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国連のさまざまな活動を紹介します。 

わたしのJPO時代(18)

 

「わたしのJPO時代」第18弾は、国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局でコミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソンを務める堀幸恵(ほり・ゆきえ)さんのお話をお届けします!

島嶼国フィジーでJPOをスタートした堀さんは環境情報、ジェンダー、砂漠化対処プログラム、そして広報と、様々な分野をわたってキャリアを築いてきました。自らの得た経験、スキルを基に将来の自分を決める“progressive experience”のお手本のような堀さんに、その原点であるJPO時代を語っていただきます。

 

 

                                      国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局

                     コミュニケーションチーム・リーダー・スポークスパーソン

                                             堀 幸恵(ほり・ゆきえ)さん

 

                                                     ~そして道は続く~

 

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堀幸恵(ほり・ゆきえ):国連砂漠化対処条約事務局(UNCCD)コミュニケーション・チームリーダー・スポークスパーソン。1992年Cornell Universityコミュニケーション論修士号取得後、NTT勤務を経てフィジーにあるUNICEF太平洋諸国事務所にてJPO。以降、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)にて環境、ジェンダーのプログラム、ニューヨークの国連本部にてECOSOC政策、事務次長室執務、国連砂漠化対処条約事務局にてアジアプログラムに携わる。国連サバティカルプログラムを活用し2009年、London School of Economicsコミュニケーション論博士号取得。2008年より現職。

 

 

わたしのJPO時代 ― 国籍を問わず、JPOを経験した国連職員の間でかなり盛り上がるトピックです。考えるに、その理由は二つ。一つはJPO間のつながりは意外と広く、「じゃあ、あの人知ってる?」というネタで初対面の相手とも話が広がること。もう一つはやはり、多くのJPO経験者にとってJPOが最初の国連のアサイメントであり、最も印象に残る体験だからにほかならないでしょう。

 

私がJPOとしてフィジー共和国の首都スバに本拠を置く国連児童基金UNICEF)太平洋諸国事務所へ赴任したのは、ほぼ四半世紀前のことです。最初にJPO制度を知ったのは留学先大学の留学生課にあった外務省国際機関人事センターの張り紙でした。当時は選考から決定、実際の派遣までに要した期間が長く、人事センターからの通知にも、「その間待たずに他の仕事を見つけて下さい」というようなことが書かれていたと記憶しています。私の場合も派遣までにほぼ2年かかり、その間は東京のNTTで働いていました。修士課程で異文化コミュニケーションを専攻したこともあり、派遣先は国連教育科学文化機関(UNESCO)を希望したのですが、人事センターの方にUNICEF国連開発計画(UNDP)の方がJPO期間後に残れる確率が高いとのアドバイスを受け、最終的にUNICEF太平洋諸国事務所のJPOポストに応募しました。今思えば、このアドバイスは的を射ていたと思います。なぜなら国連はいったん正規職員として入ってしまえば、ポストや機関を異動することは比較的容易だからです。

 

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                      バヌアツの離島で。子どもの栄養のための「家庭菜園プロジェクト」を視察(1992年)

 

 

1992年7月、フィジーでの日々が始まりました。UNICEF太平洋諸国事務所は当時、南太平洋島嶼国13カ国のプログラムを管轄していました。プログラム管理官の下に2名のJPO、数名の国連ボランティア(UNV)及びコンサルタント、ローカルスタッフという小さな事務所でしたのでJPOにも大きな責任が回ってきます。私の担当はバヌアツとマーシャル諸島。当時バヌアツの人口はおよそ16万、マーシャルに至っては5万人でした。小さな島国で、たとえ政府高官がTシャツにぞうり姿で仕事をしていたとは言え、彼らとプロジェクト運営について話し合うことは、最初は緊張の連続でした。生真面目にも毎回、「言うことリスト」を作ってミーティングに臨んだことを覚えています。

 

しかし担当国を訪れるたびに顔なじみも増え、出張が楽しみとなりました。現地で働いている国連関係者、NGOや日本の青年海外協力隊の方々とも仲良くなり、バヌアツでは仕事の後に薄暗い“カヴァBar”で泥水みたいな色のコショウ科のローカルな飲み物カヴァ(アルコールは含まないものの鎮静作用があり、飲みすぎると酩酊状態になる)を飲みながら、遅くまで話をしたりしました。ちなみに私の夫は同時期にUNDPフィジー事務所に派遣されていたドイツ人JPOです。バヌアツ公務員による長期ストライキのため多くのプロジェクトが停滞し、共にその対応策を練ったことが知り合うきっかけとなりました。

 

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                            マーシャル諸島の首都マジュロで。ユニセフの家庭菜園プロジェクトに携わる
                                         コミュニティーの人々から、花冠の歓迎を受ける(1994年)

 

 

この時期に右往左往しながらも現場で仕事を学んだことは、のちに国連の地域事務所や本部事務所に勤務する上で、大変役に立ちました。まだ若く、ある意味怖いもの知らずで、たくさん恥を掻いた分、得るものも非常に大きかったです。JPOの2年間のラーニング・カーブの跳ね上がり方は、すさまじいものがあったと感じます。

 

よく経験者が語るように、本部や大きな地域事務所で人脈を作ることが“ポストJPO”に有利につながることは確かです。一方、小国の事務所にもチャンスはあります。フィジーの場合、少ない日本人同士は仲が良く、日本大使館の方々にも大変お世話になりました。この時、国連競争試験の案内を大使館からもらったことが、のちの国連本採用につながりました。また、UNICEFのみならず他の国連事務所の職員とも知り合う機会が多く、将来について親身に相談に乗ってもらったのも大きなメリットでした。

 

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                                       経済社会局事務次長室での勤務最終日、同僚たちの心遣いに感謝

                                                        (ニューヨークの国連本部で、2007年)

 

 

UNICEF太平洋諸国事務所での勤務を経て、バンコク国連事務局アジア太平洋事務所(UNESCAP)そしてニューヨークの国連本部と、それぞれの赴任地でポストをいくつか替わり、その間にサバティカル制度を利用して大学院に戻ったりもしました。現在はドイツのボンに本部を置く国連砂漠化対処条約(UNCCD)事務局で広報課のチーフおよびスポークスパーソンをしています。UNCCDは職員数が全体で60数名の小さな条約事務局です。啓蒙プログラム活動にはUNICEFでもUNESCAPでも携わりましたが、直接広報の仕事に関わるのはUNCCDが初めてでした。

 

