国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(3)

第3回 パラリンピアンのマセソン美季さん

スポーツで、障害を持つ人々にパワーを!

~2020年東京パラリンピック大会は、共生社会を築く~

 

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(提供 OHCHR_Danielle Kirby)

                  マセソン美季 さん

 1973年生まれ、東京都出身。東京学芸大学卒。高校大学時代は柔道部に入部。体育教員を目指すも1年の時に交通事故で脊髄を損傷。下半身不随になり、車いす生活に。入院中に障害者スポーツに出会い、車椅子の陸上競技を始める。その後アイススレッジスピードレースを始め、1998年の長野パラリンピックに出場。3つの金メダルと1つの銀メダルを獲得すると共に、世界新記録を更新。大学卒業後、障害のある選手への指導を学ぶためイリノイ州立大学に留学。2001年にパラリンピックアイススレッジホッケー選手のショーンさんと結婚し、カナダへ移住。現在2児の母でオタワ在住。日本財団パラリンピックサポートセンター勤務。

 

聞き手:国連広報センター 妹尾

 

 

突然の事故、そしてスポーツを原動力に

 

Q.マセソンさんは学生時代に突然交通事故に遭われ、その後、障害者スポーツの実践者になり、さらにはパラリンピックに出場して素晴らしい功績を残して現在に至っていらっしゃいます。突然の事故は、人生最大の危機というべきとても落ち込むような経験だと思うのですが、マセソンさんはいつも前向きでいらっしゃいますね。その原動力は何なのでしょうか?

 

A.スポーツですよ、スポーツ。大学1年の時、大怪我をして自分の将来に大きな不安を抱きました。けれども障害があってもスポーツはできるとわかったとき、アスリートというアイデンティティーだけは持ち続けることができました。そのお蔭で、生活していく上のモチベーションや、幸せの感じ方などを維持することができたのだと思います。スポーツをしているときは、できない事を考えるのではなくて、どうすればもっと速く、もっと強くなれるかと競技力の向上に考えを集中しました。障害のことも忘れられました。スポーツがなければ、「あぁ、私これが出来ない」とネガティブになっていたかもしれません。しかし、スポーツをしていたからこそ常に前向きになることができたのだと思います。私自身はもう競技からは離れましたが、二人の子ども達のスポーツで毎日を忙しく過ごしています。冬場は家族でクロスカントリースキーをしています。

 

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北海道釧路市での合宿で練習するマセソンさん (提供 朝日新聞社,1999年1月27日)

 

Q.パラリンピック、障害者のスポーツについては以前からご存知だったのですか?

 

A.それまで全く知らなかったのですが、事故で入院しているときにお世話になったお医者様がたまたまパラリンピックについてよくご存知でした。病院で寝たきりとなり、脚が動かないことを宣告された私に、比較的早い時期に「まだスポーツができる」と教えてくださったのです。もともと水泳をやっていたので、初めて病院から外出許可が出たときにプールに連れて行ってもらったんですよ。不安もありましたが、医師と一緒なら何かあっても大丈夫、という気持ちでした。その出会いに感謝しています。落ち込んでいる時期には「どうして私がこうなってしまったんだろう」と悩むこともありましたが、自分が集中できることを早い時期に見つけ出すことができたのは幸運でした。

 

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スポーツこそが私の原動力、と語るマセソンさん

 

Q.その後、障害のある選手へのコーチングを学ぼうと思ったきっかけは、何ですか?

 

A.徐々に海外の大会に出ることが多くなり、ジュニアの選手が活躍する姿に心を打たれました。私は当時20代でしたが、日本では「若手の新人」と言われていたんですよ。でも、外国ではもう10代の選手が出てきていて、ジュニアのための指導者層、選手層も厚かった。でも、残念ながら日本の状況はそうではありませんでした。ジュニアの選手を育てていかないことには、競技の将来もないと気付いたのです。そこで、「ジュニアを育てるために指導者が必要なのであれば、私が大学で勉強してみよう」と決意を固めました。

 

また、障害のある女性の参加で言えば、アスリートとしての参加率は世界で7%に留まっていると言われています。つまり、世界の93%の障害を持つ女性はスポーツに参加していないのです。私を含めスポーツができる者は、本当に恵まれています。日本でも競技人口はまだまだ少ないです。

 

Q.この6月に国連のジュネーブ本部でスピーチされていましたが、その感触はいかがでしたか?

