【略歴】濱住治郎(はますみ・じろう) 広島県出身。母親が妊娠3カ月の時に被爆したことで、「胎内被爆者」として被爆者健康手帳を持つ。2003年に東京都稲城市原爆被爆者の会を結成し、2007年から体験を伝え始める。原爆胎内被爆者全国連絡会の結成にも尽力した。2019年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第3回準備会で胎内被曝者として初めて発言。日本原水爆被害者団体協議会事務局次長。
いま、世界には1万2512発の核兵器があります。1945年に広島、長崎に原爆が落とされてから78年が経ちましたが、この間にも2000回を超える核実験が行われ、世界各地で核兵器による苦しみや破壊が続いてきました。
「原爆の恐ろしさは十分に知られていないのではないか」。核兵器廃絶を訴え続ける被爆者の思いの根底には、もう誰にも同じような苦しみを味わってほしくないという切なる願いがあります。唯一の被爆国日本からは多くの被爆者が声を上げ続けてきました。
広島で父を原爆で失い、家族全員が被爆した濱住治郎さん(77)もその一人です。濱住さんは母親の胎内で被爆した「胎内被曝者」です。何をどう伝えていくのか模索しながら活動を始めたのは50代後半でした。濱住さんの思いを支えるのが、家族から伝え聞いた8月6日、そして被爆者の先輩たちの姿です。
平和や公正はSDGsの大切な一つの柱。平和な世界でなければ、人間の尊厳も地球環境も守ることはできません。濱住さんの言葉や記録から、核兵器のない世界への願いを次の世代にどう継承していくかを見つめます。
父が原爆で亡くなった年齢になってこみあげた思い
8月6日は、濱住さん家族の運命を大きく変えました。あの日、濱住さんの父親の正雄さんは爆心地500メートル付近の職場に出かけたきり戻ってきませんでした。母親ハルコさんは当時妊娠3カ月。翌日広島市中心部に入り、正雄さんを捜索する中で被爆しました。濱住さんは翌年2月に生まれ、父親の遺影がかかる家で育ちました。母親が電気の集金や畑仕事をし、兄は進学をあきらめて働き、7人の兄弟を支えてくれたと言います。
家族や親戚を含め、周りの多くの人が、被爆の体験を詳しく語ることはなかったと言います。市の中心部から4キロの位置にあった濱住さんの家は倒壊をまぬがれ、あの日多くの人が避難してきたことなどを断片的に聞く程度でした。
「みんな生きるのに精いっぱいでした。兄も下に何人も妹たちがいて、私もいるでしょう。父が原爆で亡くなったという事実は自分の中にずっとあったんだけれども、そのことを詳しく聞こうということはあまりなかったんです」
しかし、父親が亡くなった年齢の49歳になった時に強い思いがこみあげてきました。
「私が母のおなかの中で3カ月の時に父は亡くなったんだけど、その3カ月の差で私はいま生きています。この不思議さは何なんだろうといつも思っていました。父が亡くなった年齢になった時、父親は8月6日どんなことをしていたんだろうか、どんな思いだったんだろうかと、もっと知りたいと思ったんです」
自らは被爆の体験や記憶がない濱住さんは、6人の兄姉に手紙を書き、8月6日の様子を教えてほしいと頼みました。原爆投下から50年がたっていました。兄姉全員が便箋にしたためた返信をくれました。いつもと変わらず始まったはずの8月6日の朝、しかし家族の誰にとっても生涯忘れることのできないあの日の記憶が浮かび上がりました。
家族のあの日の記憶を胸に
1945年8月6日、濱住さんの一番上の姉(当時16歳)と二番目の姉(14歳)は学徒動員で、朝早く出かけていました。激しい光と爆音、爆風の中、建物が崩れてきたことなどを綴っていました。濱住さんがまとめた手記から一部を抜粋します。(漢字の表記などは原文ママ)
