国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

わたしのJPO時代(12)

「わたしのJPO時代」第12弾は、現在UNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いている宇治和幸さんの話をお届けします。「何をしたいのか」を明確にすること、またどんな仕事にも「もうひと手間」かけることで、着実にステップ・アップしていった宇治さん。JPO制度は専門分野での実務経験がない人にとって、国連職員になるための恵まれた「入り口」であると語っています。

 

 国連開発計画(UNDP)アジア太平洋地域事務所政策スペシャリスト  宇治和幸さん

     ~希望のキャリアへの「入口」、実務経験を積んだJPO時代~

 

 f:id:UNIC_Tokyo:20160202121618p:plain

              ミャンマーの仕事仲間とともに(筆者は右端)

 

UNDPアジア太平洋地域事務所(タイ)・政策スペシャリスト。イェール大学公衆衛生大学院卒。日本の民間企業、東京医科歯科大学大学院勤務などを経て、2003年に外務省からJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)としてUNDPに派遣される。インド、スリランカでのUNDP勤務を経て、現職。


JPOの魅力とは何でしょうか?

 

経験がなくとも、数年に渡り国連の一員として一から実務経験を積めることです。更に、私が応募した当時、 JPOの窓口となる外務省国際機関人事センターは、派遣機関、職種そして地域までも希望を最大限に考慮して下さり、正規ポストへ挑戦する際には様々な配慮や助言もくださいました。

 

私は2003年から約2年半、インドとスリランカのUNDP地域事務所でJPOとして勤務し、それから正規の国連職員になりました。現在はUNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いています。自分もそうであったように、JPOは国際開発分野での実務経験がない人が国連職員を目指すにあたり、非常に恵まれた「入口」となります。JPO制度ほど手厚い支援は他に類を見ないのではないでしょうか。

 

私はJPOへの応募や国連での職務遂行に際し、心がけてきたことが2つあります。

 

1つ目は「何をしたいのか」を明確にすることです。

 

大学で開発について学んだ後 、日本の企業で3年間、医療機器の海外販売に従事しました 。中国やタイなどアジアの開発途上国を営業で回る中、多くの貧しい人が予防や治療が可能な病気で命を落とす現実を目の当たりにしました。また、国連開発途上国の政府から信頼されるパートナーとして、国づくり支援の中心的役割を担っていることも知りました。

 

そこで、「開発途上国の保健問題」を「人間開発の視点」から取り組みたいとの思いが募り、国連職員を志しました。この思いは20数年経った今でも変わりません。

 

国連勤務を視野に入れ、次のステップとして米国の大学院で国際保健を学びました。修了後、開発分野での経験などが全くない当時の私にとって、JPOは 想定できる国連への唯一の登竜門でした。

 

やりたいことが明確であった反面、JPO派遣先機関や職種の選択肢は非常に限られました。案の定、JPO試験合格者のその年の派遣締め切りが目前に迫りながらも、希望通りのポストは見つからず、妥協すべきか悩みました。そんな不安の中、ついに希望に合ったUNDPのHIV/エイズプロジェクトのプログラムオフィサーのポストに巡り会えたのでした。

 

初めて訪れるインドでJPOとしての最初の仕事は、激しい偏見や差別、人権侵害に苦しむHIV陽性者への支援でした。アジア太平洋13か国の 当事者団体支援とHIV陽性者の人権擁護対策を国と地域レベルで推進するために、HIV陽性者自身による組織運営、問題提起や解決策の提言、実行まで支援し、彼らが国の政策議論に持続的に参加できるよう橋渡しの業務を担いました。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20160202121636p:plain

  HIV/エイズのプロジェクトを通じて、当事者コミュニティが問題に主体的に取り組むようになる。彼、彼女らの成長していく姿に筆者は大きな感銘を受け、やりがいを感じた(筆者は写真左奥)

 

 

UNDPでは感染率などの数字のみではなく、HIV陽性者、性的マイノリティ、性産業従事者など社会的弱者を中心に据え、貧困、社会保障、人権や法整備などの人間開発の観点から多角的にHIV/エイズ問題を捉えるアプローチを学びました。そして、社会的弱者の声なき声を多分野に渡る政策に反映する大切さ、難しさも痛感しました。

 

2030年までのグローバルな目標「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)」の実施が本年から始まりましたが、 その基本理念である「誰も置き去りにしない (Leaving no one behind)」を実践的に学ぶ 貴重な経験でした。

 

JPOの1年目は プロジェクト・マネジャーの補佐が主な業務でした。議事録作成から国際会議の準備などを通じ、国連組織の仕組みや関連業務の基礎を学ぶ絶好の機会でした。2年目にはマネージャーが転勤したため、私がプロジェクト全般を任されることになりました 。

 

地域事務所の所長は、明確なプランと 情熱があれば多少のリスクが伴ってもどんどん新しい挑戦をさせてくれて、仮にうまくいかない時は飛んで駆けつけるというスタンスの方でした。その点でも大変恵まれ、学ぶことが多くありました。ここでも「何をしたいのかを明確にする」という心がけは大いに役立ちました。

 

 

 f:id:UNIC_Tokyo:20160202121651p:plain

 HIV陽性者の声を伝えるため、JPO時代にUNDP駐日代表事務所と共同で出版した写真集(2004年、ポット出版

 

 

2つ目の心がけは「仕事+α(プラス・アルファ)」です。

 

人気を呼んだテレビドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!」とまではいきませんが、どんな仕事でも求められていることに「+α (プラス・アルファ)」、つまり自分なりの付加価値を付けるという意識です。例えば報告書や政策の計画案の査読を頼まれれば、単に感想を述べるだけでなく、出来る限りの調査や分析をして、データに基づいた新たな可能性の示唆や提言をするように心がけました。

 

振り返ってみると、この「もうひと手間」の過程で多くの発見や学習をしました。これは今も出来るだけ心がけており、JPOから13年たっても、私が国連職員として希望の仕事を続けられていることにもつながっているのかも知れません。

 

様々な実践経験を積ませていただいたJPO期間を通じ、私自身の中で「何をしたいのか」がより明確となり、それを可能にしてくれるUNDPでもっと働きたいと強く思うようになりました。人脈づくりが得意ではない私にとって、明確な動機と目標を持つことは正規の国連職員ポストに応募する際にも大いに役立ちました。

 

私のキャリアを支えてくださった日本政府、そしてUNDPの同僚、家族への感謝の気持ちを忘れず、これからも開発途上国の国づくりの裏方としての自分の立ち位置を更に明確にし、付加価値を高める努力を続けていきたいと思っています。

