 Ayako Kokubo 一橋大学 社会学
Hitotsubashi University - Faculty of Social Sciences

チョ・ソユン Soyun Cho 早稲田大学 国際教養学部
Waseda University - International Liberal Studies

小林薫子 Kaoruko Kobayashi 東京大学大学院 公共政策学部
The University of Tokyo - Graduate School of Public Policy

 

~2016年夏季インターンを終えて~

 

Q: 一番印象に残った出来事は何でしたか?

Jenny: 一番印象に残った経験は、私のインターンシップの最初の一週間に行われた日本人のパラリンピック選手のマセソン美季さんのインタビューです。その時は、インターンシップが始まったばかりだったのでUNICがパラリンピックとどのように関係しているのか分かりませんでした。しかし、マセソンさんとのインタビューをきっかけに、マセソンさんが女性パラリンプック選手として、今まで経験した事と、2020年東京パラリンピックに向けての仕事についての話を聞いてから、国連の仕事の目標は、核兵器をなくすのような深刻なことだけではなく、スポーツでも平和と平等を作れることが分かるようになりました。

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Kyoka: 広島と長崎の平和記念式典に参加するためにキム・ウォンス国連軍縮担当上級代表が来日した時にお会いできたのが一番印象的でした。キム代表と写真家のレスリー・キーさんが学生向けのトークイベントにゲストとして登壇し、なぜ持続可能な開発目標は平和構築に不可欠なのか、そして私たちが学生として何ができるのかを語ってくださいました。とても貴重なお話が聞けて、インターン期間中の一番印象に残った経験となりました。

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Soyun: NGOピースボート」が主催した出港式に参加したことが一番印象的でした。私たちが出港式で見届けた第92回のピースボートは、軍縮と平和のメッセージを伝えるために全世界を航海するプロジェクトです。出港式の前の参加者の方々の記者会見で、被爆者の方から直接お話をうかがったことが特に印象に残っています。被爆でお兄さんを亡くされた方のお話でしたが、何十年もの時が経っても悲しみが癒えないことを感じました。記者会見を通じて、ピースボートに乗船する人々の心持ちや思いを感じ取ったうえで参加した出港式はより意味深く感じられました。私にとって忘れられない経験です。

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Q: インターンを通して学んだこととは?

Kyoka: 国連広報センターの運営するブログや、参加させていただいたインタビューなどを通して、「国連の仕事」は簡単に一括り出来ないほど、いろんな種類の仕事や職場がある事を学びました。国連の傘下にある機関や団体ひとつひとつの活動があって、初めて幅広い環境や地域で深刻な課題に取り組むことができることを改めて認識することができました。この3ヶ月を通して、自分が将来どんな機関でどのような仕事に携わりたいのか、より具体的なイメージをつかむことができました。

Ayako:国連についての理解が深まったと同時に、広報活動に携われたことは貴重な経験でした。一つの記事が新聞に載るまでに取材依頼など数々のステップがあること、注目を浴びる出来事の裏側で、リアルタイムでメディアの動きをモニタリングしていること、一字一句までこだわって注意深く発信しようとする姿勢…普段何気なく世の中に溢れる情報にふれていましたが、その背景にこれだけの細やかな動きがあるということはとても印象的でした。広報センターに身を置いたからこそ体得できた「広報」の視点でした。

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Kaoruko: 私はUNICでのインターンを通し、広報活動の大切さを学びました。まず毎朝行う新聞クリッピングでは国内問題、国際問題など世界で起きている出来事を認知することの大切さを改めて実感しました。またUNICのブログ作業やFacebookのポスト作成を通じ、国連が取り組んでいる幅広い課題を多くの人に知ってもらう大切さも学びました。特に持続可能な開発目標(SDGs)についてはフォトコンテスト、テーマソングのお披露目会など様々なイベントに携わることができました。国連が取り組む課題解決のためにも、まず多くの人が課題を認知することが重要です。その上で、UNICが行っている広報活動に自分も携わり、その大切さを経験することが出来ました。そして、実際に国連で働く方々と出会い、現場でのお話も伺うことが出来たのも、とても貴重な経験となりました。このインターンシップを通し、国連をより身近に感じるようになったと同時に自分の夢をより明確にすることが出来ました。

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Q: なぜこのインターンに応募しようと思いましたか?

Ayako :以前から、どうすれば地球規模での豊かさを実現できるのかという問題意識がありました。環境問題の解決や平和の維持は一朝一夕では実現しない、では私に何ができるのだろうかと模索していたとき、このインターンシップを見つけました。国際機関の取り組みを内部から実感することが、この先の社会と自分の関わり方を考えていく際に貴重なものさしになると思い応募しました。

Soyun: 国際学校から国際関係に興味を持つようになりましたが、大学2年までは漠然と卒業したら国際機関で働きたいと考えていたに過ぎませんでした。3年生の時に交換留学をした際、国際機関に興味を持っている人達に出会うことができ、今から将来にどのような道に進みたいのかを真剣に考えることになりました。これがきっかけで、留学から帰って過ごす長い夏休みの間に国連インターンをやりたいと思い、UNIC Tokyoに応募しました。

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Kaoruko: 私は人生の半分近くを海外3カ国で暮らした経験や学部時代に国際関係を専攻した経験などから、将来は国際機関で働きたいと考えるようになりました。そこで、国連の活動について知るためにUNIC で広報活動に携わり、国連の働きや日本と国連のつながりを学びたい思い、このインターンシップに応募をしました。


Q: What did you find the most challenging?

AyakoI think the most challenging element of the internship was to inform the worldwide problems as not distantly but closely related issues with us. Several experiences from the internship made me reflect on the connection between the UN and the public. I personally assume that many people think works of the UN are not directly linked to their day-to-day lives. Through this internship, I have been convinced that it is significant to think what each of us can do to achieve global goals.

Kyoka: I think the most challenging aspect of the internship was learning how to cater information towards a Japanese audience, that has specific societal expectations in regards to the media they consume. Slight differences in the delivery of these information can have distinct implications, especially because subtlety plays such an important role in Japanese semantics. Through composing social media posts and translating articles for UNIC, I gradually learned how to highlight certain aspects of an event or UN initiative to make the organization more accessible and relatable to the Japanese public. These past three months have allowed me to reflect on the importance and responsiblity that comes with a position that involves disseminating information.

 

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Q: What have you gained from the experience?

Jenny: Spending a summer living and working a 9 till 5 internship in a country that is not home is not without its challenges. However, I have learnt to embrace the challenging aspects. For example, as a foreigner, UNIC Tokyo is a unique place to gain an insight into the role of the UN in Japan, and to understand what causes are particularly important to the Japanese public. I feel like this understanding is something that I can use to help shape my career choices and goals for the future.

Soyun: UNIC is a unique place where I could experience the international atmosphere of the UN and Japanese atmosphere at the same time. Doing office work and communicating with staff members and other interns in English and Japanese taught me what it is like to work in an international office. I also had an opportunity to meet Japanese UN staff members from different areas of work and different UN offices. Listening to their stories was a meaningful opportunity for me because the experiences they spoke of cannot be earned without working at the field. It motivated me a lot to consider wokring at an international organization.

 

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Q: What advice would you give to future international applicants?

Jenny: Before applying, think carefully about why you want to do the internship and what you want to gain from it. This will help you make an impression during the interview, and also allow you to ask the right questions in order to understand whether or not it is the right job for you. A three month internship is a fairly big commitment, particularly coming from abroad, and it does not hurt to be certain before starting. Once you are here, you’ll find that the UNIC office and your fellow interns are easy to get along with, make friends and make the most of being in Tokyo!

