国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (6)

第6回  国際刑事裁判所ICC) 尾﨑久仁子次長

~国際社会の共通利益を追い求める上で、「日本人がいるとチームがしまります!」~

オランダのハーグにある国際刑事裁判所(International Criminal Court/ICC)は、国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を、国際法に基づいて訴追・処罰するための歴史上初の常設 の国際刑事裁判機関です。 国際社会が協力してこうした犯罪の不処罰を許さないことで、犯罪の発生を防止し、国際の平和と安全の維持に貢献します。1998年に採択されたローマ規程によって設立され、2002年から活動を開始しました。

 

ICC国連から独立した組織ではありますが、人道に対する罪を訴追する常設の国際裁判所を設立する考えは、1948年のジェノサイド条約の採択との関連で早くから国連の場で審議されました。また、国連安全保障理事会ICCで訴訟手続きを開始することができ、ICCが管轄権を持たないような事態についてもICCに付託することができます。

 

日本は2007年にICCに加入し、トップの財政支援国としてICCの活動を支えてきました。それと同時に、人の面でも、アジア出身の女性としては初めてICC裁判官となった外交官出身の齋賀富美子さん(2007-2009)に続き、同じく外交官出身の尾﨑久仁子さん(任期2010-2018)が裁判官として法の支配の推進に貢献しています。さらに尾﨑判事は2015年からICCの次長として裁判所のマネージメントを担っています。なんと現在のICCでは所長、2人の次長、そして検察官も4人全員が女性です。一時帰国中の尾﨑次長から貴重なお話をうかがいました。(聞き手: 国連広報センター 根本かおる所長)

 

2016年10月8日付、日本経済新聞に掲載された尾﨑さんのインタビュー記事

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114654j:plain        2010年、ICC裁判官就任にあたって宣誓する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

                                          尾﨑   久仁子 (おざき くにこ)

【1979年外務省入省,外務省条約局,国際連合日本政府代表部法務省刑事局などで勤務したのち,法務省入国管理局難民認定室長,外務省人権人道課長,東北大学大学院法学研究科教授などを歴任。2006年国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)条約局長,2010年国際刑事裁判所(ICC)判事に就任。2015年からICC次長。】

 

根本:日本はICCを積極的に支援していますが、日本では一般的にはあまり知られていない存在かもしれませんね。そもそもどんな経緯から生まれた裁判所ですか?

 

尾﨑:戦争犯罪や人道に対する罪を処罰することが基本的人権の維持につながるという発想は古くからあり、本来それは各国がやるべきことと考えられていましたが、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダの虐殺をきっかけに、国連安全保障理事会が旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ルワンダ国際刑事裁判所を設置しました。これを契機にもっと普遍的なものを作らないといけないという世界的な動きの中で生まれたのがICCです。国連総会がそのお膳立てをしてローマ規程を交渉し、その採択の結果生まれました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114903j:plain        1998年ローマでの国際刑事裁判所の設立に関する国連全権外交使節会議(通称ローマ会議・ICC提供)

 

ICCは、各国の国内刑事司法制度を補完するものであって、関係国に被疑者の捜査・訴追を真に行う能力や意思がない場合等にのみ、ICCの管轄権が認められるという「補完性の原則」のもと、活動しています。

 

根本:活動を開始したのが2002年ですから、まだ若い組織ですね。

 

尾﨑:設立準備段階から働いている職員でさえ、よもや設立されるとは思っていなかったんですよ。まさかの合意、まさかの設立でした。10数年前は誰も実現できるとは思っていなかった、国際的に処罰を課す、不処罰の文化をなくすという理念がここ5,6年でようやく確立され、ICCの組織・活動も定着してきたと思います。様々な判例が蓄積され、国際裁判所としての実体が出来上がってきました。ただ、簡単に入れるところはすでに加盟して、このところ加盟国の増加が鈍っていますね。加盟国は124カ国で(2016年7月28日現在)、ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカに加盟国が集中しています。アジア、アラブ諸国の多くがまだ加盟していませんね。アメリカ、中国、ロシアは入っていません。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115017j:plain                  2016年4月、オランダ国王出席のもと、ICC本庁舎の開所式が行われた(ICC提供)

 

根本:ICCの次長になられて1年あまりになりますが、ICC次長というのはどんな役割を担うのでしょうか?

 

尾﨑:ICCには18人の裁判官がいます。その中から所長と2人の次長が選ばれるのですが、3人とも裁判官としての職務は引き続き行います。所長は対外的にICCを代表する仕事が増えますが、次長は所長とともに裁判所内部のアドミニストレーションについて最終決定を行うことが主たる役割となっています。アドミニストレーションは裁判が円滑、効率的、効果的に行われることの礎になっているという面からも重要です。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115059j:plain             2015年4月、ICC次長として、パレスチナICC加入を歓迎する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

 

根本:ICCの所長、2人の次長、そして検察官という幹部4人全員が女性ですね。

 

尾﨑:検察局のトップが女性だということは大きいですね。検察官自身も、女性に対する暴力のケースを積極的に捜査しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115144j:plain                              国連安全保障理事会で発言するベンソーダICC検察官(ICC 提供)

 

裁判官の仕事の中で女性だから男性だからという違いは感じられませんが、裁判所長会議に参加する3人は外部に発信していくという役割を持ちますので、その上で女性だということは大きな意味がありますね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115226j:plain

 

根本:ICCに付託される事案の多くが紛争下の女性に対する暴力に関するものですね。

 

尾﨑:レイプ被害は戦争のあり方が変わっていないことの現われだと思います。女性へのレイプが普通のことと思われていた時代が長かった。いかに「女性が一種の財産として扱われる」ことから脱却するのか。そのためには、一つには犯人への処罰、そして時間はかかりますが教育ですね。一朝一夕にはいきません。少しずつではありますが、脱却できている国は増えてきていますし、女性への暴力に対する問題意識は確実に世界的に広がりつつあります。諦めることが一番よくないと思います。高齢者、子ども、女性に対する虐待もすべて同根でしょう。問題意識を広げ、実態が見えるようにし、教育し、処罰する。これを粘り強く行う、ということですね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115252j:plain                   正義のための国際デー(7月17日)で、SNS啓発キャンペーンを展開(ICC提供)

 

根本:特に印象に残っている案件や瞬間として、どんなものがありますか?

 

尾﨑:今まで携わってきた案件は中央アフリカ、ケニア、コンゴ民主共和国などです。一つ一つに固有のむずかしさがありますし,手続きも長期に及ぶんですね。やはり実際に被害に遭われた方が証人として法廷に参加してくださるということには胸を打たれます。英語もしゃべれず、およそ外国人を見たこともないような田舎から、裁判のためにオランダのハーグまで出てきてくださるわけですね。もちろん裁判所の心理専門家などがサポートしますが、「正義がほしい」と辛い気持ちを克服して証言してくださることに、とても励まされます。

 

      f:id:UNIC_Tokyo:20160812115327j:plain   

              インタビュー中の尾﨑さん ©UNIC Tokyo

               

根本:ICCにとって、日本は一番の分担金拠出国ですね(2016年の分担率:16.5%)。ICC内部からご覧になって、日本の役割はどのように尾﨑さんの目に映りますか?

 

尾﨑:日本がそこまで大きな役割を担っているということは、内部からはあまり感じられないかもしれません。というのも、やはり日本人の人的存在感が小さいんですね。ようやく書記局に一人、日本人が幹部のポストで入りましたが、最もコアな裁判部には日本人は一人もいません。日弁連とも話し合いをしていますが、日本の法律家で国際機関を目指している人がそもそも少ないんですね。日本で法律の教育を受けた人は世界で大きく貢献することができると私は信じていますので、日本の法律家に是非ICCに来てもらいたいです。

 

根本:日本の法律家はどういう面で大きく貢献することができるのでしょうか?

 

尾﨑:日本は様々な法体系を受け入れてきた国なので、ハイブリッドな法律体系に柔軟だと思います。また、日本では法律を学ぶときに比較法の観点を取り入れるので、他の国の法学教育と格段な違いがあります。日本人の法律家はICCで貢献できると思います。日本側から見ればプレゼンスを高めることができますし、ICC側から見ても、日本の法律家に備わっている資質を求めています。さらに、私の経験値から言えることですが、日本人は粘り強く、あきらめずに最後までやり通す。責任感が強く、やるべきことはきちんとやる。そして、日本人がいると、チームがしまります!

 

根本:尾﨑さんは外交官出身ですが、ICCの前は、ウィーンのUNODC(国連麻薬犯罪組織)の条約局長も務めていらっしゃいますね。以前から国際機関に関心があったのですか?

 

尾﨑:国際機関に入りたいからUNODCに行ったのではなくて、刑事司法関連の国際法に関心があったので手を挙げて、行ったんです。

 

根本:外交官と国際機関とで、働く醍醐味にはどんな違いがありますか?

 

尾﨑:外交官は日本の国益を一番に考えて行動します。共通利益を目指すときも、何が日本の利益かが基準ですね。それに対して、国際機関では国際社会の共通利益についてまず考えます。一国の国益を考えるよりも難しいですが、それがかえっておもしろい部分でもありますよ。あと実感するのは、国民性とは別に、職業に特有の特性というものがあって、どこの国出身であっても法律家は法律家。これが共有の基盤となっています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115442j:plain

                                     所長の根本かおる(左)と尾﨑さん ©UNIC Tokyo 

 

根本:最後に、国際機関に関心のある若い世代へのメッセージをお願いします。

 

尾﨑:国際機関で働きたいという学生は大勢いますが、国際機関はたくさんある道の一つに過ぎません。単に国連に入りたいという気持ちだけではなく、自分のやりたいことをきちんと考えて、その選択肢の中に国連を入れる、というアプローチであるべきだと思いますね。日本でも以前と比べれば仕事の流動性が生まれているので、国際機関ありきではなく、何に貢献したいのか、ということを見つめて、しっかりとした思いを持っている人にICCの存在をアピールしていきたいです。

 

 

 

 

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (5)

日本人元職員が語る国連の舞台裏 ~ 日本の国連加盟60周年特別企画 ~ (5)

川端清隆さん 

世界平和の実現に日本も強い覚悟を

 

連載第5回は、国連本部の政治局に長年勤務された川端清隆さんです。世界がまだ冷戦下にあった1988年に国連に入り、激変する政治状況のなかで25年にわたって安全保障理事会を支える安保理部を中心に要職を歴任されました。国連在任中は安保理の他に、アフガニスタンでの和平交渉やイラク戦争への対応に尽力されました。退職後の2013年からは、福岡女学院大学の教授として活躍されていらっしゃいます。国際の平和と安全の維持という国連の最も本質的な活動の舞台裏について、川端さんからお話をうかがいました。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20160905165623j:plain

                 川端清隆(かわばた きよたか)

【1954年、大阪生まれ。通信社記者を経て、88年より国連本部政治局で政務官として勤務。95年まで安全保障理事会部に所属し、安保理の運営や安保理改組を担当。95年から04年まで政治局地方部(アジア課)に移籍し、アフガン和平交渉やイラク戦争への対応に携わる。アフガン和平においては、ボン和平合意の達成に尽力。04年からは安保理北朝鮮の核・ミサイル問題やシリア紛争などを担当。13年、国連早期退職して福岡女学院大学国際キャリア学部教授に就任。著書に「イラク危機はなぜ防げなかったのか 国連外交の六百日」(岩波書店)や「アフガニスタン 国連和平活動と地域紛争」(みすず書房)など。最近の論文に「安保法制の課題と問題点 - 日本は国連を活用して対米偏重を改め、自立した未来志向の国家戦略を築け」(WebRonza 朝日新聞社、2015年9月)など。】

 

根本:川端さんは本部の政治局でも安保理部でのお仕事が長かったのですね。安保理部という部署はどんな仕事をしているのですか?

