読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(13)

           第13回 法務省 萩本修 人権擁護局長 

        ~違いは個性、多様性から生まれる豊かさを尊ぶ~

 

今日、日本を訪れる外国人の数が増える傾向にあるなか、2020年の東京オリンピックパラリンピックを契機にさらにその数は増加するだろうと言われています。言語、文化、宗教、習慣等の違いに起因する人権問題は日本でも起きており、法務省を含む政府全体で外国人に対する偏見や差別をなくし、多様性を受け入れる社会に転換する取り組みが行われています。今回は、国連が実施するTOGETHERキャンペーン(難民や移民の排斥・排除の風潮が世界的に高まるなか、多様性に満ちた包摂的な社会に向けた価値観を育むための国連主導の試み)にも参加されている法務省の萩本修 (はぎもと・おさむ)人権擁護局長から、3月21日の国際人種差別撤廃デーを前にお話を伺うことができました。

(聞き手:国連広報センター所長 根本かおる)

            

         f:id:UNIC_Tokyo:20170316110122p:plain       

            萩本 修 (はぎもと・おさむ) 人権擁護局長

【1986年に早稲田大学法学部を卒業後、司法修習生(40期)を経て、1988年に判事補に任官。その後、東京地裁那覇地・家裁に勤務し、1994年から法務省民事局付。1998年から甲府地・家裁判事に着任。東京高裁勤務を経て、2005年に法務省民事局参事官に任官。その後、大臣官房参事官、民事局民事法制管理官、大臣官房審議官(民事局担当)を経て、2014年には法務省大臣官房司法法制部長に就任。2016年8月から現職。】

 

マスコットキャラクターを通した人権啓発

 

根本:3月21日の国際人種差別撤廃デーに向けて、萩本人権擁護局長から様々なお話を伺えればと思います。近頃、「人 KEN まもる君」と「人 KEN あゆみちゃん」マスコットキャラクターをいろいろな場所で見かけてとても嬉しく思うのですが、どのような思いを込めたマスコットなのでしょうか?

 

萩本:アンパンマンで有名なやなせ たかし先生にご協力頂き、まもる君とあゆみちゃんが誕生しました。全国各地で人権啓発のイベントをする際に、子どもたちの関心を惹きつけることができ、多くの方から好評を頂いています。髪形が漢字の「人」の文字を表していて、下のKENとあわせて「人権」を意味しているんですよ。

 

根本:ほんとうですね。最近は吉本興業とのコラボレーションもしていらして、楽しげなイベントにまもるくんとあゆみちゃんが登場する機会も多いように感じます。

 

萩本:人権と言うと、どうしても学校の社会科で勉強する憲法の中の小難しいコンセプトだと思われがちです。そのようなイメージを払拭して、国民の皆さんにもっと身近な「自分事」として人権を捉えて頂くよう努めています。

 

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20170316110315p:plain

         インタビューでの萩本局長。人 KEN まもる君(右)、人 KEN あゆみちゃんと(左)と  ©UNIC Tokyo

 

根本:いろいろな社会課題に対して敷居を低くして自分事として考えていただく働きかけは大切ですね。今回は外国人の人権、難民移民を取り巻く状況などについてお話を伺えればと思うのですが、外国人の人権問題としてはどのような事例がありますか?

 

萩本:外国人というだけで人種・言葉・文化や習慣の違いから差別を受けるという事例があります。例えば、銭湯で入浴を拒否されたり、理髪店で入店拒否されたり、アパートを借りる際に外国人は断られてしまうケースが未だにあります。震災などが起きたときに、外国人が悪さをしたというデマが広まるということもありました。昨年熊本で起きた地震のときも実際にそのような報道が一部でありました。いわゆるヘイトスピーチも事例のひとつです。このように、外国人を巡る様々な人権問題が日本では起きているという状況が残念ながらあります。

 

隙間からこぼれおちてしまう人権課題がないように

 

根本:外国人の子どもに対するいじめも問題になっていますね。

 

萩本:外国人というだけでいじめの原因になったり、仲間はずれにされてしまったり、ということが子どもたちのコミュニティーでも問題になっています。

 

        f:id:UNIC_Tokyo:20170316110605j:plain

          イメージキャラクターを使った法務省による外国人の人権啓発活動 ©UNIC Tokyo

 

根本:私自身、子ども時代も含めて外国に暮らす経験をしてきて、言葉や文化、慣習の違いからとまどう場面もありましたが、相談する場所を見つけるのがなかなか大変でした。日本ではそういった外国人の方々を対象にした特別な相談窓口などはありますか?

 

萩本:政府全体、あるいは地方自治体を含めた行政全体でもそれぞれの分野で人権に関する相談窓口を設けています。法務省を例にすれば、人権擁護局という部署を設立し、人権に正面から取り組んでいます。人権擁護局では、広くあらゆる課題に対応しようと心がけています。外国人の人権もそのような課題のひとつです。外国人の人権擁護の一環として法務省では、外国人を対象とした人権相談窓口を設けています。この窓口で外国人の人権相談を受けてきたわけですが、この4月から外国人の人権相談への体制を強化することにしました。具体的には、新たに韓国語・タガログ語ポルトガル語ベトナム語が加わり、英語・中国語を含めて6言語での相談に対応できるようになります。手段としては電話やインターネットもあれば、直接法務局の窓口にお越しいただく形でも相談を受け付けるようにしています。

 

根本:人権擁護局はまさに人権の課題に対する調整役を担っているわけですが、人権問題というのは一人ひとりの足元での問題ですね。この意味で、地域に根付いた全国1万4000人の人権擁護委員の方々の活躍が非常に重要な役割を果たしているのではないでしょうか?

 

萩本:そうですね。人権擁護委員という制度は戦後まもなく設立されて、世界の中でもユニークな取り組みのひとつです。人権課題というのは国や専門家だけが取り組めばいいのではなく、民間の取り組みと行政の取り組みを車の両輪として協力しながら行うという信念からできた制度です。志が高い方々に委員として活躍していただいて、まさに地元に根ざした活動を担っているのが人権擁護委員のみなさんです。日本が世界に誇れる試みのひとつです。

 

         f:id:UNIC_Tokyo:20101028125628j:plain

                                                人権擁護委員による小学校での人権教室 ©法務省

 

フェアプレー精神を人権のフィールドでも

 

根本:萩本局長のインタビュービデオ(霞ヶ関からお伝えします 2016)を拝見しました。Jリーグのサッカー選手による人権啓発の呼びかけが印象的でした。フェアプレーの精神でルールを守ることに重きを置いて活躍しているスポーツ選手だからこそできる取り組みですね。具体的にはどのようなコラボレーションが行われていますか?

 

萩本:人権を国民の方々にもう少し身近な問題として、自分自身の問題として感じてもらうためにはどうしたらいいだろうという観点から始めました。試合はお互い真剣勝負ですが、試合が終われば国やチームの枠を越えて相手をリスペクトするスポーツの精神は人権の本質を理解、共感するためにふさわしいものです。Jリーグのあるクラブの試合での「ジャパニーズオンリー」という横断幕が大きな問題になりました。その結果、無観客試合などの制裁を厳しく行いましたが、それを機にサッカー協会全体が、差別や人権啓発にもっと真剣に取り組まなければという意識を持つようになったと思います。人権擁護局がやりたいことも同じ方向を向いているので、タイアップして活動していくことになりました。現在、Jリーグの試合で一緒に人権啓発活動を行う「スタジアム啓発」や、子どもたちへのサッカー教室と人権教室をあわせて行うスポーツ人権教室などの取り組みも一緒に行っています。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20170320121707j:plain

                            北海道コンサドーレ札幌の試合前に行われた「スタジアム啓発」の様子 ©法務省



一人ひとりの基本的人権を守るために

 

根本:街中で拝見して嬉しく思うのが「ヘイトスピーチ、許さない」のポスターです。黄色をバックにした非常に力強いポスターで、目に飛び込んできます。ヘイトスピーチ対策法が作られましたけれども、こういった法規制が必要であった背景を教えて下さい。

 

萩本:いま、世界中で排他的な価値観が広がり、日本も例外ではありません。一部で特定の民族、国籍、出自の人々を狙い撃ちして、合理的な理由なく日本から追い出そうとしたり、人間として見なさないかのような言動があったりして、社会問題になっています。本来は、法律で規制するのではなく、そのような行為をする人々を含めた国民の心に訴えかけて、ヘイトスピーチなどが起きないようにできればそれに越したことはありません。しかし、事態がここまで深刻になると、理想だけを唱えても現実は良くならないだろうという危機意識から、ヘイトスピーチは許されない、ということを掲げる法律が議員立法という形で昨年成立し、施行されたという経緯です。

 

根本:施行が始まって変化は感じられますか?

 

萩本:これまでもヘイトスピーチが許されないとの考えのもと、様々な取り組みをしてきましたが、この法律ができたことにより、ヘイトスピーチが許されないことが法律で明確になりました。また、法律ができたことでマスコミがヘイトスピーチの問題をより大きく取り上げるようになりましたし、裁判所サイドの司法判断にも一部影響を与えているとも言われています。そういう意味では、ヘイトスピーチは許されない、あってはならないもの、ということが社会の中で広く認識される大きなきかっけになったのではないかと思います。

 

根本:ヘイトスピーチ対策法の精神をくんだ地域、自治体の条例等も生まれていますね。

 

萩本:そうですね。地方が動いて国が動かされることもあれば、国が動くことによって地方も動きだす、という両方のパターンがあると思います。ヘイトスピーチに関しては、地方が少し躊躇していた部分もありましたが、国が法律を制定したことが大きな後押しとなって、勇気づけられた自治体が地域の実情に照らして必要なこと、ふさわしいこと、あるいはやれることをやろう、という雰囲気になってきているように感じます。                                                                                                                                                                                                                                               

   f:id:UNIC_Tokyo:20170316110718p:plain

            萩本局長の話に耳を傾ける根本所長 ©UNIC Tokyo

 

違いに馴染むこと

 

根本:外国人の排除や差別意識というのは昔から少なからずあったとは思うのですが、最近それが顕著になってきていると感じられます。このような言動を生んでいる背景や理由について、どのようにお考えですか?

 

萩本:日本に限って言うと、やはり島国であり、未だに外国人に慣れていないということが大きいと思います。私の子どもはたまたま都心の小学校に通っていて、そこの学校には1クラスに5人以上は外国の子どもがいました。クラス名簿を見ると、カタカナの名前の子どもが何人かいるんですね。でも、いじめなどはなく、その子たちがいるのがもう当たり前のような雰囲気らしいのです。入学当初から周りに外国の子どもたちがいたから、違和感が生じなかったんだと思います。

 

しかし、そのような環境が地方にもあるかというとそうでもありません。外国の子どもがクラスに1人もいなかったり、極端になると全学年を見てもいるかいないかという学校もあると思います。そうなると、違い自体に馴染みがないために、違和感を覚えてしまったりすることがあると思いますね。

 

根本:2020年の東京オリンピックパラリンピックは、スポーツ・文化・環境の祭典であり、日本の社会をどう持続可能なものに転換して、多様性あふれる社会をつくっていくかという起爆剤のようなものになると思われます。外国人という要素も含めて、そのような多様性を受け入れられる社会に日本をつくり変えていくという課題に、法務省としてはどのような取り組みをしていらっしゃるのでしょうか?

