国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(3)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第3弾は、三上俊生さんです。国連世界食糧計画国連WFP)と国連本部に20年以上勤め、船や航空機による輸送サービスの調達に従事されてきました。普段、新聞やテレビで目にすることはあまりありませんが、調達部は、国連の活動を裏で支える縁の下の力持ち。救援物資の供給や平和維持活動に必要な発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂などを現地に送る、まさに心臓ポンプの役割をしています。三上さんのお話からは、民間企業で得た仕事に対する厳しい姿勢と、国連という豊かな多様性に裏付けられた貴重な人生論がにじみ出ていました。


                        第3回:国連調達部運輸課 三上俊生(みかみ としお)さん

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【1956年三重県生まれ。1979年関西学院大学経済学部卒。大阪商船三井船舶(現商船三井)に10年勤めた後に1989年より世界食糧計画(本部・ローマ)運輸部門海上輸送課に勤務。10年の勤務後に2000年から2012年まで国連事務局(ニューヨーク)調達部運輸課などに勤務。2012年から2013年まで横浜国立大学非常勤講師。2013年より早稲田大学非常勤講師。】

 

国連職員になるきっかけは何でしたか?

1980年代後半の日本はバブル景気でした。社会人10年目の私は、当時働いていた会社での仕事のやり方に窮屈さを感じ始めていたので、転職ブームを追い風にして、ダメもとで憧れの対象でしかなかった国際機関への転職を画策しました。日本の企業の海外駐在員のようなひも付きの海外赴任ではなく、自分の力だけで世界を舞台にどのくらい通用するのか試してみたかったのです。2,3年国際機関で働いて、ハクをつけて帰国しようと目論んでいましたが、この目論見は、バブル崩壊で見事に外れました。国連で働き続ける以外家族を養っていく道がなくなってしまい、気づけば日本に戻ることもなく23年も国連に勤めました。

いくつかの国際機関の求人広告に募集をし、ある機関では面接までこぎ着けました。手ごたえがありました。結局、国連世界食糧計画国連WFP)のリクルートメント・ミッションが東京に来たとき、外務省に設けられた試験場で筆記試験、面接を受けました。合格通知の電話は忘れたころに職場にかかってきました。

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                                  国連WFPの援助物資のエアードロップ(UN Photo/Isaac Billy)

 

―学生時代に留学を経験されていませんが、英語力はどこで養ったのですか。

中学時代から英語には力を入れてきました。幼い頃に見たアポロ11号の月面着陸のときの、名人による同時通訳が、幼な心に魔法のように映った記憶があります。大学生の一時期、同時通訳に憧れしばらくの間大阪にある同時通訳養成スクールに通っていたこともあります。しかし、そこでブースに入ってヘッドフォンをつけて、骨子のあらかじめ決まっている国際会議の通訳のまねごとをしているうちに、徐々に自分の求めているものと違うという違和感が生じやめてしまいました。社会人になってからは、幸いにも英語をとても多く使う部署に配属され、日本にいながら仕事で使える骨太の英語を身に着けることができました。夜中まで、電話で石油製品の売り買いの交渉をロンドンのブローカーとやっていて、数字を聞き違えたり、製品のスペックを誤ったりすることが許されない状況でした。相手の言っていることを、分かったふりでやり過ごすことができない、真剣勝負でした。

 

―海運会社の仕事と国連での仕事がどのように関連しているのですか。

海運会社は平たく言えば運送屋。他人の荷物を預かり外航船で別の国まで運び対価として海上運賃を受け取ります。輸送につかう船舶を用船(チャーター)することもあります。

国連WFPは、国連の食糧援助機関。多量の援助食糧を援助国から被援助国に国際海上輸送します。国連WFPでの船積み担当官としての私の仕事は、海運会社の時とは逆に食糧を海運会社に託して輸送してもらうことでした。海運会社が要求する運賃が妥当か、使用される船舶は安全基準や環境基準を満たしているか、などを判断しつつ海運会社と輸送契約を結ぶ仕事をしていました。

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                                ジブチの港で救援物資を積むトラックと船(WFP/Thierry Geenen)

一方、国連事務局の調達部に移ってからは、PKO平和維持活動に関わる輸送が主な仕事でした。平和維持活動に従事する要員は加盟国から航空機で活動拠点に移動しますが、トラック、バス、救急車などの車両、発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂など重くかさばるものは海上プラス陸上輸送せざるを得ません。私のチームは、それらの物資を、公共入札を通じて業者を選定し輸送してもらう仕事をしていました。

また、輸送インフラが整備されていない平和維持活動の拠点では、迅速な輸送を実現するためにヘリコプターや飛行機を使用することが多いです。滑走路が未整備な場合は、ヘリコプターが活躍します。それらの航空機をチャーターするのも私のチームの重要な仕事でした。空と海とで違いはありますが、船のチャーターと航空機のチャーターは似通っているため、商船三井での経験が大いに役に立ちました。

このようにサラリーマン時代、国連WFP時代、国連事務局時代を通じて、国際輸送の仕事をしてきました。職場によって実際の職務内容は異なりますが、10年間のサラリーマン生活で叩き込まれた知識や仕事に対するアプローチが国連での仕事を可能にしていることは疑いがありません。

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                                              国連広報センターにて、インタビューの様子

 

―記憶に残る仕事上の思い出はありますか。

2011年4月4日、国連のチャーター機がコンゴ民主共和国の首都キンシャサ空港で着陸に失敗し乗員・乗客24人のうち23人が死亡するという悲惨な事故がありました。私は国連調達部で航空機のチャーターを担当していたので、事故調査のため技術専門家と監査専門家とともに航空機運航会社の本部のあるコーカサスのジョージアに出張しました。

航空機のチャーターの際には機体の安全性だけでなく、操縦士の飛行時間などを事前に書類審査するのですが、事故機の操縦士、副操縦士ともに最低飛行時間の必要条件を満たしていなかったことが、調査の過程で明らかになりました。この航空会社は、何とか国連とのビジネスを獲得するために国連に提出した書類を改ざんしていたのです。

そのほかにも問題点が見つかり、その会社は国連とビジネスができる業者としての資格の停止処分を受けました。

事故当日は豪雨で視界が悪く、このことが直接的事故原因ではないかというのが専門家の意見でした。しかし、提出された書類の改ざんを見抜く仕組みが国連の側になかったことも事実です。たとえ何パーセントであれ、そのことが事故に繋がったのではないのかと責任を感じました。後日技術部門の専門家とともに再発防止策を検討し上層部に提案しました。


もう一つ、国連WFP時代に思い出深いことがあります。国連WFPでは、現地にスタッフが赴き援助物資が援助を必要とする人々に確実に届いているかをモニターすることになっています。ところが、外国人に国内をあちこち動き回られることを嫌ったある東アジアの国の政府が現地でのモニターの範囲を厳しく制限すると言い出したのです。当時国連WFP事務局長だったアメリカ人女性は、これに驚きの反応を示しました。その国の政府に対し、自由なモニターができないのなら「援助を差し止める」と過剰とも思える通達をしたのです。私たちのチームがチャーターした船舶は、その時援助物資を満載してその国の港に向かっていました。あと数日で港に到着するという時点で、事務局長の通達が出たのです。職場の誰もが初めは外交上よくある口先だけの駆け引きだろうと思っていました。しかし、彼女は港に向かっていた船の目的地を別の国に変えることを指示し、船は本当に舵を切ったのです。私は、本当に援助を差し止めるのか、とビックリしました。船の針路が変わるや相手国側はあわててスタッフの現地入りを許可しました。手荒い方法であったかも知れませんが、そうしなければその国は動かなかったかも知れません。こういう決断力と結果に責任を持てる資質を真のリーダーシップと言うのだと感じました。

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スーダン・北ダルフールの国内避難民キャンプに援助物資を運ぶ国連WFPのトラック(UN Photo/Albert Gonzalez Farran)

 

―日本の若者へ何を期待しますか?