 

川端:国連で働いていた25年のうち、6割は安全保障理事会を支える安保理部での勤務でした。安保理部の役割としては、まずスムーズに、タイミングよく会議を開けるように準備する。次に、決議案などの決定がスムーズに出るように理事国をサポートすることなどです。特に重要なことは、安保理の審議や決定の記録を整理することです。公式会議は議事録がありますが、非公式協議は公式な記録がないので、ノートを取ってその日のうちに報告書をまとめて事務総長に報告せねばなりません。

 

私が国連に入ったのは1988年で冷戦の末期でした。東京で採用通知を受け取りましたが、配属先は「政治安保理安保理部」という大変重要そうな名前の部署でした。当然、喜び勇んでNYに向かったのですが、実際の国連の職場では大きな驚きが待っていました。国連創設から冷戦期を通して、政治安保理局のトップはソ連出身者が勤めており、他の局員も東ヨーロッパか親ソの途上国出身の官僚で占められていたのです。スタッフの殆どは社会主義圏の出身で、西側出身者は私だけという事実に直面し、おおいに戸惑いました。ちなみに、冷戦期の国連事務局は世界情勢をそのまま映したような体制で、アメリカは総会を担当する局、イギリスは特別政治局(後のPKO局)をそれぞれ掌握していました。局間の交流や協力はほとんどなく、国際政治の力学を忠実に映す国連の現実を思い知らされました。

 

職場環境は、現在では想像もできないほど殺伐としていました。当時はまだ東西両陣営の間の不信感が根強く、同僚としての意識は希薄でした。例えば、私と同じ政治安保理局で働いていたソ連出身の同僚は、国連から直に給料を現金で受け取ることをソ連政府により禁じられていました。彼らは国連から給料を小切手でもらい、それをソ連国連代表部に「差し出し」、代わって本国の等級に従って生活費を受け取っていたのです。これは亡命を防ぐためですが、出身国政府の指示を受けない「中立の国際公務員」とは名ばかりですね。そんな状況ですから、敵対する資本主義陣営出身の私はなかなか安保理の会議に出させてもらえなかったし、上司の部長と局長はまともに私と話してもくれない。「何でここに日本人がいるんだ?」という感じで見られ、疎外感を感じる日々が続きました。

 

仕事の進め方も、今から思うと滑稽な秘密主義がまかり通っていました。例えば、ソ連出身の局長は一日のうち数度、側近だけを引き連れて政治安保理局があった事務局ビル35階の長い廊下を端から端まで往復します。不思議に思って同僚に聞くと、「(欧米による)盗聴防止のため」という説明でした。盗聴されているかもしれない局長室では、大事な話はできないという訳です。事務局内に疑心暗鬼が渦巻いていたのですね。

 

根本:川端さんはマスコミのご出身ですから、通信社時代に鍛えた簡潔に、分析的に書くというスキルは役立ったのではないですか?

 

川端:それが最初はまったく役に立ちませんでした。当時の仕事の流れは、まず安保理での審議の要旨をまとめて、それを担当部長がチェックしたうえで事務総長室にあげるという仕組みでした。ところが、要旨の作成は客観性重視というより、政治的バランスを最優先するものでした。つまり、アメリカの発言について3行書けば、たとえ内容がなくともソ連についても必ず3行書くように言われました。自身の判断で審議内容にメリハリをつけてまとめることなど、到底許されなかったのです。また理事国の発言は一言一句言ったままにしか書けないという有様で、解釈や分析の余地はほとんどありませんでした。これでは、記者としての経験は全く役に立ちません。

 

必然的に、当時の安保理の記録は本質からかけ離れた手続き上の問題に終始しており、外部の者が読むとほとんど意味不明です。政治的な発言など、安保理の本質にかかわる正確な記録の不在は、冷戦期の安保理審議の研究が進まない原因の一つといえます。

 

根本:1991年にソ連が崩壊してから、変わりましたか?

 

川端: ソ連の消滅は、国連を東西イデオロギー対立のくびきから解き放ち、事務局の環境を一変させました。それまでギスギスしていた雰囲気は消え去り、人間関係も正常化が進みました。今では笑い話ですが、ソ連崩壊直後のある日、ソ連出身の政治局長とたまたまエレベーターの中で二人きりになった瞬間がありました。それまでろくに話かけてくれなかった局長ですが、この時の態度は様変わりで、彼は私の手を握り締めて「カワバタ、これから一緒にやっていこうな」と、顔を紅潮させて切実に呼びかけました。政治体制が変わるとこんなにも態度が変わるのか、とビックリしました。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102434p:plain

     1994年ジェノサイド直後のルワンダPKO本部で事務総長特別代表と(川端さん提供)

 

根本:安保理の非公式協議は私たちにはうかがい知れない世界ですが、どんな感じなんですか?

 

川端:決議案の草案作りなど、安保理の本質的な話し合いはほとんど非公式協議で行われます。非公式協議に使用される部屋はわざと狭く作ってあり、公式会議室の3分の1ほどの大きさしかありません。出席者の肩と肩が触れあうほどの狭さです。理由は、建前にとらわれない自由で親密な会話を促進するためです。だから、非公式協議の記録は存在しません。1セッションは2~3時間で、安保理部は概要をその日のうちに事務総長に報告します。

 

根本:まさに「奥の院」ですね。シリア紛争などについて安保理が機能していないとの批判がありますが、どんな条件が整えば、合意しやすくなるのでしょうか?

 

川端:やはり安保理常任理事国が当事者になっている案件は、意見をまとめるのが難しいですね。これは、国連の集団安全保障が「大国間の協調(Concert of Great Powers)」に依拠しているためです。大国、つまり常任理事国の間の協調を担保しているのがいわゆる拒否権です。

 

シリアについては、アサド政権を擁護したい、存続させたいと思っているロシアと、アサドではだめだ、何らかの形で国民の和解政権をつくりたいと思っている欧米とで、決定的に考えが分かれてしまいました。特定の紛争を安保理の議題にするかしないかは、憲章上は手続き上の問題(procedural matters)として扱われるため、拒否権は適用されません。したがって、安保理はこれまでシリア問題やウクライナ問題を審議することはできたのですが、制裁決議は言うに及ばず非難声明を含めて、拒否権が適用される本質的な決定は一つもできませんでした。他方、常任理事国の利害に直結しないアフリカの紛争解決など比較的まとまりやすく、冷戦後に安保理は同地域で積極的に平和活動を実施することができました。実際、現在展開している国連平和維持活動(PKO)の8割はアフリカに集中しています。

 

安保理北朝鮮に対しても、数次にわたる制裁決議を採択することができました。これは中国を議長国とする6ヶ国協議という枠組みが合意され、中国を多国間外交の場に引き込むことに成功したからです。しかし、金体制の崩壊につながるような経済制裁に慎重な中国と、何としても核・ミサイル開発を止めたい米国との間に、まだ大きな隔たりが見られます。

 

残念ながら理事国が分裂し、安保理が機能しない場合は、私たち国連事務局はほとんど何もできません。しかし、紛争を座視することは許されません。戦いが長引き膠着状態に陥ったとき、国連事務総長は解決に向けた独自のイニシアチブをとることがあります。シリアについても、ロシアと欧米の間の橋渡しのため、国連はアナン前事務総長、ブラヒミやデミストゥーラなど、最高の交渉者を送り出してきました。また、PKOや人権監視団の派遣を提案することも可能です。紛争原因の調査などを目的とする事実調査団の派遣や、紛争を未然に防止する予防外交の実施も、事務総長の重要な役割の一つです。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102535j:plain

        2012年シリア外相と和平調停にあたるコフィー・アナン特使(UN Photo)

 

根本:安保理は週末でも緊急に開かれますね。皆さん、どのようにスタンバイしていらっしゃるのですか?

 

川端:安保理はいつ招集されるか分からないので、一年365日、一日24時間対応できるように、夜間や週末はローテーションで緊急時のためにスタンバイしています。1990年代当時はまだ一般に普及していなかった携帯電話を支給され、緊急時に連絡が出来るようにしていました。

 

安保理を緊急招集するためには、「3時間ルール」というものが適用されます。理事国が緊急会議を要請する場合、要請時から会議の開始まで、事務局に対して少なくとも3時間の猶予を与えるという原則です。これは、6ヶ国語の同時通訳、文書係、会場の整備係、広報担当者、政治局担当者、警備員などの必要人員の招集に、最低限このぐらいの時間が必要だからです。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102613p:plain

             安全保障理事会の公式会議場 (川端さん提供)

 

根本:冷戦が終わって国連PKOに紆余曲折があった90年代を川端さんは安保理部からご覧になったのですね。

 

川端:冷戦時代は安保理の協議は、「国連は何が出来るか」より「何が出来ないか」の話し合いでしたね。そもそも民主主義や人権の定義が、欧米とソ連圏では大きく違っていました。非同盟諸国も、国連に名を借りた大国の「新植民地主義」を恐れるあまり、民主化、人権や法の支配の促進など平和構築活動に消極的でした。つまり、今では当たり前になっている選挙支援や人権擁護も、平和活動の一環としての実施はタブーだったのです。内政不干渉の原則という憲章上の制約も当時はありました。しかし冷戦後は、安保理は紛争原因を除去するための平和構築活動に本格的に乗り出せるようになったのです。結果として、PKOの活動内容が充実し、PKOの増加につながりました。90年代の前半には、PKOは最初のピークを迎え、PKO要員の総数が7万人を超えました。

 

ナミビアカンボジアなどのサクセスストーリーは、長年の紛争の末に当事者が疲れすぎて「どうにかしてくれ」と国連に相談するケースが多かったんだと思います。アメリカ対ソ連の構図が消えて、どちらかに頼ればお金+武器がもらえる、という前提がなくなったから国連に頼るしかなかった、という面もありました。それで国連が行えること自体も増えていったわけです。ソマリアでは、国連PKOが自衛以上の武器使用を禁じられたいわゆる「PKO三原則」から脱皮して、軍閥武装解除などの任務遂行のために武力を使えるようになりました。しかし、急速なPKOの役割拡大の結果、さまざまな失敗や挫折が続きました。ソマリアPKOで大失敗し、さらにルワンダでは大虐殺を許してしまった。ボスニアでは自らが設定した人道保護区を防護しきれず、NATOにとって代られてしまいました。相次ぐ失敗のため90年代の後半には、PKOの規模はピーク時の7万人から一気に2万人に減ってしまいました。成功の高揚感から絶望の奈落へ、まるでジェットコースターに乗っているような気分でした。

 

根本:現在PKO要員は制服組、文民あわせて12万人規模になっていますね。数がそんなに少なかった時代もあったとは信じられません。当時現場に行かれることもありました?

