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リレーエッセイ「人権とわたし」(2)大谷美紀子さん:なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第2回は、国連子どもの権利委員会委員を務める大谷美紀子さんです。

 

なぜ子どもの人権問題に取り組むのか

1987年、上智大学法学部国際関係法学科卒業。1990年より弁護士。人権問題に関心を持ち、子どもの権利条約について学んだことがきっかけで、人権教育、国連の人権活動、国際人権法に関心を持ち、米国に留学。国連人権高等弁務官事務所ニューヨーク事務所でインターン。1999年、コロンビア大学国際関係公共政策大学院修了。帰国後、2003年、東京大学法学政治学研究科修士課程専修コース修了(国際法専攻)。弁護士として、また、NGO活動を通して、子どもの人権、女性の人権、外国人の人権問題に取り組む。2017年から、日本人初の国連子どもの権利委員会委員(2025年まで)。2021年5月から2023年5月まで、同委員長。

 

 私の職業は弁護士です。それとは別に、私は、2017年から、国連子どもの権利委員会の委員を務めています。また、2021年5月から2023年5月までの2年間は、委員長も務めました。いずれも、日本人として初めてということで、インタビューを受け、新聞でも取り上げていただきました。その中で、どうして国連の委員になろうと思ったのか、また、子どもの人権問題について取り組む思いについて、よく質問されました。そこで、改めて、私が子どもの権利条約について取り組むようになったきっかけや思いについて、書かせていただきます。

 国連子どもの権利委員会は、1989年に国連総会で採択された「子どもの権利に関する条約」(子どもの権利条約)を批准・加入(条約に参加する手続)した国(締約国)による条約の実施状況を監視し、改善のための勧告を行う活動をしています。委員会には、締約国から指名された候補者の中から締約国による選挙で選ばれた18人の委員がいます。委員は、自国の代表でもなく、国連の職員でもなく、個人専門家として活動します。具体的には、1年に3回、4週間ずつスイスのジュネーブに滞在し、締約国から提出された報告書について、ユニセフなどの国連機関、NGOや子どもたちから情報提供のために提出された報告書も参照しながら、締約国の代表団(関係各省の大臣や職員、ジュネーブに常駐する大使などが中心)との間で条約の実施状況について質疑応答を行い、その結果に基づいて勧告を採択します。

ジュネーブで子どもの権利委員として活動する筆者

 実は、私は、子どもの頃から、将来は、人のために役に立つ仕事をしたいと思っていました。高校生の時に、国連のことを知り、国連で仕事をしたいと思うようになりました。そこで、外交官や国連での仕事を目指す学生が学べるという上智大学法学部国際関係法学科に入学し、国際機構論や国際政治などを勉強し始めた1983年、アメリカがユネスコ脱退を表明し、衝撃を受けました。アメリカのような強大な力を持った国の存在、パワーポリティクスの現実を見て、自分が国連という組織に入って何ができるのかと無力感を感じたのです。大学を卒業したら企業に就職するという日本の多くの大学生のキャリアパスに比べて、当時、国連職員になるための情報も乏しく、社会に出て早く仕事に就きたかった私にとって、国連職員へのキャリアパスが具体的に描きにくかったことも一因でした。

 国連職員になるという具体的な目標を失った私は、悩んだ末に、かわりの職業を選ぶかわりに、まずは、専門的な力をつけようと考え、法律を選びました。友人の一家が法律問題を抱えて一緒に悩んだことや、私の学科が法学部の中にあり、法律科目を勉強して身近に感じていたこともありますが、社会で人のために役に立つ仕事をするうえで、法律の専門知識は必ず力になるに違いないと考えたことが一番の理由です。そして、私は、研究と実務のうち、実務を選びました。社会の中で直接、人と関わる形で人のために仕事をしたかったからです。そのためには、司法試験に合格して資格を取らなくてはいけないとわかり、司法試験を受けることにしました。

 こうして、私は、1990年に弁護士になりました。そのための勉強の中で、日本国憲法の平和主義、人権について学び、熱い思いを抱きました。ところが、弁護士になってすぐに見た現実の社会には、憲法に書かれている平等や人権の理想とは程遠い、差別や人権侵害がありました。そんな中で、弁護士であることから、人権について講演を頼まれたことがありました。私は、社会の中で、弁護士は人権の専門家と思われているにもかかわらず、憲法の人権論を勉強してきた以外に、人権問題についての深い理解や人権感覚を磨くような教育を受けてきたわけではないことを恥ずかしく思うようになりました。特に、憲法で学んできた、人権侵害とは、国家による個人の人権の侵害であるという考え方と、実際に社会の中で人々が差別され、人権が侵害されていると感じる場面の多くは、他の個人や企業との間で起きていることとのギャップを強く感じました。また、裁判所は人権救済の最後の砦というけれど、弁護士を見つけ、依頼することの困難、裁判の費用と期間、裁判の過程での二次的被害の問題にも気付きました。

 こうして人権問題について考えるようになった後、1993 年に、子どもの権利条約のことを知りました。

子どもの権利条約が採択された国連総会(1989年)には、当時のユニセフ親善大使オードリー・ヘップバーン氏も出席  UN Photo/ John Isaac

 また、ユニセフで開発教育を担当していた方が来日し、お話を伺う機会がありました。その話に刺激を受け、私は、差別や人権侵害が起きた場合の裁判による救済が必要であるのと同時に、差別や人権侵害が起きないような社会にするためには、遠回りではあるけれど、教育が重要ではないかと考えるようになりました。こうして、弁護士の仕事をする傍ら、図書館に通い、「人権教育」について書かれた本を探している中で、ある日、国連広報センターからの情報で、1993年6月にウィーンで開かれた世界人権会議で、人権教育の重要性が強調され、そのための取組みが始まったことを知りました。1994年の国連総会で、1995年から2004年までの10年間を、人権教育のための国連10年と定める決議が採択されたというのです。もっと知りたい!と思って、国連広報センターに問い合わせをしましたが、それ以上の詳しい情報はまだないと言われ、私は、国連寄託図書館として指定されている東京大学総合図書館に、国連総会決議を調べに行きました。

170か国以上が参加したウィーンでの世界人権会議(1993年)  UN Photo

 これが、私が国連の人権活動に関心を持つようになったきっかけです。私は、国連が第二次世界大戦後の1945年10月に創設された時、国連憲章の中で、国連の目的の1つとして、平和と並んで人権が明記されたことを知りました。平和の実現のためには、世界中ですべての人の人権が保障されなくてはいけないという思想に感動しました。国連は、国連憲章の目的に基づいて、1946年に世界人権宣言の起草を開始し、東西冷戦の始まりとベルリン封鎖という緊張した国際情勢の中で危ぶまれながらも、1948年12月10日、初めての世界共通の人権基準として、世界人権宣言を採択したのです。そして、国連が、人権を教育によって普及するために世界人権宣言を500以上もの言語に翻訳し普及に努めてきたこと、さらに、世界人権宣言を法的に拘束力のある条約を起草し採択してきたこと、条約によって設立された委員会が条約の実施を監視する活動をしてきたこと、こうした国連による人権活動について学びました。

世界人権宣言のポスターを掲げる起草委員会のエレノア・ルーズベルト委員長(1949年)
UN Photo

 特に、私が感銘を受けたのは、人権教育のための国連10年行動計画の中に謳われていた人権教育」とは、人権という普遍的文化を構築するために行われるものであり、知識だけでなく、スキルや態度の形成が重視されていたことでした。差別や人権侵害が起きない社会にするためには、すべての人の人格・尊厳、人権を尊重し、差別をしないということが、一人ひとりの考え方や価値観、態度の中に育まれ、行動基準になっていくことが大事だと漠然と漠然と感じていたことに対して、国連から、そのとおり!と言ってもらえた気持ちがしました。

子どもの権利条約の採択30年を記念した総会のハイレベル会合で、「We the Children」の合唱を披露する子どもたち(2019年)UN Photo/Manuel Elías

 そのような「人権教育」は、子どもから始めることが重要です。実際、子どもの権利条約29条には、こどもの教育の目的の1つとして、人権の尊重を育成することが挙げられています。そして、子ども自身が自分の人権を知り、一人の人格として尊重され、尊厳を持って扱われ、他人の人権を尊重することを学ぶには、家庭、学校、地域で、子どもにかかわるすべての大人の考え方、言葉づかい、態度、行動の中に人権が根付いていくことが必要です。

 

クリーンで健康的かつ持続可能な環境への子どもたちの権利を守るために、国連子どもの権利委員会は各国がとるべき指針を発表し、そのプロセスには日本の子ども1500人も参加。子どもと気候変動など、新たな課題にも取り組む。

 

 子どもの人権に焦点をあて、子どもの人権教育を進めることが社会の変革につながる!-これが、私が子どもの人権条約の実施に取り組むようになった理由です。この原点を忘れずに、今後も、子どもの人権のために、力を尽くしていきたいと思います。

子どもの権利委員会メンバーとともに(2列目中央が筆者)OHCHR ウェブサイトより 




リレーエッセイ「人権とわたし」(1)秋月弘子さん:幸運な国の不運な女性?