 

萩本:法務省だけでなく、政府全体で2020年に向けて多様性を受け入れた共生社会を目指そうとしています。政府では「心のバリアフリー」という言葉を用いて、違いを受け入れて理解し合おうと呼びかけています。あらゆる機会に、一人ひとりに自分の問題として考えてもらえるよう啓発活動をしていく必要性を感じます。

 

昔だと電車の中で日本語以外の言葉が飛び交っていると遠巻きに見るなんてことがありましたが、いまはそれも当たり前と感じるようになりました。それは外国から観光客などがたくさん日本に来られ、外国人の存在に慣れてきて、違和感・抵抗感がなくなってきているからだと思うんです。対象が外国人に限らず、そのような意識変化がもっと進んで、違いが当たり前のことになるような取り組みを意識して進めていく必要があると思っています。

 

根本:ロンドンではパラリンピックがずいぶんと盛り上がり、またボランティアの参加がすばらしかったと思います。リオは持続可能性というものを前面に押し出して、それと同時に難民選手団という新たなレガシーができました。では東京は何だろう?という点に大いに期待しています。

 

萩本:そうですね。確かにリオのオリンピック・パラリンピックでは、私も難民選手団を初めてテレビで見たときに、ああこういうのがあるんだと思いました。日本開催の際にも、なるほどと思ってもらえるような取り組みができればと思っています。

 

                    f:id:UNIC_Tokyo:20170316110837j:plain

                 国連オリンピック停戦を宣言し、
        世界中の人々にオリンピック期間中は武器を置くよう求めています。©UN Photo

 

理想と現実のバランスを取りながら

 

根本:TOGETHERキャンペーンでは、国連が呼びかけ、関連国連諸機関、JICA、市民社会、そして法務省のみなさまにも参加していただいて、みんなで難民・移民を受け入れられるようなオープンな社会について発信していこうと取り組んでいます。局長として、このマルチ・ステークホルダーで進めるキャンペーンについてどのような期待をお持ちですか?

 

萩本:日本だけでなく、国連の加盟国全体で取り組んでいるキャンペーンですから、いま政府全体で取り組んでいる2020年に向けた共生社会の実現と共に、相乗効果で成果を上げられたら、と期待しています。

 

              f:id:UNIC_Tokyo:20170316111034p:plain

           法務省もTOGETHERキャンペーンをサポートしています
              (左:根本所長 右:萩本局長) ©UNIC Tokyo



国連広報センター広報官 妹尾:このTOGETHERキャンペーンを日本で広げていく上でのアドバイスがあれば、お伺いできますか?

 

萩本:多くの外国人が来日し、特にオリンピック・パラリンピックで日本の社会が世界から注目を浴びるときに、ハード、ソフトの両面で日本って成熟した良い国だな、と世界から思ってもらえるようにみんなでいまから取り組みましょうって言われると、多くの人が共感して、自分もその一助になることであれば協力しようと思ってもらえるのではないかと思います。

 

その一方で、我々も国内向けの様々な啓発を行いながらいつも思うのですが、平等の大切さや差別はいけないなどと理想ばかり唱えても、現実的には、なかなか自分事として受け止めてもらえないこともあります。でも、現実ばかりを見て対処療法的になると、大きな目指すところを見失ってしまうので、理想は掲げなければなりません。その理想と現実の狭間でどちらにどのくらいのウエイトを置くかというのは難しい問題です。その答えは直ちには出ないので、取り組みながら、ああちょっと理想にばかり軸が傾いていて誰も振り向いてくれないな、となったらもう少し現実に近づいていったり、結局はそのようなバランスのなかで進めていくしかないのかなと思います。

 

また、法務省による啓発活動に関して言えば、世の中には様々な主義・主張を持つ人がいて、それを唱えてはいけないというわけではないですよね。表現の自由もありますし、その主義・主張が国家の政策に反していても堂々と唱えられるのが成熟した民主主義国家です。人権侵害の歴史を紐解くと、最も人権を侵害してきた主体は行政なので、我々が国民の言論活動に良い悪いとコメントしたり、一定の制約をすることは危険をはらむものであるという思いは忘れてはいけないですし、日々反省、自戒しつつ取り組むべき難しい課題だと感じています。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20170316111253p:plain

           インタビュー中の根本所長(左)と萩本局長(右) ©UNIC Tokyo

 

違いを認め、その良さを言葉で発信して

 

国連広報センター・インターン 岡嵜:あらゆる人々の人権について考える立場にある萩本局長ですが、普段の生活においてどのように視点を平等にすることを心がけているのでしょうか?

 

萩本:法務省は様々な人権課題を扱い、どこかに特別なフォーカスを当てているわけではないからこそ気づいたことですが、外国人、女性、子ども、障害のある方もみんな、違いは個性みたいなものです。違いがおかしいのではなく、いろいろな人がいるのが社会として当たり前だし、むしろ多様性があるからこそ豊かであり楽しいんだ、と自然に思えるようにするのが一番大事だと思います。法務省は人権課題を絞っていないので、様々な課題に関して関係者の方とお話しするたびに感じるのは、どの課題も根っこは一緒だということです。その同じ根っこにスポットを当て、それを啓発活動の際に対外的に発信していけたらいいなと日々意識しています。

 

インターン 広野:萩本局長は寛容さという点に重点を置いていらっしゃると思いますが、2020年を迎えた後にもレガシーとしてその寛容さを次の世代に受け継ぐために、私たちの身近なことでできることなどアドバイスはありますか?

 

萩本:私は日々の生活の中で違いに気づいたときに、その良さを言葉にして言うことが大事だと思うんです。みんな、違いに対して、「え、なに?」「やだ」とかマイナスな表現はよくしますよね。そうではなくて、「ああいう人もいるんだ、良いね」と違いの良さに目をつけて言葉にして言っていると、人間って流されやすいところがあるので、周りが言っているからそういうものか、と共感する人がどんどん増えると思います。日々の生活の中で文句を言いたくなることはあるし、それをつい口に出してしまうのも人間だから仕方がない気もします。けれど、良いことも楽しいこともたくさんあるはずなので、それをぜひ口に出して発信して周りにも良い影響を与えて、明るい人が増え、その明るいグループをどんどん大きくしていってほしいなと思いますね。

 

   f:id:UNIC_Tokyo:20170316111419p:plain

             今回のインタビューの企画・実施に携わったインターンと共に
                       ©UNIC Tokyo







 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(12)

【連載中】<日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」>

        第12回 国連宇宙空間平和利用委員会 科学技術小委員会議長の向井千秋さん

                    ~国の枠を越えた、「UNITE」を実現する宇宙利用を目指して~

 

アジアで初の女性宇宙飛行士として2度の宇宙飛行を果たし、日本の宇宙開発分野に大きく貢献されてきた向井さん。2017年1月からは外務省の嘱託として国連宇宙空間平和利用委員会の科学技術小委員会議長に就任し、世界の宇宙活動の持続的で協調的な発展に関する多くの審議に取り組まれました。理系分野における女性の活躍への期待が社会に高まるなか、東京理科大学の副学長としての試みや、これまでのご自身のキャリアの築き方について、3月8日の国際女性の日を前に幅広く貴重なお話をお伺いすることができました。

(聞き手: 国連広報センター 根本かおる所長)

 

                                     f:id:UNIC_Tokyo:20170303115330j:plain

                                                   向井 千秋(むかい ちあき)さん ©UN Vienna

 

【1952年群馬県館林市出身。慶應義塾大学医学部卒業後、同大学博士号取得。慶應義塾大学医学部外科学教室医局員として病院での診療に携わる。85年、宇宙飛行士に選定された後、NASAジョンソン宇宙センターの宇宙生物医学研究室にて心臓血管生理学の研究に従事。1994年スペースシャトル・コロンビア号、1998年には同ディスカバリー号に搭乗し、日本人として初めての2度目の宇宙飛行を経験。仏国際宇宙大学修士コースの客員教授JAXA宇宙医学研究センター長などを歴任した。2015年4月より東京理科大学の副学長に就任し、2017年1月からは国連宇宙空間平和利用委員会の科学技術小委員会議長を務める。】

 

根本:1月30日から2月10日まで、日本人として初めて、また女性の宇宙飛行士として初めてウィーンの国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS) 科学技術小委員会で議長を務められましたが、どんな感想をお持ちですか?

 

向井:任務が終わってホッとしています。科学技術小委員会の議長というとこれまで男の人ばかりでしたし、科学技術や宇宙というエリアに入ってくる女性は非常に少ないんですよね。小委員会では、議長の私のことを「マダム・チェア」と言う呼び方をしてくださっていて、その「マダム・チェア」という音の響きでも、多くの人に科学技術小委員会のような場所で女性が議長をやっていると感じ取ってもらえたと思っています。ジェンダー平等の面でも貢献できていたらいいなと思いますね。

 

根本:国連宇宙部(UNOOSA)の部長も女性ですよね。

 

向井:そうですね、シモネッタ・ディ・ピッポさんも女性ですし、前任のマズラン・オスマンさんも女性でした。

 

                    f:id:UNIC_Tokyo:20170303115557j:plain 

                                     シモネッタ・ディ・ピッポ国連宇宙部長 ©UN Photo/ Runa A

 

                    f:id:UNIC_Tokyo:20170303115749j:plain

                                    マズラン・オスマン国連宇宙部長 ©UN NEWS CENTRE

 

 

根本:インタビュー前の打ち合わせで、向井さんと持続可能な開発目標(SDGs)の話で盛り上がりましたが、科学技術小委員会で議論されていることがどのようにSDGsの課題につながっているのでしょうか?

 

向井:小委員会では、各国の宇宙活動のステータス、デブリ宇宙ゴミ)の問題を含む持続可能な宇宙空間の利用方法、あるいは人工衛星を用いて地球環境をどう守るかなど、テーマごとの議題がたくさんあります。SDGsにどうやって貢献していくかという点については、縦割りのテーマというよりは横軸で通しての捉え方になります。2018年に開催されるUNISPACE+50(宇宙空間の探査と平和利用に関する国連会議50周年記念会合)では、国連に対し宇宙がどういう役割を果たすか、というテーマが7つあり、そのそれぞれのテーマが実際にどうSDGsに貢献していくのか、を議論しようとしています。

 

宇宙こそが“UNITE”を体現する場

根本:先ほど、ホッとしているというのが率直な感想だということでしたけれども、議長を務められて、何が大変で、何が醍醐味でしたか?

 

向井:一つはリソースの配分がポイントですね。国連で6ヶ国語に通訳するので6ヶ国分のリソースが必要になるんですよね。だから会議時間内に決められたアジェンダを全部こなしていく、特に最後のアドプション(採択)の場面では、どのくらい議論が出て来るかわかりませんから、時間配分・調整については気を遣いました。

 

二つ目は、皆さんがプレゼンテーションをされるので、時間がないとはいえ十分に皆さんが言いたいことを言える環境を作らないといけません。開発途上国の人でも先進諸国の人でも自由に意見を言える雰囲気を作っていくということが難しいし、醍醐味だと思いました。

 

もし私がもう1回議長をやることになったとしたら、UNOOSAや国連の自体の枠組みのなかでもっと宇宙について取り組めたらなと思います。なぜかというと、今の一番の悩みが、宇宙に限ったことではなく、国連も“UNITED”というように、みんなでUNITEしようよ、という意味で戦後に作られた体制が変化しようとしていることです。ヨーロッパも、それぞれの国が“UNITE”してヨーロッパ連合(EU)を作り結束する方向だったのが、今やブレクジットでイギリスがEUを離れようとし、アメリカではトランプさんが「アメリカ・ファースト」を唱えていて、“UNITE”ではなくて孤立の方向に振り子がふれているように感じます。

 

国連の議論においても私が期待をしているのは国の枠を超えた人類としての観点での議論ですが、どうしてもその前段階で各国の国益がぶつかりあっていると思うんですね。でも宇宙というのは1967年に宇宙条約が締結し、宇宙は海や空みたいに国の領域はなく、どの国にも属さないと定義されています。つまり宇宙のリソースはみんなが共有する場所なのです。だから本当の意味で各国が“UNITE”して、違いから学びあって、同じであることを慈しんで、そして国連の本当の意味でのスピリットを出せるのは、宇宙なんじゃないかと思うんですよね。

 

     f:id:UNIC_Tokyo:20170303120251j:plain

                  科学技術小委員会議長を務められる向井さん (シモネッタ・ディ・ピッポさんTwitterより)

 

根本:宇宙からみた地球の写真をみると、謙虚な気持ちになれるのは何故だろうと思っていたのですが、なんだか腑に落ちました。

 

向井:もちろん自分の国や街、家族を良くしていくために取り組むことは、していかなければならないことですが、まずは一度問題解決をするときに、国や、自分が所属している組織などの枠の一つ大きい垣根で物事を考えてみると、今まで壁に当たって考えつかなかったものが考えられるのではないかなと思います。

 

根本:宇宙では多国籍のチームと協力し、また閉鎖された空間のなかで長期間チームとして活動されていたかと思いますが、その時の躍動感やチームスピリットというのは、今の世界の宇宙開発の議論に参画されているなかで活きていますか?