 

川端:私は1994年の夏、ルワンダPKO(UNAMIR)の増強を応援するためにNYから現地に乗り込みました。国民の一割にあたる80万人が、政府部隊と政府が支援する民兵によって虐殺された一か月後のことでした。いまでもルワンダでの体験は、私の平和観の原点であり、平和活動のあり方に大きな影響を与えています。戦場体験がない訳ではありませんでしたが、あれだけの死体を目の当たりにしたのは生まれて初めてでした。大量虐殺は国際社会の眼前で、わずか2か月という短いタイムスパンの中で嵐のように実行されました。首都キガリでは埋葬が追い付かず、浅く埋められた死体を犬が掘り返すというような現場を見ました。その犬たちが夜には、PKO本部の周りで遠吠えを繰り返すものですから、プロの軍人たちの間でも耐えかねて情緒不安定に陥る者が出る有様でした。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102623j:plain

              1994年ルワンダ難民の子ども(UN Photo)

 

根本:私は、川端さんがお書きになったアフガニスタンに関する本を通じて、川端さんの存在を知りました。どのようなきっかけでアフガニスタンに関わるようになったのですか?

 

川端:私がアフガニスタンの担当者になったのはまったくの偶然でした。1995年の夏に前任者が突然解任され、たまたま新しいポストを探していた私に機会が巡ってきたわけです。しかし機会といっても、アフガン紛争は当時「国連和平活動の墓場」と呼ばれ、解決不可能なやりがいのない任務と考えられていました。実際、政治局の同僚の間では、一旦アフガン紛争の担当者になってしまうと、定年退職までずっと抜けられないという認識があって、誰も担当をしたがりませんでした。当時私は「安保理改組に関する特別作業部会」を担当していました。作業部会ではスエーデンの国連大使が議長を務めていましたので、退任のあいさつに行くと大使は私に、「アフガニスタンが平和になるか、安保理改革が実現するか、どちらが先に達成できるか賭けよう」と冗談を飛ばしました。当時は安保理改組と同様に、アフガニスタンは絶対に解決しない紛争の一つと考えられていたのです。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102645p:plain

    1996年アフガン和平活動中に国連代表(右から2人目)とバーミアンで(川端さん提供)

 

実際、私が担当してから最初の6年間、アフガン和平はまったく進展しませんでした。アフガン当事者間の権力抗争、周辺国の干渉、米国など大国の無関心、イスラム原理主義の台頭、などの要因が重なってにっちもさっちもいかない袋小路に陥っていたのです。ところが、アフガニスタンを巡る国際情勢は、6年目の初秋に激変しました。2001年に9・11対米同時多発テロが起こって、アメリカをはじめとする欧米諸国が紛争解決に本腰を入れ始めたのです。好機を逃さぬため国連は、元アルジェリア外務大臣ラクハダール・ブラヒミアをアフガニスタン担当事務総長特別代表に再任命しました。10月初めに、ブラヒミに同行してワシントンに行ったのですが、国連の通常の窓口である国務省ではなくいきなりホワイトハウスに招待されました。そこではチェイニー副大統領がブッシュ大統領の代理として出てきて、ブラヒミに「タリバン政権崩壊後の政治的空白を埋める」よう要請しました。軍事的局面を扱う米国と、政治的局面に責任を負う国連との、二人三脚の始まりでした。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102634p:plain

          1998年ブラヒミ特別代表とバーミアン石仏の前で(川端さん提供)

 

根本:あれから今年で15年になりますが、アフガニスタンの情勢は緊張が高まっていますね。川端さんはどのようにご覧になりますか?

 

川端:アフガン紛争の本質は近代化の失敗です。乱暴を承知で申し上げると、アフガニスタンは日本の明治維新と同じ時期に近代化のプロセスを始めましたが、内政は上手くいかなかったものの、武器や資金の支援など外国人を利用するのはすごく上手でした。しかし外部の支援に頼りすぎて、自力での近代化を怠ってしまった。国家予算の大半を外国に頼る「支援依存国家」に成り下がってしまったわけです。干渉国を利用していると思い込んでいるうちに、自身の自立心を徐々に失くしていったのかもしれません。その結果アフガニスタンでは、王政、立憲君主制、共和制、共産主義イスラム原理主義など、ありとあらゆる制度が試されましたが、いずれも無残な失敗に終わりました。最後に残されたのが、ムハメッドが生まれた7世紀への回帰を目指す、タリバンが掲げる超原理主義というわけでしょう。一方日本は独自の近代化に成功し、紆余曲折こそありましたが、今日の平和と安定を築くことができました。

 

根本:国連の中枢である政治局の仕事に長年携わられて、日本にどんな期待をお持ちですか?

 

川端:まず、日本はもっと平和活動の専門家を育てなければならないと思います。アフガニスタンの担当のときに日本に積極的に関与してもらおうと、日本にいる専門家を探そうとしましたが、アフガン文化や歴史の専門家はいたけれども、政治を知っていた人はほとんどいませんでした。日本にはアフリカ紛争の専門家も少ないですね。

  f:id:UNIC_Tokyo:20161003102656p:plain

2001年ボン和平合意署名後にシュミット独首相(前列中央)、ブラヒミ特使(前列右から4人目)、アフガン当事者らと(川端さん提供)

 

加えて、日本には「からだを張って何とかする」という発想をもっと強く持ってもらいたいです。汗をかかなければ、犠牲を払わなければ、見返りはない。関わるからには、日本は本質的な部分を肩代わりするぐらいの「覚悟」を持つ必要があります。当然、平和活動への参加は危険を伴います。しかし、国連の平和活動の本質は、日本を含めた加盟国による「リスクの分かち合い」なのです。日本だけが安全地帯にとどまり、他人事のように「平和」を語るわけにはいきません。

 

アフガンについても、日本は復興支援国会合を東京で開催しましたが、肝心の和平会議はドイツのボンに持っていかれました。同様のことを日本はカンボジア和平でも行っていますが、振り返ってみてパリ和平会議を記憶する人は多くいますが、東京での支援国会議を覚えている人はどれほどいるのでしょうか。

 

平和の達成には、実際に現地を訪れ、紛争地の人々に寄り添う必要がります。「日本も汗をかいてくれ!」とかつてブラヒミが言っていましたが、日本には是非、国連の平和活動の一員になってほしいと願います。それこそが、本当の支援でしょうし、積極的に参加すれば和平の専門家も育つはずです。紛争の現実を知ってこそ、我々日本人は平和とは何かを身をもって感じ取ることができるのではないでしょうか。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20160905180411j:plain

       国連広報センターにて。川端さんと所長の根本かおる(右) ©UNIC Tokyo



 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (5)

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(5)

指揮者 栁澤寿男さん

~ 異なる民族が「共に栄える」音楽を目指して ~

 

国連を自分事に」シリーズ第5回は、バルカン半島の異なる民族出身のミュージシャンが演奏する「バルカン室内管弦楽団」を2007年から率いてきた、指揮者の栁澤寿男さんです。栁澤さんは、来る10月17日、18日に国連欧州本部のあるスイスのジュネーブで、日本の国連加盟60周年記念事業として開催されるバルカン室内管弦楽団による平和祈念コンサートを指揮します。バルカン地域出身者を含む多国籍の奏者が民族共栄を祈って演奏するコンサートに向けた意気込みなどについてお聞きしました。

 

平和祈念コンサート詳細

バルカン室内管弦楽団コンサート : ジュネーブ国際機関日本政府代表部

 

           f:id:UNIC_Tokyo:20160921135612j:plain

             栁澤寿男(ヤナギサワ トシオ)

 1971年長野県生まれ。パリ・エコール・ノルマル音楽院オーケストラ指揮科で学び、佐渡裕大野和士に指揮を師事。スイス・ヴェルビエ音楽祭指揮マスタークラスオーディションに合格し、名匠ジェイムズ・レヴァインクルト・マズアに師事。2007年、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者に就任し、同年にバルカン室内管弦楽団を設立。2014年、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件から100年の節目に、国立劇場でバルカン室内管弦楽団による第九平和祈念コンサートを開催する。また、世界平和のためのコンサートなどにも尽力。現在、バルカン室内管弦楽団音楽監督、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者、ベオグラードシンフォニエッタ名誉首席指揮者、ニーシュ交響楽団首席客演指揮者。

 

 

根本:栁澤さんのバルカン室内管弦楽団での活動、もうすぐ10年になりますね。来日コンサートには私も何度か足を運ばせていただきました。何がきっかけで、栁澤さんはこの多民族の楽団を結成しようと思われたのですか?