 

今年は「世界人権宣言」が採択されてから75周年の節目です。国連創設の3年後に現代人権法の礎となる文書が生まれた背景には、第二次世界大戦中で特定の人種の迫害や大量虐殺などを許してしまった経験から、人権問題が国際社会全体にかかわる問題であり、人権の保障が世界平和の基礎であるという考え方が主流になったことがあります。30条からなる人権宣言は、すべての国のすべての人が享受すべき基本的な市民的、文化的、経済的、政治的および社会的権利を包括的に規定するものです。

採択から75年経った今、国連人権条約機関の委員や国連の人権特別報告者を務める専門家の方々に「人権とわたし」をテーマに、国連での活動や所管する人権分野の動向などについて、シリーズで寄稿していただきます。シリーズ第1回は女子差別撤廃委員会委員を務める秋月弘子さんです。

 

幸運な国の不運な女性?

亜細亜大学国際関係学部教授、2019年1月より国連女性差別撤廃委員会委員。国際基督教大学大学院行政学研究科博士課程修了(学術博士)。国連開発計画 (UNDP) プログラム・オフィサー、北九州市立大学助教授、コロンビア大学大学院国際公共政策研究科客員研究員などを経て、2002年より現職。主な著書は『国連法序説』(単著、国際書院、1999年)、『国際社会における法と裁判』(共著、国際書院、2014年)、『人類の道しるべとしての国際法』(共著、国際書院、2011年)など。©︎ Hiroko Akizuki

 

世界人権宣言採択75周年、おめでとうございます。

第二次世界大戦前、人権問題は国内管轄事項とされ、いずれかの国で甚だしい人権侵害があったとしても、一般的には国際的な場で議論されることはありませんでした。それが、国連が創設されたことにより、「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重する」ことが国連の目的となり(国連憲章第1条第3項)人権は国際問題化されました。その後、国際社会における人権問題への取組みは目覚ましく発展してきました。その発展の第一歩となったのが、1948年に総会決議として採択された世界人権宣言です。

私は今、国連の女性差別撤廃委員会の委員として、各国における女性と少女の権利保護の進捗状況を監視する仕事をしています。

女性の権利に関しては、世界人権宣言第2条で、すべての人は性別、その他の差別を受けることなく権利と自由とを享有することができると規定しています。1966年に採択された「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」、および、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」も、第3条において、男女の同等の権利を保障しています。その後、女性の権利に関するいくつかの条約の採択を経て1979年に「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女性差別撤廃条約)」が採択されました。

189ヵ国(国連加盟国のアメリカ、イラン、スーダンソマリアパラオ、トンガが批准しておらず、国連非加盟国であるクック諸島パレスチナが批准している)が締約国となっている女性差別撤廃条約は、ほぼすべての国が参加する普遍的な条約です。また、国籍、教育、保健、雇用、意思決定への参加、女性に対する暴力、売春による搾取など、女性が直面するあらゆる問題、および、農山村の女性、先住民の女性、障害を持つ女性、庇護を求める女性、性的少数者の女性など、脆弱な女性の問題のほぼすべてを扱うことのできる包括的な条約となっており、まさに「女性の権利章典」となっています。

 

ニューヨーク国連本部で開かれた2022年の「女性に対する暴力撤廃国際デー」記念式典では少女たちが合唱を通して女性に対すジェンダー平等を訴えた ©︎ UN Photo/Loey Felipe


女性差別撤廃条約によって設置された女性差別撤廃委員会は、締約国が国内で女性差別撤廃条約をきちんと履行しているかを監視し、女性の権利の進展を評価し、さらに進展させるための方法を勧告しています。1回の会期で8ヵ国ずつ、1年に3回で合計24ヵ国の審査を行っていますが、女性の権利状況は、国によって大きな違いがあります。

 

現在の女性差別撤廃委員会は、アジア太平洋、アフリカ、欧州、中東、南米の様々な国から選出された委員で構成されている。 (右から2人目が筆者、OHCHRウェブサイトより)

 

封建的、伝統的な国では、未だに女性が権利の主体とはみなされず、男性の所有の対象であるかのように結婚、就職、居住、離婚、財産の所有などで差別を受けたり、夫が妻に暴力を振うことが許されたりしています。女性個人の人権よりも家父長的な家制度が重視され、レイプされた娘を父親が殺害(名誉殺人)することが横行している国もあります。法律で禁止されているにもかかわらず、女性性器切除(FGM)が文化、伝統、慣習の名のもとに行われている国もあります。

日本のように法律で男女平等が規定されている国においても、実社会の中では固定化された男女役割分担(ステレオタイプ)意識が根強く残り、「男性は社会に出て働く、女性は家で家事、育児、介護を行う」ことを前提とした社会制度・構造が残っています。女性差別撤廃条約は、法律上の男女平等だけを目指しているのではなく、事実上の平等、つまり、実社会の中での実質的なジェンダー(社会的、文化的に作られた性差)平等を目指しています。国連は、完全にジェンダー平等な社会ができるまでには300年近くかかると報告しています。社会を変えるために、人々の心の中にあるジェンダーに関する無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)と真剣に取り組まなければなりません。

北・西欧の人権意識が高いように見える国でも、裁判制度の中にジェンダー差別が残っています。まだ裁判官、検察官に男性が多く、判断を下す際に無意識の偏見(たとえば、痴漢や性暴力に会った女性は、男性を誘惑するような肌を露出した衣服を身に付けていたに違いない、など)が左右する可能性があるからです。ジェンダーに配慮した(ジェンダー中立的な)判断を下せるように、司法関係者の啓発を続けていく必要性があります。

持続可能な開発目標(SDGs)の目標5「ジェンダー平等を実現しよう」のターゲットうち、現時点で達成が見込めているのは15%のみだ ©︎ UN Photo/Manuel Elías

締約国の条約履行の監視以外にも、女性差別撤廃委員会は、40年以上も前に採択された女性差別撤廃条約を、国際社会における人権意識の向上、人権問題の変化に適応させるために、一般勧告と呼ばれる新たな解釈を採択したり、女性差別撤廃条約選択議定書の下の個人通報手続および調査手続により、権利侵害の被害女性からの通報を受け付けて救済したり、重大な権利侵害の状況を調査したりもしています。

最近の世界的課題としては、女性に対する暴力の増加があげられます。とくに、コロナ感染症パンデミックで家に閉じこもる時間が増えたため、世界的に家庭内暴力が増えたことが報告されています。また、女性が職を奪われ経済力を失う、家族が家に居ることにより家事、介護の負担が増えるなど、女性にとくに大きな負担がのしかかっています。コロナの影響の緩和策、コロナ後の経済政策の中で、とくに女性の過剰な負担を取り除くようなジェンダーに配慮した政策が望まれます。

また、保守主義の台頭と人権擁護者に対する抑圧や暴力の増加も危惧されます。これまで認められていた中絶を禁止し、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツを否定する動きが増えています。また、性的志向性自認(SOGI)という言葉を使うことすら否定するような動きもみられます。もちろん、LGBTIの方々に対する暴力、そして、女性の権利およびLGBTIの方々の権利保護を求める人権擁護者に対する暴力、殺害なども見られます。世界が一丸となってジェンダー平等に突き進む未来が見えないことが本当に心配です。

アフガニスタンで唯一の産科病院で、女性たちが待機している © UNICEF/Shehzad Noorani

 

さらに、アフガニスタンでは、実効支配を確立したタリバン事実上の当局が、女性の教育の権利、働く権利を奪ってしまいました。追い詰められた女性の中で、健康被害も出ているようです。タリバン当局には、女性と少女の権利を守るよう説得していかなければいけないのですが、タリバン当局は国民を正当に代表していないという正統性の問題があるため、タリバン当局の正統性を認めないという立場を明確にしながら、タリバン当局を説得していかなければならないという難しい問題が生じています。また最近は、アフガニスタンの状況を「ジェンダーアパルトヘイト」と定義し、この「ジェンダーアパルトヘイト」という言葉を国際法に取り込むべきだという主張も出てきており、新たな課題となっています。

 

2023年4月、国連安全保障理事会は、タリバンがアフガンニスタンで国連の女性の現地職員が勤務することを禁止したことを非難する決議を全会一致で採択 ©︎ UN Photo/Loey Felipe

 

日本に関しては、ジェンダー・ギャップ指数で146ヵ国中125位である、という事実は広く知られているのではないかと思います。なぜそれほど低いのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本は政治と経済の分野で大きな問題を抱えています。政治の分野は国会議員の女性比率が10.3%で193ヵ国中164位、経済の分野では女性管理職比率が低く146ヵ国中123位です。どちらも、意思決定過程への女性の参加が低く、ここが日本の大きな問題となっています。つまり、ジェンダー平等を進めるために社会を変革しなければいけないのに、女性が意思決定に参加していないため女性の意見が法律、政策等に反映されず、男性優位な硬直的な社会を変えることができない、という状況に陥っています。社会全体で女性の参加、リーダーシップの必要性を考え、少なくとも30%は女性の参加を確保するためにクオータ制を導入する必要があります。

 