ー暗闇の中、何が起きたか分からなかった。工員さんたちが屋根を破って、一人ずつ外にだしてくれた。(中略)被爆し、火ぶくれになった人たちが逃げてきた。髪はバサバサ、裸同然であった。(中略)汽車の中は、ヤケドの人でいっぱい。「お願いします。水を下さい。」という声がする。川の中も、人でうまっていた。「家の者が、この様子だったら?自分は助かるだろうか?」心配しながら歩き続けた。
長兄(当時12歳)と三番目の姉(当時9歳)は、山間地域に集団疎開し、農作業の日々を過ごしていました。そこからもはっきりと原爆の様子が見えたことを書いていました。午後には黒い雨が降ったことも覚えていました。
ー八時から校庭で朝礼。六年生から二列に並んで五十メートル離れた兵台の校舎へ入る手前で、「ピカッ」と光った。暫くして「ドガン」。東方面、「広島がやられたぞ」と叫ぶ声。山の向こう側へもくもくと盛り上がるキノコ雲。(中略)夜は、空が真っ赤であった。「これは、大変なことになっている。」わが家のことが心配であった。
四番目の姉(当時7歳)と五番目の姉(当時4歳)は、広島市の中心部から4キロ離れた自宅にいました。すぐに多くの人が家に避難してきて手当に追われました。
ーガラスのあった部屋はガラスが破れ、ふすまに立ち込んでいた。壁つちはタンスに寄りかかっていた。北側の道路に面した戸は全部壊れ、道行く人が全て見えた。(中略)三十分もすると、焼けただれた人達、血を流した人たちがどんどん逃げてきた。
濱住さんの家に30人ほどが身を寄せました。ひどい火傷を手当てする薬もなく、じゃがいもをすったものを塗りました。大きな外傷がなくてもその後高熱を出し、髪の毛が抜け、亡くなる人もいました。そんな中、家族全員が父の帰りを待ち続けました。
母親と、二番目の姉たちは、父正雄さんを捜すために、翌日から市内を歩き回りました。爆発の熱が残り、誰だか区別できない姿があちこちに転がっていたと言います。二日後ようやく焼け跡から見つかった父は変わり果てた姿で、身に着けていたベルトの金具など遺品3点から確認できました。幼かった姉たちは、帰宅した母から「お父さんがこんなになっちゃったよ」と見せられ、母親と抱き合って泣き、食事ものどを通らなかったと記しています。二番目の姉たちは数日後に高熱が出て下痢や吐き気に襲われて寝込みました。
手紙から、家族のそれぞれが、言いようのない悔しさや、辛さを心に秘めてきたことを濱住さんは感じたと言います。初めて知ることばかりでした。
「私がまだ生まれる前の知らなかったことが具体的に書かれていました。そんなことがあったのかと思いました。直接話せなかったのでしょう。兄弟によっても、自分のことを知られたくない、知らせたくないというのがあったと思うんです。二番目の姉は話したくないと言っていました。広島で行われる式典や運動についても冷ややかでした」
原爆によって、その年だけで広島では約14万人が、長崎で約7万人が命を落としました。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の資料によると、家族に看取られながら亡くなったのは全体のわずか4%、42%は行方不明のままでした。
胎内被爆者としての使命を感じて
濱住さんが「胎内被曝」について調べ始めたのは、兄姉の体験を手紙で読んだのと同じ頃でした。
2022年3月末時点で被爆者の数は11万3649人、そのうち胎内被爆者として認定されているのは6602人です。妊娠早期に強い放射能を浴びたことで発症する小頭症などの障がいを持って生まれたり、がんなどの病気に苦しんだり、早くに亡くなったりする人も多く、若い細胞の胎児だったからこそ影響を大きく受けたことがわかっています。濱住さんも体が強い方ではなく、健康への不安や、結婚してからは子どもへの影響なども気にしながら過ごしてきました。胎内被爆者の中には病気や社会の無理解に苦しみ、若くして自ら死を選んだ人もいました。
胎内被爆者のつながりを作りたいと、濱住さんは、2014年の「原爆胎内被爆者全国連絡会」の結成に加わりました。その中で多くの胎内被爆者の人生も知りました。濱住さんは、40歳で亡くなるまでがんとの闘病を続け、核兵器廃絶を訴えた胎内被爆者の女性が残した文章が忘れられません。