 

栁澤:バルカン室内管弦楽団は公式には2007年結成ですが、本当はマケドニアユーゴスラビア連邦の国立歌劇場の指揮者をしていた頃、民族対立というものを初めて目の当たりにして、2006年にまず始めようとしたのですが、うまく行きませんでした。

大失敗してしまい、一度諦めざるを得なかったんです。2007年に国立歌劇場とケンカして辞め、心配した周りの日本人の方々がつないでくださったおかげで、コソボフィルハーモニー管弦楽団の指揮の仕事を見つけることができました。コソボフィルの音楽監督のバキ・ヤシャリさんとの出会いが、もう一度バルカン室内管弦楽団を立ち上げようという気持ちに火を着けてくれました。コソボ紛争で身内を2人亡くし、「何かあったら自分は楽器を捨てて銃を取る」と言っていたバキさんが、私が指揮を振り終わった時に「あんなことを言って悪かった、やっぱり音楽に国境はあってはいけない」と言ってくれたのです。

 

彼の「音楽に国境があってはいけない」という言葉に促され、今度は、「民族融和」ではなく、民族が共に栄えるという「民族共栄」の室内管弦楽団を目指そうと思いました。民族融和は、対立を前提にした考え方で、これではなかなか受け入れてもらえない。対立ありきで何かをしようとすると、皆から抵抗があった。皆で栄えようだったらいいけれども、融和だと抵抗を持たれてしまう、と感じたからです。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160921135618j:plain

         著書「戦場のタクト 戦地で生まれた、軌跡の管弦楽団」©UNIC Tokyo

 

根本:バルカン半島の民族対立に当事者と関わることのなかった日本人だからこそできることでしょうか?

 

栁澤:セルビアセルビア人とコソボアルバニア人の文化交流はとても少ないのが現状です。来年オーケストラが10周年を迎えるのでベオグラードで演奏会をしようとしていますが、コソボの人がベオグラードで演奏会をすることは可能でしょうが、ベオグラードの人がコソボに行くのは難しい。治安というよりも、むしろ周りの目を気にし、プリシュティナに行って演奏をやるなという話になるんです。バルカン室内管弦楽団プリシュティナでの演奏会では、演奏者はマケドニア人とアルバニア人だけで、セルビア人は来ませんでした。コソボで演奏会をしたのは、セルビア人とコソボアルバニア人が2009年に交流した際に、(南北に川で分断された)ミトロヴィツァでの橋の南側と北側でやったコンサートくらいしかありません。必要な連絡調整も本人達同士ではコーディネートできないので、日本人が間に入ってやるしかないですね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20090517201234j:plain

          2009年ミトロヴィツァでの初めてのコンサート(栁澤さん提供)

 

根本:バルカンの異なる民族と信頼関係を築く上で、どんなことを大切にしていらっしゃいますか?

 

栁澤:まず彼らのコミュニティーの中に入っていくことですね。商社もそうかもしれませんが、遠隔操作で日本の職員が現地にいなくて、現地スタッフだけでまわしていてもだめで、自分がそこにいって、その人達の本質を知ることが大切です。現地では自分の今までの常識は通じない。バルカンでは、自分の常識が通用しないと痛感しました。彼らの生活や考え方を知った上で、一緒に仕事をしていかないといけない。同じ釜の飯を食うということわざがありますが、現地でしっかり彼らと一緒に何が出来るかを考えないといけないでしょう。それから、上から目線ではなく、謙虚な気持ちを持つこと。日本から途上国に行くと、自分の方がすごい所から来ていると、上から目線になりがちです。自分達の文化の方が優れているとか自分の方が良い生活をしていると思ってしまう。日本の方が進んでいる部分を教えてあげようだとか、やってあげようと思ったら、絶対にいけない。一緒にやっていく、共栄することがまず第一です。日本のオーケストラみたいにしようとしても、向こうの人は分からないし、それではついてきません。相手の優れている点はたくさんあり、そこをちゃんと認めて、自分が出来ないことは自分で認め、彼らから学ぼうという謙虚な姿勢が必要です。

 

根本:来年で結成から10年。演奏に進化はありますか?

 

栁澤:一昨年くらいまではオーケストラとして下手だったかもしれません。一緒にやること自体が大変だったので、クオリティーはあげようがなかったんです。コソボのミトロヴィツァでやる時もまず治安を維持して演奏するなど、お互いにどういう人かも分からずただ演奏するだけで精一杯でした。いつまでも今のままのクオリティーでは難しいので、クオリティーをあげようとしています。昨年ベオグラードで世界的バイオリニストの諏訪内晶子さんも含めて47名で演奏会をした時くらいからかなり上手くなってきていると手ごたえを感じています。フランクフルト放送交響楽団という世界有数のオーケストラの人も一緒に混ざるなど、徐々にクオリティーもあがってきています。また、日本政府がコソボフィル、サラエボフィル、ベオグラードフィル、マケドニアフィルなどほとんどバルカン全域に文化無償援助を行っていることは素晴らしいことだと思います。旧ユーゴ紛争以前にあった旧ユーゴの多民族のオーケストラが奏でていたと言われている音色が、日本人の音楽家もしくは企業支援、日本政府のバックアップによって復活させることができたのは、この地域に関わる日本人としてとても嬉しいことです。お互いの信頼関係がないとできないことでしょう。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160915170501j:plain

      2015年に行われたバルカン室内管弦楽団ベオグラード公演にて(栁澤さん提供)

 

根本:栁澤さんはコソボで盲腸をこじらせて、九死に一生を得るような体験もしていらっしゃいます。そこまでしてバルカン地域に関わろうとする理由はどこにあるのでしょう?

 

栁澤:それはバキさんの言葉に尽きますね。自分の近くで戦争に行きたいという人をあまり見たこともありませんでしたし、憎しみの塊みたいだった人が、自分の音楽を聴いて変わったことにとても感動しました。

 

根本:栁澤さんは世界各地のオーケストラを指揮してこられましたが、バルカンの人々が奏でる音の特徴ってありますか?

 

栁澤:アルバニア人は違いますが、彼らのほとんどがスラヴ系民族なので、やはりスラヴであるチャイコフスキードボルザークなど、そういう音色にぴったり合う音を出しますね。弦楽器の音がすごく鳴るという特徴はあるが、それが復活してきていることは指揮をしている側としても嬉しく感じます。今チャイコフスキードボルザークの名演奏はウィーン、ベルリン、ニューヨークといった経済の集まる所が上手となっているが、その中でオリジナルの文化圏のスラヴの人たちが出す音で上手な演奏ができるのは素晴らしいことだと思います。

 

根本:2014年には、第一次世界大戦勃発から100年という節目に、大戦の引き金となった事件が起きたボスニアサラエボで、バルカン室内管弦楽団による平和祈念コンサートをなさいましたね。そして、今年10月には、日本の国連加盟60周年の平和祈念コンサートをジュネーブで指揮されますね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160921135627j:plain

         2014年サラエボ国立劇場での第九平和祈念コンサート(栁澤さん提供)

 

栁澤:駐セルビア日本大使ご夫妻が熱心に働きかけてくださったおかげで、今日のジュネーブでのコンサートにつながりました。ジュネーブにある国連欧州本部と市内のヴィクトリアホールとで2回演奏会を行いますが、コソボ国連加盟国ではないので、コソボの演奏者たちは国連欧州本部でのコンサートには参加しません。コソボが国かどうかについて触れてもしょうがないけれども、それよりもバルカン地域が国連とつながってほしい、地球全体で平和になってほしいという思いがとても強いので、バルカン全域の国と地域を含めてそういう形になったらいいと願っています。

 

根本:ところで、栁澤さんは小さい頃から指揮者を目指していらっしゃったんですか?

 

栁澤:いえいえ、まったくの偶然です。音楽は好きでしたが、それを職業にするのは大変だし、考えていませんでした。たまたま旅行先のウィーンで小澤征爾さんの演奏会に行き、日本人が一人で外国人をまとめている姿を見て、一人のサムライスピリッツのようなものを感じ、彼のまとめていこうという姿に感動したんです。小澤さんを見て指揮者になりたいと思ったわけですが、ここまで大変だと知っていたら自分は指揮者を目指さなかったと思いますよ。

 

根本:バルカン室内管弦楽団を率いて活動するには、お金もかかりますね。どのように工面し、そしてどのようにモチベーションを作っていらっしゃるのでしょうか?

 

f:id:UNIC_Tokyo:20110323220323j:plain

              コソボ戦争によって壊れた家(栁澤さん提供)

 

栁澤:私のバルカン室内管弦楽団での活動はほとんどボランティアで、お給料はありません。コソボフィルのお給料はむこうの相場ですから月3万円くらいしかありません。今は日本とバルカン地域とを行き来しています。以前はむこうに行きっぱなしだったが、今は春とか秋等まとめて行き、その際はコソボだけじゃなくベオグラードやニーシュなど行き、一年の3分の1くらいバルカン地域に行っている。その際は無給に近い状態なので、日本にいる間にとにかく稼いでいます(笑)。

 

バルカン室内管弦楽団の演奏者たちは普段安い給料で働いているので、オーケストラとしてきちんとお礼をするということ、ボランティアではないということ、プロフェッショナルとして保障するということがとても重要だと考えています。そして、西側に通用するクオリティーを持つことを目標にする。紛争の跡地みたいなところには楽器店もなく、指導者もいない。そのような場所でクオリティーの高いオーケストラを作ることは極めて難しいけれど、資金の力でそれを作ることができれば、彼らにとってもステータスと思えるようになり、それに参加したいという夢が生まれます。

 

自分の国を捨ててどこかに行きたいと思っている人達には、夢ができることは非常に大切です。そこにちゃんとしたものを作り、保障をすることは戦争の跡地にどこでもドアを作るようなものですね。そこに来て一生懸命やれば、日本、アメリカ、スイスなどにも行けるし、世界的なソリストとも競演出来るというモチベーションにもつながる。そのようなチャンスに恵まれない人達に、チャンスを作りたい、というのが私の願いです。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160921135606j:plain

         インタビュー後の記念撮影(左: 根本所長、右: 栁澤さん)©UNIC Tokyo

2016年夏季インターンを終えて

 本日をもって、国連広報センターの2016年夏季インターン5人がインターンシップを終了します。今回は、6月から3ヶ月にわたったインターン生活の振り返りを、Q&A形式でお届けします。

UNIC Tokyo’s summer 2016 interns finish their internship session today! The five interns, who have been interning with the UNIC Tokyo office since the end of June, take a look back on the ups and downs of their three month internship with a Q&A blog post!

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160923162839j:plain

【2016年夏季インターンメンバー】

小杉京香 Kyoka Kosugi  ブラウン大学 国際関係学部 社会・安全保障学科
Brown University - International Relations

ジェニー・ホロウェー Jenny Holloway  オックスフォード大学・日本研究
University of Oxford - Oriental Studies, Japanese

小久保彩子 Ayako Kokubo 一橋大学 社会学
Hitotsubashi University - Faculty of Social Sciences

チョ・ソユン Soyun Cho 早稲田大学 国際教養学部
Waseda University - International Liberal Studies

小林薫子 Kaoruko Kobayashi 東京大学大学院 公共政策学部
The University of Tokyo - Graduate School of Public Policy

 

~2016年夏季インターンを終えて~

 

Q: 一番印象に残った出来事は何でしたか?