 

わたしのJPO時代(15)

「わたしのJPO時代」第15回は、WFP 国連世界食糧計画国連WFP)南部アフリカ地域局のプログラム・アドバイザー、浦香織里さんのお話をお届けします。JPO時代に築いた人脈のおかげで国連WFPから2度の短期契約と正規職員のオファーを受け、働くチャンスに恵まれた浦さん。JPO時代に担当した現金・バウチャーの分野が国連WFPで主流化されたことを受けて、浦さんはこの分野を担う職員になっています。様々な障害を粘り強さで突破してきた軌跡を綴ってくださいました。

 

 

  WFP 国連世界食糧計画国連WFP)南部アフリカ地域局プログラム・アドバイザー

            浦 香織里(うら かおり)さん

         ~国連機関で働く夢への道 JPO制度でつかんだ機会~

 

 

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2001年Wesleyan University卒業、2002年London School of Economics国際関係学修了。大和証券SMBCゴールドマン・サックスにて、投資銀行業務に従事。その後、NGOのJEN(東京、レバノン南スーダン)にて主に緊急人道支援に従事した後、国連WFPギニアビサウ事務所にてモニタリング国連WFPモザンビーク事務所にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムを担当。その後、在カメルーン日本大使館にて経済協力を担当、国連WFP西アフリカ地域局にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムのアドバイザーを担当。JICAセネガル事務所(農業・農村開発担当)、国連WFPローマ本部(現金等による支援に関連したシステム担当)を経て、2014年より現職。

 

 

国連職員を目指そうと思ったのは、高校生のとき、電車の中吊り広告で、国連職員のキャリアパスが説明された本を見かけたのがきっかけでした。当時、1年間アメリカの高校での交換留学を経験した後だったこともあり、英語を生かして、何かだれか人のためになる仕事ができないかと漠然と考えていたのですが、この広告を見たときに、やっと自分のやりたいことが具体的な職業として見つかったと直感したことを今でもはっきり覚えています。そしてその本の中に、JPO制度についても記載があり、いずれはJPOを受けようと決心しました。

そしてその本にJPOに受かる人たちは、英語圏での学士又は修士を取った人が大半であるという記載があったために、思い切ってアメリカの大学に進学することを決め、その後イギリスの大学院で修士も取得しました。しかしいざ国連機関や国際的なNGOの仕事に就こうと就職活動をしてみると、応募書類をたくさん送りましたがどこにも当たらず、面接にも呼ばれない状況でした。親にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないと思ったことと、日本のNGOの求人広告には「職務経験最低3年」という記載があったことから、とりあえず職務経験3年の条件をクリアするために、いずれは援助の仕事に就きたいと願いつつ、まずは民間企業へ就職をすることにしました。

 

 

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JPO時代、モザンビークにて。国連WFPのバウチャー(食糧引換券)を使用した受益者から聞き取り調査を実施(著者提供)

 

 

第一希望ではない仕事でもとりあえず3年はいなければ大した学びにもならないだろうと思い、3年は頑張ることにしました。そして日本にある投資銀行で合計3年働いた時点で、転職活動を開始しました。そこで幸いにも日本の人道支援NGOのJENで働く機会を得ました。初めは東京でのドナー(支援者)対応、その後レバノンでの人道支援、それから南スーダンでの人道支援に携わることができました。JENの先輩方からは、人道支援のいろはを教えていただき、大変いい経験になりました。

JPO試験は、民間企業からの転職活動時に受験をしていたのですが、JENで働き始めて1年ほどたって合格が決まりました。JENでの仕事も大変有意義なものでしたので悩んだのですが、せっかくのチャンスでしたので、オファーを受けることにしました。その時点であまり自分の学位や経験に専門性がありませんでしたので、人道支援の中でもあまり専門性が問われず、また国際機関を良く知る方から効率的でいい仕事をしているという話を伺っていた国連WFPを志願しました。

 

 

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モザンビークにて。食料品を買うための現金がチャージされたカードを配布 (WFP/Marta Guivambo)

 

 

JPOでは、国連WFP ギニアビサウ事務所にモニタリングと評価担当のプログラム・オフィサーとして赴任しました。しかし、当時の上司の方とあまりうまくいかなかったことなどもあり、2年目には国連WFPモザンビーク事務所に赴任地を変更することになりました。

モザンビークでは、現金やバウチャー(食糧引換券)を使ったプロジェクトの担当のプログラム・オフィサーになりました。当時はまだ国連WFPにとってこの分野は新しい試みで、国外で食糧を購入した後に船やトラックを使って食糧そのものを届ける従来のやり方よりも、現金やバウチャーを支援対象の方々に配って地元のお店で使っていただき食糧を調達してもらうほうが、地元の経済のためになることや、支援を受ける人々がそれぞれの世帯に見合った支援物資を選べることができるという点で利点があることから、試験事業を数カ国で実施している時期でした。特に国連WFPのガイドラインもまだ策定されていなかったので、数少ない学術論文やNGOが作成しているガイドラインを見ながら勉強し、都市部での現金の配布、都市部でのバウチャー、農村部での現金の配布等のプロジェクトを立ち上げて実施しました。

モザンビークでは今でも大変尊敬する非常に優秀な上司にも恵まれ、私のパフォーマンスも高く評価していただき、とても充実した日々を送りました。JPO派遣期間の3年目の延長についても、国連WFPモザンビーク事務所側が経費を半額負担しなければならなかったのですが、問題なく承認されました。

 

 

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ジンバブエにて。WFPから配布された現金で食糧を購入する女性 (WFP/David Orr)

 

 

JPO後、国連WFPで引き続き職務を続けたかったのですが、人事ルールがその年変更となり、内部の職員にしか応募できないポストにJPOが応募できなくなったこと、そして私の担当分野では外部者が応募できる空席が出なかったことから、国連WFPでの正規職員としての採用には至りませんでした。

 

国際協力分野の仕事を探したところ幸いにもカメルーン大使館での経済協力担当の書記官のお仕事が見つかりしばらく勤務させていただいていたのですが、1年もたたないうちに国連WFPの時に知り合った本部の現金・バウチャーの担当部署の方から直々にお電話をいただき、西アフリカにある国連WFP地域局でのこの分野でのアドバイザーのポストの打診がありました。モザンビーク時代に、現金・バウチャーに関する会合がローマ本部であり、その場で自分が立ち上げた事業のプレゼンをさせていただいていたことで、その方が私のことを覚えていてくださったのがきっかけだったようです。短期契約だったのですが、やはり自分が興味のある人道支援分野でキャリアを伸ばしていきたいという思いから、このオファーを受けることにしました。

 

西アフリカ地域局では約1年勤務し、その後短期契約ということもあり、ポストの財源がなくなったことから一度また国連WFPの外に出てJICAで勤務させていただいたのですが、その1年後にまた前回と同じようにまた現金・バウチャーの分野で短期契約のオファーを国連WFPローマ本部からいただき赴任しました。その後まもなく現在の南部アフリカ地域局での正規職員のオファーをいただき、現在に至っています。

 

 

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ジンバブエにて。バウチャー番号などが書かれたスクラッチカードを用いて食料品の支払をする女性(WFP/Victoria Cavanagh)   

 

 
国連WFPでのキャリアを振り返ると、JPO時代にたまたま担当した現金・バウチャーの分野での仕事が生かされて、現在の仕事につながっていることは言うまでもありません。この分野が私がJPOで働き始めたころから急成長したことも幸いしましたが、やはりこの時代に出席した会議を通じて築いた人脈や、あまり前例がない時代に実際のプロジェクトを立ち上げた経験は、正規職員のポストを得られた大きな要因となりましたし、今の仕事にも大変生かされています。また当時は国際協力には全く関係のない仕事だと思っていた民間企業での職務経験も、所属部署が企業の買収・合併を担当していたこともあり、多くの関係者の意見を調整・集約するスキルや、契約書交渉のスキルなど、現在の現金・バウチャーの配布事業で生かされていることが多く、人生どんな寄り道をしようとも、その中からも活かされるものがあるものだと感じます。また、大使館やJICAでの勤務でも日本のODA政策や様々な援助スキームを学ぶことができ、現場で日本との具体的な連携を考えていくうえでも役に立っています。

 

 

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ケニアにて。支援を受ける可能性がある人々に、どんな配布方法が適切か聞き取り調査を実施 (著者提供)

 

 

国連機関は組織内で一緒に仕事をした経験のある人たちを採用する傾向が強いことから、JPO制度はそういった機会を与えてくれるという意味で、非常に大事な制度だと思います。この制度がなければ、人脈を作ることもできませんので、過去の2度の短期契約や正規職員のオファーをいただくということも無かったと思います。そういった機会を与えて下さった日本政府と国連WFPに大変感謝しています。

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(4)

第4回 日本スポーツ振興センター情報・国際部 山田悦子さん

~スポーツを入り口に、平和と開発を~

 

「国連を自分事に」シリーズ第4回は、国連開発と平和のためのスポーツ事務局(UNOSDP)でプログラム・オフィサーとして勤務し、現在日本スポーツ振興センターで活躍する山田悦子さんのお話をお届けします。2020年東京オリンピックパラリンピックの開催を控え、スポーツを通じた国際貢献活動への関心も高まりを見せています。そのような中、スポーツが開発・人道支援・平和構築を推進するに当たって有益なツールであることを認識した上での取り組みが求められ、山田さんは国連での経験を日本に繋げようとしています。今回は山田さんがUNOSDP時代に携わった、タジキスタンルワンダなど、様々な社会問題に直面するコミュニティーをスポーツを活用して支援するプロジェクトをご紹介します。

 

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UNOSDPのオフィスがある欧州国連本部の加盟国国旗が立ち並ぶ前で

                    山田 悦子さん

 