きっかけは2007年10月、事務局長の着任に伴い、大幅な組織改革が行われたことです。当時、人を斬るよりも内部スタッフを活性化しようと考えた事務局長が、人事コンサルタントのアドバイスを受けて事務局の全職員の学歴と経歴を洗い出した結果、コミュニケーションの学位を持つのが私だけだったというのがその理由。「一年やってみて結果を出せば、そのままチーフのポストを与える」との事務局長の言葉を受け、それまでのアジアプログラム担当官からの転身でした。以後の数年は新しい課の立ち上げ、コミュニケーション戦略の立案などプレッシャーの毎日で、一時は顎関節が開かなくなるほど働きました。そして何とか課が軌道に乗り、現在に至ります。

 

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                                          砂漠化により移住せざるを得ない状況に置かれた人々の数は、
                                                  2045年までに1億3,500万人にのぼると推測される
                                           ©Photo by Benno Neeleman, 2009 UNCCD Photo contest

 

 

UNCCDでの仕事はやり甲斐もあり、充実しているものの課題は山積みです。広報担当としての問題はまず、「砂漠化問題が実は砂漠のことではない」ことがあまり知られていないこと。砂漠化は乾燥地における土地の劣化、その結果起こる食料危機、長引く干ばつ、環境移民、果ては紛争や気候変動への世界的影響などに密接に関わる問題ですが、特に日本を含む先進国の人々にはあまり関心を持ってもらえません。「砂漠」という言葉自体が自分とは関係のないどこか遠くの問題だと解釈されてしまいがちだからです。しかしながら2012年の国連持続可能な開発会議(リオ+20)以来、地道に続けてきたロビー活動が功を奏し、砂漠化対処は「持続可能な開発のための2030アジェンダ」で目標の1つとなりました(ゴール15)。今後、一人でも多くの方に砂漠化を“自分に降りかかる問題”として捉えて行動してもらうことが私たちUNCCDの課題です。

 

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                                                     2015年にトルコの首都アンカラで開かれた国連
                                       砂漠化対処条約第12回締約国会議(COP12)でUNCCDの同僚たちと
                                                                  ©Photo by IISD/Francis Dejon

 

 

ドイツ・ボンでの勤務は10年目に入り、今までで一番長い赴任地となりました。国連ではキャリアを積むために通常、人事部の決定でなく自分で挑戦したい仕事や行きたい国での空席に応募してポストを獲得しなければなりません。そのためには自分の仕事に責任を持ち、なおかつその仕事の遂行において自分がどう貢献したかを、次のステップにつなげるようアピールできることが極めて重要となります。よく国連の空席募集要項に ”progressive experience” と記載されていますが、まさに、これまでに自分の得た経験、スキルに基づいて将来の自分の道を決めていくわけです。

 

実はJPOを経てから私の国連での担当は環境部情報、社会部ジェンダー、ECOSOC政策、事務次長室付、砂漠化対処アジアプログラム、そして現在の広報とかなりバラバラです。キャリア形成のためには専門性を高めるべきではないのかと自問自答を繰り返しつつも、これまでの四半世紀にこのprogressive experience、今までの経験を元に前進すること、ができたのはとてもラッキーであり、今の私の強みでもあります。もちろん平坦で真っ直ぐな道ではなく、ましてや一人で築いてきたわけでもありませんが、JPOとしての2年間が今ここにつながっていることは間違いありません。

 

JPOはやる気と気概があれば、多少の失敗も経験と見なしてもらえる学びの期間です。「よく国連はどんなところですか?」と聞かれますが一言で説明するのは非常に難しいです。働く国、機関、同僚によって全く状況が異なるからです。国連を目指される皆さんには是非JPO制度を利用してまず自分の目で国連を見ていただきたいです。その経験を元に道は続いていくでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

国連事務局ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)をご存知ですか ~昨年12月14日、筆記試験が実施されました~

皆さま、こんにちは。

国連広報センターの千葉と申します。


昨年12月14日、国連事務局のヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)と呼ばれる職員採用試験(国連人事局主催)の筆記試験(経済分野と情報技術)が外務省国際機関人事センターの支援態勢のもと、国連大学本部ビルのウタントホールを会場にして行われました。

この筆記試験の総監督を務めさせていただきましたことから、せっかくなので、試験当日の様子を含めて、YPPのご案内をさしあげたいと思います。

今まさにYPPを受験しようかと考えていらっしゃる方々、あるいはまったく聞いたことがないけれど、国連事務局での仕事に興味があるという方々に多少なりとも参考にしていただければ幸いです。

国連広報センターは、YPPに関する特設ウェブページをつくっています。こちらもご利用ください)


YPPとは)

 

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         (United Nations Careersのウェブページ)

 

ヤング・プロフェッショナル・プログラムの正式な英語名称は、Young Professionals Programme(YPP)です。

若く多彩な才能を国連事務局に取り入れるべく、国連職員をめざす32歳以下で高い能力をもつ方々をエントリーレベル(P1、P2)の正規職員として採用することを目的とします。

基本的に、国連では、新入社員を一斉に採用する日本企業とは異なり、欠員が生じたときにその都度、空席公募で職員を採用しますが、YPP試験は定期的に実施されます。

YPPの対象は、自国出身の職員が「地理的配分」で「望ましい職員数の範囲」の下限ラインを下回っている国(underrepresented)と皆無の国(unrepresented)に限定されます。(下記説明参照)

昨年は、日本を含めて、約60か国が対象でした。

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 「地理的配分」と「望ましい職員数の範囲」

国連事務局が高い成果をあげるためには、まずなによりも、誠実性と高い能力をもった人が採用されることが肝要ですが、国連の普遍的な性格から、地理的配分の原則に適切な配慮がなされることもまた必要です。

国連憲章第101条3項には次のように規定されています。


「職員の雇用及び勤務条件の決定に当って最も考慮すべきことは、最高水準の能率、能力及び誠実を確保しなければならないことである。職員をなるべく広い地理的基礎に基いて採用することの重要性については、妥当な考慮を払わなければならない。」


この国連憲章の条項をもとにして、総会決議などで具体的な事柄が決められてきました。

現在、国連事務局職員の総数は専門職、一般職の職員すべてあわせて、約4万人ですが、そのうち通常予算で賄われる専門職以上の約三千人の職員が地理的配分原則の適用対象とされています。


この約三千人という総枠のなかで、各国は「望ましい職員数の範囲(desirable range)」を設定されており、その範囲の下限ラインを下回る国がYPP対象国となります。

「望ましい職員数の範囲」を設定するシステムは1947年に国連総会決議で採択され、決まりました。1962年まで、算出方法は通常予算に対する各国の分担金のみに依拠しましたが、同年の総会決議により、加盟国への均等割り当てと人口の2つのファクターも加えられました。その後、ファクター間の比重は変化しますが、1987年の総会決議で、全加盟国均等割当(40%)、人口(5%)、分担金(55%)と決められてから変動はありません。これら3要素で算出されるすべてのポスト数を加算したものが中間点。その中間点から上方に15%(上限)、下方に15%(下限)の幅で設定したものが「望ましい職員数の範囲」です。