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(4)

f:id:UNIC_Tokyo:20160203160128j:plain

シリーズ第4回は、国際移住機関(IOM)ソマリア事務所、保健衛生事業コーディネーターの伊藤千顕さんです。約20年間も紛争状態にあったソマリアで、人道危機の再発を効率的に防ぐため、それぞれのアクターの専門性や得意分野を最大限に活かした人道支援の実現を目指しています。人の移動問題のエキスパートである国際機関の国際移住機関(IOM)、技術的専門性を持った日系企業、コミュニティ強化の基盤であるソマリアの民間セクター、それぞれがパートナーシップを大切にすることで、ソマリア国内の最も脆弱な部分にも対応しようとしています。ソマリア人の持続的自立を促す、国際官民連携による人道支援について寄稿していただきました。

 

第4回 保健衛生事業コーディネーター 国際移住機関(IOM)ソマリア事務所 伊藤千顕さん

     ~官民連携で、ソマリア人自身の力を人道支援の現場で生かす~

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160203152825j:plain

     伊藤 千顕(いとう ちあき)保健衛生事業コーディネーター

 

東京都出身。大学で国際関係を専攻後、University of Wisconsin-Madisonで東南アジア研究修士号を取得。東京大学大学院医学系研究科国際保健計画学にて、人の移動におけるエイズ対策に関する調査・研究で2007年に博士号取得(保健科学)。Chulalongkorn University(タイ)、University of Washington、国際機関等での研究員・コンサルタントを経て、2007年から2010年までIOMタイ事務所にてビルマ人移住労働者の公衆衛生事業を担当。2010年より現職。IOMがソマリアで実施している国内避難民への緊急援助事業を統括。写真は、ケニア・ソマリア国境で母子保健支援をするIOMの医師と筆者。

 

厳しいソマリアの人道状況

 

2010年に現在の事務所に赴任して以来、担当している保健衛生事業を通して現在までに延べ100万人近くの裨益者への人道支援に携わりました。特に、2011-12年の大干ばつ、2013年のサイクロン、2014-15年のイエメン危機により発生したソマリア人帰還民への支援では、一人でも多くの人命が救えるよう、ソマリア政府を含む関係機関と調整しIOMは総力を挙げて取り組みました。しかし、2015年12月現在、ソマリアでは未だに約320万人の方々が人道支援を必要としている大変厳しい状況です。また、ドナーからの資金提供も年々減少傾向にあります。

 

約20年間の紛争によって事実上の無政府状態であったソマリアは、2012年の連邦政府の樹立や、近年のアフリカ連合派遣部隊(AMISOM)による反政府勢力の制圧などにより、以前に比べ政治的には安定傾向にあります。しかし、エルニーニョ現象が観測されるなど、2016年は洪水や干ばつの発生も危惧されており、人道支援のニーズがソマリアからすぐになくなるとは考えにくいのが現実です。従って、IOMを含めてソマリアで活動する多くの人道支援機関は、頻繁に発生する人道危機に対して、限られた財政資源でより多くの人口に対して継続的に支援を実施していかなければならないという大きな課題に直面しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160203152659j:plain

        ソマリアでの現場では防弾車や装甲車に乗車し厳重な警備で移動。

 

人道支援における官民連携事業

 

この課題に対して、IOMでは官民連携を通して民間企業の資金、知恵、技術を活用し、より効率的な人道支援を目指しています。具体的には、主に日系企業(ポリグル ソーシャル ビジネス、パナソニックヤマハ住友化学など)と協力し、安全な水の供給、性暴力の防止、船外機の修理に関する技術移転等を行っております。例えば、ポリグル ソーシャル ビジネス(以下ポリグル社)との協力で行っている水衛生事業においては、国内避難民など最も脆弱な人口が集中する南部地域の表流水と、*PGα21Ca®(通称ポリグル)の凝集・浄化力に着目し、2012年初頭より13ヶ所に給水システムを構築し、現在約25万人に対して安全な水を供給しています。

 

*費用対効果が高く、短時間で簡単に使え、環境にやさしく、しかも人体に悪影響が出ない画期的な水質浄化凝集技術。2015年時点で、凝集能力、経済性、環境への影響などにおいて、ソマリアで適応できる可能性がある水処理技術で、PGα21Ca®より優れている技術は存在しない。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20110305105205j:plain

国内避難民居住地域(ソマリアモガディシュ)での給水施設。JICAの支援によるこの事業により、この 地域での急性水様性下痢症が減少した。

 

また、単に汚染された水を浄水するだけではなく、事業が終了したあとのソマリア人のオーナーシップや持続性を考慮し、健康・衛生問題に関する啓発活動、コミュニティの強化、社会インフラの整備、政府関係者や非営利団体などに対しての様々な能力開発も同時に行い、ソマリアの民間セクターとも協力し、より長期的で持続性のあるBOP(Base of the Pyramid)ビジネスの可能性も模索しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20131127082957j:plain

ポリグルを使った給水施設から安全な水を汲む国内避難民の少女。より効率的かつ安全な水の確保が可能になった。

 

パナソニックとの事業では、日本政府の支援により、避難民居住地域で夜間に頻発する女性に対する性的暴行を防止するために、ソーラーランタンを配布し、防犯に貢献しています。ソマリアは、レイプを含む性暴力の被害は世界最悪の状況と言われており、特に移民や国内避難民などの移動する人々の多くは治安の悪い居住環境から、最も危険にさらされています。IOMは女性の社会的地位の向上と性暴力の防止を目指し、性暴力防止啓発活動と合わせてこれまでに約5,000世帯(約3万人)にソーラーランタンを配布しました。配布後のモニタリング調査では、治安改善や性暴力の減少に寄与しているのみならず、夜間に灯りがあることにより、いままで暗闇で出産していた状況が改善され、より安全な出産にも貢献しているとの結果が出ています。また、以前は薪で火を燈し灯りつけていたため、ソーラーランタンの導入により薪を刈る必要がなくなったため環境保全にも貢献しています。同時に、女性や子供が薪集めの労働を強いられなくなったため、その時間を勉学などの時間に有効に利用できるとの声を裨益者から聞いています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20121105093816j:plain

パナソニックのソーラーランタンと国内避難民の少女。性暴力の防止を目的とした、日本政府の支援による官民連携事業の一つ。

 

このような技術的イノベーションや官民連携のパートナーシップを通して、地理的に遠く離れた日本とソマリアの支援者と裨益者の距離を縮め、人道支援という地球規模の問題に対して多様な分野のパートナーと共に手を携えて人道支援を行っています。そして、このようなユニークな取り組みが日本のメディアに取り上げられ、ソマリアの現状を多くの方に知っていただくことになり、チャリティーイベントにも発展しました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20130213125131j:plain

     パナソニックのソーラーランタンで夜間でも安全な出産ができた国内避難民の母と子

 