安全や安心ばかりを追い求めないで、もっと冒険してほしい。

今の若者は、私の若いころと比べるとよほどスマートで洗練されています。見知らぬ国に一人旅すると言っても、前もってウェブで調べることもできるので、前の世紀よりリスク回避のレベルが格段に上がります。国連で働きたいという夢を持っている有能な若者が、国連雇用契約期間の短さを知ると安定性に欠けるという理由で、進路を変えてしまう、というケースもあると聞きます。

そんな慎重派の人たちに知ってほしいことは、国連のどんな部署で働こうが仕事から得る満足感は、民間企業では決して得ることができない種類のものだ、ということです。人間には、人の役に立ちたいという根源的な欲求があると思います。偽善とか何かリターンを期待するのではなく、純粋に困っている人を助けたい、という気持ちです。一般的な会社では、会社にどれだけお金をもたらしたかで評価をされますが、国連だと「自分の仕事」に感謝をされると感じるのです。NPOやチャリティーなどでその種の欲求を満たすことも可能ですが、規模の経済、透明性、普遍性などを考えた場合、国連という仕組みほどよくできたものはないと思います。

国連で要求されるのは、ずば抜けた学力ではありません。日本には優れた専門知識、バランス感覚、勤勉さなどを兼ね備えた優秀な人材がたくさんいますが、外に出て行く若者が少ないと感じます。日本ではあまり知られていませんが、学部出身でも関連した職種での実務経験があれば国連に入る資格があります。「明日からオフィスで働いてくれたら自分の仕事が少し楽になるなぁ」と思える即戦力と、きちんとしたコミュニケーションができる人材が国連では求められているのです。

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        選挙物資を運ぶ国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)のスタッフ(UN Photo/Martine Perret)

 

―最後に、国連で一番感謝しているできごとや出会いは何でしょうか?

そうですね。国連のおかげで多くのことを学びました。とても重要なことを学んだなぁと感じるのは、無意識のうちに持っていた偏見や思い込みに気づけたことだと思います。

差別や偏見は悪いということは分かっていても、頭の片隅にステレオタイプや思い込みを多少なりと持っている人は多いと思います。例えば、ルワンダの人と初めて仕事をするときに、私はルワンダ人に会ったことがなかったので、どのくらい仕事を任せて良いものか、不安でした。相手にとっても初めて見る日本人が私だったかもしれないですね。しかし、彼はとても仕事をよくこなす人で、不安だった自分が恥ずかしかったですね。国連でさまざまな国籍の同僚と一緒に仕事をすることで、自分自身の中にあったステレオタイプや思い込みをひとつずつ解きほぐすことができたのは大きな宝だと思います。

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                                                             ルワンダ人のスタッフと

また、国籍もみんなバラバラの新しいチームで働いていたときのことですが、チームに大きな仕事が舞い込んできました。お互いの信頼関係もまだない不安なチームでしたが、厳しい期限に迫られ、ストレスによって、仮面が剝がれていく中で、お互いが素でコミュニケーションをするようになり、信頼が生まれました。仕事を一緒にやり遂げたときは、本当に嬉しかったです。達成感がみんなをひとつにし、チームを信頼することの大事さを肌で感じました。

大事なことをたくさん学ぶことができ、国連には本当に感謝しています。

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    2012年6月退官時の送別会で。スタッフの出身は東南アジアカリブ海、アフリカ、南米とみんな異なる。

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                               三上さんを囲んでインターン 伊藤啓太(左)とインターン 邱山川(右)

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット 5月開催」(9)

f:id:UNIC_Tokyo:20160412105214j:plainシリーズ第9回は、特定非営利活動法人難民を助ける会(AAR)理事長・立教大学大学院教授の長有紀枝(おさ ゆきえ)さんの話をお伝えします。認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム(JPF)の理事も務められる長さんに、日本人が問われている人道支援についてご寄稿いただきました。日本は、世界で2番目に国連の通常予算への拠出金が多く、開発・人道の分野で世界有数のドナー国ですが、一方で、日本の人道支援には改善すべき問題点も多くあると、長さんは指摘します。

 

 第9回 特定非営利活動法人難民を助ける会(AAR)理事長・立教大学大学院教授

             長有紀枝(おさ ゆきえ)さん

       ~世界人道サミットが私たち日本人に問いかけること~ 

            f:id:UNIC_Tokyo:20100219120829j:plain

早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。1990年よりAARにてボランティアを開始、1991年よりAARの専従職員となる。旧ユーゴスラビア駐在代表、常務理事・事務局次長を経て、専務理事・事務局長(00-03年)。この間紛争下の緊急人道支援や、地雷対策、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の地雷廃絶活動に携わる。2003年にAARを退職後、2004年より東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程に在籍し、2007年博士号取得。2006年7月より2011年3月まで認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム(JPF)共同代表理事。現在同理事。2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より2010年3月まで立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。2010年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・立教大学社会学部専任教授。

 

 

5月23-24日の両日、トルコのイスタンブールで「世界人道サミット」が開催されます。日本人にとって今年2016年は、例年にも増して国際社会との関係を意識する年。国連安全保障理事会に、日本は2009~10年末の任期以来5年ぶりに非常任理事国として復帰しました。加盟国最多の11期目になります。また人道サミット直後の5月26-27日には、日本が議長国となり、伊勢志摩G7サミットが開催されます。私たち日本人はこの機会をどうとらえるべきでしょうか。世界規模の紛争が常態化し、難民問題も空前の規模に拡大している現在、国際社会の中の日本の立ち位置、責務を改めて考える機会にすべきではないかと考えます。

 

私は、国際協力NGO・難民を助ける会(AAR Japan)の理事長として、また、NGO、経済界、日本政府が協力・連携して、日本のNGOによる緊急人道支援を支える仕組みであるジャパン・プラットフォーム(JPF)の共同代表理事(2006~2011)や理事(2011~)として、日本の市民社会の一員として、国内外の緊急人道支援に携わってきました。その立場から、この原稿では世界人道サミットと日本の人道支援のかかわりを考えていきたいと思います。

 

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JPFのインド洋津波緊急支援のモニタリングで訪れた、インド・タミルナド州で。津波を乗り越え無事に誕生し、「ツナミちゃん」という名前がついた赤ちゃんと。

 

日本の人道支援NGOを取り巻く2つの課題

難民を助ける会(AAR)創設から37年目、ジャパン・プラットフォームも設立から15年が経過しました。日本のNGO人道支援を取り巻く環境はこれら2つの組織の創設時と比べて格段に整備されてきています。

 

しかし、今日の、ますます深刻化し、常態化する世界の人道危機を考える時、規模は縮小したとはいえ、引き続き国連の通常予算への拠出金世界第2位の国、開発・人道の分野で世界有数のドナー国のNGOとしては、あまりに不釣り合いな、残念な現状も存在します。私たちNGOがまだまだ力不足であることもその一因ではありますが、同様に大きな課題として(1)自然災害への高い関心と対照的な紛争地への低い関心(あるいは紛争地への支援を控えようとする力学)、(2)国際基準から外れた安全基準の2つを挙げることができます。

 

私は、今回の人道サミットが、そうした課題を乗り越える、とまではいかずとも、少しでも改善できる機会となることを強く期待しています。

 

1)災害支援から紛争起因の人道支援

「困った時はお互いさま」。37年前、難民を助ける会の設立に際し、創設者の相馬雪香が広く呼びかけた言葉です。過去20年間、日本のNGOによる人道支援に携わってきましたが、明らかに一般の方々の関心が高まってきたことは実感します。

 

その一方で、一向に変化がない、あるいは第二次世界大戦を経験した人が少なくなる昨今、20年前より状況が悪くなっていると感じることもあります。日本人の関心が、地震津波、サイクロンといった、まさに他人事ではない、大規模な自然災害では大きく高まり、日本人の「人道的関心」や想像力が、余すところなく発揮され、それにより募金の額も増えるのに対して、紛争に起因した人道危機に際しては、反応が大きく鈍るという事実です。これには日本での国際ニュースの少なさも関係しているとは思います。

 

JPFの代表理事として、多くの企業を訪問させていただいた際の経験ですが、自然災害に際しては、発災後きわめて迅速に、大変ありがたいご寄付をくださる企業の方々が、紛争起因の人道危機に際しては、担当者の方は深い理解を示してくださりつつも、「紛争起因の人道危機を支援することに、株主、お客さま、従業員、役員といったステークホルダーの理解が得られない」という趣旨のことを口にされます。「自然災害に際しては、被災者は100%被害者だという認識があり、その支援に反対する人はいない。他方で紛争は自業自得、という感もある。紛争地の難民問題に支援を行うと、自社が政治的と見られる懸念がある」とおっしゃられた方もいます。そしてこれは経済界のみならず、日本全体の傾向でもあるように思います。

 

紛争に起因する危機との距離感。これはもしかしたらシリア難民をはじめとする、難民の受け入れに対して消極的な世論と重なる部分があるのかもしれません。日本人が国際社会の一員として、「名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)、しかるべき国際貢献をしていこうという今こそ解決すべき問題であるように思います。そして人道サミットで議論される課題が、あるいは人道サミットの開催そのものが、こうした傾向を考え直すきっかけになればと思います。

 

