国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(1)

日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第1弾は、伊勢桃代(いせ ももよ)さんです。国連に28年間勤め、主に国連大学の創設や国連職員に対する研修制度の充実に関わっていらっしゃいました。日本人の国連職員の草分け的存在として、苦労も多かったことと察しますが、「ワルトハイム元事務総長とダンスしたこともあるんです」と、当時のことを微笑ましく思い返していらっしゃいました。  

 

                              第1回:国連大学初代事務局長 伊勢桃代さん

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慶應義塾大学卒業後、シラキュース大学で社会学修士号、コロンビア大学で都市計画修士号を取得。1969年に国連本部に勤務。1985年には国連本部研修部部長を務め、1988-1989年国連大学事務局長として活躍。1997年に国連を退職し、1997年-2004年アジア女性基金専務理事。現在、国連システム元国際公務員日本協会(AFICS-Japan)会長】

 

                 ニューヨーク市職員から国連職員へ

国連職員になるきっかけは何でしたか?
初めから日本で就職することは考えていませんでした。というのは当時の日本にはまだ女性が自分の力を伸ばせるような仕事は無いと感じたので。そこでアメリカに留学し、卒業後は米国家の差別と貧困格差の無い社会創生の仕事に携わり、ニューヨーク市においても「貧困との闘い」政策に市職員として従事しました。しかし、こういった仕事はアメリカ社会を熟知していないと無理だと思ったのと、米国市民権を持たない外国人達がニューヨーク市職員として働くということが疑問視され始めており、もっとグローバルな環境で働くことを目指しました。国際公務員として政府からの独立と中立を守る観点から、日本政府からの支援などは受けず自分で国連本部ビルの門を叩いて応募しました。

―どのような仕事をされていたのですか?
私は28年間国連職員として働いたのですが、最初は経済・社会開発担当でした。その後国連大学の創設と国連職員の研修の充実に努めました。国連大学には明石康氏のお蔭で国連総会決議が出た殆んど直後から関わることになりました。まずは東京の帝国ホテルに準備事務所を開設することから始まり、私が所長として任された国連大学ニューヨーク事務所、そして初代国連大学事務局長として初代学長との二人三脚での大学運営に関わりました。

研修では、部下の扱いや組織をリードするとはどういうことか、職員に期待することなど、幅広い分野に取り組みました。私はとにかく研修の重要性を強調し、事務総長以下すべてのスタッフに研修が必要だと申してきました。特に高官がしっかりしてないと部下は育ちませんので、幹部の意識改革が必要でした。事務総長の中でもブトロス・ブトロス・ガーリ氏は私の意見に耳を傾け、強く後押ししてくださいました。国連総会第5委員会にて人材育成や研修に関する予算を取る決定的瞬間が私の目の前でなされた時、私はブトロス・ガーリ事務総長の真後ろに担当官として座っていました。事務総長があんなにも力を入れてくださったことに感激しました。

当時の私の国連での長年の努力が報われるような出来事が、つい最近ありました。昨年秋、国連採用説明会のために訪日した国連の人事担当、国連人的資源管理部アウトリーチ・ユニット長のジョン・エリクソンさんは当時私のいた人事部で働いていました。彼に東京で会った際にこう私に言ったのです。「伊勢さんの熱意が叶って、今の国連の研修制度、特に上層部の研修は素晴らしいものになっています」こんなに嬉しいことはありません。

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           国連大学創設当初、様々な機会に国連大学のことをアピールする伊勢さん

 

パーティーで、ワルトハイム事務総長とダンスをしました

―どの事務総長に仕えたのでしょうか。
ウ・タント、ワルトハイム、デ・クエヤル、ブトロス=ガーリ事務総長に仕えました。

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左から、ウ・タント第3代事務総長、ハビエル・ペレス・デ・クエヤル第5代事務総長、ブトロス・ブトロス=ガーリ第6代事務総長

 

―事務総長と印象的なエピソードはありますか?

当時広報担当事務次長でいらっしゃった赤谷源一さんが、研修も兼ねて国連広報局主催のパーティーに私を誘ってくださいました。そこには当時のワルトハイム事務総長もいらっしゃり、なんと彼とワルツに合わせて踊ったのです。外交官を多く招いていたそのパーティーでは、国連職員として事務総長と一緒に踊る幸運に恵まれたのは私ぐらいでした。緊張を隠せない私に対して、事務総長は家族のことなどをお聞きになったと記憶しています。

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                ワルツの国オーストリア出身のクルト・ワルトハイム第4代国連事務総長

 

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                                              研修にて講演する伊勢さん

 

ストラディバリウスを最高のコンディションにして次の人に渡すこと。それが私の役割

国連憲章は、次世代にきちんと伝えていかなければとおっしゃっていますね。
私の友達にチョン・ミョンファという有名なチェリストがいます。彼女はストラディバリウスを持っていて、飛行機に乗るときもファーストクラスの隣の席に置いて、しっかりとシートベルトも締めるらしいです。ミョンファさんは「自分はこのストラディバリウスを弾くだけの能力を持たなくてはならないのだけど、もっと大事なことは、これを最高のコンディションにして次の人に渡すこと。それが私の役割です」と、話してくれました。