 

向井:まず宇宙はなぜ一つでまとまれるか、というと、共通の目的を持っているからです。みんなで取り組まないと事故や問題が起きたら生存できない、あるいは自分がやろうと思っていたミッションがあるとしても、1人でやれることには限界があって宇宙飛行士だけでなくて地上のチームとみんなで連携しないと仕事ができないんですね。だから連携することが当たり前だと思っています。同じ意見の人とチームを作れば楽かもしれないけど、ダイバーシティがあるなかで各々がリーダーシップと共通の目的を持つことで、初めて強いチームが出来ます。ダイバーシティはウエルカム、違う意見もウエルカム。そうでないと、どんなに出来る人でも自分の見落としている部分や、新たな発想は見えてこないからね。

 

      f:id:UNIC_Tokyo:20170303120436j:plain

                 1998年 軌道上にて、スペースシャトルディスカバリー号のクルーたちと共に ©JAXA/NASA

 

であること

根本:向井さんは、本当に色々と「初」という冠のつく肩書きが多いですね。どうやって未知の分野、誰もやったことがない立場を色々と切り開いていくことが出来たのでしょうか。怖くないですか?

 

向井:怖いっていうより、どっちかというと面白いです。人間って知らないものを見たら、ドアを開けてみてみたい、聞いてみたい、食べたことないものを食べてみたい、って誰でもあると思うんですね。私はそこが自分のちょっと悪いとこでもあって、面白そうってうちに、どんどん仕事の数が増えちゃって(笑)。 最近は年取ってきて、昔みたいに3日で出来ると思ったものが出来なくなったりしてるから、あんまり引き受けすぎてしまうと皆さんに迷惑がかかるので、調整をするようにはしています。ですが、本来は話を聞くと、「何それ、おもしろそう、私知らない、教えて教えて」ってなります。

 

      f:id:UNIC_Tokyo:20170303120543j:plain

                                                           インタビュー中の向井さん ©UNIC Tokyo

 

根本:子どもの頃から好奇心の塊だったんですね。宇宙飛行士分野では「アジアで初の女性飛行士」、今回の小委員会の議長は「日本人として初」ですよね。そういうところで、背負ってしまう部分や身構えてしまう部分はありませんでしたか?

 

向井:そういう“初”というのってグループ分けを小さくするから初になるだけであって。「向井さんは女性初の宇宙飛行士ですよね」って言われると、「うん、まあそうなんですけど、群馬県館林初の飛行士ですから」っていうんです。私だって、ガガーリンみたいな、まだ、本当にそういう空間で人が生きられるかも分からないところに挑戦していった人類初の取り組みはすごいと思います。でもその後の、新聞見出しになるために、グループ分けを小さくして“初”になっても、誰だって何だって“初”なんて作れるよ、って思ってしまいますね。もちろん、それによって地元の人が喜んでくれたりするのはとても嬉しいです。でもだからといって、私が初だから、ということで背負い込んだりすることはないですね。

 

                               f:id:UNIC_Tokyo:20050516112405j:plain

                         1994年 スペースシャトル・コロンビア号搭乗クルーとなった向井さん  ©JAXA/NASA

 

理系専攻を仕事につなげる流れを作りたい

根本:ウイーンでは、科学における女性・女児の国際デーに向けたパネルディスカッションで登壇なさっていましたね。まだまだ科学分野、理系、STEM分野での女性の割合が少ないですが、どうすればもっと女性がこの分野で活躍できるようになるでしょうか?

 

向井:まずは母集団が少ない。この分野に女性をいれる努力は今まで沢山の人がされてきて、中学生や高校生が理科に触れ合う機会は増えていますし、理科が好きな女の子もいっぱいいるんです。でもそれだけでは不十分で、今私が副学長を務める東京理科大でやろうとしていることは、流れを作る、つまり東京理科大にきて勉強したり、理系を面白いって思ったことを仕事につなげていく出口をつくることです。研究職や企業勤め、教員など、もっともっと出口がたくさんあるようにしていかないと、入り口だけ増やしても意味がないと思います。

 

また、理科系を勉強して将来マネジメントをしてもいいわけですよ。理科系にはいると、学部の縦の繋がりのなかでのみ自分の将来を考えがちですが、そうではなくて、学んだことを使って違う分野に、私が医学を学んで宇宙に飛び出したように、違う分野に飛び出していってもいいと思います。自分の将来を広げていくような考え方を学生たちが持つようになれば、元々理科が好きな人たちが理科系に進むことが増えるんじゃないのかな、と思いますね。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20170303120846j:plain

                           「女性の宇宙(Space for Women)」の会議に参加する向井さん ©UNOOSA

 

向井:私は幸か不幸か子どもがいないので、24時間を自分のために使ってきましたが、やはり男の人もふくめて、自分がやりたいと思ったキャリアをバランスをとりながらやっていけるような環境を作らないといけないと思いますね。今はITも進んでいて、必ずしも仕事場にいかなくても、仕事が出来ますし、自分の努力だけではなくて、社会で子育てや介護をする、社会の努力で出来るようになる仕組みをつくらないといけないと思います。

 

自分の体験から共感を見つけて 

根本:向井さんは現在、東京理科大学の副学長として、国際化の推進という大きなテーマにも携わっておられます。最近の若者は内向き思考であるとよく言われますが、彼らが世界に足を踏み出すにあたってどのようなメッセージを送りたいと思っていらっしゃいますか?

 

向井:やはり、世界中の人たちはどこに住んでいようと、どの言葉を話していようと、結局人としては同じだと心に留めておくことです。例えば、母親が子どもを心配する気持ちだとか、自分が恋した人を愛する気持ちなどは、日本人であれどこの国の人であれ同じです。また、自分が大事にしていた人やモノをなくすこと、それは交通事故で亡くすにしても戦禍の下で亡くすにしても、その時に流れる涙も同じです。そのように考えると、例えばテレビの映像で爆弾を踏んで足がなくなってしまった子どもを見た際に、自分の子どもに置き換えて考えてみると、やはり涙は流れるだろうし、理不尽な悔しさも生まれます。また、自分が好きな食べ物を美味しいと思うのと同じように、相手も同じものを食べて美味しいと思ってくれるんだと気づいたりすると、相手の国が好きになってみたり、とどのつまり皆同じ人間なんだと思うことができます。そのようにして私たちが共感し合えること。それが本当の意味での国際化なのかなと思います。

 

根本:必ずしも国際化とは世界に行くことではなく、やはり普遍的なメッセージを読み取って、共感し、痛みがわかるところが基本なんですね。

 

        f:id:UNIC_Tokyo:20170303121035j:plain

                                                            対談中の根本かおる所長 ©UNIC Tokyo

 

向井:その共感に至るために、やはりコミュニケーション手段として英語ができたほうが良いし、社会についても勉強していたほうが良いと思いますが、それらはツールだと思うんです。けれど、そのツールだけを教えても、こういうことをやってはいけないとか、こういうことをやらなければならないとか、自分の中から湧き上がってくる感情が大元にないと、ツール自体を使えないですからね。だから、自分の体験の中から勉強するということが大事なんじゃないのかな。

 

自分のプライオリティを選んでいく

インタビューに同席した国連広報センター インターン岡嵜:

これまで向井さんがご自身のキャリアを選ぶ上で、数多くの選択肢の中からどのように歩む道を選んできたのですか?

 

向井:やはりそれは自分の中のプライオリティじゃないでしょうか。人間って1日24時間しか時間がないし、自分も必ず死ぬということを考えると、いくらお金を持っていたって偉くたってみんな平等です。だからその人生をどのように使うか?私の場合、人生が終わるときに、もう一度生まれ変わってもこの人生をやりたいって思えるような人生が一番良いものだと思っています。

 

私は小さい頃からオペラ歌手になろうと思ったり、スキーのオリンピック選手やパン屋さんになりたかったりと夢がたくさんある好奇心旺盛な子どもでした。でも、脚の不自由な弟と一緒に過ごすなかで、苦しんでいる人たちを助けたいという気持ちが常にあったため、数多くのやりたいことがある中でも、一番強かった夢は医者になることでした。

 

そうやってプライオリティを選択していく上で大事な事は、自分でそれを選ぶ事です。自分で選ぶと後悔しないですから。お父さんとか、お母さんとか誰かが選ぶと、辛い時に文句が言いたくなって、逃げ道を作っちゃうんですね。辛い時って自分の選んだ道でもいくらでもあるし、好きでやってる仕事だって辛いことはたくさんあるけれど、自分で選んだからしょうがない、って自分を納得させて考えることができますから。

 

『女性だから』と言い訳をしない

国連広報センター インターン城口:

これまでのキャリアにおいては、今ほど女性の活躍が推進されていた時代でもなく、悔しい思いをされたこともあったかと思いますが、どのような思いでご自身の道を突き進まれてきたのでしょうか。

 

向井:私は仕事に関して、例えば失敗した時などに、その理由を女だからとか男だからとか、そういう言葉で考えないようにしてきました。日本人だから失敗したの?アメリカ人だったら成功してたの?というふうに考えると、別にどの国の人であっても自分が成功するかしないかだけなんです。女だから失敗した、というように性別によって自分を納得させるのではなく、男であれ女であれ日本人であれアメリカ人であれと考えて、逃げられない状況を作ったほうが良いです。自分の能力が達していなかったからこの仕事が失敗したんだって思うようにね。私はそういう風にやってきていて、同じように他の人のことも評価しています。実際は、『〇〇だから』って、多くの人が自分で垣根を作っちゃっているけれど、仕事が良い悪いというのは、その人ができる能力なり環境にあるかであって、女性とか男性とかじゃないと思うんですよね。

 

根本:3月8日の国際女性の日に向けて、女性のロールモデルとして活躍されてきた向井さんからエネルギーが欲しいという女性たちに一言メッセージをいただけますか。

 

向井:いや、女性はみんなエネルギーあります!(笑)だから、自分が今やっていることで本当に良いと思うことを、仲間を作って進めていくことですかね。やっぱり1人じゃできないこともあるから、自分に追い風を吹かしてくれるような同志を見つけること。私は女性は一般的にはかなりエネルギーがあると思うけど!

 

あと、女性はやろうと思ったならば見栄も外聞もなく、ばんっと実行できるような勢いもあります。お互いがwin-winの関係になるような解決策を見つけ出すことも得意だと思うし、そのような強みのある分野に女性がたくさん入っていくことも良いと思いますね。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20170303121120j:plain

                                インタビュー後の記念撮影。向井さんと根本かおる所長(左)©UNIC Tokyo

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(11)

【連載中】<日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」>

                     第11回 CERF(国連中央緊急対応基金)諮問委員会委員/
                             国際協力NGO JEN代表理事の木山啓子さん

                     ~市民社会の代表として等しく尊い全ての人のために~

 

今、人道問題は史上最悪ともいえる状況にあります。世界の難民・国内避難民の数は6530万人に達し、気候変動などによる災害も絶えません。そうしたなか、国連の機関の中でも重要視されているのがCERF(国連中央緊急対応基金)の存在です。この基金の諮問委員会に現在日本人として唯一参加しているのが、今回お話しを伺った木山啓子さんです。諮問委員としての活動や、市民社会国連の在り方、危機的状況にある人道問題などについて木山さんにお話を伺いました。

(聞き手: 国連広報センター 根本かおる所長)

 

 

         f:id:UNIC_Tokyo:20170118172613p:plain

                                          木山啓子(きやま・けいこ)

                                            認定NPO法人ジェン(JEN)代表理事

1994年、JENの創設に参加。紛争中の旧ユーゴスラビア地域代表として難民・避難民支援活動に従事。緊急支援が依存を生むことに着目し、24に及ぶ国と地域で緊急自立支援活動を展開してきた。JENは現在、アフガニスタンパキスタンイラク、ヨルダン、スリランカと東北、熊本で活動している。2005年日経ウーマン誌のウーマンオブザイヤー大賞。2016年9月より国連中央緊急対応基金(CERF)諮問委員。

 

 

                                                         www.youtube.com ©OCHA 神戸事務所

 

CERFの特色・仕組み

 

根本:木山さんは、国連機関の諮問委員などにメンバーとして任命、参加されるのは今回が初めてですか?