2)邦人に対する安全管理の改善

自国の民や同朋を最優先する姿勢は、民主主義国家であればどこの政府も同じです。しかし、現在の日本政府の日本のNGOに対する姿勢は、開発や人道援助分野に多大な貢献をしている先進ドナー諸国のいずれの国とも異なるものです。

 

現在、日本の人道支援NGOに対しては、国連機関や国際機関、他国のNGOが活動している地域であっても、日本政府が退避勧告を出した危険地へは日本のNGOの立ち入りを許可しないという政策がとられています。一般の旅行者と同様の制限が、人道支援を職業とする専門家の集団にも課せられているのです。他方で、国連・国際機関、外国のNGOで働く日本人にはこうした制限は課されていません。日本のNGOに所属する日本人については保護の名目で活動を制限するというこうした姿勢は、人間の命を守るという意味での「人権思想」とは全く異質のものであるように感じます。現に、「人権思想」が根強い欧州、特に北欧の国々では、危険地に自国のNGOを行かせないのではなく、危険地で、いかにNGOが自らの身を守りながら受益者の命を守る活動ができるかという観点から、自国・他国を問わずNGO全般の安全対策に多大な財政支援を行っているからです。

 

危険地での人道支援や難民支援活動に対しては、「日本は国連機関や国際機関にカネだけ出していればよい(その「カネ」・拠出金とて、大きく減額されていますが)」、「日本人は、危険なところに行く必要はない。危険地での人道支援活動は、国連機関や外国人に任せておけばよい」という姿勢では、世界の中の、日本の責任が果たせるでしょうか。

 

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AARがトルコ国境で運営する、シリア難民のためのコミュニティ・センター開所式にて。シリア難民と近隣のトルコの子どもたちと。


もはや日本は一国では生きていけません。東アジアの小さな島国に住む私たちは、石油やガスといったエネルギー、食糧は言うまでもなく、海外から輸入される、おびただしい物資や情報の上に、今の私たち日本人の豊かな日々の暮らしがあります。

 

日本は、この1月から国連安全保障理事会非常任理事国を務めています。また国連憲章の改正や国連改革に注力し、日本の常任理事国入りを目指す方々もおられます。そのような、国際社会の中でしかるべき地位を占めようとする国が、国際の平和と安全に寄与しようという日本の市民の組織・NGOの活動に、ひいては、国際社会の人道支援そのものに、どのように向き合うのか、この世界人道サミットがそれを再考する機会になることを願っています。

 

関連リンク:

特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR Japan)

ウェブサイト:http://www.aarjapan.gr.jp/

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Twitterhttps://twitter.com/aarjapan

 

特定非営利活動法人 ジャパン・プラットフォーム(JPF)

ウェブサイト:http://www.japanplatform.org/

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わたしのJPO時代(14)

 「わたしのJPO時代」第14回は、世界保健機関(WHO)カンボジア事務所の保健システム開発アドバイザー兼上級プログラム管理官である竹内百重さんの話をお届けします。WHO職員の突然の電話から、年齢制限ギリギリでJPOを受験した竹内さん。2人の娘を連れてジュネーブへ渡り、アカデミックな雰囲気の中、専門知識を深めたそうです。その後は正規職員としてWHO本部のプランニングに携わり、現在はフィールドで活躍していらっしゃいます。そうしたキャリアの影には熱心に指導してくれたメンターの存在が欠かせなかった、と竹内さんは語ります。

            

           世界保健機関WHOカンボジア事務所

                          保健システム開発アドバイザー 上級プログラム管理官

                                         竹内 百重(たけうち ももえ)さん

   ~専門分野とマネジメントを軸にしたキャリアパス:メンターが与えてくれた道標~

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                                          WHOカンボジア事務所にて(2016年現在)

 

上智大学大学院比較文化専攻(国際経済と開発論)修士東京大学大学院(保健学)博士。大学院時代はモンゴルやヴェトナムで移行経済と健康についての調査研究を行う。国立病院管理研究所、WHOインターン(欧州地域事務所)、民間シンクタンク、JICA短期専門家(タイ)、私立大学講師などを歴任の後、2001年にJPOとして世界保健機関(WHO)本部に赴任。2003年より同本部でプランニング担当官に着任。以降、WHOバングラデシュ事務所(ポリオ撲滅・予防接種拡大計画)、WHO西太平洋地域事務所(保健システム強化)を経て、2012年よりWHOカンボジア事務所に上級プログラム管理官として赴任。2015年3月より保健システムのチームリーダーと兼任になり、援助協調や国連チームとの調整の他、保健政策支援、保健財政、保健人材、健康と高齢化などのプログラムを通してカンボジアのユニバーサルヘルスカバレージを支援している。

 

 

私のJPO時代の始まりは、思いもかけない一本の電話がきっかけでした。当時私は、日本の地方都市で教職についていましたが、ある日、「WHOジュネーブのK」と名乗る人から突然、連絡がありました。WHO本部の保健財政部門でコーディネーターを務めているというKさんは、私が以前応募したポストの不合格者のファイルから私の履歴書を見つけ出し、興味を持ったとのこと。ただし、彼女の部署には予算がなく、「WHOで働きたければ、まずJPO制度を利用して来てほしい。その後、正規職員になれるよう私が支援もしてあげるから。JPOの応募締め切りが3日後なので、メールでは間に合わないと思い、電話することにした」との説明でした。

 

健康にかかわる国連機関で働きたいという希望はあったものの、なぜかJPOは30歳までの制度だと思い込んでいたうっかり者の私は、そのような成り行きで、当時の年齢制限(32歳)ちょうどの時に、滑り込みでJPOを受験しました。

 

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WHOバングラデシュではポリオ撲滅・予防接種のプログラムに勤務し、全国予防接種デーやキャンペーンのモニタリングで国中を駆け回った(2007年)

 

JPO試験の面接では、配属先が大きな焦点になりましたWHOは、UNICEFなどと比べて正規職員として残ったJPOの前例が少ないという理由から、面接官は、UNICEFのカントリーオフィスを志望すべきだと勧めます。私自身も本来はフィールド志向が強いのですが、今回の応募の経緯と、Kさんのように引っ張ってくれる上司がいるのは稀有な機会だと思うと説明し、理解をいただきました。そして2001年3月末、7歳の長女と生まれたての次女を抱え、初春のジュネーブに赴任したのでした。

 

私の赴任した部局は、保健医療分野での「エビデンスに基づく政策」を推進しており、前年に出版された『世界保健報告』の方法論に従い、各国の保健システム強化の支援に必要な調査研究に当たっていました。このような戦略や指針作成につながる調査・研究、そして統計の整備などの活動は本部の主要な機能のひとつですが、この当時は、学者から転進した新進気鋭の局長がこの部局を率いていたこともあり、非常にアカデミックな雰囲気で、同僚と呼ぶにはおこがましいような、国際的に著名な医療経済学者が集められていました。会議といっても事務的なものではなく、統計解析の方法論などについて真剣な議論が行われるので、イメージしていた国連の仕事とはかなり異なり、これは大学院時代以上にまた勉強しなおさないといけないと、身が引き締まりました。

 

私の場合も、たとえP2レベルであっても専門職員である以上、着任後すぐに自分から着想や研究計画を提言することが求められていました。特に新しく作られたJPOのポストだっただけに、すでに走っているプロジェクトがあるわけではなく、まずは自分で貢献できる分野を見つけて仕事を作っていかなくてはいけない状況でした。

 

試行錯誤で1ヶ月があっという間に過ぎた頃、Kさんから「日本人は真摯に仕事をし、必ず結果を出す、という一番基本的な部分で信頼できるけれど、丁寧にやりすぎてスピードや効率に欠けるところがある。質も大事だけれど、時機を逃したら価値はゼロ。もっとタイムリーに結果を出すことを心がけなさい」という助言がありました。要は、私と同じP2レベルの当時の同僚2人に比べて、私の仕事のペースが遅く見られているという厳しい指摘だったのです。

 

同僚がすでに行っている研究内容の理解や、自分自身の研究テーマを見つけるのにかなり時間を浪費した私にはとても耳に痛い忠告でしたが、率直な指導に感謝しつつ、仕事の質と効率の良い均衡点を徐々に定められるように努力を重ねました。また、世界のトップレベルの仕事をしている同僚や上司との議論や、職務上読む必要のあった膨大な量の文献、また、本部ならではの特典である、内外のいろいろな会議やセミナーに参加したり傍聴できたりすることで、JPOの2年間で大学院何年分にも匹敵する知識の吸収、専門分野の知見が広がりました。

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マニラのWHO西太平洋地域事務局勤務中、ソロモン諸島に出張し、保健システム強化のプロポーザル作成を支援。保健省カウンターパートを海岸でのクリスマスパーティーに招待(2011年)