 

 A.私にとって、ジュネーブの国連での時間はとても有意義でした。国連の人権というと、対立している国々が向き合っているという堅苦しいイメージがありました。ところが、人権というテーマの下でスポーツは意見の異なる人々や国々を一つにまとめる力があると感じました。オリンピックやパラリンピックを上手に活用すれば、人々の間の共通理解を向上させる助けになる ― そんなスポーツの力を実感しました。

 

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国連ジュネーブ本部で開催されたパネルディスカッション 「スポーツとオリンピック精神 - 障害を持つ人々を含むすべての人々の人権のために」に参加。ザイド・フセイン国連人権高等弁務官(左)と

(提供 OHCHR_Danielle Kirby、2016年6月28日)

 

2020年東京パラリンピック大会の成功をめざして、私のできること

 

Q.現在のお仕事について伺います。日本財団パラリンピックサポートセンターに勤めていらっしゃいますね。どのようなところなのですか?

 

A.日本財団パラリンピックサポートセンターは、2020年東京パラリンピック大会の成功を目指し、パラリンピックの普及、パラリンピックムーブメントを推進できるよう、2015年に設立されました。場所は日本財団ビル4階にあります。パラリンピック競技団体の共同オフィスとしての場の提供のほか、学校や企業を対象とした教育事業、障害のある人もない人も一緒に参加できるイベントの実施などを行っています。ユニバーサルデザインの画期的なオフィスで、素晴らしい職場環境です。

 

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G7伊勢志摩サミットの関連イベントとして行われた「パラスポーツ体験イベント」で、安倍昭恵首相夫人をはじめとするファーストレディの方々と。(提供 日本財団パラリンピックサポートセンター,2016年5月27日)

 

Q.そのパラリンピックサポートセンターでは、具体的にどのようなお仕事をしていらっしゃるのですか?

 

 A.日本国内外におけるパラリンピックムーブメントの推進事業やパラリンピックを通じた国際貢献事業を担当するほか、日本国内でのパラリンピック教育の教材作りを国際パラリンピック委員会と一緒に進めています。2012年のロンドン大会では開催の4年前から「ゲット・セット(Get Set、 準備しよう!という意味)」という教育プログラムが実施され、子ども達のパラリンピックへの関心を高め、知識を増すよう様々な工夫がされました。「ロンドンのパラリンピック会場はこの教育プログラムのおかげで満員になった」とも言われているほど、「ゲット・セット」には大きな影響力があったのです。これを受けて、2020年東京パラリンピック大会に向けては、国内におけるパラリンピック教育を、日本パラリンピック委員会日本財団パラリンピックサポートセンターが中心となって進めていくことになりました。

 

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日本体育大学での特別プログラムにコーチング・スペシャリストとして参加。プログラムには世界各国からコーチが参加し、選手の実力を引き出す指導法について議論が行われた (2016年7月11日)

 

Q.この開発中の教育プログラムの特徴は何ですか?

 

A.パラリンピックを身近に感じ、興味関心を寄せてもらえるように、また、先生方が使いやすい教材にできるよう、現場の声を反映させながら作っています。宿題に親を巻き込むような問いかけを意図的に盛り込み、子どもが習ったことを自分の言葉で家庭でも伝え、父母や祖父母にも学んでもらう「リバース・エデュケーション」という方法も盛り込んでいます。小学生など小さい時に、障害のある人に接し、そのような方々のことを身近に学ぶことで、差別や先入観を持たない子どもに育ってほしいという思いが根底にあり、同時に知らず知らずのうちに親たちも巻き込むという形です。ロンドンパラリンピックの際、約270万枚売れたチケットのうち75%は家族連れでした。「ゲット・セット」のおかげで、子ども達が会場に足を運びたくなる。そうすると兄弟も親もついて行くのでチケットの売り上げ枚数も大きく伸びたと言われています。私も教育プログラムの効果に大きな期待をしています。パラリンピック教育を通じて、パラリンピックのファンを増やすだけでなく、多様性あふれる共生社会が日本でも広がれば、と願ってこの仕事に関わっています。