 

木山:はい、初めてです。私の他に7名の新たなメンバーが加わり、新メンバーでの諮問委員会が昨年10月末に行われたのですが、非常に興味深かったです。
CERFはまだ知名度が低いという現実がありますが、
CERFの忘れ去られた危機へのアプローチは、1番感銘し、共感しているので、もっとCERFを知ってもらう努力をしていこうと思います。

CERFの諮問委員のメンバーの中には、CERF立ち上げから携わっている人々もいて、財政支援を提供する国の色づけをしないからこそCERFは、高潔な基金で、尊いのだとおっしゃっていました。ただ、資金を出す側からの、何に使われたのかが判るほうがアピールにもつながるという意見も理解出来ます。

諮問委員の役割の一つとして、まずCERFを広報していかなければなりません。私自身もCERF自体の存在は知っていましたが、具体的な内容は諮問委員になるまで知りませんでした。メリットデメリットも含めてもっと多くの人々、団体に知ってもらう活動をしようと考えています。

昨年末にOCHA神戸事務所の方ともお話しすることが出来て、CERF諮問委員会の報告会などをやってみてはという話が出ています。CERFの存在自体、まだ国際協力NGOの中ですらあまり浸透していません。少しずつでもCERFの存在、仕組みを知ってもらうことが大事だと思っています。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20170118172307j:plain
                                   インタビュー中の木山さん ©UNIC Tokyo

 

CERF基金10億米ドル目標達成までのロードマップ

 

根本:CERFは新たに1ヵ年において2018年までに基金を10億米ドルに増やすという目標を掲げましたね。この目標を達成するには、あと2年の間に基金を倍以上にすることが必要という現状ですが、CERF内、CERF諮問委員会の中でその目標を達成するための道筋などについてはどのように議論されていますか?

 

木山:実は昨年10月の諮問委員会もそれがメインテーマでした。普段、諮問委員会は年に2回秋がニューヨークで、春がジュネーヴで行われていたのだそうですが、今回はわざわざ順番を変えて春にニューヨークで行い、それによって潘基文(パン・ギムン)事務総長(当時)にも委員会に参加して頂くことが出来ました。その結果、この新たな10億米ドル目標を掲げ、この目標の認識を更に深めることが出来たと聞いています。10月末の諮問委員会では、目標達成のために事務局に提出された多くの案のうちの一つの新機軸のアイディアにフォーカスして話し合いました。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20170202130854j:plain

      1994年 ネパールでブータン難民支援活動中に子どもたちと(木山さん提供)

 

根本:CERF諮問委員会では色々な国の人々と議論されると思うのですが、お国柄の違い、あるいは発想の違いを感じることはありますか?

 

木山:7割くらいの方が外交官なので、話し方や進行の仕方などは勉強になりました。CERFが方向転換したときから密接に関わっているという委員の方が新機軸の資金調達増強策の案に対して強く反対されたときに、冷静に議論の流れを建設的なほうに持っていくことが出来る方が何人もいらして、とても勉強になりました。

 

NGOという立場からの国連

 

根本:そもそも何がきっかけで人道援助の世界に身を投じることになったんですか?

 

木山:友人からのアドバイスがきっかけです。アメリカで修士号を取得後、日本に帰国して一般企業で受付の仕事をしていたときに、その友人から、「世界中で大学レベルまでの教育を受けられる人は5パーセントにも満たない。修士の勉強までしているのに、もっと直接的に世界のために貢献できる仕事をすることを考えて」という助言を受けました。自己イメージが低かったので、国際貢献なんて出来るか不安でしたが、それがきかっけとなり、今に至ります。

 

根本:木山さんはJENのトップというだけでなく、日本においてはジャパン・プラットフォームの共同議長もなさって、今回全ての経験をベースに日本出身として一人だけのCERF諮問委員会委員になられましたね。ご自分の所属する組織や業界を越えて、国やコミュニティー全体のために代弁する立場に立ったからこその手ごたえ、やりがいはありますか?

 

木山:“どういう世界をつくっていけば良いのか”と全体像から考えて問題に取り組んでいく姿勢が大切だということは以前から考えていたのですが、その大切さをより強く意識するようになりました。この姿勢は例えば、なぜシリアの問題が起こっているのかを考えるときに、5年後10年後に難民の方々がどうなっていくことが大事なのか、この人たちの幸せのためには他の方面がどうなっていけば良いのか、つまり、対症療法をするときにでも、根本解決を念頭に、という考え方をすることです。CERF諮問委員会委員のメンバーに加えていただいたことで、更に世界全体がどうなったらよいのかという視点を強く持つようになりました。

 

根本:木山さんは一貫してNGOからの立場で人道問題に関わっていらっしゃいますが、木山さんから見て国連はどんな存在ですか?

 

木山:1994年のネパールでの支援活動のときからUNHCRと付き合いがあり、他にもUNICEF、WFPやUNDPなど色々な国連グループの方々と仕事をしてきました。現場で働いていたときの第一印象は、大きすぎて掴みどころがないということでした。でも、CERFの諮問委員会委員にしていただいたことで、今までは、頭でしか理解していなかったことですが、国連も、ひとつひとつの機関が問題解決や目標達成のために動こうとしている組織のかたまりだという実感をし始めました。

委員として活動するようになったからこそ、CERFならではの悩みがあることにも気づきました。CERFは基金を各国連機関に提供して、各機関がCERFからの基金などをもとに支援活動をしています。そのシステムの中で、CERFのアイデンティティとは何なのか、どんな仕事をしているのかを説明するときにどうしても難しさが生じることがあります。例えば、もし仮にCERFがこの国の難民を助けていますと報告したとしても、その支援を現場で実際に行っているのは他の国連機関だと言われてしまいます。それは緊急援助を行っている日本のNGOの中間支援組織であるジャパン・プラットフォームと似ているなとも感じました。

そうやって身近なものとして捉えてみると、国連でもNGOでも、ひとつの組織として動いていくために大事なことは一致しているし、国連もトップのリーダーシップのもとに動いている、大きいけれど1組織には変わりないんだなということを改めて認識しました。

このような難点に立ち向かっていくためには、CERFで掲げている目標や計画、そしてそのプログラムを明確にして、その方針から外れる機関に対しては、基金を配分できないという姿勢をとることでCERFの使命・方針を全面に出していく必要があると思います。

 

 f:id:UNIC_Tokyo:20141111180558j:plain

     2014年11月 ヨルダンのホストコミュニティーにてシリア難民の子どもたちが
     JENの活動のひとつである衛生キットを実際に使っている様子(木山さん提供)
    

 

史上最悪とも言われる人道危機に立ち向かうには

 

根本:昨年は世界人道サミットもあり、初めて人道のコミュニティー、開発のコミュニティー、政府、市民社会、そして国連機関が一同に会しました。サミットでは、史上最悪ともいわれる人道危機について話し合われましたが、木山さんはどのように今年この一年を乗り切っていこうと思っていらっしゃいますか?

 

木山:おっしゃるとおり状況は極めて悪いです。けれども、この状況を変えていくことが出来るのが人間だ、人間が作ったことは人間が変えられると信じて、今までも、そしてこれからも取り組んでいくつもりです。

その中でも、「連帯していくこと」が重要なんだなと感じています。連帯するということは、まったく違う意見を持った人々とも寛容につながっていくということです。対立を深めるのではなく、お互い建設的な連携姿勢で取り組むことが大事だと思います。難しいことではありますが、どれだけこれを実践していくかというのが自分自身の人間力を高めていくことにもつながると思っています。また、世界の構造的な問題にどのように対応していくかということを色々な人たちと手を取り合って一緒に考えていきたいと思っています。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20170123145223j:plain

                    会談中の根本所長 ©UNIC Tokyo 

 

根本:今年からグテーレス新事務総長が着任しました。彼は10年余り紛争が原因でふるさとを追われた人たちに寄り添ってきた人ですから、いかに根本治療をしなければいけないかということは、いやほど知っている人です。そんな新たな事務総長のもとでのCERFの今後の展望についてお聞かせ下さい。

          

木山:CERFでもプライベートセクターを巻き込んで、資金を提供してもらうということは必要だと認知されてきています。根本治療とおっしゃられていましたが、人道問題の解決に関してもプライベートセクターを巻き込まずには根本的解決は出来ないのではないかと考えていて、この方向もCERFにおいて視野に入れていく必要があるのではと思います。

           

           

   f:id:UNIC_Tokyo:20170118172621p:plain

           2015年8月 ヨルダンのザータリキャンプ内で
         女性の衛生教育をしている場所についてきた少女と(木山さん提供)

 

 

海外・国内両方の支援現場での経験を通して

 

根本:木山さんはJENやジャパン・プラットフォームでも、海外ではもちろんのこと、日本の震災被災者にも寄り添ってこられましたよね。国内と海外での人道的な危機をつなげてご覧になってきて、新たに見えてくる日本の風景はありますか?

 

木山:東日本大震災のときに痛感したことがあります。日本の教育のあり方はいかに規則を守るか、もしくは教えられたことを教えられたとおりにやれるかが大事だということが最優先になっています。つまり、言い換えれば、教えられていないから出来ませんという発想になりやすいです。依存心が強く、自分の頭で考えられる教育が成り立っていないのではないかと懸念しています。確かにルールを決めた以上守ることは大事ですが、ルールは人を守るため、地球を守るためにあるはずであって、ルールを守るためにルールがあるわけではないということを忘れがちになっている気がします。考える力を自由に伸ばすような教育が必要になってきています。

具体的なエピソードとして、例えば海外の支援活動ではいくら緊急事態であっても、緊急支援を提供しながらも、少なくとも数週間から数ヶ月先までを予測してそれに対して支援計画を練るというのが当然です。しかし、東日本大震災のときは、同じような発想で取り組もうとしている人々になかなか現場で出会えませんでした。ですから、その分被災された方に負担が長く続いてしまいました。先を見越して計画される支援活動が少なかったことは、未だに仮設住宅に住まざるを得ない方々がいるという状況の一因になっていると思います。

 

   f:id:UNIC_Tokyo:20110328144258j:plain

       2011年3月 東日本大震災の支援現場での木山さん(木山さん提供)

 

根本:支援現場で実際に被害に遭われた人々と関わっていく上で、一番必要な力、スキルはなんでしょうか?

 

木山:かわいそうな人だと思わないことだと思っています。等しく尊い一人の人間であるということを、状況が悪いとつい忘れがちになってしまう人がいると思うのですが、支援を受ける側の方々にも、もちろん各個人として優れている部分も得意ではない分野もそれぞれあります。人間としての価値には優劣がなく、それぞれが等しく尊い存在だということを忘れないようにすることが大切だと思います。そうでないと、自立する力を発揮する機会を奪い、結果的に復興が長引きます。

 

  f:id:UNIC_Tokyo:20170202130640j:plain

      1994年 ネパールのブータン難民キャンプにて子どもたちと(木山さん提供)

 

根本:そのような思いに達したのはいつ頃ですか?

 

木山:1994年にネパールでブータン難民の方と出会ったのが1番はじめのきっかけです。土間みたいなところをまるで神社のように綺麗に保っていて感動しました。その当時は背中を支えるというか、少し後ろからサポートすることが大切だと思っていました。

ただそんな考えに変化をもたらしたのが、フィリピンで少数民族への支援を行っている友人から聞いた言葉でした。友人は少数民族の人々に「あなた達が私たちの上に乗せている足をちょっとどけてくれればいい。」と言われたそうです。

この言葉は日本で私たちが人材を育成をする際にも、気をつけなければいけない点かもしれないのです。伸びる場を作れば彼らは伸びるのに、教えよう、引っ張ろうとしすぎて逆に邪魔をしているのではないかと疑問に思うときがあります。

これは難民支援においても同じことで、難民自身にもっと自由があれば、もしくは難民として逃げた先の国での制限をもう少し少なくすれば、彼ら自身で仕事を生み出して、現地の人々を雇っていけるようになる可能性もあるのではと思います。

 

根本:JENのプロジェクトもそのようなコミュニティー支援が中心となっていますか?

 

木山:そうしたいのは山々ですが、全ての事業で実施しているとは言えない状況です。例えば、今、水すらないという人々に効率的に水を提供することが命に関わるという緊急事態では、コミュニティの巻き込みは必須ですが、自立の要素までを入れ込むと時間がかかり過ぎる場合もあり、容易ではありません。それでも、自立支援をもっと強く進めていきたいとは考えています。大分状況が落ち着いてきているスリランカなどでは、それこそシームレスな自立支援の色の強いプロジェクトを行っています。

  

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170124161332j:plain

                      JENのモットーであるENs of JEN JENの事務所にて ©UNIC Tokyo 

 

これからの世代の人々へのおもい、エール

 

根本:最後に、これからの世代へのメッセージや思いをお聞きしても良いですか?