 

JPO2年目は、研究業務だけでなく、もう少し加盟国の実情を学ぶ仕事もしたいと希望を申し入れ、同じ部局の中で、国毎の保健制度の情報を色々な形にまとめて提供するプロジェクトを行っているチームに配属してもらいました。191の加盟国の保健システムや政策のプロファイル作り、各国の保健指標を一覧にした初めてのカントリーウェブサイトなどを作る仕事を任され、具体的な成果を出すことができたのは良かったと思っています。副産物としても、内部での情報収集の段階で、多くの部署の部長レベルの職員と面識ができ、またWHO内のさまざまなプログラムや保健指標のことを学ぶ機会を得ました。

 

JPO2年目の後半になると、Kさんは当初の言葉通り、正規職員のポストを得るための実践的指導をしてくれました。保健システムの部署は当時財政難だったので、別の部署のポストを狙うように薦められました。「国連で働き続けたいなら、とにかく2年以上の正規職員のポストを取るのが最優先。正規職員になっていれば、保健システムの仕事には必ず戻れるから」というのが理由でした。

 

彼女自身、以前にいた別の国際機関では、ポジションを得るために、人事畑まで経験したといいます。そして、その職務経験は管理職になった今大いに役立っているので、仕事選びも長期的視点を持つべきである、との助言でした。当面の生き残りしか頭になかった当時の私には大変大それた考えのように思われましたが、WHOで働き始めてから15年、予算や人事にも深く関わる立場になった今振り返ると、全てがその通りだったとあらためて敬服しています。

 

結局、履歴書の書き直し、筆記試験対応、模擬面接までを厳しく指導してもらい、応募者300人と聞いた、本部のプランニングの部署で正規職員(P3)のポストに合格することができました。その後3年半勤めたプランニングの部署では、WHO全体の中・長期戦略作りや2年毎の予算計画の策定、実施のモニタリングなどを行いました。この仕事を通し、他の国連機関や援助機関、政府高官たちとの議論にふれる機会があり、大きな刺激になるだけでなく、現在も有用な、国際保健の専門家たちとの強力なネットワークができました。

 

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                     JPOから無事正規職員に昇格した直後の夏、WHO本部の玄関前で、家族と(2003年)

 

そして、このプランニングの仕事をした時の知識と経験が、現在いるカンボジア事務所でのプラグラム管理の仕事にもつながり、また、カントリーオフィスの所長代行としての職務遂行にも大いに役立っています。また、Kさんの予言通り、本部を5年半で飛び出した後は、バングラデシュ、フィリピン、カンボジア、とフィールドに近い仕事に戻り、色々な形で保健システムに深く関わる仕事を続けることができました。このように保健システムの専門分野とマネジメントの両方をうまく組み合わせながら過去15年間をキャリアアップにつなげることができたのは、そのような先見の明をもたせてくれた素晴らしいメンターの適切な助言があったからに他なりません。

 

以上、私自身の個人的体験ではありますが、他のJPO同期や後輩を見ても、WHOのような専門機関の場合、正規職員に残るという目標を優先すると、本部勤務のほうが可能性が高まるケースも多いかと思います。特に、専門分野がかなり特定されている応募者の場合は、本部のほうがその後につながるポストがある、あるいは作ってもらえる可能性が高い場合もありますし、人脈やネットワーク作りにおいても有利な場合も多いでしょう。

 

一方、カントリーレベルで、政府担当者を直接支援し、他のドナーと連携して働く経験は、WHOの仕事の中でももっともやりがいと醍醐味のある部分です。私の場合、すでに学生時代からすでに途上国での経験がありましたが、JPO以前に途上国で働いた経験がない場合は、フィールド経験の重要性も考慮する必要があるとでしょう。またWHOの場合には地域事務所の役割がかなり大きいので、指針作りとカントリー支援の双方をバランス良く体験できる面で、地域レベルの仕事も一考に価するかと思います。

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“赤ちゃんにやさしい病院” に認定されたタケオ州立病院にて、カンボジア保健大臣と共に式典に参加、病院視察(2014年)

 

WHOのみならず、国連をめざす若い方にとって、JPOは、2年間の成長の機会を与えてくれる素晴らしい制度ですので、ぜひ前向きにとらえ、新しい道を切り開くための一歩を踏み出してみてください。

 

WHOについて詳しくはこちら

 

2016年度JPO試験の募集要項はこちら

4月6日は「開発と平和のためのスポーツ国際デー」:スポーツが世界の子どもを救うとき ~ 今なぜスポーツなのか ~

スポーツ無しには子どもの将来は見えないといっても過言ではありません。スポーツは我々が想像する以上に大きな作用をもたらします。ただ健康に良いという認識ではなく、脳科学の視点から脳に良い影響をもたらすことが確認されています。定期的なスポーツは脳内神経ネットワークを形成し、知能発達、情報収集能力を助長させます。それ故、発達の著しい段階にある子ども達にとってスポーツは不可欠です。しかし、世界中の子ども達全員にスポーツをする機会がある訳ではありません。子ども達の成長にとって「教育を受ける権利」と同様、「遊びやスポーツをする権利」が求められている。安全かつ健康な環境で、遊びやリクレーションを楽しむ場の提供の重要性を再認識する必要があるでしょう。今なぜスポーツなのか、 UNICEF東京事務所の 平林 国彦 代表の寄稿をお届けします。

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 ©UNICEF UNI/47750/Cranston

「当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。」小豆島高校の樋本尚也キャプテンの、今年の春の選抜高校野球大会での選手宣誓の言葉は、私の心に強く響いた。憧れの晴れ舞台に立つ子どもたちも、その機会を持てなかった子どもたちも、多くの人たちからの支えを受けて、野球というスポーツを続けてこれたのであろう。実際、スポーツや遊びは、子どもたちの生活に良い変化をもたらす力がある。野球に限らず、陸上競技、サッカー、クリケット、バレー、バスケット、ラグビー、水泳など、世界中で子どもや若者が、様々な形で、スポーツや遊びに魅了され、夢中になっている。これは、子ども時代に誰もが経験すべき、素晴らしい体験であろう。

一方、笹川スポーツ財団が実施した2015年の調査を見て、正直驚いた。日本国内で運動・スポーツを学校以外で1年間「全く実施していない」という4歳から9歳の子どもたちの割合いは、3.7%(私の推計ではおよそ25万人)であるという。以前の調査よりは減少しているということではあるが、依然として憂慮すべき数字である。親の収入と、子どもの学校外スポーツの実施率に相関関係があり、貧困家庭に暮らす子どもたちが、運動・スポーツができていない現状が浮かびあがる。日本人は、多くの努力と犠牲を払って、すべての子どもたちが、楽しく遊び、平和で安心して運動・スポーツができる環境を、戦後の廃墟から着実に築いてきたはずなのにである。

最新の脳科学分野の研究によれば、適切な遊びや、運動・スポーツを定期的に実施する子どもたちは、脳内の神経ネットワークがより多く形成され、知能の発達や新しい情報を取り込む能力に優れている傾向にあることが指摘されている。また、スポーツは、子どもたちや若者に、チームワークの大切さ、集団・組織などにおける行動の規律や、相手を尊重することの重要性など、人としての社会の中で生きる基本的な術を習得する効果があると考えられている。つまり、適切な遊びや運動・スポーツは、教育と同じくらい、子どもたちの人生に大きな影響力を持っている。

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©UNICEF/UNI/106558/Crouch

すべての子どもたちは、「教育を受ける権利」と同様、「遊びやスポーツをする権利」を持っている。日本も1994年に批准した国連子どもの権利条約では、加盟国に対し、全ての子どもたちに、安全かつ健康な環境で、遊びやリクレーションを楽しむ場を与えるよう求めている。UNICEFでは、スポーツが持つ様々な恩恵を通じて、全ての子どもたちが、自らが持つ可能性を最大限発揮できる世界を実現できるよう、日本政府や日本企業などを含む様々なパートナーの方々とともに、世界中で支援活動を行っている。

私は、以前、紛争下にある中東の国で、国連の重いヘルメットと防弾ベストを身にまといながら、戦闘で傷ついたり、戦闘や爆撃から身を守るために避難をしている子どもたちの支援を行っていたことがある。爆撃や地雷の被害にあった子どもたちばかりでなく、家族や友人が目の前で亡くなるのを目撃した子どもたちも多くいた。その中で、両親を失った1人の5歳の女の子のことが、私には気にかかっていた。引き取った親類とともに、その子は近くの学校に避難していたが、顔には生気が全くなく、周りの子どもたちともあまり交わらず、いつも一人でたった一つ残った人形を抱きしめていた。そんなある日、UNICEFが様々な遊び道具とともに、Child Friendly Space(子どもたちが安心して、友達と楽しく遊べる場所)を彼女が暮らしている学校の校庭に設置できることになった。しばらくして、そのChild Friendly Spaceを訪れてみると、彼女は、新しくできたお友達と、楽しそうに絵を描いたり、みんなとフラフープで遊んでいた。彼女に、子どもらしい一面がようやく戻ってきた、と安堵した瞬間でもあった。