2016年6月30日現在、自国出身の国連職員が皆無の国(unrepresented)は19か国。下限を下回る国(underrepresented)が42か国、望ましい範囲にある国(within range)が104か国、上限を上回る国(overrepresented)が28か国。

日本の場合、望ましい職員数が167人~226人の範囲で設定されていますが、2016年6月30日現在で78人と、下限ラインの167人を下回り、‘underrepresented’の状態となっています。

(出典:国連文書 A/71/ 323/Add.2、A/71/360、ST/AI/2012/Rev.1など)

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かつて、YPPは、National Competitive Recruitment Examination(NCRE)、いわゆる「競争試験」という名称で呼ばれていました。


NCREは、エントリーレベル(P1、P2)の国連職員の採用を公正な競争を通じておこなうことを目的とし、1970年代から実験的に導入され、その後、1980年に、その実施が義務化されました。

その後、国連が必要とする職員数を超えてもなお新規の合格者が登録され続け、せっかく合格してもずっと待機状態に置かれるだけといった試験と現場のニーズとの調整がうまくはかれない状況などが指摘されたことから、その改善をはかるべく、2011年、NCREはYPPと名称を変えて再出発したのです。

YPPは毎年、対象となった国々から多いときは5万人を記録するほど応募があって倍率が非常に高く、また試験対象となる職能分野も毎年、現場のニーズに応じて変わるといった理由から、その条件がかなり厳しいものとなっていますが、上述のような国の若い方々にとっては、国連の正規職員となるチャンスのひとつであることは間違いありません。

YPPが2011年にスタートしてから5年が過ぎましたが、これまでに4人の日本人が合格。すでに国連職員となった方もいます。

NCREの時代に遡れば、試験に合格し採用された日本人はさらに多くいます。現在、国連平和構築支援事務所次長として活躍する山下真理氏もその1人です。同氏は、2010年から2012年まで当センター所長を務めました。

 
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 (Junior Professional Officer (JPO)派遣制度のご紹介)

 日本人が空席公募やYPPで直接、正規の国連職員として採用されることに困難が指摘されるなかで、日本においては、外務省が日本人の国際機関職員増加を図るため、JPO派遣制度を実施しておられます。

YPP受験者を含め、多くの方々がこのJPO制度に挑んでいます。

JPO制度は、国際機関に勤務を希望する若手邦人を、日本国政府(外務省)が経費負担し、原則2年間国際機関に派遣し、勤務経験を積む機会を提供することにより正規職員への道を開くことを目的としたものです(外務省HPより)。

JPOの派遣先は国連事務局ばかりでなく、ユニセフやUN Womenなど、さまざまです。

JPOは、国連が実施する採用制度ではなく、外務省が実施主体であり、将来、正規職員になれることを保証するものでもありませんが、事務局や諸機関をすべてあわせると、派遣終了後、約7割を超える方々が国連の正規職員として採用され、活躍しておられます。現在では、JPO出身者が、国連諸機関全体の日本人職員に占める割合はとても高くなり、実際、この制度が日本人にとっては国連職員になるための一番の近道になっています。


ご関心のある方は外務省のウェブページからぜひ詳細をご入手ください。


国連広報センターもまた、「わたしのJPO時代」というウェブシリーズを展開するなど、その広報に一役かっているところです。

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YPPのプロセス)


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            (inspiraのログイン登録画面)

 

さて、YPPの応募には、まずは申請登録し、書類選考を受けることになりますが、登録は国連のinspiraという電子プラットフォームから、自分のプロフィール、必要事項など入力します。

応募要件としては、学士以上。職業経験があれば有利ですが、必須要件ではありません。

書類選考を通過すると、その旨の通知を受け、筆記試験に臨むことになります。

昨年12月の試験が、この筆記試験でした。

筆記試験は、所用時間が4時間半。General Paper(一般試験)とSpecialized Paper(専門試験)で構成されます。ほとんどが記述問題。全部で800点満点です。

General Paper(配点は150点)は受験者全員に課される共通問題です。最近は、およそ900ワードのテキストを3分の1の300ワードに要約する問題が出題されているようです。
 

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     (UN Careersのウェブに掲載されたGeneral Paperのサンプル)

 

Specialized Paper(配点は650点)はそれぞれの専門領域の問題。多肢選択問題と作文問題で構成されます。

多肢選択問題は全50問。作文問題は最大で13問まで。その中で、最も多いときで3問目までが長文解答を求められます。

この筆記試験を通過した方だけが面接試験へと進むことになります。

ちなみに 面接試験は200点。したがって、YPP試験全体で1000点満点です。

面接試験に無事合格すると、ロスター登録されることになります。登録の有効期間は2年間に限定されますが、その期間中に、P1あるいはP2レベルという職務階級で、2年間の期限付き雇用契約(fixed-term contract)をオファーされ、採用された場合、2年間の仕事ぶりが十分な評価に値するものであれば、より継続的で安定的な雇用契約(continuing contract)への切り替えが考慮されることになります。

なお、YPPの内容はその改善のため、今後段階的な進化を遂げていくことも予想されるので、留意が必要です。

実際に受験をお考えの方々におかれましては、こまめにYPPのホームページで最新情報をチェックしていただけるとよろしいかと思います。


(試験当日)

 

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           (国連大学本部ビルの正面)


さて、昨年12月の筆記試験当日の様子を少しご案内したいと思います。

この日の朝は雨模様。強い雨など降り出して会場に足を運ぶ受験者の皆さんが濡れなければいいなと心配しましたが、午後は晴れ間が見える天気になりました。

午前中、監督者として手ぬかりがないように、筆記試験実施に関するガイドラインやその他のすべての資料を再度読み込み、筆記試験当日の流れのなかで必要となる作業、そして地震を含めて突発的な事態が起こった場合の対応などを一つひとつていねいに確認します。

午後2時半。準備開始。

外務省の担当者の方や、応援に来られた職員の方々、受付や試験監督をお手伝いいただく方々が全員揃って、打ち合わせをしたり、受付やクロークの設営、ホワイトボードの運び入れなどしたりしているうちに時間が過ぎていきます。国連広報センターからもインターン二名が準備のお手伝いをしました。