日本の国会議員に占める女性の割合は1980年には他国と同程度だったが、いまは大きく後れを取っている ©︎ 亜細亜大学

途上国や紛争地域のように、今日、明日、命に危険が及ぶ可能性が高い国は、女性の大臣たちが、女性を保護し、能力を強化するための政策を熱く語ってくれます。貧しく危険な状況にある女性を心配しながらも、彼女たちにはより良い未来が来るのではないかと期待をもって話を聞くことができます。振り返って日本の現状を見ると、今日、明日の命の危険性が少ないことは日本の幸運ではあるが、命の危険性がないからこそ、人権を真剣に考える機会が奪われ、ジェンダー差別を深刻な人権問題としてとらえられていない現状は、日本の女性の不運なのではないかと感じてしまうのは私だけでしょうか。

スーダンからの退避

 

スーダンで活動中の筆者

【略歴】本多麻純(ほんだ・ますみ) 大学卒業後民間企業での勤務を経て国際協力を行うNGOに入職。東北やハイチの地震被災者支援、シリアやミャンマーアフガニスタンスーダンにおける地雷対策を含む人道支援に従事。休職中、2017年から2019年までスウェーデン、ウプサラ大学にてロータリー平和フェローとして平和紛争修士号を取得し、卒業後一年間は同学部で研究助手およびロータリー平和センターのコーディネーターとして勤務。2021年10月より国連地雷対策サービス部(UNMAS)スーダン事務所プログラム・マネージメント・オフィサーとして勤務。

※クレジットのない写真は筆者提供

 

Family Duty Station(家族随伴が許可されている赴任地)での戦闘

「明日、一人15㎏までの荷物をまとめて集合場所に集まってください。翌日未明に陸路での退避を開始します。」

ようやく出された退避命令。スーダンの首都、ハルツームで激しい戦闘が始まった4月15日からちょうど一週間経った金曜日のことでした。

戦闘開始からの7日間、私は夫と子どもと共に自宅のアパートで、近づいたり遠のいたりする銃声や空爆音に恐れおののきながら、家に残っているわずかな飲料水、食料そして発電機用の燃料を節約しながら籠城していました。人生で一番長く感じたこの7日間に息子は7歳になりましたが、やっと馴染んできた現地の学校の友達を招いたささやかな誕生会の計画は言うまでもなくキャンセル。ごちそうもプレゼントもない誕生日、家族3人で生きてこの状況を脱出することを祈り、「安全な場所に行ってから必ず誕生会をやり直すからね」と約束して過ごしました。

戦闘開始直後に市内の国際空港が爆破され、あっという間に空路退避の可能性は断たれました。近隣都市にある国内線空港も占拠され、そこへ行くための経路が戦闘でふさがれていました。そして、合意しては反故にされる休戦協定の知らせに退避への希望が薄らいでいきました。連日行われる国連の調整会議では、食料や水、また通信手段が尽きてきているという職員の状況が共有され始め、退避に向けた具体的な方策も見えておりませんでしたが、最終的に、700人を超える国連職員や国際NGO職員、外交官、その家族など希望者全員を陸路で一斉に退避させるという、半ば、賭けのような決断が下りました。

首都ハルツーム、アル・タイフ地区で爆発の後に立ち上る煙 ©Open Source

やっと脱出できる。しかし、私たちは自家用車もなく、近隣の戦闘音は鳴りやみません。逃げようとした外国人や地元スーダン人でも、兵士に荷物や車を奪われたり、暴行されたりというニュースがすでに飛び交っており、どうやって国連職員の集合地点に行くかが問題でした。そんな中、UNMASの同僚が私たちの救出作戦に手をあげてくれました。彼の自宅から私のアパートまで2キロメートル強。よく仕事帰りに送ってくれた経路ですが、今は武装した兵士であふれる危険な道のりでした。

地雷や不発弾などの爆発物処理の専門家だけあって、防護服をまとい、UNロゴの入ったブルーヘルメットをかぶり、私たちを迎えに来てくれた同僚のその姿はまさにヒーローでした。同じ10キログラムもする防護服とヘルメットをもう一セット持ってきていて、「ちょっと我慢してね」と言いながら息子に着せてくれました。

問題だらけではあったものの住み慣れた家にたくさんの思い出の品、なけなしの財産すべてを残して、ようやくの出発です。私たちがいるからと、自分も避難せずに留まってくれたアパートの管理人には、手元にあったスーダンポンドの現金を渡し、お礼を言って別れました。車に乗り込み、安堵の気持ちと同時に、緊張も高まります。

 

緊迫するチェックポイントを抜け800キロを移動

往路では12ヵ所のチェックポイントを潜り抜けてきたとのこと。難なく通過できたから大丈夫だと同僚は言います。途中、散弾銃で打ち抜かれた住居を横目に、次から次に出てくるチェックポイントをやり過ごします。武器を持った兵士に怪しまれないよう、あえて窓を開けて両手を出すよう言われ、その通りにしていました。

退避中の車中から。前方には隊列をリードする車両が並ぶ

中間地点を超えたころ、あるチェックポイントを通り過ぎようとしたときに呼び止められました。心臓が止まりそうになりながらも、平静を保ちつつ、兵士の命令通り車を降りました。防護服が重たく、自力で出られない子どもに手を貸します。英語がまったく通じず、何を言われているのかわからないまま、3人の兵士に銃口を向けられ、ひざまずくよう命じられ、私たち一人ずつの入念な身体検査が始まりました。すべてのポケット、リュックサック、車に積んでいた荷物もくまなく手を入れられました。子どもの防護服の内側までしらべていました。また、途中、近隣で交わされる銃撃戦の音がこだまし、私たち大人3名がひざまずいた状態のまま、子どもだけ数歩大人たちから離れたところへ誘導されたときは、一瞬、すべての終わりが頭をよぎり、深い恐怖に襲われましたが、金目の物と携帯電話を盗りきると、他の荷物をしまって行けと合図されました。

このとき、子どもの荷物には、昨年のクリスマスにサンタクロースからもらったロボットのおもちゃが入っていて、それを取り出した兵士がそのおもちゃを不思議そうに調べ「これは何だ?」とジェスチャーしていました。きっとロボットのおもちゃなんて手にすることのない幼少期を過ごしたのでしょう。また、兵士にしては皆とても華奢な体つきでした。彼らももしかしたら少年兵だったのかもしれない、などと想像しながら、なんとか命が助かってよかったと胸をなでおろしつつ、止まらないアドレナリンラッシュに身を任せるしかありませんでしたが、私たちをわずかな時間拘束した彼らが今ここに至った経緯について思いを巡らさずにはいられませんでした。子どももさぞかし怖かっただろうと、抱きしめ、「じっと静かに我慢していて偉かったね」とその勇気を心からほめたたえました。

その後、長い、長い5キロメートルの移動の末、他の国連職員や国際NGOの職員などが集う集合地点に到着しました。普段、仕事のミーティングや休日のカフェなどで見知った顔も、皆避難生活に疲弊しきっていました。お互いの無事を喜び、苦労をねぎらいあいながら、翌日の長旅に備えてしばしの休息をとります。翌朝未明、何十台もの大型バスやミニバス、その他数えきれないほどの車両で隊列を組み、800キロメートルを超える陸路での大移動が始まりました。途中、様々なトラブルはあったものの、大きな事故はなく、全員無事に一次退避先であるポートスーダンにたどり着くことができ、そこからは各自国外の目的地に向けて、旅立っていきました。

ポートスーダンに到着し、ヴォルカー・ペルテス国連事務総長特別代表(SRSG)兼国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)代表(当時)が皆に慰労と激励の言葉をかける

このとき、私たちを含む邦人やその家族四十数名は、日本政府が用意してくれた輸送機に乗り、いち早くスーダン国外への脱出がかないました。調整に奔走してくださった在スーダンおよび在ジブチ日本大使館の職員のみなさま、また自身も被災しながら退避邦人の心身の健康を最優先してくださったスーダン大使館医務官の先生に心より感謝申し上げます。

 

スーダンの今

邦人の退避が完了してから日本での報道がめっきり減ってしまったスーダンでの紛争。激しさを増しながら今でも続いています。直近の報告では、4月15日以降、550万人が避難を余儀なくされました。このうち110万人は国外へ逃れ、チャドやエジプト、南スーダンなどの近隣諸国で難民となっています。残りの440万人は、国内でより安全な場所に移り、劣悪な環境にあるIDP(国内避難民)キャンプなどで暮らしています。

これまでも民族紛争が絶えず、低開発に苦しんできたスーダンでは、多くの国連機関やNGO人道支援や開発支援を行ってきていました。さらに、気候変動の影響にも脆弱であるため、干ばつや豪雨の被害が著しく、国民の多くが大規模な食糧支援や生計支援に頼ってきていました。

2021年に完成した地雷対策研修センター。日本の支援への感謝が示されている。

今回は、これまでの紛争や人道危機と異なり、首都ハルツームが激戦地となりました。それにより、これまで支援を実施してきた国連機関やNGOのほとんどが一時的に機能不全に陥ってしまい、人道危機はより一層深刻さを増しています。10月現在、援助機関は現地での活動を再開しつつありますが、それでも各地で続く戦闘と日々悪化する人道ニーズを前に、必要とされる支援のほとんどが届けられていません。

 

おびただしい数の不発弾

私が所属する国連地雷対策サービス部(UNMAS)は、能力強化や資金調達、またプログラム運営支援などを通じてスーダン政府が実施する地雷対策活動を支えてきていました。また、2021年以降は国連スーダン統合移行支援ミッション(UNITAMS)の一部として、文民保護や平和構築の分野において、ミッションの活動も支えてきました。国際連合安全保安局(UNDSS)と協力して、新しく赴任した国連職員やNGOスタッフを対象に爆発物リスクに関する安全研修を実施したり、他組織の依頼を受けて道路に地雷・不発弾の危険がないかを調査するなど、スーダンで活動する援助関係者の安全を守る重要な役割を果たしてきました。