もちろん、人道支援分野での民間企業との連携は、前例が少ないこともあり、企業との調整、物資の調達、新しい技術への理解などにおいて、当初は数々の課題もありました。しかし、2012年に起こった東アフリカとソマリアを含め“アフリカの角”一帯を襲った大干ばつでは、人命に係わる一刻を争う事態であったため、ポリグル社に初めて連絡をしてから、ドナーを説得し、他の国際機関、政府やコミュニティとの調整を迅速に行った結果、僅か3ヶ月でソマリアの現場で事業を立ち上げることができました。これがソマリアで21年ぶりのJICAの支援となったことで注目を集め、2013年に横浜で行われた第5回アフリカ開発会議TICAD V)などでの発表を通じて他国の人道支援パートナーに成功例として共有をしたことで、現在ではケニアやブルンジなどの緊急援助でもポリグルを使用するようになりました。事業を立ち上げるまでの3ヶ月は文字通り不眠不休で疾走していましたが、今振り返ると、自分の行動によって多くの人の命が救える状況において努力を惜しまないということは、企業、政府、援助機関の所属を問わず、この事業に係わったすべての人が共有した率直な感情であったと思います。そしてこの感情こそが困難が多い人道支援において、結果を出すための最大の原動力であると痛感しました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20151202143332j:plainf:id:UNIC_Tokyo:20160203154936j:plain

ポリグルの技術をソマリア人技術者に説明し、事業内容に関して政府、地域住民、NGOと協議する筆者

 

ソマリアディアスポラの人材活用

 

このような官民連携事業に加え、IOMはヨーロッパやアメリカなどに居住するソマリアディアスポラ(在外ソマリア人)の中で、高度な技術や能力を有した者を専門家として防災庁などの省庁へ派遣し、災害や緊急援助に迅速に対応できるよう、政府機関の能力向上事業を実施しています。これは人の移動(移住)の問題を専門に扱う国際機関としてIOMならではのソマリア人の力を生かす事業であり、緊急援助時における政府の調整能力の改善という点ですでに効果が出ています。

この他にも、ケニアやエチオピアから帰還を希望しているソマリア難民の中で、人道支援や開発分野で生かせる技術や能力をもつ人材を予め登録し、援助機関間でその情報を共有し、帰還後のコミュニティでの雇用に繋がるようなシステムの構築を目指しています。

現場に近いIOMらしく、既存の支援の形態や枠組みに囚われず、現場のニーズをよく理解し裨益者と一緒に知恵を絞り、引き続きより効率的・効果的な人道支援を目指していきたいと思います。

 

国際移住機関(IOM)について、詳しくはこちらもご覧ください。

 

国際移住機関ホームページ

フェイスブック

ツイッター

ツイッター(英語)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(2)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第2弾は、植木安弘さんです。国連に30年ほど勤め、広報局や事務総長報道官室からイラクでの大量破壊兵器査察団まで幅広い活動に従事されてきました。国連本部からフィールドまで数多の経験を持つ植木さんからは、思わず身を乗り出したくなるようなお話が飛び出してきました。

 

                                  第2回:国連広報局広報官 植木安弘さん

     f:id:UNIC_Tokyo:20160114171831j:plain

【1954年栃木県生まれ。1976年上智大学卒。米国のコロンビア大学大学院で国際関係論修士号、政治学部で博士号取得。1982年より国連事務局広報局勤務。1992-94年日本政府国連代表部(政務班)。1994-99年国連事務総長報道官室。1999年より再度広報局。広報戦略部勤務。ナミビア南アフリカで選挙監視活動、東ティモールで政務官兼副報道官、イラク国連大量破壊兵器査察団報道官、津波後のインドネシアアチェで広報官なども勤める。ジンバブエ、東京、パキスタン国連広報センターで所長代行。主な著書に「国連広報官に学ぶ問題解決力の磨き方」などがある。2014年1月末に国連を退官。現在、上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科教授。】

 

   国連でロシア語を話すとスパイだと思われる?

国連職員になるきっかけは何でしたか?

最初、国連というのは敷居が高いものだと考えていました。しかし、数多くある国際機関の中で中枢的な役割を果たしているのが国連ですから、大学時代より国連のようなところで働きたいという思いはありました。そして、修士課程が終わるときに、大学のゼミの指導教授で1976年に日本人として初めて国連大学副学長を務めた武者小路公秀先生の縁で、国連大学ニューヨーク事務所に勤めていた伊勢さん(連載第1回)にお会いする機会がありました。そこで国連に入るときはできるだけ上のレベルで入ったほうが有利、とアドバイスをもらい博士課程に進むことを決め、博士課程に在籍しているときに当時広報局長だった明石さんからお誘いを受け、そのまま広報局に入ったのです。

 

国連へ入職する際に自分の強みはどこにあると考えていましたか?

私の場合は大学4年、修士課程2年、そして博士課程3年間プラス博士論文みっちり勉強をして、職歴なしで国連に入りました。そして、9年間の研究で専攻である国際政治・国際関係論のほぼ全ての分野をカバーできたのです。ですから、そうした専門的な知識をベースにし国連での仕事も滞りなく遂行できました。

ところで、私は最初、ロシア人の上司の元で働く予定だったんです。私の大学での専攻がロシア語ということもあって、その上司とはロシア語で会話できるわけですね。しかし、当時の冷戦が影響してロシア語ができると分かるとロシアのカウンタースパイだと疑われる可能性がありましたから、ロシア語を出さないようにアドバイスを受けました。たまたまそのポストに座っていた女性職員がすぐには異動できなかったため、結局は別の課へ行って英語だけで仕事をすることになったという思い出もあります。  

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20160125142051j:plain

      国連大量破壊兵器査察団バグダッド報道官時代、バグダッド空港にて

 

         広報官たるもの正確公正たれ

国連時代に最も印象深い仕事とモットーとして掲げたことを教えて下さい。

今振り返ってみると、私にとって最も印象深いのは、イラクにおける国連大量破壊兵器査察(2002~2003)でバグダッドの報道官をしたことですね。

この査察で、私が発する一言一句は世界の歴史を動かす可能性があり、非常に重要な役割を任されていました。そんな中でどのレベルの情報をメディアに流すのかを判断するのは大きな課題でした。実は、イラク側でも私と同じように査察団の動きを発表していたのですが、それには誤りがあったり政治的バイアスがかかっているなどいくつか問題がありました。一方で、私は正確で公正な情報を流すことに注力していました。そして後々、私が発表した記者声明が唯一の公式査察記録になったのです。そういう意味でここでの活動は国連キャリアの1つのハイライトでした。そして、その時根底にあったものは、任された仕事はやりきるという使命感、それと同時に活動の誠実さ(integrity)、ただ査察活動に関する情報を流すだけではなく、査察団と査察活動を守っていくということも意識しました。

 

        f:id:UNIC_Tokyo:20160125142609j:plain

           東ティモール独立の住民投票に際して(1999年)

 

  安保理内からの情報 ― アメリカの空爆を止めた

事務総長報道官室での勤務において印象に残っているものは何でしょうか?

