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国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

わたしのJPO時代(17)

【連載中】<わたしのJPO時代>

 

「わたしのJPO時代」第17弾は、国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所で化学品・廃棄物プログラム調整官を務める吉田鶴子(よしだ・かくこ)さんのお話をお届けします! 「環境という国境のない仕事に関わりたい」という大きな志を抱き、自然保護NGOからJPOを経て国連機関へとキャリアを積まれてきた吉田さん。「グローバルな課題に取り組む難しさと醍醐味を同時に味わっている」と語る言葉からは、一つひとつの仕事に真摯に取り組む姿勢が伝わってきます。

 

 

  国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官

                                     吉田 鶴子(よしだ かくこ)さん

 

                                       ~無駄な経験など何一つない~

             

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「アジア地域の廃棄物処理に関するセミナー」で講演する吉田さん。開催地はモデル都市であるマレーシアのペナン(2016年)

 

吉田鶴子(よしだ かくこ):国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官。米ジョージア州立フォート・バレー大学動物学部野生動物保護科卒、スコットランド スターリング大学環境政策学部卒。青年海外協力隊平成6年度3次隊、生態学隊員としてケニアに赴任。1999年より世界自然保護基金(World Wide Fund for Nature, WWF)イギリス本部に勤務。南・東南アジアの環境保護、持続的開発プロジェクトの発案、実施管理に携わる。2001年、国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOとして赴任。環境モニタリングや持続的開発指標を政策に取り入れる援助・研究部門に所属。2004年、P4正規職員となる。2009年からバンコクのUNEPアジア太平洋地域事務所に勤務、現在に至る。

 

 

JPO挑戦は2回目で、「今回だめだったら次は応募しないだろう」と内心思っていたのは、2000年夏のこと。ジュネーブ国連本部の天井の高い一室で受けた面接の質問のうち、記憶に残っているのは2つだけ。1つ目は「治安が不安定な赴任地で、どうやって安全を確保しますか」。青年海外協力隊OGの私にとって、これは拍子抜けするくらい簡単な質問でした。これまで様々な分野や経歴を持った元JPOの国連職員に出会いましたが、開発途上国で働いた経験が、特に国連に入る上で有利に働いているように感じます。

 

2つ目の「どうして国連で働きたいのか」という問いには、「環境という国境のない分野の仕事には、国連でしかできないことがあるから」と答えた私。その後、晴れて2001年4月にメキシコ・シティー国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOで赴任して以来ずっと、この答えが間違っていて、それでいて正解でもあることを実証するような仕事を続けています。

 

JPO試験の合格通知を受け取ったのがWorld Wide Fund for Nature(WWF)の英国本部で働いている時だったため、日本での赴任前研修に参加する時間や経済的余裕はありませんでした。唯一の準備といえば夫婦で受けた週1回のスペイン語クラスのみ、それも3カ月ほどの短い期間でした。このクラスでさえ、赴任前に電話で挨拶をした未来の上司に、「スペイン語ができないと勤務に支障が出る」と言われ、慌てて個人レッスンを引き受けてくれる人を見つけるといった後手の対応でした。メキシコ・シティーに到着した日、3週間足らずの仮住まいとなるサービス・ホテルで見たテレビのニュースが全く理解できず、かなり不安に感じたのを覚えています。スペインのスペイン語中南米スペイン語の違いなど、基本的なことも当時は全く分かっていませんでした。

 

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                                                    JPOに赴任して間もない頃(2001年)

 

 

JPOでまず学んだのは、国連では自分から動かなくては何も始まらないということ。着任予定日の1カ月前になってもUNEP本部からは何の連絡もありませんでした。当時勤めていた職場との契約の都合もあったので、待ちきれずに日本の国際機関人事センターに連絡すると、赴任資金・必要書類等は数カ月前にUNEPに送付済みとのこと。人事センターでは赴任準備が順調に進んでいると思っていたようです。後で払い戻しをするからと言われ、引越し業者から航空券まで全てを自分で手配しメキシコに着いたものの、空港には聞いていた事務所からの迎えは現れず、立て替えた経費の払い戻しにも1年近くかかった記憶があります。

 

仕事の内容もしかり。まず自分に何ができるのかを示し、自分の業務範囲を開拓していかなくてはなりませんでした。中南米カリブ海の38カ国を取りまとめる地域事務所は、ナイロビ本部と各国の環境省との中継地点にあたる、いわば要の位置づけです。各国政府や地域・多国間組織などが出す環境白書やデータ出版に技術・資金援助する部の所属になった私は、支援要請を汲み上げ、本部からの予算とのマッチングをし、足りない分は資金集めも行い、プロジェクト実施の間は担当官として技術協力もする、という業務に携わりました。オフィサー・ポストが2つ、ロジのローカルスタッフ・ポストが1つ、あとはコンサルタントという、UNEPでは典型的な規模のセクションでの勤務でした。当時P4だったこのセクションの責任者がとてもやり手だったため、活動資金は潤沢にあり、政府や専門機関からの信頼も厚かったのを覚えています。この“できる”上司のもと、彼以外の同僚は全てスペイン語が母国語という状況で、自分がいかにできないかを日々再確認させられる、マイナスからのスタートでした。

 

JPO期間の初めの3カ月を終了した頃に外務省に提出したレポートを見返してみると、「やっと部門の業務内容が把握できたという気がする」「業務は直属上司のアシスタント的業務がほとんどだ」などと書いてあります。言葉もできず、地の利もなく、“使えない”部下だったであろうことは想像に難くありません。この時の上司とは今でも交流がありますが、気の短い彼にしてはかなり忍耐強く、時々ため息をつきながらも指導してくれたことに、心から感謝しています。

 

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   JPO勤務の時のチームと。忍耐強く指導してくれた上司(右から2番目)には今も感謝している(2003年)

 

 

どんな人でも一人で食事をしているのを見過ごせない―。メキシコ人をはじめ、ラテン系のノリが全開の熱い事務所のおかげで、言葉の方は半年を過ぎた頃にはどうにかなっていました。この時期に一緒に働いていた同僚たちは、地域事務所自体が移転したためパナマに移ったり、ナイロビ本部や他の国連機関に転勤したりで世界中に散らばっていますが、いまだに家族ぐるみの交流が続いています。また、JPO時代にスペイン語で仕事ができるようになったのは大変好都合だったと思います。

 

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                                     ナミブ砂漠でアルゼンチンの乾燥地帯専門家たちと(2006年)

 

 