 

木山:日本にも、様々な状況の若者がいて、貧困も存在します。どのような国や状況に生まれて育っても、本当に学びたいことを学び、送りたい人生を送れれば、困難を乗り越えた人々が世界中の困難な状況にいる人々をサポートする側にまわってくれると思います。それこそ、私たちの足を、そんな次の世代の人々からどけるようにしながら、彼らが枠にとらわれずに自分の可能性を信じて活躍できるようなサポートをしていきたいです。

 

    f:id:UNIC_Tokyo:20170118172313j:plain      インタビュー後に記念撮影 (左:木山さん 右:根本所長) ©UNIC Tokyo

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (8)

【連載中】<日本人元職員が語る国連の舞台裏>

長谷川祐弘(はせがわ すけひろ)さん

 

-平和構築の現場から体得した紛争予防と国際支援の在り方-

 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第8回は長谷川祐弘さんです。1969年以来、国連開発計画、国連ボランティア計画、国連平和維持活動で要職を歴任されてきました。カンボジアソマリアそしてルワンダでジェノサイド直後から現地で活動し、混乱の中で東ティモールの平和構築に尽力された長谷川さん。長年にわたり紛争の現場で平和維持活動に従事されたご経験に裏付けられた、貴重なお話を伺うことができました。

 

第8回:元国連事務総長特別代表(東ティモール担当)長谷川祐弘(はせがわ すけひろ)さん

  f:id:UNIC_Tokyo:20170127180607j:plain

【1978年から、ネパールとインドネシアにていずれもUNDP常駐副代表を務め、1984年より南太平洋地域における国連常駐調整官兼UNDP常駐代表として任務を遂行。1986年にUNVジュネーブ本部事務局次長に就任した。その後、カンボジア総選挙におけるUNV選挙監視団統括責任者や、第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)政策企画担当部長、ルワンダ国連常駐人道調整官等として要職を歴任。1996年に、UNDPニューヨーク本部においてアジア太平洋地域局次長に就任し、1999年にUNDP駐日代表、2002年4月に緊急危機復興に関するUNDP総裁顧問を歴任した。2002年7月から2004年5月まで国連事務総長特別副代表(東ティモール担当)及び国連東ティモール支援団(UNMISET)副代表を務め、2004年5月に国連事務総長特別代表(東ティモール担当)に任命され、同時にUNMISET代表となる。その後、2005年5月に設置された国連東ティモール事務所(UNOTIL)代表として、2006年9月まで国連事務総長特別代表(東ティモール担当)を務める。】

 

虐殺後のルワンダで体験した厳しさ

根本:長谷川さんはこれまで色々な組織、地域で働かれてきました。中でも、ルワンダには94年の虐殺の直後に現地に国連常駐調整官として勤務されましたが、どのようなご経験をされましたか?

 

長谷川:現地に着いて国連機関の本部事務所が集まった敷地に入っていくと、まずお墓が目に入りました。24人の殺害された現地職員の名前が刻んでありましたが、実はその人たちは国連側から迎えのバスが来ると言われて待っている間に殺害されてしまった、という話を聞きました。危機の状況に至った時に誰を救出して避難させるかという事案は、国連の活動に関して長く議論されている課題の一つでもあります。国連の国際職員を救出することは決まっていますが、いつも問題になるのは現地職員をどうするかという点です。ルワンダの一例でも、現地の職員たちを見放してしまい、結果として殺害されてしまった方々が多かったのです。

 

また、首都キガリにある私の事務所にいた時に、カラシニコフ銃を持ったRPF (ルワンダ愛国戦線)の少年兵が入ってきて危機的な状態になった事がありました。彼らは私の部下であるルワンダ人の職員を逮捕したいと引き渡すように要求してきました。彼ら少年兵の多くは家族をフツ族に殺されています。そして、私の部下がフツ族であるから虐殺に関わっていたはずだという理由で、彼を逮捕するよう命令されて来ていたのでした。少年兵の半分くらいは麻薬にかかったような心理状態であり、かつ武器を所持しているので、私たちの説得に応じようとはしなかった。しかし、不当な要求を受け入れることを拒否することになると、人間と人間との間の対決というか、腹の見せ合いになりました。結局その日は、少年兵は引き下がり、私の部下を連行することを諦めました。しかし、翌週の月曜日に部下は事務所に現れませんでした。実は彼は土曜日に自宅にいたところを逮捕されていたのです。その後刑務所に行って彼に会いましたが、このような普通ではあまりない経験をルワンダではしてきました。

 

   f:id:UNIC_Tokyo:20170208143726j:plain

         1995年 ルワンダ国家警察に対して演説をする長谷川さん(長谷川さん提供)

 

部門間の調整力を現場で鍛える

根本:長谷川さんは開発や紛争後の国づくりなど、幅広く活躍されてきたのですね。これまで携わってこられた様々な分野の間の繋がりについて、どのようにお考えですか?

 

長谷川:開発も平和維持活動も、すべてのことが蜘蛛の巣のように繋がっております。ですから、特定の事柄を一箇所だけ注目したり、起こっている事柄の進行状態を一本の線としてだけを見ていては不充分だと思います。先日グテーレス事務総長が国連の各部門が一緒になって仕事をしなければならない、部門を統合する決意を表していました。その必要性が多々あります。課題は、ただ書類を読んでいるだけでは繋がりは見えないので。やはり実際に各部門に入って仕事をすることで、いかに各部門に繋がりを作ることが難しいかを熟知する必要があります。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170208144409j:plain

         2004年8月 東ティモールにて、同国シャナナ・グスマン元大統領(右)、

             マリ・アルカティリ元首相(左)と(長谷川さん提供)

 

根本:そのような組織間の繋がりは、どのようにして可能になるのでしょうか?

 

長谷川:各部門が協働するためには、主に二種類の統合を実現することが重要です。第一に、物理的な統合です。私が初めて現地に行ったのは、UNDP常駐副代表としてネパールを訪れた1978年ですが、その時、私自身、ネパールで国連ハウスの建設に関わりました。国連の各部門が同じ建物に入り、皆が密接な交流関係を保ちながら一緒になって仕事をすることを目指しました。また、現地において、国連機関、例えばUNHCRとUNICEF、が運搬車などを共同で使うことも物理的な統合の一例です。

 

       f:id:UNIC_Tokyo:20170208144352p:plain

        2006年8月 ラモス・ホルタ東ティモール元大統領と(長谷川さん提供)

 

第二に、人事の交流です。これは国連機関の間で施行されているようで案外行われていません。UNDPで働く中堅レベルの方がUNICEFに行って、1年間してまたUNDPに戻ってくるというような例はあまり無いですね。組織と組織を移動すれば、異なる役職を担うことで知見を広げることができます。その点から、人事の交流を頻繁に行うことは統合を実現するための手段と言えます。

 

根本:その通りですね。私も2年間UNHCRから国連WFPに出向しました。自分でポストを見つけて応募したわけですが・・・。様々な機関で働くことはとても良い経験であって、思考回路の違いを見出したり、多方面を見ることができるのは非常におもしろいと思います。

 

 f:id:UNIC_Tokyo:20170131125428j:plain

                対談中の根本かおる所長 © UNIC Tokyo

 

政策と理念を如何に統合するか

長谷川:「統合」を達成していく上で最も大事な事で、それと同時に実現がとても難しいのが、「政策と理念の調整」だと考えています。

 

その難しさの一例として、私がルワンダにいた当時に起きたキベホ避難民キャンプでの虐殺が挙げられます。ルワンダ南西部に位置したキベホ避難民キャンプでは当初、フランス軍が避難民を保護していましたが、フランス軍の撤退後はUNAMIR(国連ルワンダ支援団)がキャンプを統治していました。しかし、当時のルワンダの新政府は、インターハムウェと呼ばれる前政府の民兵がキャンプで避難民の中に紛れているとして、キャンプの閉鎖を要求したのです。避難民が新政府によって虐殺される恐れがあるため、強制閉鎖はさせない、というのが、国連、特にUNHCRの固い理念でした。一方で、新政府にとっては、インターハムウェによるキャンプの支配は国家の安全保障に関わる緊急の課題でした。結果として、国連が政府軍の代わりに避難民を帰還させるという政策を立てましたが、帰還予定の当日は想定外の大雨となり、国連の用意した車両は舗装されていない、雨でぬかるんだ道を移動することが出来ませんでした。すると、待機していた避難民の中でまず動き出してしまったのは子どもたちで、匿われていたキャンプから逃げ出そうとしたのです。そして、政府軍が彼ら避難民に対して発砲し、国境なき医師団によると約8000人、国連によれば4000人が犠牲となった悲劇が起きました。

 

          f:id:UNIC_Tokyo:20170208144343j:plain

       1995年4月 キベホ避難民キャンプの様子(長谷川さん提供)

 

このキベホ避難民キャンプの例が示すように、政策と理念の統合というのは非常に難しいですが、それが上手くいかないと、悲惨な結果となってしまいます。政策と理念を調整し、起こっている問題に対してどのように解決していくかを皆で話し合うとき、私は虚心坦懐な気持ちでいることが重要だと思います。それは、世の中に一つしか正しいことがない、ということはあまり無く、見方により、社会により正しいことは変わってくるからです。しかし、だからと言って普遍的な価値観がないかと言えばそうでもなく、それを守っていくためにはどうしたら良いかと考えることが、私が経験して学んだことです。

 

紛争の種は人間の心の中にある

根本:新しく就任したグテーレス事務総長は紛争予防の重要性を強調していますが、御自身の経験を通して、長谷川さんは紛争予防のためにはどのようなことが必要だと思われますか?

 

長谷川:平和構築や平和維持の活動において一番核心的なのは、実りのある紛争予防を行うにあたって、紛争の種は人間の、そして指導者の心の中にあると認識することです。人間は理性的で優しいということではなく、非常に貪欲で危険な生き物です。南スーダンにおけるサルバ・キール大統領とリアク・マシャール元副大統領の争いも、権力や富に対しての欲望に基づいています。ですから、人間の基本的な貪欲さを理解し、それを十分に取り入れた上で対処をしていけば紛争予防も可能になると考えます。

 

もう一つ重要なのは、国家の基盤となる確固とした政府機構を築くことです。アフガニスタンでは、冷戦が終結して1989年にロシア軍が撤退した後に、政府が汚職をしたり、国民を弾圧したりするなどして腐敗していました。そして、国民の政府に対する信頼が少なくなった時にタリバンが台頭し、アフガニスタンの紛争が続きました。このように、紛争予防の場合には、政府という国の土台をしっかりと作っていくことが大事だと思います。

 

                 f:id:UNIC_Tokyo:20170202123546j:plain

2005年2月 国連事務総長特別代表(東ティモール担当)として国連安全保障理事会で発言する長谷川さん © UN Photo

                      

 

意図と行動に一貫性のある、ビジョンを持った国際支援を

根本:そのような人間を理解しようとする力や、人と人とを繋ぐ能力、相手のオーナーシップを尊重したり、組織の活動に対して正当性を与える調整力などは日本人の多くが資質として持っているものであり、国連の活動において非常に有益に活用できるものではないかと思いますが、国連で働く日本人職員にはどのような期待をお持ちですか?

 

長谷川:日本人の国連職員の活躍に関しては、他のアジア各国を見ていても相対的に実感する事ができます。日本人職員数がなかなか増えないというもどかしさもある一方で、現在国連で働いている日本の方々はとてもよく活躍されていますし、職員の底が厚いですので、その点は自信を持って良いのではないでしょうか。

 

                f:id:UNIC_Tokyo:20170202121754j:plain

     2006年9月 コフィー・アナン国連事務総長とニューヨークの国連本部にて © UN Photo

 

根本:日本は非常に多額のODAを出している一方で、その実行段階の政策に関してあまり注文を出さないできたという現状があるように思われます。日本は今後、ODA国連の場において、国際支援をどのように行っていくべきでしょうか?