日常的に暴力的な行為を受けたり、自然災害や紛争で悲劇を繰り返し目撃することは、子どもたちの脳に不可逆的なダメージ(Toxic Stress)をもたらすことが知られている。人道支援下や様々な暴力を受けた子どもたちに、早期に遊びや、運動・スポーツの機会を与えることで、子どもたちがこのようなストレスを受けるリスクを減少することができる。

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©UNICEF/UNI/197264/Mackenzie

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UNICEFリクレーションキット〈左〉とEarly Childhood Development キットの例 

少数民族や、女の子たちや障がいのある子どもたちなど、差別を受けている子どもたちが、積極的にスポーツに参加することで、公平な社会造りに貢献できることも知られている。さらには、運動やスポーツに積極的に取り組んでいる子どもたちは、何でも話し合える仲間をつくりやすく、少年兵などの誘いや、薬剤やアルコールからの誘惑に打ち勝った事例も多く報告されている。

また、スポーツには、子どもたちやコミュニティを動かす力、そして多くの人たちを巻き込んで強い団結力を築く、不思議な力がある。そして、著名なスポーツ選手は、子どもたちや若者が、苦難を乗り越えたり、成功をつかむための良いモデルとなり、さらには、そのような尊敬を集めるスポーツ選手たちが集うワールドカップやオリンピック・パラリンピックのような大規模なスポーツ大会は、子どもたちにとって重要な問題を世界中の人たちが気づき、そして支援してしてくれる機会を提供してくれる。

しかし、その一方で、スポーツと遊びの場が子どもたちへの体罰や虐待にもつながっているという報告が、近年増加していることも確かである。このような悲劇を根絶させるためにも、すべての国がスポーツに関する暴力から子どもたちを保護し、安全を守るための方法を強化しなくてはならない。

今年の2月25日、以前勤めていたUNICEFアフガニスタン事務所のフェイスブック上で、とてもうれしいニュースを見た。アフガニスタン少数民族のハザラ人の5歳のムルタザ・アフマディ君は、兄がビニール袋で作ってくれたアルゼンチン代表メッシのユニフォームを着てとても喜んでいた。この写真がフェイスブック上に投稿されたことで、「アフガンの小さなメッシ」として有名になり、本物のメッシから直筆サイン入りのユニフォームをプレゼントされたのだ。偉大なスポーツ選手が、紛争や貧困・差別に苦しむ1人の子どものことを対等に見てくれたという事実は、多くの人が彼の行動に共感し、ムルタザ君ばかりでなく、同じような境遇の多くの子どもたちに、夢と希望のメッセージを届けたであろう。

       

スポーツの持つ力は、今年から始まった新しい世界的な開発目標「持続可能な開発のための2030アジェンダ」においても、特に重要視されている。それは、スポーツが持つ、フェアープレーと対戦相手への尊厳の精神、世界中の人の周知を集められる能力、そして若者や社会的弱者である女性や少数民族、障がいのある人たちの参加を促進する力が、持続可能な開発を実現させるためには必須だからである。

このように、多くの子どもたちが、スポーツを楽しめる環境が整備されつつある一方で、2011年から始まったシリア危機は、すでに6年目を迎え、シリアの子どもの3人に1人に相当する推定370万人が、5年前の紛争開始以降に生まれ、暴力や恐怖、避難による影響を受けている。その子どもたちのうち、30万6,000人以上は難民として生まれている。そして、紛争の影響を受けているシリアの子どもたちは、シリアの子ども人口の80%以上にあたる約840万人に上るとUNICEFは推計している。そのような子どもたちは、かつては、豊かでなくとも、安心して学校に通い、友だちと遊びやスポーツを楽しめたが、その故郷はもうない。

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© UNICEF/UN013172/Al-Issa

 2013年9月,国際オリンピック委員会IOC)総会でのプレゼンテーションにおいて,安倍総理は,スポーツ分野における我が国政府の国際貢献策として,Sport for Tomorrow(SFT)プログラムの具体的な内容を発表した。SFTは2014年から2020年までの7年間で開発途上国を始めとする100カ国以上・1000万人以上を対象に、世界のよりよい未来をめざし、スポーツの価値を伝え、オリンピック・パラリンピック・ムーブメントをあらゆる世代の人々に広げていく取組みだ。2019年のラグビーワールドカップや、2020年の夏のオリンピック・パラリンピックを開催する日本。敗戦から立ち上がり、平和と安全な社会を実現してきた日本だからこそ、この大きなスポーツイベントを、単なる観光やビジネスのチャンスと捉えるのではなく、SFTなどを通じ、日本が、安全で平和な世界をつくるためのリーダーシップを発揮できる機会として考えてほしい。そして、暴力や破壊しか知らない子どもたちに、夢や希望をかなえられる世界は実現できる、ということを実感させてほしい。

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©UNICEF/UNI/185317/Page

平林 国彦 (Kunihiko Chris Hirabayashi)

2010年4月よりUNICEF東京事務所代表。

1994年から約10年間、国立国際医療センター国際医療協力局に勤務し、ボリビア、インド、ホンジュラスウズベキスタン南アフリカベトナム等の病院での技術指導、保健省での政策立案支援などを担当。JICA専門家・チーフアドバイザー、WHO短期コンサルタントなどを経て、2003年からUNICEFアフガニスタン事務所(保健省シニア・アドバイザー、UNICEFアフガニスタン事務所保健・栄養部長)、およびレバノン事務所(保健栄養部臨時部長)を歴任。2006年9月から2008年6月までUNICEF東京事務所副代表。2008年7月からUNICEFインド事務所副代表。1984筑波大学医学専門学群卒 医師免許取得、循環器外科を専攻(筑波大学付属病院、茨城こども病院、神奈川子ども医療センターなどで研修)。1994年筑波大学大学院博士課程終了、医学博士取得。

 

 

 

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(8)

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シリーズ第8回は、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)元難民保護官で現在JICAシニア・アドバイザーの帯刀豊さんです。「難民の数、そのニーズは増え続け、人道支援の許容範囲を越えつつあります。この閉塞的な状況を抜け出すための一つの方策は、難民に出口を提供する仕組みを作ることです」と帯刀さんは強調します。難民と真摯に向き合ってきた帯刀さんが、難民問題の奥深さと、解決への展望を語ります。

 

                     第8回 国連難民高等弁務官事務所・元難民保護官 

                              現JICAシニア・アドバイザー 帯刀豊さん

                       ~人道と開発の連携による難民問題の「解決」に向けて~

 

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              帯刀 豊(たてわき ゆたか)

一橋大学法学部卒業後、東京銀行入行。外務省経済協力局出向、アジア経済研究所開発スクールを経て、エジンバラ大学、オクスフォード大学で国際法と難民・移民に関する修士号を取得。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷勤務を経て、2003年よりUNHCR職員。インド、スーダンイラクアフガニスタン、タイ・ミャンマー国境で難民保護官として勤務後、現在はJICAシニア・アドバイザー。

 

2011年、アフガニスタン北部のとある村でのことです。UNHCRの難民保護官として赴任したばかりの私は、村の長老達と対面しました。タリバン勢力の崩壊とともに進展したアフガン難民の帰還も一段落し、全人口の4分の1に当たる570万人以上の難民がすでに帰還を果たしていました。故郷に帰還した難民の晴れやかな顔を私は想像していましたが、やがて一人の男性が私にこう告げました。「仕事のない私には家庭で居場所がない。昨日、学校にも行けず暇を持て余していた息子が家を出て行った」男性はこう続けました。「パキスタンにいた時の方が幸せだった」

UNHCRは全土で帰還民を対象に緊急サーベイを実施しました。質問は、帰還したという実感はあるか、ということに尽きます。結果は、60%が生活を取り戻すに至っておらず、15%は再び故郷を去っている、というものでした。私はその結果に驚愕しました。帰還民の多くはまだ「難民」のままであったということです。「この過ちは直ぐに正さなければならない」と、当時のUNHCRアフガニスタン代表は表明しました。

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                                                              帰還したアフガン難民と

 

