国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

「未来への種まき ~食べることは、生きること~」

「100やらなくてもいい、10でも、1でもいい。それでも0よりずっといいから」と、知花くらら国連WFP日本大使が、現地視察での経験や感じたこと、さらに「私たちにできること」について、1月22日、明治大学にて開催されたセミナーで語りました。これは、2015年3月から実施してきた計6回の国連創設70周年記念「いま、日本から国連を考える」 セミナー・シリーズの最終回(明治・立教・国際の3大学による大学間連携共同教育推進事業「国際協力人材育成プログラム」として実施)。同セミナーに参加した、国連広報センターのインターン、村山南がその模様をお伝えします。

 

              知花くらら 国連WFP日本大使

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2007 年より WFP オフィシャルサポーターを務め、2013 年 12 月に国連WFP 日本大使に就任した知花くららさんは、沖縄県那覇市出身、上智大学文学部教育学科卒業。2006 ミス・ユニバース世界大会で第2位に輝き、現在はテレビやラジオ、雑誌、CM に多数出演し、国内外に活躍の場を広げています。これまでにザンビア(2008 年)、フィリピン(2009年)、スリランカ(2010 年)、東日本大震災被災地(2011 年)、タンザニア(2012 年)、エチオピア(2013 年)、ヨルダン(2014 年)、キルギス(2015年)を訪問し、国連 WFP の支援活動を視察しました。マスコミやイベントなどを通じ、現地の声や国連 WFP の活動を伝える活動を積極的に行っています。

 

現場の視察から たくましく生きる人々との出会い

知花さんが国連WFPの活動に関わるようになって、今年で10年目。初めての現場視察であるザンビアについて振り返りました。困難な状況の中で懸命に生きるザンビアの人々ですが、知花さんが日本へ帰国する際に「あなたにあげる物は何も持っていないけれども、あなたの帰路をお祈りするわ」と声をかけられたことが印象的だったと語りました。ザンビアは洪水や干ばつが交互に起こるなど自然災害に多く見舞われ、人々は住む場所やその日食べる物に苦労を強いられています。そのため、国連WFPでは食糧支援として、子どもたちに学校給食を提供しています。このような厳しい状況で暮らすザンビアの人々のたくましさに、本当の豊かさとは何かを考えさせられました。        

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                                                                                      (写真:WFP/Rein Skullerud)

昨年には中央アジアキルギスを訪問し、「アフリカなどの現場とは異なる形の支援活動」という印象を受けたそうです。不安定な政治体制や、地震・洪水などの自然災害が重なり食料不足が深刻化しているキルギス。学校給食の質を向上させることが、国連WFPの目標です。その日食べることに事欠くような貧しさのアフリカの支援とは違う支援がキルギスで行われていました。さらにキルギスの貧しい立場の女性に対して、農業や裁縫などの研修を実施し、女性が手に職をつけるまでの間、国連WFPが食糧支援を実施しています。「仲間と集まっておしゃべりをしながら、自分の手を動かして仕事をする。自分達の足で進んでいるという実感ができて、それがすごく嬉しい」というキルギスの女性たちの言葉が印象的だったと知花さんは語りました。お金の大切さだけでなく、働くことを通して感じる「生きる喜び」がひしひしと伝わってくるエピソードでした。

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                                                                                  (写真:WFP/Maxim Shubovich)

 「シリア危機」は今世界で最も注目を集めている人道危機の1つです。メディアからの情報では、自分と異なった環境の中で生きている人々の生活を想像するのは容易ではないでしょう。この危機を自分の目で確かめるべく知花さんは2014年、ヨルダンのシリア難民キャンプを訪問しました。「この危機の深刻さを実感した」と国連WFP日本大使はスライドを見せながら彼女が受けた衝撃を語りました。難民家族との交流では「話して下さっているときの表情は明るくて、子どもたちも人懐っこくって。でも笑顔の向こう側で彼女達が通ってきた道のりを考えると、すごく胸が苦しくなって」と、難民でありながらも笑顔で過ごしているシリアの人々のたくましさに心を打たれたといいます。

 「100やらなくてもいい、10でも、1でもいい。それでも0よりずっといいから」

知花さんは解決がまだ見えないシリア危機に、少しでもいいから日本にいる私たちも行動してみることが大切だと訴えました。

 国連WFPは食糧を現物支給するだけではなく、食糧を購入するための電子マネーを送金できるデビットカードのようなカードを配っています。このカードを、難民キャンプ内にあるスーパーマーケットに持って行くと、食糧を買うことができます。このような新しいスタイルの難民支援があることに驚きました。              

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                                                                                          (写真提供:国連WFP)

 「世界の現実を伝えるということは知花さんにとってどんな意味がありますか」と、司会を務めた根本かおる国連広報センター所長からの投げかけに、知花さんは「私にできるちっちゃな一歩。常に現地に行って100パーセント自分の時間を捧げることができない分、私が今いる立場を活用して、実際に見て、感じて、聞いたものを皆さんに伝えることが私にできること」と、現地視察に対する熱い気持ちを語りました。

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              トークセッション 「未来の種まき~食べることは、生きること~」

 

 私たちにできること

学生とのダイアローグセッションでは知花さんの率直な支援への考え方、取り組み方が披露されました。学生代表として参加したのは、明治大学新井田ひなのさん、國分寿樹さん、萩原遥さん、立教大学山田一竹さんの4名です。

まず、新井田さんは、日常生活の支援において「私たちにできること」を質問しました。この質問は会場からも多く寄せられ、「遠くにいるからできることもあると思うんです。例えば『シェア・ザ・ミール(ShareTheMeal・国連WFPが開発した、1タップで1人1日分の食事と栄養を届けることが出来るアプリ)』などや、ネットの情報を活用することも1つのやり方です」と知花さんはオンラインツールを紹介しました。次に、どのようなことを心がけて難民の方々に接していますかという山田さんの質問に対しては、「できるだけ現地の方々の声を聞くようにしています。具体的に何が起きていて、何が必要なのかを聞くことで、私に何ができるのかを想像することができます」と、支援をする上で知花さんが大切にしていることを共有しました。続いて、國分さんからの質問「東日本大震災の印象」について、知花さんはこの未曾有の大難を一言で言い表せないとしながらも、「日本の復興の意志の強さと速さに驚きました。みんなが心を共有できる国だと誇らしく思いました」と述べました。最後に萩原さんからの質問「途上国のリポーターをするようになったきっかけ」について尋ねられ、「国連WFPの学校給食プログラムに一目惚れしました。今子どもたちが何を感じているのかは現地に行ってみないと分からないと思う」と、現地訪問の重要性について語りました。これには会場から多くの共感を得ました。

この4名の学生は、実際に留学やボランティア活動など、さまざまな実践を積極的に行っています。彼らの活動に対し知花さんは、「自分の経験から得た気付きは宝物。それを多くの人にシェアしてほしいです」と、これからを担う彼らにエールを送りました。 

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              知花くらら国連WFP日本大使と学生代表とのダイアローグセッション

左から、根本かおる国連広報センター所長、知花くらら国連WFP日本大使、明治大学新井田ひなのさん、立教大学山田一竹さん、明治大学國分寿樹さん、明治大学萩原遥さん

 

本ブログ記事を担当して

今回のセッションで特に印象的だったのが「私が今いる立場を活用して」という知花さんの言葉です。著名人である知花さんだからこそ、たくさんのひとを巻き込み、新たな支援者を生むことができるのだと思います。実際にそこにいた私も影響を受けた1人です。「100やらなくてもいい、10でも、1でもいい。それでも0よりずっといいから」という言葉に共感しました。少しでもいいから自分の興味のある課題について「調べてみる」ことからはじめて、考えてみる、そして行動してみようと改めて思いました。私にもできることは意外とあるのかもしれないと、身が引き締まる思いでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(6)