最初は英語で業務のできるカリブ海の国々のプロジェクトを担当し、その後は徐々に他の案件にも関わり始めます。ただ、プロジェクト・マネージメントの基本を学ぶ機会はほとんどなく、即戦力であることが期待されていました。国連に入る前に務めていたNGOの職員教育のおかげで、一般的に使われているツールやドナー用レポートの書き方など、基礎はその時に学習していました。「持続可能な社会」や「エコリージョン基盤の生物多様性保護の理論・実践」の最先端にいる人たちに揉まれたNGO時代がなかったら、私のJPO時代の肩身はさらに狭かったことでしょう。JPOの2年目が終わる頃には、「環境と健康」という新しい分野において地域事務所全体を束ねる担当者に立候補し、おかげで世界保健機構(WHO)など他の機関との仕事も増えていきました。現在勤務しているアジア太平洋地域事務所でも同じテーマの担当をしているので、無駄な経験など何もないということを、つくづく実感しています。

 

JPO面接で「環境には国境がない」と答えましたが、砂塵、スモッグ、海洋汚染など、1つの国の問題が周辺地域に被害を及ぼす案件を頻繁に担当しています。特に、地球温暖化や有害廃棄物の違法取引などは、地球レベルや多国間での協力があって初めて対処策が見えてきます。でも、実際に環境問題対策の法整備・法遵守を可能にするのは各国政府のみです。直接NGOや企業とプロジェクトを立ち上げるのに比べたら時間はかかるかもしれませんが、中央政府や地方政府自体が環境問題を重要課題として認識しない限り、大きな向上は期待できません。いくら国連がやきもきしても、どうしようもないのです。ラテンアメリカカリブ海地域で合計9年間を過ごしましたが、各国の環境省出身の同僚たち、あるいはキューバ人やブラジル人の上司たちからは、国連加盟国それぞれのニーズに応じた協力を行うことの重要性を叩き込まれました。南米アマゾンの8カ国の政府や有識者と共に環境白書を作った際には、「アマゾン」の定義についての話し合いから始まるなど、中立な専門官兼コーディーネターとしての難しさと醍醐味を同時に味合わせてもらいました。

 

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フロンガス規制のための冷媒分析器の使い方を指導する吉田さん。タイのパタヤで開催したワークショップには、アジア太平洋の25カ国の環境省職員たちが参加した(2010年)

 

 

JPO期間の1年の延長後、11カ月の短期契約を経て、JPO枠で勤務した部署の正規職員ポストに応募しオファーをもらいました。ラテンアメリカカリブ海の出身者ばかりの事務所で、他の地域出身者が空席に応募して採用される可能性は低いのではという意見も聞いていたので、採用はかなり幸運だったというしかありません。その後、UNEP内で赴任地を2度、ポストを2度替わり、今はアジア・太平洋地域事務所で化学品・廃棄物・大気汚染プログラムの取りまとめをしています。

                       

環境が経済や人権などと同レベルで取りざたされるようになってきましたが、開発途上国では最初に経済発展ありきという観念がいまだに根強いですし、それに便乗するセクターも多く存在します。大気汚染や公害など多くの環境問題は、健康被害や水源汚染が起きてしまってからの対処では、国の現在の財源に負担を強いるだけでなく、将来の開発を担う人的資源さえ奪ってしまいます。環境保護は投資であり、リスクヘッジです。そのために資金や人が集まる社会になるよう、これからも微力ながらお手伝いしていければと思っています。

 

 

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   2016年に着任した国連環境計画(UNEP)のエリック・ソルヘイム事務局長とバンコクにて(2016年)

 

 

私にとってJPO期間は国連で仕事をしていくスキルを磨き、適性を見極めるのに必要な時間でした。国連はその名前の通り多くの国の集まりであり、国の上に立つスーパー連合ではありません。ただ、一般企業、NGOで働いた経験から言えることですが、国連機関に対してのみ開く扉があり、その扉の先に環境に優しい開発があると信じています。自然科学や環境工学の専門知識を持った人たちがキャリア構築を考える時に、国連を一つの選択肢に入れてくれればと願っています。

 

 

 

2016年冬季インターンを終えて

インターン

今年の9月から約3ヵ月間、国連広報センターで働いたインターン2名が12月末に卒業しました。今回はその二人にUNICでのインターン経験を振り返ってもらいます。

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            左からインターン卒業生の位下昌平と李ソミン

位下 昌平

日本人インターンとして3ヶ月間UNICで働きました位下昌平です。幼い頃から漠然と国連機関に興味や憧れがありました。「百聞は一見にしかず」そんな想いで、とりあえず国連諸機関でインターンを是非してみたいと思い、学部一年目でも応募資格のある国連広報センターを見つけ、迷わず応募しました。

このインターンでは、国連機関の一部として内側から身をもって経験することが出来ました。広報センターが運営しているはてなブログやFBでの投稿のお手伝いを通し、なにを国連が重要視し、日本の人々に知ってもらいたいのか知ることができました。また、分野を問わず様々なイベントに参加したり、国連職員や外部の方々とお話しする機会に恵まれました。実際に、国連職員の方から話を聞き、どんな人材が国連で求められているのか少し見えてきた気がします。日本記者クラブで一般の記者の方に混じり、国連職員の方の話を聞けたのは新鮮でした。会見のメモを取り、写真を撮影し、UNICのフェイスブックにその様子を投稿する。UNICでのインターンだからこそ、経験することが出来たと思います。さらに、UNICが行っている国連訪問というイベントでは、中学・高校生に国連大学国連の活動に関する説明をしました。必然と国連機関の役割や仕組みを詳しく知ることが出来ました。

一緒に働いた個性的で優秀なインターンの方々と日々生活を共にし、興味のある分野や、将来のことなどを話し合い、人生の後輩として沢山のことを学びました。このインターン3ヶ月間で得た貴重な学びと出会いに感謝いたします。ありがとうございました。

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李 ソミン

今年の9月から3ヶ月間、インターンを行いました李ソミンです。常に、国際情勢に興味を持ち、大学でも総合政策学部を専攻とし、多様な国際開発関連の授業を取ってきましたが、それらの知識が「自分ごと」になっていないと感じ、国際的課題の解決に取り組んでいる現場で実践的に学びたく、インターンに応募しました。

私がインターンをしていた時期は、トランプのアメリカ大統領当選や、母国である韓国の政界スキャンダル、日露首脳会談、国際連合事務総長の大統領選出馬表明など、国内外で、「予想外」の出来事が立て続けに起きた時でもありました。それらのニュースに関して、日々行う新聞クリッピングを通じ、より事件を詳細なおかつ客観的に見れる機会になったことはもちろん、また国連としてはその出来事をどう捉えているのかなど、一緒に働くインターン同士や職員の方々と自由に考えを共有することができ、大変有意義な時間になりました。

また、日常の業務は、かつてやったことない仕事に挑戦できる機会に恵まれました。多様な賞状や色紙のデザイン、インターン募集の管理、写真撮影、電話対応といった多岐にわたる仕事ができる素晴らしい機会を与えてくださった職員の方々に感謝いたします。また、日本語が完璧じゃない私が困らないよう、常に日本語の文章をチェックしてくれたり、細かく気を配ってくれたインターンに皆様、本当にどうも有難うございました。