宮城県仙台市出身。東北大学大学院法学研究科公共法政策修士号取得。Lionbridge Global Sourcing Solutions Limitedにてコンサルタントとしてインターネットの検索機能の質向上とその評価を行う。その後、国家プロジェクトであるマルチサポート事業に携わり、ロンドンオリンピックへ向けた日本チームの国際競技力向上に資する各種情報を扱う。2014年1月より国連開発と平和のためのスポーツ事務局(UNOSDP)でプログラム・オフィサーとして勤務。現在は(独)日本スポーツ振興センター情報・国際部にて勤務。

 

 

「スポーツを用いて開発や平和構築へ貢献する」と言ってもピンとくる方はあまりいないかもしれません。しかしながら国連をはじめとする国際社会においては、「スポーツは持続可能な開発における重要な鍵となる」と広く認識されており、2015年9月にニューヨーク国連本部で開催された「国連持続可能な開発サミット」にて全会一致で採択された成果文書[1] も正式にこの点に言及しています。国連でこの分野(開発と平和のためのスポーツ Sport for Development and Peace:SDP)を扱っているのが、国連開発と平和のためのスポーツ事務局(United Nations Office on Sport for Development and Peace、UNOSDP)です。

 

UNOSDPの役割はSDP分野を担当する国連事務総長特別顧問(現在は、サッカーのブンデスリーガSVベルダー・ブレーメンのゼネラル・マネジャーを務めた、ドイツ出身のウィルフリード・レムケ氏)の任務を支え、スポーツを有益なツールとして用いながら開発・人道支援・平和構築を推進していくことです。そのため国連事務総長案件を取り扱うことも多く、国連総会へ提出する国連事務総長報告書の原案作成や会談のバックアップ等も担います。

 

私が赴任して最初に担当したのが2014年4月6日に第1回を迎えた「開発と平和のためのスポーツ国際デー」のイベントで国連事務総長が使用するスピーチの原稿作成でした。格式高い表現を用いるのはもちろんのこと、いかに社会に語りかければ国連として伝えたいメッセージを届けられるのか、ということを考えさせられたタスクでした。例えば、「スポーツが個人やコミュニティの発展に寄与する」という内容を伝えるためにそれをそのまま英訳するのではなく、近代オリンピックの創始者として知られるクーベルタンが述べた”Sport is a possible source for inner improvement.”(スポーツは(身体面のみならず)精神面での成長をもたらし得る源である。)という言葉を引用しながらよりインパクトの強いスピーチとなるようにしました。

 

 

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2014年4月に欧州国連本部で実施された「開発と平和のためのスポーツ国際デー」のイベント

 

この件に限らず、国連職員として職務にあたるということの意義や国連機関としての役割は何なのか、という点を常に意識し自問自答しながら職務を遂行してきました。

 

国連機関で働く醍醐味は、国際的な政策決定過程に関わることができる点です。例えば国連人権理事会諮問委員会のコンサルテーションプロセスへ参加したり、国際憲章の策定過程に携わるなど、国際社会で今まさに議論がなされ、方向性を決定付けていく場面に立ち会うことができます。2015年に大幅に改訂された「ユネスコ 体育とスポーツに関する国際憲章」に対してもUNOSDPから改訂案に対する意見や提案を提出しました。

 

私が主担当してきた仕事の一つに、UNOSDP基金による各地域のSDPプロジェクト支援があります。UNOSDPには日々世界各地から多数の支援要請が寄せられていますが、人的・財的資源の制約からそれらの要望全てに応えることはできません。そのような状況下でどのようなプロジェクトを選定し、どう支援していけば国際公益を最大化することができるのか、また、制度や枠組みを形作っていく国連が「アクション」部分となるフィールドのプロジェクトを支援する意味はどこにあるのかを熟考しながら、プロジェクトの選定・計画策定支援・モニタリングと評価等に携わってきました。

 

2014年11月に新たなプロジェクトの応募を開始するにあたり、どこまで厳格な応募書類の提出を求めるか、ということは我々が悩んだ点の一つです。応募にはプロジェクト提案書、団体の基礎資料、年次報告書、財務報告書、登録証明書の提出が必要ですが、本当に支援を必要としている団体は年次報告書や財務報告書を作成する余裕もないのではないか、そうであるならばそれらを応募要件に含めるのは酷ではないか、その一方で応募団体が提案してきたプロジェクトを実施できるという能力をどこで担保するのか、といった議論をUNOSDP内で交わしながら、柔軟性を保ちつつも公平性を損なわないよう、応募要件・提出書類に関して一つ一つ決定していきました。

 

23の団体から応募があり、提案されたプロジェクトを公平に、客観的に評価していくため、プロジェクトマネジメントの観点にSDPで必要とされる要素も加えながら16の評価項目を設定し、5段階評価の得点基準を作り、項目に応じた傾斜配点方式をとる評価プロセスを確立しました。社会課題の特定、プロジェクトスコープの明確さ、スポーツの要素の組み込み方、といった観点から、人的・財的資源の適切な配分やモニタリングと評価、プロジェクトの持続可能性に至るまで包括的に評価して最終的に三つのプロジェクトを選定しました。

 

 

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UNOSDPが支援したタジキスタンのNational Federation of Taekwondo and Kickboxing (NFTK)のプロジェクト

 

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NFTKはタジキスタンでサッカーやテコンドーを用いて、ジェンダー平等の促進と女性の能力強化に取組んでいる。プロジェクトでは関連する政府組織、国際機関、競技団体、NGOが円卓会議で議論し「タジキスタン 女性スポーツの発展に関する国家戦略2014-2020」の原案も作成された。現場と政策を繋ぐという重要な要素が含まれたプロジェクト。(NFTK)

 

 

選考を通過した団体は基金を早く受領しプロジェクトをすぐにでも開始したいと気が急いていまが、まずは団体の代表者やプロジェクトマネジャーと一緒にプロジェクトプランを練り込み、何度も修正を重ねてより具体的な計画書を策定していかなくてはなりません。プロジェクト立ち上げ段階では不確定要素があり、しっかりと計画を作り込まないまま開始してしまうプロジェクトも多く見受けられますが、達成すべきゴールを共有し、そこに到達するまでの適切なプロセスを設定していく作業である計画の策定はプロジェクト成否の鍵を握っており軽視すべきではありません。プロジェクトを実行していく中で状況の変化に応じた計画の修正・微調整をしてプロジェクトをコントロールしていくことができるのも、計画段階でベースラインを設定し、現状と計画段階でのギャップを判断するための基準を定めているからこそできることです。

 

UNOSDPが永遠にその団体を資金援助できる訳ではないので、プロジェクト期間中に上記の視点からテクニカルアドバイスを提供し団体のプロジェクトマネジメント能力を育成し高めていくことに力点を置きました。詳細なプロジェクト計画を含めた契約文書を作成し、国連の助成金委員会が法的・財務的側面から精査し、その承認をもらってはじめてプロジェクトを開始することが可能となります。

 

Project Air International, Inc.のプロジェクトではルワンダでヨガを用いて、ジェンダーに基づく暴力のHIV陽性被害者・加害者、障がい者のトラウマを和らげる活動を実施しています。

 

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UNOSDPが支援しているProject Air International, Inc.のプロジェクト (Project Air)

 

このプロジェクトの承認を得るにあたり、助成金委員会からは予算、活動内容、有効性の細部に至るまで様々な質問が投げかけられました。それらに対してこのプロジェクトを支援する妥当性・必要性を資料やエビデンスを用いて説明していくのが私の役割です。

 

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Project Air International, Inc.のプロジェクトの一環でヨガを楽しむ参加者 (Project Air)

 

現在SDP分野で用いられるスポーツとしてサッカーが圧倒的に多い中、適応可能なスポーツを見出し、社会に発信・共有していくこともUNOSDPの役割の一つであるため、Project Air International, Inc.のプロジェクトを支援している社会的意義は大きいと実感しています。

 

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Project Air International, Inc.のイベントに参加する子ども達 (Project Air)

 

選定された三つのプロジェクトは現在進行中ですが、上述のような過程を経て、苦労しながら実施を実現できたものであるため、個人的にも大変思い入れのあるプロジェクトとなっています。

 

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アンプティサッカー実践ワークショップにて。2011年6月〜2016年2月にハイチで実施された、障がい者のスポーツ・体育機会の増加、社会における障がい者の包摂を目指したプロジェクト。コミュニティに対して長期のインパクトを生み出すべく、持続可能性を重視して組み立てられたプロジェクトであった。BlazeSportsは1996年アトランタパラリンピック競技大会のレガシーとして創設されたNPOである。(BlazeSports)

 

UNOSDPが支援したBlazeSportsのプロジェクト>> https://www.youtube.com/watch?v=1dcXH__l38U

  

現在私は日本に戻り、日本スポーツ振興センター情報・国際部にて、スポーツと人権・平和・開発等に関する最新の国際的議論や情報を収集・提供し、日本におけるSDPへの理解を促すと共に、社会課題解決へ向けてスポーツを活用していくための方策・政策の提案を行っています。

 

日本でも、政府が推進するスポーツを通じた国際貢献事業であるSPORT FOR TOMORROWが開始され、2020年東京オリンピックパラリンピック競技大会へ向けて、SDP分野の活動への関心も徐々に高まってきました。スポーツ界のみならず他の分野の人々にも開発・平和領域におけるスポーツの有用性を理解し実践してもらえた時にはじめてスポーツは「ツール」として成り立ち得るのだと考えています。そのために日本が為すべきこと、できることはまだまだ沢山あります。日本が有する強みや得意な分野を見極め、どのような日本独自のスポーツを活用した貢献活動ができるのか、どういった有形のレガシーをSDPで残していけるのかを考慮し、取組んでいくことが求められています。

 

 

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BlazeSportsのプロジェクトにて2013年10月にハイチで開催された全国障がい者スポーツ大会の開会式の模様。参加者は500名、観客200名の多くは初めてパラスポーツを観戦した。(BlazeSports)

 

以下のリンクより、詳細をご覧いただけます。

国連とスポーツ

UNOSDP

SPORT FOR TOMORROW

 

[1] ”Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Development (A/RES/70/1)”

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(3)

第3回 パラリンピアンのマセソン美季さん

スポーツで、障害を持つ人々にパワーを!