Jenny: 一番印象に残った経験は、私のインターンシップの最初の一週間に行われた日本人のパラリンピック選手のマセソン美季さんのインタビューです。その時は、インターンシップが始まったばかりだったのでUNICがパラリンピックとどのように関係しているのか分かりませんでした。しかし、マセソンさんとのインタビューをきっかけに、マセソンさんが女性パラリンプック選手として、今まで経験した事と、2020年東京パラリンピックに向けての仕事についての話を聞いてから、国連の仕事の目標は、核兵器をなくすのような深刻なことだけではなく、スポーツでも平和と平等を作れることが分かるようになりました。

f:id:UNIC_Tokyo:20160923163313j:plain

Kyoka: 広島と長崎の平和記念式典に参加するためにキム・ウォンス国連軍縮担当上級代表が来日した時にお会いできたのが一番印象的でした。キム代表と写真家のレスリー・キーさんが学生向けのトークイベントにゲストとして登壇し、なぜ持続可能な開発目標は平和構築に不可欠なのか、そして私たちが学生として何ができるのかを語ってくださいました。とても貴重なお話が聞けて、インターン期間中の一番印象に残った経験となりました。

f:id:UNIC_Tokyo:20160804165241j:plain

Soyun: NGOピースボート」が主催した出港式に参加したことが一番印象的でした。私たちが出港式で見届けた第92回のピースボートは、軍縮と平和のメッセージを伝えるために全世界を航海するプロジェクトです。出港式の前の参加者の方々の記者会見で、被爆者の方から直接お話をうかがったことが特に印象に残っています。被爆でお兄さんを亡くされた方のお話でしたが、何十年もの時が経っても悲しみが癒えないことを感じました。記者会見を通じて、ピースボートに乗船する人々の心持ちや思いを感じ取ったうえで参加した出港式はより意味深く感じられました。私にとって忘れられない経験です。

f:id:UNIC_Tokyo:20160922160642j:plain


Q: インターンを通して学んだこととは?

Kyoka: 国連広報センターの運営するブログや、参加させていただいたインタビューなどを通して、「国連の仕事」は簡単に一括り出来ないほど、いろんな種類の仕事や職場がある事を学びました。国連の傘下にある機関や団体ひとつひとつの活動があって、初めて幅広い環境や地域で深刻な課題に取り組むことができることを改めて認識することができました。この3ヶ月を通して、自分が将来どんな機関でどのような仕事に携わりたいのか、より具体的なイメージをつかむことができました。

Ayako:国連についての理解が深まったと同時に、広報活動に携われたことは貴重な経験でした。一つの記事が新聞に載るまでに取材依頼など数々のステップがあること、注目を浴びる出来事の裏側で、リアルタイムでメディアの動きをモニタリングしていること、一字一句までこだわって注意深く発信しようとする姿勢…普段何気なく世の中に溢れる情報にふれていましたが、その背景にこれだけの細やかな動きがあるということはとても印象的でした。広報センターに身を置いたからこそ体得できた「広報」の視点でした。

f:id:UNIC_Tokyo:20160920141610j:plain

Kaoruko: 私はUNICでのインターンを通し、広報活動の大切さを学びました。まず毎朝行う新聞クリッピングでは国内問題、国際問題など世界で起きている出来事を認知することの大切さを改めて実感しました。またUNICのブログ作業やFacebookのポスト作成を通じ、国連が取り組んでいる幅広い課題を多くの人に知ってもらう大切さも学びました。特に持続可能な開発目標(SDGs)についてはフォトコンテスト、テーマソングのお披露目会など様々なイベントに携わることができました。国連が取り組む課題解決のためにも、まず多くの人が課題を認知することが重要です。その上で、UNICが行っている広報活動に自分も携わり、その大切さを経験することが出来ました。そして、実際に国連で働く方々と出会い、現場でのお話も伺うことが出来たのも、とても貴重な経験となりました。このインターンシップを通し、国連をより身近に感じるようになったと同時に自分の夢をより明確にすることが出来ました。

f:id:UNIC_Tokyo:20160922160715j:plain


Q: なぜこのインターンに応募しようと思いましたか?

Ayako :以前から、どうすれば地球規模での豊かさを実現できるのかという問題意識がありました。環境問題の解決や平和の維持は一朝一夕では実現しない、では私に何ができるのだろうかと模索していたとき、このインターンシップを見つけました。国際機関の取り組みを内部から実感することが、この先の社会と自分の関わり方を考えていく際に貴重なものさしになると思い応募しました。

Soyun: 国際学校から国際関係に興味を持つようになりましたが、大学2年までは漠然と卒業したら国際機関で働きたいと考えていたに過ぎませんでした。3年生の時に交換留学をした際、国際機関に興味を持っている人達に出会うことができ、今から将来にどのような道に進みたいのかを真剣に考えることになりました。これがきっかけで、留学から帰って過ごす長い夏休みの間に国連インターンをやりたいと思い、UNIC Tokyoに応募しました。

f:id:UNIC_Tokyo:20160914114259j:plain

Kaoruko: 私は人生の半分近くを海外3カ国で暮らした経験や学部時代に国際関係を専攻した経験などから、将来は国際機関で働きたいと考えるようになりました。そこで、国連の活動について知るためにUNIC で広報活動に携わり、国連の働きや日本と国連のつながりを学びたい思い、このインターンシップに応募をしました。


Q: What did you find the most challenging?

AyakoI think the most challenging element of the internship was to inform the worldwide problems as not distantly but closely related issues with us. Several experiences from the internship made me reflect on the connection between the UN and the public. I personally assume that many people think works of the UN are not directly linked to their day-to-day lives. Through this internship, I have been convinced that it is significant to think what each of us can do to achieve global goals.

Kyoka: I think the most challenging aspect of the internship was learning how to cater information towards a Japanese audience, that has specific societal expectations in regards to the media they consume. Slight differences in the delivery of these information can have distinct implications, especially because subtlety plays such an important role in Japanese semantics. Through composing social media posts and translating articles for UNIC, I gradually learned how to highlight certain aspects of an event or UN initiative to make the organization more accessible and relatable to the Japanese public. These past three months have allowed me to reflect on the importance and responsiblity that comes with a position that involves disseminating information.

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160915153930j:plain

Q: What have you gained from the experience?

Jenny: Spending a summer living and working a 9 till 5 internship in a country that is not home is not without its challenges. However, I have learnt to embrace the challenging aspects. For example, as a foreigner, UNIC Tokyo is a unique place to gain an insight into the role of the UN in Japan, and to understand what causes are particularly important to the Japanese public. I feel like this understanding is something that I can use to help shape my career choices and goals for the future.

Soyun: UNIC is a unique place where I could experience the international atmosphere of the UN and Japanese atmosphere at the same time. Doing office work and communicating with staff members and other interns in English and Japanese taught me what it is like to work in an international office. I also had an opportunity to meet Japanese UN staff members from different areas of work and different UN offices. Listening to their stories was a meaningful opportunity for me because the experiences they spoke of cannot be earned without working at the field. It motivated me a lot to consider wokring at an international organization.

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160923163817j:plain

Q: What advice would you give to future international applicants?

Jenny: Before applying, think carefully about why you want to do the internship and what you want to gain from it. This will help you make an impression during the interview, and also allow you to ask the right questions in order to understand whether or not it is the right job for you. A three month internship is a fairly big commitment, particularly coming from abroad, and it does not hurt to be certain before starting. Once you are here, you’ll find that the UNIC office and your fellow interns are easy to get along with, make friends and make the most of being in Tokyo!

 

わたしのJPO時代(15)

「わたしのJPO時代」第15回は、WFP 国連世界食糧計画国連WFP)南部アフリカ地域局のプログラム・アドバイザー、浦香織里さんのお話をお届けします。JPO時代に築いた人脈のおかげで国連WFPから2度の短期契約と正規職員のオファーを受け、働くチャンスに恵まれた浦さん。JPO時代に担当した現金・バウチャーの分野が国連WFPで主流化されたことを受けて、浦さんはこの分野を担う職員になっています。様々な障害を粘り強さで突破してきた軌跡を綴ってくださいました。

 

 

  WFP 国連世界食糧計画国連WFP)南部アフリカ地域局プログラム・アドバイザー

            浦 香織里(うら かおり)さん

         ~国連機関で働く夢への道 JPO制度でつかんだ機会~

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160622124109j:plain

 

2001年Wesleyan University卒業、2002年London School of Economics国際関係学修了。大和証券SMBCゴールドマン・サックスにて、投資銀行業務に従事。その後、NGOのJEN(東京、レバノン南スーダン)にて主に緊急人道支援に従事した後、国連WFPギニアビサウ事務所にてモニタリング国連WFPモザンビーク事務所にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムを担当。その後、在カメルーン日本大使館にて経済協力を担当、国連WFP西アフリカ地域局にて現金や食糧引換券を使った支援プログラムのアドバイザーを担当。JICAセネガル事務所(農業・農村開発担当)、国連WFPローマ本部(現金等による支援に関連したシステム担当)を経て、2014年より現職。

 

 

国連職員を目指そうと思ったのは、高校生のとき、電車の中吊り広告で、国連職員のキャリアパスが説明された本を見かけたのがきっかけでした。当時、1年間アメリカの高校での交換留学を経験した後だったこともあり、英語を生かして、何かだれか人のためになる仕事ができないかと漠然と考えていたのですが、この広告を見たときに、やっと自分のやりたいことが具体的な職業として見つかったと直感したことを今でもはっきり覚えています。そしてその本の中に、JPO制度についても記載があり、いずれはJPOを受けようと決心しました。

そしてその本にJPOに受かる人たちは、英語圏での学士又は修士を取った人が大半であるという記載があったために、思い切ってアメリカの大学に進学することを決め、その後イギリスの大学院で修士も取得しました。しかしいざ国連機関や国際的なNGOの仕事に就こうと就職活動をしてみると、応募書類をたくさん送りましたがどこにも当たらず、面接にも呼ばれない状況でした。親にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないと思ったことと、日本のNGOの求人広告には「職務経験最低3年」という記載があったことから、とりあえず職務経験3年の条件をクリアするために、いずれは援助の仕事に就きたいと願いつつ、まずは民間企業へ就職をすることにしました。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20101026172824j:plain

JPO時代、モザンビークにて。国連WFPのバウチャー(食糧引換券)を使用した受益者から聞き取り調査を実施(著者提供)

 

 