地雷探知機の機能を点検するUNMAS職員

前述の通り、スーダンでは、独立した1950年代以降、数年から数十年にもわたる紛争が何度も繰り返されてきました。これらの紛争で使われた地雷やその他の爆発物による汚染を、2002年以降20年以上かけて取り除き、実に138平方キロメートルを安全な土地に戻し、復興・開発を可能にしてきました。残りの汚染地域は約33平方キロメートル。2027年までにすべての地雷を除去し、「地雷のない”mine free”スーダン」を実現しようと、計画を練り直したところでしたが、今回の紛争で多くの兵器が使われ、おびただしい数の不発弾が新たな汚染を生んでいます。

西ダルフール州にある世界食糧計画(WFP)事務所の敷地内で見つかった不発弾。
UNMAS職員が危険サインを立て除去。

現在特に懸念されているのは、戦闘の舞台の多くが、ハルツームを含む都市であることです。人口密度の高い都市部で爆発性兵器が使用されることによって、攻撃対象だけでなく、多くの民間人が被害を受け、また住居や上下水、電気、ガスなど生活インフラ、そして病院や学校などの公共施設が破壊されます。将来停戦合意がなされ、市街地に残された不発弾を処理する際も、住宅街やインフラ設備の中や付近に残された不発弾を、周辺の住民を危険にさらさず、また建物崩壊など二次被害を起こさずに安全に処理するためには、これまでスーダンでは必要とされなかった特殊な技術と経験が必要です。

スーダン初の試みとして女性の地雷除去員を育成する研修での卒業式の様子。
(2021年12月)

さらに、今回の紛争が始まるまで地雷や不発弾のリスクにさらされていなかったこれらの都市部に住む人々は、爆発物の回避教育を受けたことがありません。スーダンの国内外に避難している人々のうち7割以上がハルツームから逃げてきていますが、こういった人々が、不発弾で溢れる街に戻るとき、また避難先で地雷原や不発弾を目にしたときに安全な行動をとれるよう、今、回避教育を行うことが喫緊の課題です。

今年9月に行われた爆発物危険回避教育の様子

スーダンに平和を

19世紀前半以降エジプト、イギリス、そしてイギリスとエジプト両国による征服、植民地支配が続き、独立運動を経て1956年に独立したスーダンですが、その前年1955年には北部と南部の内戦が始まり、20年以上続きます。その間にも、何度も軍事クーデターが繰り返され、1983年には第二次内戦が開始。そして2003年には「21世紀最初の大虐殺」とも呼ばれるダルフール紛争が起きます。2005年の南北和平合意を経た2011年の南スーダン独立後も、スーダン国内では、ダルフール紛争を含む、民族や宗教といったアイデンティティを軸とした紛争が各地で続き、無数の民間人が犠牲になっています。

2019年、スーダンは歴史的転換点を迎えます。民主化を求める市民のデモを背景に、軍部がバシール大統領を拘束・解任し、30年以上続いた独裁政権が終焉を迎えたのです。翌年2020年には、ジュバ和平合意が結ばれ、(一部を除く)主要反政府勢力とスーダン政府間の和解が実現しました。しかしながら、待望された民主主義と平和をスーダンの人々が勝ち取ろうとしているまさにそのとき、さらなる軍事クーデターが起き、民政移管を進めていた暫定政府が国軍に乗っ取られる形となりました。全国で、民衆による抵抗運動が展開しましたが、治安部隊によって激しく鎮圧されていきました。

この間、国連含む国際社会は、クーデターを糾弾しつつも、スーダンが、一度乗りかけた民主化に向けたレールに戻れるよう、軍隊を含む各方面のアクターと対話や調整を進めていました。その結果暫定文民政府設立のための枠組みが2022年12月に合意されたのですが、それも束の間、わずか4ヵ月後に激しい戦闘が始まってしまいました。

今回退避では、とても怖い思いをし、たくさんのものを失った私たちですが、家族や友人を奪われ、生まれ育った家や財産、仕事を失い、さらに民主化と平和への希望を踏みにじられたスーダンの人々の怒りと悲しみはいかばかりか。一日も早く、停戦が合意され、人々の安全が守られることを願ってやみません。そして、スーダンに真の平和が訪れ、人々が、肌の色や部族、宗教、性別やジェンダーによって命を奪われたり、住む場所を追われたり、基本的人権を否定されたりすることなく、豊かで尊厳のある生活を送れる社会が実現されることを強く願いつつ、今は、爆発性兵器による被害が少しでも減るよう、日々の業務に努めてまいります。

休暇中に家族で訪れたスーダンのピラミッド。
平和が訪れ、再びこの美しい風景を見ることができますように。

 

グラフィックスで見る「気候変動」ファクト

猛暑厳しい夏だった2023年、世界各地で最高気温を記録、世界気象機関(WMO)によると、今年の6~8月は観測史上最も暑い3か月となりました。各地で山火事や豪雨などの異常気象が頻発し、これまでにない気候を実感した方が多いのではないでしょうか。

気候変動とは、気温および気象パターンの長期的な変化を指します。世界中の専門家が執筆に加わった「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の報告書は、地球温暖化の主因は人間の活動によるものだと明記しています。最近では、人間の活動による気候変動が異常気象などの発生率や強度をどの程度変えたか定量評価する「イベント・アトリビューション」の研究もさかんに行われるようになっています。

人間の様々な活動による温室効果ガスの継続的な排出が地球温暖化を進行させている中、それをなんとか止めようと、各国は世界の平均気温の上昇を産業革命以前と比べて1.5度に抑えるよう努力することを目標に掲げています。気温上昇が1.5℃以上になると、連鎖的で不可逆的な気候になる恐れがあるとされているからです。すでに、1.1℃の気温上昇に至り、今世紀末までに2.2℃~3.5℃ 上昇する可能性もあるとIPCCは報告しています。

気温上昇の度合いによって、未来のシナリオは変わってきます。いま何が起きているのか、どんなことが予想されるのか、科学に即したグラフィックスで見ていきます。(2023年10月4日時点で発表されているデータに依拠しています。)

 

数度の差が未来を変える

1.気温が2℃以上上昇すると、サンゴ礁が消える恐れ

今年、海洋の熱波も過去最高に達し、海洋生態系に壊滅的影響を与えていると専門家は警告しています。サンゴ礁は特に気候変動の影響を受けやすく、平均気温が1.5℃上昇すると、その70~90%が、2℃上昇すると99%が消滅すると言われています。水温の上昇で起こるサンゴの白化現象を防ぐなどの保護活動も各地で進められています。

 

2.山火事の範囲が広がる

今年の夏は、カナダ、中国、地中海沿岸諸国などで、大規模な山火事が起きました。カナダでは制御不能な山火事が660件以上も同時に起きる緊急事態となりました。これも気候変動の影響とされています。気温が高い気候条件では、山火事が発生しやすく、急速に拡大しやすくなるのです。地中海の夏の平均気温が1.5℃上昇すると、山火事で焼失する面積が41%、2℃上がると62%、3℃の場合は97%増加すると予測されています。

 

3.哺乳類の生息域に大きく影響

気温上昇が進むと、陸上の動物の大半の生息域が劇的に縮小すると予測されています。 1.5℃上昇で哺乳類の4%が 、2℃で哺乳類の8%が、 3℃で哺乳類の41%が、生息地域の半分を失います。生息域の変化によって種の入れ替わりが激しくなり、世界的な絶滅のリスクを大幅に高める可能性があります。

 

4.海面上昇は、この30年で2倍以上に

世界の平均海水面は、2013年から2022年に年間平均で4.5mm上昇し、過去最高となりました。これは1993年から2002年までの2.1mm上昇の2倍を超えており、主に氷床から氷塊が失われる速度が速まったことに起因しています。海面の上昇は沿岸に住む数億人に多大な影響を及ぼします。2050年には、世界の人口の10人に1人が洪水が起きやすい沿岸部に住むことになると2022年のIPCC報告書は述べています。

 

IPCC報告書の数字から見る人類への影響

1.世界の人口の45%が気候変動に対して非常に脆弱

気候変動に影響に対して非常に脆弱な人々の数は33~36憶人にのぼると推測され、世界の人口の半数近く45%にあたります。異常気象による災害や干ばつなどによって、避難を余儀なくされる人の数は増加し、武力紛争によって生まれる避難民の3倍とも言われています。

また、いま気候変動は人類が直面する最大の健康上の脅威となっています。大気汚染、疾病、異常気象、強制避難、食糧不安、メンタルヘルスへの圧迫などによって、人々の健康にすでに大きく影響しています。毎年、環境要因によって約1300万人の命が奪われています。

 

2.世界で3人に1人が致命的な熱ストレスにさらされている

熱波は毎年、何千、何万もの人々の命を奪っています。世界の人口のおよそ30%が、年に20日以上致命的な熱波にさらされ、致命的な熱ストレスを受けています。今年7月、世界各地で最高気温が更新されました。アメリカ、中国の一部では、気温が50℃を超えました。異常な高温は、命の危険や、暮らしの困難に直結しています。地球温暖化が進めば、熱波はさらなる頻度を持って発生すると予想されています。