 

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シリーズ第6回は、国際協力機構(JICA) 国際緊急援助隊事務局の江崎晴香さんです。JICAは地震津波といった自然災害や、事故をはじめとした紛争に起因しない人的災害に対して国際緊急援助を行っています。大規模な自然災害発生後に現地で迅速に支援を提供するには、被災国の駐日大使館やJICA事務所を通じた、迅速なニーズ把握や被災国政府との調整が行われるほか、様々な国や機関の、それぞれの支援が重複してしまわぬように、様々な努力や調整が必要です。緊急援助の最前線で活躍されている江崎さんに、国際官民連携による国際緊急援助活動について寄稿していただきました。

 

                         第6回 JICA 国際緊急援助隊事務局 江崎晴香さん

                            ~様々なフィードバックを効果的な緊急援助へ~

 

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                                           江崎 晴香(えざき はるか)

 

1985年8月16日生まれ。2009年東京外国語大学卒業後、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)駐日事務所法務部でインターンシップを行う。その後、イギリスのノッティンガム大学法学部で修士号取得。2012年より外務省大臣官房ODA評価室にて経済協力専門員を勤める。2014年より国連災害評価調整(UNDAC)要員としてバングラデシュ人民共和国で活動。2013年より、JICA国際緊急援助隊事務局緊急援助第二課専門嘱託にて業務調整要員として、2015年にサイクロン被害を受けたバヌアツ国際緊急援助隊医療チームとして派遣。同年、地震被害を受けたネパール連邦民主共和国国際緊急援助隊救助チームと同医療チームの一次隊として派遣。

 

世界人道サミットでは効果的な人道支援の実現がテーマの一つとして挙げられています。日本も人道支援の一環として、国際緊急援助を実施しています。援助の実施に際しては一刻も早く必要な支援が被災者に届くよう、災害発生直後から被災国の日本大使館やJICA事務所を通じた迅速なニーズ把握や被災国政府との調整が行われます。

 

国際緊急援助は被災国政府からの要請に基づき2国間の支援として実施されますが、支援内容については他の支援国や機関とも調整を行い、それぞれの支援に重複がないよう、また必要な支援が本当に必要としている被災者の元に届くようドナー間の連携がなされています。加えて、支援の受入れが被災国への追加的な負荷にならないために、このような連携枠組みの中で国際支援が取りまとめられています。JICAは、より効果的な支援を実現するために、緊急援助実施の際だけでなく国際連携体制の運営や構築に対しても積極的に貢献しています。

 

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                       ネパール国際捜索救助活動調整セルで国際チーム活動方針を協議する様子

 

JICAによる国際緊急援助

 

世界で発生する様々な災害のうち、JICAは地震津波といった自然災害や、事故をはじめとした紛争に起因しない人的災害に対して国際緊急援助を行っています。具体的には、日本政府が派遣する国際緊急援助隊派遣の事務局機能や緊急援助物資の供与が挙げられ、災害の規模によって単独もしくは複数の組合せで対応しています。

 

また、国際緊急援助活動に関連して、国連人道問題調整事務所(OCHA)が運営する国連災害評価調整(UNDAC)システムにも人材を派遣し協力しています。UNDACメンバーは、事前に訓練を受け登録されたOCHAスタッフや各国の緊急災害支援要員から構成されており、被災直後に迅速に被災国に入り、主に被害の初期評価や国際支援の受入れや調整を担います。日本からも、大規模災害発生時にはOCHAからの要請に答える形でUNDAC要員を派遣しています。

 

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                                ネパールでの捜索救助活動の様子(国際緊急援助隊救助チーム)

 

ネパール地震に対する国際緊急援助

 

2015年4月25日にネパール共和国で発生した地震は、国内に甚大な被害をもたらしました。日本は、発災当日に国際緊急援助隊救助チームの派遣を決定し、引き続き医療チームの派遣、自衛隊部隊の派遣や物資供与の実施と様々な支援を行いました。また、UNDACメンバーも派遣し、国際支援全体の調整にも貢献しました。

 

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                             ネパール国際捜索救助活動調整セルにおけるチーム間の情報共有

 

発災直後の混乱する被災国において円滑な国際支援を実施するために、現地の調整はUNDACが運営するOn-Site Operation Coordination Centre(OSOCC)において、それぞれの支援分野毎に行われます。OSOCCは国際支援を一括で調整することで支援受け入れに当たる被災国政府の負担を軽減するとともに、限られた支援やリソースを効果的に配置するよう調整することによって国際支援を最大限に生かすことを目的としています。国際緊急援助隊もネパール政府からの支援要請に加え、それぞれの枠組みの中で他チームと連携しながら活動を展開しました。

 

救助チームの調整は、各国の救助チームから成る国際捜索救助諮問グループ(INSARAG: International Search and Rescue Advisory Group)が作成するガイドラインに則り実施されます。この調整手法は約20年前に導入され、UNDACチームが全体調整を担うよう整備されてきましたが、昨今の大規模派遣の反省から国際ルールと救助活動両方の知見を持つチーム自らが調整要員を出すことによってより効率的な活動調整ができるよう見直しが行われてきました。このような方針は2年ほど前から徐々に国際演習に取り入れられてきましたが、ネパールでは初めて実際の現場で国際捜索救助活動調整セル(USAR Coordination Cell)が各チームの調整要員によって設置されました。これまで繰り返し実施された演習の効果もあり、セルでは計76の国際チームに対し、各チームの規模や能力に沿った活動地域の割り当て、日々の活動状況の共有、ネパール政府や他の支援分野の窓口となる等、円滑な調整活動が展開されました。

 

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                          患者に対して薬剤の処方する日本人隊員(国際緊急援助隊医療チーム)

 

医療チームに関しても、近年、活動調整枠組みの検討が進んでおり、ネパールでは救助チームと同様に医療チームの活動調整セルが初めて設置され、海外から派遣された149の医療チームがこの調整の下で活動しました。セルでは、これらの医療支援を効果的に活用するために、規模や能力が異なる各医療チームの配置の最適化が図られました。例えば、日本は今回初めて手術や透析ができる大規模なチームを派遣しましたが、日本チームの活動拠点は周辺地域に展開する他の医療チームから重症患者を受け入れるハブとしての機能を担いました。

 

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                                          患者の血圧を測る国際緊急援助隊医療チーム隊員

 

私は、今回この医療チーム調整セルの立ち上げにも携わることができました。ネパールには国際緊急援助隊救助チームとして派遣され国際チームの調整支援に当たっていましたが、後半は国際緊急援助隊医療チームの一員として、他国チームの調整要員、UNDAC、WHO、そしてネパール政府と一緒にネパール保健人口省に初めて調整セルを立ち上げました。次々と医療チームが入国していく中、混乱を避けるためにも迅速に効果的な調整システムをセットアップする必要がありましたが、私は日本チームの一員である立場を活かし、チームが活動上抱えていた課題に対し国際調整セルとして解決策を提供していくことによって、日本チームだけでなく国際チーム全体の活動環境の改善に努めました。

 

次々と入国するチームの問い合わせに追われる中での短期間での体制整理はとても忙しく、食事を取る時間も無いほどでした。活動候補地や医療用酸素ボンベの入手方法等、チームからの確認内容は多岐に及びましたが、其々丁寧に対応に当たりました。チームの利便性や満足度を高めるよう対応に努めることにより活動開始直後から多くのアクターを調整システムに巻き込むことができたため、結果として、被災国の負担を大幅に軽減することができました。

