国連広報センター ブログ

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「再び被爆者をつくらないで」――原爆投下から80年 ヒバクシャの訴え

広島・長崎に原爆が落とされてから、2025年8月で80年になります。被爆者は「核兵器は人類と共存できない」と声を上げ続け、「ヒバクシャ(Hibakusha)」という言葉は国際的に認知されるようになりました。しかし、核兵器の惨劇を二度と繰り返してはならないと声を上げてきた被爆者たちの努力をよそに、地政学的な対立の深まりから、核兵器、そしてその使用の威嚇は、現実の国際関係において、日常的なレトリックとして再び姿を現しています。
80年の節目を前に、国連広報センターは2025年7月27日に上智大学で開催された「ノーベル平和賞カンファレンス」(ノルウェー・ノーベル研究所主催、上智大学日本原水爆被害者団体協議会日本被団協」共催)と、同日行われた記者会見を取材しました。

ノーベル平和賞カンファレンス」記者会見での記念撮影

ⒸUNIC Tokyo / Yudai Hiraka

ノーベル平和賞受賞の意義

日本被団協代表委員を務める田中熙巳さんは記者会見で、ノーベル平和賞受賞の意義を問われ、「世界の市民が改めて核兵器の脅威に気付く機会を与えていただきました」と振り返りました。

ノーベル平和賞の受賞について振り返る田中さん
ⒸUNIC Tokyo / Yudai Hiraka

 日本被団協は、47都道府県のそれぞれにある被爆者の団体の協議会で、被爆者の唯一の全国組織です。1956年の結成後、核兵器廃絶や、原爆被害への国家補償要求を続けてきました。核兵器のない世界の実現を目指し、「核のタブー」という国際的な価値を築いてきたことが評価され、2024年10月にノーベル平和賞を受賞しました。
 ノーベル委員会によると、平和賞の受賞者の国を委員が訪れ、賞に関連するイベントを開催するのは初めてのことだといいます。ヨルゲン・バトネ・フリードネス委員長は「被爆者がまだ話せるうちに、彼らの声に耳を傾け、核軍縮のために活動することが必要だ」と今回の訪日の理由を説明しました。

ノーベル委員会のヨルゲン・バトネ・フリードネス委員長と握手を交わす田中さん
ⒸUNIC Tokyo/Yudai Hiraka

日本被団協の歩み

満席の会場に熱気が満ちる中、田中さんはノーベル平和賞カンファレンスに登壇。基調講演で、日本被団協結成からのこれまでの歩みを紹介しました。

日本被団協は、1954年のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆をきっかけとした原水爆禁止運動の広がりを受け、1956年に結成。結成宣言では、「自らを救うとともに、私たちの体験を通して、人類の危機を救う」との決意を表明しました。

1978年、1982年には国連ニューヨーク本部で開催された国連軍縮特別総会(SSID)に、それぞれ41人の代表団を派遣し、演説や表現活動を展開。2016年には、核兵器の廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」を呼びかけ、1370万を超える署名を国連に提出しました。そして、2017年に核兵器禁止条約が国連の場で採択され、2021年に発効したことを振り返り、「私たちにとって、大変喜ばしいことでした」と語りました。

2011年10月、日本政府、国連広報局(DPI)、国連軍縮局(UNODA)が共催する軍縮週間を記念したニューヨークの国連本部でのイベントで被爆者による演説が行われました。左の像は、長崎・浦上天主堂被爆した聖アグネス像 ⒸUN Photo/Paulo Filgueiras

現在も1万2千発以上核兵器が地球上に存在するとして、「核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです」と力を込めました。

被爆者の高齢化は進み、厚生労働省によると、現在存命している被爆者の平均年齢は、86歳を超えました。田中さんは「今話せる被爆者の声を聞くとともに、これからは私たちがやってきた運動を次の世代の皆さんが工夫して築いていくことを期待しています」と来場者に語りかけ、エールを送りました。