 

3.世界で2人に1人が深刻な水不足を経験

いま、世界の2人に1人が、気候変動が影響した洪水、干ばつなどの異常気象の影響で、年間のある時点で深刻な水不足を経験しています。地球温暖化は、以前から水が乏しかった地域の水不足を悪化させており、農地の干ばつのリスクを高め、農作物の収穫に影響をもたらし、さらに生態系の脆弱性を高めています。気候危機は、水の危機でもあり、水の危機はさらなる環境の悪化や食料の不安定化にもつながります。

 

4.気候変動に最も寄与していない人々がより大きな被害

過去10年で洪水、干ばつ、嵐などによって命を落とした人々の数を比較すると、気候関連の災害に対し、非常に脆弱な地域と、それほど脆弱ではない地域では15倍の開きがあり、アフリカ、南アジア、中南米の人々や小島嶼国の住民は、気候関連災害で亡くなる可能性が15倍高くなっています。その多くは、気候変動に最も寄与していない人たちです。アフリカの温室効果ガス排出量は世界全体の4%ですが、気候変動の最悪の影響を受けています。

気候変動に関する意思決定の中核に、公平性と人権を起き、不平等をなくしていく「気候正義」がますます問われています。

 

気候変動対策:やるべきこと、その先の未来

1.温室効果ガスの排出を2030年までに約半分に

人が住みやすい気候を維持するためには、2010年時と比較して、2030年までに温室効果ガス排出を43%削減し、2050年までに正味ゼロ・エミッションを達成する必要があります。その軌道に乗せるためには、気候変動の最大の要因とされる化石燃料からの脱却をただちに進めなくてはいけません。

再生可能エネルギーへの投資を2050年までに3倍、クリーンエネルギーからの電力供給を今後2030年までに2倍にしなければなりません。

 

2.再生可能エネルギーのコストは10年で大幅に低下

今年5月のG7 広島サミットでは、再生可能エネルギー導入拡大の数値目標が掲げられました。資源エネルギー庁によると、日本でも、水力、太陽光、風力、バイオマス、地熱などの再エネの導入は2012年から2020年の間に3.9倍と世界トップクラスのスピードで進んでいます。しかし、日本の再エネ普及率は 20.3%(2021 年度)で、40%前後の欧州主要国との開きがあり、化石燃料への依存度は依然として高い状況が続いています。

再エネはコストがかかるという理解はいまや過去のものとなっています。国際再生可能エネルギー機関(IRENA)2021年の発表によると、2010年から2020年の間に、再エネ技術の価格は急速に下落し、太陽光発電の電力コストは85% 、陸上および洋上風力エネルギーのコストは、それぞれ 56% 、48% 低下しました。

再エネはいま、最も安価な電力供給源の一つとなっています。国際エネルギー機関(IEA)最新報告書は、いまクリーンエネルギーへの投資が業界をけん引し、今年、太陽光発電への投資額が石油生産への投資を初めて上回るとの見通しを示しました。

一部の国では、すでに電力のほぼ100%を再生可能エネルギーで賄っています。日本でも、再エネで地域の世帯数分のエネルギーをまかない、さらに売電事業により収益を得ている自治体も出てきています。IRENAは、2050年までに世界の電力の90%を再生可能エネルギーで賄うべきであり、それは可能だとしています。

 

3.再生可能エネルギーによる雇用の可能性

世界の再エネの雇用は、2019年時点で1150万人に達しました。この数は2050年までに4200万人、化石燃料産業で失われた雇用の3倍となるとの予想もあり、再エネシステムの製造、設置、運用、保守などに従事する機会を生み出すことができます。

同時に、脱炭素社会に向けてのキーワード「公正な移行」も守られなければなりません。化石燃料産業に従事する労働者や地域が取り残されてはならないのです。

国際労働機関(ILO)は、2016年に「環境面から見て持続可能な経済とすべての人のための社会に向かう公正な移行を達成するための指針」を策定しました。2021年の国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)では、この指針に沿って、「公正な移行宣言」が発表されています。持続可能な経済と社会の実現、そしてすべての人のディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)につながる機会の創出でなくてはなりません。

 

4.上位20か国が排出量の75%を占める現実 

2022年の国連環境計画(UNEP)の排出ギャップ報告書によると、上位20カ国の温室効果ガス排出量が、世界全体の排出量の75%を占めており、日本もその中に含まれます。(アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、韓国、メキシコ、ロシア、サウジアラビア南アフリカ、トルコ、英国、米国)

一方、最も排出量の少ない100カ国での排出量は全体の3%のみです。より多くの問題を生み出している国々や人々は、行動に対する責任がより大きくなっています。グテーレス国連事務総長は、G7各国に対し、石炭の利用を2030年までに段階的に廃止することや、途上国の脱炭素化の加速に向けて支援するよう求めています。

先進国の私たちのこの10年の行動が未来を変えると言っても過言ではありません。そして私たちにできることはまだあります。

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5.気候危機は人権の危機:人権と気候変動に関連する裁判がこの5年で2倍に

いま、人権と気候危機の強い関連性が世界各地の法廷で取り上げられています。UNEPの最新の報告によると、去年末時点で2180件の気候関連訴訟が提起され、人々が政府や企業の責任を追及しています。子どもや若者の主導するものもあり、気候変動、生物多様性 の損失、汚染という3つの地球規模の危機に、その訴えは5年で2倍以上になっています。

国連総会は2022年7月、クリーンで健康、かつ持続可能な環境へのアクセスは普遍的人権であると宣言する歴史的な決議を採択しています。ヴォルカー・ターク人権高等弁務官は、「気候変動への対応は人権問題」だと述べました。2020年は、気候が原因で3070万人が故郷を追われ、そうした人々が、食料、水、衛生、住居、健康、教育への権利、さらに生きる権利まで脅かされる状況もあります。基本的人権の観点から、こうした人たちへの包括的な保護が必要だと専門家は述べています。

今年、国連子どもの権利委員会は、健全な環境への子どもたちの権利を認め、各国に化石燃料の段階的廃止や再エネへの移行など、実行すべき指針を出しています。気候危機の解決を次世代に託すのではなく、迅速かつ大規模な行動が、今求められています。誰もが人権を守られ、健全に生きていくためにも、気候変動は、私たちがどの未来に向かうのかを問いかけています。

 

グラフィックスで気候変動を見つめてきました。基本的な情報から、関連国際機関のリンク、これまでの気候変動に関するUNニュースやビデオなど、気候変動に関する情報を日本語でこちらにまとめています。

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国連本部ウェブサイト(英語)の気候変動に関する参考ページはこちらより。

Causes and Effects of Climate Change (気候変動の原因と結果) 

Climate Action Fast Facts (気候アクションとファクト)

Global Issues Climate Change (世界的課題 気候変動)

 

国連総会ハイレベル・ウィーク報告記:SDGs後半戦 挽回に向けた決意

 

国連広報センター所長の根本かおるです。

国連総会ハイレベル・ウィークに合わせてニューヨークに出張してきました。今年は2030年までの持続可能な開発目標(SDGs)の実施期間のハーフタイム。SDGsのターゲットのうち順調に進捗しているものは15パーセントにしか過ぎず、多くが逆行している中、4年ぶりに開催される「SDGサミット」で「SDGs救済計画」に合意し、後半戦につなげるということが、今年のハイレベル・ウィークの中心テーマでした。

国連本部の敷地に設けられた仮設の「SDGパビリオン」から 多くの関係者が世界に向けて語りかけた UN Photo/Mark Garten

私は2019年に前回のSDGサミットが開かれた際にもニューヨークに入っていたのですが、その時に感じられたお祭りムードや「何とかなるさ」的な楽観論は影を潜め、厳しい後半戦をともに闘おうという同志たちが危機感をもって集い、スクラムを組み、機運を高め合うという側面が強かったと感じています。

「“誰一人取り残さない” どころか、私たちはSDGsを置き去りにするリスクを冒しています」

ハイレベル・ウィーク初日の18日に開幕したSDGサミット冒頭あいさつでのアントニオ・グテーレス国連事務総長のこの言葉に、SDGsの直面する厳しい状況が凝縮しています。

SDGサミットで発言するグテーレス国連事務総長 UN Photo/Cia Pak

そのような中、加盟国がSDGサミットの成果としての政治宣言に、紆余曲折を経てギリギリで合意することができ、グローバルなSDGs救済計画を打ち出せたことは、大きな成果と言えるでしょう。

特にグテーレス事務総長が最も胸を張ったのが、先進国が途上国に対して少なくとも年間5,000億ドルを拠出することを呼び掛ける「SDG刺激策(SDG Stimulus)」への支持が、今回の政治宣言に明確に盛り込まれたことです。さらに、支払い猶予、融資期間の延長、利率の軽減を支える効果的な債務救済の仕組みや、開発途上国に恩恵をもたらすために、国際金融機関が民間資金を利用可能な利率で大規模に活用できるよう、同機関への新たな資本の注入とビジネスモデルの変更の呼びかけが盛り込まれています。グテーレス事務総長がかねてから「時代遅れで、機能不全に陥っており、不公正」と指摘してきた国際金融アーキテクチャを改革する必要性への支持も含まれ、SDGsの前進を加速させる打開策となることが期待されます。事程左様に、今回はSDGsの実施手段としての資金について優先度がより一層高まり、様々なハイレベル会合での中心議題になっていました。