~2020年東京パラリンピック大会は、共生社会を築く~

 

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(提供 OHCHR_Danielle Kirby)

                  マセソン美季 さん

 1973年生まれ、東京都出身。東京学芸大学卒。高校大学時代は柔道部に入部。体育教員を目指すも1年の時に交通事故で脊髄を損傷。下半身不随になり、車いす生活に。入院中に障害者スポーツに出会い、車椅子の陸上競技を始める。その後アイススレッジスピードレースを始め、1998年の長野パラリンピックに出場。3つの金メダルと1つの銀メダルを獲得すると共に、世界新記録を更新。大学卒業後、障害のある選手への指導を学ぶためイリノイ州立大学に留学。2001年にパラリンピックアイススレッジホッケー選手のショーンさんと結婚し、カナダへ移住。現在2児の母でオタワ在住。日本財団パラリンピックサポートセンター勤務。

 

聞き手:国連広報センター 妹尾

 

 

突然の事故、そしてスポーツを原動力に

 

Q.マセソンさんは学生時代に突然交通事故に遭われ、その後、障害者スポーツの実践者になり、さらにはパラリンピックに出場して素晴らしい功績を残して現在に至っていらっしゃいます。突然の事故は、人生最大の危機というべきとても落ち込むような経験だと思うのですが、マセソンさんはいつも前向きでいらっしゃいますね。その原動力は何なのでしょうか?

 

A.スポーツですよ、スポーツ。大学1年の時、大怪我をして自分の将来に大きな不安を抱きました。けれども障害があってもスポーツはできるとわかったとき、アスリートというアイデンティティーだけは持ち続けることができました。そのお蔭で、生活していく上のモチベーションや、幸せの感じ方などを維持することができたのだと思います。スポーツをしているときは、できない事を考えるのではなくて、どうすればもっと速く、もっと強くなれるかと競技力の向上に考えを集中しました。障害のことも忘れられました。スポーツがなければ、「あぁ、私これが出来ない」とネガティブになっていたかもしれません。しかし、スポーツをしていたからこそ常に前向きになることができたのだと思います。私自身はもう競技からは離れましたが、二人の子ども達のスポーツで毎日を忙しく過ごしています。冬場は家族でクロスカントリースキーをしています。

 

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北海道釧路市での合宿で練習するマセソンさん (提供 朝日新聞社,1999年1月27日)

 

Q.パラリンピック、障害者のスポーツについては以前からご存知だったのですか?

 

A.それまで全く知らなかったのですが、事故で入院しているときにお世話になったお医者様がたまたまパラリンピックについてよくご存知でした。病院で寝たきりとなり、脚が動かないことを宣告された私に、比較的早い時期に「まだスポーツができる」と教えてくださったのです。もともと水泳をやっていたので、初めて病院から外出許可が出たときにプールに連れて行ってもらったんですよ。不安もありましたが、医師と一緒なら何かあっても大丈夫、という気持ちでした。その出会いに感謝しています。落ち込んでいる時期には「どうして私がこうなってしまったんだろう」と悩むこともありましたが、自分が集中できることを早い時期に見つけ出すことができたのは幸運でした。

 

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スポーツこそが私の原動力、と語るマセソンさん

 

Q.その後、障害のある選手へのコーチングを学ぼうと思ったきっかけは、何ですか?

 

A.徐々に海外の大会に出ることが多くなり、ジュニアの選手が活躍する姿に心を打たれました。私は当時20代でしたが、日本では「若手の新人」と言われていたんですよ。でも、外国ではもう10代の選手が出てきていて、ジュニアのための指導者層、選手層も厚かった。でも、残念ながら日本の状況はそうではありませんでした。ジュニアの選手を育てていかないことには、競技の将来もないと気付いたのです。そこで、「ジュニアを育てるために指導者が必要なのであれば、私が大学で勉強してみよう」と決意を固めました。

 

また、障害のある女性の参加で言えば、アスリートとしての参加率は世界で7%に留まっていると言われています。つまり、世界の93%の障害を持つ女性はスポーツに参加していないのです。私を含めスポーツができる者は、本当に恵まれています。日本でも競技人口はまだまだ少ないです。

 

Q.この6月に国連のジュネーブ本部でスピーチされていましたが、その感触はいかがでしたか?

 

 A.私にとって、ジュネーブの国連での時間はとても有意義でした。国連の人権というと、対立している国々が向き合っているという堅苦しいイメージがありました。ところが、人権というテーマの下でスポーツは意見の異なる人々や国々を一つにまとめる力があると感じました。オリンピックやパラリンピックを上手に活用すれば、人々の間の共通理解を向上させる助けになる ― そんなスポーツの力を実感しました。

 

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国連ジュネーブ本部で開催されたパネルディスカッション 「スポーツとオリンピック精神 - 障害を持つ人々を含むすべての人々の人権のために」に参加。ザイド・フセイン国連人権高等弁務官(左)と

(提供 OHCHR_Danielle Kirby、2016年6月28日)

 

2020年東京パラリンピック大会の成功をめざして、私のできること

 

Q.現在のお仕事について伺います。日本財団パラリンピックサポートセンターに勤めていらっしゃいますね。どのようなところなのですか?

 

A.日本財団パラリンピックサポートセンターは、2020年東京パラリンピック大会の成功を目指し、パラリンピックの普及、パラリンピックムーブメントを推進できるよう、2015年に設立されました。場所は日本財団ビル4階にあります。パラリンピック競技団体の共同オフィスとしての場の提供のほか、学校や企業を対象とした教育事業、障害のある人もない人も一緒に参加できるイベントの実施などを行っています。ユニバーサルデザインの画期的なオフィスで、素晴らしい職場環境です。

 

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G7伊勢志摩サミットの関連イベントとして行われた「パラスポーツ体験イベント」で、安倍昭恵首相夫人をはじめとするファーストレディの方々と。(提供 日本財団パラリンピックサポートセンター,2016年5月27日)

 

Q.そのパラリンピックサポートセンターでは、具体的にどのようなお仕事をしていらっしゃるのですか?

 

 A.日本国内外におけるパラリンピックムーブメントの推進事業やパラリンピックを通じた国際貢献事業を担当するほか、日本国内でのパラリンピック教育の教材作りを国際パラリンピック委員会と一緒に進めています。2012年のロンドン大会では開催の4年前から「ゲット・セット(Get Set、 準備しよう!という意味)」という教育プログラムが実施され、子ども達のパラリンピックへの関心を高め、知識を増すよう様々な工夫がされました。「ロンドンのパラリンピック会場はこの教育プログラムのおかげで満員になった」とも言われているほど、「ゲット・セット」には大きな影響力があったのです。これを受けて、2020年東京パラリンピック大会に向けては、国内におけるパラリンピック教育を、日本パラリンピック委員会日本財団パラリンピックサポートセンターが中心となって進めていくことになりました。

 

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日本体育大学での特別プログラムにコーチング・スペシャリストとして参加。プログラムには世界各国からコーチが参加し、選手の実力を引き出す指導法について議論が行われた (2016年7月11日)

 

Q.この開発中の教育プログラムの特徴は何ですか?