私はこの話に感激し国連憲章への思いを国連を退職する際の送別会でしました。今の世界の状況下で、193カ国全てから合意を得て現在の国連憲章を作ることは到底不可能なように感じられます。ですから、私たちの役割は国連憲章を次世代に伝えることなのです、と述べました。そうしたら、これに大きな反響がありました。国連には憲章や理念があり、それをぶれることなく使い管理すれば、今でも太鼓のように打てば返ってくると思います。

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                                国連広報センターにて、インタビューの様子

 

      日本の若者には、世界に目を向けてほしいですね

―日本の若者へ何を期待しますか?
日本の若者には世界に目を向けて欲しいです。国際的感覚を持つことは非常に大事ですから。日本から外を見ているために、日本的な感覚から抜け出せないまま外を見ている若者もいるようです。これからは、外からも日本がどう見られるかを把握してもらいたいと思います。また、国連といった国際機関で働くという意欲を持って、インターンから始めてもいいので、外に出て行って欲しいです。同様に日本の外から日本に戻って来る人の受け入れ態勢も必要だと感じます。国際感覚が豊かな人材が必要な企業などには、もっと機会を作って欲しいですね。

それから「グローバル」と「国際」とは違うと思います。国際は、国家体制がそこに含まれており、一方、グローバルは国境を越えています。私はグローバルな政治や体制を動かしていける力をつけてほしいと思います。国連で働くというのは、そういう感覚と力を養えるよい機会になると思います。できるだけ多くの皆さんに参加して頂きたいです。

                   

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         伊勢さんを囲んでインターン 磯田恭範(左)とインターン 島僚之介(右)

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット 5月開催」(1)

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2016年5月23・24日にトルコのイスタンブールで開催される「世界人道サミット」にむけて、国連広報センターでは国連をはじめとする援助機関の職員による寄稿をシリーズでお届けします。シリーズ第1回は、国連人道問題調整事務所(OCHA)神戸事務所長の渡部正樹さんです。渡部さんは日本の関係機関との連携強化を通じて、紛争や自然災害による被災者のための国際的支援を推進されています。史上初となる世界人道サミットの意義とその役割について寄稿していただきました。

 

     第1回 国連人道問題調整事務所(OCHA)神戸事務所 渡部正樹所長

           ~世界人道サミットと私たちの未来~

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      渡部正樹 (わたべ まさき) 国連人道問題調整事務所 (OCHA) 神戸事務所長

2012年1月より現職。紛争や災害に苦しむ人々のための国際支援をより強化するため、日本政府や市民社会とのパートナーシップ構築に取り組む。以前はOCHAニューヨーク本部でスリランカ内戦及び東日本大震災を担当。また、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)及び海外経済協力基金(現在の国際協力機構(JICA))にも勤務。人道政策、避難民支援、災害リスク管理、民軍調整等に携る。早稲田大学政治経済学部卒業。ロンドンスクールオブエコノミクス(LSE修士課程修了(発展途上国における社会政策・プランニング専攻)。共訳書に新戦争論(メアリー・カルドー著、岩波書店)がある。

 

今、世界の人道状況は大変厳しい局面を迎えています。紛争や自然災害、食糧不足や感染症の拡大などにより、いのちを繋いでいくための支援を必要とする人々の数が世界中でほぼ日本の総人口に匹敵する1億2,500万人を超えてしまいました。また、6,000万人もの人びとが、紛争や暴力のため住み慣れた土地を追われ、避難生活を余儀なくされています。その数は第2次世界大戦後最悪の水準に達すると言われ、実にその半数が子供たちです。一方で、食糧や保健医療、安全な水に教育といった支援ニーズに応えるための活動資金が追い付いていません。2016年の一年間で、私たちは国際社会に対して総額約200億ドル(約2.4兆円)の拠出を求めていますが、2015年度を振り返ると、ほぼ同額の資金需要に対しそのおよそ50%しか手当てすることが出来ませんでした。

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                    シリアの子どもたち

 

なぜ世界人道サミットが開催されるのか?

このようなことになってしまっている原因として、各地で起こっている人道危機が、大規模化・複雑化・長期化していることがあげられます。そしてその背景には、気候変動の影響、人口増加、都市化、さらにはテロや治安の悪化があります。他方、人道支援に携わる関係者の数も増え、新興国ドナーや民間企業など、その種類も多様化しています。加えて、ソーシャルメディアや携帯電話といった技術革新が進み、特に被災者自身が単なる支援の受け手に留まらず、積極的に情報発信をする機会ももたらされています。このように国際人道支援を取り巻く環境がめまぐるしく変化する中、一人でも多くのいのちを救い、より効率的・効果的な人道支援を実現するためには、今何が求められているのでしょうか?

2016年5月23日と24日の2日間、史上初となる「世界人道サミット」がトルコのイスタンブールで開催されます。伊勢志摩でのG7サミットの直前に行われるこの世界人道サミットでは、既存の国際人道システムをいわば「21世紀型」に変えていくための方策を探ります。国際社会として今どういった行動が必要かを議論し、具体的な提案を検討するとともに、変化を引き起こすために必要な政治的コミットメントの確保を目指す。イスタンブールには潘基文国連事務総長の呼びかけに応じ、各国政府や関係機関のリーダーが結集します。そして、私たち国連人道問題調整事務所(OCHA)がその事務局を担っています。   

 

イスタンブールへの道のり

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             ジュネーブで行われたグローバル準備会合の様子