試験会場となった国連大学の施設担当の方々や警備の方々もまた、受験者の皆さんに快適な環境で受験していただけるようにと、とても親切に協力してくださいます。

午後4時。受付開始。

受験者の皆さんが到着しはじめ、受付で、受験者本人の身分証明書(写真付き)と受験番号を確認していきます。


受験者の皆さんはそれぞれ受付を済ませ、持ち込みが許された鉛筆、消しゴム、ペンだけを持って会場に入ります。(スマホや携帯電話の持ち込みは不可です。)


午後5時。受付終了。


会場のドアが閉められます。

ここから先は、外務省の担当者の方と、国連大学からお手伝いに来ていただいた方と私の3人が会場内で、試験監督を務めることになります。

 

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       (国連大学本部ビル3階、ウタントホール入口)

 

また、これ以降、試験会場に入った受験者は原則として、トイレに行く以外、会場を出ることはできず、トイレに行くときは、不正を防ぐため、試験監督者の1人が必ず付き添うことになります。

ドアが閉められたことを確認して、総監督の私から受験者の皆さんに注意事項などを説明しはじめます。

受験者リストの一番目にお名前が書かれている方をお呼びして証人となってもらい、問題用紙が入っているグレーの封筒を開封します。

この封筒の中身はニューヨークから届いて開封されるまで、試験監督者を含めて誰も見ることは許されません。

午後5時20分。

注意事項に関する説明が一通り終わり、試験開始です。

受験者の皆さんはまず自分の氏名や受験番号を鉛筆で記入していきます。

氏名や受験番号などの記入と、専門試験の多肢選択問題の解答については、鉛筆(消しゴムも可)を使いますが、その他の問題については、黒色か青色のペンを使って文章を書かなければなりませんし、また修正液などを使うことは許されません。

使用言語はGeneral Paperで英語かフランス語。Specialized Paperでは6つの国連公用語のいずれかひとつを選べます。

時折、こういうことでうっかり間違える受験者がいるということで、注意が必要です。

受付で手渡されたメモ帳はどのように使っても自由で、皆さんは自分の考えを図式化したり、下書きしたりしています。

それにしても、普段コンピュータを使って書くことに慣れた方にとっては、ペンを使って文章を書かなければならないだけでなく、間違えても修正液などの使用が許されないというのはとても厳しく感じられるだろうと思いますが、受験者の皆さんはそうした練習を積んできているのか、すらすらとペンを走らせています。

 

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       (国連大学本部ビル3階、ウタントホール内)

 

最初は長いと思われた4時間半ですが、意外なほど、あっという間に過ぎていくのを感じます。

残り時間30分。

皆さんに終了時刻が迫っていることをお知らせします。

残り時間15分。

最後の声かけ。皆さんのペンを走らせるスピードがアップします。

そして午後10時20分。

試験終了。

早速、解答用紙を集めはじます。それだけでなく、問題用紙、メモ用紙もすべて回収します。これらすべてをニューヨークの国連本部に宛てて送り返さなければなりません。

受験者の解答用紙をすべて回収し終わり、今回の筆記試験の合否結果発表が今年5月上旬であることをお伝えして、受験者解散です。

もう夜も遅く、4時間半に及んだ試験問題との格闘から解放された受験者の皆さんは足早に会場を後にされています。

開封の証人となった方だけは残り、回収した用紙の数を確認し、それら用紙を封筒に密封したことを見届け、私と一緒に封筒に署名してもらいます。

この封筒、そして、その他に問題用紙などを入れこんで密封したパウチ袋を外務省の方にお渡しします。

この夜、パウチ袋は外務省内の安全な場所に厳重に保管され、翌日、ニューヨークに郵送されることになります。

午後11時。

会場の片づけなどが済み、ようやく長い1日が終わり、試験監督を務めた私たちも帰途につきました。

ーーー

そして、試験実施から約1か月。

今あらためて、試験当日を振り返り、なによりも、試験中、地震などで試験が中断したり、受験者の皆さんの集中力が途切れたりするような不測の事態が起こることもなく、無事に試験が実施されたことに安堵し、喜んでおります。

そしてまた、外務省国際機関人事センターのご尽力にも思いを馳せます。

外務省、そして試験会場を提供する国連大学の皆さんのご支援、ご協力があるからこそ、これまでも日本におけるYPP筆記試験の実施が円滑にされてきたのだと思います。

最後になりますが、東京の会場で受験された皆さんから、一人でも多くの方が面接試験、登録、採用へ進まれることをお祈りするとともに、今後、国連職員をめざす日本人の方々が増え、また実際に多くの優秀な方々が採用され、世界を舞台に活躍されることを心より願っています。


(千葉のブログを読む)

「北海道にみた国連につながる歴史ー国際連盟と新渡戸稲造」

「佐藤純子さん・インタビュー~国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化~」

「国連学会をご存知ですかー今年の研究大会に参加してきました」

「沖縄の国連寄託図書館を想う」

「国連資料ガイダンスを出前!」

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「国連寄託図書館をご存知ですか」

 

 

 

 

わたしのJPO時代(17)

 

「わたしのJPO時代」第17弾は、国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所で化学品・廃棄物プログラム調整官を務める吉田鶴子(よしだ・かくこ)さんのお話をお届けします! 「環境という国境のない仕事に関わりたい」という大きな志を抱き、自然保護NGOからJPOを経て国連機関へとキャリアを積まれてきた吉田さん。「グローバルな課題に取り組む難しさと醍醐味を同時に味わっている」と語る言葉からは、一つひとつの仕事に真摯に取り組む姿勢が伝わってきます。

 

 

  国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官

                                     吉田 鶴子(よしだ かくこ)さん

 

                                       ~無駄な経験など何一つない~

             

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「アジア地域の廃棄物処理に関するセミナー」で講演する吉田さん。開催地はモデル都市であるマレーシアのペナン(2016年)

 

吉田鶴子(よしだ かくこ):国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官。米ジョージア州立フォート・バレー大学動物学部野生動物保護科卒、スコットランド スターリング大学環境政策学部卒。青年海外協力隊平成6年度3次隊、生態学隊員としてケニアに赴任。1999年より世界自然保護基金(World Wide Fund for Nature, WWF)イギリス本部に勤務。南・東南アジアの環境保護、持続的開発プロジェクトの発案、実施管理に携わる。2001年、国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOとして赴任。環境モニタリングや持続的開発指標を政策に取り入れる援助・研究部門に所属。2004年、P4正規職員となる。2009年からバンコクのUNEPアジア太平洋地域事務所に勤務、現在に至る。

 

 