 

A.パラリンピックを身近に感じ、興味関心を寄せてもらえるように、また、先生方が使いやすい教材にできるよう、現場の声を反映させながら作っています。宿題に親を巻き込むような問いかけを意図的に盛り込み、子どもが習ったことを自分の言葉で家庭でも伝え、父母や祖父母にも学んでもらう「リバース・エデュケーション」という方法も盛り込んでいます。小学生など小さい時に、障害のある人に接し、そのような方々のことを身近に学ぶことで、差別や先入観を持たない子どもに育ってほしいという思いが根底にあり、同時に知らず知らずのうちに親たちも巻き込むという形です。ロンドンパラリンピックの際、約270万枚売れたチケットのうち75%は家族連れでした。「ゲット・セット」のおかげで、子ども達が会場に足を運びたくなる。そうすると兄弟も親もついて行くのでチケットの売り上げ枚数も大きく伸びたと言われています。私も教育プログラムの効果に大きな期待をしています。パラリンピック教育を通じて、パラリンピックのファンを増やすだけでなく、多様性あふれる共生社会が日本でも広がれば、と願ってこの仕事に関わっています。

 

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子ども記者にパラリンピックについて説明するマセソンさん (提供 日本財団パラリンピックサポートセンター)

 

障害者スポーツと日本

 

Q.日本での障害者とスポーツの現状について教えて下さい。

 

A.まず、日本では障害者が簡単にスポーツに親しめる環境が、北米と比べて整っていないように感じます。例えば体育館を使おうとしても、「車椅子の方は危ないので使わないでください」、「前例がないので」、「安全が確保できないので他のところでお願いします」、と言って断られることが未だにあります。北米ではスポーツをする権利は広く認知され、いつでもどこでもみんなと同じように楽しむ権利が与えられており、障害のある人が当たり前にコーチする姿も見られます。日本では、インフラ整備や受け入れ体制に限らず、社会の仕組みや管理をしている人々の考え方も様々で、障害があることがネックになってスポーツをしたくても簡単に出来ないという状況もあると感じます。カナダで、常に特別な受け入れ態勢があるという訳ではないですが、逆に特別扱いもされません。でも、臨機応変な対応にはあらゆる場面で感心させられます。

 

Q.パラリンピックを目指し、障害者スポーツの育成強化をしていく上で日本では特にどこに重きを置いているのですか。

 

A.最近は「タレント発掘プログラム」が積極的に行われています。日本体育大学の辻沙絵選手がパラリンピックの代表に決まりましたが、彼女はもともと日体大ハンドボールをしていました。パラリンピックで適した競技がないかと適性検査を受けたところ、彼女は短距離により適しているということで、短距離に転向し、それでリオ出場に決定しました。やりたいと思った競技が自分の適性に合っているのかを評価してくれる人は今までいませんでしたが、このようにデータを解析して「あなたなら、きっとこっちが向いているだろう」という新しいアプローチが、2020年の東京パラリンピックをきっかけに増えてきています。冬季の競技から夏の競技に転向してみるといった競技間の移動も徐々に出てきているようです。

 

バリアがあってもバリアを感じない社会へ

 

Q.日本では「共生社会の実現」によって障害者の方々とのインクルーシブな社会を目指しています。一方で、まだまだ課題はあるようでが、マセソンさんから見て障害者の方々にとって住みよい社会という点で、何かご提案などありますか。カナダとの比較でもよいですが。

 

A.バリアフリーについては、こんなことがありました。日本で会議に参加していて車いすでも利用出来るトイレの場所を聞いたら、「地下に降りて隣のビルに通路で渡ったところにあります」と。5分や10分の休憩時間で戻って来られない距離だと感じました。インフラ整備に関しては、実際に使う人のことをもっと考えていただければ、と思うこともあります。同じお金をかけるのであれば最初から当事者の声をくみ取っていただければよかったのに、という残念なケースがあります。エレベーターやスロープの設置の際、最初に当事者の意見を聞いてくれれば、「この向きが使いやすい」と提案できるのですが、出来上がった後に直すことは難しいですよね。

 

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マセソンさん、家族と。日本財団パラリンピックサポートセンターにて。(2016年 夏)

 

Q.住んでいらっしゃるカナダと比べてもいかがですか。カナダに学ぶべきところも多いでしょうか?

 

A.そうですね。カナダもインフラ整備が100%できている訳ではありません。違う点は、インフラが整備されてないところでも周りにいる人たちが助けてくれるので、バリアがあっても私はバリアを感じないんですよ。日本だと、例えば私が電車に乗るとき、大抵は自分で乗れるのですが、ほんの少し段差が高すぎて自分ではどうすることもできないことがあります。すると、そこにいる人たちに助けを求めると、駅員さんを呼んできますと言われることがありました。特別なスキルなんていらないし、ちょっと手を貸してくれればいいのに「どうしていいかわからない」、「私にはスキルがないから助けることができない」と感じてしまうからでしょうか。

    

また、私が日本に一時帰国して違和感を覚えることがあります。こんなに人口が多いのに町に障害者がいない、ということです。どこの国でも障害者の比率はだいたい同じです。カナダでは車椅子に乗っている方や歩行器を使っている方はあちこちにいらっしゃいます。それが日本では、人は驚くほどいるのに車椅子に乗っている方にはほとんど会わないので違和感があります。日常生活の中で、障害のある人を見たり接する機会が少ないので、障害のある人への接し方に慣れていないのではないかという印象を受けます。だからこそ、私自身、感じたことを言葉にして伝えることの大切さ、言うべき立場の者がきちんと伝えていかないといけないという使命を強く感じています。

 

息子達の学校にも、車椅子に乗っているお友達がいます。先生に言われたからやるのではなく、お友達のためにドアを開けたり、下に置いてある靴を移動させたり、子ども自身で状況を見て判断して行動しているようです。障害のある人間を見たことがない、慣れていない状態で教科書だけで教えても「共生する社会」は浸透しにくいと思いますので、やはり経験が必要なのでしょう。

 

Q.ところで、マセソンさんが日本に出張しているときは、どなたがお二人のお子さんの面倒を見ていらっしゃるんですか?

 

A.夫です。毎日お弁当を作ってくれています。この仕事をお引き受けする際、やってみたい仕事ではあったものの、海外出張で家を不在にすることも増えるので、果たして自分にできるのか、母親業と兼業できるのかが一番の悩みでした。そのため「やりたいけど無理だろうな」と思っていたのですが夫が「いや、僕が競技をしていたときは何も文句言わずに支えてくれたじゃないか。今は君の番なんだから、家の事は気にしないで、いい仕事をしておいでよ」と背中を押してくれました。家族の協力があってこそ今こうして仕事をすることができます。

 

Q.最後になりましたが、日本の若者に、期待も込めてメッセージをいただけますか?

 

A.人に何か言われたから、ではなくて、自分で考えて行動できる勇気を大事に大人になってほしいと思います。世間体などを気にしないで、分からないことを素直に聞く勇気、やりたいことを素直に行動に移せる勇気があったらものすごく変わると思います。そのような一人ひとりの心の持ち方で、誰にとっても住みよい社会ができるのだと思います。

 

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日本体育大学の玄関で。オリンピックの制服を着たライオンを囲んで国連広報センターのスタッフおよびインターンのJenny Hollowayと。

 

 

 

 

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(2)

回  京都大学宇宙総合学研究ユニット教授 土井隆雄さん

~人生のチャレンジャー~

 

1985年に日本人で初めて宇宙飛行士に選ばれ、1997年に日本人として初めて船外活動をし、2008年には日本初の有人実験施設「きぼう」を国際宇宙ステーションに取り付けた土井隆雄(どい たかお)さんに、「初めて」という言葉は切っても切れません。2009年9月から2016年初めまでの6年半の間、オーストリアのウィーンにある国連宇宙部の宇宙応用専門官として、世界で初めての宇宙飛行士出身の国連宇宙部の職員として活躍したのち、2016年4月京都大学の「宇宙総合学研究ユニット」(宇宙ユニット)の教授に就任しました。「宇宙ユニット」は宇宙理工学に限定されない、部局の枠を超えた幅広い分野にわたる学際的な科学の展開を目指し、こうした研究ユニットを持つのは世界でほかに例がない、とのこと。大学の研究室に土井さんを訪ね、国連での経験やチャレンジを続けるスピリットについてお話をうかがいました。

 

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 STS-123ミッションクルー集合写真: 国際宇宙ステーションに取り付けられた「きぼう」日本実験棟船内保管室を背景に浮かぶ(前列右端) 提供:NASA

 

                    土井 隆雄 さん

【宇宙工学・天文学専攻、工学・理学博士。 1997年、スペースシャトル「コロンビア号」に搭乗し、日本人として初めての船外活動を行なった。2008年、スペースシャトル「エンデバー号」に搭乗。ロボットアームを操作し、日本初の有人宇宙施設「きぼう」日本実験棟船内保管室を国際宇宙ステーションに取り付けた。2009年から2016年にかけて、国連宇宙部で国連宇宙応用専門官として宇宙科学技術の啓蒙普及活動に取り組む。2016年4月より京都大学宇宙総合学研究ユニット特定教授に就任。2002年と2007年には超新星を発見する。】

                       

 

根本: 2016年1月にまだ国連在任中に休暇で一時帰国なさった時にお目にかかりましたが、その頃よりも何だか若返りましたね! 