第一希望ではない仕事でもとりあえず3年はいなければ大した学びにもならないだろうと思い、3年は頑張ることにしました。そして日本にある投資銀行で合計3年働いた時点で、転職活動を開始しました。そこで幸いにも日本の人道支援NGOのJENで働く機会を得ました。初めは東京でのドナー(支援者)対応、その後レバノンでの人道支援、それから南スーダンでの人道支援に携わることができました。JENの先輩方からは、人道支援のいろはを教えていただき、大変いい経験になりました。

JPO試験は、民間企業からの転職活動時に受験をしていたのですが、JENで働き始めて1年ほどたって合格が決まりました。JENでの仕事も大変有意義なものでしたので悩んだのですが、せっかくのチャンスでしたので、オファーを受けることにしました。その時点であまり自分の学位や経験に専門性がありませんでしたので、人道支援の中でもあまり専門性が問われず、また国際機関を良く知る方から効率的でいい仕事をしているという話を伺っていた国連WFPを志願しました。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20130718094307j:plain

モザンビークにて。食料品を買うための現金がチャージされたカードを配布 (WFP/Marta Guivambo)

 

 

JPOでは、国連WFP ギニアビサウ事務所にモニタリングと評価担当のプログラム・オフィサーとして赴任しました。しかし、当時の上司の方とあまりうまくいかなかったことなどもあり、2年目には国連WFPモザンビーク事務所に赴任地を変更することになりました。

モザンビークでは、現金やバウチャー(食糧引換券)を使ったプロジェクトの担当のプログラム・オフィサーになりました。当時はまだ国連WFPにとってこの分野は新しい試みで、国外で食糧を購入した後に船やトラックを使って食糧そのものを届ける従来のやり方よりも、現金やバウチャーを支援対象の方々に配って地元のお店で使っていただき食糧を調達してもらうほうが、地元の経済のためになることや、支援を受ける人々がそれぞれの世帯に見合った支援物資を選べることができるという点で利点があることから、試験事業を数カ国で実施している時期でした。特に国連WFPのガイドラインもまだ策定されていなかったので、数少ない学術論文やNGOが作成しているガイドラインを見ながら勉強し、都市部での現金の配布、都市部でのバウチャー、農村部での現金の配布等のプロジェクトを立ち上げて実施しました。

モザンビークでは今でも大変尊敬する非常に優秀な上司にも恵まれ、私のパフォーマンスも高く評価していただき、とても充実した日々を送りました。JPO派遣期間の3年目の延長についても、国連WFPモザンビーク事務所側が経費を半額負担しなければならなかったのですが、問題なく承認されました。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20151028131246j:plain

ジンバブエにて。WFPから配布された現金で食糧を購入する女性 (WFP/David Orr)

 

 

JPO後、国連WFPで引き続き職務を続けたかったのですが、人事ルールがその年変更となり、内部の職員にしか応募できないポストにJPOが応募できなくなったこと、そして私の担当分野では外部者が応募できる空席が出なかったことから、国連WFPでの正規職員としての採用には至りませんでした。

 

国際協力分野の仕事を探したところ幸いにもカメルーン大使館での経済協力担当の書記官のお仕事が見つかりしばらく勤務させていただいていたのですが、1年もたたないうちに国連WFPの時に知り合った本部の現金・バウチャーの担当部署の方から直々にお電話をいただき、西アフリカにある国連WFP地域局でのこの分野でのアドバイザーのポストの打診がありました。モザンビーク時代に、現金・バウチャーに関する会合がローマ本部であり、その場で自分が立ち上げた事業のプレゼンをさせていただいていたことで、その方が私のことを覚えていてくださったのがきっかけだったようです。短期契約だったのですが、やはり自分が興味のある人道支援分野でキャリアを伸ばしていきたいという思いから、このオファーを受けることにしました。

 

西アフリカ地域局では約1年勤務し、その後短期契約ということもあり、ポストの財源がなくなったことから一度また国連WFPの外に出てJICAで勤務させていただいたのですが、その1年後にまた前回と同じようにまた現金・バウチャーの分野で短期契約のオファーを国連WFPローマ本部からいただき赴任しました。その後まもなく現在の南部アフリカ地域局での正規職員のオファーをいただき、現在に至っています。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20120417115628j:plain

ジンバブエにて。バウチャー番号などが書かれたスクラッチカードを用いて食料品の支払をする女性(WFP/Victoria Cavanagh)   

 

 
国連WFPでのキャリアを振り返ると、JPO時代にたまたま担当した現金・バウチャーの分野での仕事が生かされて、現在の仕事につながっていることは言うまでもありません。この分野が私がJPOで働き始めたころから急成長したことも幸いしましたが、やはりこの時代に出席した会議を通じて築いた人脈や、あまり前例がない時代に実際のプロジェクトを立ち上げた経験は、正規職員のポストを得られた大きな要因となりましたし、今の仕事にも大変生かされています。また当時は国際協力には全く関係のない仕事だと思っていた民間企業での職務経験も、所属部署が企業の買収・合併を担当していたこともあり、多くの関係者の意見を調整・集約するスキルや、契約書交渉のスキルなど、現在の現金・バウチャーの配布事業で生かされていることが多く、人生どんな寄り道をしようとも、その中からも活かされるものがあるものだと感じます。また、大使館やJICAでの勤務でも日本のODA政策や様々な援助スキームを学ぶことができ、現場で日本との具体的な連携を考えていくうえでも役に立っています。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20040405234909j:plain

ケニアにて。支援を受ける可能性がある人々に、どんな配布方法が適切か聞き取り調査を実施 (著者提供)

 

 

国連機関は組織内で一緒に仕事をした経験のある人たちを採用する傾向が強いことから、JPO制度はそういった機会を与えてくれるという意味で、非常に大事な制度だと思います。この制度がなければ、人脈を作ることもできませんので、過去の2度の短期契約や正規職員のオファーをいただくということも無かったと思います。そういった機会を与えて下さった日本政府と国連WFPに大変感謝しています。

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(4)

第4回 日本スポーツ振興センター情報・国際部 山田悦子さん

~スポーツを入り口に、平和と開発を~

 

「国連を自分事に」シリーズ第4回は、国連開発と平和のためのスポーツ事務局(UNOSDP)でプログラム・オフィサーとして勤務し、現在日本スポーツ振興センターで活躍する山田悦子さんのお話をお届けします。2020年東京オリンピックパラリンピックの開催を控え、スポーツを通じた国際貢献活動への関心も高まりを見せています。そのような中、スポーツが開発・人道支援・平和構築を推進するに当たって有益なツールであることを認識した上での取り組みが求められ、山田さんは国連での経験を日本に繋げようとしています。今回は山田さんがUNOSDP時代に携わった、タジキスタンルワンダなど、様々な社会問題に直面するコミュニティーをスポーツを活用して支援するプロジェクトをご紹介します。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902134723j:plain

UNOSDPのオフィスがある欧州国連本部の加盟国国旗が立ち並ぶ前で

                    山田 悦子さん

 

宮城県仙台市出身。東北大学大学院法学研究科公共法政策修士号取得。Lionbridge Global Sourcing Solutions Limitedにてコンサルタントとしてインターネットの検索機能の質向上とその評価を行う。その後、国家プロジェクトであるマルチサポート事業に携わり、ロンドンオリンピックへ向けた日本チームの国際競技力向上に資する各種情報を扱う。2014年1月より国連開発と平和のためのスポーツ事務局(UNOSDP)でプログラム・オフィサーとして勤務。現在は(独)日本スポーツ振興センター情報・国際部にて勤務。

 

 

「スポーツを用いて開発や平和構築へ貢献する」と言ってもピンとくる方はあまりいないかもしれません。しかしながら国連をはじめとする国際社会においては、「スポーツは持続可能な開発における重要な鍵となる」と広く認識されており、2015年9月にニューヨーク国連本部で開催された「国連持続可能な開発サミット」にて全会一致で採択された成果文書[1] も正式にこの点に言及しています。国連でこの分野(開発と平和のためのスポーツ Sport for Development and Peace:SDP)を扱っているのが、国連開発と平和のためのスポーツ事務局(United Nations Office on Sport for Development and Peace、UNOSDP)です。

 

UNOSDPの役割はSDP分野を担当する国連事務総長特別顧問(現在は、サッカーのブンデスリーガSVベルダー・ブレーメンのゼネラル・マネジャーを務めた、ドイツ出身のウィルフリード・レムケ氏)の任務を支え、スポーツを有益なツールとして用いながら開発・人道支援・平和構築を推進していくことです。そのため国連事務総長案件を取り扱うことも多く、国連総会へ提出する国連事務総長報告書の原案作成や会談のバックアップ等も担います。

 

私が赴任して最初に担当したのが2014年4月6日に第1回を迎えた「開発と平和のためのスポーツ国際デー」のイベントで国連事務総長が使用するスピーチの原稿作成でした。格式高い表現を用いるのはもちろんのこと、いかに社会に語りかければ国連として伝えたいメッセージを届けられるのか、ということを考えさせられたタスクでした。例えば、「スポーツが個人やコミュニティの発展に寄与する」という内容を伝えるためにそれをそのまま英訳するのではなく、近代オリンピックの創始者として知られるクーベルタンが述べた”Sport is a possible source for inner improvement.”(スポーツは(身体面のみならず)精神面での成長をもたらし得る源である。)という言葉を引用しながらよりインパクトの強いスピーチとなるようにしました。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140337j:plain

2014年4月に欧州国連本部で実施された「開発と平和のためのスポーツ国際デー」のイベント

 

この件に限らず、国連職員として職務にあたるということの意義や国連機関としての役割は何なのか、という点を常に意識し自問自答しながら職務を遂行してきました。

 

国連機関で働く醍醐味は、国際的な政策決定過程に関わることができる点です。例えば国連人権理事会諮問委員会のコンサルテーションプロセスへ参加したり、国際憲章の策定過程に携わるなど、国際社会で今まさに議論がなされ、方向性を決定付けていく場面に立ち会うことができます。2015年に大幅に改訂された「ユネスコ 体育とスポーツに関する国際憲章」に対してもUNOSDPから改訂案に対する意見や提案を提出しました。

 

私が主担当してきた仕事の一つに、UNOSDP基金による各地域のSDPプロジェクト支援があります。UNOSDPには日々世界各地から多数の支援要請が寄せられていますが、人的・財的資源の制約からそれらの要望全てに応えることはできません。そのような状況下でどのようなプロジェクトを選定し、どう支援していけば国際公益を最大化することができるのか、また、制度や枠組みを形作っていく国連が「アクション」部分となるフィールドのプロジェクトを支援する意味はどこにあるのかを熟考しながら、プロジェクトの選定・計画策定支援・モニタリングと評価等に携わってきました。