次のステップにどう立ち向かっていけばいいのか、国連では複雑に絡み合ったSDGsを整理して「ハイ・インパクト・イニシアチブ(High Impact Initiative)」として提示しています。

 

SDGs実施の取り組みを後半戦でスケールアップする上で、ゲーム・チェンジャーとして大きなインパクトが見込まれる6つの分野での移行(1.食料システム、2.再生可能エネルギー、3.デジタル化、4.教育、5.社会的保護と雇用、6.気候変動・生物多様性の喪失・汚染との闘い)と、そのすべてに横断的に必要とされる完全なジェンダー平等の実現、そしてこれらのハイ・インパクト分野での移行の実現を後押しする5つの分野(SDG刺激策・貿易・地域での実施・公共セクターの能力強化・データの恩恵)という統合的に整理された枠組みが、議論の流れを方向付けるものです。

SDGサミット閉幕の様子 UN Photo/Paulo Filgueiras

2日間にわたったSDGサミットの締めくくりにあたり、グテーレス事務総長は「開発の“やることリスト”(development to-do list)」として7つの主要分野での前進に取り組むことを求めました。事務総長のスピーチがわかりやすいので、該当部分を抜粋します。

第1に、「SDG刺激策(SDG Stimulus)」に対する支援を、開発途上国に向けた実際の投資へと移行してください。

私たちは、国際金融機関などのメカニズムからの資金も含めて、持続可能な開発のために毎年少なくとも5,000億ドルに届く必要があります。

このイニシアチブを前進させるため、私は、2024年末までにこの5,000億ドルの継続拠出を開始できるように、一連の明確なステップを実行するリーダーズ・グループの編成を呼びかけています。

 

第2に、今回のサミットでのコミットメントを、具体的な政策、予算、投資ポートフォリオ、行動に落とし込んでください。

そして、自発的国別レビュー(VNR)の重点を、説明責任を推し進め、今回のSDGサミットでのコミットメントに対する進捗状況を一覧にするように、変更してください。

 

第3に、今回注目された6つの主要なSDG移行、つまり食料、エネルギー、デジタル化、教育、社会的保護と雇用、そして生物多様性にわたる行動に対する支援を強化してください。

国連の開発システムでは、今後数カ月にわたりこうした取り組みを次の段階へと進め、来年7月のハイレベル政治フォーラムでその進捗を評価します。

 

第4に、社会的保護への投資を大幅に増額する計画を今すぐ作り始めてください。

私たちは、「(公正な移行のための)雇用および社会的保護のグローバル・アクセラレーター」を実現させ、2025年までに新たに10億人、2030年までに40億人を、その対象としなければなりません。

 

第5に、政治宣言が明らかにしているように、先進国が、政府開発援助(ODA)を国民総所得(GNI)の0.7%にする目標を達成すべき時が来ています。

来年の年間予算における優先支出項目を計画するにあたり、この目標達成を実現させてください。

 

第6に、来月の国際通貨基金IMF)・世界銀行の総会を、「これまでと同じやり方」にしてはなりません。

資本増強に加え、私たちは未使用の特別引出権(SDR)1,000億ドルを、緊急かつ追加的に振り向ける必要があります。

また、各国の政府代表は、開発途上国の支援に民間資金を大規模に活用するための具体的な提案を携えて臨むべきです。

これには、政治宣言で求められている、官民のブレンドファイナンスや債務スワップの活用といった、革新的な融資メカニズムに関する提案も含めるべきです。

より広範には、私たちはグローバルな債務メカニズム全体を改善する必要があります。その手段としては、手続きを迅速化させること、即時の債務停止を可能にすること、緊急の必要性に迫られた国々に対しより長期かつ支払い可能な条件で債務を再編することが含まれます。

そして私たちは、政治宣言に沿ってグローバル金融アーキテクチャを改革し、来年(2024年)の「未来サミット」や2025年開催予定の次の「開発資金国際会議」に間に合うように、具体的な提案を作成する必要があります。

 

第7に、気候変動の最悪の影響を回避し、必要不可欠な支援を提供するというグローバルな約束を守り、開発途上国再生可能エネルギーへの公正かつ公平な移行の達成を支援するための、具体的な計画と提案を携えて、今年11月の「気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)」に臨んでください。

特に今回のCOP28は、新たな「損失と損害基金」と、「生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)」で呼びかけられた「「生物多様性枠組基金:Global Biodiversity Framework Fund (GBF Fund)」」の運用を開始する時となります。

大きな後退を見せているSDGsを前に諦めムードに浸る余裕など、とてもありません。SDGサミットだけではありません。市民社会や活動家、企業関係者やメディア関係者らが主役となって、外壁に17のSDGゴールの扉(扉を開けると、そのゴールの進捗に関する最新データと関連アート作品が見られる)をあしらった「SDGパビリオン」やメディア関係者が中心的な役割を担う「SDGメディア・ゾーン」を拠点にしたセッションでも、次のレベルに移行するためのヒントの詰まったストーリーやアイデアを積極的に発信していました。

SDGパビリオン内で行われた熱い議論 UN Partnerships/Pier Paolo Cito

大きな壁をどう乗り越えていけるのかという解決策提案型の議論は、あらゆる人が必要としあらゆる人に与えられるべき持続可能な未来に向けて前進するため、反転攻勢に必死で取り組もうという決意に満ちていました。

SDGメディア・ゾーンには、ナタリー・ポートマン氏をはじめとする著名人、国連機関の長、グローバル企業や研究機関、市民社会団体の役員等が登壇 UN Photo/Mark Garten

SDGメディア・コンパクトに加盟する世界のメディアが司会やスピーカーなどで参画した「SDGメディア・ゾーン」では、繰り広げられた多くのセッションのラインアップにまじり、日本の皆さんへの緊急報告を日本語でお届けしました。

国連の事情をご存じの方々から、国連公用語ではない日本語で発信したことを快挙だと評価していただきましたが、慶応大学の蟹江先生、TBSとフジテレビの代表、ならびに国連本部の邦人幹部職員のご協力があったからこそ実現したものです。SDGs推進の後半戦や気候アクションのスケールアップとスピードアップに向けたセッションをコーディネートして発信することができました。

いずれも10分から20分のコンパクトなセッションではありますが、スピーカーの方々の大切なメッセージが詰まった内容となり、私も大きくうなずきながら司会進行をしていました。セッションの模様は、いずれも国連のUN Web TVからアーカイブを視聴していただけます。

SDGs実施の後半戦:変革のてこがカギ(9月18日)

UN Photo

SDGs最前線:ニューヨークからの緊急報告(9月19日)

UN Photo

Code red: commitments on the "Promise of 1.5℃” climate action campaign (9月20日)

@UNIC Tokyo

待ったなし!「地球沸騰化」時代の気候アクション(9月22日)

@UNIC Tokyo

どのセッションも、国連総会で共有された危機感を日本の皆さんに緊急報告の形で伝えつつ、同時にアクションと解決策を提示し、そして希望と連帯のメッセージを大切にしています。これからの気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)やSDGs推進の後半戦に向けた発信の在り方を考える上でも、大いに参考になる内容かと思います。

日頃SNSでフォローしているウガンダ出身の気候活動家バネッサ・ナカテさんをはじめとする著名人や、気象情報を気候変動につなげながら伝えているアメリカの気象専門テレビ局の「ウェザー・チャンネル」の気象キャスターらの思いを、SDGメディア・ゾーンという息遣いのわかる至近距離の場で聴けたことも、大きな収穫でした。気候変動について声を上げる彼らがSNS上での個人攻撃に晒されながら、心のケアも含めていかに対処しているかというは、日本で活動する私たちにとっても大いに参考になるヒントになります。

ウガンダの気候活動家バネッサ・ナカテさん(右から2人目)やウェザー・チャンネルのキャスター、ポール・グッドロー(左)さんも登壇 @UNIC Tokyo

SDGsを含む持続可能な開発のための2030アジェンダが採択されて以降、広報の立場からずっとSDGsに関わってきた一人の国連職員としても、次のステージに向けたやる気にエネルギーを再注入することになり、実り多いニューヨーク訪問となりました。

引き続き、国連での議論にご注目していただければ幸いです!