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祝・日本の国連加盟60周年~写真で綴る記念行事(12月19日) ~

60年前の12月18日、日本は80番目の加盟国として国連に加盟し、国際社会への復帰を果たしました。2016年は国連加盟60周年記念として、多くの記念事業が実施され12月19日(月)、国連大学ウ・タント国際会議場において、外務省及び日本国際連合協会主催で、国連加盟60周年記念行事が開催されました。皇太子殿下の御臨席をはじめ、安倍信三首相などの政治要人や著名人らが出席し、国連と日本にとって重要な節目となる一年の締めくくりに相応しい催しとなりました。

 

第一部

第一部では、岸信夫外務副大臣による開会の辞からはじまり、皇太子殿下のおことば、安倍晋三首相による祝辞、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長、ピーター・トムソン第71回国連総会議長、アントニオ・グテーレス次期国連事務総長それぞれのビデオメッセージと続きました。その後、元国連事務次長の明石康氏による基調講演と有識者による日本と国連の60年の歩みと今後の展望に関するパネル・ディスカッションが行われました。

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岸信夫外務副大臣による開会の辞  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

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 皇太子殿下のおことば  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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皇太子ご夫妻  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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安倍晋三首相による祝辞 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

祝辞の詳細と動画については 平成28年12月19日 国連加盟60周年記念行事 | 平成28年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ をご覧ください。

  

www.youtube.com

潘基文(パン・ギムン)国連事務総長のメッセージ

www.youtube.com

ピーター・トムソン第71回国連総会議長のメッセージ

                                                                                                                                  

www.youtube.com

アントニオ・グテーレス次期国連事務総長のメッセージ

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明石 康 公益財団法人 国際文化会館理事長、元国連事務次長による基調講演 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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 有識者による日本と国連の60年の歩みと今後の展望に関するパネル・ディスカッション。(左から)、モデレーターの根本 かおる 国連広報センター所長、北岡 伸一 国際協力機構(JICA)理事長、大島 賢三 アフリカ協会理事長 広島大学特任補佐、神余 隆博 関西学院副学長  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

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根本かおる国連広報センター所長 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

第二部

 第二部では,親善大使及び国連グローバル・コンパクト関係者によるトークセッション「世界のために私たちが国連を通じてできること」と、高校生/大学生模擬国連優秀者による政策提言プレゼンテーション大会「世界を変えるために-『持続可能な開発目標(SDGs)』への提言」と表彰式が行われ、国連への理解を深める場となりました。

 

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親善大使及び国連グローバル・コンパクト関係者によるトークセッション「世界のために私たちが国連を通じてできること」(左から)、植木 安弘 上智大学総合グローバル学部教授(元国連広報官)、紺野 美沙子 国連開発計画(UNDP)親善大使、知花 くらら 国連WFP日本大使、有馬 利男 国連グローバル・コンパクト ボードメンバー  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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プレゼンを行う紺野 美沙子 国連開発計画(UNDP)親善大使(左)、知花 くらら 国連WFP日本大使(右)  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

       

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高校生/大学生模擬国連優秀者による政策提言プレゼンテーション大会「世界を変えるために-『持続可能な開発目標(SDGs)』への提言」。(左から)中元 憲利さん、西條 友貴さん〔麻布高校2年 全日本高校模擬国連大会優勝組〕、中村 有沙さん 上智大学法学部国際関係法学科2年 第2回模擬国連会議九州サマーセッション2016 最優秀賞受賞、木下 航さん 東京大学教養学部文科一類2年 第16回模擬国連会議関西大会 最優秀大使賞受賞© UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA                                                               

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(左)知花くららさんと、優勝者の木下さん (右)表彰式後の集合写真 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

f:id:UNIC_Tokyo:20161219190324j:plain会場となった国連大学2階では、外務省による「日本と国連の歩み」のパネル展示が行われました。日本の国連加盟から今日までを歴代の総理大臣や国連で活躍してきた日本人職員らの写真と共に振り返ることができます。© UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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国連広報センターからは、今年実施した「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの優秀作品などを紹介 。また、来月NHK総合(1月3日)とNHKWORLD(1月22日)では 「世界のハッピーを探して ~若者たちのフォトコンテスト~」が放送予定です。ぜひご覧ください。

(左から)根本 かおる国連広報センター所長、わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストにご協力いただいた株式会社 ニコン 担当者の 袴田 淑子さんと立木 秀成さん                                                                                                                                          © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

 

国連加盟60周年記念行事サイドイベント 【写真パネル展・動画上映 オープニング・セレモニー】

            -今年は日本の国連加盟60周年-

12月12日、日本の国連加盟60周年を記念する「国連と日本の歩みを紹介する写真パネル展覧会・動画上映会」のオープニングセレモニーが国連大学で開催されました。国連広報センターを含む8つの国連諸機関と外務省の代表が一同に会し、60周年の記念すべき節目を大いに盛り立てました。この写真パネル展覧会・動画上映会(12月12日~22日開催)は、国連加盟60周年記念行事(12月19日)のサイドイベントとして実施されたものです。

 

テープカットは、日本に事務所を構える国連諸機関が一つになって日本政府と日本の人々に感謝を表し、さらには日本と国連との連帯感を多くの方々と共有する機会にもなりました。

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外務省からは、水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官(左から5番目)。国連諸機関からは(左から)、スティーブン・アンダーソン 国連WFP日本事務所代表、国吉 浩 国連工業開発機関東京事務所所長、木村 泰政 UNICEF東京事務所代表、沖 大幹 国連大学上級副学長、根本 かおる 国連広報センター所長、ダーク・ヘベカー 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日代表、田口 晶子 国際労働機関(ILO)駐日事務所代表、ンブリ・チャールズ・ボリコ 国連食糧農業機関(FAO)駐日連絡事務所所長。©UNIC Tokyo

 

その後、外務省の水嶋光一 総合外交政策局審議官と、国連を代表して開催場所となった国連大学より 国連大学上級副学長の沖 大幹が挨拶を行いました。

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                      水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官〔大使〕©UNIC Tokyo

国連に加盟し、国際社会に本格的に復帰したあの1956年から60年。水嶋審議官は、今まで日本が歩んできた長い道のりを感慨深く振り返ると共に、国際的な平和と安全をはじめとする国連の目的に基づいて、日本は今後も重要な役割を果たして行きたい、と述べました。

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               沖 大幹 国連大学上級副学長 ©UNIC Tokyo

次に、開催場の国連大学及び国連諸機関を代表して、今年の10月に国連大学上級副学長に就任した沖教授が挨拶に立ちました。副学長は「唯一日本に本部を置く国連機関として国連大学は、シンクタンクの役割をより一層果たし、日本と世界の両方に貢献していきたい」と述べました。

