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国連のさまざまな活動を紹介します。 

リレーエッセイ「人権とわたし」(5)前田直子さん:拷問禁止の歩みと直面する課題

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第5回は国連拷問禁止委員会で委員を務める前田直子さんです。

京都市出身。京都大学法学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修了(京都大学博士(人間・環境学))。外務省専門調査員(在ジュネーブ日本政府代表部)、外務事務官として国連での人権外交に携わる。その後神戸大学助教を経て、日本の女子大学として初めて法学部を設置した京都女子大学に着任。国連や欧州の人権保障制度、入管法制等を研究対象とする。2021年秋、日本人として初めて国連拷問禁止委員会委員に選出される。

拷問等禁止条約の歴史

 みなさんは「拷問」と聞くと何をイメージされるでしょうか。ドラマや映画、ニュースで見たり聞いたりすることはあるけれども、自分自身には現実味のない遠いものと感じられるかもしれません。

 国際社会における拷問禁止の主要な枠組みとして拷問等禁止条約があります。「拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」(日本語公定訳)という長い正式名称をもつ条約です。1970年代にアジア、アフリカやラテン・アメリカのいくつかの国々で、軍事独裁政権あるいは開発独裁体制が生まれ、緊急事態であるとの理由付けの下に、拷問、強制失踪や司法手続を経ない即決処刑が横行しました。国連でもそのことが大きな問題となり、1975年に国連総会にて拷問等禁止宣言を採択し、それを基礎としてこの条約の起草作業が進められました。

 来年2024年は条約採択40周年を迎えます。条約をとりまく時代の変化に鑑みると、日本語の名称で「等」と略されている部分の重要性も増していると感じているところですが、この点については後で述べたいと思います。

 条約は1984年12月に採択され(1987年6月発効)、2023年10月末の時点で、加盟している締約国は173カ国となっています。日本も1999年に加盟しました。締約国数の観点では、さらに多くの国家が締結している人権条約は他にありますが、国家権力の行使に一定の制約をかけることが主眼の拷問等禁止条約の性格に照らすと、国家のみならず市民社会を含めた国際社会が、拷問やそれに準じる取扱いや刑罰の禁止の重要性を広く訴え、粘り強く活動してきた成果と言えるでしょう。現在もさらにすべての国が加盟してくれることを目指して、拷問禁止委員会も活動を続けています。

1984年12月10日、国連総会で拷問等禁止条約が採択される様子。条約は、拷問を国際的犯罪だと定義し、締約国は拷問防止に責任を持つと主張し、犯罪実行者を処罰することを締約国に求めている。 UN Photo/Yutaka Nagata

 また条約の附属の議定書として、拷問等禁止条約選択議定書が2002年に採択(2006年発効)されています。選択議定書は拷問「防止」に主眼を置き、議定書の下に設置されている拷問防止小委員会が、締約国の様々な拘禁施設の視察を行い、その結果について報告・勧告を発出しています。2つの委員会は、常に連携を重視してそれぞれの活動を展開しています。その他、同じ条約の枠組みでは強制失踪条約(同委員会)、国連人権理事会の下での特別手続関連では拷問特別報告者らとの情報・意見の交換も定期的に実施しています。拷問禁止に関するネットワークが構築されてきています。

条約の射程:世界人権宣言とのつながり

 拷問等禁止条約は、その前文にも書かれているように、世界人権宣言第5条「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けることはない」の規定にルーツを有します。また今日の条約の運用状況に照らすと、世界人権宣言のその他の規定(第3条(生命・身体の自由)、第8条(効果的救済)、第9条(逮捕、抑留又は追放の制限)、第10条(公正な裁判)、第11条(無罪推定)、第14条(迫害からの庇護)等)とも密接にかかわる権利・義務規定を備えていると実感するところです。

詩人の谷川俊太郎さんとアムネスティ・インターナショナル日本がわかりやすい日本語に訳したバージョンの世界人権宣言より第5条

 条約第1条は拷問の「定義」を定めていますが、そこでは、①拷問は身体的なものであるか精神的なものであるかを問わない(形態)、②情報や自白を得たり、罰したり、脅迫・強要したり、差別したりすることを目的とし(目的)、③故意に人に苦痛を与える行為であり(意図)、④公務員その他公的資格で行動する者による行為あるいはそれらによる煽動・同意・黙認の下に行われる行為(行為者)、と大きく4つの要素が含まれています。政権による拷問や誘拐、あるいは日本に対しても指摘される刑事手続き上の課題等については、この定義に照らして検討できますが、様々な事例のなかには、目的や意図を証明するのが難しいものも多く、救済すべき事案であると考えられる場合でも、第1条だけでは十分にカバーしきれないのが実情です。

条約解釈の発展:ジェンダー平等の推進

 冒頭で、拷問等禁止条約の「等」が重要性を増していると述べました。条約では第1条に加えて、「その他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける」取扱いや刑罰を第16条で禁止しています。こちらについては、拷問禁止委員会の立場は、虐待の程度や目的・意図の厳格な立証は必要としないとしています。そのぶん被害者にとっては、第16条の違反を問う間口が広がることになります。

 条約のテキストは、それが起草された時代の背景や法原則、価値観等が反映されているわけですが、それにとどまらず、時代とともに移り変わり発展する「生きた文書」であることが重要です。情勢に応じた解釈の発展が求められます。

 この条約に関する発展の1つにはジェンダー平等の推進があると考えます。ジェンダー平等については、それを主眼とする女性差別撤廃条約の貢献が広く知られているところですが、拷問等禁止条約の文脈においても、性暴力、人工妊娠中絶、LGBTに関する問題が議論されています。ドメスティック・バイオレンス(DV)の禁止・防止を例にあげると、犯罪化・国内法整備(第4条)、被害者の救済申立て(第13条)、救済付与・リハビリ提供(第14条)等は条約の範疇となります。

 実際に、日本も2013年報告審査に関する拷問禁止委員会から改善勧告として、包括的な国内戦略の策定、身体的精神的ヘルスケアの提供、救済申立てへのアクセス保障、DV事件の効果的かつ公平な捜査と責任者の訴追、性的暴力に関する啓発活動等を要請されています。2024年4月1日に施行されるDV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の一部を改正する法律(令和5年法律第30号))では、保護命令制度の拡充や保護命令違反への厳罰化が図られるようですが、こうした国内法の運用が世界人権宣言や人権諸条約の趣旨に沿ったものとなるよう期待しています。

「すべての人に自由、平等、正義を」と謳う世界人権宣言

 一方で、各人権条約に設置されている委員会内でのジェンダー平等推進も大きな課題です。拷問禁止委員会はとりわけ、女性委員の少なさが長年指摘されています。現在(2023年11月)も10名の委員うち女性は3人にとどまり、国連人権条約機関の中で最も少ないと言われています。さらに2023年10月に実施された半数議席改選の選挙を受けて、2024年1月から2年間は、女性委員は日本とモルドバからの2名だけになります(10名の委員構成は、アメリカ、チリ、メキシコ、トルコ、中国、日本、モルドバ、モロッコデンマーク、ロシアとなる予定)。拷問禁止の世界にジェンダーの視点を取込み、法理をさらに発展させるためにも、微力ながらも頑張っていきたいと思っています。

ターク国連人権高等弁務官(右から5人目)と拷問禁止委員会。左端が筆者。

パンデミックと分断の危機を乗り越える

 最後に、拷問禁止に立ちはだかる課題について述べたいと思います。

 新型コロナウイルス感染症の拡大(パンデミック)は、私たちの日々の生活から国際情勢全般までを一変させました。ご存知のとおり、国連自体も対面での会議開催ができない時期があり、人権条約機関も各国の報告審査や個人通報、実地調査等の活動を一時停止することを余儀なくされました。バックログと呼ばれる積み残しの審査や案件を、いかに迅速に消化していくかは早急に解決の道筋を立てなければならない課題です。

 しかしそのような機構運営上の問題だけでなく、より実質的な問題、すなわちパンデミックによる人権状況の悪化はより深刻になっています。過密状態での長期収容、裁判手続の遅延、被拘禁者の医療アクセスの制限、難民等庇護を求める人々の押返しあるいは移動禁止等、感染症対策との関係では非常に難しいことであるものの、私たちを取り巻く人権問題は複雑化することになりました。拷問禁止委員会においても、かつては生じなかったこのような喫緊の課題について、どのような勧告をするべきか、各国情勢に関する情報を収集し、委員間で時間をかけて議論を重ね、検討する場面が顕著になりました。

 また、パンデミックによる国内外の分断だけでなく、国連中心の人権条約制度自体も、人権観を巡る分断の危機と常に背中合わせにあるように感じます。普遍的人権保障の枠組みに非協力的態度を示す国があったり、宗教原理を掲げて女性の権利を著しく制約する政権国家があったり、LGBTを処罰する国内法制定が広がりを見せたり等、世界には様々な懸念事案があります。他国の人権状況・問題へのコメント・批判は内政干渉であるという国際的人権保障の根本をゆるがす捉え方もまた、なかなか根強いものでありますが、これは人権条約機関の活動において、様々な国家との対話で乗り越えなければならない課題です。

