国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (6)

佐藤純子(さとうじゅんこ)さん
 

国連図書館で垣間見た国際政治と時代の変化-


第6回は、国連のダグ・ハマーショルド・ライブラリーに長年勤務された佐藤純子さんです。国連資料のIndexづくりを専門とし、国連文書に造形が深い佐藤さんですが、公式な仕事とは別に、過去には、ニューヨーク国連日本人職員会の会長や、日本人国連職員有志の同人雑誌「国連人」編集長を務めたり、現在は、AFICS-Japan(国連システム元国際公務員日本協会)の執行委員を務めたりするなど、日本人国連職員の方々に幅広いつながりをもつ方です。おしゃれでエレガントな佐藤さんはいつお会いしても、やさしい笑顔で、ざっくばらんにいろいろなお話しをしてくれます。インタビューさせていただいた日も気づけば、あっという間に時間がたっていました。(聞き手:千葉潔) 

 

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  (1979年、米国のロングアイランド大学・パーマー図書館大学院で図書館情報学修士号を取得。1980年に国連のダグ・ハマーショルド・ライブラリー勤務開始。その後、同ライブラリーにおいて、「国連文書索引」 編集者や索引作成班の班長などを経て、索引作成課で集書や収集を担当する課長を務める。現在、早稲田大学大学院のアジア太平洋研究科で教べんをとる。)

国連では、どのようなお仕事をされていたのですか。

国連図書館であるダグ・ハマーショルド・ライブラリー(以下、ハマーショルド・ライブラリー)で、国連文書の主題分析をする「Index」をつくる仕事をしていました。簡単に言えば、国連で発行される刊行物や文書を「アフリカ」、「経済開発」、「社会開発」、「人権」といったSubject(主題)ごとに分類し、それら資料のデータベースを構築する仕事です。今、国連文書を入手する人たちはUNBIS-netやODSといった検索ツールを利用されていると思いますが、それらはみな、私たちがつくる文書情報のデータベースをもとにしています。

ハマーショルド・ライブラリーにおいて、私が最後に担ったのは、このIndexの仕事と、書籍の購入/受け入れ、デジタル化というという3つの仕事を遂行する部署の統括責任者という職責でした。予算としては、ライブラリーで人件費以外のすべてをカバーする幅広い仕事で、制限された予算のなかで、最大限の効果を生む活動をするため、お金のやりくりにはとても苦労しましたが、それも今では懐かしい思い出です。

 

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―佐藤さんが働かれていたライブラリーについて教えてください。そもそもなぜ、ライブラリーに第2代事務総長の名前を冠しているのですか。

現在、ハマーショルド・ライブラリーは、国連広報局のアウトリーチのもとに置かれ、さきほどお話ししたIndexづくりばかりでなく、歴史的文書のデジタル化をしたり、リサーチや情報提供サービスや国連寄託図書館制度の維持管理をしたり、幅広い活動をしています。

創設当初から、国連図書館はありました。各国政府の代表団の利用に供するために、当初は、事務局の中の会議局の一部として設置されたのです。でも、図書館と呼ぶにはそのスペースは十分なものではありませんでした。その後、1953年に第2代事務総長としてダグ・ハマーショルドが就任しますが、彼は非常に文化的な人で、図書館というものを大切に考える人だったのですね。国連のライブラリーはもっとしっかりしたものにしなければならないと強く思ったようです。彼がいろいろと尽力した甲斐あって、1959年にはフォード財団から620万ドルの寄付を得て、国連の新しいライブラリーがつくられることになり、1961年11月16日、正式に開館したのです。残念ながら、ハマーショルドその人は完工を見ることなく、その約2か月前の9月18日にコンゴでの和平ミッション遂行中、搭乗機の墜落事故で死去するのですが、国連の加盟国は、死去の直前まで、図書館建設の準備の陣頭指揮をとっていたハマーショルドの労をねぎらい、その年の10月16日、国連総会で決議を採択し、この新しい図書館を「ダグ・ハマーショルド・ライブラリー」と名づけることを決めたのです。

ダグ・ハマーショルドは多くの人々の尊敬を集めた事務総長でした。私自身、普段しょっちゅう口に出して言うということはありませんが、彼の名前を冠したライブラリーで働くことにはひとつの誇りを感じていました。ハマーショルド・ライブラリーでともに働いた同僚たちもみな、同じ思いを持っていました。

今、ライブラリーがつくったレファレンスのウェブページには、「Ask Dag(質問はダグに)」というネーミングがされています。ハマーショルドは、こういうふうに自分がファーストネームで呼ばれることになるとは思っていなかったでしょう。でも、きっと喜んでいるのじゃないかなと思いますね。

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―早速ですが、ライブラリーの舞台裏のエピソードをお聞かせいただけますでしょうか。

図書館とはいっても、その業務においては、国連らしく、国際政治を感じることがたくさんあったということでしょうか。安保理の文書として、加盟各国から2国間の紛争に関する書簡などが頻繁にだされるわけですが、私たち職員がデータベースにそれらの書簡の書誌情報を入力する際には、政治的な表現に十分気をつけなければなりません。たとえば、イスラエルの書簡において、PLO(当時)のテロ活動(terrorist activities)がけしからんといったようなことが書かかれていたとしても、そうした政治的な緊張を生むような言葉は決して、主題や注釈などに抜き出して目立たせたりしてはならないのです。過去にそうした配慮を怠り、その職を失った職員がいるという話を聴いたとき、国連というところでは、そうした政治的な誤りは致命的なことなのだとつくづく思ったことを覚えています。
 

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―インターネットの登場、情報技術の発展は、ハマーショルド・ライブラリーの業務にどんな影響を与えましたか。また、現場で、そうした影響をどのように感じられましたか。

国連文書情報のコンピュータ化、電子化の試みは、ハマーショルド・ライブラリーの主導で、1960年代半ばから始まっていました。“United Nations Documents Information System (UNDIS)”というものが、コンピュータ化における、国連文書インデックスの最初のシステムでした。その後、その欠点を補い、国連文書以外の蔵書目録を電子化するため、新しい書誌情報システムとして、“United Nations Bibliographic Information System(UNBIS I)”というものが開発されました。当時、このシステムはまだ、国連事務局のIBMメインフレーム・コンピュータ内に存在していました。私はリバイザーという立場で、編集・校閲を担当していましたが、Indexの仕事は手作業で、職員たちがまずはトピックや主題を入力用紙に書いていたことを覚えています。その情報をキーパンチャーがコンピュータに入力していました。今とは隔世の感がありますよね。

情報技術の発展とともに、私たちがインデックスを行った国連の刊行物の書誌情報は紙媒体で印刷されたものから、UNBIS on CD Rom、そしてUNBIS-netへと移っていき、また国連公式文書システム(ODS)という公式文書を入手するためのツールもインターネット上で1992年に立ち上げられ、いろいろな変遷を経て、当初は有料だったものが、その後、無料開放されました。ハマーショルド・ライブラリーで働く私は、そうした動きを時代の変化として肌で感じていました。従来は限られた人たちに利用されるだけだった私たちの仕事の成果が今や、世界の人たちにとって容易にアクセス可能なものになり、お役立ていただけるようになったのは、まさにインターネットの発展の結果です

ちなみに、ODSはさらにその後、何回かの改訂を経て、つい最近リニューアルされたものは相当使い勝手が良いものになっていると思います。これから、さらに情報技術は発展し、それとともに図書館業務は大きな変容を迫られることになるのでしょうが、図書館としては、その変容をポジティブにとらえて、対応していくことが必要だと思います。

国連で働くようになったきっかけはなんですか。

私は大学では史学科に在籍し、歴史を勉強していました。就職ということになるとみんな、社会科の先生になろうとするのですが、募集人数は限られていて狭き門ですから、そんなに簡単なことではないのですね。結局、私は企業に就職して、それから2年後に結婚して専業主婦になりました。しばらくすると、やっぱり働きたいんですよね。でも、専門性を身に着けなければいけないので、進学先をいろいろと考えたのですが、今度は、自分が好きなことで、かつ就職先が比較的見つかるところを考えました。自分にとってはそれが図書館でした。それで、大学院では、プロフェッショナル・ライブラリーを勉強する図書館学を専攻しました。

国連に働き始めるようになったのは偶然です。大学院を卒業後、就職先をさがしていたところ、たまたま、私の夫が、知り合いを通じて、国連図書館で、職員を探しているということを聞いて、私に教えてくれたのです。私は米国で働くための就労ビザを持っていなかったので、米国で就職先を見つけることはあきらめていたのですが、国連では、G4ビザというものが発行されるから大丈夫だということを知り、意気揚々と試験に臨みました。応募者は他にも多くいたようなのですが、当時、国連で働いている日本人は少なく、ハマーショルド・ライブラリーでは160人中、日本人はわずかに1人。ということで、国連としては、できれば日本人を採用したいと、候補者のなかで私が断然優位な立場に置かれたようでした。そして、とんとん拍子に話が進み、国連で無事雇われることになったのです。当時、まだ競争試験の制度もなかった頃の話です。

-今、振り返って、国連で働いてよかったと思うことはなんですか。

そうですねえ。もちろん大変なこともいろいろとあることはあったのですが、今思えば、すべてが楽しかったです。ほんとうに国連で働けてよかったと思います。とくに、いろいろな国の人と一緒に働けたことがとても楽しかったです。国連が発行する文書として、”Composition of the Secretariat”というタイトルがついた文書があるのですが、この文書をみると、国連加盟国の193か国のうち、どの国からそれぞれ何人ぐらい、どのレベルで、国連職員として働いている人がいるのか、正確な数字を知ることができます。