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写真パネル展覧会・動画上映の開催を記念し、テープカットを行う根本かおる国連広報センター所長 (右から2番目)©UNIC Tokyo

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外務省による「日本と国連の歩み」のパネルコーナー。日本の国連加盟から今日までを歴代の総理大臣や、国連で活躍してきた日本人職員らの写真と共に振り返ることができます。©UNIC Tokyo

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国連諸機関の活動紹介パネルも設けてあり、国連広報センターからは、今年実施した「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの優秀作品などを紹介 。また、来月NHK総合(1月3日)とNHK WORLD(1月22日)で放送予定の番組 「世界のハッピーを探して ~若者たちのフォトコンテスト~」の宣伝チラシにも、多くの方の関心が寄せられていました。©UNIC Tokyo

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                   学生フォトコンテストの優秀作品とSDGsについて説明をするインターン ©UNIC Tokyo

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 イベントの最後には、外務省と国連の職員らで、SDGs達成に向けた連携を確認しました。©UNIC Tokyo

 

映画『母と暮らせば』を通じて、長崎から平和について考える

国連広報センター所長の根本です。日本の国連加盟60周年の今年は、いつにも増して国連と日本の歩みの「これまで」と「これから」について思いをめぐらせています。

 

国連総会が1946年に採択した第1号決議は、広島・長崎への原爆投下によってもたらされた惨禍を受けて、原爆を含む大量破壊兵器の廃絶を目指すものでした。以来、核軍縮国連の重要課題であり続け、日本は1956年の国連加盟以降、3人もの軍縮担当の国連事務次長を輩出し、国連軍縮会議を1989年からほぼ毎年日本でホストし、今回で26回、長崎での開催は3回目となります。

 

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長崎原爆資料館に足を運ぶ海外からの国連軍縮会議参加者。長崎で実際に起きた被爆の惨状を肌で感じる。(外務省提供)

 

今年の国連軍縮会議は、核兵器禁止条約の交渉と2020年のNPT再検討会議にむけたプロセスが来年から始まるのを前に12月12日から長崎で開催されました。11日にはそのプレイベントとしてユースをまじえたスペシャルなイベントがあり、私も出席しました。

 

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         日米露のユース非核特使による声明と提言(外務省提供)

 

日米露のユース非核特使による提言の発表と活動報告、さらには長崎の原爆投下で一つ一つの家族にどんな悲しみが生まれてしまったかを描いた映画『母と暮らせば』の上映という盛りだくさんのプログラムで、上映のあとには、本作を監督した山田洋次さん、主演の吉永小百合さん、日米のユース代表、映画のストーリーを形作る上で自身の証言を提供した土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表という、世代と国境を越えた豪華な顔ぶれでのパネルディスカッションを行い、その進行役を務めました。会場となった長崎大学では、原爆投下で900人近い学生や職員が亡くなっています。

 

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パネルディスカッションの様子(左から根本かおる国連広報センター所長、山田洋次監督、女優吉永小百合、土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表国連アジア太平洋平和軍縮センター(UNRCPD)提供

 

1945年8月9日午前11時2分、主人公の長崎医科大学に通う福原浩二(二宮和也)は長崎の原爆で跡形もなく被爆死。それから3年後、その助産婦を営む母・伸子(吉永小百合)のもとに原爆で被爆死したはずの浩二が亡霊となって現れる…というストーリーです。丁度一年前、原爆投下から70年の昨年12月12日に封切りになった『母と暮らせば』。東京で見ていましたが、舞台となった長崎で観賞し、ひときわ胸に迫るものがありました。

 

パネルディスカッションでは、まずユースから感想を語ってもらいました。登壇した長崎大学の河野さん(ユース非核特使経験者)は「息子の浩二が長崎大学で夢を追いかけるために勉強しいてるのが自分と同じ立場、その中で家族が支えてくれて愛する人がいる。71年前も今も同じ世界で生きていたと感じました。その世界が、1つの核兵器によって一瞬でなくしたことは、核兵器はいかに愚かなものかと感じました。モンゴル、中国、韓国を訪問して若者に非核を伝えてきました」、アメリカのキンバリーさん(ユース非核特使)は「間違った兵器を正しく使える、ということはありません。非人道性、核兵器廃絶は大きいテーマだけど、1人1人の問題とするとシンプルに感じました」と振り返りました。

 

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   長崎大学の河野さん(右)とアメリカのキンバリーさん(左)が映画の感想を述べる(外務省提供)

 

これを受けて、山田監督は「長崎大学の学生の浩二が死んでしまった話ですが、こういう悲劇が第2次大戦中、何百万どころでない犠牲者1人ひとりにあったのだと想像してもらいたかったからです」と映画制作の動機を語りました。さらに、「愛する人と暮らして子供を作るということが、ついえてしまった。それは世界中の人にとって共通の悲劇です。僕ら戦争を経験した世代は、それを伝えていくのが責務だと思います」と自らの気持ちを強調しました。

 

国内外で原爆詩の朗読を行っている吉永さんは、「核兵器を廃絶するため、もっと声を出して世界に向かってアピールしなくてはいけないと撮影中に感じていました。海外での朗読詩の活動は、これまでオックスフォードやシアトルでもやったことがあり、今年5月にバンクーバーでも行いました。そこで彼らが本気で考えてくれていることが伝わり、胸が熱くなりました」と思いを語るとともに、核兵器の廃絶にむけた動きに関係国の間に大きな溝があることについて「核の廃絶に意見が一致しないのが悲しいが、あきらめないで声をだして、核のない世界にしようと言い続ければ、きっと実現すると願っています。小さな力だけど行動したいです」とも述べました。

 

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  山田監督(左)と主演の吉永小百合(右)が本作と核兵器廃絶に対する思いを語る(外務省提供)

 

外務省の武井政務官は「戦後70年、伝えることができにくくなっています。語り部が10年後どうなっているかと思うと映画に残してもらえてありがたいですし、伝えていかねばなりません。こういう時だから日本から唯一の被爆国として世界に訴える重要性を考えています」、キム国連軍縮担当上級代表は「若い世代が核兵器を作ったのではありません。核兵器は古い世代により作られたもので、若い世代にこそ廃絶にむけたリーダーシップをとってほしい。我々は核兵器を廃絶させる責務を負っています。そこに行き着く道筋が難しいですが、来年から新たな交渉をします。多くのプロセスがありますが、各国と話し、理解し敬意を払い目標に向かいたい。誰でも、どの国でも話し合いで解決しないことはないと思います」と述べました。当時長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の学生だった土山元学長は、「核兵器廃絶には理論と感性の両方が大切で、理論が難しくなったときには、感性に訴えるということが有効で、見終わってしみじみと原爆の非人間性、戦争の不条理を考えさせられました」と語りました。

 

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  武井政務官(左)とキム国連軍縮担当上級代表(右)が映画を受けて感想を述べる(外務省提供)

 

締めくくりには、吉永さん、山田監督からそれぞれ「若者のつながりについても心強い。白熱して話し合って、世界の若者が心つないで、1日も早く核廃絶がきてほしいです。ぜひお願いします!」「「絶望するのは簡単。若者が情熱的に議論したと聞いて、希望を抱きます。ぜひがんばって」と若者へのエールが送られました。

パネルディスカッションという場を通じて世代を越えてバトンが渡される瞬間に立ち会えた - 司会をしながらそう手ごたえを感じました!