「”生まれる前から被爆者だった”という言葉を残しているんです。それが一番強烈でした。核兵器は人間として生きることを否定するのだと思います。そういうものを人間に落とすということは、人間を人間として認めないということだと思います。核兵器は絶対にあってはならない。胎内被爆者という立場で訴えていくのが自分の使命だと思っています」
濱住さんは、2003年に暮らしていた東京都稲城市でも原爆被爆者の会を結成し、2007年に原爆を語り継ぐ絵本を出版したことでできた市民グループでも、毎年のように核の問題を伝える展示を行ってきました。学校で話をしてほしいと頼まれたのが後押しとなり、胎内被爆者として語り始めました。
濱住さんは、ニューヨーク国連本部も数度訪れ、2019年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第3回準備会では、胎内被爆者として初めて発言しています。濱住さんは歴史を知るほどに、先の被爆者たちがどれほど懸命に原爆被害の事実を調べ、補償や援護体制の実現を訴え、核兵器廃絶を願い活動してきたか、その重みや深みを感じてきました。”一番若い被爆者”としての責任と使命を抱いて活動していると言います。
「単なる被害者として被爆者がいるんじゃない。かわいそうな人間というのではなく、人間として原爆の悲劇をどう乗り越えていくのか、世界の人たちの問題として意識して先輩たちが取り組んできてくれたのです。核の問題はそこで終わりません。どれだけの人間が苦しんできたか。一番苦しんでいる人たちの声をどれだけ聞けるか、そこを無視していては同じことを繰り返すんじゃないかと思うのです」
この時代にどう伝えていくのか
戦後78年がたち、原爆を直接体験している人が少なくなる中で、伝える難しさは増しています。濱住さんは体験を話す度に、「自分は何も話せていないのではないか」という思いになると言います。それでも、胎内被爆者の自分が、つなぎ役になれればという思いを強くし、事務局次長を務める日本被団協では被爆二世として活動する人たちを支援する役割も引き受けています。
一つの希望は、若い世代の反核や平和活動への参加です。コロナ禍での核兵器についてのオンラインの証言会や禁止を求める署名も若者の呼びかけで実現しました。
「若い人たちは決断がすごく早いんですよね。私だったら何をしようか迷い、何にもできないでくることもあったんだけど、彼らの行動力に励まされています。若い人たちの行動が、被爆者の力になっています」
そうした若い世代の力を得て、今年新たな伝える試みが実現しました。これまで被団協がNPT運用検討会議の機会に合わせて国連で4回行った原爆展を、オンラインでも見られるようにしたのです。サイトは約50ページにわたります。
広島・長崎の被害の概要に加え、被爆者が核とどう向き合ってきたか、核実験や核廃棄物の問題、チェルノブイリ、福島の原発事故など、現代に続く核の問題を体系的に日本語と英語で紹介しています。展示会場に足を運べなくとも、世界中からアクセスでき、核の問題について知ることができます。日英に加えてさらなる多言語化も目指しています。
いま、分断が広がる世界で、核兵器使用のリスクが高まっています。穏やかで静かな口調の濱住さんが、世界は広島、長崎に向き合っていないのではないか、日本もまた十分に向き合えていないのではないかと、語気を強めました。
「生きることを否定する核兵器は許してはいけないのです。それを世界中の人にわかってほしい。犠牲になるのは市民であり、子どもです。私は命の大切さを子どもたちにも伝えていきます」
”核兵器も戦争もない世界を次世代に届けることが、被爆者と世界の大人たちの使命”。母の胎内で生まれる前に被爆し、被爆者としての人生を歩んできた濱住さんの思いです。
(取材・構成 飯野真理子)
国連本部での原爆展をオンラインミュージアムとして開設したページはこちらからご覧になれます。