国連職員の国籍は必ずしも193のすべてにまたがるわけではありませんが、最新の文書(A/71/360)によれば、今年6月時点で、国連事務局には187か国の人たちが働いているということです。つまり、国連では、世界のほとんどの国の人が働いていて、さまざまな文化を背景にもつ人たちとともに、国連の目的を共有し働くことができるのです。もちろん、なによりも、多様な価値を大切し、尊重することが求められますが、そうしたさまざまな国籍の人たちのなかに身を置いて働けるということは、国連で働くことの最大の醍醐味のひとつでしょう。

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国連での勤務を振り返って、あのときこうすればよかったと思うことはありますか

いろいろなプロジェクトの実施場面で、ああすればよかった、こうすればよかったと思うことはもちろんたくさんあります。国連で働くという視点で、私が今もっとも思うのは、もっと別なことにもいろいろとチャレンジすればよかったし、それはきっと楽しかっただろうなということです。私はニューヨークの国連事務局でIndexという仕事を専門としてきたのですが、キャリア後半で、ニューヨークを飛び出し、アジア地域などで、研修セミナーを企画、開催する機会がありました。普段はあまりそうしたことはしないのですが、セミナーの統括責任者として、そのための資金集めをしたり、会議の開催国と国連の間で交わす「ホスト国協定(host country agreement)」と呼ばれる文書などをつくったりするところまでやらざるを得ないことになり、慣れないことで苦労はあったのですが、それはそれで新鮮で楽しかったのですね。もっとそういうことにチャレンジすればよかったとほんとうに思います。

実際に、今、国連ではmobilityということが重視され、国連職員が地位的、職域的に幅をもつことが奨励されています。自分を高めることにもなることですし、これから国連職員になろうとされる方は、積極的に、幅広く、いろいろなことに挑戦することをお勧めします。

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国連で働くことに興味がある若い人たちに何かアドバイスはありますか。

国連にはいろいろな入り方があるので、一様には言えませんが、もしも国連で働くことに強い関心があるとしたら、早い段階で、ある程度明確に意識したほうが得策だと思います。

日本人はラッキーなことに、YPPやJPOの制度を利用することができますが、日本人であれば、これらの制度は積極的に利用すべきだと思います。そして、それらには、年齢制限があることをよく考えるべきだと思います。

年に一回の国連事務局若手職員を採用するための試験、YPPプログラムの受験資格は32歳以下ですし、同様に、国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手邦人を対象に外務省が実施しているジュニア・プロフェッショナル・オフィサー制度(JPO)は35歳以下です。年齢制限に達するまで、何回でも受験可能ですが、国連職員になるには、大学院で修士号を取得し、職業経験を有していることが望まれることを考えると、そうした条件をクリアして受験しようとすれば、やはり手遅れにならないように計画的に進めていったほうが賢明だと思うのです。

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-日本では、国連には興味があっても国連で働くというところまでは考えたことはないという方々も多くおられますが、そうした人たちに何かメッセージはありますか。

国連はいろいろなことをやっているということ、したがって、いろいろな働き口があるということです。日頃、みなさんの関心が高いPKO、開発援助の職種ばかりではなく、法律関係もあるし、会計もある。また、地図の作成部署もあります。世界各地で国際紛争が起こって、境界線を変更する必要がでると、その都度、地図を修正しますから、そこに働く人が必要になるのです。この部署は、かつてはライブラリーの一部を構成しましたが、その仕事の性質上、今は平和維持活動を担当する部局の一部だと思います。それから、国連事務局ビルも他の建物と同様に、頻繁に修理・修繕などが必要になることから、そうした建築関係の仕事もあります。職員の健康管理をするメディカル・オフィサーといわれる人たちも必要ですし、フォトグラファー、通訳、翻訳も必要です。ただし、通訳・翻訳家は母国語が公用語でなければならないので、残念ながら、日本人は通訳・翻訳家だけはなれないのですけれどね。そして、私のように、ライブラリーで働く職員も必要です。だから、たとえば、国内で、公共図書館大学図書館で働きたいと考えている人がいるとしたら、その延長線上で、国連図書館で働くという選択肢も視野に入れて、国連で働くということを身近に考えてもらったらよいのではないかと思います。

グローバル化した世の中で、国連で働くことは、決して特別なことではありません。世界で起こることに少しでも興味があるなら、選択肢を少し広げるだけで、国連がすぐそこに見えてくるはずです。

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日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(9)

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(9)

大谷美紀子弁護士

 

~日本人初の「子どもの権利委員会」委員就任は、信念と実行力のたまもの~

ー11月20日は、世界の子どもの日ですー

 

国連を自分事に」シリーズ第9回は、2017年3月に日本人としては初めて「子どもの権利委員会」委員に就任する、弁護士の大谷美紀子さんです。高校生の頃から国際社会のために仕事がしたいと考え、国連を意識するようになった大谷さんは、ニューヨーク留学中の国連でのインターン国連の第三委員会への日本政府代表代理、そして日本弁護士連合会などでのNGO活動という三つの異なる立場から、国連の取り組む人権の課題に関わってきました。18歳未満の子どもの人権を保障する「子どもの権利条約」の196締約国・地域の条約履行状況を審査する委員会の委員に就任するにあたっての意気込みなどについてお話をうかがいました。

 

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大谷美紀子 (オオタニ ミキコ)

 

上智大学法学部(国際関係法学科)学士、コロンビア大学国際公共政策大学院(人権人道問題)修士東京大学法学政治学研究科専修コース(国際法修士。米国留学中に国連人権高等弁務官事務所インターンをし、帰国後は国際家事事件専門の弁護士としての業務に加えて、国際人権問題、特に女性・子ども・外国人の人権、人権教育の分野で活動。現在はLAWASIA(The Law Association for Asia and the Pacific)家族法及び家族の権利セクション日本代表や、アジア国際法学会日本協会、国際人権法学会、家族<社会と法>学会の理事等を務める。2016年6月、国連子どもの権利委員会委員の選挙で当選、2017年3月委員に就任の予定。

 

 

根本:6月の委員選挙では最多得票でご当選されました。おめでとうございます!条約機関の選挙も、ハラハラドキドキするものですか?

 

大谷:最後までハラハラドキドキの連続でした。そもそも、何の選挙にせよ、選挙に出るということ自体が人生初めてのことでしたし、候補者も多く、厳しい選挙でした。

 

根本:新聞のインタビュー記事を拝見して知ったのですが、子どもの頃、国連職員になりたいと考えていたんですって?

 

大谷:小さい頃から持っていた、人のために仕事がしたい、社会の役に立ちたいという問題意識が広がった結果、ストレートに国連、と思いました。おそらく小さい時からたくさん本を読む中で、戦争とは、人間とは、ということについて一生懸命考えていたことも影響しているのでしょう。大学で国際政治を勉強するうちに、司法試験を受けて弁護士になるという道に居たり、弁護士をするうちに人権問題に関心を持ち、徐々に自分なりのアプローチと関心分野を絞っていって今に至っている、という感じでしょうか。

 

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国連での「平和の文化に関するハイレベル・フォーラム」(大谷さん提供)

 

根本:大谷さんも私もニューヨークのコロンビア大学の国際関係論の大学院に留学しましたね。時期は私の方が少し早かったんですが。大谷さん、子連れの留学だったんですか?

 

大谷:子どもも夫も一緒にいきました。夫も付いていく以上は自分も勉強したいということで、必死で勉強してニューヨーク大学のロースクールに入りました。

 

根本:社会人経験を積んだ上での留学でしたから、勉強できる時間のありがたさと問題意識の強さに関しては、すごく貪欲だったのではないでしょうか?

 

大谷:私が最も勉強したかったのが人権教育と国連の人権活動で、多角的な視点から人権を勉強したいと強く思っていました。コロンビアのTeacher’s College(教育学大学院)には人権教育の講義があってその授業を受けましたね。弁護士でありながら、人権問題は法的なアプローチだけでなく、外交、経済、そして教育など多面的にアプローチすることが必要だと感じていたのです。そして国際人権法は国連を中心に発展してきたものですから、国連インターンをすることは入学前から心に決め、国連人権高等弁務官事務所のニューヨーク・オフィスでインターンとして活動するチャンスに恵まれました。

 

インターンという立場ではありましたが、中から国連を見ることができたのは、非常に大きかったですね。各国代表がどのように交渉するのか、専門家がどのような働きをしているのか、それを事務局サイドがどのようにサポートするのかをつぶさに見ることができました。国連が無力だと批判する人もいますが、世界の色々な問題を解決するグローバルなフォーラムとして国連は重要だという私の思いは今日までずっと変わりません。特に人権の分野に関しては国連が中心、国連で人権の規範や実施のための制度を作ってきたし、あらゆる関係機関・関係者が集まって人権問題を議論し発展させていく場は国連だ、という意識はインターンを通じてより高まりましたね。留学しなければ、今の自分はないと感じています。

 

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国際的な子どもの養育費回収に関する会議(大谷さん提供) 

 

根本:留学を終えて帰国して、家族法を専門分野にしようとお考えになったきっかけは?