ガリ事務総長時代の1996年のことですね。女性として初めて国連事務総長報道官室に仕えたシルバナ・フォアという方がいましたが、彼女が事務総長に対して「報道官というのは記者の欲しい情報を把握し、それを提供できるようにしなければその役割を果たせない」と進言し、安全保障理事会の非公式協議に報道官室から人を送れるようになりました。

私は、お昼にある定例記者会見が終わると安全保障理事会の非公式協議に足を伸ばして、その議論を聞いては事務総長報道官に伝えることをしていました。また、外に待機する記者たちに話せる範囲で内容を伝えていました。記者たちにとっては協議の進捗状況やその時々の議題を知ることが重要でした。

ただ残念なことに、今では常任理事国の間で報道官室の人間が非公式協議に自由に出入りできることを疑問視され、そのアクセスは切られてしまったと聞いています。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20160125143850j:plain

                安全保障理事会の様子

 

その非公式協議の中で、今だから話せるエピソードはありますか?

当時はイラクとアメリカの仲が悪かったわけです。そして1998年の10月だったかと記憶していますが、イラクが査察に協力していないということで、アメリカが空爆のために爆撃機を飛ばしたという発言が私の目の前でなされたのです、それで、私はすぐに戻り報道官へその旨を伝えたのです。そうすると、その話はすぐに国連事務総長へ届き、事務総長は直接ホワイトハウスへ電話をかけて、空爆を思いとどまらせるように働きかけたようなのです。私の話が実際にどのように使われたかは推察の域を出ませんが、最終的に離陸したアメリカの爆撃機は途中から引き返したと聞きました。

事務総長というのは、各国の首脳と直接電話で会談し高度に政治的な判断を変更させ得る立場にあるのです。

 

      わが人生に引退の二文字はない

植木さんは現在、大学の教授でありますが今後の目標は何ですか?

国連でおよそ30年にわたって仕事をしてきたわけですけども、今は自分の考えをまとめる時期だと思っています。それは本を書いたり論文を書いて学会で発表するということですね。それから、若い人の人材育成。彼らが将来国際的に活躍できるよう、貢献したいと思っています。そして、1つ言えるのは国連を退官してそれで終わりではないということです。国連での30年というのは次の30年のためのステップであるわけです。もっと言うと、これまでの60年が次の30年に繋がるわけです。私はよく「そろそろ引退では?」などと聞かれることもありますが、体も頭も元気なうちはやれることをやりたいという思いが強いです。

 

      f:id:UNIC_Tokyo:20160125150450j:plain

            国連本部ビル前にて(朝日新聞より)

 

精力的に活動するために意識されていることはありますか?

そうですね。まず、仕事は仕事できちんとやらねばならない、というのは当然ですが、もうどうにも上手く行かないようなときには息抜きが必要だと思います。私の場合はテニスです。実は、国連にもテニスクラブがあり、年に一回、国連のオリンピックと呼ばれる大会(Inter Agency Games)に参加するため、フランスやイタリア、トルコなどにも行ったことがあります。アメリカのシニアリーグで全国大会まで行ったこともあるんですよ。

結局、仕事とプライベートのバランス、そして健康であること。これが一番大事だと思います。

 

   オールラウンダーとしての国連に求めていく姿勢

来年日本は国連加盟60周年を迎えますが、これからの日本の役割と若者へのメッセージをお願いします。

日本人は国連からどう求められるかを気にしがちですが、国連側からすると日本がどのように国連を利用していくかということの方が大切なのです。と言うのも国連というのは各国の協力から成り立っているからです。

また、日本というのは財政面であったり人的貢献、様々な技術的ノウハウの点で世界をリードできる立場にありますから、そうした分野を通して日本の利益、引いては世界的な公共財のために活動することが重要だと思います。

そして今の若い人ですが、人材がいないということでは決してないと思います。ですから多くの人にどんどんチャレンジして頂いて国連機関で働いて欲しいと思っています。また、国連には中途採用があります。仮に40歳で入職しても今は定年が65歳ですから、25年という歳月があるわけです。25年あれば十分世界に貢献できます。さらに、国連というのはほぼ全ての分野をカバーしているオールラウンドな機関ですから民間で働いている人でも、世界に向けた活動に興味があれば積極果敢に挑戦してもらいたいです。

 

     f:id:UNIC_Tokyo:20151217123842j:plain

植木さんを囲んで上智大学の研究室にて、インターン 磯田恭範(左)とインターン 藤田香澄(右)

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(3)

f:id:UNIC_Tokyo:20160128095935j:plainシリーズ第3回は、国連児童基金(UNICEF)東アジア・太平洋地域事務所緊急支援専門官の根本巳欧さんです。21世紀、人道ニーズが複雑化している背景には、紛争や災害に苦しむ何億人もの子どもたちの存在があります。被災地における速やかな学校復興の重要性など、大人とは異なる、子どもたちのニーズ。被災地のすべての人が人道支援の対象となるよう、根本さんは、子どもたちの小さいながらも確かな叫び声に耳を傾けることに尽力されています。子どもたち自身も含めた多様なアクターと緊密に連携を取ることで、脆弱な立場におかれている子どもたちのリスクを考慮した開発支援を目指すUNICEFの役割について寄稿していただきました。 

 

第3回 国連児童基金(UNICEF)東アジア・太平洋地域事務所 緊急支援専門官 根本巳欧さん

                              世界人道サミットに向けたUNICEFの取り組み

                      ~子どものために、子どもとともに取り組む人道支援

                       f:id:UNIC_Tokyo:20160120135128j:plain

               根本巳欧(ねもと みおう)緊急支援専門官

神奈川県出身東京大学法学部卒業。米国シラキュース大学・マックスウェル・スクール大学院で公共行政管理学、国際 関係論の修士号取得。民間企業、日本ユニセフ協会を経て2004年にUNICEFへ。東京事務所、シエラレオネ、モザンビー ク、パレスチナの各UNICEF事務所を経 て、2013年から現職。 

 

なぜ子どもなのか? 

2016年元旦、日本では当たり前のように目にすることができる、お正月を家族と一緒に過ごす子どもたちの光景。しかし、世界全体を見渡すと、生まれ育った街の、住み慣れた家で、家族とともに、新年を迎えることができた子どもたちは、それほど多くはありません。

 

2015年末現在、世界では、2億3千万人以上の子どもが、紛争下に暮らしていると推定されます。これは、世界の子どものおよそ10人に1人。シリアをはじめとする難民や国内避難民のおよそ半分は、18歳未満の子どもであると言われています。さらに、この先数十年で、毎年2億人もの子どもたちが、自然災害の影響を受けるという予測も。特に、日本を含むアジア・太平洋地域は、気候変動に伴う自然災害の影響を最も多く受けると考えられています。

f:id:UNIC_Tokyo:20150317085430j:plain2015年、太平洋の小国バヌアツは、大型サイクロン・パムによって大きな被害を受け、筆者も緊急支援に携わった。写真はバヌアツの首都ポートビラ被災した自宅跡を見つめる3歳のレイチェル。