 このサミットに向けたプロセスでの最大の特色は、人道支援の原理原則に立ち返り、「被災者や最も弱い立場におかれた人々を議論の中心に据える」という考え方です。各国政府のみが討議をするのではなく、実際に紛争や災害の影響を受けている人々や市民団体、民間企業など、さまざまな関係者が議論に参加します。また多様な意見を反映するため、これまで世界各地域で準備会合を開催してきました。2014年7月には、東南アジアと北東アジアを対象とした準備会合も東京で開かれています(日本及びインドネシア政府との共催)。このほか、世界中で2万3,000人以上がこうした会合に参加し、インターネット上でも多くの意見が寄せられています。そして2015年10月14日には最後のグローバル準備会合がスイスのジュネーブで開かれ、これまでの議論と最新の人道危機状況を踏まえ、世界人道サミット本番に向けた意見集約が行われました。このグローバル準備会合の成果として、共同議長サマリーが発表されています。

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   グローバル準備会合でスピーチするスティーブン・オブライアン国連事務次長(人道問題担当)

 

世界人道サミットでは何が議論されるのか?

グローバル準備会合に先立ち、これまでの議論をまとめた総合レポートも発表されました。この中で、世界人道サミットで討議されるテーマがおおよそ次の5つに絞られてきています。

  • 尊厳(Dignity)― 被災者の尊厳をいかに守るか。子ども・女性・高齢者・障害者など多様なニーズに応えるにはどうすべきか。
  • 安全(Safety)― 激しい戦闘が続く紛争地で一般市民を保護するために何が必要か。同時に支援者の安全をどう確保するか。
  • 強靭性(Resilience)― 危機が長期化する中、どのようにして脆弱性を克服し、地域社会としての強靭性(レジリエンス)を高めるのか。
  • パートナーシップ(Partnerships)― 現地市民社会や民間企業との連携をどう強化するか。どのようにすれば人道支援に役立つような技術革新を促すことが出来るのか。
  • 資金手当て(Finance)― 必要な資金をより効果的かつ持続的に確保するためには何が必要か。

いずれも、現在私たちが直面する人道危機に共通の、大変大きな、そして難しい課題です。次のステップとしては、こうした論点を中心に国連事務総長報告書がまとめられ、イスタンブールでの議論に持ち込まれることとなっています。そして世界人道サミットを通じて、求められる変化を引き起こすための約束事や、そこで必要とされるパートナーシップ、さらには行動計画などを、それぞれの関係者が打ち出していくこととなります。

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            グローバル準備会合で意見を交わす参加者

 

世界人道サミットと私たちの未来

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          第3回国連防災世界会議で登壇する潘基文(パン・ギムン)事務総長

世界人道サミットは、2015年3月に仙台で開催された第3回国連防災世界会議の成果とも密接な関係があります。この会議で採択された「仙台防災枠組」に立脚して、災害リスク削減のための投資をさらに進めるとともに、いざという時にはしっかりと応急対応できるような備えを強化しておく必要があります。そして、紛争などの影響を受けている国々に焦点をあて、特にこうした国々による防災努力を支援していく一方、支援側としても短期的な人道支援のみならず、より長期にわたる開発援助も合わせて、垣根を越えた努力が求められています。

また、2015年9月には持続可能な開発目標(SDGs)が国連総会で採択されました。貧困や不平等に取り組むとともに、気候変動問題にも対応し、同時に平和で包摂的な社会を推進する。「誰も置き去りにしない(leave no one behind)」- 国連事務総長はそう述べています。最初にご紹介した1億人以上もの人々を本当に「置き去りにしない」ためには、自然災害や紛争の被災者を開発努力の中にしっかりと位置付ける必要があります。また、人道危機による被災者がこれ以上生まれないよう、あるいは危機の瀬戸際に追い込まれている人々がそこで何とか踏み留まれるよう、特に脆弱な立場におかれた人々の自立を支え、地域社会が持つ力を応援していくことも大切です。こうしたビジョンを実現するためにも、世界人道サミットが極めて重要な役割を果すこととなるのです。

世界人道サミットは、私たちの、そして世界中で紛争や災害に苦しむ被災者の願いを現実のものとするための歴史的な一歩となります。相次ぐ人道危機がもはや常態化し、今世界は決して平和とは言えないでしょう。私たちが望む未来を築いていくためには、日々伝えられる悲劇を、ともすれば誰の身にも起こりうることと受け止めて、問題解決のためにきちんと関与していく必要があるのではないのでしょうか。ぜひ世界人道サミットに向けて、日本政府はもちろん、市民社会としても議論を深めて頂き、皆さん一人ひとりに出来ることは何かを改めて考えて頂ければと思います。

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    2013年11月にフィリピンを直撃し、6000人以上もの死者を出した台風30号「ハイヤン」の

            被災地を訪れる潘事務総長(フィリピン、タクロバン)

 

ビデオ:世界人道サミットに向けた国連事務総長のメッセージ     

  

 

世界人道サミットについて、さらに詳しくはこちらもご覧下さい

 

OCHAについて、詳しくはこちらもご覧下さい(日本語)

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国連、政府、地元の人が一つになって70周年を祝った「国連デー」

今回は支援現場からの国連職員の声として、2015年より国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)にて活躍されている斉藤洋之さんのお話をお届けします。
長年の内戦,和平合意の履行,独立を経て,2013年12月以降再び内戦状態にあるスーダン。彼の地で斉藤さんは、現地のパートナー団体と一緒に広報的な側面から平和に向けた活動を行っています。