 

大谷:・留学前に弁護士を7年やっていましたが、当時日本の弁護士は専門化が進んでいませんでした。どんな案件でも、一晩で勉強して対処できるのが良い弁護士というイメージだったんです。でも、経験とともに、向き不向き、好き嫌いがだんだんわかってきますよね。私は圧倒的に家族法が好きだったんです。留学中に各国の弁護士資格を持っている人やアメリカの弁護士との交流がありましたが、彼らは専門分野を持っているんですね。専門性を持つことは素晴らしいことだと、彼らを見ていて思いました。専門性を絞ることで特化して常にスキルを磨いて情報をアップデートできますし、一番関心が強くてやりがいがある分野で仕事をする方がクライアントにとってもポジティブなことではないかと考えたんです。 私の留学は弁護士業務のための留学ではありませんでしたが、現地で見聞きしたことや得た感覚は帰国してからも実行しよう、と。

 

家族法が好き」という気持ちと並んで、2年間の留学生活を通して「ある国で暮らす外国人の立場」を経験したことで、日本で暮らす外国人の家族問題の案件に専門家として貢献したい、とも思いました。日本で暮らす外国人が家族問題を相談できる弁護士が少ないことは元々知っていたので、そのニーズに自分が応えたい、と。外国人であることの心細さ、問題を抱えたときに専門家に相談することの難しさを感じたからこそ、持つに至った思いです。今では、扱っている案件のおそらく約8割が外国人や外国に住む日本人などの国際的なケースです。関連するNGO市民社会での活動にも、積極的に関わってきました。

    

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国連総会第三委員会(大谷さん提供)

 

根本:大谷さんは、2005年から2006年にかけて日本政府代表代理として国連総会のもとで人権を話し合う第三委員会の議論に参加されました。これも貴重な経験ですね。

 

大谷:60年前に日本が国連に加盟した際、市川房枝さんなど女性運動のリーダーが、外務大臣に対し国連総会の政府代表団に民間人女性を含めてほしいと要請し、これが受け入れられたという経緯があります。そこで例年、国際的な女性団体で経済社会理事会の協議資格を有するNGOの日本支部10団体及び個人会員から構成される国連NGO国内女性委員会からの推薦に基づき、政府から任命された民間人女性が日本政府の代表団の一員として国連総会第三委員会に出席しているのです。私は、同10団体の一つである日本女性法律家協会、及び国連NGO国内婦人委員会の推薦を受け、政府代表代理の任命を受けました。政府内の意思決定がどのようになされるのか、また、政府が国連NGO・専門家をどのように見ているのかを中から見る機会を持てたことは、非常に勉強になりました。

 

こうして国連NGO、政府の立場から人権問題に関わってきた経験を通じて、多角的な視点とバランス感覚が養われたと感じています。

 

子どもの権利委員会の委員の仕事では、中立・独立の立場で各国政府やNGOと関わることが求められますので、いままでの経験が役に立つと思いますし、役に立つように活かしていこうと思っています。NGOの立場からすれば、条約機関の委員が、自分たちの訴えたいことを汲んで政府に厳しい勧告をしてくれると嬉しいでしょうが、一方で政府の立場からすると、委員は真にその国の状況を理解して勧告をしているのだろうかと懐疑的に見えることもあるでしょう。その中で、専門家として、各国での子どもの権利条約の実施が進むような勧告を出していきたいと考えています。

 

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国連民主主義基金によるイラク弁護士のための国際人権法トレーニング(大谷さん提供)

 

根本:さて、子どもの権利について、世界そして日本で、何が喫緊の課題だとお感じになりますか?

 

大谷:世界では子どもが武力紛争のなかで兵士として使われるという児童兵士の問題があります。また、移民問題が国際社会の緊急の政治課題になっている中で、移民として国境を越える子どもの問題は、大変深刻です。また、5歳未満の乳幼児の死亡は、防げるはずの死亡です。日本について言うと、子どもの権利、という概念が本質的には受け入れられていないことがあちこちに垣間見えます。子どもの権利条約の下で世界レベルで語られる諸課題を日本の子どもの人権問題として受け止めていないことが根底にあると思います。児童ポルノについて日本は寛容だと世界から認識されていますし、いじめといじめ苦による自殺は、子どもの生命、発達の権利の侵害ですね。日本のシングルマザーで、父親から養育費をもらっている率が20%にしか過ぎません。こうした諸課題は日本では社会問題としては問題視されても、子どもの人権という観点が弱いと感じています。

 

そういう意味では、今年から実施が始まった「持続可能な開発目標(SDGs)」の推進は、途上国の問題と受け取られがちな課題について日本の国内の課題につなげながらキャンペーンしていく良い機会だと思っています。「子どもに対する暴力をなくす」というターゲットは、日本では家庭での虐待・体罰、学校でのいじめをなくすといった具体的な課題にも置き換えることができますよね。子どもの権利委員会の委員に就任することで、子どもの権利の問題について発言して社会の関心を喚起する機会をいただいた訳ですから、その立場を活かして積極的に問題提起していきたいと思います。

 

根本:是非SDGsキャンペーンではご一緒しましょう。力を貸してください!ちなみに、次の対日審査はいつですか?

 

大谷:今年の5月が政府側からの報告書の提出期限でした。委員会で議論されるのは2018年頃になるのではないでしょうか。その頃私は委員ですが、日本出身ということで日本の審査の議論には関われないことになっています。

 

根本:大谷さんは若い世代の方々にどんなメッセージを伝えたいとお考えですか?

 

大谷:みんな若いうちには夢を持っていても、大人になるにつれて諦めてしまうのが残念ですね。何がやりたいかはっきりしないことが多いのかもしれません。それでも良いと思います。ただ、それを形にしていくために、色々な勉強をしたり、様々な人と会って話を聞いて追求していってほしいですね。逆に、あいまいなままだと、途中で諦めやすくなるのではないかと感じます。

 

私自身、高校生の頃は、社会の役に立ちたい、そのためには国連職員になりたい、という漠然とした思いでしたが、大学で国際政治を勉強するうちに、司法試験を受けて弁護士になるという道に至り、弁護士をするうちに人権問題に関心を持ち、徐々にアプローチや特に関心分野を絞っていきました。どれが自分に合っているかを見つけるのに時間がかかりました(笑)! 日本では大学に入る頃にやりたいことが見つかっていないと、時間をかけて見つけることが許されないような印象を受けますが、留学時代の友人は30代でやりたいことを見つけて大学院に来ている人も沢山いました。紆余曲折してもいいので、「どうせダメだろう」などと見切りをつけずに、思いを持ち続けて欲しいですね!

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インタビュー後の記念撮影(左:大谷さん 右: 根本所長)©UNIC Tokyo

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (8)

第8回 高校生、模擬国連で「世界」と出会う

模擬国連、英語ではModel United Nations について耳にしたことはありますか? 

世界の諸課題を学ぶために国連での会議をシミュレーションするというもので、大学生のみならず最近では高校生にもじわじわと広がりを見せています。昨年の全日本高校模擬国連大会では申し込み総数が136校203チーム(1校につき2チームまで応募可能)と、9回の実績の中で応募が初めて200チームを超えました。今年の11月12、13日に開催される第10回全日本高校模擬国連大会には、前回に引き続き200チームを超える応募があり、更なる盛り上がりが期待されます。

詳細はこちら第10回全日本高校模擬国連大会

 

「国際移住と開発」をテーマにした2015年11月の全日本大会で優秀な成績を収めた麻布、関西創価神戸女学院渋谷教育学園渋谷桐蔭学園、灘の6校12名(学校ごとに生徒2人で1チーム)が、2016年5月日本代表団としてニューヨークでの「グローバル・クラスルーム高校模擬国連国際大会」に派遣され、世界27ヶ国から集まった総勢およそ1500人の高校生と交渉力を競いました。全日本大会では決議案・公式討議スピーチは英語で行われますが、非公式討議では内容を深めるために日本語を使うことができます。一方、国際大会ではすべての議論が英語で行われます。英語力における課題をどう乗り越えるかということにも生徒たちは向き合うことになります。

 

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真剣なまなざしで国際大会に臨む桐蔭学園中等教育学校の田邉雄斗さん(右から4人目) ©グローバル・クラスルーム日本委員会

 

模擬国連では自分の国と関係なく割り振られた国の外交官になりきり、その国の政策や議論のテーマについて事前にリサーチをすることからプロセスが始まります。相手を打ち負かす「ディベート」とは異なり、模擬国連は「交渉」です。加盟国大使として国際問題を討議し、決議案を作成し、賛成者・反対者と交渉して課題解決のための「国際協力」を実現することが求められます。そこでは単なる英語力を越えた、調整力やアピール力が試されます。日本代表団に割り当てられた国は「クウェート」。それぞれの会議の議題やクウェートについて入念な準備を経て、ニューヨーク到着後にはクウェート国連常駐代表らと面会して気持ちを高めて、クウェート国大使になりきって決議案などの交渉を行いました。

 

この中で、麻布高校から参加した高校2年の中本憲利さんと西條友貴さんのチームが、「2030年までの貧困撲滅の目標を達成するためには」という議題での世界銀行のシミュレーションを通じて、見事優秀賞を受賞するという快挙を成し遂げました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160515062324j:plain 大会関係者と記念撮影に応じる中本憲利さん(左端)と西條友貴さん(右端) ©グローバル・クラスルーム日本委員会

 

ニューヨークからの帰国後、派遣された6校12名が行った報告会は、関心の強い高校生らで満員でした。優秀賞に輝いた麻布高校の中本さんと西條さんはお互いを「相方(あいかた)」と呼び合い、2人の発表はまるで掛け合い漫才のようでした。

 

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          報告会にて発表する西條さん(右)と中本さん(左)©UNIC Tokyo

 

中学1年で同じクラスだった時に、2011年の同じ国際大会で優秀賞を獲得した麻布高校の先輩の体験談を読み、国際問題に関心の強かった2人はいつか必ず自分たちもこれを目指そうと約束したのでした。その3年後にペアを結成して全日本大会に臨み、優れた成績をおさめてニューヨークに派遣されることになりました。

 

「担当する会議が決まって、僕たちは会議の『流れ』についてかなり綿密な予測を立てました。メインテーマの『貧困撲滅』では明白な対立軸が形成されるとは考えにくい。ならば、教育や社会的弱者、基金設立、データベース、農業などの分野について網羅的な議論がなされる中で、どちらかと言えば細かな政策について小規模な衝突が起こるのではないかと考えました。この見立てが的中したんです」