 

土井: まだ慣れないことも多いですけれど、若い人たちに教えるのは楽しいですから。こちらがエネルギーをもらっています(笑)。大学には運動も兼ねて、自転車で通っていますよ。京都をエンジョイしています。

 

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京都大学総合生存学館(思修館)で行われた山崎直子宇宙飛行士の特別講義に参加した時の集合写真(前列左から4番目:土井さん) 提供:京都大学

 

 

根本: 6年半国連で働いた経験は、土井さんの人生にとってどんな意味を持ちますか?

 

土井: 非常に大きな新しい経験をさせてもらった6年半だったと思っています。それまで僕は宇宙開発の最前線で、人間世界を宇宙に広げていく前線で20年以上仕事をしてきて、言ってみれば「宇宙バカ」だった。2回目の宇宙飛行から帰ってきた時に、「宇宙から見た地球は素晴らしいけれども、自分は地球のこと、地球に暮らしている人々の生活や文化や言語については知らない、と思ったんです。世界のことをもっと知りたい、そう考えて国連で働くことを選びました。国連宇宙部は、宇宙空間の平和利用のための重要な委員会の事務局を務め、開発途上国が自国の開発のために宇宙科学技術を利用できるように支援するプログラムを持っています。国連宇宙部で、自分の専門性を活かしながら人生経験を広げることができたと感じています。

 

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国連宇宙部時代、 ウィーン市役所で開かれた国連と市民の交流会にて、国連宇宙部の宣伝に駆けつける(筆者提供)

 

 

根本: 宇宙開発も多国籍ではありますが、参加しているのは先進国中心ですね。国連開発途上国も重要な加盟国で、関わる国がもっと多いですね。

 

土井: 宇宙ステーションに参加しているのは確かに先進国中心の15ヶ国ですが、国連の仕事で訪れた国々では、開発途上国も含めてすべての国が宇宙開発に興味を持っているんですね。宇宙を利用してリモートセンシングによって自国の衛星写真を撮って農業や災害対応に役立てたり、地図を作ったりする訳ですね。同時に、人が宇宙に行くということにも関心を持っています。もちろん人が宇宙に行くためにはお金がかかるので、限られた国しか有人宇宙開発をやっていませんが、一人ひとり、特に若い人たちと話をしていると、「宇宙に行きたい!」という人たちがいっぱいいます。非常に印象に残っているのは、ナイジェリアの大学で宇宙の話をした時のことです。私の話が終わってから、一人のナイジェリアの女子学生が来て、「私はどうやったら宇宙に行けますか?宇宙飛行士になるには、どうしたらいいですか?」という質問をしたんですよ。これは素晴らしいと思いました。ナイジェリアはアフリカの中で宇宙に最も投資している国のひとつですが、その中で学生の皆さんが「宇宙に行きたい」という強い意欲を持っている。宇宙というものをもっと世界に開いて、オープンに参加してもらって、誰でも宇宙の恩恵を受けられるようにしたいと思い、そういう活動を心掛けてきました。

 

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有人宇宙技術のための国連/コスタリカワークショップ(2016年3月7日−11日)中に開かれたInternational Astronaut Forumが、現地の新聞に取り上げられた。サンホセの国立競技場に8500人の少年少女達が集い、世界の7カ国からやってきた宇宙飛行士と宇宙への夢を語り合った。(筆者提供)

 

 

根本: どの国でも宇宙の恩恵を受けられるようにということでは、土井さんは国連と日本との連携で素晴らしいプロジェクトを手掛けられましたね。

 

土井: 「KiboCUBE」です。宇宙ステーションの「きぼう」日本実験棟には大変優れた機能があるんですね。「きぼう」のモジュールにはエアロックがあって、このエアロックとロボットアームとを駆使して超小型の衛星を宇宙に放出できるという、国際宇宙ステーションで唯一のユニークな能力を持っています。低コストでできる超小型衛星は地球観測や災害対応などの目的に活用できますから、これを「きぼう」から宇宙に放出できれば、お金を掛けて衛星を打ち上げることのできない国々にも宇宙空間の利用の機会を提供できるのではないか、と。日本独自の宇宙技術を世界にアピールする機会にもなります。関係者を説得してまわって、2015年9月に国連宇宙部とJAXAとで協定を締結することができました。

 

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STS−87ミッション中に行われた船外活動。宇宙ステーションで使われる予定の宇宙クレーンの操作試験を実施している。背景にサハラ砂漠が写っている。 提供:NASA

 

 

根本: 4月に教授に就任なさって、6月から授業をスタートしていらっしゃる京都大学の宇宙ユニットのパンフレットを拝見して、宇宙の研究は、理工学はもちろん、医学、農業、通信、環境、エネルギー、気象、法律、心理学など大変幅広い分野を総合して成り立っているんだなあと感じました。このような総合的な研究は他でも行っていることなんですか?

 

土井: いえ、日本で例がありませんし、世界でも常設の研究ユニットとしては京大が初めてですね。理工学の専門家ばかりではなくて、人文社会科学の専門家、そして芸術家たちも集ってもらって、新しい宇宙総合学を作ろうとしています。1000年の歴史を持つ京都だからこそ、1000年先の未来を見る先見性と京都という場の力を感じます。宇宙ユニットでは、平成28年度後半から、新しいプログラム:有人宇宙活動のための総合科学教育プログラムの開発と実践を始める予定です。これは、有人宇宙活動に必要な新しい学問体系を創り上げ、学生の皆さんに有人宇宙活動、言い換えれば、人間が宇宙空間で行う活動のための基礎知識を教え、新しい事にチャレンジしていく強い心を育てようという教育プログラムです。この教育プログラムを受けた学生の皆さんの中から、将来、日本の宇宙開発を牽引していく人材が育ってくれればと思います。

 

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STS−87ミッション: スペースシャトルコロンビア号のミッドデッキで、宇宙で初めての日の丸弁当を食べる。ストローの付いている容器に入っているのはワカメの味噌汁。 提供:NASA

 

 

根本: マット・デイモン主演の映画『オデッセイ(原題:The Martian)』でも、火星で農業をしていましたね。

 

土井: 現実はあそこまで進んでいるわけではありませんが、もちろん宇宙空間に人間が住もうとすると農業は大切な分野です。農学部や他の学部の先生たちにも僕たちのユニットに関わってもらっています。

 

根本: いろいろなアクターを巻き込むという点では国連で随分と鍛えられたのでは?

 

土井: 宇宙の現場では目標は一つですが、国連の場では国益のぶつかりあいもあるし、必ずしも見ている方向が同じとは言えません(笑)。苦労もありましたが、その分いろいろと鍛えられた。京都では、若い人を育てる今の仕事に新たなやりがいを感じています!若い皆さんは、全員が素晴らしい力を内蔵して、あらゆる事が可能です。ただ、自分の力に気付いていない人が多いようです。その力を全力で何かに注ぐことができたら、素晴らしい仕事をすることができる。そのためには、自分で全身全霊をかけることができる事、自分の大好きな事を見つける手伝いをしたいと思っています。若い皆さんには、世界で自分だけしかできない事をしろ、と言っています(笑)。

 

 以下より、土井さんを含む世界各国の宇宙飛行士から若者に向けてのメッセージがご覧いただけます。

Messages from Space Explorers to future generations

 

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京都大学の土井さんの研究室で ©UNIC Tokyo

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (12・最終回)

シリーズ最終回は、WFP国連世界食糧計画(国連WFP)南スーダン事務所で2012年から政府連携担当官及びプログラム・オフィサーとして勤務している橋本のぞみさんです。南スーダンは独立直後の国家建設の時期を経て、内戦の勃発、和平合意と暫定政府の樹立、さらには紛争の再燃と経済危機と、情勢が激動しています。そのような中、橋本さんが所属する国連WFPは、人々の命と健康を守るために、無条件で食糧を提供する緊急支援と並んで、支援に頼らずに自活していけるようにするための自立支援とを、状況に応じて柔軟に調整することで使い分け、南スーダンにおける支援を継続してきました。

 

第12回 WFP国連世界食糧計画(国連WFP)南スーダン事務所 橋本のぞみさん

飢餓のない南スーダンを目指して〜紛争を乗り越え自立へ〜

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171232j:plain    写真:活動現場出張中の筆者。自立支援プロジェクトの参加者及び同僚と(2016年7月)Photo: WFP 

                                                        橋本 のぞみ(はしもと のぞみ)