 

長谷川:日本が政策面においてあまり要求をしないというのは、その支援を通してどのような結果を願うのかというビジョンが充分とは言えないからかもしれません。国が国連を通じて政策を推進し、自らの国益にも繋げるためには、その支援をする結果にどのようなことが達成されるべきか、というはっきりとしたビジョンを持つことが重要です。哲学者イマニュエル・カントの思想にも関連しますが、慈善活動でお金を寄付する際に大事な点は、その動機と行動が一致していることです。

 

例えば、企業が自然災害の被災地に対して寄付をしたとき、その事実を新聞に掲載して株主に知らせたり、税額の控除が目的である場合は、寄付の行為はその意図と行動に一貫性がないということになります。同じように、他の国が支援するから、お付き合いとしてするという動機では、支援の本質とは異なってしまいます。このような例では、支援自体が長続きしないと同時に、支援に対する評価の度合いも少なくなってしまいます。

 

ですから、出資だけでなく、軸となるビジョンをより明確にした上での国際支援に期待しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127173145j:plain

                         国連広報センターにて。長谷川さんと根本かおる所長(左)© UNIC Tokyo

 

 

 

 

 

 

 

わたしのJPO時代(18)

 

「わたしのJPO時代」第18弾は、国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局でコミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソンを務める堀幸恵(ほり・ゆきえ)さんのお話をお届けします!

島嶼国フィジーでJPOをスタートした堀さんは環境情報、ジェンダー、砂漠化対処プログラム、そして広報と、様々な分野をわたってキャリアを築いてきました。自らの得た経験、スキルを基に将来の自分を決める“progressive experience”のお手本のような堀さんに、その原点であるJPO時代を語っていただきます。

 

 

                                      国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局

                     コミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソン

                                             堀 幸恵(ほり・ゆきえ)さん

 

                                                     ~そして道は続く~

 

                                           f:id:UNIC_Tokyo:20170206114956j:plain

堀幸恵(ほり・ゆきえ):国連砂漠化対処条約事務局(UNCCD)コミュニケーション・チームリーダー・スポークスパーソン。1992年Cornell Universityコミュニケーション論修士号取得後、NTT勤務を経てフィジーにあるUNICEF太平洋諸国事務所にてJPO。以降、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)にて環境、ジェンダーのプログラム、ニューヨークの国連本部にてECOSOC政策、事務次長室執務、国連砂漠化対処条約事務局にてアジアプログラムに携わる。国連サバティカルプログラムを活用し2009年、London School of Economicsコミュニケーション論博士号取得。2008年より現職。

 

 

わたしのJPO時代 ― 国籍を問わず、JPOを経験した国連職員の間でかなり盛り上がるトピックです。考えるに、その理由は二つ。一つはJPO間のつながりは意外と広く、「じゃあ、あの人知ってる?」というネタで初対面の相手とも話が広がること。もう一つはやはり、多くのJPO経験者にとってJPOが最初の国連のアサイメントであり、最も印象に残る体験だからにほかならないでしょう。

 

私がJPOとしてフィジー共和国の首都スバに本拠を置く国連児童基金UNICEF)太平洋諸国事務所へ赴任したのは、ほぼ四半世紀前のことです。最初にJPO制度を知ったのは留学先大学の留学生課にあった外務省国際機関人事センターの張り紙でした。当時は選考から決定、実際の派遣までに要した期間が長く、人事センターからの通知にも、「その間待たずに他の仕事を見つけて下さい」というようなことが書かれていたと記憶しています。私の場合も派遣までにほぼ2年かかり、その間は東京のNTTで働いていました。修士課程で異文化コミュニケーションを専攻したこともあり、派遣先は国連教育科学文化機関(UNESCO)を希望したのですが、人事センターの方にUNICEF国連開発計画(UNDP)の方がJPO期間後に残れる確率が高いとのアドバイスを受け、最終的にUNICEF太平洋諸国事務所のJPOポストに応募しました。今思えば、このアドバイスは的を射ていたと思います。なぜなら国連はいったん正規職員として入ってしまえば、ポストや機関を異動することは比較的容易だからです。

 

                                      f:id:UNIC_Tokyo:20170206114410j:plain

                      バヌアツの離島で。子どもの栄養のための「家庭菜園プロジェクト」を視察(1992年)

 

 

1992年7月、フィジーでの日々が始まりました。UNICEF太平洋諸国事務所は当時、南太平洋島嶼国13カ国のプログラムを管轄していました。プログラム管理官の下に2名のJPO、数名の国連ボランティア(UNV)及びコンサルタント、ローカルスタッフという小さな事務所でしたのでJPOにも大きな責任が回ってきます。私の担当はバヌアツマーシャル諸島。当時バヌアツの人口はおよそ16万、マーシャルに至っては5万人でした。小さな島国で、たとえ政府高官がTシャツにぞうり姿で仕事をしていたとは言え、彼らとプロジェクト運営について話し合うことは、最初は緊張の連続でした。生真面目にも毎回、「言うことリスト」を作ってミーティングに臨んだことを覚えています。

 

しかし担当国を訪れるたびに顔なじみも増え、出張が楽しみとなりました。現地で働いている国連関係者、NGOや日本の青年海外協力隊の方々とも仲良くなり、バヌアツでは仕事の後に薄暗い“カヴァBar”で泥水みたいな色のコショウ科のローカルな飲み物カヴァ(アルコールは含まないものの鎮静作用があり、飲みすぎると酩酊状態になる)を飲みながら、遅くまで話をしたりしました。ちなみに私の夫は同時期にUNDPフィジー事務所に派遣されていたドイツ人JPOです。バヌアツ公務員による長期ストライキのため多くのプロジェクトが停滞し、共にその対応策を練ったことが知り合うきっかけとなりました。

 

             f:id:UNIC_Tokyo:20170206114441j:plain

                            マーシャル諸島の首都マジュロで。ユニセフの家庭菜園プロジェクトに携わる
                                         コミュニティーの人々から、花冠の歓迎を受ける(1994年)

 

 

この時期に右往左往しながらも現場で仕事を学んだことは、のちに国連の地域事務所や本部事務所に勤務する上で、大変役に立ちました。まだ若く、ある意味怖いもの知らずで、たくさん恥を掻いた分、得るものも非常に大きかったです。JPOの2年間のラーニング・カーブの跳ね上がり方は、すさまじいものがあったと感じます。

 

よく経験者が語るように、本部や大きな地域事務所で人脈を作ることが“ポストJPO”に有利につながることは確かです。一方、小国の事務所にもチャンスはあります。フィジーの場合、少ない日本人同士は仲が良く、日本大使館の方々にも大変お世話になりました。この時、国連競争試験の案内を大使館からもらったことが、のちの国連本採用につながりました。また、UNICEFのみならず他の国連事務所の職員とも知り合う機会が多く、将来について親身に相談に乗ってもらったのも大きなメリットでした。

 

             f:id:UNIC_Tokyo:20070130230256j:plain

                                       経済社会局事務次長室での勤務最終日、同僚たちの心遣いに感謝

                                                        (ニューヨークの国連本部で、2007年)

 

 

UNICEF太平洋諸国事務所での勤務を経て、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)そしてニューヨークの国連本部と、それぞれの赴任地でポストをいくつか替わり、その間にサバティカル制度を利用して大学院に戻ったりもしました。現在はドイツのボンに本部を置く国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局で広報課のチーフおよびスポークスパーソンをしています。UNCCDは職員数が全体で60数名の小さな条約事務局です。啓蒙プログラム活動にはUNICEFでもUNESCAPでも携わりましたが、直接広報の仕事に関わるのはUNCCDが初めてでした。

 

きっかけは2007年10月、事務局長の着任に伴い、大幅な組織改革が行われたことです。当時、人を斬るよりも内部スタッフを活性化しようと考えた事務局長が、人事コンサルタントのアドバイスを受けて事務局の全職員の学歴と経歴を洗い出した結果、コミュニケーションの学位を持つのが私だけだったというのがその理由。「一年やってみて結果を出せば、そのままチーフのポストを与える」との事務局長の言葉を受け、それまでのアジアプログラム担当官からの転身でした。以後の数年は新しい課の立ち上げ、コミュニケーション戦略の立案などプレッシャーの毎日で、一時は顎関節が開かなくなるほど働きました。そして何とか課が軌道に乗り、現在に至ります。

 

            f:id:UNIC_Tokyo:20090416140646j:plain

                                          砂漠化により移住せざるを得ない状況に置かれた人々の数は、
                                                  2045年までに1億3,500万人にのぼると推測される
                                           ©Photo by Benno Neeleman, 2009 UNCCD Photo contest

 

 

UNCCDでの仕事はやり甲斐もあり、充実しているものの課題は山積みです。広報担当としての問題はまず、「砂漠化問題が実は砂漠のことではない」ことがあまり知られていないこと。砂漠化は乾燥地における土地の劣化、その結果起こる食料危機、長引く干ばつ、環境移民、果ては紛争や気候変動への世界的影響などに密接に関わる問題ですが、特に日本を含む先進国の人々にはあまり関心を持ってもらえません。「砂漠」という言葉自体が自分とは関係のないどこか遠くの問題だと解釈されてしまいがちだからです。しかしながら2012年の国連持続可能な開発会議(リオ+20)以来、地道に続けてきたロビー活動が功を奏し、砂漠化対処は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」で目標の1つとなりました(ゴール15)。今後、一人でも多くの方に砂漠化を“自分に降りかかる問題”として捉えて行動してもらうことが私たちUNCCDの課題です。

 

           f:id:UNIC_Tokyo:20151022132629j:plain

                                                     2015年にトルコの首都アンカラで開かれた国連
                                       砂漠化対処条約第12回締約国会議(COP12)でUNCCDの同僚たちと
                                                                  ©Photo by IISD/Francis Dejon

 

 

ドイツ・ボンでの勤務は10年目に入り、今までで一番長い赴任地となりました。国連ではキャリアを積むために通常、人事部の決定でなく自分で挑戦したい仕事や行きたい国での空席に応募してポストを獲得しなければなりません。そのためには自分の仕事に責任を持ち、なおかつその仕事の遂行において自分がどう貢献したかを、次のステップにつなげるようアピールできることが極めて重要となります。よく国連の空席募集要項に ”progressive experience” と記載されていますが、まさに、これまでに自分の得た経験、スキルに基づいて将来の自分の道を決めていくわけです。

 

実はJPOを経てから私の国連での担当は環境部情報、社会部ジェンダー、ECOSOC政策、事務次長室付、砂漠化対処アジアプログラム、そして現在の広報とかなりバラバラです。キャリア形成のためには専門性を高めるべきではないのかと自問自答を繰り返しつつも、これまでの四半世紀にこのprogressive experience、今までの経験を元に前進すること、ができたのはとてもラッキーであり、今の私の強みでもあります。もちろん平坦で真っ直ぐな道ではなく、ましてや一人で築いてきたわけでもありませんが、JPOとしての2年間が今ここにつながっていることは間違いありません。

 

JPOはやる気と気概があれば、多少の失敗も経験と見なしてもらえる学びの期間です。「よく国連はどんなところですか?」と聞かれますが一言で説明するのは非常に難しいです。働く国、機関、同僚によって全く状況が異なるからです。国連を目指される皆さんには是非JPO制度を利用してまず自分の目で国連を見ていただきたいです。その経験を元に道は続いていくでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

国連事務局ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)をご存知ですか ~昨年12月14日、筆記試験が実施されました~

皆さま、こんにちは。

国連広報センターの千葉と申します。


昨年12月14日、国連事務局のヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)と呼ばれる職員採用試験(国連人事局主催)の筆記試験(経済分野と情報技術)が外務省国際機関人事センターの支援態勢のもと、国連大学本部ビルのウタントホールを会場にして行われました。

この筆記試験の総監督を務めさせていただきましたことから、せっかくなので、試験当日の様子を含めて、YPPのご案内をさしあげたいと思います。

今まさにYPPを受験しようかと考えていらっしゃる方々、あるいはまったく聞いたことがないけれど、国連事務局での仕事に興味があるという方々に多少なりとも参考にしていただければ幸いです。

国連広報センターは、YPPに関する特設ウェブページをつくっています。こちらもご利用ください)


YPPとは)

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127161221p:plain

         (United Nations Careersのウェブページ)

 