 

2014年11月に新たなプロジェクトの応募を開始するにあたり、どこまで厳格な応募書類の提出を求めるか、ということは我々が悩んだ点の一つです。応募にはプロジェクト提案書、団体の基礎資料、年次報告書、財務報告書、登録証明書の提出が必要ですが、本当に支援を必要としている団体は年次報告書や財務報告書を作成する余裕もないのではないか、そうであるならばそれらを応募要件に含めるのは酷ではないか、その一方で応募団体が提案してきたプロジェクトを実施できるという能力をどこで担保するのか、といった議論をUNOSDP内で交わしながら、柔軟性を保ちつつも公平性を損なわないよう、応募要件・提出書類に関して一つ一つ決定していきました。

 

23の団体から応募があり、提案されたプロジェクトを公平に、客観的に評価していくため、プロジェクトマネジメントの観点にSDPで必要とされる要素も加えながら16の評価項目を設定し、5段階評価の得点基準を作り、項目に応じた傾斜配点方式をとる評価プロセスを確立しました。社会課題の特定、プロジェクトスコープの明確さ、スポーツの要素の組み込み方、といった観点から、人的・財的資源の適切な配分やモニタリングと評価、プロジェクトの持続可能性に至るまで包括的に評価して最終的に三つのプロジェクトを選定しました。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140429j:plain

UNOSDPが支援したタジキスタンのNational Federation of Taekwondo and Kickboxing (NFTK)のプロジェクト

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140452j:plain

NFTKはタジキスタンでサッカーやテコンドーを用いて、ジェンダー平等の促進と女性の能力強化に取組んでいる。プロジェクトでは関連する政府組織、国際機関、競技団体、NGOが円卓会議で議論し「タジキスタン 女性スポーツの発展に関する国家戦略2014-2020」の原案も作成された。現場と政策を繋ぐという重要な要素が含まれたプロジェクト。(NFTK)

 

 

選考を通過した団体は基金を早く受領しプロジェクトをすぐにでも開始したいと気が急いていまが、まずは団体の代表者やプロジェクトマネジャーと一緒にプロジェクトプランを練り込み、何度も修正を重ねてより具体的な計画書を策定していかなくてはなりません。プロジェクト立ち上げ段階では不確定要素があり、しっかりと計画を作り込まないまま開始してしまうプロジェクトも多く見受けられますが、達成すべきゴールを共有し、そこに到達するまでの適切なプロセスを設定していく作業である計画の策定はプロジェクト成否の鍵を握っており軽視すべきではありません。プロジェクトを実行していく中で状況の変化に応じた計画の修正・微調整をしてプロジェクトをコントロールしていくことができるのも、計画段階でベースラインを設定し、現状と計画段階でのギャップを判断するための基準を定めているからこそできることです。

 

UNOSDPが永遠にその団体を資金援助できる訳ではないので、プロジェクト期間中に上記の視点からテクニカルアドバイスを提供し団体のプロジェクトマネジメント能力を育成し高めていくことに力点を置きました。詳細なプロジェクト計画を含めた契約文書を作成し、国連の助成金委員会が法的・財務的側面から精査し、その承認をもらってはじめてプロジェクトを開始することが可能となります。

 

Project Air International, Inc.のプロジェクトではルワンダでヨガを用いて、ジェンダーに基づく暴力のHIV陽性被害者・加害者、障がい者のトラウマを和らげる活動を実施しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140518j:plain

UNOSDPが支援しているProject Air International, Inc.のプロジェクト (Project Air)

 

このプロジェクトの承認を得るにあたり、助成金委員会からは予算、活動内容、有効性の細部に至るまで様々な質問が投げかけられました。それらに対してこのプロジェクトを支援する妥当性・必要性を資料やエビデンスを用いて説明していくのが私の役割です。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140540j:plain

Project Air International, Inc.のプロジェクトの一環でヨガを楽しむ参加者 (Project Air)

 

現在SDP分野で用いられるスポーツとしてサッカーが圧倒的に多い中、適応可能なスポーツを見出し、社会に発信・共有していくこともUNOSDPの役割の一つであるため、Project Air International, Inc.のプロジェクトを支援している社会的意義は大きいと実感しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140558j:plain

Project Air International, Inc.のイベントに参加する子ども達 (Project Air)

 

選定された三つのプロジェクトは現在進行中ですが、上述のような過程を経て、苦労しながら実施を実現できたものであるため、個人的にも大変思い入れのあるプロジェクトとなっています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140625j:plain

アンプティサッカー実践ワークショップにて。2011年6月〜2016年2月にハイチで実施された、障がい者のスポーツ・体育機会の増加、社会における障がい者の包摂を目指したプロジェクト。コミュニティに対して長期のインパクトを生み出すべく、持続可能性を重視して組み立てられたプロジェクトであった。BlazeSportsは1996年アトランタパラリンピック競技大会のレガシーとして創設されたNPOである。(BlazeSports)

 

UNOSDPが支援したBlazeSportsのプロジェクト>> https://www.youtube.com/watch?v=1dcXH__l38U

  

現在私は日本に戻り、日本スポーツ振興センター情報・国際部にて、スポーツと人権・平和・開発等に関する最新の国際的議論や情報を収集・提供し、日本におけるSDPへの理解を促すと共に、社会課題解決へ向けてスポーツを活用していくための方策・政策の提案を行っています。

 

日本でも、政府が推進するスポーツを通じた国際貢献事業であるSPORT FOR TOMORROWが開始され、2020年東京オリンピックパラリンピック競技大会へ向けて、SDP分野の活動への関心も徐々に高まってきました。スポーツ界のみならず他の分野の人々にも開発・平和領域におけるスポーツの有用性を理解し実践してもらえた時にはじめてスポーツは「ツール」として成り立ち得るのだと考えています。そのために日本が為すべきこと、できることはまだまだ沢山あります。日本が有する強みや得意な分野を見極め、どのような日本独自のスポーツを活用した貢献活動ができるのか、どういった有形のレガシーをSDPで残していけるのかを考慮し、取組んでいくことが求められています。

 

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160902140838j:plain

BlazeSportsのプロジェクトにて2013年10月にハイチで開催された全国障がい者スポーツ大会の開会式の模様。参加者は500名、観客200名の多くは初めてパラスポーツを観戦した。(BlazeSports)

 

以下のリンクより、詳細をご覧いただけます。

国連とスポーツ

UNOSDP

SPORT FOR TOMORROW

 

[1] ”Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Development (A/RES/70/1)”

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(3)

第3回 パラリンピアンのマセソン美季さん

スポーツで、障害を持つ人々にパワーを!

~2020年東京パラリンピック大会は、共生社会を築く~

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831145833j:plain

(提供 OHCHR_Danielle Kirby)

                  マセソン美季 さん

 1973年生まれ、東京都出身。東京学芸大学卒。高校大学時代は柔道部に入部。体育教員を目指すも1年の時に交通事故で脊髄を損傷。下半身不随になり、車いす生活に。入院中に障害者スポーツに出会い、車椅子の陸上競技を始める。その後アイススレッジスピードレースを始め、1998年の長野パラリンピックに出場。3つの金メダルと1つの銀メダルを獲得すると共に、世界新記録を更新。大学卒業後、障害のある選手への指導を学ぶためイリノイ州立大学に留学。2001年にパラリンピックアイススレッジホッケー選手のショーンさんと結婚し、カナダへ移住。現在2児の母でオタワ在住。日本財団パラリンピックサポートセンター勤務。

 

聞き手:国連広報センター 妹尾

 

 

突然の事故、そしてスポーツを原動力に

 

Q.マセソンさんは学生時代に突然交通事故に遭われ、その後、障害者スポーツの実践者になり、さらにはパラリンピックに出場して素晴らしい功績を残して現在に至っていらっしゃいます。突然の事故は、人生最大の危機というべきとても落ち込むような経験だと思うのですが、マセソンさんはいつも前向きでいらっしゃいますね。その原動力は何なのでしょうか?

 

A.スポーツですよ、スポーツ。大学1年の時、大怪我をして自分の将来に大きな不安を抱きました。けれども障害があってもスポーツはできるとわかったとき、アスリートというアイデンティティーだけは持ち続けることができました。そのお蔭で、生活していく上のモチベーションや、幸せの感じ方などを維持することができたのだと思います。スポーツをしているときは、できない事を考えるのではなくて、どうすればもっと速く、もっと強くなれるかと競技力の向上に考えを集中しました。障害のことも忘れられました。スポーツがなければ、「あぁ、私これが出来ない」とネガティブになっていたかもしれません。しかし、スポーツをしていたからこそ常に前向きになることができたのだと思います。私自身はもう競技からは離れましたが、二人の子ども達のスポーツで毎日を忙しく過ごしています。冬場は家族でクロスカントリースキーをしています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831145902j:plain

北海道釧路市での合宿で練習するマセソンさん (提供 朝日新聞社,1999年1月27日)

 

Q.パラリンピック、障害者のスポーツについては以前からご存知だったのですか?

 

A.それまで全く知らなかったのですが、事故で入院しているときにお世話になったお医者様がたまたまパラリンピックについてよくご存知でした。病院で寝たきりとなり、脚が動かないことを宣告された私に、比較的早い時期に「まだスポーツができる」と教えてくださったのです。もともと水泳をやっていたので、初めて病院から外出許可が出たときにプールに連れて行ってもらったんですよ。不安もありましたが、医師と一緒なら何かあっても大丈夫、という気持ちでした。その出会いに感謝しています。落ち込んでいる時期には「どうして私がこうなってしまったんだろう」と悩むこともありましたが、自分が集中できることを早い時期に見つけ出すことができたのは幸運でした。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831145945j:plain

スポーツこそが私の原動力、と語るマセソンさん

 

Q.その後、障害のある選手へのコーチングを学ぼうと思ったきっかけは、何ですか?

 

A.徐々に海外の大会に出ることが多くなり、ジュニアの選手が活躍する姿に心を打たれました。私は当時20代でしたが、日本では「若手の新人」と言われていたんですよ。でも、外国ではもう10代の選手が出てきていて、ジュニアのための指導者層、選手層も厚かった。でも、残念ながら日本の状況はそうではありませんでした。ジュニアの選手を育てていかないことには、競技の将来もないと気付いたのです。そこで、「ジュニアを育てるために指導者が必要なのであれば、私が大学で勉強してみよう」と決意を固めました。

 

また、障害のある女性の参加で言えば、アスリートとしての参加率は世界で7%に留まっていると言われています。つまり、世界の93%の障害を持つ女性はスポーツに参加していないのです。私を含めスポーツができる者は、本当に恵まれています。日本でも競技人口はまだまだ少ないです。

 

Q.この6月に国連のジュネーブ本部でスピーチされていましたが、その感触はいかがでしたか?