斉藤洋之(さいとうひろゆき
国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)広報部
アウトリーチユニット統括

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     UNMISS軍事部門・南部セクターの司令官(右)と一緒に写る斉藤広報官(左)

東京都出身。早稲田大学第一文学部文芸専修卒業後、テレビ東京勤務。その後、ボストン大学で放送ジャーナリズム修士号取得。米国NBC系列地方局、フォックス・ニュースボストン支局、ダルフール国連アフリカ連合合同ミッション広報部で勤務。UNICEF東京事務所・広報官、米国旅行ウェブマガジン「Travelzoo」制作部長を経て、2015年よりUNMISS広報部で、アウトリーチユニット統括。


~70周年に向けて掲げた目標とは?~

私が働く南スーダン国連ミッション(UNMISS)の広報部・アウトリーチユニットは、現地の人々に向けてイベントを実施するチームです。様々なイベントを通じてUNMISSの活動に理解を示してもらい、現地のパートナー団体と一緒に広報的な側面から平和に向けて大きな「うねり」を作っていくことが私たちの大きな役割の一つだと思っています。
スーダンの首都ジュバに着任してすぐさま取り掛かったイベントが「国連デー」でした。今年は国連創設70周年という歴史的にも大きな節目の年。昨年と同じことを繰り返すだけでは済まされない特別な年でした。 

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            道路わきに広告としての大きなバナー 

10月24日の国連デーを企画するにあたって設定した目標は2つ。1つは「南スーダンで活動する国連機関と連携してこれまでの活動の成果を集め、70周年にちなんで、国連全体として70の業績をアピールすること」、2つ目は「UNMISSとその他の国連機関の関係を強化し、『One UN』の絆を深めること」でした。

 

~12の国際機関との連携~

スーダンでは、合計22の国際機関が活動していますが、私たちの呼びかけで集まったジュバの国際機関はFAO、IOM、OCHA、UNAIDS、UNESCOUNFPAUNHCRUNICEF、UNIDO、UNMAS、WFP、WHOの12機関。1ヶ月しかない短い準備期間でしたが、各機関の広報部門の同僚から、インパクトのある写真と、成果を手短に説明したキャプションを大急ぎで集め、それをもとに大型の「写真パネル」と見開きの「リーフレット」を作ることにしました。

設定したイベントは2つ。10月23日にUNMISSの本部へ南スーダンの政府閣僚と各国大使を招待し、国連旗と南スーダン国旗とを掲揚する式典を開き、24日の国連デー当日はジュバ郊外のラジャフ村で地元の人と一緒にお祝いしました。

ジュバ郊外のラジャフ村を選んだのは、UNMISSの軍事部門がこの村で農業プロジェクト、大工仕事のトレーニング、健康面のカウンセリングなどをすでに実施しており、私たちの活動の「成果」を実際に示すことができるからでした。 

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地元の人々を動員するために自前の宣伝カーでラジャフ村周辺を周り、広報をしてくれたジャンボさんは地元の人にも人気で彼に頼めば1,000人の動員が見込めると言われています。 

 

この地域を統括している軍事部門・南部セクターの司令官にこの企画を持ち込んだところ、快く承諾してくださり、司令官の下で活動しているルワンダ部隊、エチオピア部隊、中国部隊、ネパール部隊がロジ面でサポートしてくれることになりました。

 

~紛争地と隣り合わせで~

イベント実施にあたって苦労したのは、数多くの関係者を取りまとめることでした。国連機関の広報担当、UNMISS軍事部門の関係者、文民部門の総務系の部署など、とにかくたくさんのチームを集め、毎週一回、20から30人規模の全体会議を開き、それぞれの希望を聞きながら、各自の役割を確認し、締め切りに沿って業務を遂行していくよう呼びかけました。軍事部門の価値観と文民部門の考え方の双方を尊重しながら物事を決めていくのに特に苦労しました。

私のチームだけではすべての準備をできない大規模なイベントで、安全管理の必要性もあったため、UNMISSの各部隊にサポートをお願いして回る必要性がありました。事前にセキュリティチームに安全面での下見を依頼したり、ネパール部隊に当日ラジャフ村周辺の監視をお願いするとともに、地元自治体の郡長さんに挨拶に伺い、警備部隊を提供していただくよう依頼をしました。 

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                  安全確認のためのミーティング 

~大きな「うねり」につながった~

そうして迎えた23日の「国連デー」国旗掲揚式典。直前にドシャ降りの雨が降り、式典中も雨模様だったものの、WFPの広報官が70周年をアピールした熱い司会を務め、ルワンダ部隊の民族ダンスや、南スーダンの現地のダンスパフォーマンスも前日のリハーサル以上に気迫がこもり、それぞれに力を出し切ってくれました。南スーダン教育大臣もスピーチをしてくださり、中国隊の隊員が行った国旗掲揚もつつがなく終わりました。式典の後には、国連70歳のバースデーケーキをロイ国連事務総長特別代表がカットする場面もありました。

翌24日のラジャフ村でのサイドイベントでは12の国際機関がテントの下、それぞれの活動をアピールしたり、蚊遣りや石けんの支給、マラリアの治療や栄養不良の子どもたちのカウンセリングといった基礎サービスの提供を行いました。南スーダン国連ファミリーの業績70件を紹介した写真パネルを設置し、リーフレット(http://unmiss.unmissions.org/Portals/unmiss/%20Press%20Releases/2015/October%202015/leaflet_rev2_pages_WEB.pdf
)も配布しました。 