 

中本さんが2人の立てた作戦を語ります。かなり多くの国が似通った政策を持ち寄ってきたことで交渉そのものは比較的スムーズで、自分たちも孤立しかねない独自色の強い政策ではなく、理解と支持を得られやすいシンプルな政策の提案に的を絞ったと言います。中本さんはスピーチや着席討議、他のグループとの意見統合の交渉などの「外交」、西條さんは「内政」を担当しながら相互補完的に役割を埋めていくという方針で、結果から逆算して作戦を立て、他国の関心を引くように行動することを心掛けたというのですから、この頭脳的な戦略には舌を巻きます。

 

 「交渉で培われた度胸は、いつかどこかで僕を助けてくれるでしょう。大勢の前で自国の、そして自分たちのグループの政策を訴えかけた経験は、揺るぎない自信を僕に与えてくれました。それと、開会式と閉会式で本物の総会議場の場に立てたのは、それは何物にも代えられません」と中本さん。

 

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   国際大会での議論の様子(前列左端:中本さん、右隣:西條さん)©グローバル・クラスルーム日本委員会

 

内政という足元を固める役回りだった西條さんは、こう振り返ります。

 

「会議の開始と同時に始まった各国大使による猛烈な政策アピールに押しつぶされそうになったときの緊迫感。世界中から集まった高校生とハイレベルな議論をしたときの高揚感。成果文書案の提出期限の直前に政策が書かれた紙が紛失したときの絶望感。提出した案が否決された時の悲壮感。目をつぶると、こうした感情が情景とともに鮮明に蘇ってきます」

 

さらに西條さんは、「Indian EnglishやMexican Englishを初めて生で聞き、『こんな英語でもいいんだ、主張したいという気持ちが大切なんだ』と戸惑いながらも感動を覚えました」としながら、模擬国連は自分が「井の中の蛙」だと教えてくれた場所だと言います。

 

 「世界のハイレベルな高校生から学んだ最も重要なことは、『交渉において最も重要なことは誠実な態度を示すこと』ということです。交渉において、相手を言い負かすことはあまり重要ではないし、相手の政策を批判して自己の政策を主張し過ぎると、みんなから反感を買う。重要なのは、みんなで一つのものを作っていくこと。彼らが内政を管理するときも、相手の大使の話をしっかり聞いてみんなで政策を作り上げている様子を見て、そう思いました」

 

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       国際大会を振り返り、思いを語る中本さん(左)と西條さん(右)©UNIC Tokyo

 

中本さんと西條さんのチームが今回の派遣で得た大事なこととして、4つあります。

1.人の心のつかみ方

2.結論に向かって議論をファシリテートしていく能力

3.時間の制約の中でまとめる能力、即興力

そして

4.自分とは何か - 自分の得手・不得手、日本人特有の資質、自分が好きなこと、自分がもしかすると考えるのを避けてきたこと、認識していなかった新しい自分 - と向き合うこと、です。

このような根源的なこと、自分とは何かを突き詰める機会を持つことは、高校生でも大人でもなかなかないことでしょう。

 

他の高校の代表団メンバーからも今回の国際大会参加から得たこととして、「相手の立場を理解した上で話を聞くことの大切さ」、「様々な国の同年代と出会えた『縁』」、「自分を信じて諦めないこと」、「多様な人々と出会って生まれた化学反応」、「メタのレベルからものごとを俯瞰的に見ることのできる素養」という本質を突くコメントがあがり、多感な高校生時代に「世界」レベルに触れることの意味を実感しました。

     

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              26日に行われた報告会での発表の様子 ©UNIC Tokyo

 

全日本大会と国際大会への派遣事業は、模擬国連の経験のある大学生からなる「グローバルクラスルーム日本委員会」が運営を行い、公益財団法人ユネスコ・アジア文化センターが共同主催という形でサポートしています。2016年度に同委員会の理事長を務める慶応大学3年生の齋藤優香子さんは、自身も高校時代にニューヨークに日本代表団メンバーとして派遣されています。「高校生12名それぞれが、自分の弱み、世界の広さ、そして『世界の壁』を感じたことでしょう」と、経験者だからこその感慨をもって高校生たちを見つめていました。

 

価値観、考え方の異なる人と議論をすることの「大変さ」は、裏を返せば国際大会の「醍醐味」です。日本で培ってきたものが世界の場では思うように発揮できないと知った時の衝撃、そして日本で培ってきたものが世界でも通じると発見した時の手ごたえ。高校生の立場でできたこの体験を、彼らは瑞々しい感受性で吸収し、今後に活かしていくことでしょう。

 

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 国連総会の議場の雰囲気に直接触れられたことは大きな経験に ©グローバル・クラスルーム日本委員会

 

Model United NationsのModelには「まねる」という意味とあわせて、「モデルとなる理想」という意味もあります。立場の異なる相手とどのような形で合意を形成することができるのか、理想を学ぶ場でもあるのです。第10回全日本高校模擬国連大会は、2016年11月12日と13日の2日間の日程で東京・渋谷の国連大学で開催の予定で、優秀者は来年ニューヨークに派遣されることになります。より多くの高校生に、理想に触れてもらいたいと願っています!

 

     

 

北海道にみた国連につながる歴史-国際連盟と新渡戸稲造

          ー北海道の国連寄託図書館を訪ねましたー

みなさま、こんにちは。

国連広報センターで、国連寄託図書館のコーディネートや研修などを担当しております、千葉と申します。

10月の終わりに、国連寄託図書館のひとつである北海道大学附属図書館を訪ねてまいりましたので、ご報告します。

北海道大学では、10月から11月にかけての約2週間をサステナビリティー・ウィークとし、持続可能な社会について考える取り組みを行っていますが、今年は同大図書館がその一環として、市民向けに、国連とその活動、国連の文書資料、国連寄託図書館をご案内するイベントを企画したのです。

私はその講師としてお招きいただき、伺いました。

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図書館でのイベントは2日間にまたがり、両日ともに、40名を超える同大の大学生や院生、教員、図書館、メディア、一般の方々のご参加がありました。

国連広報センターとして、「持続可能な開発目標(SDGs)」の実現に向けた広報に力を入れて活動するなか、道民の皆さんに、SDGsを含めた国連の広報、国連資料のご案内をする機会をいただきましたことを感謝しております。 

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イベントは、以下のような内容で行われました。 

初日の10月28日(金)は、「世界のルールの作り方・使い方‐人権に関する国連諸機関の仕組みと情報の調べ方‐」と題するワークショップ。図書館、報道機関、大学生・大学院生、教員、一般市民の方々が参加され、人権メカニズムを知るとともに、国連文書を調査する能力を身につけていただきました。

詳しくは、http://sustain.oia.hokudai.ac.jp/sw/2016/jp/rule/  

二日目の10月29日(土)のイベントは、「聞いて見て知る国連の活動と北大図書館」。国連とその活動に関するお話しと図書館ツアーを組み合わせたイベントで、幅広い層の市民の皆さんにご参加いただきました。

詳しくは、http://sustain.oia.hokudai.ac.jp/sw/2016/jp/lib/ 

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二日目のセミナー&ツアーには地域の高校生も参加してくれました。文科省の指定するスーパーグローバルハイスクール(SGH)、札幌聖心女子学院高等学校の生徒さんたちです。来年2月に研修目的でニューヨークの国連本部を訪ねるご予定という同校の皆さんは現在、来年に向けた準備を進めているところで、この日のイベントの参加もその一環だったそうです。生徒の皆さんからは研修旅行前の緊張を感じましたが、お話しを聴いていると、それ以上に、将来、国連で働いてみたい、よりよい世界をつくるのに役立ちたい、という思いが強く伝わってきました。 

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また、札幌市内から、お母さんといっしょに参加してくれた女の子もいました。小学3年生ながら、これからは国連や地球的規模の諸問題のことをもっといっぱい考えていきたいという気持ちを話してくれたことにとても勇気づけられました。この女の子が24、5歳になる頃、世界はSDGs達成期限年の2030年を迎えることを思いました。 

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さて、今回の私のブログでは、こうしてせっかくの訪問の機会を得たこともあり、国内の寄託図書館のなかで、もっとも北に位置する、この北大図書館について、少しばかり詳しくご案内したいと思います。 

まずなによりも、北海道大学自体が、国際連合というより、国際連合がその創設にあたって、その経験に多くを学んだ平和のための国際機関、国際連盟(1920-1946年)に深い縁があることをご紹介します。 

国際連盟で事務次長を務めた新渡戸稲造(1862-1933年)が実は、北海道大学の前身である札幌農学校の第2期生だったのです。(その後、同大学で教員としても11年間在籍)。 

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               (写真:北海道大学大学文書館提供)

『武士道』(1900年)を著したことでも有名な新渡戸は、国際連盟で、スウェーデンフィンランドの間にあるオーランド諸島の帰属問題の平和的解決を図ったことで、また、同連盟のもと、ユネスコの前身とされる国際知的協力委員会の設立に大きく貢献したことで、世界的にその名を知られるひとです。 

北海道大学大学文書館をはじめとする各施設には、新渡戸が書いたり、使ったりしたものの実物やレプリカが多く展示されています。 

このたびのイベントの合間に私もそれらを見学させていただく機会を得ましたが、その際、とてもよくしていただいたのは、大学文書館の山本さんです。山本さんは大学文書館の技術専門職員で、そうした貴重な資料にとても詳しい方です。 

まず感激したのは、農学に関する英語講義のノートでした。新渡戸がそこに清書した英文はまるで印刷された文字。褐色に色あせた古いノートを至近距離で見ていると、10代後半の新渡戸の若い希望に満ちた息遣いが聞こえてくるようでした。 