 

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                              医療チーム活動調整セルの立ち上げメンバーと保健人口省の前で

 

より効果的な支援のために

 

ネパール地震の国際支援調整については、緊急支援フェーズ終了直後から評価が開始され、今でも関係者間で改善に向けた協議や取組みが続けられています。日本も、支援チームとして、また国際調整に携わったチームとして、継続的に議論に参加しています。このように、一つの組織として様々な観点から評価やフィードバックを提供することによって、より現場活動の実態に則した国際枠組みづくりに貢献できるだけでなく、より効果的な緊急援助の実施に繋がると考えています。

 

私自身、現地での教訓やこのような国際的な流れを緊急援助隊の研修訓練企画に反映することによって、緊急援助隊の強化にも繋がるよう努めています。こういった積極的な取り組みを通じて、日本は国際緊急援助の実施者として、また国際調整枠組み策定のパートナーとして、今後も効果的な援助実施のために広く貢献することができると考えています。

 

 

関連リンク:

JICA国際緊急援助:http://www.jica.go.jp/jdr/index.html

わたしのJPO時代(13)

「わたしのJPO時代」第13回は、元WFP 国連世界食糧計画国連WFP)のアジア局長、忍足謙朗さんの話をお届けします。偶然にも外務省の方から国連で働かないかと声を掛けられたことからUNDP(国連開発計画)で働き始めた忍足さん。小さなリビアのオフィスで根幹にかかわる仕事を任され、開発分野における国連全体の活動を学ぶ事ができたそうです。

 

                 元WFP 国連世界食糧計画国連WFP)アジア局長 忍足謙朗さん

          ~偶然受けたJPO、ゼロからのスタート~

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                                                    (国連フォーラムより転載)

 

アメリカのバーモント州 School for International Training 大学院にて行政学修士号を取得。修士論文執筆中にサンフランシスコの日本総領事館でアルバイトをしているときに国連職員と出会う。国連開発計画(UNDP)リビア事務所でJPOとしてプログラムオフィサー、国連人間居住計画(UN-HABITAT)ケニア本部でプログラムオフィサーを務める。WFP 国連世界食糧計画国連WFP)ザンビアレソトクロアチアカンボジア、ローマ、コソボ、タイ、スーダン事務所で勤務し、その後、タイ事務所にてアジア地域局長を務める。2015 年から日本に拠点を移し、 国際協力に興味をもつ若い世代の育成に力を入れている。

 

 

今から36年前の1980年、私はサンフランシスコでなかなか進まない修士論文を書きながら、日本領事館でアルバイトをしていました。この先、アメリカに留まろうか、日本に帰って仕事を探そうかとさんざん迷っていた時期でした。そんな時、偶然領事館に立ち寄った外務省の方にJPOを受けてみないかと聞かれたのが、国連で働くことになったきっかけでした。筆記試験はなく、直接ニューヨークの国連開発計画(UNDP)の本部に面接に呼ばれたのですが、UNDPなど聞いたこともなく、当時はネットで調べることもできず、面接を待っている間にあたりに置いてあったUNDPのパンフレットを焦って読んだのを覚えています。今思い返しても、よく受かったなと笑ってしまいます。

 

しばらくして電話がかかってきました。いただいたオファーは北アフリカリビアへの赴任でした。リビアなんてどこにあるのかも知らず、UNDPの仕事の内容も全く想像できませんでしたが、アメリカか日本かと迷っているのに疲れていた私は、思い切ってこの第3の選択肢、アフリカに飛びついたわけです。説明会も研修もなく、契約書と国連パスポートと航空券を発行する旅行代理店の名前が郵送されてきて「サッサと行け」という感じでした。出発前に唯一自分で行った準備は、アラビア語の学校にしばらく通ったことぐらいです。契約はP1の Step 1とプロフェッショナルの中では最低ランクでしたが、まあ当然です。まだ、24歳でした。

 

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                                       愛車でリビアの隣国チュニジアへドライブした筆者

 

リビアで行われていた国連のプロジェクトのほとんどは、リビア政府がオイルマネーで活動費をまかなっており、そこで初めて国連食糧農業機関(FAO)、国連児童基金(UNICEF)、国際労働機関(ILO) 、国連工業開発機関(UNIDO)、 世界保健機関(WHO)、国連人間居住計画(UN-HABITAT)などの国連の専門組織と専門家の存在を知りました。現在のJPO候補者の方達から見たら「まさか」と思われそうですが、そんな無知をあまり引け目に感じることもありませんでした。

 

ゼロからのスタートでしたが、オフィスが小さかったこともあり、私のような下っ端でもプロジェクトの予算管理から政府との調整、次のUNDP5カ年計画の基本デザインまでほとんど任せられ、少し鼻が高かったです。そして初めての国連の職場がUNDPで良かったと思うのは、様々な国連組織との調整が主な仕事だったため、少なくとも開発分野においては国連全体がどのような仕事をしているのかがわかった事です。少し不満だったのは、あまり現場に出る機会がなく、首都トリポリでのデスクワークが中心の仕事だったことで、リビアを探検するのは毎日会うほど仲良くなったパレスチナ人やエジプト人の友人達とでした。

 

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                             2年目のJPOを終え、同僚たちが送別会をしてくれた時の一枚

 

JPOの2年目が終わる頃、UNDPには残れないことがわかり、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と信じて何通もの手紙をいろいろな国連組織に送りつけて、就職活動をしました。おかげさまで、ニューヨークの国連本部とナイロビに本部を持つHABITATからオファーをもらい、アフリカの異なる地域も経験したかったこともあり、HABITATのプログラムオフィサーとしてケニアに赴任しました。楽しい仲間に囲まれて、ケニアも大好きだったのですが、6年ほど仕事をした後、やはり現場で仕事がしたいという気持ちが強くなり、自分には開発支援より結果が(恐らく)見えやすい人道支援の方が向いているかもしれないと思うようになりました。

 

そこで、WFP 国連世界食糧計画国連WFP)に、「何月何日にローマ本部に寄るので会ってほしい」と自分勝手な手紙を書き、それを本部に勤めていたアメリカ人の大学時代の友人に託しました。行ってみると、幹部レベル5、6人との一対一の面接が待ち受けていました。面接を終えて、その同じ日の夕方に国連WFPの人事室に立ち寄ると、「こいつを雇え(Hire him)」と書いてある手書きの紙切れを見せられ、「まだどこで仕事してもらうかわからないけど、君を雇うよ」と言われて、その展開の速さにびっくりしました。

 

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                                            リビアにて、上司の娘さんたちと笑顔の筆者

 

その後は組織を変わることなく、国連WFPに25年勤めたわけですが、食糧支援というわかりやすい活動内容、緊急支援のスピード感、子ども達が笑顔でご飯を食べるのを自分の目で見られるシンプルな満足感がやはり自分に向いていたのだなと思います。初任地となった国連WFPザンビア事務所は小さな事務所で、当時住んでいたケニアから自分の四輪駆動車でキャンプをしながら到着しました。その後、レソトボスニアカンボジア、ローマ本部、コソボ、タイのアジア地域事務所で経験を積み、2006年にスーダン事務所を任せられました。ここは、国連WFPが世界中で使う総予算と職員の4分の1をつぎ込む、当時は世界最大の事務所でした。77国籍からなる300人のインターナショナルスタッフと3000人近い現地スーダン人スタッフと一緒にした仕事は、辛い経験や決断もありましたが、最高にやりがいがあり、本当に楽しいものでした。