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                  ダンスパフォーマンスのひとコマ 

開会式ではUNMISSネパール部隊が民族ダンスを披露し、マーUNMISS南部セクター司令官国連機関代表、地方自治体の代表が挨拶をしました。当日の来場者数は1,000人以上でした。式の中で、地元の人々が現地の踊りを始めた時には、自治体の方々が立ち上がって一緒に踊り始め、それに合わせて国連スタッフ、若者たちも加わって踊る場面があり、会場全体が一つになった瞬間でした。私にとってはこの一体感のある場面がこのイベントの大きなハイライトの一つです。 

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              ラジャフ村での「国連デー」国旗掲揚式典にて 

~南スーダンにおける国連の役割とは~

スーダンは2013年12月より内戦状態にあり、戦闘開始以降、数万人が死亡、220万人以上が家を追われています。今年8月に南スーダン政府と反政府勢力が和平協定に署名をし、和平実現に向けた千載一遇の好機が到来しています。恒久平和を願う人々の国連に対する期待も大きいため、これまでの国際機関の業績を紹介し、南スーダンの人々との距離を近づけることは国連の役割、存在意義をアピールする上でも大切なことだと思います。

結果として、企画当初に設定した目標を達成できたのは、時には無茶なお願いをしたにもかかわらず、関係者の皆さんが私たちを信じて最後まで力を貸してくれたからでした。一人一人に心から感謝をしたい、いつまでも思い出に残るイベントです。

わたしのJPO時代(10)

「わたしのJPO時代」第10弾として、国連開発計画(UNDP)イエメン事務所のガバナンス・チームでチーフ・テクニカル・アドバイザーを務める児玉千佳子さんのお話をお届けします。外務省勤務の経験を持つ児玉さんは、JPO時代の赴任先だったパレスチナとそこでの業務内容を振り返って、「最も楽しい時期の一つ」だったと語ります。

 

国連開発計画(UNDP)イエメン事務所 ガバナンス・チーム チーフ・テクニカル・アドバイザー 児玉千佳子さん

 

           ~手探りな状態、楽しい思い出~

 

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                     友人の結婚式に出席する児玉さん(写真中央)

 UNDPイエメン事務所のガバナンス・チームでチーフ・テクニカル・アドバイザー(平和移行支援)。外務省勤務を経て、2005年にJPO(Junior Professional Officer)としてパレスチナ人支援プログラム(PAPP/UNDP)で勤務。UNDPニューヨーク本部開発政策部、ラオス事務所、スーダン事務所を経て、2014年より現職に至る。筑波大学卒。カールトン大学ノーマンパターソン国際関係スクール国際関係学修士

  

はじめまして。現在、国連開発計画(UNDP)イエメン事務所ガバナンス・チーム チーフ・テクニカル・アドバイザーを勤める児玉千佳子です。振り返ってみますと、今から10年前、JPO(Junior Professional Officer)として勤務した時代は、これまで国連で働いてきた中で最も楽しい時期の一つです。理由は色々とありますが、参考になりそうな〝思い出〟をご紹介させていただきます。

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                 UNDPイエメン事務所の同僚たちと

 1.赴任地

JPOとしての赴任地として、私はパレスチナを希望しました。JPO採用前の前職が外務省でのアフガニスタン勤務だったこともあり、引き続き紛争中もしくは紛争後の国で働きたいと考えていました。JPO経験者からの勧めもあり、パレスチナを選びました。結果としてJPOとしての経験を豊かにしてくれたのはパレスチナに赴任できたおかげだと思っています。パレスチナが直面した(している)問題の故に学べたこと、できた仕事がたくさんありました。

 

(1)占領

パレスチナ西岸は 、パレスチナ自治政府(Palestine Authority) が支配を及ぼせる度合により地域がA、 B、 Cと分かれています。行政・治安維持共にイスラエルの支配下にあるCは全地域の60%以上にものぼります。加えて、領土はいたるところで、軍が管理する検問所により分断される状況下で「開発」が可能かどうかは、パレスチナで働く人の多くが悩むことです。例えば、検問所で裁判官が足止めされて裁判ができないために処理が進まない司法案件が増える中、根本的な問題に対処しないまま実施する開発はパレスチナ人が望むものなのだろうかと考えさせられもしました。

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                 パレスチナ西岸地域における壁の建設

 

(2)実効支配

2006年1月の立法評議会選挙[1]ハマスが多数の票を獲得したにもかかわらず、ハマス主導の自治政府が米国、欧州連合(EU)、ロシア、国連で構成される「カルテット」から承認されなかったため[2]、多くのドナー国が支援を引き上げました。西岸では選挙では少数派だったファタハが、ガザではハマス実効支配を及ぼすという状況が続きました。国連はカルテットの一員であるため、私たちUNDPもカルテットの方針に従いました。ガザ地区ではハマス国連が正統性を認めない政府)が実効支配を及ぼす中でどうプロジェクトを実施していくか、国連の中立性なども含めて現場では多くの争点がありました。

 

(3)どの紛争?