 

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         ユース代表とパネルディスカッション登壇者による写真撮影(外務省提供)

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イベント後、興奮さめやらぬ中、キム国連軍縮担当上級代表(左)と山田監督(中央)と写真を撮る根本かおる所長(右)(外務省提供)

 

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (7)

【連載中】<日本人元職員が語る国連の舞台裏>

黒田順子(くろだ みちこ)さん

 

国連の本部と現場の狭間で、結果を出すために奔走した日々-

 

第7回は、国連機関で30年に及ぶ勤務経験を持つ黒田順子さんです。東ティモール国連平和維持および平和構築活動に官房長(Chief of Staff)として携わった経験を中心にご紹介します。国連の調停者(メディエーター)の資格を有する黒田さんは、その知識を応用することにより紛争予防にも貢献するなど、東ティモールの平和づくりに尽力されました。現在は、米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員として紛争解決、国際交渉、国際安全保障の授業を担当し、若い世代にご自身の培われた経験を精力的に伝えていらっしゃいます。  

 

                第7回:  国連平和維持および平和構築活動 元官房長 黒田順子さん

           f:id:UNIC_Tokyo:20101217172510j:plain

【1974年、津田塾大学国際関係学科卒業。1978年、ベルギーのカソリックルーバン大学で修士を取得。ジョージタウン大学大学院とジュネーブの高等問題国際研究所に留学し、1980年に筑波大学大学院で修士号を取得。ジュネーブの国際労働機関(ILO)、国連欧州本部を経て、ニューヨークの国連本部事務局に転勤。マネージメント・アナリスト、評価、監査の仕事を経て、PKO局に移動。国連平和維持活動に関する業務、オンブズマン室で職場の紛争管理の仕事を歴任。2004-2006年、国連東ティモール平和維持及び平和構築活動(UNMISET/UNOTIL/UNMIT)で官房長として勤務。2007年より国連本部に戻り、能力開発プログラム(Capacity Development Programme)の特別シニア・コーディネーター。2010年からはコンサルタントとして国連に勤務。2011年から米ニューヨークのマーシー大学で客員教授及び研究員を務め、現在に至る。2016年から、国連のエグゼクティブ・コーチとしても活躍】

 

国連職員になるきっかけ

 

中学、高校生の頃、日本はなぜ第二次世界大戦に参加したのだろうかということに疑問を感じていました。やがて社会科の授業で国際連合のことを知り、国連憲章や人権宣言を学んだ際には、世界にはこのようなこともあるのかと感動しました。もともと将来は医者になりたかったのですが、父親に説得されて断念し、大学では国際関係学科に進みました。そんなわけで大学時代は反抗期で、あまり熱心な学生ではありませんでした。それでも国際法だけはとても面白いと思い、勉強しました。卒論を書くために国連総会の決議文を探す必要があり、図書館で見つけた時には、身体が震えるほど興奮したのを覚えています。そして、いつかは国連で働きたいと考えるようになりました。卒業後は米国企業に就職したものの、仕事内容には満足していませんでした。

 

そんなある時、国連での勤務経験を持つ大学教授にこう言われました。「国連で働きたいのなら、修士を取りなさい」。私は奮起し、偶然にも新設大学院での募集を見つけて応募したところ、入学が叶ったのです。大学院時代には奨学金を得て、ベルギーや米国、スイスへの留学も果たしました。一心で勉強し、外務省のアソシエート・エキスパートの試験に合格したのは29歳の時でした。ジュネーブの国際労働機関(ILO)での勤務を皮切りに、私の国連でのキャリアが始まったのです。その後、ジュネーブ国連欧州本部に移り、ニューヨークの国連本部に転勤となりました。PKO活動の現場で勤務した約2年も含め、およそ30年にわたって国連機関に勤務しました。

 

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          ニューヨーク転勤後、国連本部の前で、家族と共に(1992年)

 

ニューヨーク国連本部での勤務 ― 政策決定に参加する醍醐味を知る

 

最も印象に残っている仕事は、国連の平和維持及び平和構築業務に、本部と現場の双方で携わったことです。2001年から2003年まではニューヨークのPKO局で、PKO業務を強化する仕事に関わりました。冷戦時代に安全保障理事会が麻痺していたことの反動から、当時はPKOに関する決議が急に乱発されるようになっていました。事務局側には経験や能力が十分に備わっていなかったため、コフィー・アナン事務総長(当時)が国連平和活動の再検討を行うために独立パネルを設置し、PKO業務の強化のための勧告を発表したのです。これが2000年に発表された「ブラヒミ報告書」です。PKO局はこれを受けて、強化策を講ずるべく、企画と実行の準備をしていました。

 

そうした背景の中で、私はPKO局のマイケル・シーハン事務次長補に認められ、直属の部下になりました。シーハン氏は米国の元軍事人で、ホワイトハウス勤務経験のある大使級の外交官で、大変なやり手でした。私がマネージメント分析や戦略展開などのアイデアを提案すると、即座に取り入れてくれました。特に印象に残っているは、PKO特別委員会(C-34)で構成国を相手に、速攻展開能力(Rapid Deployment Capacity)を強化するための対策を提案し、説得する任務を任された時のことです。当時、C-34では委員会のメンバーを相手にプレゼンをすることなどなかったので、この試みは歓迎され、その結果、構成国とPKO局との関係が改善されて各国政府のサポートを得ることができました。総会が国連事務局の提案を受けて1.4億ドル相当のプロジェクトを許可したのは、当時としては異例でした。実はその頃、私は自動車事故で足を骨折していたため、C-34の会合には車椅子で参加したこともありました。そうした状況も影響したのかわかりませんが、国連の政府間交渉の面白さと重要さを、しみじみと噛みしめた次第です。

 

東ティモールPKOミッション ― 本部と現場の狭間で

 

一度は現場で働きたいと考えていたところ、東ティモールの平和維持活動と平和構築活動を担当するミッションで官房長(Chief of Staff)のポストに就くことになりました(2004-2006年)。同国での平和維持活動は、その任務内容の変遷によって、国連東ティモール支援団(UNMISET)、国連東ティモール事務所(UNOTIL)、国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)へと変わり、UNMITは2012年12月末にその任務を終了しています。

 