JPO挑戦は2回目で、「今回だめだったら次は応募しないだろう」と内心思っていたのは、2000年夏のこと。ジュネーブ国連本部の天井の高い一室で受けた面接の質問のうち、記憶に残っているのは2つだけ。1つ目は「治安が不安定な赴任地で、どうやって安全を確保しますか」。青年海外協力隊OGの私にとって、これは拍子抜けするくらい簡単な質問でした。これまで様々な分野や経歴を持った元JPOの国連職員に出会いましたが、開発途上国で働いた経験が、特に国連に入る上で有利に働いているように感じます。

 

2つ目の「どうして国連で働きたいのか」という問いには、「環境という国境のない分野の仕事には、国連でしかできないことがあるから」と答えた私。その後、晴れて2001年4月にメキシコ・シティー国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOで赴任して以来ずっと、この答えが間違っていて、それでいて正解でもあることを実証するような仕事を続けています。

 

JPO試験の合格通知を受け取ったのがWorld Wide Fund for Nature(WWF)の英国本部で働いている時だったため、日本での赴任前研修に参加する時間や経済的余裕はありませんでした。唯一の準備といえば夫婦で受けた週1回のスペイン語クラスのみ、それも3カ月ほどの短い期間でした。このクラスでさえ、赴任前に電話で挨拶をした未来の上司に、「スペイン語ができないと勤務に支障が出る」と言われ、慌てて個人レッスンを引き受けてくれる人を見つけるといった後手の対応でした。メキシコ・シティーに到着した日、3週間足らずの仮住まいとなるサービス・ホテルで見たテレビのニュースが全く理解できず、かなり不安に感じたのを覚えています。スペインのスペイン語中南米スペイン語の違いなど、基本的なことも当時は全く分かっていませんでした。

 

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                                                    JPOに赴任して間もない頃(2001年)

 

 

JPOでまず学んだのは、国連では自分から動かなくては何も始まらないということ。着任予定日の1カ月前になってもUNEP本部からは何の連絡もありませんでした。当時勤めていた職場との契約の都合もあったので、待ちきれずに日本の国際機関人事センターに連絡すると、赴任資金・必要書類等は数カ月前にUNEPに送付済みとのこと。人事センターでは赴任準備が順調に進んでいると思っていたようです。後で払い戻しをするからと言われ、引越し業者から航空券まで全てを自分で手配しメキシコに着いたものの、空港には聞いていた事務所からの迎えは現れず、立て替えた経費の払い戻しにも1年近くかかった記憶があります。

 

仕事の内容もしかり。まず自分に何ができるのかを示し、自分の業務範囲を開拓していかなくてはなりませんでした。中南米カリブ海の38カ国を取りまとめる地域事務所は、ナイロビ本部と各国の環境省との中継地点にあたる、いわば要の位置づけです。各国政府や地域・多国間組織などが出す環境白書やデータ出版に技術・資金援助する部の所属になった私は、支援要請を汲み上げ、本部からの予算とのマッチングをし、足りない分は資金集めも行い、プロジェクト実施の間は担当官として技術協力もする、という業務に携わりました。オフィサー・ポストが2つ、ロジのローカルスタッフ・ポストが1つ、あとはコンサルタントという、UNEPでは典型的な規模のセクションでの勤務でした。当時P4だったこのセクションの責任者がとてもやり手だったため、活動資金は潤沢にあり、政府や専門機関からの信頼も厚かったのを覚えています。この“できる”上司のもと、彼以外の同僚は全てスペイン語が母国語という状況で、自分がいかにできないかを日々再確認させられる、マイナスからのスタートでした。

 

JPO期間の初めの3カ月を終了した頃に外務省に提出したレポートを見返してみると、「やっと部門の業務内容が把握できたという気がする」「業務は直属上司のアシスタント的業務がほとんどだ」などと書いてあります。言葉もできず、地の利もなく、“使えない”部下だったであろうことは想像に難くありません。この時の上司とは今でも交流がありますが、気の短い彼にしてはかなり忍耐強く、時々ため息をつきながらも指導してくれたことに、心から感謝しています。

 

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   JPO勤務の時のチームと。忍耐強く指導してくれた上司(右から2番目)には今も感謝している(2003年)

 

 

どんな人でも一人で食事をしているのを見過ごせない―。メキシコ人をはじめ、ラテン系のノリが全開の熱い事務所のおかげで、言葉の方は半年を過ぎた頃にはどうにかなっていました。この時期に一緒に働いていた同僚たちは、地域事務所自体が移転したためパナマに移ったり、ナイロビ本部や他の国連機関に転勤したりで世界中に散らばっていますが、いまだに家族ぐるみの交流が続いています。また、JPO時代にスペイン語で仕事ができるようになったのは大変好都合だったと思います。

 

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                                     ナミブ砂漠でアルゼンチンの乾燥地帯専門家たちと(2006年)

 

 

最初は英語で業務のできるカリブ海の国々のプロジェクトを担当し、その後は徐々に他の案件にも関わり始めます。ただ、プロジェクト・マネージメントの基本を学ぶ機会はほとんどなく、即戦力であることが期待されていました。国連に入る前に務めていたNGOの職員教育のおかげで、一般的に使われているツールやドナー用レポートの書き方など、基礎はその時に学習していました。「持続可能な社会」や「エコリージョン基盤の生物多様性保護の理論・実践」の最先端にいる人たちに揉まれたNGO時代がなかったら、私のJPO時代の肩身はさらに狭かったことでしょう。JPOの2年目が終わる頃には、「環境と健康」という新しい分野において地域事務所全体を束ねる担当者に立候補し、おかげで世界保健機構(WHO)など他の機関との仕事も増えていきました。現在勤務しているアジア太平洋地域事務所でも同じテーマの担当をしているので、無駄な経験など何もないということを、つくづく実感しています。

 

JPO面接で「環境には国境がない」と答えましたが、砂塵、スモッグ、海洋汚染など、1つの国の問題が周辺地域に被害を及ぼす案件を頻繁に担当しています。特に、地球温暖化や有害廃棄物の違法取引などは、地球レベルや多国間での協力があって初めて対処策が見えてきます。でも、実際に環境問題対策の法整備・法遵守を可能にするのは各国政府のみです。直接NGOや企業とプロジェクトを立ち上げるのに比べたら時間はかかるかもしれませんが、中央政府や地方政府自体が環境問題を重要課題として認識しない限り、大きな向上は期待できません。いくら国連がやきもきしても、どうしようもないのです。ラテンアメリカカリブ海地域で合計9年間を過ごしましたが、各国の環境省出身の同僚たち、あるいはキューバ人やブラジル人の上司たちからは、国連加盟国それぞれのニーズに応じた協力を行うことの重要性を叩き込まれました。南米アマゾンの8カ国の政府や有識者と共に環境白書を作った際には、「アマゾン」の定義についての話し合いから始まるなど、中立な専門官兼コーディーネターとしての難しさと醍醐味を同時に味合わせてもらいました。