「1.5℃の約束」キャンペーンについてグローバル発表してくださった、TBSホールディングスの井上波さん(右)とフジテレビの木幡美子さん(左) @UNIC Tokyo

 

日本から世界に伝えたいSDGs⑥【生まれる前から被爆者 家族それぞれの8月6日を胸に】

©UNIC Tokyo/Mariko Iino

【略歴】濱住治郎(はますみ・じろう) 広島県出身。母親が妊娠3カ月の時に被爆したことで、「胎内被爆者」として被爆者健康手帳を持つ。2003年に東京都稲城市原爆被爆者の会を結成し、2007年から体験を伝え始める。原爆胎内被爆者全国連絡会の結成にも尽力した。2019年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第3回準備会で胎内被曝者として初めて発言。日本原水爆被害者団体協議会事務局次長。

いま、世界には1万2512発の核兵器があります。1945年に広島、長崎に原爆が落とされてから78年が経ちましたが、この間にも2000回を超える核実験が行われ、世界各地で核兵器による苦しみや破壊が続いてきました。

「原爆の恐ろしさは十分に知られていないのではないか」。核兵器廃絶を訴え続ける被爆者の思いの根底には、もう誰にも同じような苦しみを味わってほしくないという切なる願いがあります。唯一の被爆国日本からは多くの被爆者が声を上げ続けてきました。

広島で父を原爆で失い、家族全員が被爆した濱住治郎さん(77)もその一人です。濱住さんは母親の胎内で被爆した「胎内被曝者」です。何をどう伝えていくのか模索しながら活動を始めたのは50代後半でした。濱住さんの思いを支えるのが、家族から伝え聞いた8月6日、そして被爆者の先輩たちの姿です。

平和や公正はSDGsの大切な一つの柱。平和な世界でなければ、人間の尊厳も地球環境も守ることはできません。濱住さんの言葉や記録から、核兵器のない世界への願いを次の世代にどう継承していくかを見つめます。

 

父が原爆で亡くなった年齢になってこみあげた思い  

8月6日は、濱住さん家族の運命を大きく変えました。あの日、濱住さんの父親の正雄さんは爆心地500メートル付近の職場に出かけたきり戻ってきませんでした。母親ハルコさんは当時妊娠3カ月。翌日広島市中心部に入り、正雄さんを捜索する中で被爆しました。濱住さんは翌年2月に生まれ、父親の遺影がかかる家で育ちました。母親が電気の集金や畑仕事をし、兄は進学をあきらめて働き、7人の兄弟を支えてくれたと言います。

家族や親戚を含め、周りの多くの人が、被爆の体験を詳しく語ることはなかったと言います。市の中心部から4キロの位置にあった濱住さんの家は倒壊をまぬがれ、あの日多くの人が避難してきたことなどを断片的に聞く程度でした。

みんな生きるのに精いっぱいでした。兄も下に何人も妹たちがいて、私もいるでしょう。父が原爆で亡くなったという事実は自分の中にずっとあったんだけれども、そのことを詳しく聞こうということはあまりなかったんです」

しかし、父親が亡くなった年齢の49歳になった時に強い思いがこみあげてきました。

「私が母のおなかの中で3カ月の時に父は亡くなったんだけど、その3カ月の差で私はいま生きています。この不思議さは何なんだろうといつも思っていました。父が亡くなった年齢になった時、父親は8月6日どんなことをしていたんだろうか、どんな思いだったんだろうかと、もっと知りたいと思ったんです」

©UNIC Tokyo/Mariko Iino

自らは被爆の体験や記憶がない濱住さんは、6人の兄姉に手紙を書き、8月6日の様子を教えてほしいと頼みました。原爆投下から50年がたっていました。兄姉全員が便箋にしたためた返信をくれました。いつもと変わらず始まったはずの8月6日の朝、しかし家族の誰にとっても生涯忘れることのできないあの日の記憶が浮かび上がりました。

 

家族のあの日の記憶を胸に

2023年8月6日の広島 とうろう流しの様子 写真提供:濱住治郎

1945年8月6日、濱住さんの一番上の姉(当時16歳)と二番目の姉(14歳)は学徒動員で、朝早く出かけていました。激しい光と爆音、爆風の中、建物が崩れてきたことなどを綴っていました。濱住さんがまとめた手記から一部を抜粋します。(漢字の表記などは原文ママ

暗闇の中、何が起きたか分からなかった。工員さんたちが屋根を破って、一人ずつ外にだしてくれた。(中略)被爆し、火ぶくれになった人たちが逃げてきた。髪はバサバサ、裸同然であった。(中略)汽車の中は、ヤケドの人でいっぱい。「お願いします。水を下さい。」という声がする。川の中も、人でうまっていた。「家の者が、この様子だったら?自分は助かるだろうか?」心配しながら歩き続けた。

 

長兄(当時12歳)と三番目の姉(当時9歳)は、山間地域に集団疎開し、農作業の日々を過ごしていました。そこからもはっきりと原爆の様子が見えたことを書いていました。午後には黒い雨が降ったことも覚えていました。

ー八時から校庭で朝礼。六年生から二列に並んで五十メートル離れた兵台の校舎へ入る手前で、「ピカッ」と光った。暫くして「ドガン」。東方面、「広島がやられたぞ」と叫ぶ声。山の向こう側へもくもくと盛り上がるキノコ雲。(中略)夜は、空が真っ赤であった。「これは、大変なことになっている。」わが家のことが心配であった。

 

四番目の姉(当時7歳)と五番目の姉(当時4歳)は、広島市の中心部から4キロ離れた自宅にいました。すぐに多くの人が家に避難してきて手当に追われました。

ーガラスのあった部屋はガラスが破れ、ふすまに立ち込んでいた。壁つちはタンスに寄りかかっていた。北側の道路に面した戸は全部壊れ、道行く人が全て見えた。(中略)三十分もすると、焼けただれた人達、血を流した人たちがどんどん逃げてきた。

 

濱住さんの家に30人ほどが身を寄せました。ひどい火傷を手当てする薬もなく、じゃがいもをすったものを塗りました。大きな外傷がなくてもその後高熱を出し、髪の毛が抜け、亡くなる人もいました。そんな中、家族全員が父の帰りを待ち続けました。

母親と、二番目の姉たちは、父正雄さんを捜すために、翌日から市内を歩き回りました。爆発の熱が残り、誰だか区別できない姿があちこちに転がっていたと言います。二日後ようやく焼け跡から見つかった父は変わり果てた姿で、身に着けていたベルトの金具など遺品3点から確認できました。幼かった姉たちは、帰宅した母から「お父さんがこんなになっちゃったよ」と見せられ、母親と抱き合って泣き、食事ものどを通らなかったと記しています。二番目の姉たちは数日後に高熱が出て下痢や吐き気に襲われて寝込みました。

手紙から、家族のそれぞれが、言いようのない悔しさや、辛さを心に秘めてきたことを濱住さんは感じたと言います。初めて知ることばかりでした。

爆心地から500メートルのところで見つかった遺品のベルトなど 写真提供:濱住治郎

「私がまだ生まれる前の知らなかったことが具体的に書かれていました。そんなことがあったのかと思いました。直接話せなかったのでしょう。兄弟によっても、自分のことを知られたくない、知らせたくないというのがあったと思うんです。二番目の姉は話したくないと言っていました。広島で行われる式典や運動についても冷ややかでした」

原爆によって、その年だけで広島では約14万人が、長崎で約7万人が命を落としました。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の資料によると、家族に看取られながら亡くなったのは全体のわずか4%、42%は行方不明のままでした。

 

胎内被爆者としての使命を感じて

濱住さんが「胎内被曝」について調べ始めたのは、兄姉の体験を手紙で読んだのと同じ頃でした。

2022年3月末時点で被爆者の数は11万3649人、そのうち胎内被爆者として認定されているのは6602人です。妊娠早期に強い放射能を浴びたことで発症する小頭症などの障がいを持って生まれたり、がんなどの病気に苦しんだり、早くに亡くなったりする人も多く、若い細胞の胎児だったからこそ影響を大きく受けたことがわかっています。濱住さんも体が強い方ではなく、健康への不安や、結婚してからは子どもへの影響なども気にしながら過ごしてきました。胎内被爆者の中には病気や社会の無理解に苦しみ、若くして自ら死を選んだ人もいました。

胎内被爆者のつながりを作りたいと、濱住さんは、2014年の「原爆胎内被爆者全国連絡会」の結成に加わりました。その中で多くの胎内被爆者の人生も知りました。濱住さんは、40歳で亡くなるまでがんとの闘病を続け、核兵器廃絶を訴えた胎内被爆者の女性が残した文章が忘れられません。

「”生まれる前から被爆者だった”という言葉を残しているんです。それが一番強烈でした。核兵器は人間として生きることを否定するのだと思います。そういうものを人間に落とすということは、人間を人間として認めないということだと思います。核兵器は絶対にあってはならない。胎内被爆者という立場で訴えていくのが自分の使命だと思っています」

濱住さんは、2003年に暮らしていた東京都稲城市でも原爆被爆者の会を結成し、2007年に原爆を語り継ぐ絵本を出版したことでできた市民グループでも、毎年のように核の問題を伝える展示を行ってきました。学校で話をしてほしいと頼まれたのが後押しとなり、胎内被爆者として語り始めました。

市民グループ稲城平和を語り継ぐ三世代の会」で今年8月行った展示にて
©UNIC Tokyo/Mariko Iino 

濱住さんは、ニューヨーク国連本部も数度訪れ、2019年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第3回準備会では、胎内被爆者として初めて発言しています。濱住さんは歴史を知るほどに、先の被爆者たちがどれほど懸命に原爆被害の事実を調べ、補償や援護体制の実現を訴え、核兵器廃絶を願い活動してきたか、その重みや深みを感じてきました。”一番若い被爆者”としての責任と使命を抱いて活動していると言います。

「単なる被害者として被爆者がいるんじゃない。かわいそうな人間というのではなく、人間として原爆の悲劇をどう乗り越えていくのか、世界の人たちの問題として意識して先輩たちが取り組んできてくれたのです。核の問題はそこで終わりません。どれだけの人間が苦しんできたか。一番苦しんでいる人たちの声をどれだけ聞けるか、そこを無視していては同じことを繰り返すんじゃないかと思うのです」