ヤング・プロフェッショナル・プログラムの正式な英語名称は、Young Professionals Programme(YPP)です。

若く多彩な才能を国連事務局に取り入れるべく、国連職員をめざす32歳以下で高い能力をもつ方々をエントリーレベル(P1、P2)の正規職員として採用することを目的とします。

基本的に、国連では、新入社員を一斉に採用する日本企業とは異なり、欠員が生じたときにその都度、空席公募で職員を採用しますが、YPP試験は定期的に実施されます。

YPPの対象は、自国出身の職員が「地理的配分」で「望ましい職員数の範囲」の下限ラインを下回っている国(underrepresented)と皆無の国(unrepresented)に限定されます。(下記説明参照)

昨年は、日本を含めて、約60か国が対象でした。

<><><><><><><><><><><><><><><><><><><>

 「地理的配分」と「望ましい職員数の範囲」

国連事務局が高い成果をあげるためには、まずなによりも、誠実性と高い能力をもった人が採用されることが肝要ですが、国連の普遍的な性格から、地理的配分の原則に適切な配慮がなされることもまた必要です。

国連憲章第101条3項には次のように規定されています。


「職員の雇用及び勤務条件の決定に当って最も考慮すべきことは、最高水準の能率、能力及び誠実を確保しなければならないことである。職員をなるべく広い地理的基礎に基いて採用することの重要性については、妥当な考慮を払わなければならない。」


この国連憲章の条項をもとにして、総会決議などで具体的な事柄が決められてきました。

現在、国連事務局職員の総数は専門職、一般職の職員すべてあわせて、約4万人ですが、そのうち通常予算で賄われる専門職以上の約三千人の職員が地理的配分原則の適用対象とされています。


この約三千人という総枠のなかで、各国は「望ましい職員数の範囲(desirable range)」を設定されており、その範囲の下限ラインを下回る国がYPP対象国となります。

「望ましい職員数の範囲」を設定するシステムは1947年に国連総会決議で採択され、決まりました。1962年まで、算出方法は通常予算に対する各国の分担金のみに依拠しましたが、同年の総会決議により、加盟国への均等割り当てと人口の2つのファクターも加えられました。その後、ファクター間の比重は変化しますが、1987年の総会決議で、全加盟国均等割当(40%)、人口(5%)、分担金(55%)と決められてから変動はありません。これら3要素で算出されるすべてのポスト数を加算したものが中間点。その中間点から上方に15%(上限)、下方に15%(下限)の幅で設定したものが「望ましい職員数の範囲」です。

2016年6月30日現在、自国出身の国連職員が皆無の国(unrepresented)は19か国。下限を下回る国(underrepresented)が42か国、望ましい範囲にある国(within range)が104か国、上限を上回る国(overrepresented)が28か国。

日本の場合、望ましい職員数が167人~226人の範囲で設定されていますが、2016年6月30日現在で78人と、下限ラインの167人を下回り、‘underrepresented’の状態となっています。

(出典:国連文書 A/71/ 323/Add.2、A/71/360、ST/AI/2012/Rev.1など)

<><><><><><><><><><><><><><><><><><><>


かつて、YPPは、National Competitive Recruitment Examination(NCRE)、いわゆる「競争試験」という名称で呼ばれていました。


NCREは、エントリーレベル(P1、P2)の国連職員の採用を公正な競争を通じておこなうことを目的とし、1970年代から実験的に導入され、その後、1980年に、その実施が義務化されました。

その後、国連が必要とする職員数を超えてもなお新規の合格者が登録され続け、せっかく合格してもずっと待機状態に置かれるだけといった試験と現場のニーズとの調整がうまくはかれない状況などが指摘されたことから、その改善をはかるべく、2011年、NCREはYPPと名称を変えて再出発したのです。

YPPは毎年、対象となった国々から多いときは5万人を記録するほど応募があって倍率が非常に高く、また試験対象となる職能分野も毎年、現場のニーズに応じて変わるといった理由から、その条件がかなり厳しいものとなっていますが、上述のような国の若い方々にとっては、国連の正規職員となるチャンスのひとつであることは間違いありません。

YPPが2011年にスタートしてから5年が過ぎましたが、これまでに4人の日本人が合格。すでに国連職員となった方もいます。

NCREの時代に遡れば、試験に合格し採用された日本人はさらに多くいます。現在、国連平和構築支援事務所次長として活躍する山下真理氏もその1人です。同氏は、2010年から2012年まで当センター所長を務めました。

 
<><><><><><><><><><><><><><><><><><><>

 (Junior Professional Officer (JPO)派遣制度のご紹介)

 日本人が空席公募やYPPで直接、正規の国連職員として採用されることに困難が指摘されるなかで、日本においては、外務省が日本人の国際機関職員増加を図るため、JPO派遣制度を実施しておられます。

YPP受験者を含め、多くの方々がこのJPO制度に挑んでいます。

JPO制度は、国際機関に勤務を希望する若手邦人を、日本国政府(外務省)が経費負担し、原則2年間国際機関に派遣し、勤務経験を積む機会を提供することにより正規職員への道を開くことを目的としたものです(外務省HPより)。

JPOの派遣先は国連事務局ばかりでなく、ユニセフやUN Womenなど、さまざまです。

JPOは、国連が実施する採用制度ではなく、外務省が実施主体であり、将来、正規職員になれることを保証するものでもありませんが、事務局や諸機関をすべてあわせると、派遣終了後、約7割を超える方々が国連の正規職員として採用され、活躍しておられます。現在では、JPO出身者が、国連諸機関全体の日本人職員に占める割合はとても高くなり、実際、この制度が日本人にとっては国連職員になるための一番の近道になっています。


ご関心のある方は外務省のウェブページからぜひ詳細をご入手ください。


国連広報センターもまた、「わたしのJPO時代」というウェブシリーズを展開するなど、その広報に一役かっているところです。

<><><><><><><><><><><><><><><><><><><>


YPPのプロセス)


f:id:UNIC_Tokyo:20170127161808p:plain

            (inspiraのログイン登録画面)

 

さて、YPPの応募には、まずは申請登録し、書類選考を受けることになりますが、登録は国連のinspiraという電子プラットフォームから、自分のプロフィール、必要事項など入力します。

応募要件としては、学士以上。職業経験があれば有利ですが、必須要件ではありません。

書類選考を通過すると、その旨の通知を受け、筆記試験に臨むことになります。

昨年12月の試験が、この筆記試験でした。

筆記試験は、所用時間が4時間半。General Paper(一般試験)とSpecialized Paper(専門試験)で構成されます。ほとんどが記述問題。全部で800点満点です。

General Paper(配点は150点)は受験者全員に課される共通問題です。最近は、およそ900ワードのテキストを3分の1の300ワードに要約する問題が出題されているようです。
 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127161917p:plain

     (UN Careersのウェブに掲載されたGeneral Paperのサンプル)

 

Specialized Paper(配点は650点)はそれぞれの専門領域の問題。多肢選択問題と作文問題で構成されます。

多肢選択問題は全50問。作文問題は最大で13問まで。その中で、最も多いときで3問目までが長文解答を求められます。

この筆記試験を通過した方だけが面接試験へと進むことになります。

ちなみに 面接試験は200点。したがって、YPP試験全体で1000点満点です。

面接試験に無事合格すると、ロスター登録されることになります。登録の有効期間は2年間に限定されますが、その期間中に、P1あるいはP2レベルという職務階級で、2年間の期限付き雇用契約(fixed-term contract)をオファーされ、採用された場合、2年間の仕事ぶりが十分な評価に値するものであれば、より継続的で安定的な雇用契約(continuing contract)への切り替えが考慮されることになります。

なお、YPPの内容はその改善のため、今後段階的な進化を遂げていくことも予想されるので、留意が必要です。

実際に受験をお考えの方々におかれましては、こまめにYPPのホームページで最新情報をチェックしていただけるとよろしいかと思います。


(試験当日)

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127162009p:plain

           (国連大学本部ビルの正面)


さて、昨年12月の筆記試験当日の様子を少しご案内したいと思います。

この日の朝は雨模様。強い雨など降り出して会場に足を運ぶ受験者の皆さんが濡れなければいいなと心配しましたが、午後は晴れ間が見える天気になりました。

午前中、監督者として手ぬかりがないように、筆記試験実施に関するガイドラインやその他のすべての資料を再度読み込み、筆記試験当日の流れのなかで必要となる作業、そして地震を含めて突発的な事態が起こった場合の対応などを一つひとつていねいに確認します。

午後2時半。準備開始。

外務省の担当者の方や、応援に来られた職員の方々、受付や試験監督をお手伝いいただく方々が全員揃って、打ち合わせをしたり、受付やクロークの設営、ホワイトボードの運び入れなどしたりしているうちに時間が過ぎていきます。国連広報センターからもインターン二名が準備のお手伝いをしました。

試験会場となった国連大学の施設担当の方々や警備の方々もまた、受験者の皆さんに快適な環境で受験していただけるようにと、とても親切に協力してくださいます。

午後4時。受付開始。

受験者の皆さんが到着しはじめ、受付で、受験者本人の身分証明書(写真付き)と受験番号を確認していきます。


受験者の皆さんはそれぞれ受付を済ませ、持ち込みが許された鉛筆、消しゴム、ペンだけを持って会場に入ります。(スマホや携帯電話の持ち込みは不可です。)


午後5時。受付終了。


会場のドアが閉められます。

ここから先は、外務省の担当者の方と、国連大学からお手伝いに来ていただいた方と私の3人が会場内で、試験監督を務めることになります。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127162106p:plain

       (国連大学本部ビル3階、ウタントホール入口)

 

また、これ以降、試験会場に入った受験者は原則として、トイレに行く以外、会場を出ることはできず、トイレに行くときは、不正を防ぐため、試験監督者の1人が必ず付き添うことになります。

ドアが閉められたことを確認して、総監督の私から受験者の皆さんに注意事項などを説明しはじめます。

受験者リストの一番目にお名前が書かれている方をお呼びして証人となってもらい、問題用紙が入っているグレーの封筒を開封します。

この封筒の中身はニューヨークから届いて開封されるまで、試験監督者を含めて誰も見ることは許されません。

午後5時20分。

注意事項に関する説明が一通り終わり、試験開始です。

受験者の皆さんはまず自分の氏名や受験番号を鉛筆で記入していきます。

氏名や受験番号などの記入と、専門試験の多肢選択問題の解答については、鉛筆(消しゴムも可)を使いますが、その他の問題については、黒色か青色のペンを使って文章を書かなければなりませんし、また修正液などを使うことは許されません。

使用言語はGeneral Paperで英語かフランス語。Specialized Paperでは6つの国連公用語のいずれかひとつを選べます。

時折、こういうことでうっかり間違える受験者がいるということで、注意が必要です。

受付で手渡されたメモ帳はどのように使っても自由で、皆さんは自分の考えを図式化したり、下書きしたりしています。

それにしても、普段コンピュータを使って書くことに慣れた方にとっては、ペンを使って文章を書かなければならないだけでなく、間違えても修正液などの使用が許されないというのはとても厳しく感じられるだろうと思いますが、受験者の皆さんはそうした練習を積んできているのか、すらすらとペンを走らせています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20170127162143p:plain

       (国連大学本部ビル3階、ウタントホール内)

 

最初は長いと思われた4時間半ですが、意外なほど、あっという間に過ぎていくのを感じます。

残り時間30分。

皆さんに終了時刻が迫っていることをお知らせします。

残り時間15分。

最後の声かけ。皆さんのペンを走らせるスピードがアップします。

そして午後10時20分。

試験終了。

早速、解答用紙を集めはじます。それだけでなく、問題用紙、メモ用紙もすべて回収します。これらすべてをニューヨークの国連本部に宛てて送り返さなければなりません。

受験者の解答用紙をすべて回収し終わり、今回の筆記試験の合否結果発表が今年5月上旬であることをお伝えして、受験者解散です。

もう夜も遅く、4時間半に及んだ試験問題との格闘から解放された受験者の皆さんは足早に会場を後にされています。

開封の証人となった方だけは残り、回収した用紙の数を確認し、それら用紙を封筒に密封したことを見届け、私と一緒に封筒に署名してもらいます。

この封筒、そして、その他に問題用紙などを入れこんで密封したパウチ袋を外務省の方にお渡しします。

この夜、パウチ袋は外務省内の安全な場所に厳重に保管され、翌日、ニューヨークに郵送されることになります。

午後11時。

会場の片づけなどが済み、ようやく長い1日が終わり、試験監督を務めた私たちも帰途につきました。

ーーー

そして、試験実施から約1か月。

今あらためて、試験当日を振り返り、なによりも、試験中、地震などで試験が中断したり、受験者の皆さんの集中力が途切れたりするような不測の事態が起こることもなく、無事に試験が実施されたことに安堵し、喜んでおります。