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                (写真:北海道大学大学文書館提供)

札幌農学校第2期生全員の成績表の展示もたいへん興味深いものです。新渡戸(当時は養父の太田姓)は、第2期生で第3位。優秀な成績です。とくに英語の点数が秀でています。ただ、成績順位のトップに内村鑑三という名前が書かれていたのを発見してびっくり。あの著名なキリスト教思想家、内村鑑三が新渡戸の同期生として、札幌農学校に学んでいたのです。10代後半のふたりが、いったいどのような会話を交わしていたのだろうか、とおもわず想像をめぐらせました。 

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                (写真:北海道大学大学文書館提供)

農学校の学生時代、読書家だった新渡戸が書き込みをしてしまった図書館の蔵書も残っています。そのひとつ、シェークスピアの『Hamlet』のレプリカが展示されていました。見ると、確かに赤線や青線が引っ張ってあります。赤線は、新渡戸が良い文章だと思ったところ、青線は良い思想だと思ったところだそうです。読書に没頭する青年の新渡戸が、図書館の大切な蔵書であるにもかかわらず、思わず赤色や青色の線を引いてしまって、農学校の教授陣や友人からずいぶんと叱られたり、からかわれたりしたのじゃないかなと想像すると愉快でした。 

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             (写真:北海道大学大学文書館提供)

新渡戸が事務次長を退任する1926年に同期生の宮部金吾に送ったという書簡も展示されていました。国際連盟用箋を用いたものです。レプリカでしたが、特別に実物も見せていただきました。

そこには、次のような文章がつづられています。 

「僕も今年一杯で満七年奉職した。エライ事もせぬ代り、太した失敗もなく、此の風変りの役所に勤め、兎に角何より、馬鹿にもされずに、日本の為めに高位をふさへて居た。明春は帰りて全国を廻はり度い。遠方から見ると、我邦の足らぬ点が見えてならぬ」

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友人に宛てたそんな手紙を書いてから10年もしないうちの1933年、日本は国際連盟からの脱退を表明することになりますが、同年10月に新渡戸稲造もその生涯を終えています。新渡戸が書いた手紙の実物を間近に見ながら、そのことに思いを馳せました。

 この新渡戸を輩出した同大の附属図書館が今、国際連合の寄託図書館として活動していることを思うと感慨深いものがあります。 

さて、この図書館について、ご紹介します。 

同大に国連寄託図書館が設置されたのは日本の国連加盟から6年後の1962年のことだそうです。最初は、同大経済学部が、限られた国連資料のみを受領する「一部寄託図書館」という指定を受け、その後、1979年に、全資料を経済学部から附属図書館本館に移管。そのあと、1995年に、受領対象が決議や報告書などの公式ドキュメントに広がる「全部寄託図書館」へと指定変更されました。

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全部寄託図書館になってから2年後の1997年には、この図書館で、年次会議が開かれています。そこで全国の寄託図書館の皆さんがお集まりになって研修に励まれました。振りかえれば、国連寄託図書館を担当するようになってまもない私が全国の寄託図書館の皆さんに初めてお会いして、ご挨拶を交わしたのが北大の図書館でした。 

2008年には、潘基文事務総長のご夫人がこの図書館を訪れておられます。G7洞爺湖サミットに参加する事務総長に同伴して来日された際のことです。ご夫人は実はかつて司書を務められていたことがあり、それもあって、ユニセフの集いへの出席やスピーチなどの忙しいプログラムの合間を縫って、この図書館を訪問し、国連寄託図書館としての活動を視察され、当時の館長(現、逸見勝亮名誉教授)ともお会いになったのです。その際、私も随行員として、ご一緒したことを覚えています。 

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 現在、国連寄託図書館の担当職員として勤務しておられるのは長嶋岳生さんと細井真弓美さん。お二人とも学生時代は図書館学を研究された、図書館に情熱を傾ける方です。 

今回の国連寄託図書館としてのイベントの開催を中心になって企画されたのが、人一倍エネルギッシュな長嶋さん。細井さんは中学生のときに市内の図書館ツアーで書庫の匂いに魅了されたのがきっかけで図書館に働くことを夢みたという、図書館をこよなく愛する素敵な方です。

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          (写真:左から、長嶋さん、眞野さん、細井さん、千葉さん) 

北海道の雄大さのなかで、国際連盟で活躍する人材を輩出した歴史をもつ大学に置かれ、熱意あふれる職員の方々が今日の国連と地域をつなぐ国連寄託図書館。

ぜひ、みなさまも一度、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。 

あらためて、北大附属図書館職員の皆さん、ほんとうにお疲れ様でした。

* *** *

今週、11月10日(木)、11日(金)の2日間、国連広報センターは全国に置かれた14館の寄託図書館の皆さんを東京にお招きし、年次研修会議を開催します。当センター職員一同、皆さんと一年ぶりに再開し、活動報告をお聴きするのを楽しみにしています。


(千葉のブログを読む)
「アウトリーチ拠点としての図書館と持続可能な開発目標(SDGs)」
「持続可能な開発目標(SDGs)と初等教育~八名川小学校をお訪ねしました」

「国連事務局ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)をご存知ですか

 ~昨年12月14日、筆記試験が実施されました~」

「佐藤純子さん・インタビュー~国連の図書館で垣間見た国際政治と時代の変化~」

「国連学会をご存知ですかー今年の研究大会に参加してきました」

「沖縄の国連寄託図書館を想う」

「国連資料ガイダンスを出前!」

「国連資料ガイダンスをご存知ですか」
「国連寄託図書館をご存知ですか」

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (7)

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(7)

野口元郎さん

~ 世界初の被害者信託基金を理事長として率いて ~

 

オランダのハーグにある国際刑事裁判所(International Criminal Court, ICC)は、国際社会で最も重大な犯罪「ジェノサイド」「戦争犯罪」「人道に対する犯罪」などを犯した個人を裁くため、2002年に初めて常設で置かれた国際刑事法廷で、日本は最大の分担金を拠出しています。人材面でも、最高検察庁検事の野口元郎(のぐち もとお)さんが2016年4月にICCの被害者信託基金(Trust Fund for Victims, TFV)理事長として再選され、国際刑事法廷としては初となる基金を通じた賠償と被害者支援を進めるなど活躍しています。法律家として様々な国際組織に関わってきた野口さんからお話をうかがいました。(聞き手: 国連広報センター 根本かおる)

 

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               野口元郎(ノグチ モトオ)

東京都出身。東大卒。検事任官、法務省法務総合研究所教官。アジア開発銀行(ADB)法務部で国際機関内弁護士、国連アジア極東犯罪防止研修所(UNAFEI)教官、法務総合研究所国際協力部長などを務める。日本の国際刑事裁判所ICC)加盟、カンボジア特別法廷(ECCC)設立関連業務に従事。ECCC最高裁判所国際判事。スリランカでは失踪者調査委員会の国際諮問委員を務め、現在も2国間支援の一環として助言などを行っている。2012年ICC被害者信託基金理事会の理事に選ばれ、2013年より理事長

 

根本:野口さんは、カンボジア特別法廷最高裁判所国際判事、そしてICC被害者信託基金理事長と、国連につながるお仕事を長く務めていらっしゃいます。国際的な司法の場に携わるやりがい、醍醐味としてどんなことを感じていらっしゃいますか?

 

野口:ICC国連そのものではありませんが、国連との関係は非常に強く、ICC設立条約のローマ会議は国連事務総長が招集しました。法の支配は安倍政権でもプライオリティの高い分野ですが、戦後70年あまり、一貫して平和に対する貢献を貫いてきた日本人の実務家としてこの分野に従事するのは意味のあることだと思います。エキスパートとして貢献するわけで、自分の国籍は直接問題になりませんが、カンボジアの場合、日本が特別法廷の設置運営に至るまで全面的にサポートして資金的にも最大の拠出国だったこともあり、日本から判事を是非出してもらいたいという状況でした。

 

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国際刑事裁判所ICC)は国際社会で最も重大な犯罪を犯した個人を訴追、処罰するため、ローマ規程に基づいて1998年に初めて常設で設置された国際裁判所で124か国が加盟しています(2016年6月現在)。アメリカがローマ規程を批准しておらず加盟していない中、日本は最大の分担金拠出国で、全体の17%にあたる年間約30億円を負担しています。ICCの被害者信託基金(TFV)は、管轄権の範囲内にある犯罪の被害者とその家族に①有罪判決に基づいた被害者賠償、②物理的・精神的リハビリ、物資供与などを行っており、日本を含む各国や団体、個人から任意拠出された資金が使われています。TFVは②の支援として、ウガンダコンゴ民主共和国で性的暴力の被害者や元児童兵などを対象にプロジェクトを実施し、2014年10月から2015年6月までの期間に約6万人、家族やコミュニティーを含めると約12万7000人が支援を受けました。①の有罪判決に基づいた被害者賠償については、これからの課題になっています。

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国際派への転身

根本:国際的な道を目指そうと思われたのは、いつごろですか。

 

野口:実を言うと、あまりそういうことは考えていませんでした。若い頃、検事の仕事にそういうオプションはあまりなかったんです。留学したいという気持ちは割と早くからありました。1年アメリカに留学しましたが、その他に役所の仕事を続けながらできる国際関係の仕事は限られていました。それも一生に一回そういうポストについて、3年ぐらいやって、後はまた役所での本来の仕事に戻るというパターンしか想定できませんでした。私の場合、丸20年続けて国際関係に従事しているわけで、結果的にそうなったという面が強いですが。最初に法務省で法整備支援の仕事をしたのに始まり、アジア開発銀行(ADB)、それからカンボジア特別法廷最高裁判所国際判事、いまのTFVの仕事、スリランカの仕事も少ししていますが、一つひとつはその前の仕事の経験がベースになっています。

 

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             インタビュー中の野口さん ©UNIC Tokyo

 

根本:最初はこういうポストに日本人として是非やってみないか、と役所の方から提案されたのか、それとも野口さんが見つけられてトライしてみたいなということだったのか、どちらだったんですか?