2019年ニューヨーク国連本部での会議で発言する濱住さん 写真提供:日本被団協

この時代にどう伝えていくのか

戦後78年がたち、原爆を直接体験している人が少なくなる中で、伝える難しさは増しています。濱住さんは体験を話す度に、「自分は何も話せていないのではないか」という思いになると言います。それでも、胎内被爆者の自分が、つなぎ役になれればという思いを強くし、事務局次長を務める日本被団協では被爆二世として活動する人たちを支援する役割も引き受けています。

一つの希望は、若い世代の反核や平和活動への参加です。コロナ禍での核兵器についてのオンラインの証言会や禁止を求める署名も若者の呼びかけで実現しました。

若い人たちは決断がすごく早いんですよね。私だったら何をしようか迷い、何にもできないでくることもあったんだけど、彼らの行動力に励まされています。若い人たちの行動が、被爆者の力になっています」

そうした若い世代の力を得て、今年新たな伝える試みが実現しました。これまで被団協がNPT運用検討会議の機会に合わせて国連で4回行った原爆展を、オンラインでも見られるようにしたのです。サイトは約50ページにわたります。

広島・長崎の被害の概要に加え、被爆者が核とどう向き合ってきたか、核実験や核廃棄物の問題、チェルノブイリ、福島の原発事故など、現代に続く核の問題を体系的に日本語と英語で紹介しています。展示会場に足を運べなくとも、世界中からアクセスでき、核の問題について知ることができます。日英に加えてさらなる多言語化も目指しています。

2022年国連本部で開かれた原爆展の様子 この展示の48枚のパネルすべてをオンラインで見ることが可能に 写真提供:日本被団協

いま、分断が広がる世界で、核兵器使用のリスクが高まっています。穏やかで静かな口調の濱住さんが、世界は広島、長崎に向き合っていないのではないか、日本もまた十分に向き合えていないのではないかと、語気を強めました。

「生きることを否定する核兵器は許してはいけないのです。それを世界中の人にわかってほしい。犠牲になるのは市民であり、子どもです。私は命の大切さを子どもたちにも伝えていきます」

核兵器も戦争もない世界を次世代に届けることが、被爆者と世界の大人たちの使命”。母の胎内で生まれる前に被爆し、被爆者としての人生を歩んできた濱住さんの思いです。

 

(取材・構成 飯野真理子)

胎内被爆者のイメージを描いた絵とともに(絵:稲田善樹) ©UNIC Tokyo/Mariko Iino  

国連本部での原爆展をオンラインミュージアムとして開設したページはこちらからご覧になれます。

 

SDGs実施のハーフタイム:後半戦での反転攻勢を目指して

SDGsのこれからを決する国連総会ハイレベルウィークの開幕を前に、9月16日、ニューヨークの夜空がドローン・アートで彩られた。国連本部のXアカウントより

国連広報センター所長の根本かおるです。

今年は、持続可能な開発目標(SDGs)にとって、2016年から2030年までの15年間にわたる実施の中間点という重要な節目です。9月18日からの国連総会ハイレベルウィークでは、4年に一度のSDGサミットが開催されます。いまSDGsの進捗は、窮地に立たされています。

 

前回のSDGサミットが開催された2019年の時点で、SDGsの進捗は2030年までの達成の軌道から大きく外れていたのですが、その翌年に新型コロナウイルス感染症の世界的大流行が始まり、さらに気候変動が加速度的に進んで「地球沸騰化」の時代に突入し、大きな気候災害が世界中でドミノのように発生しています。さらには2022年2月のロシアのウクライナ侵攻の始まりに端を発するウクライナ戦争とそれに伴う食料危機や物価の高騰によるダメ押しがありました。はっきり言って、「赤信号」がともっているのです。

7月に国連が発表した「SDGs報告2023・特別版」のグラフを示しながら、いかにピンチにあるのかについてお話したところ、シンポジウムに関わっているメディア企業の方から、「今日の話を聞くまで、ここまで窮地にあるとは知らなかった」とのコメントをいただきました。

SDGs17のゴールの最新の進捗を示すグラフ 緑色が順調に推移している部分

 

SDGsのターゲット全体の中からデータに裏打ちされた140ターゲットについて分析したところ、順調に進捗しているのは15パーセントにとどまり、48パーセントは進捗が不十分、そして37パーセントは停滞あるいは後退しているのです。17つの目標のうち6つについては、順調に進んでいるものは一つもありません。しかしながら、SDGsの認知度が90パーセントを超え、関心も高い日本において、「SDGsが窮地にある」ということがあまり知られていないのでは、と感じています。

2018年9月にローンチされた国連とメディアとの連携の枠組み「SDGメディア・コンパクト」は、加盟メディアの数は400を超え、そのうち200を超えるメンバーは日本のメディアです。これらSDGsに熱心なメディアが、日本でのSDGsの認知度向上に大きく貢献したと感じていますが、後半戦に向けたSDGサミットの機会に、SDGsを取り巻く厳しい現状についてより積極的に取り上げるとともに、2030年までの実施の後半戦における変革の動きを太い運河のような流れにすべく、提案型・課題解決型の発信を強めていただきたいと願っています。

先日更新したブログ記事「『地球沸騰化』時代の気候アクション」でも多くの意識調査の結果を取り上げましたが、危機感を持ってもらうことは大切ではある一方で、終末論的な発信ばかりにさらされると、人は感覚がマヒし、ニュースに心を閉ざしてしまいがちです。同時に、ニュースを避けがちな人々が、明るいニュース、解決策を伝えるニュース、複雑な出来事を理解するのに役立つ解説などを求めていることも浮かび上がっています。

 

 

人類の存亡を左右する脅威であり、ほぼすべてのSDGsのゴールを台無しにしてしまう影響をもたらす気候変動についても、今年3月に公表された「気候変動に関する政府間パネルIPCC)」第6次評価報告の統合報告書は、「私たちがこの10年に行う選択と行動が数千年にわたり影響を与える」と指摘し、私たちが地球をつないでいけるかどうかの分岐点にあることを示しています。そのような重要な分岐点にあって、人々の諦めや無関心が勝ってしまうような事態は何としても避けなければなりません。

 

 

そのような中、国連総会ハイレベルウィークに合わせてニューヨークの国連本部で開催されるライブ配信イベント「SDGメディア・ゾーン」(9月18日―22日)に、ナタリー・ポートマン氏やテレビドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」にも出演していたニコライ・コスター=ワルドー国連開発計画(UNDP)親善大使をはじめとする著名人、国連機関の長、グローバル企業や研究機関、市民社会団体の役員等が登壇します。登壇者には、日本の研究者やメディア関係者、国連の邦人幹部職員も含まれ、窮地にあるSDGsの救済策や地球沸騰化時代の気候アクションなどをテーマに、議論を展開します。

 

 

SDGsの実施期間の中間点にある今年は、試合に例えればまさにハーフタイム。この重要な節目に、日本からの登壇者らは日本と世界の人々にSDGsの達成や気候危機への対応に有効なアイディアや視点を提供しながら、白熱する議論や成果を受けて緊急報告を行います。

SDGサミット(9月18日-19日)の初日には、4年ぶりとなるグローバル・サステナブル・デベロップメント・レポート2023(Global Sustainable Development Report 2023)の執筆に関わった世界15人の独立科学者の一人である、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科の蟹江憲史教授から、SDGs達成に向けた変革において科学の果たす役割を中心に、私がお話を伺います。さらに、SDGメディア・ゾーンを舞台に、「1.5℃の約束」気候アクションキャンペーンに関して、日本のメディア関係者からの発表も行われる予定です。

 

国連本部のSDGメディア・ゾーンには日本からの登壇者も複数出演

 

「SDGメディア・ゾーン」のプログラムは、日本関係者のセッションも含め、国連本部のウェブサイトに順次公開されていきます。すべてのセッションが国連のオンライン・プラットフォーム「UN WebTV」から世界にライブ配信され、同プラットフォームにアーカイブされます。国連広報センターは日本からの登壇者が参加するセッションについてSNSで情報を発信する予定ですので、どうぞご注目ください。

2023年の国連総会ハイレベルウィーク中には、世界の首脳が集結する一般討論(9月19-23日および26日)に加え、SDGサミット(9月18日-19日)、開発のための資金調達に関するハイレベル対話(9月20日)、気候野心サミット(9月20日)、パンデミック予防・備え・対応(PPR)に関するハイレベル会合(9月20日)、「未来サミット」のための閣僚級準備会合(9月21日)、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)に関するハイレベル会合(9月21日)、結核との闘いに関するハイレベル会合(9月22日)といった重要な会合が開かれます。

国連総会ハイレベル・ウィークを前に9月13日に記者会見したアントニオ・グテーレス国連事務総長は、ハイレベル・ウィークでの最優先課題について質問され、次のように答えています。

SDGsの実施を突破する上で、国際社会のキャパシティーが飛躍的に前進するよう、確かなものにすることこそが、私たちにとって最も重要な目的です」

 

 

飛躍的に大きな進展につながる成果を見守っていただきますよう、どうぞよろしくお願いします!