 パンデミックや紛争を経て人権をめぐる分断が先鋭化しないよう、世界人権宣言75周年が、国家、市民社会、国際機関等のあらゆるアクターによる連携の下で、これまでの歩みを振り返り、将来展望について積極的に議論する契機になればと願っています。

 

(注)コラムに記した意見は所属委員会を代表するものではなく、私個人の見解とご理解いただければ幸いです。

2003年12月10日の人権デーに、国連本部ビルに浮かび上がった「拷問禁止」を訴えるアート・インスタレーション UN Photo/Eskinder Debebe



 

リレーエッセイ「人権とわたし」(4)石川准さん:障害者権利委員会委員としての4年を振り返って

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第4 回は、2017年から2020年まで、国連障害者権利委員会委員を務めていた石川准さんです。

 

障害者権利委員会委員としての4年を振り返って

富山県魚津市に生まれる。16歳の時に網膜剥離のため失明。東京大学点字入試で初めて合格。東京大学大学院社会学研究科修士課程、博士課程を経て、1986年に静岡県立大学国際関係学部専任講師となる。1999年からは同教授として、社会学・障害学の教育や研究に取り組む。また、支援工学分野の研究開発者として視覚障害者向けのソフトウェアを多数開発しており、静岡県立大学発のベンチャー企業であるエクストラでは代表取締役を務めている。2012年から10年間、内閣府障害者政策委員会委員長を務める。また、2017年から2020年まで、国連障害者権利委員会委員(2019年から2020年までは副委員長)を務める。

 

私は2017年から4年間、障害者権利委員会という障害者権利条約の条約機関の委員を務めました。条約機関とは、国際人権条約の締約国が条約の規定をどのように履行しているかを監視する、独立した専門家機関のことで、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の下に、9つの主要人権条約すべてに設置されています。条約機関は、締約国が条約を履行するよう促すことで、人権の普遍的かつ効果的な保護を実現することに貢献しています。

 

国際連合ジュネーブ事務所のエントランスに並ぶ万国旗 ©︎ Jun Ishikawa

 

条約機関の任務はそれぞれの人権条約によって規定されており、障害者権利委員会の任務は、以下のとおりです。

  • 締約国から提出された報告書を審査するとともに締約国政府との建設的対話を実施し、締約国に対して、条約の履行状況を改善するための勧告を行う。

  • 条約の特定の条項に関する一般的意見を採択し、その解釈を明確化する。

  • 個人からの申立てを審査し、人権侵害が認められる場合には、締約国に対して適切な措置をとるよう勧告する。

  • 締約国による系統的または深刻な条約違反を調査し、締約国に対して適切な措置をとるよう勧告する。

障害者権利委員会の委員としての4年間は、忘れがたい経験でした。私は春と夏の2回、ジュネーブでそれぞれ4週間を過ごしました(もっとも、最終年はコロナのため、春は中止、夏はオンラインでの開催となりました)。月曜の早朝から金曜の夕方まで、長い会議が続きました。当初、英語の長時間シャワーで私の脳は極限まで疲労し、シャットダウンすることもしばしばでした。

障害者権利委員会に参加する著者(左) ©︎ Jun Ishikawa

そんなとき、庭の芝生の上にピクニックシートを敷いて仮眠をとることもありました。連日の会議の激務を乗り越えるためのささやかな工夫でした。

 

心身ともにリフレッシュすることを試みながら、次の会議へと向かう日々だった
©︎ Jun Ishikawa

2019年からは、さらに責任が増し、副委員長として審査国政府との建設的対話の議長などの役割を果たしました。

建設的対話では、ギリシアの代表団が休憩時間に会議室のなかで円陣を組んで答弁の準備をする姿が印象深く、熟議の長い伝統を感じました。ルワンダは大量虐殺の悲劇を乗り越え、政府は修復的正義の努力を積み重ねており、障害者政策においても積極的な姿勢を見せ、未来に希望を感じました。

国別報告者として、ミャンマーパレスチナの障害者グループ・市民団体からは直接切々とした訴えを聞き、障害者権利委員会への厚い期待をひしひしと感じました。

インドの女性障害者のグループからは交差的差別の訴えを聞きました。「交差的差別」(Intersectional discrimination)は聞きなれない言葉かもしれません。少し説明します。交差的差別は、個人が複数のアイデンティティや社会的カテゴリーに属しているために経験する重層的な差別を指します。インドの女性障害者は、障害と性別、さらに身分、宗教、階級に関わる交差的な差別を経験していると訴えました。

ところで、障害者権利委員会の会議は国連欧州本部の会議室で開かれます。広大な欧州本部の敷地内や周辺には、平和や国際協力を象徴するさまざまな彫像やアートワークがあります。

なかでも「壊れた椅子(Broken Chair)」は有名です。壊れた椅子は高さ10メートルにもなる巨大な椅子で、国連欧州本部の前の広場に、国連欧州本部と向き合うように、応答を求めるように設置されています。壊れた椅子の一本の足が折れたデザインは、対人地雷の使用禁止を訴えており、「ハンディキャップ・インターナショナル」という市民団体がスイスのデザイナーに制作を依頼し、1997年8月に国連広場に設置されました。ジュネーブ市民から絶大な支持を受け、今日まで平和へのメッセージを送り続けています。

 

ジュネーブレマン湖の西端に位置する湖畔の都市です。そこから西にローヌ川が流れ出し、リヨンを通って南下しマルセーユのあたりで地中海に注いでいます。アルプスの最高峰モンブランジュネーブの東方、フランスとイタリアの国境にあり、天気が良ければジュネーブからはっきり見えるそうです。湖は冬の寒さを和らげ、夏の暑さを抑える役割を果たしています。

ジュネーブにはおいしい食材がたくさんあります。ペルシュという湖の淡水魚もそうです。私がジュネーブに行く機会があればもう一度食べたいと思うのがペルシュのフリットです。クリスピーに揚げられたペルシュは、レモンを添えて食べることが一般的です。

天気の良い時のレマン湖(左)ジュネーブの食材、ペルシュで作られたフリット(右)
©︎ Jun Ishikawa

ヨーロッパの諸都市はおそらく多くの日本人がイメージするよりもずっと北に位置しています。ジュネーブは北緯46度、パリは48度、ベルリンにいたっては52度です。稚内は北緯45度ですから、いかに北に位置しているかわかります。ヨーロッパの人々が、夏の到来を待ちかね、夏の終わりには早くも暗い冬のことを思って憂鬱な気分になるというのは頷けます。

パレ・デ・ナシオンの広場に設置されている「壊れた椅子(Broken Chair)」と万国旗の前にいる著者 ©︎ Jun Ishikawa

障害者権利条約の話にもどしましょう。この条約は主要人権条約のなかでも最も遅れてできた条約です。遅れてできた条約だからこそ、それだけ新しい考え方を取り入れた条約ともなっています。

この条約には多くの重要な考え方が盛り込まれていますが、特に革新的とされる考え方や原則として以下の点が挙げられます。

  • 障害者もまた、すべての人権と基本的自由を平等に享受する権利を持っていると規定している。

  • 障害を、障害を持つ人が社会と相互作用するときに生じる障壁として再定義している。

  • 障害者が直面する障壁の除去のための環境調整を拒むことを含め、障害を理由とする差別を禁止する法整備を締約国に求めている。

  • すべての人がアクセスしやすいように設計された商品や環境を実現する施策を締約国に求めている。

  • 障害を持つ人々が自分の人生についての決定を下す能力と権利を持っていることを強調し、そのための支援を締約国に求めている。

  • 障害を持つ人々が社会の全ての面で完全に参加する権利を確保するように締約国に求めている。

  • 独立した監視枠組みを国内に設置し、障害者の、監視への参画を確保するように締約国に求めている。

障害者権利条約は日本にも大きなインパクトを与えました。条約批准のために制度改革が実施され、障害者基本法の改正や、障害者差別解消法の制定などが実現しました。また内閣府障害者政策委員会が設置され、政府は障害者権利条約の批准に際して障害者政策委員会を「独立した国内監視枠組み」に指定しました。

私は内閣府障害者政策委員会の委員長を2012年から10年務めました。国連障害者権利委員会による対日審査はコロナの影響で遅れ、2022年の夏に実施されました。私も独立した国内監視枠組みの責任者として審査に出席し、冒頭ステートメントで、知的障害者などの法的行為能力を制限する成年後見制度から法的行為を支援する支援付き自己決定制度への改革が検討されていないこと、精神障害者の非自発的入院と緊急手段でも最終手段でもない身体拘束をなくすためのロードマップが策定されていないこと、特別支援学校と特別支援学級に在籍する児童生徒が引き続き増加しており分離教育からインクルーシブ教育へのパラダイムシフトが行なわれていないこと、を主要な懸念事項として指摘しました。

主要な懸念事項を示しえたこと、独立した国内監視枠組みをなんとか機能させられたこと、監視枠組みが機能していることを建設的対話の場で示しえたことで肩の荷が下りた思いです。