 

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フロンガス規制のための冷媒分析器の使い方を指導する吉田さん。タイのパタヤで開催したワークショップには、アジア太平洋の25カ国の環境省職員たちが参加した(2010年)

 

 

JPO期間の1年の延長後、11カ月の短期契約を経て、JPO枠で勤務した部署の正規職員ポストに応募しオファーをもらいました。ラテンアメリカカリブ海の出身者ばかりの事務所で、他の地域出身者が空席に応募して採用される可能性は低いのではという意見も聞いていたので、採用はかなり幸運だったというしかありません。その後、UNEP内で赴任地を2度、ポストを2度替わり、今はアジア・太平洋地域事務所で化学品・廃棄物・大気汚染プログラムの取りまとめをしています。

                       

環境が経済や人権などと同レベルで取りざたされるようになってきましたが、開発途上国では最初に経済発展ありきという観念がいまだに根強いですし、それに便乗するセクターも多く存在します。大気汚染や公害など多くの環境問題は、健康被害や水源汚染が起きてしまってからの対処では、国の現在の財源に負担を強いるだけでなく、将来の開発を担う人的資源さえ奪ってしまいます。環境保護は投資であり、リスクヘッジです。そのために資金や人が集まる社会になるよう、これからも微力ながらお手伝いしていければと思っています。

 

 

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   2016年に着任した国連環境計画(UNEP)のエリック・ソルヘイム事務局長とバンコクにて(2016年)

 

 

私にとってJPO期間は国連で仕事をしていくスキルを磨き、適性を見極めるのに必要な時間でした。国連はその名前の通り多くの国の集まりであり、国の上に立つスーパー連合ではありません。ただ、一般企業、NGOで働いた経験から言えることですが、国連機関に対してのみ開く扉があり、その扉の先に環境に優しい開発があると信じています。自然科学や環境工学の専門知識を持った人たちがキャリア構築を考える時に、国連を一つの選択肢に入れてくれればと願っています。

 

 

 

2016年冬季インターンを終えて

今年の9月から約3ヵ月間、国連広報センターで働いたインターン2名が12月末に卒業しました。今回はその二人にUNICでのインターン経験を振り返ってもらいます。

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            左からインターン卒業生の位下昌平と李ソミン

位下 昌平

日本人インターンとして3ヶ月間UNICで働きました位下昌平です。幼い頃から漠然と国連機関に興味や憧れがありました。「百聞は一見にしかず」そんな想いで、とりあえず国連諸機関でインターンを是非してみたいと思い、学部一年目でも応募資格のある国連広報センターを見つけ、迷わず応募しました。

このインターンでは、国連機関の一部として内側から身をもって経験することが出来ました。広報センターが運営しているはてなブログやFBでの投稿のお手伝いを通し、なにを国連が重要視し、日本の人々に知ってもらいたいのか知ることができました。また、分野を問わず様々なイベントに参加したり、国連職員や外部の方々とお話しする機会に恵まれました。実際に、国連職員の方から話を聞き、どんな人材が国連で求められているのか少し見えてきた気がします。日本記者クラブで一般の記者の方に混じり、国連職員の方の話を聞けたのは新鮮でした。会見のメモを取り、写真を撮影し、UNICのフェイスブックにその様子を投稿する。UNICでのインターンだからこそ、経験することが出来たと思います。さらに、UNICが行っている国連訪問というイベントでは、中学・高校生に国連大学国連の活動に関する説明をしました。必然と国連機関の役割や仕組みを詳しく知ることが出来ました。

一緒に働いた個性的で優秀なインターンの方々と日々生活を共にし、興味のある分野や、将来のことなどを話し合い、人生の後輩として沢山のことを学びました。このインターン3ヶ月間で得た貴重な学びと出会いに感謝いたします。ありがとうございました。

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李 ソミン

今年の9月から3ヶ月間、インターンを行いました李ソミンです。常に、国際情勢に興味を持ち、大学でも総合政策学部を専攻とし、多様な国際開発関連の授業を取ってきましたが、それらの知識が「自分ごと」になっていないと感じ、国際的課題の解決に取り組んでいる現場で実践的に学びたく、インターンに応募しました。

私がインターンをしていた時期は、トランプのアメリカ大統領当選や、母国である韓国の政界スキャンダル、日露首脳会談、国際連合事務総長の大統領選出馬表明など、国内外で、「予想外」の出来事が立て続けに起きた時でもありました。それらのニュースに関して、日々行う新聞クリッピングを通じ、より事件を詳細なおかつ客観的に見れる機会になったことはもちろん、また国連としてはその出来事をどう捉えているのかなど、一緒に働くインターン同士や職員の方々と自由に考えを共有することができ、大変有意義な時間になりました。

また、日常の業務は、かつてやったことない仕事に挑戦できる機会に恵まれました。多様な賞状や色紙のデザイン、インターン募集の管理、写真撮影、電話対応といった多岐にわたる仕事ができる素晴らしい機会を与えてくださった職員の方々に感謝いたします。また、日本語が完璧じゃない私が困らないよう、常に日本語の文章をチェックしてくれたり、細かく気を配ってくれたインターンに皆様、本当にどうも有難うございました。

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祝・日本の国連加盟60周年~写真で綴る記念行事(12月19日) ~

60年前の12月18日、日本は80番目の加盟国として国連に加盟し、国際社会への復帰を果たしました。2016年は国連加盟60周年記念として、多くの記念事業が実施され12月19日(月)、国連大学ウ・タント国際会議場において、外務省及び日本国際連合協会主催で、国連加盟60周年記念行事が開催されました。皇太子殿下の御臨席をはじめ、安倍信三首相などの政治要人や著名人らが出席し、国連と日本にとって重要な節目となる一年の締めくくりに相応しい催しとなりました。

 

第一部

第一部では、岸信夫外務副大臣による開会の辞からはじまり、皇太子殿下のおことば、安倍晋三首相による祝辞、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長、ピーター・トムソン第71回国連総会議長、アントニオ・グテーレス次期国連事務総長それぞれのビデオメッセージと続きました。その後、元国連事務次長の明石康氏による基調講演と有識者による日本と国連の60年の歩みと今後の展望に関するパネル・ディスカッションが行われました。

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岸信夫外務副大臣による開会の辞  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

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 皇太子殿下のおことば  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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皇太子ご夫妻  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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安倍晋三首相による祝辞 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

祝辞の詳細と動画については 平成28年12月19日 国連加盟60周年記念行事 | 平成28年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ をご覧ください。