私が官房長に就いた当時、日本の長谷川祐弘氏が東ティモールを担当する国連事務総長特別代表を務め、アトゥール・カレ氏が代行でした。カレ氏は現在、国連のフィールド支援担当事務次長(フィールド支援局長)です。こうした方々の下で勤務できたことは幸運で、PKOオペレーションに関する多くのことを学びました。東ティモールでの勤務は私の30年の国連のキャリアで最も興味深く、かけがえのない経験です。自分の力を全て出し尽くしたと言えると思います。

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東ティモール国連事務総長特別代表代行を務め、現在はフィールド支援局を率いるアトゥール・カレ事務次長と共に(2005年)

 

官房長時代の2006年4月、東ティモールで紛争が再発しました。治安も政治も不安定な中、軍事部門の提出した陳情書を政府がまともに取り扱わなかったことから不満が浮上し、エスカレートしました。デモ隊行進に発展し、首都ディリで暴動が起こりました。東部対西部の紛争により、家の焼き討ちなどへ拡大し、15万人の避難民と30数名の犠牲者も出ました。このような経験は、私にとって初めででしたが、官房長としては船が沈んでも現場にいる意気込みで構えていました。そんな中、デモ隊の指導的立場にあった将校から、政府側とのメディエーション(Mediation、仲介)を行ってほしいと要請されました。メディエーター(Mediator)の資格を取っていた私は、こうした機会が訪れることを願っていました。ところが仲介予定の当日、本部のPKO局から「応じるべきでない」と携帯電話を通じて言われました。国連憲章の第33条にその可能性が示されているはずですが、PKO局の指令は絶対です。現場では広義のMediation が実際には行われていたものの、PKO局はMediationの必要性についての認識がなかったのでしょう。私は大変に悔しい思いをしました。

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            東ティモールで。遠隔地への視察はヘリコプターを使って

 

当時の東ティモール政府はオーストラリア政府に軍を派遣してもらい、治安問題は一件落着したかに見えました。しかし、紛争の原因を解決したわけではないので、不安は残りました。同年夏に長谷川特別代表は帰国され、多くのPKO要員も徐々に去って行きました。その後、特別代表代行としてUNMITを主導したフィン・リースケン氏は官房長である私を信頼して下さり、文字通り二人三脚で当時の状況を乗り切ったと言えます。2006年4月の紛争再発は5月には襲撃事件へとエスカレートし、東ティモールの警察官や国連の要員に死傷者も出ました。この件に関して、東ティモール政府は国連に特別調査を依頼し、10月2日にそれが発表されることになっていました。私は調査結果に名前を挙げられた兵士たちが反発して襲撃を始め、紛争が再び勃発するのではないかという早期警報と危機感がよぎりました。このことを特別代行に伝えると、「確かにそうだ。予防措置を取ろう」ということになり、残った職員と協力しながら紛争要因の分析をし、早期警報シナリオを作りました。そのうちに、やはり対話が必要だということで、政府の高官や主要機関、そして軍事、警察部門へと代行と共に連日出向いて回り、対話を試みました。その結果、最も良い方法は当時のグスマン大統領が他の指導者と一緒になり、国民の前に出て話をすることだろうということになりました。カトリック教徒が90%以上の国なので神父の承諾と協力も得て、ディリにあるすべての教会にポスターを貼ってもらうことにも同意してもらえました。

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     グスマン大統領と共に。東ティモール政府とUNMITSETのサッカー対抗試合で(2004年)

 

こうしたプロセスは、国連事務総長やその代表に与えられた権限の一環である「斡旋(good offices)」です。多くのグループと対話をしたことで、一般市民の参加を進め、包括性(inclusiveness)が確保できたと思います。グスマン大統領が国民の前に出て話をすることに関しては氏の承諾を得ることが必要でしたが、なかなか承諾が下りず、こちらも辛抱強く粘りました。最終的には「OK」と言ってくださり、国連のミッションはこれを支援するという合意を取りつけることができました。後日、大統領は他の4人の指導者と一体になって、国民にテレビでメッセージを送ったのです。「東ティモール人は平和愛好者である。今回、国連からの報告書が発表されても、すぐに反応してはいけない。事実を受け止めよう。必要なことは、法の支配にのっとり、我々自身で措置をとるのだ」と。今でも、当時の大統領の姿が思い起こされます。その結果が講じて、報告書が発表された際に、武器を取る者は誰一人としていませんでした。早期警報と勘に基づいて早期対応したことは正解だったと思い、とても嬉しかったことを覚えています。この時ばかりはPKO本部も私たちの仕事を評価してくれました。現地の平和にとって重要なことをすれば、納得してくれるのだと私は確信しました。

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     2006年5月の危機後、IDPキャンプに避難した東ティモールの子どもたちとの対話から

 

これからの人生設計

 

私は、働くために生まれてきたと考えています。命のある限り、社会に貢献し続けるつもりです。現在、米ニューヨークのマーシー大学で教鞭を取っています。目を輝かしながら私の講義を聞いてくれる学生を指導し 、エンパワーすることは喜びです。同時に、国連でも時々コンサルタントとして勤務しています。政治局のMediatorとして、そして国連開発計画(UNDP)の平和構築アドバイザーとしてスタンバイしています。今後は原稿や論文を書いて、国連に関することを発信できたらと考えています。最近、ライフコーチの訓練を受け、国際コーチ連盟から認定されました。実は、このブログを書いている最中に国連から連絡があり、国連のエグゼクティブ・コーチになりました。国連の指導者を相手にコーチングをすることは、国連の仕事に携わることになり、光栄であり、生き甲斐です。

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   模擬国連ニューヨーク大会後の国連での表彰式。マーシー大学は見事入賞を果たした(2015年)

 

日本の若者、特に国連職員を目指す若者に対して期待すること

 

まず、自分が何をやりたいのかを見つけて下さい。心から湧き立つほどやりたいことを見つけて下さい。すると必ず、道が開かれます。自分の人生は、自分で決めることです。そうすれば、絶対に悔いのない人生が送れます。国連は完璧ではありませんし、全員が必ずしも平等ではありません。でも、それが自分のやりたいことであるなら、生きがいと喜びを見出せます。日本人には、独特の資質や能力があります。私たちは勤勉さ、誠実さや、信頼、さらには人の意見を聴く姿勢と能力、そしてそれを深く読み取る能力などに長けています。国連は他の文化や国から来た人々と顔をつき合わせて国際的な仕事ができ、世界が見えてきます。やる気があり、集中すれば大丈夫。ぜひまい進することをお勧めします。

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(10)

【連載中】<日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」>

第10回 国連の障害者権利委員会のメンバー、石川准さん

~障害者が「楽しい!」と感じられるような研究を柱に~

 