                                WFP国連世界食糧計画(国連WFP) 南スーダン事務所 政府連携担当官

東京大学教養学部教養学科卒業後、中国留学を経て中国及び日本にて民間企業勤務。2006年、米国コロンビア大学国際行政学院で国際学修士取得。在ウガンダ日本国大使館で北部ウガンダ復興及びインフラ整備支援に携わった後、2009年より国連WFPに勤務。ウガンダ事務所で政府連携担当官及びプログラム・オフィサーとして勤務した後、2012年1月より、南スーダン事務所勤務

 

2012年1月、私は独立後の興奮さめやらぬ南スーダンに赴任しました。新国家建設に立ち会うという機会を得て、私自身もわくわくと南スーダンへ向かったものです。それから約4年半、独立直後の国家建設の時期を経て、内戦の勃発、和平合意と暫定政府の樹立、さらには紛争の再燃と経済危機と、国の状況は刻々と変化し続け、まるでジェットコースターに乗っているかのようでした。私が勤務するWFP国連世界食糧計画国連WFP)は、飢餓のない世界を目指して食糧支援を行う国連機関ですが、この間、変りゆく情勢に応じていかに最適な支援を実施するかということに腐心してきたように思います。

 

新国家の基盤作り

赴任当初の南スーダンにおいて、最大の課題は新国家の基盤作りでした。40年にわたる独立紛争の結果、南スーダンには社会基盤(インフラ)もこれといった産業もなく、食糧事情にしてみても農業が脆弱で自給自足がおぼつかない状況でした。

 

食糧不足には様々な原因があり、それに応じて最適な援助の形も変わります。紛争や自然災害の発生時には、人々の命と健康を守るため、無条件で食糧を提供する緊急食糧支援が必要です。独立紛争中の南スーダンにおいては、このような支援が主軸となっていました。他方で、ある程度の生活基盤がありつつも慢性的に食糧が不足している場合には、支援に頼らずに自活していけるようにするための自立支援が必要です。この場合には、無条件に食糧を提供するのではなく、公共の役に立つ工事などに参加し肉体労働をすることを条件とし、その労働の対価として食糧を提供する形をとります。私が赴任した当初、国連WFPはまさに緊急人道支援から自立支援へと、大きく援助方法を転換しているところでした。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171431j:plain自立支援プロジェクト。道路建設作業に参加する対価として食糧が提供される(2014年6月)Photo: WFP

 

2013年4月から、希望がかなって私はこの自立支援を担当していました。当時の南スーダンの農村においては、紛争こそ終わったものの、インフラは未整備で、自然災害が多発し、人々の技術や知識は不足しているという、極めて脆弱な状況でした。人々は、雨量の変動に対応できずに不作に襲われ、生活を向上させる学習機会も少なく、今日明日の食糧確保に奔走していたのです。そこで、国連WFPの自立支援プロジェクトでは、農業の効率化、災害への対応力強化、そして地域の基礎インフラづくりなど、自活を助ける支援を行ってきました。例えば、洪水の多い地域には堤防、干ばつに襲われやすい地域にはため池を作ったり、果樹の植林や農地拡大のプロジェクトを実施したりし、働いた人には報酬代わりに食糧を配給しました。こうすることで、人々は目先の食糧探しに奔走することなく、生活を改善する活動に専念できるわけです。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171515j:plain自立支援プロジェクト。ため池の建設作業に参加する対価として食糧が配布される(2013年2月) Photo: WFP/Nozomi Hashimoto)

 

紛争下でも自立支援を継続

2013年12月、紛争が再燃した日も、私たちは翌年に向け、自立支援プロジェクトの準備に邁進していました。しかし、ジュバ市内では激しい戦闘が繰り広げられ、週の終わりには、私や自立支援に携わる同僚は国外へ一時的に退避することを余儀なくされました。

 

それから2年半。戦闘が起きた地域では、被災者の命を守ることが優先されたため、救命に直結しない自立支援は中止となり、緊急食糧支援に切り替えられました。紛争の影響を直接被っていない地域でも、不安定な情勢や職員の配置転換などの影響で、活動を予定通り行うことは難しくなりました。

 

しかし紛争の只中にあっても、可能な範囲で自立支援を継続することはきわめて重要です。緊急食糧支援は一時的には非常に有効な支援ですが、根本的に飢餓を解消するものではありません。それに対し、自立支援は今の食糧不足を補うだけでなく、自給自足に必要な基盤を作るものであり、南スーダンの未来につながります。そのため、国連WFPは、情勢に応じて緊急支援と自立支援を使い分け、実施計画を柔軟に調整することで自立支援を継続してきました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171550j:plain畑で作業する、自立支援プロジェクトの参加者 WFP/Nozomi Hashimoto

 

そのためには、様々な工夫がありました。例えば、全世界の国連WFP事務所から何十人もの職員を緊急招集し、人員不足に対応しました。安全管理の面でも、治安や紛争の状況に関して忍耐強い情報収集を行いました。また、各地で地方自治体や地域社会との協議をおこない、課題や地元の意見を確認しました。資金面では、日本を始めとする支援国が、紛争中にも自立支援への資金援助を続けてくれたおかげで、活動を継続することができました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171630j:plain地元の問題やプロジェクト参加者の要望などの聞き取り (2014年6月)  Photo: German Agro Action

 

またしても紛争再燃、でも諦めない!

昨年から今年の初めに向けて、南スーダン情勢は好転しているように見えました。2015年8月には和平合意が調印され、2016年4月には暫定統一政府が成立、国際社会は早くも紛争後の復興に向けた協議を始めていました。しかし、政治プロセスの前進の影で食糧問題は深刻化していました。内戦の影響で、唯一の国家収入だった原油の生産は落ち込み、世界的な原油安もあって政府の歳入は激減しました。収支バランスの悪化により南スーダンの通貨は暴落し、食糧を含めほとんどの物品を輸入に頼っている南スーダンでは、生活必需品の価格が高騰しました。南スーダン政府統計局によると、現在南スーダンのインフレ率は600%を超え、不名誉にも世界一となっています。そんな中、高騰した食糧を買えない人々は、食糧を求めて近隣国へ難民となって流出しています。紛争が続き非常に厳しい人道状況におかれているスーダンダルフールにさえ、今年に入って7万人もの南スーダン人が難民となって押し寄せているのです。

 

このような経済の崩壊による食糧危機は、2015年までの紛争や自然災害による局地的な危機と違って、南スーダン全国に甚大な影響を及ぼしています。事態を受け、国連WFPは今年、これまで自立支援を中心としてきた地域の一部で、緊急食糧支援を始めました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171707j:plain南スーダンの人々の命綱となっている食糧支援 UN Photo/JC McIlwaine

 

今年7月初旬には首都ジュバで武力衝突があり、さらに事態が悪化しました。商業・流通の中心であったジュバからの供給が絶えた地方都市で、品薄により更に物価が高騰したのです。これ以上の食糧難を防ぐために、国連WFPは大量の食糧を現地に空輸することにしました。ジュバでの戦闘を受け、私を含め数多くの国際職員は再度、近隣国への一時退避を余儀なくされましたが、最も必要な支援を届けるべく、不眠不休の努力を続けています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171753j:plain 緊急食糧支援のため、食糧を空中から投下 UN Photo/Isaac Billy

 

南スーダンにおいては、この4年半、人道危機から早期復興、そして開発へと続く道のりがスムーズに進まず、一進一退を繰り返してきました。よく、「人道支援から復興・開発への継ぎ目のない支援」が大切だといわれますが、それを実現するには、状況を常に把握し、支援方法を変える柔軟性と対応力が必要だと感じています。

 

私たちの最終目標は、「将来国連WFPが南スーダンに必要でなくなること」、すなわち南スーダンの食糧問題が解消されることです。道のりはまだまだ遠いですが、この目標がいつか達成されることを信じて、支援を続けています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171829j:plain国連WFPの自立支援プロジェクトの一環として、脱穀作業を行う人々 Photo: WFP/Samson Teka

 

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (11)

シリーズ第11回は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 南スーダン事務所 シニア・プログラムオフィサーの柏富美子さんです。UNHCRは、2011年の独立以前から南スーダンの国内避難民、帰還民、そして南スーダン国内にいる難民のための保護・人道支援活動を行ってきました。150万人を超える国内避難民を抱えて未だ情勢が不安定な南スーダンですが、この国が、同時に27万人を越える周辺国からの難民を受け入れていることを忘れるわけにはいきません。今回は難民の人々のストーリーも交えて、柏さんが所属するUNHCRの南スーダンでの活動をご紹介します。

 

第11回 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 南スーダン事務所

シニアプログラムオフィサー 柏富美子さん

難民の保護・人道支援活動を続ける

 

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                                                                        柏 富美子(かしわ ふみこ

                                                   UNHCR南スーダン事務所 シニア・プログラムオフィサー   

2001年にJPOとしてUNHCRチェコ共和国プラハ事務所で勤務を開始。その後、アフガニスタンカンダハール及びジャララバード事務所、ジュネーブ本部のアジア太平洋地域局での勤務を経て、2014年より南スーダンのジュバ事務所にシニア・プログラムオフィサーとして勤務。