2013年、私はタイ側国境でキャンプ生活を送るミャンマー難民の帰還を準備していました。ミャンマーでは武装勢力が政府との停戦に応じ、誰もが帰還の条件が整いつつあると感じていた時です。UNHCRはまず、難民自身の意思を問う聞き取り調査を実施しました。結果は、90%以上もの多数が帰還を望んでいないというものでした。予想外の結果でした。

何が帰還を思い止まらせるのでしょうか。何度も停戦に裏切られてきた難民の心中は容易に察しが付きます。しかし私が気になったのは、その次の理由、就業と生計への不安、でした。かつてのアフガン男性の顔が目に浮かびました。数か月後、私はキャンプ内で、とあるNGOによる映画上映会に立ち会いました。現実の将来を見通せない難民は映画に希望を見出せるのだろうかと、正直私は懐疑的でした。しかし翌日、私はキャンプ内で活発に動き廻る若者の一団と遭遇しました。「映画を見せるだけでなく、映像の撮り方を教えているのです」とそのNGOの職員が私に言いました。「若者は母国に戻ってニュース番組を立ち上げたいそうです」

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                                      難民を乗せたボートの行き交うタイ・ミャンマー国境の川

 

難民が「難民」でなくなることは容易ではありません。一方で、新たな難民と紛争による国内避難民の数は増え続け、ついに統計を取り始めて以来最大の6000万人に達しました。昨今のシリア情勢でも明らかなように、難民を生み出す紛争に終止符を打つことは政治的にも軍事的にも容易ではありません。難民の数、そのニーズは増え続け、人道支援の許容範囲を越えつつあります。

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                                               スーダンダルフールの避難民キャンプにて

 

この閉塞的な状況を抜け出すための一つの方策は、難民に出口を提供する仕組みを作ることです。実は難民の80%以上が開発途上国で受け入れられ、その半数以上が5年間以上、時に20~30年間もの長い間、難民生活を強いられています。そうした難民は昨今、キャンプでの受け身の生活に甘んじることなく、現地コミュニティに飛び出して自立した生活を志向し始めています。自立のために難民は、コミュニティ内で就業・生計手段の確保や教育の機会を必要としています。就業・教育を通じて継続的に難民をエンパワーメントしていくための支援。その比較優位を持つのは人道機関でなく、開発機関です。そして、難民がコミュニティの中で自立した存在となり得た時、それが受入国での現地統合という形であれ、帰還後の再統合という形であれ、難民が難民でなくなるという可能性が生まれるのです。

難民を生み出す紛争を止めることが難しいのであれば、紛争以外の要因のために長く難民状態に留め置かれた人々に対し難民であることを卒業するための手助けをする。難民問題においてはこれを、保護でも支援でもなく、解決(solution)と位置づけます。これは右肩上がりの難民支援ニーズを緩和することにも繋がり、ここに人道・開発連携の意義の一端が見出されるのです。

 

私は現在UNHCRからJICAへと出向し、この難民問題解決に向けた連携を追及しています。国際社会もまた、連携の動きを加速させています。2014年4月、UNHCRやUNDP等の国連機関、JICA等バイの開発援助機関、難民ホスト国、NGOや民間企業、大学研究機関、その他50以上の政府代表や国際機関が参集し、難民問題解決を目指す連携枠組み、’the Solutions Alliance’(SA) (http://www.endingdisplacement.org) を立ち上げました。UNHCRとJICAは共に、発足当初からこのSAの取組を積極的に支援しています。世界人道サミットにおいてもまた、’Leaving No One Behind: A Commitment to Address Forced Displacement’を旗印とした難民問題の解決、また’Changing People’s Lives: From Delivering Aid to Ending Need’をモットーに、包括的な連携枠組構築が優先分野として強調されています。UNHCRとJICAもその趣旨に強く賛同し、同サミットの場において、難民問題解決に向けた人道・開発連携の実績と提言を積極的に発信することを予定しています。

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2015年、私はザンビアウガンダを訪れました。SAは両国をモデル国に指定し、現地統合を通じた難民問題の解決を支援しています。難民に土地と生計手段を供与し、ホスト・コミュニティと共に国の開発の担い手として育てるという取組。難民問題解決に向けたこの稀有な取組をUNHCR・JICAとしても後押ししています。両国での取組は、世界人道サミットにおいても取り上げられるはずです。まずはこれらの国々で、人道・開発連携の目に見える成果を挙げることができればと、そう考えています。

 

国連難民高等弁務官事務所UNHCR)について、詳しくはこちらもご覧ください。

 

国連難民高等弁務官事務所ホームページ(日本語)

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東京マラソン2016チャリティで日本と難民のかけはしに ―難民の学生とともに―

2016年2月28日(日)、東京マラソン2016。青空の下、真っ青なTシャツを着た7人組が東京の街を駈け抜けました。国連UNHCR協会公認企画「難民かけはしプロジェクト」のランナーたちです。

「日本と難民の方々のかけはしになる」その思いを胸に42.195kmのフルマラソンに挑戦したランナーたちと、それを支えた仲間たち。彼らの思いを聞き取り、以下にまとめました。 

  

                                             そろって出発する難民かけはしランナーたち。
                                 プロジェクトに賛同してくださったサポートランナーの方々も。

 

「難民かけはしプロジェクト」とは

難民かけはしプロジェクトは、難民という背景を持つ学生と難民問題に関心を持つ学生が、ともにチャリティランナー制度を利用して2016年2月28日(日)に行われた東京マラソン2016に挑戦したプロジェクトです。スポーツという親しみやすい切り口から日本の皆さまに難民問題に関心を持っていただくための広報啓発活動と、東京マラソンチャリティのクラウドファンディングサイトを利用した、難民キャンプにテントを届けるためのファンドレイジング活動を行いました。国連UNHCR協会の公認企画として、学生が2015年4月にゼロから自主的に立ち上げて運営してきたものです。

 *国連UNHCR協会は東京マラソン2016チャリティの寄付先団体です。 

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                                                                 日々の活動の様子

 なぜマラソンなのか

難民問題を考えると言うとどうしても硬くなりがちですが、スポーツやマラソンという親しみやすい切り口から、より多くの方に身近に感じてもらいたいと考えたのが理由です。2月初めにランイベントを開催した際「まじめな講演会だとハードルが高いけれど、ランニングだから参加できた」と言ってくださった方もいて、この切り口の意味はあったと感じています

また、マラソンというスポーツには敵味方はありません。他のスポーツとは違いマラソンは42.195㌔という大きな困難な目標に向かって一緒に、仲間として挑戦できるという点がよいところです。

難民問題は悲惨な問題とみられがちで、実際そういう面もあるのですが、私たちのプロジェクトでは「難民の背景を持つ学生も日本人の学生も仲間として一緒にひとつの挑戦をする」というポジティブな面を見ていただきたいというねらいがあります。

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                                                     東京マラソン2016 当日の様子

 

難民かけはしプロジェクトを通して伝えたいこと

このプロジェクトは、難民という背景を持つ学生が走るというのが大きな特徴です。難民というと「着の身着のまま逃れてきて怖い人」と思っている人もいるかもしれませんが、日本で勉強したり日々の生活を送ったりしている彼らと接して私たちが強く感じているのは、「同じ人間なのだ」ということです。

難民問題は遠い問題に感じるかもしれないけれど、まずは日本にも難民はいることを知っていただき、彼らを通して日本の多くの方に難民問題へ関心を持っていただきたいと思います。

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                                                       難民かけはしランナー7名全員完走!!

       何人かが足を痛めながらも、おたがいのはげましや応援などにより、無事全員が完走を果たしました

 

ランナーたちの思い・学び

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私はインドシナ難民2世です。

今までとは違う挑戦をしてお世話になった方々への恩返しをしたい、同じ境遇の子どもたちに勇気と元気を与えたい、という思いでこのプロジェクトのランナーとして走ることを決めました。

東京マラソン2016本番は途中で足がつって、走るのがどうしても辛くなってしまいました。その時、小学校のころから勉強や進路のことでお世話になってきた金川先生に電話したんです。そうしたら先生が「アン、頑張ってるやん、いけるいける!」と励ましてくださって。共同代表の金井くんもずっと隣で声をかけながら励ましてくれました。そのおかげで走りきることができました。ひとりでは完走することはできなかったと思います。

このプロジェクトを通して、人前で話したり、マラソンの練習に取り組んだりと、成長することができました。これからも難民の方々のために自分にできることをしていきたいです。

 

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私はミャンマー難民2世です。

私は、日本にも難民が暮らしているということを少しでも多くの方に知ってもらいたいという思いから、このプロジェクトのランナーとして走ることを決意しました。

東京マラソン2016本番では徐々にみんなから遅れてひとりで走ることになってしまい、足が痛くて痛くて涙が出ました。心もからっぽになりかけていたとき、沿道応援のメンバーの「シャンカイさーーーん!!!」って声が聞こえて。それで一気に元気が出て、みんなとの約束(フィニッシュで会おう!)を守ろうとの思いだけで完走することができました。フィニッシュしたときは涙がとまりませんでした。