 

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子ども記者にパラリンピックについて説明するマセソンさん (提供 日本財団パラリンピックサポートセンター)

 

障害者スポーツと日本

 

Q.日本での障害者とスポーツの現状について教えて下さい。

 

A.まず、日本では障害者が簡単にスポーツに親しめる環境が、北米と比べて整っていないように感じます。例えば体育館を使おうとしても、「車椅子の方は危ないので使わないでください」、「前例がないので」、「安全が確保できないので他のところでお願いします」、と言って断られることが未だにあります。北米ではスポーツをする権利は広く認知され、いつでもどこでもみんなと同じように楽しむ権利が与えられており、障害のある人が当たり前にコーチする姿も見られます。日本では、インフラ整備や受け入れ体制に限らず、社会の仕組みや管理をしている人々の考え方も様々で、障害があることがネックになってスポーツをしたくても簡単に出来ないという状況もあると感じます。カナダで、常に特別な受け入れ態勢があるという訳ではないですが、逆に特別扱いもされません。でも、臨機応変な対応にはあらゆる場面で感心させられます。

 

Q.パラリンピックを目指し、障害者スポーツの育成強化をしていく上で日本では特にどこに重きを置いているのですか。

 

A.最近は「タレント発掘プログラム」が積極的に行われています。日本体育大学の辻沙絵選手がパラリンピックの代表に決まりましたが、彼女はもともと日体大ハンドボールをしていました。パラリンピックで適した競技がないかと適性検査を受けたところ、彼女は短距離により適しているということで、短距離に転向し、それでリオ出場に決定しました。やりたいと思った競技が自分の適性に合っているのかを評価してくれる人は今までいませんでしたが、このようにデータを解析して「あなたなら、きっとこっちが向いているだろう」という新しいアプローチが、2020年の東京パラリンピックをきっかけに増えてきています。冬季の競技から夏の競技に転向してみるといった競技間の移動も徐々に出てきているようです。

 

バリアがあってもバリアを感じない社会へ

 

Q.日本では「共生社会の実現」によって障害者の方々とのインクルーシブな社会を目指しています。一方で、まだまだ課題はあるようでが、マセソンさんから見て障害者の方々にとって住みよい社会という点で、何かご提案などありますか。カナダとの比較でもよいですが。

 

A.バリアフリーについては、こんなことがありました。日本で会議に参加していて車いすでも利用出来るトイレの場所を聞いたら、「地下に降りて隣のビルに通路で渡ったところにあります」と。5分や10分の休憩時間で戻って来られない距離だと感じました。インフラ整備に関しては、実際に使う人のことをもっと考えていただければ、と思うこともあります。同じお金をかけるのであれば最初から当事者の声をくみ取っていただければよかったのに、という残念なケースがあります。エレベーターやスロープの設置の際、最初に当事者の意見を聞いてくれれば、「この向きが使いやすい」と提案できるのですが、出来上がった後に直すことは難しいですよね。

 

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マセソンさん、家族と。日本財団パラリンピックサポートセンターにて。(2016年 夏)

 

Q.住んでいらっしゃるカナダと比べてもいかがですか。カナダに学ぶべきところも多いでしょうか?

 

A.そうですね。カナダもインフラ整備が100%できている訳ではありません。違う点は、インフラが整備されてないところでも周りにいる人たちが助けてくれるので、バリアがあっても私はバリアを感じないんですよ。日本だと、例えば私が電車に乗るとき、大抵は自分で乗れるのですが、ほんの少し段差が高すぎて自分ではどうすることもできないことがあります。すると、そこにいる人たちに助けを求めると、駅員さんを呼んできますと言われることがありました。特別なスキルなんていらないし、ちょっと手を貸してくれればいいのに「どうしていいかわからない」、「私にはスキルがないから助けることができない」と感じてしまうからでしょうか。

    