 

最後に、国連WFPの人事制度では自分から次に赴任したい空きポストに応募するのが基本ですが、私の場合は少し特殊で、組織から特定のポストを依頼される事が多く、自由にキャリアを組み立てた記憶はそれほどありません。その代わりというわけではないですが、どのポストでもかなり好き勝手にやらせてもらったと感じています。自分のリーダーシップのスタイルは、そういった自由な雰囲気の中で、上司や同僚、もちろん部下からも、様々な考え方を吸収することで、培ったものだと思っています。

          

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(5)

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シリーズ第5回は、赤十字国際委員会(ICRC)の佐藤真央さんです。赤十字機関の中で一番最初にできたICRCは、紛争地に特化して人道支援を行っています。赤十字というと日本では医療のイメージが先行しますが、戦禍の人々に寄り添い、命と尊厳を守ることを使命とするICRCの活動は多岐にわたります。生活の自立支援や食料・水・避難所の提供、離散家族の連絡回復・再会支援事業、戦争捕虜や被拘束者の訪問、戦傷外科やトラウマケアなど、時には紛争の最前線で現場の人道ニーズに応えます。「公平・中立・独立」を原則に、政府、反政府勢力、ゲリラ勢力などすべての紛争当事者と対話して、人々に不必要な苦しみが与えられないよう、戦争のルールを説くのもICRC独特の活動です。

 


 

  第5回 ICRC クアラルンプール地域代表部 サバ事務所所長 佐藤真央さん

       ~紛争下のプロテクション、様々なアプローチが必要~

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     佐藤 真央(さとう まお)ICRCサバ事務所所長(c)ICRC

 

日本の国際NGOピースウィンズ・ジャパンにて東日本大震災の緊急・復旧・復興支援、タイ緊急洪水対応、スリランカ北部緊急支援を経て2013年10月より赤十字国際委員会にてDelegateとして就任し、タイ南部、南スーダンに駐在した後、2016年1月より現職に至る。

 

今年5月にイスタンブールで開催される「世界人道サミット」では、国際社会が様々な視点から、いかに効果的な人道支援が実現できるのかについて議論されます。昨今の傾向としてICRCが懸念するのは、紛争の長期化です。シリアやイラクだけでなく、ソマリアコンゴ民主共和国アフガニスタン中央アフリカ共和国など、国際社会が有効な解決策を見いだせないまま、たくさんの民間人が尊い命を奪われ、家を追われています。

 

日々変貌する人道ニーズに柔軟に対応することが求められる一方で、ICRCの現場での活動は、150年以上のあいだ頑なに守り続けている原則(Principles)に基づいて行われます。紛争下で活動するICRCがミッションを遂行するにあたり普遍的に守り続けていることとは、常に人道的であること、中立であること、公平であること、そして独立した国際組織であること、です。これらによって、他の機関や団体が介入できないような紛争地域での活動が可能になり、紛争で犠牲になった人びとのニーズに見合った支援を届けることができます。アニメーション:ICRCって何をしているの?

 

また、プロテクション(保護)という分野では、すべての紛争当事者に対して国際人道法の大切さを伝え続けていくという特別な役割を担っています。戦闘行為を行っている当事者は、人道法の柱の一つで、戦時下のルールを定めたジュネーブ諸条約によって次のことが求められます。①戦闘員と民間人の区別②民間の犠牲が軍事成果を上回らないこと③攻撃前の事前警告。こうした武力行使をする際の約束事に加えて、戦闘員以外(民間人や捕虜、傷病兵、医療従事者、難民など)の保護や、離散家族間の連絡回復、行方不明者の捜索に便宜を図ることなどの義務が伴います。その、紛争当事者が「便宜を図る先」というのが、何を隠そう私たち赤十字なのです。国際人道法の守護者としてのICRCの役割はこちら

 

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武器や兵器を携える組織や勢力に戦争のルールを直接説くことも、ICRCならではの重要な役割 (c)Getty Images/ICRC/Tom Stoddart

 

たとえば、収容所に囚われた捕虜などの被拘束者を訪問し、拷問や虐待を受けずにきちんと人道的な扱いを受けているか、暑さ寒さがしのげるなど収容環境が劣悪でないかなどについて、当局等と連携しながらモニタリングを行っています。アニメーション:収容所の訪問はなぜ必要?

 

国際人道法の“番人・守護者”としての役割

被害者の尊厳を守りながら、彼らのニーズに対応することが重要であると同時に、支援する側の身の安全を確保することも欠かせません。人道支援者が攻撃や誘拐の対象となる現在、激しい戦闘が続く紛争の最前線で支援を行うには、セキュリティ管理や現場の状況分析をきちんと行ったうえで、常に中立の立場で紛争当事者すべてと対話を続けることが肝心なのです。

 

私が駐在していた南スーダンでは、スーダンから分離独立した二年後の2013年12月より内戦が勃発し、和平合意がされた現在でも、度重なる治安の悪化や食料不足、干ばつや洪水等の自然災害から多くの人びとが移動を強いられてきました。衣食住の確保や基本的な医療へのアクセスがままならず、不安定な状況が続いています。私たちは、政府軍・反政府軍どちらとも対話を丁寧に重ね、南スーダンの10州すべてにおいて、それぞれの現状に見合った活動を続けることで、人道支援者のセキュリティを確保すると共に、人道ニーズへのアクセスを可能にしています。例えば、ICRCの移動外科チームは、政府軍・反政府軍を問わず医療機関が機能していない地域に出向き、市民や負傷した兵士に対して、救急手術や戦傷外科を施します。また、南スーダン軍と反政府軍の双方に対して国際人道法の遵守を訴え続けることも、大切な任務の一つです。いかなる紛争下であっても市民が犠牲になってはいけないこと、医療機関や医療関係者、患者や負傷した兵士を攻撃の対象としてはいけないこと、被拘束者を人道的に扱うこと、子ども兵士のリクルート禁止等を訴えます。悲しいことに、すべての国が守るべきはずの国際人道法が必ずしも遵守されていないのが現状です。

 

  

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安全な水を住民に届けるため、ポンプ式の井戸の建設や維持も手掛ける(c)Getty Images/ICRC/Tom Stoddart

 

私が今駐在しているマレーシアは紛争下にないため、紛争予防の一環として、人道法の大切さを伝えて続けています。政府関係者や治安部隊のみならず、市民社会や大学等のアカデミックの分野を通じて、人道法についてのカリキュラムを大学と合同で作成したり、作文やロールプレイ・コンテストを開催することで、平時における国際人道法の促進に努めています。

 

紛争という複雑で緊迫した状況下で、治安部隊や武装勢力と対話を重ね、支援が必要なすべての人びとへのアクセスを得るためには、ICRCが政治的な介入をしない独立した組織であることに加え、私たちの支援の対象となる人々の選定は公平かつ独自に行うこと、当局との対話は原則全て非公開で行うことを理解してもらわなければなりません。ICRCは、戦時のルールを謳うジュネーブ諸条約から特別な権限を得て活動していることから、国連や他の国際組織との連携が難しく、現場で人道問題について話し合うクラスターミーティングでは、アクティブ・オブザーバー(積極的傍観者)という立場を維持します。また、国連総会などニューヨークの国連本部における行事においても、オブザーバーとして参加します。他団体と話し合って役割分担をするのではなく、ICRC独自のニーズ調査によって、活動地域や支援の規模、対象者を決定して、中立性・独立性を保ちます。刻々と変わる状況下で、現場ではどんな支援が一番求められているのか。それらのニーズに最大限応えるために、私たちは様々なアプローチをします。赤十字にしかたどり着けない人々、自治体や当局、他団体ができない喫緊の支援を優先します。