2008年に発行した障害者権利条約の下、障害者の権利のより効果的な保護に向けた政府や市民社会との対話が続いていく ©︎ Jun Ishikawa

改めて国連障害者権利委員会と内閣府障害者政策委員会の活動を振り返ってみると、多くの人々がそれぞれの場所と立場でできることを行い、それが繋がって道が開けてくることを実感できたのは得難い経験でした。

リレーエッセイ「人権とわたし」(3)寺谷広司さん:世界人権宣言採択75周年に寄せて――自由権規約委員会委員の立場から

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第3回は、自由権規約委員会で委員を務める寺谷広司さんです。

 

世界人権宣言採択75周年に寄せて―自由権規約委員会委員の立場から

自由権規約委員会の会期が通常行われているパレ・ウィルソン内。
世界人権宣言採択75周年のブースに立つ筆者。

東京大学大学院法学政治学研究科教授。東京大学法学部を卒業後、東京大学北海道大学などで国際法、国際人権法、国際刑事法などを専門に教鞭をとる。1998年-2000年ケンブリッジ大学ローターパクト国際法研究所客員研究員、2010-11年コロンビア大学ロースクール客員研究員、2010年ミシガン大学ロースクールおよび、2015年コロンビア大学ロースクールの交換客員准教授・教授も務める。国際法学会理事、国際法協会理事、等。2017年-2021年強制失踪委員会委員。2023年から自由権規約委員会委員。

 

1.はじめにーー世界人権宣言の誕生

 1948年12月に採択された世界人権宣言が、今年、採択75周年を迎えます。4分の3世紀は中途半端な数え方かもしれませんが、しかし、人のほぼ一生分(世界の平均余命は約73歳)だと考えると、なかなか感慨深いかと思います。国連(United Nations)は、その主たる目的は国際平和・安全の維持ですが、民主主義・人権保護を目指して枢軸国と戦った連合国(United Nations)側がつくった組織でもあります。世界人権宣言は第3回の国連総会で、冷戦開始の少し前に反対票なく採択されました。

国連広報局によってつくられた「世界人権宣言」パンフレット表紙のフランス語版、ロシア語版、英語版、中国語版複製(1948年)UN Photo

2.後継者としての自由権規約

 世界人権宣言は国連総会決議として採択された文書なので、法的拘束力がありません。また、宣言はするものの、履行を確保する制度上の裏付けがありません。そこで、その後、条約化を目指して20年近くをかけて議論して採択されたのが、社会権規約自由権規約の2つです(自由権規約の選択議定書を含めて数えれば3つです)2つに分けて採択されることになったのは、当時の国際社会の認識として自由権こそ「本当の」人権であり、社会権はそうでなく、条約化されるとしても別々の条約とすべきだとする理解があったためです。この状況は、国際情勢の東西対立や南北対立とも対応しています。

 自由権規約には現在173国が批准しており、相当数の普遍性を獲得しています。そして、この自由権規約の国家による履行を監督する機関が、自由権規約員会です。英語の正式表現は“Human Rights Committee”というごく普通のものですが、これは当時、並ぶものがほとんどなかったためです。その後この種の委員会が増えたため、日本語では「自由権規約委員会」と表記して区別するのが一般的になっています。

 対比的にいうと、上記事情のために社会権規約自体には履行確保の委員会が条約に規定されておらず、経済社会理事会がこれを設置したのは1985年になってのことでした。また、自由権規約にやや先行して人種差別撤廃条約も1965年に採択されており、監督機関を有しませんが1948年採択のジェノサイド条約を人権条約の先行として位置づけることも多いです。ただし、これらは特定主題の条約であり、社会権規約自由権規約のようにカテゴリカルに広く権利を対象としているものとは対比できます。

 

3.自由権規約委員会のお仕事

 では、委員会は実際にはどのように国家の条約履行を監督するのでしょうか?

 代表的には国家報告制度があります。各締約国が自国の人権状況の報告書を自身で作成して、それを委員会が審査します。いわば国家の自己評価なので、国家側からしても第三者から強制される性格が少なく利用しやすい制度です。もちろん、自己評価なので評価が甘くなるのではないかと思うでしょう。そこで、国家から独立した国内人権機関(日本にはありません)や、市民社会からの情報提供が重要になってきます。カウンター・レポートなりアルタナティヴ・レポートなりと呼ばれます。国家報告の審査は、国家代表と委員会の間で二日にわたって対話形式で計6時間行い、その後に、委員会内で検討し、最後的に「総括所見」という報告書を提出します。日本については、昨年2022年に第7回の国家報告審査が行われました(ちなみに、委員は出身本国の審査には加われません)

今年ジュネーブで開かれた第138回セッションの様子。

 

 履行確保のためのもう一つの重要な柱は、個人通報制度です。先に挙げた(第1)選択議定書を選択した国のみ参加するいわばオプショナル・コースであり、現在117か国が参加しています(日本は同議定書を批准していません)。国内で利用できるすべての措置を尽くした後、被害にあった個人が訴えを直接に委員会に持ち込めます。これが画期的な制度であったのは、1966年当時、国際社会といえば基本的には国家間関係であるところ、個人がそこに登場するからです。最終的には、裁判所でいう判決に相当する「見解」を委員会が出します。

 自由権規約委員会は、18名の国籍の異なる選挙で選ばれた委員から構成されます。現在の男女比は11:7で、地域では欧米がやや多く、アジアからは韓国のSohさんと私だけでややアンバランスです。委員たちの現在ないし以前の職は、私のような大学教員のほか、裁判官、検事、外交官、人権擁護者、国連職員などですが、この委員会は特に法律に精通している人がほとんどであることが特徴で、委員会への信頼の源泉の一つになっていると個人的には思っています。

 会期は年3回、ジュネーヴで行われます。通常、3月、7月、10月で、それぞれ4、5週間ほどです。これだけでは足らず、実際には公式の会期の一週間前から半数近くの委員が「ボランティア」で集まって個人通報の審議をしています。個人通報制度は他の人権条約機関にもありますが、老舗でかつカバーしている権利の範囲の広い自由権規約委員会への付託件数は突出していて、処理し切れていないためです。「ボランティア」とはいえ、そもそもこの作業がないと委員会の仕事が回らないので、誰かが必ずやらないといけません。このほか、コロナ禍を経験した人類の英知でオンライン会合が会期外でも時々あります。日本から参加するときは時差の関係で通常深夜に及びがちで、体力的には少々きついです。また当然ですが、国家報告なり個人通報なりの準備自体は会期期間外になりがちです。私の体感では、半年近く、委員会の業務に関わっているような気がします。ちなみに、当地での生活費等を除くと給与名目の支給はありません。ええ、かなりブラックな団体というべきかもしれません。

パレ・ウィルソンの外観。初期の国際連盟が入り、現在は国連人権高等弁務官事務所が入っており、国連旗が掲げられている。

4.委員としてのmindset

 ここまで書いていていて何ですが、実はこの原稿は2023年の10月会期に出かける飛行機の中で書いていて、暗い機内で独り目を瞑っていると、なぜ、こんなハードな仕事をしているのだろうかと想いを巡らせがちです。筆者の本業は大学教員であり、法学という実務的な学問を専攻しているとはいえ実務家ではありません。本業の論文執筆は締め切りを守られることの方が珍しくなりましたし、小さい子供と離れて過ごすのは少々きついところもあります。幸い、私の所属する大学と同僚、妻をはじめ家族の理解・協力があるので、何とかやっていけています。

 モチベーションの一つは、やはりこの仕事自体が楽しいからです。自分の専門分野の最前線を見ることができ、能力のある同僚達――そして、それより多くいる後ろで支えてくれているスタッフ達――の献身的働きぶりには心の底から感銘を受けています。しかし、より大きい側面は、あえて臆面もなく言えば「世のため人のため」です。あるいは、自分が恵まれていることの社会への恩返しです。逆に、自分のためならここまではやらないし、多分できないと思います。もっとゆったりしたペースで、もっと家庭生活とバランスを考えて仕事をするでしょう。そもそも研究者になる人間は、自分で好き勝手にやりたい人種です。ですから、自分のする決定が、関係者の人生をかなり直接に影響するというのは結構なプレッシャーとなります。何でもかんでも人権侵害と言って済むような話ではなく、実際に、様々なバランスの中で悩むことは多く、委員会内でもよく意見は対立します。それは研究対象として悩ましい論点だというタイプだけでなく、諸々の矛盾や無力感を引き受けることでもあります。「世のため人のため」――そして、意見が違ってもそうした志を共有できる同僚委員と励まし合い、共により良い社会を作ろうと思えることが大きな支えです。

審議が行われる会議場で。委員長のTania María ABDO ROCHOLLさんと

 意外に思うでしょうけれど、私自身は「人権」を崇高な理念だとは思っていません。人権は、個々人の幸福の条件であって、幸福は各人で努力しなくては実現できませんし、人権を持っているからと言って立派な生き方ができるわけではありません。しかし、考えてみて下さい。拷問されないとか、恣意的に逮捕されないとか、そんなの、たり前じゃないですか。つまり、崇高な理念であってはいけなくて、当たり前の現実でないといけないんです。人権が政治体制を問わずに実現されるべきだというのは、それが当たり前の条件だからと私は理解していてます。しかし!多くの国で、それが実際には難しいのです。