  

www.youtube.com

潘基文(パン・ギムン)国連事務総長のメッセージ

www.youtube.com

ピーター・トムソン第71回国連総会議長のメッセージ

                                                                                                                                  

www.youtube.com

アントニオ・グテーレス次期国連事務総長のメッセージ

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明石 康 公益財団法人 国際文化会館理事長、元国連事務次長による基調講演 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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 有識者による日本と国連の60年の歩みと今後の展望に関するパネル・ディスカッション。(左から)、モデレーターの根本 かおる 国連広報センター所長、北岡 伸一 国際協力機構(JICA)理事長、大島 賢三 アフリカ協会理事長 広島大学特任補佐、神余 隆博 関西学院副学長  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

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根本かおる国連広報センター所長 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

第二部

 第二部では,親善大使及び国連グローバル・コンパクト関係者によるトークセッション「世界のために私たちが国連を通じてできること」と、高校生/大学生模擬国連優秀者による政策提言プレゼンテーション大会「世界を変えるために-『持続可能な開発目標(SDGs)』への提言」と表彰式が行われ、国連への理解を深める場となりました。

 

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親善大使及び国連グローバル・コンパクト関係者によるトークセッション「世界のために私たちが国連を通じてできること」(左から)、植木 安弘 上智大学総合グローバル学部教授(元国連広報官)、紺野 美沙子 国連開発計画(UNDP)親善大使、知花 くらら 国連WFP日本大使、有馬 利男 国連グローバル・コンパクト ボードメンバー  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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プレゼンを行う紺野 美沙子 国連開発計画(UNDP)親善大使(左)、知花 くらら 国連WFP日本大使(右)  © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

       

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高校生/大学生模擬国連優秀者による政策提言プレゼンテーション大会「世界を変えるために-『持続可能な開発目標(SDGs)』への提言」。(左から)中元 憲利さん、西條 友貴さん〔麻布高校2年 全日本高校模擬国連大会優勝組〕、中村 有沙さん 上智大学法学部国際関係法学科2年 第2回模擬国連会議九州サマーセッション2016 最優秀賞受賞、木下 航さん 東京大学教養学部文科一類2年 第16回模擬国連会議関西大会 最優秀大使賞受賞© UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA                                                               

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(左)知花くららさんと、優勝者の木下さん (右)表彰式後の集合写真 © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

f:id:UNIC_Tokyo:20161219190324j:plain会場となった国連大学2階では、外務省による「日本と国連の歩み」のパネル展示が行われました。日本の国連加盟から今日までを歴代の総理大臣や国連で活躍してきた日本人職員らの写真と共に振り返ることができます。© UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

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国連広報センターからは、今年実施した「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの優秀作品などを紹介 。また、来月NHK総合(1月3日)とNHKWORLD(1月22日)では 「世界のハッピーを探して ~若者たちのフォトコンテスト~」が放送予定です。ぜひご覧ください。

(左から)根本 かおる国連広報センター所長、わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストにご協力いただいた株式会社 ニコン 担当者の 袴田 淑子さんと立木 秀成さん                                                                                                                                          © UNIC Tokyo/ IZUMI KITAGAWA

 

 

国連加盟60周年記念行事サイドイベント 【写真パネル展・動画上映 オープニング・セレモニー】

            -今年は日本の国連加盟60周年-

12月12日、日本の国連加盟60周年を記念する「国連と日本の歩みを紹介する写真パネル展覧会・動画上映会」のオープニングセレモニーが国連大学で開催されました。国連広報センターを含む8つの国連諸機関と外務省の代表が一同に会し、60周年の記念すべき節目を大いに盛り立てました。この写真パネル展覧会・動画上映会(12月12日~22日開催)は、国連加盟60周年記念行事(12月19日)のサイドイベントとして実施されたものです。

 

テープカットは、日本に事務所を構える国連諸機関が一つになって日本政府と日本の人々に感謝を表し、さらには日本と国連との連帯感を多くの方々と共有する機会にもなりました。

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外務省からは、水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官(左から5番目)。国連諸機関からは(左から)、スティーブン・アンダーソン 国連WFP日本事務所代表、国吉 浩 国連工業開発機関東京事務所所長、木村 泰政 UNICEF東京事務所代表、沖 大幹 国連大学上級副学長、根本 かおる 国連広報センター所長、ダーク・ヘベカー 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日代表、田口 晶子 国際労働機関(ILO)駐日事務所代表、ンブリ・チャールズ・ボリコ 国連食糧農業機関(FAO)駐日連絡事務所所長。©UNIC Tokyo

 

その後、外務省の水嶋光一 総合外交政策局審議官と、国連を代表して開催場所となった国連大学より 国連大学上級副学長の沖 大幹が挨拶を行いました。

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                      水嶋 光一 外務省総合外交政策局審議官〔大使〕©UNIC Tokyo

国連に加盟し、国際社会に本格的に復帰したあの1956年から60年。水嶋審議官は、今まで日本が歩んできた長い道のりを感慨深く振り返ると共に、国際的な平和と安全をはじめとする国連の目的に基づいて、日本は今後も重要な役割を果たして行きたい、と述べました。

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               沖 大幹 国連大学上級副学長 ©UNIC Tokyo

次に、開催場の国連大学及び国連諸機関を代表して、今年の10月に国連大学上級副学長に就任した沖教授が挨拶に立ちました。副学長は「唯一日本に本部を置く国連機関として国連大学は、シンクタンクの役割をより一層果たし、日本と世界の両方に貢献していきたい」と述べました。

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写真パネル展覧会・動画上映の開催を記念し、テープカットを行う根本かおる国連広報センター所長 (右から2番目)©UNIC Tokyo

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外務省による「日本と国連の歩み」のパネルコーナー。日本の国連加盟から今日までを歴代の総理大臣や、国連で活躍してきた日本人職員らの写真と共に振り返ることができます。©UNIC Tokyo

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国連諸機関の活動紹介パネルも設けてあり、国連広報センターからは、今年実施した「わたしが見た、持続可能な開発目標(SDGs)」学生フォトコンテストの優秀作品などを紹介 。また、来月NHK総合(1月3日)とNHK WORLD(1月22日)で放送予定の番組 「世界のハッピーを探して ~若者たちのフォトコンテスト~」の宣伝チラシにも、多くの方の関心が寄せられていました。©UNIC Tokyo

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                   学生フォトコンテストの優秀作品とSDGsについて説明をするインターン ©UNIC Tokyo

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 イベントの最後には、外務省と国連の職員らで、SDGs達成に向けた連携を確認しました。©UNIC Tokyo

 