 

野口:後者ですね。私は当時法務省で法整備支援に従事していましたが、その関係でADBに出張したのが縁で、国際機関のローヤーという仕事を知りました。法務省からの出向は前例がありませんでしたが、英語力も含め、ここで自分の法律家としての能力を試したいという気持ちから応募しました。法務省には出向の意義を説明して何とか認めてもらいました。今振り返れば、ADBで上司も同僚も部下も外国人、言葉は英語だけという職場環境で4年間働いたことが、その後別の国際機関で幹部クラスのポストに就くための基礎になっています。日本人には国際機関でも十分にやっていける優秀で勤勉な人が多いのですが、最初に入るときの敷居がなかなか高いので、ダメもとのつもりでどんどんチャレンジするのがいいでしょう。

 

ICC被害者信託基金理事長としての仕事

根本:現在は、ICC被害者信託基金の理事長として人々をまとめる立場でいらっしゃいますね。

 

野口:TFV理事長は、リーガルなポストではなく、どちらかというと外交的なポストと言えます。理事長は5人の理事の代表に過ぎず、上下関係はありません。被害者への支援をなるべく速やかに意味のある形で提供する、その目標に向け組織を最も効率よくパワフルなものにしようと知恵を出し合います。いずれにしろ中央集権的というより、分権的な小さな組織であり、様々な利害関係者の間で最も有効な方法を考えながらポジティブにやっていくことを心がけています。

 

根本:実際、現場で被害に遭った方々に会われて対話するような機会はありましたか。

 

野口:理事長になってから1年の間にコンゴ民主共和国ウガンダの現場視察に行きました。たどりつくだけでも一日がかりのかなりの奥地で、想像を絶する劣悪な環境でした。そういうところに縛り付けられて動けない、場合によっては家族にも見放されているような人たちに、生きる希望を何がしかでも与えられればと考えています。非常に地道な地元NGOの働きがなければ、到底できる仕事ではないですね。我々が支援するのは、中央政府や地方政府の支援が及んでいない、ほかのドナーによる支援と重複しないものに限られており、なおさら困難が伴います。NGOの助けを借りながら地元コミュニティーを巻き込んで、被害者の属する社会にも問題意識を持ってもらい、再発防止にも貢献するような形で支援できればと思っています。

 

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2013年9月、ウガンダ北部とコンゴ民主共和国で行われているTFVの被害者支援プログラムの現場を訪問 (前列左端が筆者) ©ICC

 

「賠償」というと、損害賠償としてのお金を配るようなイメージで捉えられがちですが、そうではありません。被害者に尊厳を取り戻してもらうため家族に認めてもらい、村のメンバーに戻って、というところから始めて、最低限の生活の糧を得るための基礎を与える。女性なら裁縫道具や小さな料理屋、男性ならオートバイの修理工としての技術を提供するなど、スモールビジネスの元手の提供や職業訓練など、生活を支えていけるような基盤を援助します。彼女ら・彼らは、もともとひどい被害に遭っている上、家族や社会の受け入れ方や扱い方で二重の苦難にあえいでいる人が多いのです。そういう面で、男性社会を含むコミュニティーの側に、例えば強姦被害者や児童兵への認識を変えてもらうという啓蒙や意識改革も必要です。

 

根本:被害者信託基金(TFV)が、平和構築の意味合いを持つようなプロジェクトを行うのはどんな理由があるのでしょうか。

 

野口:確かにそこは線引きが難しいところで、一般の人道支援組織とどこが違うのか、常に出てくる問題です。ICC設立条約であるローマ規程の枠組みの中でやっていますから、人道に対する罪といった裁判所の管轄犯罪の被害者でなければ、我々のプロジェクトの受益者になれない、というのが一応の線引きです。刑罰で罰するという「応報刑」の司法の機能に加えて、司法の過程を通じて損害を回復し、加害者と被害者との間の関係を修復する、比較的最近の考え方が国際刑事裁判に反映されつつあり、TFVは初めての本格的な試みです。

 

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                        ©TFV

 

ローマ規程が採択された1998年のローマ会議では、検察官の管轄権の行使といったような、主権と絡むところに議論の時間の大半が取られ、被害者参加や損害賠償の仕組みについては本格的議論をする時間がないまま、NGOが中心となって提案した内容でパッと決まってしまった。ですから、国際刑事裁判としては前例がない状態で、実際にどのような仕組みで機能するのかについてあまり議論されないまま今に至っているところがあります。法律的に適切で実務的にも運用可能な制度をこれから作っていかなければなりません。

 

世界初の試みへの、日本政府からの積極的な支援

根本:日本政府は女性の輝く社会、裏を返せば紛争下における暴力の問題に熱心に取り組む姿勢を示していますが、野口さんがいらっしゃる信託基金に対しても日本政府からの積極的支援があるのでしょうか。

 

野口:TFVに対しては、2013年に私が理事長になった後、初めて1億円近い任意拠出をしていただきました。2014年6月にロンドンで開かれたG7の枠組みでのPSVI(Preventing Sexual Violence Initiative)サミット[1]も政府は全面的にサポートしており、TFVやUN Womenへの拠出なども行っています。

 

[1]紛争下で「武器」として使われるレイプや性的暴力について話し合った 「紛争下における性的暴力の終焉に向けたグローバル・サミット」では、加害者不処罰を終わらせ、国際的な取り組みを強化することが確認された。

 

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UNHCR特使であるアンジェリーナ・ジョリーさんが2016年4月TFVを訪れ、戦争犯罪の被害者支援や尊厳回復の重要性を訴えた。ジョリーさんは2014年のPSVIサミットを当時の英国外相と共同主宰するなど、紛争下の女性に対する暴力をなくすために積極的に活動している  ©ICC

 

根本:旧ユーゴ国際刑事裁判所ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)には被害者を救うような信託基金はあったのですか。

 

野口:なかったです。被害者が刑事裁判に参加し、損害賠償を請求できる仕組みを本格的に取り入れたのは、カンボジアの特別法廷とICCが初めてです。カンボジアの場合、信託基金がなく、被告人に資力がない限り損害賠償できなかったんですね。私が従事した1件目の判決でも損害賠償命令を出しましたが、被告人が無資力という認定で意味のある解決が提供できなかった。そういう意味でICCのTFVは、初めてそのための制度的保障を設けた例です。そもそも私がTFVの理事に日本から初めて立ったのも、それを実現したいという目標があったからです。制度の大枠はローマ規程や下部規則に書いてあるのですが、実際に動かすためのプラクティカルな仕組みがまだありませんでした。それをウガンダコンゴでやってきた支援プログラムの経験を活かして、損害賠償としてのプログラムのための新しい仕組みを作っていかねばならない。これが結構大変で、私も2期目に入ったところですけれども、あと2年半の間にどこまでやれるものかとちょっと焦っているところです。

 

法律家が国際的なキャリアを目指すために

根本:最近は日弁連も法曹関係者に、国連機関でのキャリアについてガイダンスすることも多くなってきましたね。

 

野口:なかなか思ったほど日本人スタッフの数が増えないですね。総論で日本人職員を増やそうという部分で反対する人は誰もいない。しかし、実際に空席情報を見て応募して数人のショートリストに残れるかというレベルの問題になると、個別の応募者の競争力が問題になる。まだまだ競争力が足りないし、それを組織的にサポートする仕組みもない。日本人も、数十年前は世界に出ていって追いつけ追い越せという燃えるようなパワーがあったのに、今は、日本でのポジション確保が優先課題になって動きが取れない人が多いように思いますね。例えば、弁護士は自由業のように見えても、事務所内の競争があって、5年目10年目みたいな勝負所で別のことをしていると、パートナーに残れないとかね。端で見るほど自由が利くわけではないようです。

 

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            インタビュー中の根本所長 ©UNIC Tokyo

 

根本:検事はどうですか。

 

野口:検事は仕事の幅の広い職業です。国際機関の場合、応募して何年も待たされます。これはクライアントを抱えてとてもできることではない。むしろ公務員の方が、応募しやすいかもしれないですね。ただ日本の役所は、個人が自由に応募することは原則として認めてないというか、私は将来国際機関に行きたいので個人的に応募します、というのは役所が歓迎するようなことではないということは未だにありますよ。でもあまり役所に遠慮していると、いつまでたっても何も進まない。私も最初にADBにに行ったころは、出向として認めてもらえなければ役所を辞めてでも行くくらいのつもりでおりましたので。

 

根本:希望は出せるんですよね。

 

野口:希望は出せますけどね、希望が通る保証はない。昔から与えられた仕事を全力でやることが宮仕えであると言われているんです。欧米の発想では、そんなことをしている暇はないわけで、自分がやりたいことができる職場に行けば良いわけです。元々政府職員だった人でも、国連やADBに移っている人は結構います。日本人で活躍している人も多いのですが、まだまだ多数ではない。それこそ根本所長みたいなキャリアの方にアピールしていただいて欲しいですね。

 

根本:手を変え品を変えやっていきますので、ご協力いただければと思います。

 

野口:就職前の人、つまり大学生や大学院生に対して発信するのは相当有効だと思います。私も東大でここ7、8年ゼミをやっているのですが、長くやっていると、忘れたころになって、当時の学生が弁護士になって、フィールドに出ている、という人もちらほら出ています。教育の持つ中長期的な効果は大したものがあります。地道に情報発信していると、こちらの知らないところで、何らかのヒントを得て、道を開いている人もいますから。