ノーベル平和賞カンファレンス」で核兵器の非人道性を訴える田中さん
ⒸUNIC Tokyo / Yudai Hiraka

80年経った今も

続いて登壇したのは、日本被団協の事務局次長を務める児玉三智子さん。広島で7歳のときに被爆しました。原爆が投下された直後に目にしたのは、「この世の地獄」でした。変わり果てた街の中で、助けを求めていた、自分と同じぐらいの年齢の女の子に、声をかけることさえできずに通り過ぎてしまったことが忘れられず、女の子の視線が「突き刺さって離れない」のだと言います。

「80年経った今も、あの日が消えることはありません。」

1945年8月に原子爆弾が投下された直後の広島 © UN Photo/Mitsugu Kishida

被爆者」から逃れることはできない

8月6日の後にも、被爆の苦しみは続きます。当時10歳だったいとこは軽傷でしたが、下痢を繰り返していました。ある日鼻から血を流し、口からは血の塊をたくさん吐き出し、突然亡くなりました。外見は何ともなくても、体の中から命を蝕まれる放射能の怖さを知り、恐怖に襲われました。

広島で医療処置を受けた被爆者 ⒸUN Photo/Hajime Miyatake

周囲の人々からは、「放射能がうつる」と怖がられ、差別されます。被爆者は奇跡的に生き延びても、脳裏に焼きついた地獄の光景や、音、声、匂いを抱きながら、「自分だけが生き残った」という罪悪感に苛まれ、その後も世間の偏見や差別を受けてきました。

結婚し、子どもを授かった時にも、「放射能の影響が出ないか」と迷い、苦しんだと言います。明るく元気に育った子どもは、45歳で癌に奪われ、発症からたった4カ月で亡くなりました。

被爆者は命果てるまで被爆者。被爆者から、逃れることはできません」と、児玉さんは声を詰まらせて訴えました。

 

核兵器をなくすことができるのも人間

世界各地では、今この瞬間にも、戦争や紛争が続いています。学校や病院が破壊され、多くの人々の命が奪われる映像を見る度に、児玉さんは自身の過去の記憶が重なり、体が震え、涙が溢れるといいます。

「未来ある子どもたちの命を奪う戦争は、何のための、誰のための戦いでしょうか」

そして、核兵器による抑止力ではなく、戦争をしないための外交努力こそが重要だと訴えます。

「今もし、核兵器が意図的であれ、偶発的であれ、使われることがあれば、未来に甚大な被害を及ぼします。核兵器が地球上にあること、それ自体が人道的に許されるものではありません」

核兵器の非人道性を訴える児玉さん
ⒸUNIC Tokyo / Yudai Hiraka

講演の最後には、声を震わせながら、力強く、こう語りました。

「皆様に心から訴えます。再び被爆者をつくらないでください。核兵器をつくるのも、使うのも、私たち人間です。そして、使うことを止めることができるのも、核兵器をなくすことができるのも私たちです」

 

自分が核兵器の被害者にならないために

2時間超のカンファレンスの終わり際、2人から、これからの平和教育への想いが語られました。

田中さんは、「抑止力」という言葉に焦点を当てました。「核兵器による抑止力はない」と前置きをしたうえで、「争いがあるから、抑止力が生まれる。争いの原因が何かということをもっと明らかにして、原因をなくしていく努力をすれば、戦争も段々なくなっていく」と教育の過程で、平和について掘り下げる重要性を語りました。

児玉さんは、日本もかつて加害国だったことを子どもたちに伝えていく必要があると強調。「核兵器の被害者にならないために、他人事ではなく、一人ひとりが自分事として取り組んでほしい」と呼びかけました。

イベントの最後に、次世代への想いを伝える児玉さん
ⒸUNIC Tokyo / Yudai Hiraka

被爆から80年。あの日の記憶は、次の世代へと渡されようとしています。核兵器による悲劇を、二度と繰り返さないために、それぞれの立場でできることから始めてみませんか。核兵器のない未来を願うのなら、今、私たち一人ひとりがそのバトンを受け取る番です。