 

5.結び

 迂闊にも、委員としての心の在りようを晒しました。ところで、これもまた当然のことですが、人権の保護・伸長といったことは自由権規約委員会だけでできるわけではなく、むしろ、諸国家、各国の諸団体、市民社会、そこに属する人々、つまり社会に生きるすべての個々人の心の在りようにかかっています。

 先に、自由権規約は世界人権宣言とは異なり、法的拘束力があって委員会による制度的な履行確保を備えていると言いましたが、そうした制度も、個々の委員や関係者の志、さらには社会の各所で生きている個々人の志がなければ動きません。世界人権宣言の起草者の一人であるエレノア・ルーズベルトさんの有名な言葉が繰り返し引用されるのは、この点からしてもとてもよく理解できます。

“Where, after all, do universal human rights begin? In small places, close to home – so close and so small that they cannot be seen on any maps of the world. Yet they are the world of the individual person; the neighbourhood he lives in; the school or college he attends; the factory, farm or office where he works.

https://www.un.org/en/teach/human-rights

 

結局のところ、普遍的人権はどこで始まるのでしょうか。小さくて、身近な、それゆえに世界のどんな地図でも見つけられないすぐ足元から始まるのです。けれども、それこそが一人一人が生きている世界なのです。人権は、暮らしている地域、通っている学校や大学、働いている工場や農場、オフィスなどから始まるのです。(国連広報センター訳)

委員会の仕事で世界人権宣言を参照することはあまりないのですが、世界人権宣言は人権の保護・伸長にとって重要な源泉だといえるのです。Happy birthday、75歳、おめでとう。これからも宜しく。

 

ブラジルの画家オタビオ・ロス氏による世界人権宣言啓発のイラスト。
第一条からの文言「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」が添えられている。

 

リレーエッセイ「人権とわたし」(2)大谷美紀子さん:なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第2回は、国連子どもの権利委員会委員を務める大谷美紀子さんです。

 

なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

1987年、上智大学法学部国際関係法学科卒業。1990年より弁護士。人権問題に関心を持ち、子どもの権利条約について学んだことがきっかけで、人権教育、国連の人権活動、国際人権法に関心を持ち、米国に留学。国連人権高等弁務官事務所ニューヨーク事務所でインターン。1999年、コロンビア大学国際関係公共政策大学院修了。帰国後、2003年、東京大学法学政治学研究科修士課程専修コース修了(国際法専攻)。弁護士として、また、NGO活動を通して、子どもの人権、女性の人権、外国人の人権問題に取り組む。2017年から、日本人初の国連子どもの権利委員会委員(2025年まで)。2021年5月から2023年5月まで、同委員長。

 

 私の職業は弁護士です。それとは別に、私は、2017年から、国連子どもの権利委員会の委員を務めています。また、2021年5月から2023年5月までの2年間は、委員長も務めました。いずれも、日本人として初めてということで、インタビューを受け、新聞でも取り上げていただきました。その中で、どうして国連の委員になろうと思ったのか、また、子どもの人権問題について取り組む思いについて、よく質問されました。そこで、改めて、私が子どもの権利条約について取り組むようになったきっかけや思いについて、書かせていただきます。

 国連子どもの権利委員会は、1989年に国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」(子どもの権利条約)を批准・加入(条約に参加する手続)した国(締約国)による条約の実施状況を監視し、改善のための勧告を行う活動をしています。委員会には、締約国から指名された候補者の中から締約国による選挙で選ばれた18人の委員がいます。委員は、自国の代表でもなく、国連の職員でもなく、個人専門家として活動します。具体的には、1年に3回、4週間ずつスイスのジュネーブに滞在し、締約国から提出された報告書について、ユニセフなどの国連機関、NGOや子どもたちから情報提供のために提出された報告書も参照しながら、締約国の代表団(関係各省の大臣や職員、ジュネーブに常駐する大使などが中心)との間で条約の実施状況について質疑応答を行い、その結果に基づいて勧告を採択します。

ジュネーブで子どもの権利委員として活動する筆者

 実は、私は、子どもの頃から、将来は、人のために役に立つ仕事をしたいと思っていました。高校生の時に、国連のことを知り、国連で仕事をしたいと思うようになりました。そこで、外交官や国連での仕事を目指す学生が学べるという上智大学法学部国際関係法学科に入学し、国際機構論や国際政治などを勉強し始めた1983年、アメリカがユネスコ脱退を表明し、衝撃を受けました。アメリカのような強大な力を持った国の存在、パワーポリティクスの現実を見て、自分が国連という組織に入って何ができるのかと無力感を感じたのです。大学を卒業したら企業に就職するという日本の多くの大学生のキャリアパスに比べて、当時、国連職員になるための情報も乏しく、社会に出て早く仕事に就きたかった私にとって、国連職員へのキャリアパスが具体的に描きにくかったことも一因でした。

 国連職員になるという具体的な目標を失った私は、悩んだ末に、かわりの職業を選ぶかわりに、まずは、専門的な力をつけようと考え、法律を選びました。友人の一家が法律問題を抱えて一緒に悩んだことや、私の学科が法学部の中にあり、法律科目を勉強して身近に感じていたこともありますが、社会で人のために役に立つ仕事をするうえで、法律の専門知識は必ず力になるに違いないと考えたことが一番の理由です。そして、私は、研究と実務のうち、実務を選びました。社会の中で直接、人と関わる形で人のために仕事をしたかったからです。そのためには、司法試験に合格して資格を取らなくてはいけないとわかり、司法試験を受けることにしました。

 こうして、私は、1990年に弁護士になりました。そのための勉強の中で、日本国憲法の平和主義、人権について学び、熱い思いを抱きました。ところが、弁護士になってすぐに見た現実の社会には、憲法に書かれている平等や人権の理想とは程遠い、差別や人権侵害がありました。そんな中で、弁護士であることから、人権について講演を頼まれたことがありました。私は、社会の中で、弁護士は人権の専門家と思われているにもかかわらず、憲法の人権論を勉強してきた以外に、人権問題についての深い理解や人権感覚を磨くような教育を受けてきたわけではないことを恥ずかしく思うようになりました。特に、憲法で学んできた、人権侵害とは、国家による個人の人権の侵害であるという考え方と、実際に社会の中で人々が差別され、人権が侵害されていると感じる場面の多くは、他の個人や企業との間で起きていることとのギャップを強く感じました。また、裁判所は人権救済の最後の砦というけれど、弁護士を見つけ、依頼することの困難、裁判の費用と期間、裁判の過程での二次的被害の問題にも気付きました。

 こうして人権問題について考えるようになった後、1993 年に、子どもの権利条約のことを知りました。

子どもの権利条約が採択された国連総会(1989年)には、当時のユニセフ親善大使オードリー・ヘップバーン氏も出席  UN Photo/ John Isaac

 また、ユニセフで開発教育を担当していた方が来日し、お話を伺う機会がありました。その話に刺激を受け、私は、差別や人権侵害が起きた場合の裁判による救済が必要であるのと同時に、差別や人権侵害が起きないような社会にするためには、遠回りではあるけれど、教育が重要ではないかと考えるようになりました。こうして、弁護士の仕事をする傍ら、図書館に通い、「人権教育」について書かれた本を探している中で、ある日、国連広報センターからの情報で、1993年6月にウィーンで開かれた世界人権会議で、人権教育の重要性が強調され、そのための取組みが始まったことを知りました。1994年の国連総会で、1995年から2004年までの10年間を、人権教育のための国連10年と定める決議が採択されたというのです。もっと知りたい!と思って、国連広報センターに問い合わせをしましたが、それ以上の詳しい情報はまだないと言われ、私は、国連寄託図書館として指定されている東京大学総合図書館に、国連総会決議を調べに行きました。

170か国以上が参加したウィーンでの世界人権会議(1993年)  UN Photo

 これが、私が国連の人権活動に関心を持つようになったきっかけです。私は、国連が第二次世界大戦後の1945年10月に創設された時、国連憲章の中で、国連の目的の1つとして、平和と並んで人権が明記されたことを知りました。平和の実現のためには、世界中ですべての人の人権が保障されなくてはいけないという思想に感動しました。国連は、国連憲章の目的に基づいて、1946年に世界人権宣言の起草を開始し、東西冷戦の始まりとベルリン封鎖という緊張した国際情勢の中で危ぶまれながらも、1948年12月10日、初めての世界共通の人権基準として、世界人権宣言を採択したのです。そして、国連が、人権を教育によって普及するために世界人権宣言を500以上もの言語に翻訳し普及に努めてきたこと、さらに、世界人権宣言を法的に拘束力のある条約を起草し採択してきたこと、条約によって設立された委員会が条約の実施を監視する活動をしてきたこと、こうした国連による人権活動について学びました。