 

 A.私にとって、ジュネーブの国連での時間はとても有意義でした。国連の人権というと、対立している国々が向き合っているという堅苦しいイメージがありました。ところが、人権というテーマの下でスポーツは意見の異なる人々や国々を一つにまとめる力があると感じました。オリンピックやパラリンピックを上手に活用すれば、人々の間の共通理解を向上させる助けになる ― そんなスポーツの力を実感しました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150031j:plain

国連ジュネーブ本部で開催されたパネルディスカッション 「スポーツとオリンピック精神 - 障害を持つ人々を含むすべての人々の人権のために」に参加。ザイド・フセイン国連人権高等弁務官(左)と

(提供 OHCHR_Danielle Kirby、2016年6月28日)

 

2020年東京パラリンピック大会の成功をめざして、私のできること

 

Q.現在のお仕事について伺います。日本財団パラリンピックサポートセンターに勤めていらっしゃいますね。どのようなところなのですか?

 

A.日本財団パラリンピックサポートセンターは、2020年東京パラリンピック大会の成功を目指し、パラリンピックの普及、パラリンピックムーブメントを推進できるよう、2015年に設立されました。場所は日本財団ビル4階にあります。パラリンピック競技団体の共同オフィスとしての場の提供のほか、学校や企業を対象とした教育事業、障害のある人もない人も一緒に参加できるイベントの実施などを行っています。ユニバーサルデザインの画期的なオフィスで、素晴らしい職場環境です。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150208j:plain

G7伊勢志摩サミットの関連イベントとして行われた「パラスポーツ体験イベント」で、安倍昭恵首相夫人をはじめとするファーストレディの方々と。(提供 日本財団パラリンピックサポートセンター,2016年5月27日)

 

Q.そのパラリンピックサポートセンターでは、具体的にどのようなお仕事をしていらっしゃるのですか?

 

 A.日本国内外におけるパラリンピックムーブメントの推進事業やパラリンピックを通じた国際貢献事業を担当するほか、日本国内でのパラリンピック教育の教材作りを国際パラリンピック委員会と一緒に進めています。2012年のロンドン大会では開催の4年前から「ゲット・セット(Get Set、 準備しよう!という意味)」という教育プログラムが実施され、子ども達のパラリンピックへの関心を高め、知識を増すよう様々な工夫がされました。「ロンドンのパラリンピック会場はこの教育プログラムのおかげで満員になった」とも言われているほど、「ゲット・セット」には大きな影響力があったのです。これを受けて、2020年東京パラリンピック大会に向けては、国内におけるパラリンピック教育を、日本パラリンピック委員会日本財団パラリンピックサポートセンターが中心となって進めていくことになりました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150300j:plain f:id:UNIC_Tokyo:20160831150316j:plain

日本体育大学での特別プログラムにコーチング・スペシャリストとして参加。プログラムには世界各国からコーチが参加し、選手の実力を引き出す指導法について議論が行われた (2016年7月11日)

 

Q.この開発中の教育プログラムの特徴は何ですか?

 

A.パラリンピックを身近に感じ、興味関心を寄せてもらえるように、また、先生方が使いやすい教材にできるよう、現場の声を反映させながら作っています。宿題に親を巻き込むような問いかけを意図的に盛り込み、子どもが習ったことを自分の言葉で家庭でも伝え、父母や祖父母にも学んでもらう「リバース・エデュケーション」という方法も盛り込んでいます。小学生など小さい時に、障害のある人に接し、そのような方々のことを身近に学ぶことで、差別や先入観を持たない子どもに育ってほしいという思いが根底にあり、同時に知らず知らずのうちに親たちも巻き込むという形です。ロンドンパラリンピックの際、約270万枚売れたチケットのうち75%は家族連れでした。「ゲット・セット」のおかげで、子ども達が会場に足を運びたくなる。そうすると兄弟も親もついて行くのでチケットの売り上げ枚数も大きく伸びたと言われています。私も教育プログラムの効果に大きな期待をしています。パラリンピック教育を通じて、パラリンピックのファンを増やすだけでなく、多様性あふれる共生社会が日本でも広がれば、と願ってこの仕事に関わっています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150436j:plain

子ども記者にパラリンピックについて説明するマセソンさん (提供 日本財団パラリンピックサポートセンター)

 

障害者スポーツと日本

 

Q.日本での障害者とスポーツの現状について教えて下さい。

 

A.まず、日本では障害者が簡単にスポーツに親しめる環境が、北米と比べて整っていないように感じます。例えば体育館を使おうとしても、「車椅子の方は危ないので使わないでください」、「前例がないので」、「安全が確保できないので他のところでお願いします」、と言って断られることが未だにあります。北米ではスポーツをする権利は広く認知され、いつでもどこでもみんなと同じように楽しむ権利が与えられており、障害のある人が当たり前にコーチする姿も見られます。日本では、インフラ整備や受け入れ体制に限らず、社会の仕組みや管理をしている人々の考え方も様々で、障害があることがネックになってスポーツをしたくても簡単に出来ないという状況もあると感じます。カナダで、常に特別な受け入れ態勢があるという訳ではないですが、逆に特別扱いもされません。でも、臨機応変な対応にはあらゆる場面で感心させられます。

 

Q.パラリンピックを目指し、障害者スポーツの育成強化をしていく上で日本では特にどこに重きを置いているのですか。

 

A.最近は「タレント発掘プログラム」が積極的に行われています。日本体育大学の辻沙絵選手がパラリンピックの代表に決まりましたが、彼女はもともと日体大ハンドボールをしていました。パラリンピックで適した競技がないかと適性検査を受けたところ、彼女は短距離により適しているということで、短距離に転向し、それでリオ出場に決定しました。やりたいと思った競技が自分の適性に合っているのかを評価してくれる人は今までいませんでしたが、このようにデータを解析して「あなたなら、きっとこっちが向いているだろう」という新しいアプローチが、2020年の東京パラリンピックをきっかけに増えてきています。冬季の競技から夏の競技に転向してみるといった競技間の移動も徐々に出てきているようです。

 

バリアがあってもバリアを感じない社会へ

 

Q.日本では「共生社会の実現」によって障害者の方々とのインクルーシブな社会を目指しています。一方で、まだまだ課題はあるようでが、マセソンさんから見て障害者の方々にとって住みよい社会という点で、何かご提案などありますか。カナダとの比較でもよいですが。

 

A.バリアフリーについては、こんなことがありました。日本で会議に参加していて車いすでも利用出来るトイレの場所を聞いたら、「地下に降りて隣のビルに通路で渡ったところにあります」と。5分や10分の休憩時間で戻って来られない距離だと感じました。インフラ整備に関しては、実際に使う人のことをもっと考えていただければ、と思うこともあります。同じお金をかけるのであれば最初から当事者の声をくみ取っていただければよかったのに、という残念なケースがあります。エレベーターやスロープの設置の際、最初に当事者の意見を聞いてくれれば、「この向きが使いやすい」と提案できるのですが、出来上がった後に直すことは難しいですよね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150504j:plain

マセソンさん、家族と。日本財団パラリンピックサポートセンターにて。(2016年 夏)

 

Q.住んでいらっしゃるカナダと比べてもいかがですか。カナダに学ぶべきところも多いでしょうか?

 

A.そうですね。カナダもインフラ整備が100%できている訳ではありません。違う点は、インフラが整備されてないところでも周りにいる人たちが助けてくれるので、バリアがあっても私はバリアを感じないんですよ。日本だと、例えば私が電車に乗るとき、大抵は自分で乗れるのですが、ほんの少し段差が高すぎて自分ではどうすることもできないことがあります。すると、そこにいる人たちに助けを求めると、駅員さんを呼んできますと言われることがありました。特別なスキルなんていらないし、ちょっと手を貸してくれればいいのに「どうしていいかわからない」、「私にはスキルがないから助けることができない」と感じてしまうからでしょうか。

    

また、私が日本に一時帰国して違和感を覚えることがあります。こんなに人口が多いのに町に障害者がいない、ということです。どこの国でも障害者の比率はだいたい同じです。カナダでは車椅子に乗っている方や歩行器を使っている方はあちこちにいらっしゃいます。それが日本では、人は驚くほどいるのに車椅子に乗っている方にはほとんど会わないので違和感があります。日常生活の中で、障害のある人を見たり接する機会が少ないので、障害のある人への接し方に慣れていないのではないかという印象を受けます。だからこそ、私自身、感じたことを言葉にして伝えることの大切さ、言うべき立場の者がきちんと伝えていかないといけないという使命を強く感じています。

 

息子達の学校にも、車椅子に乗っているお友達がいます。先生に言われたからやるのではなく、お友達のためにドアを開けたり、下に置いてある靴を移動させたり、子ども自身で状況を見て判断して行動しているようです。障害のある人間を見たことがない、慣れていない状態で教科書だけで教えても「共生する社会」は浸透しにくいと思いますので、やはり経験が必要なのでしょう。

 

Q.ところで、マセソンさんが日本に出張しているときは、どなたがお二人のお子さんの面倒を見ていらっしゃるんですか?

 

A.夫です。毎日お弁当を作ってくれています。この仕事をお引き受けする際、やってみたい仕事ではあったものの、海外出張で家を不在にすることも増えるので、果たして自分にできるのか、母親業と兼業できるのかが一番の悩みでした。そのため「やりたいけど無理だろうな」と思っていたのですが夫が「いや、僕が競技をしていたときは何も文句言わずに支えてくれたじゃないか。今は君の番なんだから、家の事は気にしないで、いい仕事をしておいでよ」と背中を押してくれました。家族の協力があってこそ今こうして仕事をすることができます。

 

Q.最後になりましたが、日本の若者に、期待も込めてメッセージをいただけますか?

 

A.人に何か言われたから、ではなくて、自分で考えて行動できる勇気を大事に大人になってほしいと思います。世間体などを気にしないで、分からないことを素直に聞く勇気、やりたいことを素直に行動に移せる勇気があったらものすごく変わると思います。そのような一人ひとりの心の持ち方で、誰にとっても住みよい社会ができるのだと思います。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160831150606j:plain

日本体育大学の玄関で。オリンピックの制服を着たライオンを囲んで国連広報センターのスタッフおよびインターンのJenny Hollowayと。