 

2011年に独立した南スーダンは世界で最も新しい国。UNHCRは、独立以前から南スーダンの国内避難民、帰還民、そして南スーダン国内にいる難民のための保護・人道支援活動を行ってきました。

 

2013年12月に勃発した国内紛争、そして引き続き国内各地で起きている戦闘により、現在72万人を超える南スーダンの人々が周辺国(ウガンダ、エチオピア、コンゴ民主共和国、ケニア、スーダン中央アフリカ共和国)に難民として逃れ、さらに150万人以上の人々が国内での避難生活を余儀なくされています。更に、今年7月初旬に起きた首都ジュバでの戦闘の再燃は、これまで比較的安定していたエクアトリア地域から、新たに数万人の難民と国内避難民を生み出しています。独立に際して希望を胸に帰還した南スーダン難民の多くの人々が、わずか数年後に再び難民・国内避難民として家を追われている現状は、非常に胸の痛むものです。この人道危機に対して、UNHCRは南スーダン国内及び難民受け入れ諸国で支援活動を行っています。

 

このように150万人を超える国内避難民を抱え、未だ情勢が不安定な南スーダンですが、この国が、同時に27万人を超える周辺国からの難民を受け入れていることも忘れるわけにはいきません。南スーダンは、国境を開放してホスピタリティの精神を持って、庇護を求める周辺国からの難民を受け入れてきました。2016年前半だけで、すでに7000人を超える難民が南スーダンに庇護を求めています。難民と受け入れコミュニティーの関係に問題が生じることもありますが、南スーダンの人々の難民へのアプローチは、「共感」が基本にあります。これは、政府関係者を含む南スーダン人の多くが、過去に難民であった経験があることに関係しているのでしょう。南スーダンの国内問題を考えると、彼らの難民を受け入れ姿勢は特筆すべきものです。

 

 

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スーダン難民のアマル・バキスは、子どもたちに、アジョントック・キャンプに到着して初めての朝食を作っている。南コルドファンからの長い道のりでは、腐った食べ物しか口にすることができなかった © UNHCR/Rocco Nuri

 

 

南スーダンにいる難民の大多数はスーダン人で、南コルドファン及びブルーナイル州で5年近く続いている紛争を逃れてきています。その他、コンゴ民主共和国、エチオピア、中央アフリカ共和国からの難民が、国内にまたがる8ヶ所所の難民キャンプ、またはジュバその他の地方都市で生活しています。UNHCRは、南スーダン政府、国連機関及びNGO団体と協力し、難民の保護活動、支援物資の配布、その他シェルター、医療、水・衛生、教育、自立促進、女性のエンパワメントなど、多岐にわたる支援活動を行っています。また、難民の存在が長期化し、(紛争によりすでに困難な状況にある)受け入れ地域への負担が増すことを受け、現地コミュニティーへの支援、及び難民との平和的共存を目的とした活動も積極的に行っています。

 

祖国で家を追われ、南スーダンで新たな生活を始める難民の人々の暮らしは、困難の連続です。それでも、彼らの多くが、日本を始めとしたドナー国の人々の支援により、必要最低限の水と食料、教育、医療サービスを受け、キャンプで安全に生活することができています。中でも、人々の将来を築く教育支援は、多くの難民にとって、最も大切な支援の一つです。困難な生活環境にもかかわらず、笑顔で、教育の大切さ、将来への希望と夢を語る難民の人々のレジリエンス・強さには、いつも頭が下がる思いです。

 

そんな難民の人々のストーリーを、UNHCRスタッフが行ったファラとサイラのインタビューを通して紹介したいと思います。

 

 

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カヤ・キャンプに住むファラの夢は、教員資格を取ること ©UNHCR/Eujin Byun.

 

ファラ(22歳)は2012年にスーダンから逃れてきた難民の一人です。彼は、南スーダン北部マバン州にあるカヤ難民キャンプで、小学生に英語を教えています。キャンプで一番若い先生です。

 

「それまでも僕の村の周りでは、たくさんの人が爆撃により命をなくしてた。でも、ある日爆弾が僕の家の直ぐ近くに落ちたんだ。これ以上はここにいることはできない。そう思って、その日の夜、着の身着のまま自分の家を離れたんだ」

 

紛争のため、ファラは中等教育を終えることができませんでした。ファラは言います。「でも、僕は決して教育を諦めていない。僕の夢は、勉強を終えて、教員の資格を取ることなんだ」

 

「僕は読書が大好き。目を瞑ると、高く積み重なった本の山の上に座って、世界を眺めている自分が見えるくらいだよ。本がバオバブの木に実ればなぁ、なんて思うくらい。そうそう、バオバブの木は、スーダンの家の思い出なんだ。スーダンにいた頃は、学校が終わると、バオバブの木の下で日が暮れるまで何時間も読書をしていた。本を読んでいると、どんな悩みや辛さからも解放されたんだ」とファラは続けます。

 

「キャンプにる僕の生徒には、良い教育を受けることで、将来のリーダーになる道が開けるのだと信じて欲しい。生徒たちが、授業中に他のことに気をとられると、僕はダンスを踊るんだ。これが、魔法のようにうまくいくのさ。最初はみんな笑いだし、でもすぐに静かになって、勉強に集中するんだ。そういえば、スーダンにいた頃も、よくダンスを踊ったよ — 特に雨が降った後には。村のみんなが集まって、雨を祝福して踊るんだ。それは、本当に純粋な喜びの一時だった」 ちょっと遠い目をして、ファラはそう語ってくれました。

 

 

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ドロ・キャンプに住むサイラ(写真右)の夢はパイロットになって、世界中を旅すること ©UNHCR/Eujin Byun.

 

サイラは15歳。マバン州にあるドロ難民キャンプで暮らしています。彼女も、スーダンブルーナイル州で起きた紛争を逃れ、2011年、家族と共に南スーダンに辿り着きました。

 

「今でも、家を離れた日のことははっきりと覚えています。9月6日の午後4時頃でした。爆弾が私たちの町に落ちて、全てが焼き尽くされました。一瞬にして、逃げ出さなければなりませんでした。私は、当時2歳だった妹のダイアナを抱きかかえて、できるだけ速く走りました。教科書も、成績表も全部家に置いたままです。妹を守る以外は、家から何も持ち出すことはできませんでした。食べ物も飲み物もないまま、5日間道なき道を歩き続けました。当時11歳の私にとって、本当に辛すぎる状況でした」

 

サイラは家族と共に、ドロ・キャンプで新しい生活を始めました。UNHCRが最初にキャンプに開設した小学校で、サイラは勉強を再開することもできました。

 

「私は小学校をこのキャンプで終えました。そして、今でも中等教育を続けています。私の両親は、私の一番の理解者です。まだ10代なのに、友達の多くはすでに結婚しています。でも、私のお父さんは、私が好きなだけ勉強して、教育を終えるようにと、励ましてくれます。お父さんは、私と妹にいつも言うのです。教育が一番大切なことだって。お父さんは私たちに学校を卒業して、自分たちで結婚相手を決めて欲しいと言っています。そして何よりも、私たちに、他の女性に希望とインスピレーションを与えるような、強い女性になって欲しいと思っています」

 

「お父さんは、私に学校の先生になって、他の子ども達のロールモデルになって欲しいと言っています。でも私は、パイロットになって、世界中を旅したいのです。学校の授業で、世界には、スーダン南スーダン以外にも沢山の国があることを学びました。私は全部の国を訪ねてみたい。だから、パイロットになるのが、私の夢を叶える一番良い方法だと思うの。難民キャンプの先の世界を見るという夢を」 サイラは、大好きなお父さんと一緒に、笑顔で彼女の夢を語ってくれました。

 

南スーダンにいる難民の大多数は、祖国の情勢が不安定なため帰還の見通しが立たず、人道援助を引き続き必要としています。また、難民を受け入れている南スーダンの人々も、長引く紛争、そしてそれに伴う経済の疲弊、食料不足など相次ぐ試練に直面し、国際社会のさらなる支援を必要としています。

 

彼らは支援の受益者ですが、全く無力な人々ではありません。ファラやサイラのように、一人一人のストーリーがあり、それぞれの苦悩があり、そして困難を克服し夢を実現する可能性・力があるのだと、日々の活動を通して実感しています。

 

難民・国内避難民と一括りで語りがちですが、その裏には、それぞれのニーズとキャパシティーを持つ個別の人々がいる、そのことを忘れずに支援活動を続けていきたいと思います。

 

南スーダンの人々に一日も早く安定した生活が戻ることを祈りつつ。

 

 

UNHCRのホームページはこちら>>>http://www.unhcr.or.jp/html/index.html