世界人権宣言のポスターを掲げる起草委員会のエレノア・ルーズベルト委員長(1949年)
UN Photo

 特に、私が感銘を受けたのは、人権教育のための国連10年行動計画の中に謳われていた人権教育」とは、人権という普遍的文化を構築するために行われるものであり、知識だけでなく、スキルや態度の形成が重視されていたことでした。差別や人権侵害が起きない社会にするためには、すべての人の人格・尊厳、人権を尊重し、差別をしないということが、一人ひとりの考え方や価値観、態度の中に育まれ、行動基準になっていくことが大事だと漠然と漠然と感じていたことに対して、国連から、そのとおり!と言ってもらえた気持ちがしました。

子どもの権利条約の採択30年を記念した総会のハイレベル会合で、「We the Children」の合唱を披露する子どもたち(2019年)UN Photo/Manuel Elías

 そのような「人権教育」は、子どもから始めることが重要です。実際、子どもの権利条約29条には、こどもの教育の目的の1つとして、人権の尊重を育成することが挙げられています。そして、子ども自身が自分の人権を知り、一人の人格として尊重され、尊厳を持って扱われ、他人の人権を尊重することを学ぶには、家庭、学校、地域で、子どもにかかわるすべての大人の考え方、言葉づかい、態度、行動の中に人権が根付いていくことが必要です。

 

クリーンで健康的かつ持続可能な環境への子どもたちの権利を守るために、国連子どもの権利委員会は各国がとるべき指針を発表し、そのプロセスには日本の子ども1500人も参加。子どもと気候変動など、新たな課題にも取り組む。

 

 子どもの人権に焦点をあて、子どもの人権教育を進めることが社会の変革につながる!-これが、私が子どもの人権条約の実施に取り組むようになった理由です。この原点を忘れずに、今後も、子どもの人権のために、力を尽くしていきたいと思います。

子どもの権利委員会メンバーとともに(2列目中央が筆者)OHCHR ウェブサイトより 




リレーエッセイ「人権とわたし」(1)秋月弘子さん:幸運な国の不運な女性?

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第1回は女子差別撤廃委員会委員を務める秋月弘子さんです。

 

幸運な国の不運な女性?

亜細亜大学国際関係学部教授、2019年1月より国連女性差別撤廃委員会委員。国際基督教大学大学院行政学研究科博士課程修了(学術博士)。国連開発計画 (UNDP) プログラム・オフィサー、北九州市立大学助教授、コロンビア大学大学院国際公共政策研究科客員研究員などを経て、2002年より現職。主な著書は『国連法序説』(単著、国際書院、1999年)、『国際社会における法と裁判』(共著、国際書院、2014年)、『人類の道しるべとしての国際法』(共著、国際書院、2011年)など。©︎ Hiroko Akizuki

 

世界人権宣言採択75周年、おめでとうございます。

第二次世界大戦前、人権問題は国内管轄事項とされ、いずれかの国で甚だしい人権侵害があったとしても、一般的には国際的な場で議論されることはありませんでした。それが、国連が創設されたことにより、「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重する」ことが国連の目的となり(国連憲章第1条第3項)人権は国際問題化されました。その後、国際社会における人権問題への取組みは目覚ましく発展してきました。その発展の第一歩となったのが、1948年に総会決議として採択された世界人権宣言です。

私は今、国連の女性差別撤廃委員会の委員として、各国における女性と少女の権利保護の進捗状況を監視する仕事をしています。

女性の権利に関しては、世界人権宣言第2条で、すべての人は性別、その他の差別を受けることなく権利と自由とを享有することができると規定しています。1966年に採択された「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」、および、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」も、第3条において、男女の同等の権利を保障しています。その後、女性の権利に関するいくつかの条約の採択を経て1979年に「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女性差別撤廃条約)」が採択されました。

189ヵ国(国連加盟国のアメリカ、イラン、スーダンソマリアパラオ、トンガが批准しておらず、国連非加盟国であるクック諸島パレスチナが批准している)が締約国となっている女性差別撤廃条約は、ほぼすべての国が参加する普遍的な条約です。また、国籍、教育、保健、雇用、意思決定への参加、女性に対する暴力、売春による搾取など、女性が直面するあらゆる問題、および、農山村の女性、先住民の女性、障害を持つ女性、庇護を求める女性、性的少数者の女性など、脆弱な女性の問題のほぼすべてを扱うことのできる包括的な条約となっており、まさに「女性の権利章典」となっています。

 

ニューヨーク国連本部で開かれた2022年の「女性に対する暴力撤廃国際デー」記念式典では少女たちが合唱を通して女性に対すジェンダー平等を訴えた ©︎ UN Photo/Loey Felipe


女性差別撤廃条約によって設置された女性差別撤廃委員会は、締約国が国内で女性差別撤廃条約をきちんと履行しているかを監視し、女性の権利の進展を評価し、さらに進展させるための方法を勧告しています。1回の会期で8ヵ国ずつ、1年に3回で合計24ヵ国の審査を行っていますが、女性の権利状況は、国によって大きな違いがあります。

 

現在の女性差別撤廃委員会は、アジア太平洋、アフリカ、欧州、中東、南米の様々な国から選出された委員で構成されている。 (右から2人目が筆者、OHCHRウェブサイトより)

 

封建的、伝統的な国では、未だに女性が権利の主体とはみなされず、男性の所有の対象であるかのように結婚、就職、居住、離婚、財産の所有などで差別を受けたり、夫が妻に暴力を振うことが許されたりしています。女性個人の人権よりも家父長的な家制度が重視され、レイプされた娘を父親が殺害(名誉殺人)することが横行している国もあります。法律で禁止されているにもかかわらず、女性性器切除(FGM)が文化、伝統、慣習の名のもとに行われている国もあります。

日本のように法律で男女平等が規定されている国においても、実社会の中では固定化された男女役割分担(ステレオタイプ)意識が根強く残り、「男性は社会に出て働く、女性は家で家事、育児、介護を行う」ことを前提とした社会制度・構造が残っています。女性差別撤廃条約は、法律上の男女平等だけを目指しているのではなく、事実上の平等、つまり、実社会の中での実質的なジェンダー(社会的、文化的に作られた性差)平等を目指しています。国連は、完全にジェンダー平等な社会ができるまでには300年近くかかると報告しています。社会を変えるために、人々の心の中にあるジェンダーに関する無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)と真剣に取り組まなければなりません。

北・西欧の人権意識が高いように見える国でも、裁判制度の中にジェンダー差別が残っています。まだ裁判官、検察官に男性が多く、判断を下す際に無意識の偏見(たとえば、痴漢や性暴力に会った女性は、男性を誘惑するような肌を露出した衣服を身に付けていたに違いない、など)が左右する可能性があるからです。ジェンダーに配慮した(ジェンダー中立的な)判断を下せるように、司法関係者の啓発を続けていく必要性があります。

持続可能な開発目標(SDGs)の目標5「ジェンダー平等を実現しよう」のターゲットうち、現時点で達成が見込めているのは15%のみだ ©︎ UN Photo/Manuel Elías

締約国の条約履行の監視以外にも、女性差別撤廃委員会は、40年以上も前に採択された女性差別撤廃条約を、国際社会における人権意識の向上、人権問題の変化に適応させるために、一般勧告と呼ばれる新たな解釈を採択したり、女性差別撤廃条約選択議定書の下の個人通報手続および調査手続により、権利侵害の被害女性からの通報を受け付けて救済したり、重大な権利侵害の状況を調査したりもしています。

最近の世界的課題としては、女性に対する暴力の増加があげられます。とくに、コロナ感染症パンデミックで家に閉じこもる時間が増えたため、世界的に家庭内暴力が増えたことが報告されています。また、女性が職を奪われ経済力を失う、家族が家に居ることにより家事、介護の負担が増えるなど、女性にとくに大きな負担がのしかかっています。コロナの影響の緩和策、コロナ後の経済政策の中で、とくに女性の過剰な負担を取り除くようなジェンダーに配慮した政策が望まれます。

また、保守主義の台頭と人権擁護者に対する抑圧や暴力の増加も危惧されます。これまで認められていた中絶を禁止し、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツを否定する動きが増えています。また、性的志向性自認(SOGI)という言葉を使うことすら否定するような動きもみられます。もちろん、LGBTIの方々に対する暴力、そして、女性の権利およびLGBTIの方々の権利保護を求める人権擁護者に対する暴力、殺害なども見られます。世界が一丸となってジェンダー平等に突き進む未来が見えないことが本当に心配です。

アフガニスタンで唯一の産科病院で、女性たちが待機している © UNICEF/Shehzad Noorani

 

さらに、アフガニスタンでは、実効支配を確立したタリバン事実上の当局が、女性の教育の権利、働く権利を奪ってしまいました。追い詰められた女性の中で、健康被害も出ているようです。タリバン当局には、女性と少女の権利を守るよう説得していかなければいけないのですが、タリバン当局は国民を正当に代表していないという正統性の問題があるため、タリバン当局の正統性を認めないという立場を明確にしながら、タリバン当局を説得していかなければならないという難しい問題が生じています。また最近は、アフガニスタンの状況を「ジェンダーアパルトヘイト」と定義し、この「ジェンダーアパルトヘイト」という言葉を国際法に取り込むべきだという主張も出てきており、新たな課題となっています。