世界人口は約74億人、そのうち約15%の10億人が何らかの障害を持っていると言われています。日本では、約7%の方が何らかの障害を有しています。そのような障害を持つ人々の社会参加や就業の推進のために、日本社会にはまだまだやるべきことが多いように感じられますが、2020年に開催される東京オリンピックパラリンピックを控え、一般の人々の間に障害者、および、共生社会の構築についての意識が徐々にではありますが高まっています。このような中、国連の障害者権利委員会の委員に今年選出された石川准先生にお話を伺う機会をいただきました。

 

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石川 准 (いしかわ じゅん)

<略歴>

【富山出身。16歳のとき網膜剥離により失明。全盲受験で初の東大合格を果たし、同大学にて社会学博士課程単位取得退学。社会学博士。現在、静岡県立大学 国際関係学部教授、東京大学先端科学技術研究センター特任教授。社会学ではアイデンティティ・ポリティックス論、障害学、感情社会学を専門とする。支援工学分野では、日本語英語自動点訳プログラム、スクリーンリーダー、点字携帯情報端末GPS歩行支援システム等の開発をしてきた。2012年より内閣府障害者政策委員会 委員長、2017年1月より、国連の障害者権利委員会の委員も務める。】

 

  1. 国際社会のなかの日本 

 

Q. まずはこの度、国連の障害者権利委員へのご就任おめでとうございます。日本として、権利委員会に日本人がメンバーとしていることは心強いことですね。

 

A. そうですね。政府にとっても障害者団体にとっても、悪いことではないと思います。委員は中立な立場でいるべきなので、直接日本のために何かができるということにはなりません。日本の政策について他の委員に理解していただくという点では、微力ですが、日本人の存在があると良いと思います。

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2014年 ニューヨークの国連本部で開催された締結国会議でのスピーチの様子

 

Q. 障害者の権利における国連の役割、または日本の役割についてお聞かせ下さい。

 

A. 人権は国連の活動の3本柱の1つと言えます。戦後さまざまな分野で人権に関する国際的な基準を作ってきたので、障害者権利条約が出来たことのインパクトは計り知れません。日本を含む先進国だけではなく途上国も、障害者権利条約という1つの枠組みに基づいて障害者政策を実施していくという、普遍的な考え方を確立できたと思います。国ごとに経済的、政治的、社会文化的な状況が違うので、障害者権利委員会による総括所見において、現状を踏まえた実効性のある、建設的な所見をだしていくことが期待されています。

 

Q. 他の先進国と比べた日本の現状と課題について、どのようにお考えですか?

 

A. 第一回の日本の政府報告は、今年の6月末に国連に提出されています。障害者政策委員会は国内監視機関としてその政府報告の中に監視機関の意見を入れさせていただきましたが、特に、精神障害者の地域移行が他国に比べてかなり立ち遅れていると思います。病院に長期入院されている方々がかなり沢山います。また、自己決定を支援する仕組みが弱いです。

 

例えば、日本では、知的障害の方々に対して成年後見制度が広く活用されています。誰かが本人の利益を守るために代理で決める、という制度です。後見人という仕組みによって、利益を脅かされる可能性が高い方々を守っていこうとしてきました。しかし、きちんと支援すれば自分で決められる方々に対しても、過剰にこの仕組みが使われてしまうと、本人は置き去りになったまま誰かが代わりに決定してしまういわゆる「パターナリズム的」支援になる傾向があります。

 

Q. 日本が模範とすべきような国はありますか?

 

A. 知的障害の方々に対する成年後見制度に関しては、条約が求めているレベルに達している国はほとんどないほど難しい問題です。どの国にとってもチャレンジです。また、精神障害者の地域移行に関しては、OECD諸国の中で日本ほど遅れている国はほとんどないと思います。40~50年前はどの国においても多くの精神障害者は施設にいたのですが、今では地域移行が進んでいます。そもそも長期入院の背景には、地域で暮らしていくための支援が不十分なため、行き場を失って入院が長期化している、ということがあります。日本ではこのことを社会的入院と呼んでいます。

 

2.  自らの存在意義を追求しながら、人生を楽しむ

 

Q. 石川先生は社会学者でありながら、プログラマーでいらっしゃいますよね。お手元にある端末はなんですか?こちらもご自身が開発されたのですか?

 

A. 点字携帯端末ですね。ブレイルセンスと言います。ブレイルは点字なので、「点字の感覚」という意味です。このハードウェアは韓国製ですが、入っているソフトウエアのかなりの部分を私が開発しました。

 

色んなことができるんですよ。音も出ますし、点字でも表示してくれます。Wi-Fiブルートゥースにも繋げますので、電子メールにもフェイスブック等にも対応できます。国連の障害者権利委員における選挙活動でもこれでプレゼンテーションをしましたし、議長をしている政策委員会でも、これでメモを取りながら委員の皆さんの議論を調整しています。

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ブレイルセンスU2。上半分は点字キーボードで、点字の6点入力ができる。下半分の黒い帯状の部分は点字ディスプレイで、白いピンが浮き上がって点字を表示する。ワードプロセッサー、電卓、予定帳、アドレス帳、コンパス、FMラジオ、音楽再生、録音などパソコンのように多彩な機能を搭載している。インターネットに接続し、電子メール送受信、SNS、チャットなども使うことができる。(詳細は 有限会社エクストラ ブレイルセンスU2日本語版の製品ページ >> ブレイルセンスU2日本語版)

 

Q. これは誰もが簡単に使えるようなものなのでしょうか?

 

A. ある程度習熟までに時間はかかります。利用者を支えるサポーターが全国にいて欲しいのだけども、なかなか難しくて。例えばパソコンですと、パソコンボランティアとして健常者のひとたちが色々サポートしてくれるんですね。でもこの端末は、そもそもこの端末を使える人じゃないとサポートできないので、健常者のサポーターを募るのはなかなか難しいです。普段自分が使ってないものを人に教えるのは困難ですからね。現状は、自分で説明書を読めば使いこなせるような一部の人たちと、販売会社のユーザーサポートに頼っています。

 

視覚障害であれば画面を音声で読み上げるソフトウェアをパソコンに入れておけば自動音声読み上げにより操作することができますが、盲ろう者の場合はやはり点字で読み書きする機器がないとコミュニケーションが取れないのでより切実です。盲ろう者協会も、熱心に支援していますが、自分には無理だと途中で諦めてしまう人も多くいます。そこをなんとかしなければいけない、と思っています。今回のインタビューに一緒に来てくれた永井(石川研究室のスタッフ)も、盲ろう者にブレイルセンスを教える活動のお手伝いをしています。

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インタビュー中の石川先生(UNIC Tokyo)

Q. 人と人が繋がり、巻き込んでいくことで、可能性の幅が広がるのですね。

ところで石川先生は、初の点字受験東大合格者ということですが、どうやって乗り越えられたのですか?