そしてまた、外務省国際機関人事センターのご尽力にも思いを馳せます。

外務省、そして試験会場を提供する国連大学の皆さんのご支援、ご協力があるからこそ、これまでも日本におけるYPP筆記試験の実施が円滑にされてきたのだと思います。

最後になりますが、東京の会場で受験された皆さんから、一人でも多くの方が面接試験、登録、採用へ進まれることをお祈りするとともに、今後、国連職員をめざす日本人の方々が増え、また実際に多くの優秀な方々が採用され、世界を舞台に活躍されることを心より願っています。


(千葉のブログを読む)

「北海道にみた国連につながる歴史ー国際連盟と新渡戸稲造」

「佐藤純子さん・インタビュー~国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化~」

「国連学会をご存知ですかー今年の研究大会に参加してきました」

「沖縄の国連寄託図書館を想う」

「国連資料ガイダンスを出前!」

「国連資料ガイダンスをご存知ですか」
「国連寄託図書館をご存知ですか」

 

 

 

 

わたしのJPO時代(17)

【連載中】<わたしのJPO時代>

 

「わたしのJPO時代」第17弾は、国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所で化学品・廃棄物プログラム調整官を務める吉田鶴子(よしだ・かくこ)さんのお話をお届けします! 「環境という国境のない仕事に関わりたい」という大きな志を抱き、自然保護NGOからJPOを経て国連機関へとキャリアを積まれてきた吉田さん。「グローバルな課題に取り組む難しさと醍醐味を同時に味わっている」と語る言葉からは、一つひとつの仕事に真摯に取り組む姿勢が伝わってきます。

 

 

  国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官

                                     吉田 鶴子(よしだ かくこ)さん

 

                                       ~無駄な経験など何一つない~

             

       f:id:UNIC_Tokyo:20161027090330j:plain

「アジア地域の廃棄物処理に関するセミナー」で講演する吉田さん。開催地はモデル都市であるマレーシアのペナン(2016年)

 

吉田鶴子(よしだ かくこ):国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官。米ジョージア州立フォート・バレー大学動物学部野生動物保護科卒、スコットランド スターリング大学環境政策学部卒。青年海外協力隊平成6年度3次隊、生態学隊員としてケニアに赴任。1999年より世界自然保護基金(World Wide Fund for Nature, WWF)イギリス本部に勤務。南・東南アジアの環境保護、持続的開発プロジェクトの発案、実施管理に携わる。2001年、国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOとして赴任。環境モニタリングや持続的開発指標を政策に取り入れる援助・研究部門に所属。2004年、P4正規職員となる。2009年からバンコクのUNEPアジア太平洋地域事務所に勤務、現在に至る。

 

 

JPO挑戦は2回目で、「今回だめだったら次は応募しないだろう」と内心思っていたのは、2000年夏のこと。ジュネーブ国連本部の天井の高い一室で受けた面接の質問のうち、記憶に残っているのは2つだけ。1つ目は「治安が不安定な赴任地で、どうやって安全を確保しますか」。青年海外協力隊OGの私にとって、これは拍子抜けするくらい簡単な質問でした。これまで様々な分野や経歴を持った元JPOの国連職員に出会いましたが、開発途上国で働いた経験が、特に国連に入る上で有利に働いているように感じます。

 

2つ目の「どうして国連で働きたいのか」という問いには、「環境という国境のない分野の仕事には、国連でしかできないことがあるから」と答えた私。その後、晴れて2001年4月にメキシコ・シティー国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOで赴任して以来ずっと、この答えが間違っていて、それでいて正解でもあることを実証するような仕事を続けています。

 

JPO試験の合格通知を受け取ったのがWorld Wide Fund for Nature(WWF)の英国本部で働いている時だったため、日本での赴任前研修に参加する時間や経済的余裕はありませんでした。唯一の準備といえば夫婦で受けた週1回のスペイン語クラスのみ、それも3カ月ほどの短い期間でした。このクラスでさえ、赴任前に電話で挨拶をした未来の上司に、「スペイン語ができないと勤務に支障が出る」と言われ、慌てて個人レッスンを引き受けてくれる人を見つけるといった後手の対応でした。メキシコ・シティーに到着した日、3週間足らずの仮住まいとなるサービス・ホテルで見たテレビのニュースが全く理解できず、かなり不安に感じたのを覚えています。スペインのスペイン語中南米スペイン語の違いなど、基本的なことも当時は全く分かっていませんでした。

 

            f:id:UNIC_Tokyo:20161226150838j:plain

                                                    JPOに赴任して間もない頃(2001年)

 

 

JPOでまず学んだのは、国連では自分から動かなくては何も始まらないということ。着任予定日の1カ月前になってもUNEP本部からは何の連絡もありませんでした。当時勤めていた職場との契約の都合もあったので、待ちきれずに日本の国際機関人事センターに連絡すると、赴任資金・必要書類等は数カ月前にUNEPに送付済みとのこと。人事センターでは赴任準備が順調に進んでいると思っていたようです。後で払い戻しをするからと言われ、引越し業者から航空券まで全てを自分で手配しメキシコに着いたものの、空港には聞いていた事務所からの迎えは現れず、立て替えた経費の払い戻しにも1年近くかかった記憶があります。

 

仕事の内容もしかり。まず自分に何ができるのかを示し、自分の業務範囲を開拓していかなくてはなりませんでした。中南米カリブ海の38カ国を取りまとめる地域事務所は、ナイロビ本部と各国の環境省との中継地点にあたる、いわば要の位置づけです。各国政府や地域・多国間組織などが出す環境白書やデータ出版に技術・資金援助する部の所属になった私は、支援要請を汲み上げ、本部からの予算とのマッチングをし、足りない分は資金集めも行い、プロジェクト実施の間は担当官として技術協力もする、という業務に携わりました。オフィサー・ポストが2つ、ロジのローカルスタッフ・ポストが1つ、あとはコンサルタントという、UNEPでは典型的な規模のセクションでの勤務でした。当時P4だったこのセクションの責任者がとてもやり手だったため、活動資金は潤沢にあり、政府や専門機関からの信頼も厚かったのを覚えています。この“できる”上司のもと、彼以外の同僚は全てスペイン語が母国語という状況で、自分がいかにできないかを日々再確認させられる、マイナスからのスタートでした。

 

JPO期間の初めの3カ月を終了した頃に外務省に提出したレポートを見返してみると、「やっと部門の業務内容が把握できたという気がする」「業務は直属上司のアシスタント的業務がほとんどだ」などと書いてあります。言葉もできず、地の利もなく、“使えない”部下だったであろうことは想像に難くありません。この時の上司とは今でも交流がありますが、気の短い彼にしてはかなり忍耐強く、時々ため息をつきながらも指導してくれたことに、心から感謝しています。

 

              f:id:UNIC_Tokyo:20030711143135j:plain

   JPO勤務の時のチームと。忍耐強く指導してくれた上司(右から2番目)には今も感謝している(2003年)

 

 

どんな人でも一人で食事をしているのを見過ごせない―。メキシコ人をはじめ、ラテン系のノリが全開の熱い事務所のおかげで、言葉の方は半年を過ぎた頃にはどうにかなっていました。この時期に一緒に働いていた同僚たちは、地域事務所自体が移転したためパナマに移ったり、ナイロビ本部や他の国連機関に転勤したりで世界中に散らばっていますが、いまだに家族ぐるみの交流が続いています。また、JPO時代にスペイン語で仕事ができるようになったのは大変好都合だったと思います。

 

              f:id:UNIC_Tokyo:20170112130828j:plain

                                     ナミブ砂漠でアルゼンチンの乾燥地帯専門家たちと(2006年)

 

 

最初は英語で業務のできるカリブ海の国々のプロジェクトを担当し、その後は徐々に他の案件にも関わり始めます。ただ、プロジェクト・マネージメントの基本を学ぶ機会はほとんどなく、即戦力であることが期待されていました。国連に入る前に務めていたNGOの職員教育のおかげで、一般的に使われているツールやドナー用レポートの書き方など、基礎はその時に学習していました。「持続可能な社会」や「エコリージョン基盤の生物多様性保護の理論・実践」の最先端にいる人たちに揉まれたNGO時代がなかったら、私のJPO時代の肩身はさらに狭かったことでしょう。JPOの2年目が終わる頃には、「環境と健康」という新しい分野において地域事務所全体を束ねる担当者に立候補し、おかげで世界保健機構(WHO)など他の機関との仕事も増えていきました。現在勤務しているアジア太平洋地域事務所でも同じテーマの担当をしているので、無駄な経験など何もないということを、つくづく実感しています。

 

JPO面接で「環境には国境がない」と答えましたが、砂塵、スモッグ、海洋汚染など、1つの国の問題が周辺地域に被害を及ぼす案件を頻繁に担当しています。特に、地球温暖化や有害廃棄物の違法取引などは、地球レベルや多国間での協力があって初めて対処策が見えてきます。でも、実際に環境問題対策の法整備・法遵守を可能にするのは各国政府のみです。直接NGOや企業とプロジェクトを立ち上げるのに比べたら時間はかかるかもしれませんが、中央政府や地方政府自体が環境問題を重要課題として認識しない限り、大きな向上は期待できません。いくら国連がやきもきしても、どうしようもないのです。ラテンアメリカカリブ海地域で合計9年間を過ごしましたが、各国の環境省出身の同僚たち、あるいはキューバ人やブラジル人の上司たちからは、国連加盟国それぞれのニーズに応じた協力を行うことの重要性を叩き込まれました。南米アマゾンの8カ国の政府や有識者と共に環境白書を作った際には、「アマゾン」の定義についての話し合いから始まるなど、中立な専門官兼コーディーネターとしての難しさと醍醐味を同時に味合わせてもらいました。

 

         f:id:UNIC_Tokyo:20101120193642j:plain

フロンガス規制のための冷媒分析器の使い方を指導する吉田さん。タイのパタヤで開催したワークショップには、アジア太平洋の25カ国の環境省職員たちが参加した(2010年)

 

 

JPO期間の1年の延長後、11カ月の短期契約を経て、JPO枠で勤務した部署の正規職員ポストに応募しオファーをもらいました。ラテンアメリカカリブ海の出身者ばかりの事務所で、他の地域出身者が空席に応募して採用される可能性は低いのではという意見も聞いていたので、採用はかなり幸運だったというしかありません。その後、UNEP内で赴任地を2度、ポストを2度替わり、今はアジア・太平洋地域事務所で化学品・廃棄物・大気汚染プログラムの取りまとめをしています。

                       

環境が経済や人権などと同レベルで取りざたされるようになってきましたが、開発途上国では最初に経済発展ありきという観念がいまだに根強いですし、それに便乗するセクターも多く存在します。大気汚染や公害など多くの環境問題は、健康被害や水源汚染が起きてしまってからの対処では、国の現在の財源に負担を強いるだけでなく、将来の開発を担う人的資源さえ奪ってしまいます。環境保護は投資であり、リスクヘッジです。そのために資金や人が集まる社会になるよう、これからも微力ながらお手伝いしていければと思っています。

 

 

        f:id:UNIC_Tokyo:20161212144651j:plain

   2016年に着任した国連環境計画(UNEP)のエリック・ソルヘイム事務局長とバンコクにて(2016年)

 

 

私にとってJPO期間は国連で仕事をしていくスキルを磨き、適性を見極めるのに必要な時間でした。国連はその名前の通り多くの国の集まりであり、国の上に立つスーパー連合ではありません。ただ、一般企業、NGOで働いた経験から言えることですが、国連機関に対してのみ開く扉があり、その扉の先に環境に優しい開発があると信じています。自然科学や環境工学の専門知識を持った人たちがキャリア構築を考える時に、国連を一つの選択肢に入れてくれればと願っています。