 

2023年4月、国連安全保障理事会は、タリバンがアフガンニスタンで国連の女性の現地職員が勤務することを禁止したことを非難する決議を全会一致で採択 ©︎ UN Photo/Loey Felipe

 

日本に関しては、ジェンダー・ギャップ指数で146ヵ国中125位である、という事実は広く知られているのではないかと思います。なぜそれほど低いのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本は政治と経済の分野で大きな問題を抱えています。政治の分野は国会議員の女性比率が10.3%で193ヵ国中164位、経済の分野では女性管理職比率が低く146ヵ国中123位です。どちらも、意思決定過程への女性の参加が低く、ここが日本の大きな問題となっています。つまり、ジェンダー平等を進めるために社会を変革しなければいけないのに、女性が意思決定に参加していないため女性の意見が法律、政策等に反映されず、男性優位な硬直的な社会を変えることができない、という状況に陥っています。社会全体で女性の参加、リーダーシップの必要性を考え、少なくとも30%は女性の参加を確保するためにクオータ制を導入する必要があります。

 

日本の国会議員に占める女性の割合は1980年には他国と同程度だったが、いまは大きく後れを取っている ©︎ 亜細亜大学

途上国や紛争地域のように、今日、明日、命に危険が及ぶ可能性が高い国は、女性の大臣たちが、女性を保護し、能力を強化するための政策を熱く語ってくれます。貧しく危険な状況にある女性を心配しながらも、彼女たちにはより良い未来が来るのではないかと期待をもって話を聞くことができます。振り返って日本の現状を見ると、今日、明日の命の危険性が少ないことは日本の幸運ではあるが、命の危険性がないからこそ、人権を真剣に考える機会が奪われ、ジェンダー差別を深刻な人権問題としてとらえられていない現状は、日本の女性の不運なのではないかと感じてしまうのは私だけでしょうか。

スーダンからの退避

 

スーダンで活動中の筆者

【略歴】本多麻純(ほんだ・ますみ) 大学卒業後民間企業での勤務を経て国際協力を行うNGOに入職。東北やハイチの地震被災者支援、シリアやミャンマーアフガニスタンスーダンにおける地雷対策を含む人道支援に従事。休職中、2017年から2019年までスウェーデン、ウプサラ大学にてロータリー平和フェローとして平和紛争修士号を取得し、卒業後一年間は同学部で研究助手およびロータリー平和センターのコーディネーターとして勤務。2021年10月より国連地雷対策サービス部(UNMAS)スーダン事務所プログラム・マネージメント・オフィサーとして勤務。

※クレジットのない写真は筆者提供

 

Family Duty Station(家族随伴が許可されている赴任地)での戦闘

「明日、一人15㎏までの荷物をまとめて集合場所に集まってください。翌日未明に陸路での退避を開始します。」

ようやく出された退避命令。スーダンの首都、ハルツームで激しい戦闘が始まった4月15日からちょうど一週間経った金曜日のことでした。

戦闘開始からの7日間、私は夫と子どもと共に自宅のアパートで、近づいたり遠のいたりする銃声や空爆音に恐れおののきながら、家に残っているわずかな飲料水、食料そして発電機用の燃料を節約しながら籠城していました。人生で一番長く感じたこの7日間に息子は7歳になりましたが、やっと馴染んできた現地の学校の友達を招いたささやかな誕生会の計画は言うまでもなくキャンセル。ごちそうもプレゼントもない誕生日、家族3人で生きてこの状況を脱出することを祈り、「安全な場所に行ってから必ず誕生会をやり直すからね」と約束して過ごしました。

戦闘開始直後に市内の国際空港が爆破され、あっという間に空路退避の可能性は断たれました。近隣都市にある国内線空港も占拠され、そこへ行くための経路が戦闘でふさがれていました。そして、合意しては反故にされる休戦協定の知らせに退避への希望が薄らいでいきました。連日行われる国連の調整会議では、食料や水、また通信手段が尽きてきているという職員の状況が共有され始め、退避に向けた具体的な方策も見えておりませんでしたが、最終的に、700人を超える国連職員や国際NGO職員、外交官、その家族など希望者全員を陸路で一斉に退避させるという、半ば、賭けのような決断が下りました。

首都ハルツーム、アル・タイフ地区で爆発の後に立ち上る煙 ©Open Source

やっと脱出できる。しかし、私たちは自家用車もなく、近隣の戦闘音は鳴りやみません。逃げようとした外国人や地元スーダン人でも、兵士に荷物や車を奪われたり、暴行されたりというニュースがすでに飛び交っており、どうやって国連職員の集合地点に行くかが問題でした。そんな中、UNMASの同僚が私たちの救出作戦に手をあげてくれました。彼の自宅から私のアパートまで2キロメートル強。よく仕事帰りに送ってくれた経路ですが、今は武装した兵士であふれる危険な道のりでした。

地雷や不発弾などの爆発物処理の専門家だけあって、防護服をまとい、UNロゴの入ったブルーヘルメットをかぶり、私たちを迎えに来てくれた同僚のその姿はまさにヒーローでした。同じ10キログラムもする防護服とヘルメットをもう一セット持ってきていて、「ちょっと我慢してね」と言いながら息子に着せてくれました。

問題だらけではあったものの住み慣れた家にたくさんの思い出の品、なけなしの財産すべてを残して、ようやくの出発です。私たちがいるからと、自分も避難せずに留まってくれたアパートの管理人には、手元にあったスーダンポンドの現金を渡し、お礼を言って別れました。車に乗り込み、安堵の気持ちと同時に、緊張も高まります。

 

緊迫するチェックポイントを抜け800キロを移動

往路では12ヵ所のチェックポイントを潜り抜けてきたとのこと。難なく通過できたから大丈夫だと同僚は言います。途中、散弾銃で打ち抜かれた住居を横目に、次から次に出てくるチェックポイントをやり過ごします。武器を持った兵士に怪しまれないよう、あえて窓を開けて両手を出すよう言われ、その通りにしていました。

退避中の車中から。前方には隊列をリードする車両が並ぶ

中間地点を超えたころ、あるチェックポイントを通り過ぎようとしたときに呼び止められました。心臓が止まりそうになりながらも、平静を保ちつつ、兵士の命令通り車を降りました。防護服が重たく、自力で出られない子どもに手を貸します。英語がまったく通じず、何を言われているのかわからないまま、3人の兵士に銃口を向けられ、ひざまずくよう命じられ、私たち一人ずつの入念な身体検査が始まりました。すべてのポケット、リュックサック、車に積んでいた荷物もくまなく手を入れられました。子どもの防護服の内側までしらべていました。また、途中、近隣で交わされる銃撃戦の音がこだまし、私たち大人3名がひざまずいた状態のまま、子どもだけ数歩大人たちから離れたところへ誘導されたときは、一瞬、すべての終わりが頭をよぎり、深い恐怖に襲われましたが、金目の物と携帯電話を盗りきると、他の荷物をしまって行けと合図されました。

このとき、子どもの荷物には、昨年のクリスマスにサンタクロースからもらったロボットのおもちゃが入っていて、それを取り出した兵士がそのおもちゃを不思議そうに調べ「これは何だ?」とジェスチャーしていました。きっとロボットのおもちゃなんて手にすることのない幼少期を過ごしたのでしょう。また、兵士にしては皆とても華奢な体つきでした。彼らももしかしたら少年兵だったのかもしれない、などと想像しながら、なんとか命が助かってよかったと胸をなでおろしつつ、止まらないアドレナリンラッシュに身を任せるしかありませんでしたが、私たちをわずかな時間拘束した彼らが今ここに至った経緯について思いを巡らさずにはいられませんでした。子どももさぞかし怖かっただろうと、抱きしめ、「じっと静かに我慢していて偉かったね」とその勇気を心からほめたたえました。

その後、長い、長い5キロメートルの移動の末、他の国連職員や国際NGOの職員などが集う集合地点に到着しました。普段、仕事のミーティングや休日のカフェなどで見知った顔も、皆避難生活に疲弊しきっていました。お互いの無事を喜び、苦労をねぎらいあいながら、翌日の長旅に備えてしばしの休息をとります。翌朝未明、何十台もの大型バスやミニバス、その他数えきれないほどの車両で隊列を組み、800キロメートルを超える陸路での大移動が始まりました。途中、様々なトラブルはあったものの、大きな事故はなく、全員無事に一次退避先であるポートスーダンにたどり着くことができ、そこからは各自国外の目的地に向けて、旅立っていきました。

ポートスーダンに到着し、ヴォルカー・ペルテス国連事務総長特別代表(SRSG)兼国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)代表(当時)が皆に慰労と激励の言葉をかける