 

その一方で、現場の支援の重複を避けるために、他団体とのコーディネーションを円滑に行うことも必要です。例えば、南スーダンのレイク州では、近年の紛争が勃発して以来8万を超える人びとがジョングレイ州から命からがら避難してきました。ICRCはまず緊急物資の配付を行い、のちに国連や国際NGOと連携して避難民キャンプを立ち上げました。それぞれの団体が強みを活かした支援を提供する中で、ICRCはどこも手を付けていない約300基の簡易トイレを建設。同キャンプは内戦勃発から2年以上経った現在でも、国連や国際NGOにより運営が継続され、簡易トイレは避難民や地元住民のメンテナンスによって現在も使用されています。

 

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スーダンでの活動は、地元の赤十字社と密接に連携して行われる。土地勘や言語の問題など、赤十字社のボランティアの貢献は計り知れない。(c)Layal Horanieh/ICRC

 

世界最大の人道ネットワーク

赤十字のユニークな点は、支援はすべて赤十字の名の下行われるということです。そもそも赤十字の世界規模での活動は、赤十字運動(正式名称:国際赤十字赤新月運動)と呼ばれ、3つの機関から構成されています。紛争地での人道支援は私たちICRCが主導します。紛争地以外の人道支援、たとえば災害救助活動や保健・医療・社会福祉事業などは、日本赤十字社のような各国赤十字赤新月社がそれぞれの国の実情に応じて実施します。2016年1月末現在、世界には190の赤十字社赤新月社があり、その国際的な連合体が、国際赤十字・赤新月社連盟です。これら3つの赤十字機関は、人道を柱に、独立、中立、単一、公平、世界性、奉仕という、7つの共通の原則を掲げ、いまや1700万人ものボランティアを抱える、世界最大の人道ネットワークを有します。赤十字運動と7原則についてはこちら

 

中立性や独立性を重んじるICRCの現場での活動は、通常現地の赤十字社イスラム圏では赤新月社)と連携して行われます。National とInternational 双方のアプローチを、赤十字の7原則の下に実施するのです。私がした当時、南スーダン赤十字社は世界で一番新しい赤十字社で、設立して間もなく内戦が勃発したので、彼らのキャパシティ・ビルディングを行いながら地域社会の再建能力を高める必要がありました。意識の高いたくさんのボランティアの力を借りて、衛星電話や赤十字通信(赤十字が家族に届ける簡易書簡)、写真付き登録簿などのツールを通して、離散した家族の連絡回復、再会を支援しています。必ずしも電波の届かない南スーダンのような国では、離ればなれになった家族に手紙を届けることで安否確認を試みますが、特定の住所を持たない地域では、ボランティアの知識やネットワークなしでは、手紙を届けたり行方不明者を追跡することはできません。また、急に紛争が激化する可能性を踏まえて、現場にいる市民や傷を負った兵士が自ら命をつなぐことができるよう、応急処置のトレーニングも連携して実施しています。私が所長を務めるマレーシア東部のサバ事務所も同じように、地元の赤新月社と密に連携しながら、移民や無国籍者など、基本医療を受けることができない最も脆弱なコミュニティに対して、公衆衛生のセッションや応急処置のトレーニングを行っています。

 

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離散家族の再会に向けて作成された写真付きの登録簿。最新の登録簿には、南スーダン国内だけでなく、隣国に逃れた老若男女の顔写真およそ500名分が掲載されている。うち、身内や親族に確認されたのは150名で、赤十字通信によって便りのやり取りも可能となっている(c)Layal Horanieh/ICRC

 

このように、ICRCは地元の人々が自分たちの足で立ち上がれるよう、世界各地で赤十字赤新月社と手を携えています。それにプラスして、地元当局と自治体を巻き込みながら、現地に暮らす彼らの手、意志によって再建へと導くことが最も重要だと考えています。

 

「戦争とはいえ、やりたい放題は許されない」

紛争により犠牲になったすべての人に手を差し伸べ、必要な支援を届ける私たちのスローガンは、「戦闘とはいえ、やりたい放題は許されない~Even Wars have limits」。最大限に紛争の犠牲者を守ろうとするのであれば、国際人道法の尊重が第一であるべきだとICRCは考えています。軍事目標と民間人・民用施設を区別しない無差別攻撃や、紛争下の性暴力、違法な拘束、意図的な食料難は、人道法違反のみならず、いかなる組織も手の付けられない重大な人道危機の引き金となりますアニメーション:戦時の決まりごと

 

今回のサミットを機にすべてのアクターが紛争下のプロテクション(現場の人々の保護)の重要性を再認識して果敢にチャレンジしない限り、人道支援はこれまでと何ら変わりない日常茶飯事の一コマ(“business as usual”)にしかなりえない、というのがICRCの危機感です。人々を守り救うには、一つの効果的な形を見出すのではなく、さまざまなアプローチが存在すべきだ、という持論です。もはや人道支援は、どのくらいの価値の支援が行われたか、自分たちがどれくらいの支援を行ったか、という競争やアピールの場であってはなりません。刻々と変わる現場のニーズの把握、支援を届けるためのアクセスの確保、支援対象者に寄り添うこと、そして正確な情報に基づいて活動を展開することで、初めて有効な人道支援が可能になるのだと思います。

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紛争解決や平和構築を国際社会が模索する一方で、紛争に巻き込まれ暴力の犠牲となった人々に寄り添い、支援を届けるのが赤十字の仕事。(c)Getty Images/ICRC/Tom Stoddart

 

紛争下には、数多の支援が存在します。それぞれのアクターが自分たちの得意分野や直面している課題などについて打ち解けた議論をすることで、今回の世界人道サミットがより現実的で、相乗効果の望める支援の形を再構築する場となることを期待しています。

 

 

赤十字国際委員会ICRC)とは

「公平・中立・独立」を原則に、紛争地で活動する国際人道支援組織。本部はスイス・ジュネ―ブ。

 

詳しくはこちらをご覧ください。

 

赤十字国際委員会

 

わたしのJPO時代(12)

「わたしのJPO時代」第12弾は、現在UNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いている宇治和幸さんの話をお届けします。「何をしたいのか」を明確にすること、またどんな仕事にも「もうひと手間」かけることで、着実にステップ・アップしていった宇治さん。JPO制度は専門分野での実務経験がない人にとって、国連職員になるための恵まれた「入り口」であると語っています。

 

 国連開発計画(UNDP)アジア太平洋地域事務所政策スペシャリスト  宇治和幸さん

     ~希望のキャリアへの「入口」、実務経験を積んだJPO時代~

 

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              ミャンマーの仕事仲間とともに(筆者は右端)

 

UNDPアジア太平洋地域事務所(タイ)・政策スペシャリスト。イェール大学公衆衛生大学院卒。日本の民間企業、東京医科歯科大学大学院勤務などを経て、2003年に外務省からJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)としてUNDPに派遣される。インド、スリランカでのUNDP勤務を経て、現職。


JPOの魅力とは何でしょうか?