 

根本:私も出張先の南スーダンNGOの日本人職員の方に「私はあなたの講演を聞いて難民に興味を持って、こちらの方向に進みました」と言われ、驚きました。責任重大です。在京の国連の事務所として、これからも情報発信を積極的に行っていきます。国連の強みは、世界の最先端を行く人たちにご登場いただけたり、そのような方々と触れ合える場を作ったりすることができるところですので、そんな機会を提供していきたいと思います。

 

       www.youtube.com

 

 

 

わたしのJPO時代(16)

「わたしのJPO時代」第16回は、国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官、伊東孝一さんのお話をお届けしします。JPO試験合格後、外務省からのポスト提示を待たず、自身で就職活動をした伊東さん。当時国連本部に日本人JPOは皆無でしたが、国連本部 政治局アジア太平洋部の政務官ポストを獲得されました。JPO時代の国連本部での経験が、その後のフィールド勤務においても現場と本部の両者の視点を持って仕事を進める基盤になった、と教えて下さいました。

 

 

        国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官

          伊東 孝一(いとう たかかず) さん

        ~「やる気と体力」で勝負、国連本部でのJPO~        

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      2016年9月、ロンドンにて開催された国連PKO防衛大臣級会合にて(伊東さん提供)

東孝一(いとう たかかず):国連フィールド支援担当事務次長付き特別補佐官。東京外国語大学卒、ロングアイランド大学院社会学修士。富士銀行、国連日本政府代表部勤務を経て、2002年度JPO合格。2003年、UNDPコソボ事務所にて安全保障部門改革担当後、2004年より国連政治局で北東アジア担当。2006年、国連東ティモール統合ミッション政務官、2008年より東ティモール担当事務総長特別代表付き特別補佐官。2012年より現職。

 

 

誤解を恐れずに言い切ると、国際社会より国連に課せられた任務は大きく分けて3つ。国際の平和と安全の推進、経済社会開発、そして人権。僕は、これまで15年近くに渡り、1つ目の国際の平和と安全に関わる仕事を、国連日本政府代表部時代も含めると、ニューヨーク、コソボ、ニューヨーク、東ティモール、ニューヨークと、紛争地の現場と国連本部を行き来しながら続けてきました。

 

多くの人にアドバイスを頂いたり、助けて頂いたりしながら、微力ながらも世界がより平和になるようにと、努力を続けて来られたことは幸せだと感じています。こんな僕の国連キャリアを支えるバックボーンは2つあります。そのうちの大きな一つが、JPO時代の仕事の経験と学びです。

 

JPOは、国連事務局本部で政務官として北東アジア(中国、北朝鮮、韓国、日本、モンゴル)を担当しました。僕がJPO試験を受験した当時、日本の外務省では、JPOは、主に UNDP,UNICEF, WFP, UNHCRといった国連関係機関に派遣し、開発や人道支援に携わらせることを想定していたようでした。JPO試験合格者は、外務省からいくつかポストを提示されるのを待ち、そのうち自分の希望に近いポストを選んで開発途上国に赴任するというのが、当時お決まりのコースでした。僕がJPOを受験した2002年まで、国連本部で勤務する日本人JPOは皆無でしたが、僕自身はUNDPコソボ事務所でフィールドを経験していたこともあり、国連本部で広い視野を身につけた上でまたフィールドに出たいと思いました。そこで、外務省からフィールドポストを宛てがわれるのを待つのではなく、本部での政務ポストを求め、勝手に就職活動をしました。国連本部で知っている人に自分の履歴書を送付し「政務分野でやる気と体力だけはあるJPOを採用したい方を紹介してください」とお願いしてまわりました。そんなメールの一つが、既に国連政治局で活躍されていた邦人女性職員の方の目に止まり、その方の紹介で国連本部政治局アジア太平洋部の政務官ポスト獲得となりました。

 

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アフガニスタン出張中、事務次長についた身辺警護官達と。当日カブールにて自爆テロが2件発生したため、通常3名のところ2名増員。(伊東さん提供)

 

JPO時代は、事務総長をはじめとする国連幹部に提出する北東アジア情勢に関する分析や幹部が各国首脳・外相と会談する際に使用する発言要領、対外的に発出する事務総長声明などをバンバン書いて、最初は上司にバンバンダメ出しされていました。そのうち、なんとかコツが掴め、JPO期間中に、素早く必要な情報を入手・整理・分析して、簡潔にまとめる力がつきました。この経験・学びがあったからこそ、JPO後赴任した東ティモールで、すぐに現地の政治・治安情勢や国連の活動について安保理に提出する事務総長報告の取りまとめをまかせられたり、政治・治安情勢が急激に悪化し、緊迫した状態でも、ある程度落ち着いて仕事が出来るようになったのだと思います。もう8年前の話になりますが、東ティモールの首都ディリで、銃撃戦に巻き込まれそうになったことがありました。朝のジョギング中、浜辺でラモス・ホルタ大統領(当時)を見かけ挨拶している際に銃声が響きはじめました。あとになって分かったのですが、反乱軍の集団が浜辺近くの大統領公邸を襲い、公邸を警護する国軍の兵士らと撃ち合いになっていたのでした。大統領は身辺警護と公邸に戻ろうとし、公邸の門にたどり着く前に複数の銃弾を浴び重傷をおいました。

 

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                反乱軍に襲撃されたグスマン首相の車両(UN Photo)

 

僕は国連の危機管理センターに事態を報告したあと事務所に出向き、そこから数日間は、上司・同僚らと共にほとんど休むことなく、襲撃事件が大規模な暴動・紛争へと繋がらないよう、襲撃を行った反乱軍やその支配下の勢力に影響力を行使できる政治家らへの働きかけ、情報収集・分析、本部そして安保理への報告作りに取り組みました。グスマン首相(当時)の車列も反乱軍に襲撃され、一時はディリの一部市民が国内避難民化する事態となりましたが、大統領は奇跡的にも助かり、首相も軽い怪我で済み、国内避難民もそれぞれのコミュニティーに帰り、 反乱は拡大することなく収束しました。

 

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           ホルタ大統領、銃撃戦でおった重傷の治療を終え帰国(UN Photo)

 

 今の仕事でも、JPO時代に情報分析・文書作成能力を鍛えられたことが役に立っています。国連総会、アフリカ連合のサミット、PKO関連の閣僚級会合などでは、事務次長が一日に何名もの防衛大臣や外務大臣などと連続して会談を行うことがあるのですが、これらの会談用の発言要領やブリーフ資料を限られた時間の中で用意し事務次長をサポートできているのはJPO時代の経験・学びのおかげです。

 

 またJPOを国連本部で行ったことで、各国の国益の対立や足の引っ張りあい、国連内の官僚主義や縄張り争いなど、あまり美しくない政策レベルの国連外交の現実を見てからPKOの現場に出たことも、とても役に立ちました。フィールドにいて、国連本部から、長ったらしくて意味が不明瞭な指示が来た際には、国連部内の調整がうまくいかなかったのだなと推測できたり、国連本部の仕事の仕方や出来ることの限界がある程度分かっているからこそ、本部からの支援をあまり期待せず、余計な指示をもらわないで、ピンポイントで本部の同僚らに動いてもらえるよう公電の出し方・タイミングなどを工夫できました。

 

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   東ティモールで一緒に働いた同僚たちとニューヨークで同窓会。筆者は上段右から2番目(伊東さん提供)

 

逆にしばらくフィールド勤務をしたあと国連本部に戻ると、現場の経験が国連本部での仕事に役立つなと感じることが多々あります。ずっと国連本部にいても現場の視点を持てる優秀な国連職員の方もいますが、僕自身は、残念ながらそのような才能はなく、紛争地でも安保理議場でも、実際に出向いて自分の目で見て、自分の肌で感じないと駄目なようです。今後も本部とフィールド勤務を出来るだけ交互に行っていきたいと思っています。

    

バックボーン、2つ目は、ワーク・ライフ・バランスに繋がるのですが、トライアスロンです。仕事は大事ですが、仕事ばかりしていても駄目。学生時代からJPO時代までは、飲みにばかり行ってましたが、JPO後ぐらいからはトライアスロンやマラソンにはまり、飲みに行く回数も減り、トレーニングをしたり、レースに出ることを、仕事の良い息抜きにしています。トライアスロンでは、ここ数年、アイアンマン・レースと呼ばれる3.8キロ泳いで、180キロ自転車に乗ったあと42.2.キロ走るレースに一年に一度出るようにしています。アイアンマンのレースに出ている間は10時間以上、食事もせずトイレにも行かず運動し続け、極限まで自分を追い込みます。ゴールした時の達成感は何ものにも代え難いものがあり、間違いなく仕事にも良い影響を与えています。ランニング中に、ふと煮詰まっていた仕事の案件の突破口が見えたり、解決策が思い浮かぶことがありますし、仕事が忙しくて大変な時があっても、アイアンマンに比べたら楽だよなと思うことが出来ます。アイアンマンレース出場は、妻との夏休み旅行も兼ねているので、一石三鳥です。

 

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             アイアンマン・レース無事完走(伊東さん提供)

 

僕の国連キャリアにとって、JPO時代の経験と学び、そしてJPO後にはまったトライアスロンが、大事なバックボーンとなっています。トライアスロンに限らず、仕事以外でも何か自分が夢中になって楽しめることや、大切な人との時間があると、より仕事に打ち込めるのではないかと思います。国連を目指される方には是非JPO受験と、ご自身にとってのトライアスロンを見つけられることをお勧めします!