また、私が日本に一時帰国して違和感を覚えることがあります。こんなに人口が多いのに町に障害者がいない、ということです。どこの国でも障害者の比率はだいたい同じです。カナダでは車椅子に乗っている方や歩行器を使っている方はあちこちにいらっしゃいます。それが日本では、人は驚くほどいるのに車椅子に乗っている方にはほとんど会わないので違和感があります。日常生活の中で、障害のある人を見たり接する機会が少ないので、障害のある人への接し方に慣れていないのではないかという印象を受けます。だからこそ、私自身、感じたことを言葉にして伝えることの大切さ、言うべき立場の者がきちんと伝えていかないといけないという使命を強く感じています。

 

息子達の学校にも、車椅子に乗っているお友達がいます。先生に言われたからやるのではなく、お友達のためにドアを開けたり、下に置いてある靴を移動させたり、子ども自身で状況を見て判断して行動しているようです。障害のある人間を見たことがない、慣れていない状態で教科書だけで教えても「共生する社会」は浸透しにくいと思いますので、やはり経験が必要なのでしょう。

 

Q.ところで、マセソンさんが日本に出張しているときは、どなたがお二人のお子さんの面倒を見ていらっしゃるんですか?

 

A.夫です。毎日お弁当を作ってくれています。この仕事をお引き受けする際、やってみたい仕事ではあったものの、海外出張で家を不在にすることも増えるので、果たして自分にできるのか、母親業と兼業できるのかが一番の悩みでした。そのため「やりたいけど無理だろうな」と思っていたのですが夫が「いや、僕が競技をしていたときは何も文句言わずに支えてくれたじゃないか。今は君の番なんだから、家の事は気にしないで、いい仕事をしておいでよ」と背中を押してくれました。家族の協力があってこそ今こうして仕事をすることができます。

 

Q.最後になりましたが、日本の若者に、期待も込めてメッセージをいただけますか?

 

A.人に何か言われたから、ではなくて、自分で考えて行動できる勇気を大事に大人になってほしいと思います。世間体などを気にしないで、分からないことを素直に聞く勇気、やりたいことを素直に行動に移せる勇気があったらものすごく変わると思います。そのような一人ひとりの心の持ち方で、誰にとっても住みよい社会ができるのだと思います。

 

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日本体育大学の玄関で。オリンピックの制服を着たライオンを囲んで国連広報センターのスタッフおよびインターンのJenny Hollowayと。

 

 

 

 

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(2)

回  京都大学宇宙総合学研究ユニット教授 土井隆雄さん

~人生のチャレンジャー~

 

1985年に日本人で初めて宇宙飛行士に選ばれ、1997年に日本人として初めて船外活動をし、2008年には日本初の有人実験施設「きぼう」を国際宇宙ステーションに取り付けた土井隆雄(どい たかお)さんに、「初めて」という言葉は切っても切れません。2009年9月から2016年初めまでの6年半の間、オーストリアのウィーンにある国連宇宙部の宇宙応用専門官として、世界で初めての宇宙飛行士出身の国連宇宙部の職員として活躍したのち、2016年4月京都大学の「宇宙総合学研究ユニット」(宇宙ユニット)の教授に就任しました。「宇宙ユニット」は宇宙理工学に限定されない、部局の枠を超えた幅広い分野にわたる学際的な科学の展開を目指し、こうした研究ユニットを持つのは世界でほかに例がない、とのこと。大学の研究室に土井さんを訪ね、国連での経験やチャレンジを続けるスピリットについてお話をうかがいました。

 

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 STS-123ミッションクルー集合写真: 国際宇宙ステーションに取り付けられた「きぼう」日本実験棟船内保管室を背景に浮かぶ(前列右端) 提供:NASA

 

                    土井 隆雄 さん

【宇宙工学・天文学専攻、工学・理学博士。 1997年、スペースシャトル「コロンビア号」に搭乗し、日本人として初めての船外活動を行なった。2008年、スペースシャトル「エンデバー号」に搭乗。ロボットアームを操作し、日本初の有人宇宙施設「きぼう」日本実験棟船内保管室を国際宇宙ステーションに取り付けた。2009年から2016年にかけて、国連宇宙部で国連宇宙応用専門官として宇宙科学技術の啓蒙普及活動に取り組む。2016年4月より京都大学宇宙総合学研究ユニット特定教授に就任。2002年と2007年には超新星を発見する。】

                       

 

根本: 2016年1月にまだ国連在任中に休暇で一時帰国なさった時にお目にかかりましたが、その頃よりも何だか若返りましたね! 