このとき、私たちを含む邦人やその家族四十数名は、日本政府が用意してくれた輸送機に乗り、いち早くスーダン国外への脱出がかないました。調整に奔走してくださった在スーダンおよび在ジブチ日本大使館の職員のみなさま、また自身も被災しながら退避邦人の心身の健康を最優先してくださったスーダン大使館医務官の先生に心より感謝申し上げます。

 

スーダンの今

邦人の退避が完了してから日本での報道がめっきり減ってしまったスーダンでの紛争。激しさを増しながら今でも続いています。直近の報告では、4月15日以降、550万人が避難を余儀なくされました。このうち110万人は国外へ逃れ、チャドやエジプト、南スーダンなどの近隣諸国で難民となっています。残りの440万人は、国内でより安全な場所に移り、劣悪な環境にあるIDP(国内避難民)キャンプなどで暮らしています。

これまでも民族紛争が絶えず、低開発に苦しんできたスーダンでは、多くの国連機関やNGO人道支援や開発支援を行ってきていました。さらに、気候変動の影響にも脆弱であるため、干ばつや豪雨の被害が著しく、国民の多くが大規模な食糧支援や生計支援に頼ってきていました。

2021年に完成した地雷対策研修センター。日本の支援への感謝が示されている。

今回は、これまでの紛争や人道危機と異なり、首都ハルツームが激戦地となりました。それにより、これまで支援を実施してきた国連機関やNGOのほとんどが一時的に機能不全に陥ってしまい、人道危機はより一層深刻さを増しています。10月現在、援助機関は現地での活動を再開しつつありますが、それでも各地で続く戦闘と日々悪化する人道ニーズを前に、必要とされる支援のほとんどが届けられていません。

 

おびただしい数の不発弾

私が所属する国連地雷対策サービス部(UNMAS)は、能力強化や資金調達、またプログラム運営支援などを通じてスーダン政府が実施する地雷対策活動を支えてきていました。また、2021年以降は国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)の一部として、文民保護や平和構築の分野において、ミッションの活動も支えてきました。国際連合安全保安局(UNDSS)と協力して、新しく赴任した国連職員やNGOスタッフを対象に爆発物リスクに関する安全研修を実施したり、他組織の依頼を受けて道路に地雷・不発弾の危険がないかを調査するなど、スーダンで活動する援助関係者の安全を守る重要な役割を果たしてきました。

地雷探知機の機能を点検するUNMAS職員

前述の通り、スーダンでは、独立した1950年代以降、数年から数十年にもわたる紛争が何度も繰り返されてきました。これらの紛争で使われた地雷やその他の爆発物による汚染を、2002年以降20年以上かけて取り除き、実に138平方キロメートルを安全な土地に戻し、復興・開発を可能にしてきました。残りの汚染地域は約33平方キロメートル。2027年までにすべての地雷を除去し、「地雷のない”mine free”スーダン」を実現しようと、計画を練り直したところでしたが、今回の紛争で多くの兵器が使われ、おびただしい数の不発弾が新たな汚染を生んでいます。

西ダルフール州にある世界食糧計画(WFP)事務所の敷地内で見つかった不発弾。
UNMAS職員が危険サインを立て除去。

現在特に懸念されているのは、戦闘の舞台の多くが、ハルツームを含む都市であることです。人口密度の高い都市部で爆発性兵器が使用されることによって、攻撃対象だけでなく、多くの民間人が被害を受け、また住居や上下水、電気、ガスなど生活インフラ、そして病院や学校などの公共施設が破壊されます。将来停戦合意がなされ、市街地に残された不発弾を処理する際も、住宅街やインフラ設備の中や付近に残された不発弾を、周辺の住民を危険にさらさず、また建物崩壊など二次被害を起こさずに安全に処理するためには、これまでスーダンでは必要とされなかった特殊な技術と経験が必要です。

スーダン初の試みとして女性の地雷除去員を育成する研修での卒業式の様子。
(2021年12月)

さらに、今回の紛争が始まるまで地雷や不発弾のリスクにさらされていなかったこれらの都市部に住む人々は、爆発物の回避教育を受けたことがありません。スーダンの国内外に避難している人々のうち7割以上がハルツームから逃げてきていますが、こういった人々が、不発弾で溢れる街に戻るとき、また避難先で地雷原や不発弾を目にしたときに安全な行動をとれるよう、今、回避教育を行うことが喫緊の課題です。

今年9月に行われた爆発物危険回避教育の様子

スーダンに平和を

19世紀前半以降エジプト、イギリス、そしてイギリスとエジプト両国による征服、植民地支配が続き、独立運動を経て1956年に独立したスーダンですが、その前年1955年には北部と南部の内戦が始まり、20年以上続きます。その間にも、何度も軍事クーデターが繰り返され、1983年には第二次内戦が開始。そして2003年には「21世紀最初の大虐殺」とも呼ばれるダルフール紛争が起きます。2005年の南北和平合意を経た2011年の南スーダン独立後も、スーダン国内では、ダルフール紛争を含む、民族や宗教といったアイデンティティを軸とした紛争が各地で続き、無数の民間人が犠牲になっています。

2019年、スーダンは歴史的転換点を迎えます。民主化を求める市民のデモを背景に、軍部がバシール大統領を拘束・解任し、30年以上続いた独裁政権が終焉を迎えたのです。翌年2020年には、ジュバ和平合意が結ばれ、(一部を除く)主要反政府勢力とスーダン政府間の和解が実現しました。しかしながら、待望された民主主義と平和をスーダンの人々が勝ち取ろうとしているまさにそのとき、さらなる軍事クーデターが起き、民政移管を進めていた暫定政府が国軍に乗っ取られる形となりました。全国で、民衆による抵抗運動が展開しましたが、治安部隊によって激しく鎮圧されていきました。

この間、国連含む国際社会は、クーデターを糾弾しつつも、スーダンが、一度乗りかけた民主化に向けたレールに戻れるよう、軍隊を含む各方面のアクターと対話や調整を進めていました。その結果暫定文民政府設立のための枠組みが2022年12月に合意されたのですが、それも束の間、わずか4ヵ月後に激しい戦闘が始まってしまいました。

今回退避では、とても怖い思いをし、たくさんのものを失った私たちですが、家族や友人を奪われ、生まれ育った家や財産、仕事を失い、さらに民主化と平和への希望を踏みにじられたスーダンの人々の怒りと悲しみはいかばかりか。一日も早く、停戦が合意され、人々の安全が守られることを願ってやみません。そして、スーダンに真の平和が訪れ、人々が、肌の色や部族、宗教、性別やジェンダーによって命を奪われたり、住む場所を追われたり、基本的人権を否定されたりすることなく、豊かで尊厳のある生活を送れる社会が実現されることを強く願いつつ、今は、爆発性兵器による被害が少しでも減るよう、日々の業務に努めてまいります。

休暇中に家族で訪れたスーダンのピラミッド。
平和が訪れ、再びこの美しい風景を見ることができますように。

 

グラフィックスで見る「気候変動」ファクト

猛暑厳しい夏だった2023年、世界各地で最高気温を記録、世界気象機関(WMO)によると、今年の6~8月は観測史上最も暑い3か月となりました。各地で山火事や豪雨などの異常気象が頻発し、これまでにない気候を実感した方が多いのではないでしょうか。

気候変動とは、気温および気象パターンの長期的な変化を指します。世界中の専門家が執筆に加わった「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の報告書は、地球温暖化の主因は人間の活動によるものだと明記しています。最近では、人間の活動による気候変動が異常気象などの発生率や強度をどの程度変えたか定量評価する「イベント・アトリビューション」の研究もさかんに行われるようになっています。

人間の様々な活動による温室効果ガスの継続的な排出が地球温暖化を進行させている中、それをなんとか止めようと、各国は世界の平均気温の上昇を産業革命以前と比べて1.5度に抑えるよう努力することを目標に掲げています。気温上昇が1.5℃以上になると、連鎖的で不可逆的な気候になる恐れがあるとされているからです。すでに、1.1℃の気温上昇に至り、今世紀末までに2.2℃~3.5℃ 上昇する可能性もあるとIPCCは報告しています。

気温上昇の度合いによって、未来のシナリオは変わってきます。いま何が起きているのか、どんなことが予想されるのか、科学に即したグラフィックスで見ていきます。(2023年10月4日時点で発表されているデータに依拠しています。)

 

数度の差が未来を変える

1.気温が2℃以上上昇すると、サンゴ礁が消える恐れ

今年、海洋の熱波も過去最高に達し、海洋生態系に壊滅的影響を与えていると専門家は警告しています。サンゴ礁は特に気候変動の影響を受けやすく、平均気温が1.5℃上昇すると、その70~90%が、2℃上昇すると99%が消滅すると言われています。水温の上昇で起こるサンゴの白化現象を防ぐなどの保護活動も各地で進められています。

 

2.山火事の範囲が広がる

今年の夏は、カナダ、中国、地中海沿岸諸国などで、大規模な山火事が起きました。カナダでは制御不能な山火事が660件以上も同時に起きる緊急事態となりました。これも気候変動の影響とされています。気温が高い気候条件では、山火事が発生しやすく、急速に拡大しやすくなるのです。地中海の夏の平均気温が1.5℃上昇すると、山火事で焼失する面積が41%、2℃上がると62%、3℃の場合は97%増加すると予測されています。