よくスポーツ選手が「皆さんの応援のおかげで力が出ました」と言うのをいままではあまり信じていませんでしたが、今回自分自身が応援の力を強く感じました。

 

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私はアフガニスタンから避難してきた難民です。

私はずっと前からマラソンを走ってみたいという思いがありましたが、日本に来る前はスポーツに打ち込む余裕はありませんでしたしランニングに関する知識もなかったので、その夢がかなうとは思ってもいませんでした。しかし難民かけはしプロジェクトが東京マラソンに出場する機会を与えてくれる、そしてそれが難民問題に関心を持ってもらうことや難民キャンプにテントを届けるためのファンドレイジングにつながると知って、すぐに走ろうと決めました。

東京マラソン2016本番では走っているうちにひざが痛くなって不安になりましたが、いっしょに走っていたランナーや応援のメンバーが応援したり、痛み止めを用意したりして支えてくれたおかげで無事にみんなとフィニッシュすることができました。

フルマラソン完走という大きな達成を経験したこと、その挑戦を日本の学生のみんなとできたこと、そして自分を支えてくれる仲間ができたことは、私の人生において大きな財産になることと思います。このプロジェクトを通して、日本のチームワークのスピリットの強さも感じました。今後はこの経験で得たものを活かして、「より平和な世界の実現に貢献すること」という自分の人生の目標を追いたいと思います。

 

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ラソンというスポーツには敵味方もなく、あるのは自分との戦いです。そんなときに仲間がいることは大きな支えになります。私たちが仲間としていっしょに東京マラソン2016に挑戦する姿から、背景の違いは関係なく、私たちはみな同じ人間なのだということ感じていただけたら幸いです。

世界ではいま、1日に4万人以上新たに難民が生まれている計算になります。つまり、東京マラソンの総ランナー数より多くの人々が家を追われ、応援もなくゴールも見えない新たな旅を強いられているのです。中には4000km、私たちが走る距離の約100倍の距離を移動する方々もいます。そうしたことに少しでも思いをめぐらせていただくことのきっかけになれればと願っています。

 

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ぼくはスポーツで社会貢献という理念に共感してこのプロジェクトに参加しました。

スポーツの醍醐味は、1つの目標に向い、全力でがんばる人がいて、それを全力で支える人が居ることです。これは世の中のどのような活動でも大事になることで、難民問題も同じだと思います。

難民問題は複雑で、直接解決に貢献するには専門的な知識や経験が必要だと思います。ただ、僕のような知識や経験がないひとにも、解決のためのサポートはできます。難民という背景を持った方々のことを理解し、解決に向け頑張る人のサポートをする。難民問題の解決には、世界中のみなさんの応援が必要になるのではないでしょうか。

 

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私が何よりもスポーツの力とこのプロジェクトの意義を感じたのは、東京マラソン2016本番のラスト40㎞を超えたときでした。最後の2.195㎞は今までこんな道のりがあっただろうかという程、精神的に果てしない長さでした。しかし隣にいるランナーもみんな私と似たような顔で必死に一歩ずつ進んでいました。その時に言葉だけでは感じ得なかった「難民という背景をもつ人も私たちもみんな同じ人間であり、前にむかって進もうとしている」という強烈な実感が湧き上がりました。この経験はいっしょに仲間としてフルマラソン完走という一つの挑戦をしたからこそ味わえたものだと思います。

 

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ランニングをしながら難民というバックグラウンドをもつランナーと交流するうちに、彼らも自分と変わらない学生なのだと気づかされました。そのおかげで、難民問題を政治や社会の問題としてではなく、自分と変わらない人々のために私たちに何ができるのだろうという次元で考えることができるようになりました。

東京マラソン2016本番では難民かけはしプロジェクトのメンバー以外の方も「難民かけはしプロジェクトがんばれ!!」と声をかけてくださって、少しでも多くの方に難民について考えていただくきっかけになることができたのではないかと思います。

 

応援メンバーの思い

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東京マラソンは国際的なマラソン大会で、たくさんの外国人の方が参加しています。沿道で応援していると、誰もが笑顔で返してくれます。そこに国籍や言語、境遇などは関係ありません。

 

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初挑戦ながら42.195kmをひたむきに走る難民かけはしランナーは、自分たちの中では難民だとか国籍だとかそういったものはいつの間にか取り払われ、一年間ともに頑張ってきた仲間として見えました。

このプロジェクトは2015年4月にゼロから立ち上げたものです。東京マラソン2016までの約10か月間、立ち止まるひまも、転んでも倒れているひまもなく走り続け、ランナーたちと同じ気持ちで彼らを支えてきました。

東京マラソン2016当日は、満身創痍ながらも完走し最高の笑顔と涙をみせたランナーに自分を重ね、胸が熱くなりました。ランナーたちが「応援が力になった」と言ってくれたこと、そして途中で栄養補給の食べ物や痛み止めなどを手渡すといった形でも役に立てたことが嬉しかったです。

最初はわからないことばかりだった私たちがこのプロジェクトを実現できたのは、様々な場面で応援してくださった多くの皆さまのおかげです。

ファンドレイジングにおいては、2016年3月22日(火)時点で、難民かけはしランナー7人の分として901,000円、サポートランナーの分も含めると1,311,000円のご寄付が集まっています。この寄付はUNHCRが難民キャンプにテントを届け、難民の方々を厳しい自然環境から守るために使われます。90万円はテント約15張、130万円はテント約21張に相当します。2016年3月31日まで次のサイトで寄付を受け付けておりますので、応援よろしくおねがいします!https://www.runwithheart.jp/charity_sheet?id=4558

ご協力くださった皆さま、どうもありがとうございました!

このプロジェクトはフルマラソンを走って終わりではありません。私たちが得た学びを伝え、これからもより多くの方に難民問題に関心を

 

持っていただくための活動を続けて参ります。

難民かけはしプロジェクトはホームページやFacebookで今後とも広報を続けてまいりますので、ぜひいいね!やシェアをよろしくお願いいたします。

みなさまの行動がより多くの方に難民問題に関心を持っていただくことにつながり、それが難民の方々の力になります。ご協力をどうぞよろしくお願いいたします!

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以上、このプロジェクトを担ってきたメンバーの思いをご紹介させていただきました。

学生にとっても国連UNHCR協会にとっても初めての挑戦だったので、当初からいくつものハードルが現れ、その度に力を合わせて乗り越えて、ひとまずゴールまでたどり着きました。1年近くの日々をかけて準備し、共にマラソンに挑戦した共通体験が、未来につながる財産になりました。

 

3月31日までに、皆様から当プロジェクトへのご寄付の総額は【99万4000円】、プロジェクトに賛同して一緒に走ってくださったサポートランナーのみなさまの分も合わせると【140万4000円】となりました。これはUNHCRを通じて、家を失った難民の人々の生活に欠かせないテントを難民キャンプに届けるために活用されます。

 

難民かけはしプロジェクトホームページ

http://nanmin-kakehashi.net/

難民かけはしプロジェクトFacebook

https://www.facebook.com/nanminkakehashi

国連UNHCR協会ホームページ

http://www.japanforunhcr.org/archives/6839

http://www.japanforunhcr.org/archives/6729

 

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中村 恵 国連UNHCR協会職員(上記写真の前方2列目右から2人目)

 

1989年に国連難民高等弁務官事務所UNHCR)に就職。ジュネーブ本部、駐日事務所広報室勤務の後、ミャンマーにて、援助現場での活動に従事し、2000年末にUNHCRを退職。UNHCRへの公式支援窓口であるNPO法人国連UNHCR協会の設立(2000年10月)に関わって以来、協会職員として民間からのファンドレイジングに従事。東京マラソン2016チャリティの担当として公認企画「難民かけはしプロジェクト」をバックアップ。

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(7)

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シリーズ第7回は、今年1月末まで、国連開発計画(UNDP)対外関係・アドボカシー局で勤務された二瓶直樹(にへい なおき)さんの話をお伝えします。UNDPは世界中で起こる自然災害や紛争といった緊急性の高い危機対応などに対処するため、政府やその他の国連機関と協力し、難民のための人道支援などを施しています。実際にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国(以下マケドニア)を訪問し、難民の通過ルートとなる地方自治体への支援の重要さを実感した二瓶さん。長期化する人道危機に対しては、人道機関と開発機関が連携して支援を行うことが重要課題であり、世界人道サミットは世界と国連機関がそれに対してどのように取り組むのかを考える大きなきっかけになると語っています。