 

経験がなくとも、数年に渡り国連の一員として一から実務経験を積めることです。更に、私が応募した当時、 JPOの窓口となる外務省国際機関人事センターは、派遣機関、職種そして地域までも希望を最大限に考慮して下さり、正規ポストへ挑戦する際には様々な配慮や助言もくださいました。

 

私は2003年から約2年半、インドとスリランカのUNDP地域事務所でJPOとして勤務し、それから正規の国連職員になりました。現在はUNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いています。自分もそうであったように、JPOは国際開発分野での実務経験がない人が国連職員を目指すにあたり、非常に恵まれた「入口」となります。JPO制度ほど手厚い支援は他に類を見ないのではないでしょうか。

 

私はJPOへの応募や国連での職務遂行に際し、心がけてきたことが2つあります。

 

1つ目は「何をしたいのか」を明確にすることです。

 

大学で開発について学んだ後 、日本の企業で3年間、医療機器の海外販売に従事しました 。中国やタイなどアジアの開発途上国を営業で回る中、多くの貧しい人が予防や治療が可能な病気で命を落とす現実を目の当たりにしました。また、国連開発途上国の政府から信頼されるパートナーとして、国づくり支援の中心的役割を担っていることも知りました。

 

そこで、「開発途上国の保健問題」を「人間開発の視点」から取り組みたいとの思いが募り、国連職員を志しました。この思いは20数年経った今でも変わりません。

 

国連勤務を視野に入れ、次のステップとして米国の大学院で国際保健を学びました。修了後、開発分野での経験などが全くない当時の私にとって、JPOは 想定できる国連への唯一の登竜門でした。

 

やりたいことが明確であった反面、JPO派遣先機関や職種の選択肢は非常に限られました。案の定、JPO試験合格者のその年の派遣締め切りが目前に迫りながらも、希望通りのポストは見つからず、妥協すべきか悩みました。そんな不安の中、ついに希望に合ったUNDPのHIV/エイズプロジェクトのプログラムオフィサーのポストに巡り会えたのでした。

 

初めて訪れるインドでJPOとしての最初の仕事は、激しい偏見や差別、人権侵害に苦しむHIV陽性者への支援でした。アジア太平洋13か国の 当事者団体支援とHIV陽性者の人権擁護対策を国と地域レベルで推進するために、HIV陽性者自身による組織運営、問題提起や解決策の提言、実行まで支援し、彼らが国の政策議論に持続的に参加できるよう橋渡しの業務を担いました。

 

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  HIV/エイズのプロジェクトを通じて、当事者コミュニティが問題に主体的に取り組むようになる。彼、彼女らの成長していく姿に筆者は大きな感銘を受け、やりがいを感じた(筆者は写真左奥)

 

 

UNDPでは感染率などの数字のみではなく、HIV陽性者、性的マイノリティ、性産業従事者など社会的弱者を中心に据え、貧困、社会保障、人権や法整備などの人間開発の観点から多角的にHIV/エイズ問題を捉えるアプローチを学びました。そして、社会的弱者の声なき声を多分野に渡る政策に反映する大切さ、難しさも痛感しました。

 

2030年までのグローバルな目標「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)」の実施が本年から始まりましたが、 その基本理念である「誰も置き去りにしない (Leaving no one behind)」を実践的に学ぶ 貴重な経験でした。

 

JPOの1年目は プロジェクト・マネジャーの補佐が主な業務でした。議事録作成から国際会議の準備などを通じ、国連組織の仕組みや関連業務の基礎を学ぶ絶好の機会でした。2年目にはマネージャーが転勤したため、私がプロジェクト全般を任されることになりました 。

 

地域事務所の所長は、明確なプランと 情熱があれば多少のリスクが伴ってもどんどん新しい挑戦をさせてくれて、仮にうまくいかない時は飛んで駆けつけるというスタンスの方でした。その点でも大変恵まれ、学ぶことが多くありました。ここでも「何をしたいのかを明確にする」という心がけは大いに役立ちました。

 

 

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 HIV陽性者の声を伝えるため、JPO時代にUNDP駐日代表事務所と共同で出版した写真集(2004年、ポット出版

 

 

2つ目の心がけは「仕事+α(プラス・アルファ)」です。

 

人気を呼んだテレビドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!」とまではいきませんが、どんな仕事でも求められていることに「+α (プラス・アルファ)」、つまり自分なりの付加価値を付けるという意識です。例えば報告書や政策の計画案の査読を頼まれれば、単に感想を述べるだけでなく、出来る限りの調査や分析をして、データに基づいた新たな可能性の示唆や提言をするように心がけました。

 

振り返ってみると、この「もうひと手間」の過程で多くの発見や学習をしました。これは今も出来るだけ心がけており、JPOから13年たっても、私が国連職員として希望の仕事を続けられていることにもつながっているのかも知れません。

 

様々な実践経験を積ませていただいたJPO期間を通じ、私自身の中で「何をしたいのか」がより明確となり、それを可能にしてくれるUNDPでもっと働きたいと強く思うようになりました。人脈づくりが得意ではない私にとって、明確な動機と目標を持つことは正規の国連職員ポストに応募する際にも大いに役立ちました。

 

私のキャリアを支えてくださった日本政府、そしてUNDPの同僚、家族への感謝の気持ちを忘れず、これからも開発途上国の国づくりの裏方としての自分の立ち位置を更に明確にし、付加価値を高める努力を続けていきたいと思っています。

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(4)

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シリーズ第4回は、国際移住機関(IOM)ソマリア事務所、保健衛生事業コーディネーターの伊藤千顕さんです。約20年間も紛争状態にあったソマリアで、人道危機の再発を効率的に防ぐため、それぞれのアクターの専門性や得意分野を最大限に活かした人道支援の実現を目指しています。人の移動問題のエキスパートである国際機関の国際移住機関(IOM)、技術的専門性を持った日系企業、コミュニティ強化の基盤であるソマリアの民間セクター、それぞれがパートナーシップを大切にすることで、ソマリア国内の最も脆弱な部分にも対応しようとしています。ソマリア人の持続的自立を促す、国際官民連携による人道支援について寄稿していただきました。

 

第4回 保健衛生事業コーディネーター 国際移住機関(IOM)ソマリア事務所 伊藤千顕さん

     ~官民連携で、ソマリア人自身の力を人道支援の現場で生かす~

 

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     伊藤 千顕(いとう ちあき)保健衛生事業コーディネーター

 

東京都出身。大学で国際関係を専攻後、University of Wisconsin-Madisonで東南アジア研究修士号を取得。東京大学大学院医学系研究科国際保健計画学にて、人の移動におけるエイズ対策に関する調査・研究で2007年に博士号取得(保健科学)。Chulalongkorn University(タイ)、University of Washington、国際機関等での研究員・コンサルタントを経て、2007年から2010年までIOMタイ事務所にてビルマ人移住労働者の公衆衛生事業を担当。2010年より現職。IOMがソマリアで実施している国内避難民への緊急援助事業を統括。写真は、ケニア・ソマリア国境で母子保健支援をするIOMの医師と筆者。

 

厳しいソマリアの人道状況

 

2010年に現在の事務所に赴任して以来、担当している保健衛生事業を通して現在までに延べ100万人近くの裨益者への人道支援に携わりました。特に、2011-12年の大干ばつ、2013年のサイクロン、2014-15年のイエメン危機により発生したソマリア人帰還民への支援では、一人でも多くの人命が救えるよう、ソマリア政府を含む関係機関と調整しIOMは総力を挙げて取り組みました。しかし、2015年12月現在、ソマリアでは未だに約320万人の方々が人道支援を必要としている大変厳しい状況です。また、ドナーからの資金提供も年々減少傾向にあります。

 