© UNICEF/UNI181131/Crumb


これは、単に数の問題だけではありません。子どもには、大人とは違ったニーズ、視点、そして、紛争や災害に対する適応能力があります。たとえば、紛争や災害の直後、安全できれいな水が手に入らないことで、子どもはしばしば下痢に苦しみます。私がかつて働いた紛争後のシエラレオネでは、免疫抵抗力が弱いため、幼い子どもたちの多くが、この簡単に治療できるはずの下痢により命を落としていました。 

 

一方、学校を一刻も早く再開することは、子どもたちにとって一番の心のケアになります。友達と一緒に教室で勉強し、校庭で遊ぶことの重要さは、昨年3月、大型サイクロンに襲われたバヌアツでの緊急支援の際にも実証されました。

 

 

「世界人道サミット」と子ども

今、こうした人道危機の真っ只中に置かれている子どもたち。今年5月に開催される世界人道サミットは、各国政府、市民社会、そしてUNICEFをはじめとする国際機関が、世界中で紛争や災害下に暮らす子どもたちの抱える課題に、真摯に向き合い、話し合い、長期的な解決策を探りあう、絶好の機会となりえます。

 

UNICEFの目標は、声なき子どもの声を聞くこと。そして、どんな子どもたちも置き去りにせず、必要な支援を届けること。公平性に基づくこの基本方針は、2015年3月の仙台で開催された第3回国連防災世界会議で採択された成果文書、および、9月に国連総会で採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」とも共通するものです。

 

日本政府を含む各国政府が採択したSDGsは、何億人もの紛争や災害に苦しむ子どもたち抜きにして達成することはできません。実際、世界で5歳の誕生日を迎える前に命を落とす子どもたちの半分は、脆弱国家と呼ばれる紛争下の国々に暮らしています。さらに、こうした国の多くでは、実に20%以上の子どもたちが慢性栄養不良に苦しんでいるのです。

f:id:UNIC_Tokyo:20100319101943j:plainシエラレオネの政府病院で2か月のアダマちゃんの栄養状態を測定している様子。

© UNICEF/UNI108685/Asselin

 

SDGsの達成は、いかに効果的、かつ、効率的な人道支援を行い、こうした子どもたちに確実に支援の手を届けられるかにかかっています。世界人道サミットで話し合われる新しい人道支援のアプローチには、子どものための、子どもとともに取り組む人道支援という視点が反映されなくてはなりません。

f:id:UNIC_Tokyo:20080116133513j:plain2008年にモザンビーク中央部で発生した洪水に対応するためいち早く被災地に入り、家族と共に避難所に避難してきた男の子に話しかける筆者。© UNICEF Mozambique

 


子どもの本当のニーズに合わせた人道支援
 

では、具体的にどのようなアプローチが必要なのでしょうか。UNICEFは、子どものために働く国際NGOと協力し、世界人道サミットに向けて、子どもたちにどんな夢と、希望と、期待があるのか探るため、フィリピンやアフガニスタン、南スーダンなどで、子どもたちとの対話を行いました。そこで聞かれたのは、子どもたち自身が防災について学びたい、紛争解決の担い手になりたい、さらに、同じ状況下で苦しむ友だちを助けたいという、率直な思いでした。

f:id:UNIC_Tokyo:20110615043512j:plain

自然災害に直面した時に、どのように避難し、安全を確保するかについてポスターを作成する黒海沿岸のジョージアの子どもたち。© UNICEF/UNI117022/Bell

 

こうした子どもたちの声、そして、本当のニーズに応えるため、UNICEFは世界人道サミットに向けて、次の4つのコミットメントを改革の柱に据えるよう、国際社会に呼びかけています。

  • まず、人道支援と開発支援のギャップを埋めること。短期的な人道支援と長期的な開発支援に二分された現在の資金調達の仕組みを、より柔軟にすることで、教育や保健、衛生分野などにおける、子どものための息の長い支援計画の実行を可能にします。
  • そして、意義ある子どもの参加を促進すること。若者が防災や紛争解決、復興の取り組みに貢献できるよう、彼ら彼女らの声に耳を傾けることが重要です。
  • さらに、人道支援計画策定のプロセスに、脆弱な立場におかれている子どもたちのニーズに応えているかどうかをチェックする仕組みを導入すること。
  • 最後に、子どもを中心に据えた防災、紛争予防、そして、リスクを考慮した開発支援を行うこと。仙台の国連防災世界会議でも強調されたように、これは将来を担う子どもたちに対しての、大人たちの義務でもあります。

 

子どもたちは、私たちの未来です。その未来のために必要な投資とは何か。「世界人道サミット」に向けて、日本の皆さま一人ひとりと一緒に考えていきたいと思います。

f:id:UNIC_Tokyo:20130312143026j:plain友達とすべり台で遊ぶインドの女の子。いかなる時も、子どもたちが安心して成長できる環境を作っていくことが、私たちに課された義務である。© UNICEF/UNI139887/Singh

 

UNICEFについて、詳しくはこちらもご覧下さい(日本語)

UNICEF東京事務所

日本ユニセフ協会

日本ユニセフ協会/UNICEF東京事務所フェイスブック

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(2)

f:id:UNIC_Tokyo:20160105112226j:plain

シリーズ第2回は、WFP 国連世界食糧計画国連WFP)南・東ダルフール地方事務所プログラム統括の日比幸徳さんです。2015年7月に、緊急支援活動フェーズから復興・開発型の支援へ移行したばかりのスーダンで、被災地での個々の脆弱性に着目し、人道ニーズの複雑化に対応しようと奮闘されています。常に危険と隣り合わせの現場で、より効率的・効果的に人道支援を行うために、デジタル技術を活用した、21世紀型の食糧支援や避難民の登録管理システムについて寄稿していただきました。

 

第2回 WFP国連世界食糧計画国連WFP)南・東ダルフール地方事務所プログラム統括 日比幸徳さん

      ~飢餓のない世界を目指して-今の支援、明日のあり方~ 

        f:id:UNIC_Tokyo:20160119115242j:plain

                 日比 幸徳(ひび ゆきのり) 

     WFP国連世界食糧計画国連WFP)南・東ダルフール地方事務所プログラム統括

2000年、大学院生の時に岐阜大学国連WFP事務局次長の講演を偶然聴講したことをきっかけに、国連WFPに新卒採用で就職。 2001年7月、国連WFPカンボジア事務所に赴任、緊急支援活動を担当。その後は、東ティモール、独立前の南スーダン、そして現赴任地であるニヤラに異動しながら、イランでの地震被災者緊急支援(2003年12月)、モルディブでの津波被災者緊急支援(2004年12月)、ミャンマーでのサイクロン被災者緊急支援(2008年04月)に携わる。東日本大震災時の支援活動にも参加した。写真は学校給食を調理する女性たちと。左から2人目が筆者。©WFP

 