 

                   第7回 元国連開発計画(UNDP)対外関係・アドボカシー局、

                     現国際協力機構JICA) 二瓶直樹(にへい なおき)さん

                                    ~人道機関と開発機関が連携する時~

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2003年、JICA入構。以降、政府開発援助(ODA)業務に従事。2009-2012年、中央アジアウズベキスタンにて、市場経済移行期の社会・経済開発を目的とした民間セクター及び法整備支援、運輸・電力インフラ支援に従事。直近はJICAからUNDPへ出向し、ニューヨーク本部にて日本政府拠出の日・UNDPパートナーシップ基金の管理などを担当。2016年2月よりJICA本部東・中央アジア中央アジアコーカサス課にて勤務。早稲田大学大学院社会科学研究科修士卒。

 

シリア難民の欧州への大量流入

 

2012年8月から3年半勤務したUNDPニューヨーク本部対外関係・アドボカシー局ジャパンユニットでは、日本政府がUNDPと連携して実施する世界各地のプロジェクト管理を中心に業務しました。年々、世界中で起こる自然災害や紛争といった緊急性の高い危機対応などに対処するため、日本政府からの資金拠出を受けて実施するプロジェクトの形成に関与しました。その時々の世界情勢を受けて各地のUNDP現地事務所との強い連携のもとプロジェクトの形成を経験しましたが、離任前の2015年夏以降から2016年にかけて携わった業務の1つがシリア難民に対する支援、UNDPと国連難民高等弁務官事務所UNHCR)と日本政府の連携プロジェクトの形成です。昨年12月、ジュネーブUNHCR本部を訪問して関係者との協議に参加しました。

 

メディアの報道等でもご存じの通り、2015年、特に9月以降は、中東から欧州への難民・移民の大移動が世界に大きな衝撃を与えました。シリア国内の不安定な情勢から端を発した人の移動は、これまではシリア周辺国であるヨルダン、レバノンイラク、そしてトルコに留まることがそれまでは通例でした。しかし、トルコ国内でシリア難民は既に230万人を超すと言われる中、難民はシリア周辺国に留まるのではなく、より安全で、社会保障が充実する国を目指しました。その結果、欧州に向けて人の大移動が起きました。

 

この大移動は、主にトルコや地中海を経由し、ギリシャからバルカン半島セルビアマケドニアクロアチア)を通過してシェンゲン協定国のドイツやスウェーデンをはじめとする難民への社会保障制度が整う北欧諸国に向いていました。更に、この人の大移動は、シリア難民だけではなく、不安定な情勢が続くアフガニスタンイラクなどに加えて、政情不安、貧困、抑圧等の理由からアフリカやアジアの様々な国からも入ってきた人が多くいます。

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     トルコで生活をするシリア難民の子どもたち(2015年4月撮影、Credit: Ariel Rubin/UNDP)

 

欧州バルカン半島を通過する難民

 

2015年12月に欧州南東部に位置するバルカン半島に出張し、実際に難民が通過するセルビアクロアチア国境のシド(Sid)国境通過点の現場視察をしました。シド鉄道駅近隣には、UNHCR国際移住機関(IOM)が支援する難民テントが多く張られていました。また、他国からセルビア国内を通過してシドに到着した難民の行政手続きを支援する受付所がセルビア政府により設置されており、難民が休息するテント、仮設トイレ、水供給・衛生施設などを人道援助機関やNGOsが支援していました。

           

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               UNHCRより2016年2月26日現在の地図

 

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   セルビア内のクロアチア国境シドの難民受付センターに到着する難民たち(2015年12月、筆者撮影)

 

また、欧州バルカン半島の南ギリシャと国境を接するマケドニアの南部に位置するゲフゲリアという街でも難民通過地点の現場を視察しました。2015年9月以降、ピーク時は1日約1万1000人がゲフゲリアを通過し(ゲフゲリアの人口は約1万5000人)、同年12月時点では毎日約4000人の新しい難民が通過していくと関係者は指摘していました。人の移動においては、セルビアクロアチアのシド国境と同様に、難民を管理・保護するための支援が人道援助機関により行われます。シド、ゲフゲリア共に難民の大量流入により、自治体の対応能力が限界に達し、国際社会の支援を必要としています。

 

UNDPは、難民を受け入れるホストコミュニティ、地方自治体による自治体の基礎社会サービス面において支援をしており、私の訪問時は日本政府との新規連携案件の形成に関する協議を行いました。特に、ごみ処理対応や水供給サービスを中心として、一時的な人口増による社会インフラ面の支援を主に担っています。また、難民をホストする自治体で地元住民の理解促進、啓発事業、ボランティアを動員し、難民を受け入れる自治体の対応能力の強化などのニーズが高まっています。

 

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 マケドニアのギリシアと国境を接するゲフゲリアの難民通過地点。ギリシアからマケドニアに入国し、マケドニアの北部セルビア国境へ向かう鉄道を待つシリア難民(2015年12月、筆者撮影)

 

このような協力は、日本の資金拠出により、UNDPが中東のヨルダン、シリア、レバノンイラク等で流入するシリア難民や国内避難民(IDPs)に対して既に行っているものと類似しています。シリア危機以後は、シリア難民が周辺国へ大量に流出しており、周辺国の地方で多くの難民がキャンプ内外で生活をしています。欧州への難民の動きと異なり、シリア周辺国では、トルコを始めキャンプ外で、難民がホストコミュニティの中で生活する状況が続いています。この状態が長期化し、周辺国の対応、収容能力に限界が出たことが、2015年9月以降の難民の欧州への大流出と関係しているとも考えられます。

 

人道と開発が連携する機会

 

紛争や災害後に発生する難民、避難民をUNHCR等の人道援助機関が支援し、紛争状態や災害後の状況が一段落すると、難民、避難民は元の居住地域へ戻りますが、その際に彼らが社会生活を送れるように支援する段階へと移ります。そこで、支援母体が人道・緊急援助機関より、UNDPや開発援助機関へ移行することになります。このような状況下では、継ぎ目のない支援(Seamless Transition)を行うことが、人道・緊急支援から開発援助へ段階移行する際の重要課題となっていました。

 

現在世界で起こっているシリア難民の動きのような人道危機は、長期化する様相を呈しており、従来の支援アプローチでは十分ではありません。難民の移動が絶えず長期化する事態においては、難民への人道支援と、難民を受け入れるホストコミュニティへの支援が同時並行で、双方を補完し合いながら実施し、効果をあげることが重要課題となります。日本政府もこの課題への対応を重要視しており、人道支援機関のUNHCRと開発援助機関のUNDPが連携し、危機に対して、人道面と開発面から包括的に合同での支援策を計画しています。近年シリアやその周辺国でそれを実践しています。

 

上述のセルビアでは、UNHCRが全国連機関事務所をまとめる調整連絡会議を定期的に開催し、国連機関同士の連携を取りつつ、現場に必要な支援策を検討、実施しています。私も実際、セルビア滞在中にUNHCRの定例会議で議論に参加しました。国連は危機対応時に必要な資金や具体的な事業を記載した文書を作成し、日本や他の国連加盟国にアピールします。加えて、今回の欧州バルカン半島ケースでは、過去あまり注目が置かれていなかった難民が通過する際に滞留する自治体におけるホストコミュニティの社会サービス面の現場ニーズについて、UNDPがリード機関となり対応することがUNHCRや他の国連機関から認識されて、対外的にも明確になっています。人道機関のUNHCRと開発機関のUNDPがこのように長期化する難民・移民危機の現場でいかに力を合わせて補完し合いながら対応するかの新しいモデルともいえる動きだったと私は見ています。

 

シリア危機をはじめ、世界各地において、現在そして将来、危機に対する人道と開発の連携がこれまでより一層重要となっています。5月の世界人道サミットは人類が直面する危機に如何に世界と国連機関が取り組むのかを考える大きな契機となります。UNDPをはじめとする開発実施機関が、UNHCRのような人道支援機関とともに、今後も現場の支援活動から得られた教訓をもとに、日本政府や援助実施機関であるJICAと更に連携・協力して、貢献していくことを期待します。

 

 

*本記事は2015年12月に筆者がバルカン半島を視察訪問した際のもの。その後も欧州バルカン半島の移民ルートの動きは流動的であり、2016年3月9日現在、マケドニア政府はギリシャ国境からの移民入国を禁止することを発表。これによりバルカン半島からヨーロッパ北部に移動するためのルートは閉ざされ、マケドニアギリシャの国境地帯には、多くの移民が立ち往生し、新たな決断を迫られている。

 

 

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