パレスチナというと、パレスチナイスラエル間の紛争を思い浮かべる方が多いと思います。パレスチナには、国連ミッションの国連中東特別調整官事務所(Office of the United Nations Special Coordinator for the Middle East Peace Process : UNSCO)があります。UNSCOが中東和平プロセスを見る傍ら、UNDPはパレスチナ人への支援を担っていました。パレスチナへの支援活動を行なう上ではイスラエルとの関係は避けて通れず、 UNDPに与えられた任務の制約の中で、紛争の争点となる問題にどう取り組むかも課題の一つでした。

 

2.担当

JPOとして赴任した際には、UNDPのプログラム管理体制を全く理解しておらず、最初はかなり試行錯誤しました。赴任時の肩書はプログラム・アナリスト(Programme Analyst) というもので、この名前にも慣れず、「いったい何を分析(analyze)するのだろう?」という感じでした。ジェンダー、若者、HIV/AIDS、人権、紛争予防など様々なフォーカルポイントをすすんで引き受けました。その中のいくつかは、JPO終了後にUNDPで正規の仕事を得る上で、強みとなりました。

 

(1)分野

様々なイッシューのフォーカルポイントとして勤務をスタートしましたが、内部の組織編成で幸いにも関心があった平和構築、ガバナンスのプロジェクトを担当させてもらえることになりました。UNDPは各分野で多岐に渡るアプローチ、分析手法、プロジェクト内容などがあるため、関心ある分野を担当できると学べることも多く、非常に楽しんで仕事ができました。ちょうどパレスチナに派遣されたUNDPの平和開発アドバイザーと一緒に働くことで、パレスチナ人の間での対話促進、紛争分析、新しいパートナー構築等に携わることができました。

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                                           「国際女性の日」のイベント

 (2)マネージメント

これも全くの偶然ですが、直属の上司の異動に伴い、私が約1年間ガバナンス・チームのリーダーを務めました。手探り状態での経験でしたが、事務所長に恵まれ、国事務所の全体像を見て仕事をするという貴重な経験となりました。

 

国連もすべてが〝理想の組織〟という訳ではなく、戸惑うことも多くあります。ただ、国連だからできること、様々な国でたくさんの人に出会い、一緒に働けるなどの醍醐味もあります。皆さんともどこかで一緒に働ける機会がくることを楽しみにしています。

 

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[1] 立法評議会パレスチナ自治政府の立法機関で日本の国会にあたります。2006年の選挙ではガザ地区西岸地区、エルサレムに居住するパレスチナ人によって選挙が行われました。

[2] カルテットはハマスに対し三つの条件(非暴力、イスラエルの承認ロードマップを含むこれまでの諸合意の遵守)を提示しました。しかしながらハマスはこの条件に基づいた政策変更を行わず、その結果イスラエルは関税等の還付金をパレスチナ自治政府へ送金することを凍結し、国際社会による対パレスチナ支援も大幅に減少しました。

「わたしのJPO時代」(9)

「わたしのJPO時代」第9弾として、国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)・東エクアトリア州調整官・事務所長 平原弘子さんのお話をお届けします。在日米軍座間キャンプの環境課で6年程勤務した経験を持つ平原さんは、JPO時代を「外交儀礼を身に着ける上でとても良い経験になりました」と振り返ります。

 

国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)・東エクアトリア州調整官・事務所長 平原弘子さん

                 ~はじめの一歩~

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             2014年度ルワンダメダルパレードにて

大阪の府立高校3年の時に、アメリカ・ミシガン州グランドラピッズの公立高校に1年間留学した後、ミシガン大学アンアーバー校・資源環境学部で環境政策の学士号を取得。日本に帰国後、在日米軍座間キャンプの環境課に6年程勤務。その間、桜美林大学の大学院で国際関係学修士号を取得。翌年外務省主催のアソシエート・エキスパート試験に合格し、2001年から2年間、ジュネーブ国連環境計画バーゼル条約事務局、そして2003年から1年間、ニューヨークのユニセフ本部にある水・衛生関係の部署にJPOとして勤務した後、PKOミッションへ。リベリアダルフールキプロスのミッションを経て現職。

環境保全、貧困、紛争による環境破壊の防止に携われる仕事がしたいと漠然と考えていた私は、大学に進むにつれ「国連で働きたい」「国連で働くためには具体的にどの様な準備をすべきなのか」ということを真剣に考えるようになりました。大学の3年時にJPO制度の事を知り、JPO試験要綱にあった受験資格に見合う経験を積むため、そのころ始めていた就職活動の範囲を広げました。卒業してから在日米軍で働いたのも、環境政策の学位を活かせる仕事があったこと、職場で使われる言語が英語であったこと、民間企業と違って、仕事を続けながら大学院に通うことが容易であることなどが理由でした。

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        東エクアトリア州 州都トリット近くの村でアウトリーチ活動に参加

色々な選択肢がある中でのJPO制度は、米国への高校留学と4年間の大学生活、また在日米軍での6年間の仕事以外の国際経験が無に等しかった私にとって理想的な国連への入り口でした。2001年3月、多くのJPOがUNICEF, UNHCR, UNDPなどのフィールドオフィスに着任していく中、私がJPOとして赴任したのは、国連環境計画(UNEP)が管理している環境条約・バーゼル条約事務局のスイス・ジュネーブ本部でした。条約事務局は事務局長以下、条約締約国会議を含む、様々な会議、各地域にある事務所の運営補助、プロジェクト運営などを行います。