約20年間の紛争によって事実上の無政府状態であったソマリアは、2012年の連邦政府の樹立や、近年のアフリカ連合派遣部隊(AMISOM)による反政府勢力の制圧などにより、以前に比べ政治的には安定傾向にあります。しかし、エルニーニョ現象が観測されるなど、2016年は洪水や干ばつの発生も危惧されており、人道支援のニーズがソマリアからすぐになくなるとは考えにくいのが現実です。従って、IOMを含めてソマリアで活動する多くの人道支援機関は、頻繁に発生する人道危機に対して、限られた財政資源でより多くの人口に対して継続的に支援を実施していかなければならないという大きな課題に直面しています。

 

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        ソマリアでの現場では防弾車や装甲車に乗車し厳重な警備で移動。

 

人道支援における官民連携事業

 

この課題に対して、IOMでは官民連携を通して民間企業の資金、知恵、技術を活用し、より効率的な人道支援を目指しています。具体的には、主に日系企業(ポリグル ソーシャル ビジネス、パナソニックヤマハ住友化学など)と協力し、安全な水の供給、性暴力の防止、船外機の修理に関する技術移転等を行っております。例えば、ポリグル ソーシャル ビジネス(以下ポリグル社)との協力で行っている水衛生事業においては、国内避難民など最も脆弱な人口が集中する南部地域の表流水と、*PGα21Ca®(通称ポリグル)の凝集・浄化力に着目し、2012年初頭より13ヶ所に給水システムを構築し、現在約25万人に対して安全な水を供給しています。

 

*費用対効果が高く、短時間で簡単に使え、環境にやさしく、しかも人体に悪影響が出ない画期的な水質浄化凝集技術。2015年時点で、凝集能力、経済性、環境への影響などにおいて、ソマリアで適応できる可能性がある水処理技術で、PGα21Ca®より優れている技術は存在しない。

 

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国内避難民居住地域(ソマリアモガディシュ)での給水施設。JICAの支援によるこの事業により、この 地域での急性水様性下痢症が減少した。

 

また、単に汚染された水を浄水するだけではなく、事業が終了したあとのソマリア人のオーナーシップや持続性を考慮し、健康・衛生問題に関する啓発活動、コミュニティの強化、社会インフラの整備、政府関係者や非営利団体などに対しての様々な能力開発も同時に行い、ソマリアの民間セクターとも協力し、より長期的で持続性のあるBOP(Base of the Pyramid)ビジネスの可能性も模索しています。

 

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ポリグルを使った給水施設から安全な水を汲む国内避難民の少女。より効率的かつ安全な水の確保が可能になった。

 

パナソニックとの事業では、日本政府の支援により、避難民居住地域で夜間に頻発する女性に対する性的暴行を防止するために、ソーラーランタンを配布し、防犯に貢献しています。ソマリアは、レイプを含む性暴力の被害は世界最悪の状況と言われており、特に移民や国内避難民などの移動する人々の多くは治安の悪い居住環境から、最も危険にさらされています。IOMは女性の社会的地位の向上と性暴力の防止を目指し、性暴力防止啓発活動と合わせてこれまでに約5,000世帯(約3万人)にソーラーランタンを配布しました。配布後のモニタリング調査では、治安改善や性暴力の減少に寄与しているのみならず、夜間に灯りがあることにより、いままで暗闇で出産していた状況が改善され、より安全な出産にも貢献しているとの結果が出ています。また、以前は薪で火を燈し灯りつけていたため、ソーラーランタンの導入により薪を刈る必要がなくなったため環境保全にも貢献しています。同時に、女性や子供が薪集めの労働を強いられなくなったため、その時間を勉学などの時間に有効に利用できるとの声を裨益者から聞いています。

 

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パナソニックのソーラーランタンと国内避難民の少女。性暴力の防止を目的とした、日本政府の支援による官民連携事業の一つ。

 

このような技術的イノベーションや官民連携のパートナーシップを通して、地理的に遠く離れた日本とソマリアの支援者と裨益者の距離を縮め、人道支援という地球規模の問題に対して多様な分野のパートナーと共に手を携えて人道支援を行っています。そして、このようなユニークな取り組みが日本のメディアに取り上げられ、ソマリアの現状を多くの方に知っていただくことになり、チャリティーイベントにも発展しました。

 

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     パナソニックのソーラーランタンで夜間でも安全な出産ができた国内避難民の母と子

 

もちろん、人道支援分野での民間企業との連携は、前例が少ないこともあり、企業との調整、物資の調達、新しい技術への理解などにおいて、当初は数々の課題もありました。しかし、2012年に起こった東アフリカとソマリアを含め“アフリカの角”一帯を襲った大干ばつでは、人命に係わる一刻を争う事態であったため、ポリグル社に初めて連絡をしてから、ドナーを説得し、他の国際機関、政府やコミュニティとの調整を迅速に行った結果、僅か3ヶ月でソマリアの現場で事業を立ち上げることができました。これがソマリアで21年ぶりのJICAの支援となったことで注目を集め、2013年に横浜で行われた第5回アフリカ開発会議TICAD V)などでの発表を通じて他国の人道支援パートナーに成功例として共有をしたことで、現在ではケニアやブルンジなどの緊急援助でもポリグルを使用するようになりました。事業を立ち上げるまでの3ヶ月は文字通り不眠不休で疾走していましたが、今振り返ると、自分の行動によって多くの人の命が救える状況において努力を惜しまないということは、企業、政府、援助機関の所属を問わず、この事業に係わったすべての人が共有した率直な感情であったと思います。そしてこの感情こそが困難が多い人道支援において、結果を出すための最大の原動力であると痛感しました。

 

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ポリグルの技術をソマリア人技術者に説明し、事業内容に関して政府、地域住民、NGOと協議する筆者

 

ソマリアディアスポラの人材活用

 

このような官民連携事業に加え、IOMはヨーロッパやアメリカなどに居住するソマリアディアスポラ(在外ソマリア人)の中で、高度な技術や能力を有した者を専門家として防災庁などの省庁へ派遣し、災害や緊急援助に迅速に対応できるよう、政府機関の能力向上事業を実施しています。これは人の移動(移住)の問題を専門に扱う国際機関としてIOMならではのソマリア人の力を生かす事業であり、緊急援助時における政府の調整能力の改善という点ですでに効果が出ています。

この他にも、ケニアやエチオピアから帰還を希望しているソマリア難民の中で、人道支援や開発分野で生かせる技術や能力をもつ人材を予め登録し、援助機関間でその情報を共有し、帰還後のコミュニティでの雇用に繋がるようなシステムの構築を目指しています。

現場に近いIOMらしく、既存の支援の形態や枠組みに囚われず、現場のニーズをよく理解し裨益者と一緒に知恵を絞り、引き続きより効率的・効果的な人道支援を目指していきたいと思います。

 

国際移住機関(IOM)について、詳しくはこちらもご覧ください。

 

国際移住機関ホームページ

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連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(2)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第2弾は、植木安弘さんです。国連に30年ほど勤め、広報局や事務総長報道官室からイラクでの大量破壊兵器査察団まで幅広い活動に従事されてきました。国連本部からフィールドまで数多の経験を持つ植木さんからは、思わず身を乗り出したくなるようなお話が飛び出してきました。

 

                                  第2回:国連広報局広報官 植木安弘さん

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【1954年栃木県生まれ。1976年上智大学卒。米国のコロンビア大学大学院で国際関係論修士号、政治学部で博士号取得。1982年より国連事務局広報局勤務。1992-94年日本政府国連代表部(政務班)。1994-99年国連事務総長報道官室。1999年より再度広報局。広報戦略部勤務。ナミビア南アフリカで選挙監視活動、東ティモールで政務官兼副報道官、イラク国連大量破壊兵器査察団報道官、津波後のインドネシアアチェで広報官なども勤める。ジンバブエ、東京、パキスタン国連広報センターで所長代行。主な著書に「国連広報官に学ぶ問題解決力の磨き方」などがある。2014年1月末に国連を退官。現在、上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科教授。】

 

   国連でロシア語を話すとスパイだと思われる?