 

3.哺乳類の生息域に大きく影響

気温上昇が進むと、陸上の動物の大半の生息域が劇的に縮小すると予測されています。 1.5℃上昇で哺乳類の4%が 、2℃で哺乳類の8%が、 3℃で哺乳類の41%が、生息地域の半分を失います。生息域の変化によって種の入れ替わりが激しくなり、世界的な絶滅のリスクを大幅に高める可能性があります。

 

4.海面上昇は、この30年で2倍以上に

世界の平均海水面は、2013年から2022年に年間平均で4.5mm上昇し、過去最高となりました。これは1993年から2002年までの2.1mm上昇の2倍を超えており、主に氷床から氷塊が失われる速度が速まったことに起因しています。海面の上昇は沿岸に住む数億人に多大な影響を及ぼします。2050年には、世界の人口の10人に1人が洪水が起きやすい沿岸部に住むことになると2022年のIPCC報告書は述べています。

 

IPCC報告書の数字から見る人類への影響

1.世界の人口の45%が気候変動に対して非常に脆弱

気候変動に影響に対して非常に脆弱な人々の数は33~36憶人にのぼると推測され、世界の人口の半数近く45%にあたります。異常気象による災害や干ばつなどによって、避難を余儀なくされる人の数は増加し、武力紛争によって生まれる避難民の3倍とも言われています。

また、いま気候変動は人類が直面する最大の健康上の脅威となっています。大気汚染、疾病、異常気象、強制避難、食糧不安、メンタルヘルスへの圧迫などによって、人々の健康にすでに大きく影響しています。毎年、環境要因によって約1300万人の命が奪われています。

 

2.世界で3人に1人が致命的な熱ストレスにさらされている

熱波は毎年、何千、何万もの人々の命を奪っています。世界の人口のおよそ30%が、年に20日以上致命的な熱波にさらされ、致命的な熱ストレスを受けています。今年7月、世界各地で最高気温が更新されました。アメリカ、中国の一部では、気温が50℃を超えました。異常な高温は、命の危険や、暮らしの困難に直結しています。地球温暖化が進めば、熱波はさらなる頻度を持って発生すると予想されています。

 

3.世界で2人に1人が深刻な水不足を経験

いま、世界の2人に1人が、気候変動が影響した洪水、干ばつなどの異常気象の影響で、年間のある時点で深刻な水不足を経験しています。地球温暖化は、以前から水が乏しかった地域の水不足を悪化させており、農地の干ばつのリスクを高め、農作物の収穫に影響をもたらし、さらに生態系の脆弱性を高めています。気候危機は、水の危機でもあり、水の危機はさらなる環境の悪化や食料の不安定化にもつながります。

 

4.気候変動に最も寄与していない人々がより大きな被害

過去10年で洪水、干ばつ、嵐などによって命を落とした人々の数を比較すると、気候関連の災害に対し、非常に脆弱な地域と、それほど脆弱ではない地域では15倍の開きがあり、アフリカ、南アジア、中南米の人々や小島嶼国の住民は、気候関連災害で亡くなる可能性が15倍高くなっています。その多くは、気候変動に最も寄与していない人たちです。アフリカの温室効果ガス排出量は世界全体の4%ですが、気候変動の最悪の影響を受けています。

気候変動に関する意思決定の中核に、公平性と人権を起き、不平等をなくしていく「気候正義」がますます問われています。

 

気候変動対策:やるべきこと、その先の未来

1.温室効果ガスの排出を2030年までに約半分に

人が住みやすい気候を維持するためには、2010年時と比較して、2030年までに温室効果ガス排出を43%削減し、2050年までに正味ゼロ・エミッションを達成する必要があります。その軌道に乗せるためには、気候変動の最大の要因とされる化石燃料からの脱却をただちに進めなくてはいけません。

再生可能エネルギーへの投資を2050年までに3倍、クリーンエネルギーからの電力供給を今後2030年までに2倍にしなければなりません。

 

2.再生可能エネルギーのコストは10年で大幅に低下

今年5月のG7 広島サミットでは、再生可能エネルギー導入拡大の数値目標が掲げられました。資源エネルギー庁によると、日本でも、水力、太陽光、風力、バイオマス、地熱などの再エネの導入は2012年から2020年の間に3.9倍と世界トップクラスのスピードで進んでいます。しかし、日本の再エネ普及率は 20.3%(2021 年度)で、40%前後の欧州主要国との開きがあり、化石燃料への依存度は依然として高い状況が続いています。

再エネはコストがかかるという理解はいまや過去のものとなっています。国際再生可能エネルギー機関(IRENA)2021年の発表によると、2010年から2020年の間に、再エネ技術の価格は急速に下落し、太陽光発電の電力コストは85% 、陸上および洋上風力エネルギーのコストは、それぞれ 56% 、48% 低下しました。

再エネはいま、最も安価な電力供給源の一つとなっています。国際エネルギー機関(IEA)最新報告書は、いまクリーンエネルギーへの投資が業界をけん引し、今年、太陽光発電への投資額が石油生産への投資を初めて上回るとの見通しを示しました。

一部の国では、すでに電力のほぼ100%を再生可能エネルギーで賄っています。日本でも、再エネで地域の世帯数分のエネルギーをまかない、さらに売電事業により収益を得ている自治体も出てきています。IRENAは、2050年までに世界の電力の90%を再生可能エネルギーで賄うべきであり、それは可能だとしています。

 

3.再生可能エネルギーによる雇用の可能性

世界の再エネの雇用は、2019年時点で1150万人に達しました。この数は2050年までに4200万人、化石燃料産業で失われた雇用の3倍となるとの予想もあり、再エネシステムの製造、設置、運用、保守などに従事する機会を生み出すことができます。

同時に、脱炭素社会に向けてのキーワード「公正な移行」も守られなければなりません。化石燃料産業に従事する労働者や地域が取り残されてはならないのです。

国際労働機関(ILO)は、2016年に「環境面から見て持続可能な経済とすべての人のための社会に向かう公正な移行を達成するための指針」を策定しました。2021年の国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)では、この指針に沿って、「公正な移行宣言」が発表されています。持続可能な経済と社会の実現、そしてすべての人のディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)につながる機会の創出でなくてはなりません。

 

4.上位20か国が排出量の75%を占める現実 

2022年の国連環境計画(UNEP)の排出ギャップ報告書によると、上位20カ国の温室効果ガス排出量が、世界全体の排出量の75%を占めており、日本もその中に含まれます。(アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、韓国、メキシコ、ロシア、サウジアラビア南アフリカ、トルコ、英国、米国)

一方、最も排出量の少ない100カ国での排出量は全体の3%のみです。より多くの問題を生み出している国々や人々は、行動に対する責任がより大きくなっています。グテーレス国連事務総長は、G7各国に対し、石炭の利用を2030年までに段階的に廃止することや、途上国の脱炭素化の加速に向けて支援するよう求めています。

先進国の私たちのこの10年の行動が未来を変えると言っても過言ではありません。そして私たちにできることはまだあります。

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5.気候危機は人権の危機:人権と気候変動に関連する裁判がこの5年で2倍に

いま、人権と気候危機の強い関連性が世界各地の法廷で取り上げられています。UNEPの最新の報告によると、去年末時点で2180件の気候関連訴訟が提起され、人々が政府や企業の責任を追及しています。子どもや若者の主導するものもあり、気候変動、生物多様性 の損失、汚染という3つの地球規模の危機に、その訴えは5年で2倍以上になっています。

国連総会は2022年7月、クリーンで健康、かつ持続可能な環境へのアクセスは普遍的人権であると宣言する歴史的な決議を採択しています。ヴォルカー・ターク人権高等弁務官は、「気候変動への対応は人権問題」だと述べました。2020年は、気候が原因で3070万人が故郷を追われ、そうした人々が、食料、水、衛生、住居、健康、教育への権利、さらに生きる権利まで脅かされる状況もあります。基本的人権の観点から、こうした人たちへの包括的な保護が必要だと専門家は述べています。

今年、国連子どもの権利委員会は、健全な環境への子どもたちの権利を認め、各国に化石燃料の段階的廃止や再エネへの移行など、実行すべき指針を出しています。気候危機の解決を次世代に託すのではなく、迅速かつ大規模な行動が、今求められています。誰もが人権を守られ、健全に生きていくためにも、気候変動は、私たちがどの未来に向かうのかを問いかけています。

 

グラフィックスで気候変動を見つめてきました。基本的な情報から、関連国際機関のリンク、これまでの気候変動に関するUNニュースやビデオなど、気候変動に関する情報を日本語でこちらにまとめています。

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国連本部ウェブサイト(英語)の気候変動に関する参考ページはこちらより。

Causes and Effects of Climate Change (気候変動の原因と結果) 

Climate Action Fast Facts (気候アクションとファクト)

Global Issues Climate Change (世界的課題 気候変動)