映画『母と暮らせば』を通じて、長崎から平和について考える

国連広報センター所長の根本です。日本の国連加盟60周年の今年は、いつにも増して国連と日本の歩みの「これまで」と「これから」について思いをめぐらせています。

 

国連総会が1946年に採択した第1号決議は、広島・長崎への原爆投下によってもたらされた惨禍を受けて、原爆を含む大量破壊兵器の廃絶を目指すものでした。以来、核軍縮国連の重要課題であり続け、日本は1956年の国連加盟以降、3人もの軍縮担当の国連事務次長を輩出し、国連軍縮会議を1989年からほぼ毎年日本でホストし、今回で26回、長崎での開催は3回目となります。

 

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長崎原爆資料館に足を運ぶ海外からの国連軍縮会議参加者。長崎で実際に起きた被爆の惨状を肌で感じる。(外務省提供)

 

今年の国連軍縮会議は、核兵器禁止条約の交渉と2020年のNPT再検討会議にむけたプロセスが来年から始まるのを前に12月12日から長崎で開催されました。11日にはそのプレイベントとしてユースをまじえたスペシャルなイベントがあり、私も出席しました。

 

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         日米露のユース非核特使による声明と提言(外務省提供)

 

日米露のユース非核特使による提言の発表と活動報告、さらには長崎の原爆投下で一つ一つの家族にどんな悲しみが生まれてしまったかを描いた映画『母と暮らせば』の上映という盛りだくさんのプログラムで、上映のあとには、本作を監督した山田洋次さん、主演の吉永小百合さん、日米のユース代表、映画のストーリーを形作る上で自身の証言を提供した土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表という、世代と国境を越えた豪華な顔ぶれでのパネルディスカッションを行い、その進行役を務めました。会場となった長崎大学では、原爆投下で900人近い学生や職員が亡くなっています。

 

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パネルディスカッションの様子(左から根本かおる国連広報センター所長、山田洋次監督、女優吉永小百合、土山元長崎大学学長、武井外務大臣政務官、キム国連軍縮担当上級代表国連アジア太平洋平和軍縮センター(UNRCPD)提供

 

1945年8月9日午前11時2分、主人公の長崎医科大学に通う福原浩二(二宮和也)は長崎の原爆で跡形もなく被爆死。それから3年後、その助産婦を営む母・伸子(吉永小百合)のもとに原爆で被爆死したはずの浩二が亡霊となって現れる…というストーリーです。丁度一年前、原爆投下から70年の昨年12月12日に封切りになった『母と暮らせば』。東京で見ていましたが、舞台となった長崎で観賞し、ひときわ胸に迫るものがありました。

 

パネルディスカッションでは、まずユースから感想を語ってもらいました。登壇した長崎大学の河野さん(ユース非核特使経験者)は「息子の浩二が長崎大学で夢を追いかけるために勉強しいてるのが自分と同じ立場、その中で家族が支えてくれて愛する人がいる。71年前も今も同じ世界で生きていたと感じました。その世界が、1つの核兵器によって一瞬でなくしたことは、核兵器はいかに愚かなものかと感じました。モンゴル、中国、韓国を訪問して若者に非核を伝えてきました」、アメリカのキンバリーさん(ユース非核特使)は「間違った兵器を正しく使える、ということはありません。非人道性、核兵器廃絶は大きいテーマだけど、1人1人の問題とするとシンプルに感じました」と振り返りました。

 

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   長崎大学の河野さん(右)とアメリカのキンバリーさん(左)が映画の感想を述べる(外務省提供)

 

これを受けて、山田監督は「長崎大学の学生の浩二が死んでしまった話ですが、こういう悲劇が第2次大戦中、何百万どころでない犠牲者1人ひとりにあったのだと想像してもらいたかったからです」と映画制作の動機を語りました。さらに、「愛する人と暮らして子供を作るということが、ついえてしまった。それは世界中の人にとって共通の悲劇です。僕ら戦争を経験した世代は、それを伝えていくのが責務だと思います」と自らの気持ちを強調しました。

 

国内外で原爆詩の朗読を行っている吉永さんは、「核兵器を廃絶するため、もっと声を出して世界に向かってアピールしなくてはいけないと撮影中に感じていました。海外での朗読詩の活動は、これまでオックスフォードやシアトルでもやったことがあり、今年5月にバンクーバーでも行いました。そこで彼らが本気で考えてくれていることが伝わり、胸が熱くなりました」と思いを語るとともに、核兵器の廃絶にむけた動きに関係国の間に大きな溝があることについて「核の廃絶に意見が一致しないのが悲しいが、あきらめないで声をだして、核のない世界にしようと言い続ければ、きっと実現すると願っています。小さな力だけど行動したいです」とも述べました。

 

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  山田監督(左)と主演の吉永小百合(右)が本作と核兵器廃絶に対する思いを語る(外務省提供)

 

外務省の武井政務官は「戦後70年、伝えることができにくくなっています。語り部が10年後どうなっているかと思うと映画に残してもらえてありがたいですし、伝えていかねばなりません。こういう時だから日本から唯一の被爆国として世界に訴える重要性を考えています」、キム国連軍縮担当上級代表は「若い世代が核兵器を作ったのではありません。核兵器は古い世代により作られたもので、若い世代にこそ廃絶にむけたリーダーシップをとってほしい。我々は核兵器を廃絶させる責務を負っています。そこに行き着く道筋が難しいですが、来年から新たな交渉をします。多くのプロセスがありますが、各国と話し、理解し敬意を払い目標に向かいたい。誰でも、どの国でも話し合いで解決しないことはないと思います」と述べました。当時長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の学生だった土山元学長は、「核兵器廃絶には理論と感性の両方が大切で、理論が難しくなったときには、感性に訴えるということが有効で、見終わってしみじみと原爆の非人間性、戦争の不条理を考えさせられました」と語りました。

 

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  武井政務官(左)とキム国連軍縮担当上級代表(右)が映画を受けて感想を述べる(外務省提供)

 

締めくくりには、吉永さん、山田監督からそれぞれ「若者のつながりについても心強い。白熱して話し合って、世界の若者が心つないで、1日も早く核廃絶がきてほしいです。ぜひお願いします!」「「絶望するのは簡単。若者が情熱的に議論したと聞いて、希望を抱きます。ぜひがんばって」と若者へのエールが送られました。

パネルディスカッションという場を通じて世代を越えてバトンが渡される瞬間に立ち会えた - 司会をしながらそう手ごたえを感じました!

 

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         ユース代表とパネルディスカッション登壇者による写真撮影(外務省提供)

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イベント後、興奮さめやらぬ中、キム国連軍縮担当上級代表(左)と山田監督(中央)と写真を撮る根本かおる所長(右)(外務省提供)