私は2001年、カンボジア赴任でWFP 国連世界食糧計画国連WFP)の仕事を始め、数か国での勤務を経て、2010年からは、独立前後の南スーダンおよびスーダンダルフール地方で、紛争の被災者を中心とした食糧支援に従事しています。14年間の国連WFP生活を振り返ると、イランでの地震(2003)やミャンマーでのサイクロン(2008)といった自然災害の被災者支援に携わってきた期間が長く、紛争地域での人道支援に携わるようになったのはここ数年です。未だ苦労をしながら全力で取り組んでいる最中です。

 

ダルフールでは2003年に異民族間での紛争が始まり、これまでに40万人が命を奪われ、200万人以上が家を追われたと推定されています。食糧事情の調査をしていると、「昨日までは安全に暮らしていたのに、突然、激しい衝突が起き、着の身着のまま逃げてきた」と食糧支援を求める女性や子ども達に一日何十人も接します。感情が動かされすぐに助けを差し伸べたくなるのが正直な気持ちですが、短絡的な食糧支援は、彼らの自助努力を阻害するリスクもあります。国連WFPの職員として、「各国・民間・個人からいただいた貴重な支援を、最も助けを必要としている人に届ける」という使命を胸に、調査の結果に基づく決断をしています。ただ私の担当地域だけで支援対象者は90万人を越え、時間の制約のあるなかで根拠に基づく慎重な判断をすることは容易ではありません。

 

     f:id:UNIC_Tokyo:20160119115421j:plain

         南ダルフールのGereida避難民キャンプに逃れてきた避難民の人々。

       作業に参加する対価として国連WFPの支援食糧を受給 WFP/Mohamed Fojar

 

活動を行う最大の困難は、治安です。2015年になってやや落ち着きを取り戻してきているものの、2013年以降、ダルフールの治安は急速に悪化しました。2013年7月 には、私の住むニヤラの町でも銃撃戦が勃発し、近所のNGOがロケット弾に被弾。私も同僚とともに、国連WFPの宿舎から国連平和維持活動(PKO)を行う部隊に救出されるという経験をしました。銃声を聞きながら防弾チョッキを着て同僚と宿舎内の避難室で6時間以上救援を待ったことは今でも忘れることができません。安全のため今もPKO部隊のキャンプで暮らしていますが、その時の経験から非常持ち出し袋を常にそばにおいて生活をしています。事務所とキャンプ間の移動、国内避難民キャンプへの視察、町外への陸路での移動は国連平和維持軍ないしは政府警察の護衛が必要です。また、定期的な安全管理訓練に加えて、地方出張の際には国連WFPの安全担当職員から現地の治安状況についての説明を受けることが義務となっています。自分、同僚、連携機関のスタッフ、そして支援を受ける人々の安全が一番の優先事項であることは理解しながら、速やかに調査を行うことの難しさとその結果生じてしまいがちな援助の遅れを歯がゆく思うことも多いです。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20160119115456j:plain

 銃声の聞こえる中、防弾チョッキを着て同僚と避難室でPKOの救援を待った時の一枚 WFP/Peter Otto

 

ここで大きな支えとなっているのは、仲間の存在です。ニヤラで人道援助に携わっているスタッフは所属機関の違いを越えて仲間であり、会えば仕事や家族のことを話し合います。貴重な時間であり、それによってダルフールでの厳しい生活を助けてもらってきました。しかしながら、移動の自由がなく、また政府や支援対象者代表に対してほぼ毎日、説明や交渉をするような生活は、ストレスが溜まるものです。利用できる医療施設が限られていることもあり、自分自身の体調管理よりも仕事を優先しがちになります。2015年10月、直前までニヤラ当局との交渉にあたっていた国連人道問題調整事務所(OCHA)の仲間を病気で亡くしたことは、突然の辛い知らせでした。2010年にニヤラに赴任した彼は国連NGO・政府との調整を務めてきた専門家であり、素晴らしいバランス感覚の持ち主でした。彼自身が参加を切望していたいわゆる「no-go area」(治安を理由に政府がそこへの移動を許していない地域)への調査団派遣の準備も最終段階に入っており、国連NGOのチームが彼の遺志を継ぐ思いで難しい交渉を続けています。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20160119115202j:plain

     同僚たちとの共同作業。支援活動にはチームワークが不可欠WFP/Adam Suliman Adam

 

2016年5月に開催される「世界人道サミット」では、危機が長期化する中で地域社会の強靭性を高めることが一つのテーマとなっていますが、ここスーダンでも、2015年7月、国連WFPは10年以上にわたる緊急支援活動を終え、復興・開発型の支援へ移行しました。その移行準備に関わることができたことは、貴重な経験となっています。私が担当している11のキャンプでも、国内避難民の命を助ける人道支援へ軸足を置きつつも、国内避難民をひとまとめに扱うのではなく、より個別の家族の脆弱性に着目し、今後の危機を乗り越えていくための強靭性を高める支援に移行しつつあります。これまでは事業での連携関係が限られていた国連開発計画(UNDP)や国際移住機関(IOM)とも、国内避難民の若者の生業支援活動などでの共同支援事業を作成中です。他機関との連携には、カンボジアで開発支援に携わった経験と、2011年の東日本大震災後に、様々なNGOの活動をサポートするジャパン・プラットフォームという支援機関に出向し、岩手県遠野市被災者主導による復興事業に関わった経験が活かされているように思います。

 

   f:id:UNIC_Tokyo:20160119115556j:plain

        生徒に朝食を配給しているEl Serief避難民キャンプの学校にて ©WFP

 

ダルフール勤務のもう一つの貴重な経験は、事業効率化のための新しい技術革新を現場で体験できていることです。例えば、以前は避難民が偽名を使い多重登録し、支援を不正に多重受給するケースがあったのですが、最近は、登録に指紋認証を用いるようになり、不正受給を削減し、支援対象者の正確な人数を把握できるようになりました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160119115652j:plain

        新たにキャンプに到着した避難民の指紋登録 WFP/Yukinori Hibi

 

また、新たな物流・サプライチェーン管理システムの導入により、国連WFPが扱う支援食糧の動きや状況をオンラインでリアルタイムで把握できるようになりました。さらに、現在1万8千人余りの国内避難民が暮らすキャンプでは、避難民に対し、一種のデビットカードを配布する「デジタル食糧支援」の導入が進んでいます。国連WFPがカードに電子マネーを毎月送金し、避難民が食品店でこのカードを提示すると、日本の小売店のレジでも見かけるようなPOS端末を用いて決済が行われます。このシステムの導入で、どのような食糧を購入したか、計画通り支援をフルに受け取れたかなど、これまでは把握するのが難しかった情報を把握、蓄積できるようになると期待されています。また、タブレットを利用してのデータ入力も進んでおり、より正確により早く情報を登録できるようになってきました。事業効率化のため技術革新に取り組む国連WFPの意気込みは、ニヤラにおいてもひしひしを感じることができます。新しく学ぶことが多く、私も他の同僚とともに新しい技術活用のための訓練に参加しています。事業効率化によって、必要とされる支援を、必要としている人々に、彼らの声を反映した形で届けられるよう努力を続けていきたいと思います。