国連職員になるきっかけは何でしたか?

最初、国連というのは敷居が高いものだと考えていました。しかし、数多くある国際機関の中で中枢的な役割を果たしているのが国連ですから、大学時代より国連のようなところで働きたいという思いはありました。そして、修士課程が終わるときに、大学のゼミの指導教授で1976年に日本人として初めて国連大学副学長を務めた武者小路公秀先生の縁で、国連大学ニューヨーク事務所に勤めていた伊勢さん(連載第1回)にお会いする機会がありました。そこで国連に入るときはできるだけ上のレベルで入ったほうが有利、とアドバイスをもらい博士課程に進むことを決め、博士課程に在籍しているときに当時広報局長だった明石さんからお誘いを受け、そのまま広報局に入ったのです。

 

国連へ入職する際に自分の強みはどこにあると考えていましたか?

私の場合は大学4年、修士課程2年、そして博士課程3年間プラス博士論文みっちり勉強をして、職歴なしで国連に入りました。そして、9年間の研究で専攻である国際政治・国際関係論のほぼ全ての分野をカバーできたのです。ですから、そうした専門的な知識をベースにし国連での仕事も滞りなく遂行できました。

ところで、私は最初、ロシア人の上司の元で働く予定だったんです。私の大学での専攻がロシア語ということもあって、その上司とはロシア語で会話できるわけですね。しかし、当時の冷戦が影響してロシア語ができると分かるとロシアのカウンタースパイだと疑われる可能性がありましたから、ロシア語を出さないようにアドバイスを受けました。たまたまそのポストに座っていた女性職員がすぐには異動できなかったため、結局は別の課へ行って英語だけで仕事をすることになったという思い出もあります。  

 

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      国連大量破壊兵器査察団バグダッド報道官時代、バグダッド空港にて

 

         広報官たるもの正確公正たれ

国連時代に最も印象深い仕事とモットーとして掲げたことを教えて下さい。

今振り返ってみると、私にとって最も印象深いのは、イラクにおける国連大量破壊兵器査察(2002~2003)でバグダッドの報道官をしたことですね。

この査察で、私が発する一言一句は世界の歴史を動かす可能性があり、非常に重要な役割を任されていました。そんな中でどのレベルの情報をメディアに流すのかを判断するのは大きな課題でした。実は、イラク側でも私と同じように査察団の動きを発表していたのですが、それには誤りがあったり政治的バイアスがかかっているなどいくつか問題がありました。一方で、私は正確で公正な情報を流すことに注力していました。そして後々、私が発表した記者声明が唯一の公式査察記録になったのです。そういう意味でここでの活動は国連キャリアの1つのハイライトでした。そして、その時根底にあったものは、任された仕事はやりきるという使命感、それと同時に活動の誠実さ(integrity)、ただ査察活動に関する情報を流すだけではなく、査察団と査察活動を守っていくということも意識しました。

 

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           東ティモール独立の住民投票に際して(1999年)

 

  安保理内からの情報 ― アメリカの空爆を止めた

事務総長報道官室での勤務において印象に残っているものは何でしょうか?

ガリ事務総長時代の1996年のことですね。女性として初めて国連事務総長報道官室に仕えたシルバナ・フォアという方がいましたが、彼女が事務総長に対して「報道官というのは記者の欲しい情報を把握し、それを提供できるようにしなければその役割を果たせない」と進言し、安全保障理事会の非公式協議に報道官室から人を送れるようになりました。

私は、お昼にある定例記者会見が終わると安全保障理事会の非公式協議に足を伸ばして、その議論を聞いては事務総長報道官に伝えることをしていました。また、外に待機する記者たちに話せる範囲で内容を伝えていました。記者たちにとっては協議の進捗状況やその時々の議題を知ることが重要でした。

ただ残念なことに、今では常任理事国の間で報道官室の人間が非公式協議に自由に出入りできることを疑問視され、そのアクセスは切られてしまったと聞いています。

 

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                安全保障理事会の様子

 

その非公式協議の中で、今だから話せるエピソードはありますか?

当時はイラクとアメリカの仲が悪かったわけです。そして1998年の10月だったかと記憶していますが、イラクが査察に協力していないということで、アメリカが空爆のために爆撃機を飛ばしたという発言が私の目の前でなされたのです、それで、私はすぐに戻り報道官へその旨を伝えたのです。そうすると、その話はすぐに国連事務総長へ届き、事務総長は直接ホワイトハウスへ電話をかけて、空爆を思いとどまらせるように働きかけたようなのです。私の話が実際にどのように使われたかは推察の域を出ませんが、最終的に離陸したアメリカの爆撃機は途中から引き返したと聞きました。

事務総長というのは、各国の首脳と直接電話で会談し高度に政治的な判断を変更させ得る立場にあるのです。

 

      わが人生に引退の二文字はない

植木さんは現在、大学の教授でありますが今後の目標は何ですか?

国連でおよそ30年にわたって仕事をしてきたわけですけども、今は自分の考えをまとめる時期だと思っています。それは本を書いたり論文を書いて学会で発表するということですね。それから、若い人の人材育成。彼らが将来国際的に活躍できるよう、貢献したいと思っています。そして、1つ言えるのは国連を退官してそれで終わりではないということです。国連での30年というのは次の30年のためのステップであるわけです。もっと言うと、これまでの60年が次の30年に繋がるわけです。私はよく「そろそろ引退では?」などと聞かれることもありますが、体も頭も元気なうちはやれることをやりたいという思いが強いです。

 

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            国連本部ビル前にて(朝日新聞より)

 

精力的に活動するために意識されていることはありますか?

そうですね。まず、仕事は仕事できちんとやらねばならない、というのは当然ですが、もうどうにも上手く行かないようなときには息抜きが必要だと思います。私の場合はテニスです。実は、国連にもテニスクラブがあり、年に一回、国連のオリンピックと呼ばれる大会(Inter Agency Games)に参加するため、フランスやイタリア、トルコなどにも行ったことがあります。アメリカのシニアリーグで全国大会まで行ったこともあるんですよ。

結局、仕事とプライベートのバランス、そして健康であること。これが一番大事だと思います。

 

   オールラウンダーとしての国連に求めていく姿勢

来年日本は国連加盟60周年を迎えますが、これからの日本の役割と若者へのメッセージをお願いします。

日本人は国連からどう求められるかを気にしがちですが、国連側からすると日本がどのように国連を利用していくかということの方が大切なのです。と言うのも国連というのは各国の協力から成り立っているからです。

また、日本というのは財政面であったり人的貢献、様々な技術的ノウハウの点で世界をリードできる立場にありますから、そうした分野を通して日本の利益、引いては世界的な公共財のために活動することが重要だと思います。

そして今の若い人ですが、人材がいないということでは決してないと思います。ですから多くの人にどんどんチャレンジして頂いて国連機関で働いて欲しいと思っています。また、国連には中途採用があります。仮に40歳で入職しても今は定年が65歳ですから、25年という歳月があるわけです。25年あれば十分世界に貢献できます。さらに、国連というのはほぼ全ての分野をカバーしているオールラウンドな機関ですから民間で働いている人でも、世界に向けた活動に興味があれば積極果敢に挑戦してもらいたいです。

 

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植木さんを囲んで上智大学の研究室にて、インターン 磯田恭範(左)とインターン 藤田香澄(右)