 

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」 (6)

第6回  国際刑事裁判所ICC) 尾﨑久仁子次長

~国際社会の共通利益を追い求める上で、「日本人がいるとチームがしまります!」~

オランダのハーグにある国際刑事裁判所(International Criminal Court/ICC)は、国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を、国際法に基づいて訴追・処罰するための歴史上初の常設 の国際刑事裁判機関です。 国際社会が協力してこうした犯罪の不処罰を許さないことで、犯罪の発生を防止し、国際の平和と安全の維持に貢献します。1998年に採択されたローマ規程によって設立され、2002年から活動を開始しました。

 

ICC国連から独立した組織ではありますが、人道に対する罪を訴追する常設の国際裁判所を設立する考えは、1948年のジェノサイド条約の採択との関連で早くから国連の場で審議されました。また、国連安全保障理事会ICCで訴訟手続きを開始することができ、ICCが管轄権を持たないような事態についてもICCに付託することができます。

 

日本は2007年にICCに加入し、トップの財政支援国としてICCの活動を支えてきました。それと同時に、人の面でも、アジア出身の女性としては初めてICC裁判官となった外交官出身の齋賀富美子さん(2007-2009)に続き、同じく外交官出身の尾﨑久仁子さん(任期2010-2018)が裁判官として法の支配の推進に貢献しています。さらに尾﨑判事は2015年からICCの次長として裁判所のマネージメントを担っています。なんと現在のICCでは所長、2人の次長、そして検察官も4人全員が女性です。一時帰国中の尾﨑次長から貴重なお話をうかがいました。(聞き手: 国連広報センター 根本かおる所長)

 

2016年10月8日付、日本経済新聞に掲載された尾﨑さんのインタビュー記事

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114654j:plain        2010年、ICC裁判官就任にあたって宣誓する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

                                          尾﨑   久仁子 (おざき くにこ)

【1979年外務省入省,外務省条約局,国際連合日本政府代表部法務省刑事局などで勤務したのち,法務省入国管理局難民認定室長,外務省人権人道課長,東北大学大学院法学研究科教授などを歴任。2006年国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)条約局長,2010年国際刑事裁判所(ICC)判事に就任。2015年からICC次長。】

 

根本:日本はICCを積極的に支援していますが、日本では一般的にはあまり知られていない存在かもしれませんね。そもそもどんな経緯から生まれた裁判所ですか?

 

尾﨑:戦争犯罪や人道に対する罪を処罰することが基本的人権の維持につながるという発想は古くからあり、本来それは各国がやるべきことと考えられていましたが、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダの虐殺をきっかけに、国連安全保障理事会が旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ルワンダ国際刑事裁判所を設置しました。これを契機にもっと普遍的なものを作らないといけないという世界的な動きの中で生まれたのがICCです。国連総会がそのお膳立てをしてローマ規程を交渉し、その採択の結果生まれました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812114903j:plain        1998年ローマでの国際刑事裁判所の設立に関する国連全権外交使節会議(通称ローマ会議・ICC提供)

 

ICCは、各国の国内刑事司法制度を補完するものであって、関係国に被疑者の捜査・訴追を真に行う能力や意思がない場合等にのみ、ICCの管轄権が認められるという「補完性の原則」のもと、活動しています。

 

根本:活動を開始したのが2002年ですから、まだ若い組織ですね。

 

尾﨑:設立準備段階から働いている職員でさえ、よもや設立されるとは思っていなかったんですよ。まさかの合意、まさかの設立でした。10数年前は誰も実現できるとは思っていなかった、国際的に処罰を課す、不処罰の文化をなくすという理念がここ5,6年でようやく確立され、ICCの組織・活動も定着してきたと思います。様々な判例が蓄積され、国際裁判所としての実体が出来上がってきました。ただ、簡単に入れるところはすでに加盟して、このところ加盟国の増加が鈍っていますね。加盟国は124カ国で(2016年7月28日現在)、ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカに加盟国が集中しています。アジア、アラブ諸国の多くがまだ加盟していませんね。アメリカ、中国、ロシアは入っていません。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115017j:plain                  2016年4月、オランダ国王出席のもと、ICC本庁舎の開所式が行われた(ICC提供)

 

根本:ICCの次長になられて1年あまりになりますが、ICC次長というのはどんな役割を担うのでしょうか?

 

尾﨑:ICCには18人の裁判官がいます。その中から所長と2人の次長が選ばれるのですが、3人とも裁判官としての職務は引き続き行います。所長は対外的にICCを代表する仕事が増えますが、次長は所長とともに裁判所内部のアドミニストレーションについて最終決定を行うことが主たる役割となっています。アドミニストレーションは裁判が円滑、効率的、効果的に行われることの礎になっているという面からも重要です。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115059j:plain             2015年4月、ICC次長として、パレスチナICC加入を歓迎する尾﨑久仁子さん(ICC提供)

 

根本:ICCの所長、2人の次長、そして検察官という幹部4人全員が女性ですね。

 

尾﨑:検察局のトップが女性だということは大きいですね。検察官自身も、女性に対する暴力のケースを積極的に捜査しています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115144j:plain                              国連安全保障理事会で発言するベンソーダICC検察官(ICC 提供)

 

裁判官の仕事の中で女性だから男性だからという違いは感じられませんが、裁判所長会議に参加する3人は外部に発信していくという役割を持ちますので、その上で女性だということは大きな意味がありますね。

 

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根本:ICCに付託される事案の多くが紛争下の女性に対する暴力に関するものですね。

 

尾﨑:レイプ被害は戦争のあり方が変わっていないことの現われだと思います。女性へのレイプが普通のことと思われていた時代が長かった。いかに「女性が一種の財産として扱われる」ことから脱却するのか。そのためには、一つには犯人への処罰、そして時間はかかりますが教育ですね。一朝一夕にはいきません。少しずつではありますが、脱却できている国は増えてきていますし、女性への暴力に対する問題意識は確実に世界的に広がりつつあります。諦めることが一番よくないと思います。高齢者、子ども、女性に対する虐待もすべて同根でしょう。問題意識を広げ、実態が見えるようにし、教育し、処罰する。これを粘り強く行う、ということですね。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160812115252j:plain                   正義のための国際デー(7月17日)で、SNS啓発キャンペーンを展開(ICC提供)

 

根本:特に印象に残っている案件や瞬間として、どんなものがありますか?

 

尾﨑:今まで携わってきた案件は中央アフリカ、ケニア、コンゴ民主共和国などです。一つ一つに固有のむずかしさがありますし,手続きも長期に及ぶんですね。やはり実際に被害に遭われた方が証人として法廷に参加してくださるということには胸を打たれます。英語もしゃべれず、およそ外国人を見たこともないような田舎から、裁判のためにオランダのハーグまで出てきてくださるわけですね。もちろん裁判所の心理専門家などがサポートしますが、「正義がほしい」と辛い気持ちを克服して証言してくださることに、とても励まされます。

 

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              インタビュー中の尾﨑さん ©UNIC Tokyo

               

根本:ICCにとって、日本は一番の分担金拠出国ですね(2016年の分担率:16.5%)。ICC内部からご覧になって、日本の役割はどのように尾﨑さんの目に映りますか?

 

尾﨑:日本がそこまで大きな役割を担っているということは、内部からはあまり感じられないかもしれません。というのも、やはり日本人の人的存在感が小さいんですね。ようやく書記局に一人、日本人が幹部のポストで入りましたが、最もコアな裁判部には日本人は一人もいません。日弁連とも話し合いをしていますが、日本の法律家で国際機関を目指している人がそもそも少ないんですね。日本で法律の教育を受けた人は世界で大きく貢献することができると私は信じていますので、日本の法律家に是非ICCに来てもらいたいです。

 

根本:日本の法律家はどういう面で大きく貢献することができるのでしょうか?

 

尾﨑:日本は様々な法体系を受け入れてきた国なので、ハイブリッドな法律体系に柔軟だと思います。また、日本では法律を学ぶときに比較法の観点を取り入れるので、他の国の法学教育と格段な違いがあります。日本人の法律家はICCで貢献できると思います。日本側から見ればプレゼンスを高めることができますし、ICC側から見ても、日本の法律家に備わっている資質を求めています。さらに、私の経験値から言えることですが、日本人は粘り強く、あきらめずに最後までやり通す。責任感が強く、やるべきことはきちんとやる。そして、日本人がいると、チームがしまります!

 

根本:尾﨑さんは外交官出身ですが、ICCの前は、ウィーンのUNODC(国連麻薬犯罪組織)の条約局長も務めていらっしゃいますね。以前から国際機関に関心があったのですか?

 

尾﨑:国際機関に入りたいからUNODCに行ったのではなくて、刑事司法関連の国際法に関心があったので手を挙げて、行ったんです。

 

根本:外交官と国際機関とで、働く醍醐味にはどんな違いがありますか?

 

尾﨑:外交官は日本の国益を一番に考えて行動します。共通利益を目指すときも、何が日本の利益かが基準ですね。それに対して、国際機関では国際社会の共通利益についてまず考えます。一国の国益を考えるよりも難しいですが、それがかえっておもしろい部分でもありますよ。あと実感するのは、国民性とは別に、職業に特有の特性というものがあって、どこの国出身であっても法律家は法律家。これが共有の基盤となっています。

 

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                                     所長の根本かおる(左)と尾﨑さん ©UNIC Tokyo 

 

根本:最後に、国際機関に関心のある若い世代へのメッセージをお願いします。

 

尾﨑:国際機関で働きたいという学生は大勢いますが、国際機関はたくさんある道の一つに過ぎません。単に国連に入りたいという気持ちだけではなく、自分のやりたいことをきちんと考えて、その選択肢の中に国連を入れる、というアプローチであるべきだと思いますね。日本でも以前と比べれば仕事の流動性が生まれているので、国際機関ありきではなく、何に貢献したいのか、ということを見つめて、しっかりとした思いを持っている人にICCの存在をアピールしていきたいです。