私は最初から、地域事務所とのコーディネーションというかなり重要な仕事を任されました。地域事務所といっても、運営をするのは地域事務所のある国の政府であり、外交儀礼を身に着ける上でとても良い経験になりました。

バーゼル条約は正式名を「有害廃棄物の国境を超える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」と言い、締約国の環境局だけではなく、有害廃棄物の輸出入を取り締まる警察や税関、司法機関と仕事をする機会にも恵まれました。また、ジュネーブは各国の国連代表部があり、資金調達や会議の調整などで、色々な国の外交官とのディスカッションなど、国連ならではの経験ができたことは、その後国連で仕事を続けて行く上でとても重要な経験であったと思っています。

 

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           東エクアトリア州の遠隔地域でのフィールド活動中

2年の赴任期間が終わりに近づき、途上国での経験が絶対的に不足していると常々思っていた私は、3年目の延長とフィールド活動の多いUNICEFへの異動の希望を外務省・国際機関人事センターに提出しました。ダメでもともとと思っていたところ、延長・異動ともに許可されたのですが、延長期間が1年と言う事で、短期間で正規職員のポストを確保するためにより有利なNY本部での勤務という条件付きでした。それでも、フィールドの仕事が多いUNICEFです。環境関連、特に水質管理・ごみ処理などの経験を活かせる水・環境・衛生に関する部署に配属になり、短い期間でしたがUNICEFのプロジェクト運営、途上国支援など学びかつ貢献することができました。

 

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                東エクアトリア州の遠隔地域で

3年間JPOとして2つの国連機関で働いた後、全く環境の違うリベリア国連PKO活動に参加し、その後、PKOミッションを2つ経験して現在にいたるのですが、JPO時代に培った知識と経験は十分に活かされていると感じています。

国連は即戦力を必要とする職場です。特にジュニアレベルのポジションでは経験が少ないという理由で、やる気や知識があるにも関わらず思うようにポストを得ることができないことが多々あります。しかしながら、どの様な複雑で高度な技術・外交手腕が問われる仕事に従事している人も、最初から経験が豊富だったわけではありません。国連で働くために必要な経験を得るという意味でもJPO制度は理想的なシステムだと思います。国連で働いてみなければ分からなかった事がJPO経験を通してわかるようになり、次のステップに進むための糧となるのです。

小国の地球環境問題-ツバルで見た変化-

国連広報センター、インターンの藤田香澄です。

 

皆さんの故郷はどんなところですか?

真っ青な空、透き通る海、ゆっくりと流れる時間、陽気な人々の笑顔。

太平洋に浮かぶ小国「ツバル」が、私が育った故郷です。

では、その故郷が数十年後には住めなくなってしまうかもしれないと言われたらどうしますか?

そうなるはずがない、と思う人もいるかもしれません。

しかし、現にツバルは地球温暖化による海面上昇や、気候変動による干ばつの深刻化によって国家存亡の危機に直面しており、そこに住む人々は住み慣れた環境を失うかもしれないのです。

 

南太平洋に浮かぶ9つのサンゴ礁の島からなるツバルは、総面積がわずか26kmしかなく、これは東京都品川区ぐらいの大きさです。メディアで度々、海面上昇によって真っ先に消えてしまう国の一つだと取り上げられています。

私は2011年の夏、14年ぶりにその地を訪れました。

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首都フナフチのあるフォンガファレ島。中心部に伸びているのが島唯一の滑走路。細長くなっている部分が下図のような光景になっている。(2011年8月筆者撮影)

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環礁島であるため、左側がラグーンで右側が太平洋になっている。大潮の際に道路が浸水してしまうことがあったため、護岸工事が行われた。(2011年8月筆者撮影)

 

太平洋では海面上昇の影響が懸念されていますが、それよりも緊急で深刻なのが異常気象による干ばつです。

ツバルでは、生活用水を、環礁島の特徴であるレンズウォーターという地下水に頼ってきました。しかし近年、海水の流入によりその水の塩化被害が頻発し、飲み水としての利用が難しくなってきました。代わりに雨水に頼るようになり、各家庭には、ニュージーランド政府より雨水タンクが寄贈されています。 しかし、近年の異常気象で、その雨水が十分に確保できない状況が起きています。 2011年にはラニーニャ現象により、半年間雨が降らない記録的な干ばつが起き、同年9月28日、ツバル政府はついに非常事態宣言を発令しました。私が高校生のときにツバルを再訪したのが丁度この年で、断水の影響でシャワーをバケツ一杯の水で済まさなければなりませんでした。

 

ツバルでの問題は、気候変動による影響のみではありません。

人間活動が活発化したことにより、20世紀にはまだ見られなかった、食料問題、人口増加、環境汚染など国連が取り上げている諸問題がツバルという小国に集約しています。それらの問題が気候変動と複雑に絡み合い、私が幼い頃に育った際には感じられなかった環境の変化が、ゴミの増加や水質汚染といった形で2011年には至るところで見られるようになってしまいました。

 

このままだとツバルは、数十年後に水没する以前に、近い将来、人間が住めない国になってしまうかもしれません。

 

そういった危機的な状況を改善しようと、ツバル国内のみならず、各国政府も動き始めています。

2011年の干ばつの際に、日本の外務省はツバル政府の要請を受け、JICAを通じて海水淡水化装置の修理部品などを提供しました(以前から装置はあったが、老朽化により機能していなかった)。ニュージーランドも雨水タンクの支援を強化しています。