 

 f:id:UNIC_Tokyo:20160119115722j:plain

   デジタル食糧支援の導入が進む南ダルフールのDereige避難民キャンプにて WFP/Mujahid Tahir

 

私は単身赴任中で、家族は広島で暮らしているのですが、先日、娘の通っている幼稚園の子どもたちと保護者の方々に国連WFPの活動の話を聞いていただく機会がありました。「知らなかったことがたくさんあり、知ることができてよかった。」「一人一人ができることを考えなければならないと思いました。」といった感想をいただき、また日本以外の国やそこで暮らす人々に興味を持ち始めた子どもたちもいるようです。国連WFPの現場で働く一職員としてこれからも情報を発信していくつもりです。

 

   f:id:UNIC_Tokyo:20160119115749j:plain

      日本からの支援で配布される食糧袋には、日本の国旗が WFP/Khalid Elhag

 

WFP 国連世界食糧計画国連WFP)について、詳しくはこちらもご覧下さい

国連WFPホームページ

フェイスブック

ツイッター:@WFP_JP

 

国連の「暴力過激主義防止の行動計画 (Plan of Action to Prevent Violent Extremism)」に、メディアも参画を

近年、ISIL、アルカイダ、ボコハラムなどのテロ集団が標榜する暴力的過激主義が世界に蔓延し、この脅威にいかに対処するかについて議論が展開されています。それらテロ集団の宗教的、文化的、社会的な不寛容さや、SNSの活用は、私たちの共通の価値である平和、正義、人間の尊厳をおびやかしています。

潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は2016年1月15日、「Plan of Action to Prevent Violent Extremism(暴力的過激行為を防ぐ行動計画)」(A/70/674)を国連総会に提出しました。この報告書について、高須司江(たかす・すえ)国連テロ対策委員会事務局(CTED)上級法務官から寄稿が届きました。

******

一向に衰えを見せないイスラム国やボコ・ハラムといったテログループの猛威には、事後的な対抗手段では足らず、もっとその根本原因に目を向けた対策を練らなくてはならない、というのがPVE(暴力過激主義防止)です。すでに2005年に採択された安保理決議(1624号)には「テロ行為扇動の禁止」と「異文明間の対話と理解の強化」が盛り込まれ、2006年のテロ対策グローバル戦略でも「テロ拡散に寄与する要因への対処」が明記されていましたが、外国人テロ戦闘員の急増した2014年になり、特にVE(暴力過激主義)への対策が強く要求される決議2178が採択されました。

f:id:UNIC_Tokyo:20140924150239j:plain

2014年9月24日 安保理決議2178号を採択 (UN Photo/Mark Garten)

今では、3万人以上の外国人がイスラム国に結集し(筆者の情報では、日本人もいると見られる)、罪のない人たちの殺戮を繰り返しています。そのほとんどは若者で、女性の数も少なくありません。いったい何が彼らを駆り立てているのか。その理由は一筋縄では解き明かせませんが、多くは、自分の力では何ともならない不平等感、不正義、差別、大きな経済格差、長引く紛争といった社会要因が若者の悲愴感を募らせ、生きる目的や自己アイデンティティを見失った者たちが、残された手段である暴力に訴えて錯覚したユートピアを実現しようとしている、と見ることも可能です。

このような単純でない要因に、私たちは取り組まなければなりません。今回の事務総長の提案(http://bit.ly/1S1wGV6)は、各国に独自の行動計画を策定することを推奨しています。いったい私たちの社会で、いったい誰に、何ができるのでしょうか。

暴力に訴えようという思想に発展していく過激化には、段階があります。これをいかに防止し、早い段階で認知して引き戻させることができるのか。オウム真理教団の化学兵器による無差別テロ事件を経験した日本は、あの事件から何を学び、今にどう生かしているのでしょうか。防止において国家にできることは多くなく、主役は市民社会に暮らす私たちです。平凡に響きますが、多様性を知り、寛容性を育むための学生主体による意見交換や交流、教育、温かい地域社会や思いやりの醸成、教育的ないし宗教的指導者の役割、といったことを見直す必要があるかもしれません。

そして特に、注目して頂きたいのはマスメディアの役割です。多くの若者たちは、インターネットを通じて過激化していきます。テロリズムの賛美、テロの扇動、テロリストのリクルート、爆弾の製造方法などが、日々、ウェブサイトに掲載され、世界中の誰か

らも簡単にアクセスできます。どうやって規制をかけるのか。政府による規制か自主規制か。そこには、プライバシーや表現の自由といった重要な価値との緊張関係が存在します。この点については、日本でも、もっと政府とメディアの方たちとの間で活発な議論、意見交換が望まれるところです。私の所属する国連テロ対策委員会事務局(CTED)では、グーグル、フェイスブック、ツィッター、マイクロソフト、微博といったサービスプロバイダーを集めて議論を重ねています。また、このような水面下での対応だけではなく、マスメディアが、テロリストが発信する情報に対抗して、積極的にメッセージを発信するという方策も考えてみる価値があるかもしれません。

           f:id:UNIC_Tokyo:20160119175702j:plain

高須司江(たかす・すえ) 国連テロ対策委員会事務局(CTED)上級法務官
早稲田大学卒業後、検察官検事に。国連極東アジア犯罪防止研修所などを経て、国連テロ対策委員会事務局へ法務省より出向。'10年3月、検事を退官し、現職に。

わたしのJPO時代(11)

「わたしのJPO時代」第11弾、今年最初の回として根本かおる国連広報センター所長の話をお届けします。当時の年齢制限ギリギリでのJPOデビューだったので、JPO後につながりやすい派遣先にこだわって飛び込んだ国連の世界。そして、報道記者として勤めていたテレビ局からJPOとして難民支援の現場で働くことは「違和感のない転職」だったと語っています。

 

                 国連広報センター所長 根本かおる

            ~難民保護のイロハを学んだJPO時代~

           f:id:UNIC_Tokyo:20160105125317p:plain

 

東京大学法学部卒。テレビ朝日アナウンサー、記者勤務を経て、フルブライト奨学生として米国コロンビア大学大学院に留学し、国際関係論修士号取得。1996年から2011年末までUNHCR国連難民高等弁務官事務所)職員として、アジア、アフリカなどの難民援助の最前線で支援活動にあたるとともに、ジュネーブ本部で政策づくり、および世界の民間部門からの活動資金の調達のとりまとめを行う。UNHCR在籍中にWFP(国連世界食糧計画)広報官、国連UNHCR協会事務局長もつとめた。フリー・ジャーナリストを経て、2013年8月より現職。

 

国連広報センターでは、JPOを経験して様々な国連機関で活躍する方々に体験を語っていただく「わたしのJPO時代」シリーズを2015年春からお届けしています。

 