 

A. 元々弱視でしたが、高校生の時に見えなくなりました。2年弱入院した後、通常の学校から盲学校の高等部に転校し、3年間通いました。そこで初めて点字を習い、白杖(はくじょう)をついて歩くスキルは同級生に教えてもらいました。また大学受験の際には母親が参考書や問題書を片端から録音してくれたので、それを聞いて勉強しました。

 

3.  挑戦し続ける

 

Q. 先生の最近の研究の中心はどういったものがありますか?

 

A. 最近のコンセプトは「楽しい支援工学」です。今までは役に立つ支援工学、つまり教育や就労にとって“どうしても必要な支援機器”の研究や開発をやってきたのですが、今は、障害を持った人々が「楽しい!」と感じられるような研究を一つの柱にしています。もう一つは、障害者政策に関わるような研究、例えばアクセシビリティーに関する研究などが多いです。といっても実際は研究よりも実務系の仕事に追われています。(笑)

 

Q. アクセシビリティーについての研究とは、具体的にはどういったものですか?

 

A. ひとつはGPSの研究です。これは10年くらい手掛けています。最近は視覚障害者の移動支援の研究の一環で、拡張現実巨人将棋(AR巨人将棋)というイベント型の実証実験を行いました。広いフロアを大きな将棋盤に見立てて、視覚障害の方に歩いてもらいます。駒を発見したら詰め将棋の問題を頭の中にいれて解く、というゲームです。

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写真(左):予行演習の様子

写真(中央):プレイヤーが将棋盤のマスを踏んで駒を発見すると、システムが「1四 攻め方 香車」のように読み上げ、位置情報とそこにある駒の情報がわかる。
画面上では、キラキラと光りながらCGの駒が出現する。

写真(右):詰将棋に正解すると、画面に巨人の手が出てきて駒を動かす。

(石川先生HPより >>石川 准 ウェブサイト | アクセシビリティは高い技術と正しい思想により実現する)

 

Q. 反響はどうでしたか?

 

A. みなさんすごく喜んでやってくださいました。歩きながらランドマークの情報を聞き、そして自分の頭に地図を作る、というのは視覚障害者にとってとても難しい。このことが如何に大変なことか、という実証実験でした。

 

Q. 今後先生が挑戦してみたいと思う分野はありますか。

 

A. ディープラーニング(深層学習)です。人間よりも強いコンピューター将棋ソフトや囲碁ソフトが開発されているように、今までコンピューターは人間には勝てないと思われていましたが、プロよりもコンピューターの方が良い結果を出せるようになってきました。今後は、ディープラーニングの先端的な研究成果を支援工学に応用できればと願っています。

 

Q. 研究において、ご自身で常に心がけていらっしゃることはありますか?

 

A. 支援工学と言うのは元々不完全なもの、不正確だという側面があります。つまり100点は目指さないで、99点を目指していく。GPSを使った視覚障害者の移動支援についても、GPSは常に正確な位置情報を出せるわけではなく、例えば東京の渋谷近辺 のように高層ビルが多くある場所だと、相当誤差が出てきます。「そんな危ないもの使えない」という人には勧めることはできません。それを十分理解して上手く使える人向きなのです。それ以上どうにかして下さい、と言われてもどうしようもなく、「それはそのようなもの」と割り切る必要があります。

 

そもそも視覚障害者が一人で歩くことは、極めて困難なことですし、初めての場所を歩行すること自体が無謀です。なので、現時点で可能な限り十分な支援をする。特定の場所や実証実験で上手くいったとしても、どこでも実現可能になる訳ではありません。そういう意味で、私がやってきた支援工学系の開発は不完全なものばかりだと言えるでしょう。しかし、その不完全さについて「だからダメ」と言ってしまうのは簡単ですが、それが全く無い時と比べれば答えは明らかでしょう。

 

4. 不完全さを受け入れ、受け入れてもらう。100点は目指さない

 

Q. 2016年の4月に障害者差別解消法が施行され、障害者雇用促進法が改定されました。これらについて、どのような期待をお持ちですか?

 

A. 障害者差別解消法では2つのことを禁止しています。ひとつは、障害を理由とした不等な差別的な取り扱いを禁止しています。もうひとつは、過度な負担でない場合に合理的配慮を提供することを公的機関は義務、民間事業者は努力義務を負う、ということです。つまり、「合理的配慮」の不提供を禁止しています。

 

例えば、学校や職場において、聴覚に障害がある人ですと何かしらの代替的手段 ― 手話通訳やパソコン要約筆記がなければ授業が理解できません。そういった支援の提供を求められたときに、過度な負担ではないのに学校側が提供しない、というのが禁止されるということです。障害のある人は門前払い、などもかつてはありました。けれども、それは障害者差別解消法においては不当な差別的取扱いとして禁止されます。その上で、それぞれの障害に応じた合理的配慮の提供が義務として、あるいは努力義務として求められるようになりました。

 

Q. 社会が皆で支えあっていくという「合理的配慮」が、社会に浸透していくといいですね。

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 ブレイルセンスでメールをチェックする石川先生(UNIC Tokyo)

A.  「合理的配慮」への理解が広がるよう努めていきたいと思います。障害者雇用促進法の改定でも、ほぼ同様の内容が盛り込まれ、就労に必要な合理的配慮が求められます。例えば視覚障害の人が使えるコンピューターの提供であるとか、人的サポートなどが合理的配慮にあたります。事業者単独では限界があるので、国のアクセシビリティー政策が重要です。

 

今までは合理的配慮をしないことは不当なことではなかった。今まで自発的な善意だと思われていたことが、社会的には義務と見なされるので、事業者の立場からすると戸惑いもあるでしょう。しかし、建設的対話を通してどこまでが「合理的配慮」なのかという社会的合意は徐々に熟していくものだと思います。なお個人と個人の間の気遣いや配慮、善意は障害者差別解消法の施行前後で何か変わるということはありません。気遣いは気遣い、配慮は配慮、善意は善意です。

 

Q. 最後になりましたが、日本の若者に、期待も込めてメッセージをいただけますか?

A. リスク・テイク-危険を承知で取り組むこと-をした方がいいと思います。どうしようかな、と迷ったときはまずはやってみる。しかし、あれもこれも、とならないように。一度にできることは限られているので、目の前にあることから一つずつ、一歩ずつ、進めていくことが大切です。

 


あと、100点を目指さないことですね。完璧でなくてもいい。90点のものを95点のものにしようと思うと倍の努力が必要になりますし、さらにその95点を98点までにしようとするとまた倍の努力が必要で、指数関数的に増えていきます。100点にしたければ仕事を限定する必要があります。多くのことをこなすにはある程度、一つひとつは不完全さを受け入れ、相手方にも受け入れてもらうことが大切なのです。

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インタビュー後の記念撮影(左からインターンの秋本、城口、

石川研究室の永井さん、石川先生、UNIC妹尾広報官)