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日本政府より支援された海水淡水化装置(2011年8月筆者撮影)

 

2011年のツバル滞在中に、元首相であるApisai Ielemia氏にインタビューをする機会がありました。ツバルの将来について、彼は次のように述べていました。「ツバルのような小国には資源はないが、人材がある。私たちにできることは、国際社会に向けて、ツバルの現状をより多くの人に伝えることである。」

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元ツバル首相Apisai Ielemia氏との対談(2011年8月筆者撮影)

 

数十年後、人が住めなくなることによって、私にとっても思い入れのある家や滑走路(夕方の遊び場だった)を二度と見ることができなくなるかもしれないと考えると、非常に悲しい気持ちでいっぱいです。

 

「ツバルを忘れないで」

 

ツバルの中学生にアンケートをとった際に、彼らが記してくれた言葉です。私たちが今できることは、私たちの何気ない行動や資源の無駄遣いが、ツバルに限らず地球上のどこかで、国家存亡の危機を招いているという認識を持ち、一人ひとりが自分の生活を見つめ直すことではないでしょうか。

COP21の開催によって、より多くの人がツバルのような小国に目を向けるきっかけとなってくれることを祈っています。

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幼馴染のタウランガ(黒いシャツ)と彼女の家族。首都フナフチにて(2011年8月筆者撮影)

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ツバルの日常風景。島内はバイクで移動することが多い(2011年8月筆者撮影)

 

 

気象キャスターワークショップ@東京 -気候変動、どう伝えていくかー

国連広報センター、インターンの藤田香澄です。

 

この度、世界気象機関(WMO)と気候変動に関する政府間パネルIPCC)をはじめとするパートナーとが連携した「気候変動を考えるワークショップ」に、通訳として参加しました。11月末からパリで開催されるCOP21に先駆けたもので、11月11日(水)、12日(木)の2日間にわたって内幸町の日本プレスセンタービルで行わました。 ワークショップには日本、香港、韓国、クック諸島サモアニュージーランド、インド、ネパール、スリランカから計15名の気象キャスターが参加し、日本からはTBS「Nスタ」の森田正光さん、NHKニュースウオッチ9」の井田寛子さん、日本テレビnews every.」の木原実さんたちが参加しました。

f:id:UNIC_Tokyo:20151112134926j:plainワークショップの様子

f:id:UNIC_Tokyo:20151119103925j:plain気象キャスターによるグループアクティビティ

私は幼少期をツバル、キリバス、フィジーの太平洋諸国で過ごしました。小さい頃から太平洋における気候変動について学んできた私にとって、小国にも焦点を当てた今回のワークショップはとても興味深いものになりました。

 

ワークショップでは、両日とも、森田さんの通訳を務めさせて頂きました。人生初の通訳でとても緊張しましたが、森田さんの気さくなお人柄のおかげですぐに緊張が解れました。森田さんのそばで通訳をしながら、各国の気象報道について学ぶ機会がありました。例えば、韓国人の気象キャスターとのお話の中では、地球温暖化によってキムチ前線(キムチの漬け時を表す前線)の到来時期が年々遅くなっていることを知りました。このように通訳を通して学ぶことが多く、とても勉強になりました。

f:id:UNIC_Tokyo:20151119103920j:plain森田正光さんと

ワークショップで最も印象的だったのは、国際アグロフォレストリー研究センターのRodel Lasco氏が、2013年にフィリピンで甚大な被害をもたらしたハイエン(台風30号)の経験から、気象報道の社会的意義について言及したことです。「フィリピンには数多くの文化や言語があります。台風の被害を最小限に食い止められなかった原因の一つは、台風による『高潮』という単語が多くの地域で理解されなかったことです。報道側が、『津波のような波』が来ると報道していればより多くの市民が理解し、避難することで助かったはずだと思います。気象キャスターの今後の課題は、いかに現地の言語で地域の人々に分かりやすい情報を提供できるかです」と述べました。ワークショップには、IPCC報告書作成に関わった科学者も参加しており、気候変動のグローバルモデルからいかに、ローカルレベルの情報へとダウンサイズできるかが今後の課題であることを強調しました。

 

初日の冒頭で、WMOのMichael Williams氏は集まった気象キャスターにこう言っています。「気候変動はとてもあいまいで、難しいテーマです。気象キャスターの皆さんは、気候に関する知識もあり、テレビの前でのプレゼンス力もあります。視聴者の信頼を得ているキャスターの皆さんには是非、気候変動について分かりやすく発信していただければ、と期待しています。」

 f:id:UNIC_Tokyo:20151112165225j:plainコメントするMichael Williams氏

このワークショップでは、参加者それぞれが持つ役割を果たそうと努めているのがとても印象的でした。気象キャスターは、気候変動について分かりやすく伝えることで、地球温暖化の科学的データと市民を繋ごうと動き出しています。政府関係者は、科学的データと政策を結ぶことで、どのように気候変動に適応していくべきかについて取り組んでいます。気候変動という普遍的な課題の解決において、関係者が互いに協力して努力することの重要性を再認識することができました。

 

幼少期より地球環境問題について学んできたため、私は国連広報センターでのインターンとして今回のようなワークショップに関わることができ、とても嬉しかったです。COP21で世界各国がどのように協調して、新たな枠組みの合意に至るのか、今後の動向にも注目していきたいと思います。f:id:UNIC_Tokyo:20151119103917j:plain