このシリーズ担当の私は、皆さんの原稿に「最初の読者」として目を通す特権にあずかっているのですが、まさに「人に歴史あり」。それぞれに異なるチャレンジに直面し、悩みながらも周りに支えられて乗り越えてこられたことを個性豊かにつづってくださっていて、いつも原稿をいただくのが楽しみです。

かく言う私もJPO経験者です。ジャーナリストとして専門分野を持ちたいという気持ちから、報道記者として勤めていたテレビ局を休職してニューヨークのコロンビア大学国際関係論大学院に留学しました。95年、大学院の夏休みを活用してUNHCRネパール事務所の難民キャンプでの活動にインターンとして関わって国連機関を内部から見ることができたことから、取材対象や憧れの存在ではなく、自分が携わることのできる存在としての「国連の仕事」に興味を持つようになったのです。

  f:id:UNIC_Tokyo:20160105125407p:plain

            インターン時代、ブータン難民たちと(1995年)

 

面接を経て第一希望のUNHCRに受け入れてもらえることは決まったものの、テレビ局を辞めて33歳という当時の年齢制限ギリギリでのJPOデビューでしたから、JPO後につながりやすい派遣先にこだわりました。

実は、最初オファーのあった二つの派遣先を断わっています。内部情報を「取材」すると、最初のオファーはもうすぐ閉鎖される事務所だとわかり、それでは次につながりません。二つ目のオファーは先進国での広報の仕事で、まずは難民の権利保護に正面から関わりたいと国際人権法、国際難民法を専攻していた自分の希望とは異なっていましたし、「最初から先進国だとなかなか次につながりにくい」というUNHCR日本人職員の方からのアドバイスもありました。

三番目のオファーは、トルコ•アンカラでの難民認定審査を行う保護官の仕事でした。情報を集めてみると、この事務所は大変評判がよく、日本人JPO受け入れの実績もあり、難民認定審査という難民保護の基礎をしっかり学べると次につながりやすいということがわかり、迷わず受けることにしました。結論的には大正解、取材して粘った甲斐がありました。

  f:id:UNIC_Tokyo:20160105125424p:plain

       ネパールのブータン難民キャンプでUNHCR現地事務所の所長として(2006年)

 

主に隣国のイラク、イランでの迫害を逃れて庇護申請した人々から聞き取り調査をして、国際法に照らして難民として保護すべきかどうかを判断するという仕事を担当しました。トルコは地理的限定つきで難民条約を批准していましたので、ヨーロッパ以外からの難民についてはUNHCRがトルコ政府を補完する形で、UNHCRのマンデートに基づいて自ら難民認定審査を行っていたのです。サダム・フセインイラク政府軍がイラク北部のクルド人自治区に侵攻するとイラクからの庇護申請者が急増するなど、国際・国内政治と直結していました。


朝から晩まで事務所の地下にあるインタビュー•ルームに籠り、拷問や弾圧の話を通訳を通じて聞き続けるという精神的にはキツイ任務でしたが、マスコミでのインタビュー取材に通じる部分があり、違和感のない転職でした。

認定審査には庇護申請者の出身国の政治、人権状況について精通していることが求められ、この地域については素人同然の私は、とにかく沢山の文献を読み込んだことを覚えています。慣れてくると、ある特定のグループについて難民認定する際のガイドライン作りも任せてもらえました。難民認定審査のアセスメントを書く上でも、ガイドラインのドラフトを行う上でも、マスコミで鍛えられていた「端的に書く」という力が大変なアセットになり、いろいろと任せてもらえたのだと思います。

 

また、オフィスには同時期にスウェーデン、ドイツ、イタリア、フィンランド、アメリカ (そして、後にはもう一人日本から) のJPOの仲間がいて、上司たちがJPOを育成しながら仕事と責任を与えることに長けていたのです。JPOを半人前としてではなく、将来のある人材として育ててくれたアンカラ事務所には心から感謝しています。自分が恩恵を受けた分、今は逆の立場で、インターンやJPOをこれからを担う人々として激励しています。

  f:id:UNIC_Tokyo:20160105125517p:plain

       ネパールのブータン難民キャンプ現地事務所所長として女性に対する暴力を廃絶する行進(2006 年)     

 

トルコの警察当局に申し入れをするということも担当させてもらいました。庇護申請者の強制送還という問題が起こりがちで、イラク、イランとの国境地帯に出張して、庇護申請者を審査せずに強制送還することがあってはならないと警察当局に掛け合ったのです。クルド系の人々が多く住む地域で、家々の壁には銃弾の跡も見られ、ピリピリした空気が張り詰めていたことを覚えています。トルコ国内のクルドの問題にトルコ事務所は直接には関わっていませんでしたが、出張の際に垣間見た厳しい現実や都会との格差は強く印象に残っています。

  

プライベートでも、トルコの歴史と文化は何とも興味深く、暇を見つけてはトルコ国内各地を旅していました。旅行や出張で英語が通じない地方に行ったときに困らないようにと、トルコ語も楽しみながら学びました。


また、世俗主義のトルコではイスラムでもお酒はOK。事務所では毎週金曜日の夕方にハッピー・アワーが開かれ、水を入れると白濁するトルコ名産の「ラク」というお酒が楽しみでした。トルコ特有の穏健なイスラムは、イスラムと出会う入口としては大変ありがたいものでした。

  f:id:UNIC_Tokyo:20160106144041p:plain

      ケニアのダダーブ難民キャンプでソマリアから逃れてきた子どもたちと(2009年)

 

オフィスには大勢のJPOがいましたので、オフィスとしてJPO後のポスト獲得を応援することが当然のことになっていていました。成功術をみんなで共有するというオープンなカルチャーがあり、みんなからの刺激と激励を受けて、遠慮することなく工夫することができたのはありがたかったですね。自分の希望を上司に伝えて支援してもらうこと、希望ポストの人事権を持っている人につないでもらうこと、自分を売り込むために休暇を取ってどんどん本部に足を運ぶことなどがその例です。


上司の勧めもあり、私はJPO時代にフランス語を個人レッスンを受けて習得し、ジュネーブ本部まで行って上司が紹介してくれたGreat Lakes Regionを担当するデスク・オフィサーに会って、結果としてフランス語圏のブルンジでの正規ポストにつなげることができました。

JPO時代に難民の権利保護のイロハを叩き込んでもらえたおかげで「難民保護」、およびマスコミでの経験をもとにした「広報」とが自分のキャリアの二つの柱になっています。是非多くの方々にJPOというメリットの大きいチャンスに挑んでいただきたいと願っています!

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20160105125535p:plain

 昨年、10月24日に行われた国連70周年記念「世界の名所を国連ブルーに」キャンペーンで司会を務める筆者。ジャーナリストや広報官としてのキャリアが、今の国連広報センターでの活動につながっている。