 

土井: まだ慣れないことも多いですけれど、若い人たちに教えるのは楽しいですから。こちらがエネルギーをもらっています(笑)。大学には運動も兼ねて、自転車で通っていますよ。京都をエンジョイしています。

 

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京都大学総合生存学館(思修館)で行われた山崎直子宇宙飛行士の特別講義に参加した時の集合写真(前列左から4番目:土井さん) 提供:京都大学

 

 

根本: 6年半国連で働いた経験は、土井さんの人生にとってどんな意味を持ちますか?

 

土井: 非常に大きな新しい経験をさせてもらった6年半だったと思っています。それまで僕は宇宙開発の最前線で、人間世界を宇宙に広げていく前線で20年以上仕事をしてきて、言ってみれば「宇宙バカ」だった。2回目の宇宙飛行から帰ってきた時に、「宇宙から見た地球は素晴らしいけれども、自分は地球のこと、地球に暮らしている人々の生活や文化や言語については知らない、と思ったんです。世界のことをもっと知りたい、そう考えて国連で働くことを選びました。国連宇宙部は、宇宙空間の平和利用のための重要な委員会の事務局を務め、開発途上国が自国の開発のために宇宙科学技術を利用できるように支援するプログラムを持っています。国連宇宙部で、自分の専門性を活かしながら人生経験を広げることができたと感じています。

 

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国連宇宙部時代、 ウィーン市役所で開かれた国連と市民の交流会にて、国連宇宙部の宣伝に駆けつける(筆者提供)

 

 

根本: 宇宙開発も多国籍ではありますが、参加しているのは先進国中心ですね。国連開発途上国も重要な加盟国で、関わる国がもっと多いですね。

 

土井: 宇宙ステーションに参加しているのは確かに先進国中心の15ヶ国ですが、国連の仕事で訪れた国々では、開発途上国も含めてすべての国が宇宙開発に興味を持っているんですね。宇宙を利用してリモートセンシングによって自国の衛星写真を撮って農業や災害対応に役立てたり、地図を作ったりする訳ですね。同時に、人が宇宙に行くということにも関心を持っています。もちろん人が宇宙に行くためにはお金がかかるので、限られた国しか有人宇宙開発をやっていませんが、一人ひとり、特に若い人たちと話をしていると、「宇宙に行きたい!」という人たちがいっぱいいます。非常に印象に残っているのは、ナイジェリアの大学で宇宙の話をした時のことです。私の話が終わってから、一人のナイジェリアの女子学生が来て、「私はどうやったら宇宙に行けますか?宇宙飛行士になるには、どうしたらいいですか?」という質問をしたんですよ。これは素晴らしいと思いました。ナイジェリアはアフリカの中で宇宙に最も投資している国のひとつですが、その中で学生の皆さんが「宇宙に行きたい」という強い意欲を持っている。宇宙というものをもっと世界に開いて、オープンに参加してもらって、誰でも宇宙の恩恵を受けられるようにしたいと思い、そういう活動を心掛けてきました。

 

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有人宇宙技術のための国連/コスタリカワークショップ(2016年3月7日−11日)中に開かれたInternational Astronaut Forumが、現地の新聞に取り上げられた。サンホセの国立競技場に8500人の少年少女達が集い、世界の7カ国からやってきた宇宙飛行士と宇宙への夢を語り合った。(筆者提供)

 

 

根本: どの国でも宇宙の恩恵を受けられるようにということでは、土井さんは国連と日本との連携で素晴らしいプロジェクトを手掛けられましたね。

 

土井: 「KiboCUBE」です。宇宙ステーションの「きぼう」日本実験棟には大変優れた機能があるんですね。「きぼう」のモジュールにはエアロックがあって、このエアロックとロボットアームとを駆使して超小型の衛星を宇宙に放出できるという、国際宇宙ステーションで唯一のユニークな能力を持っています。低コストでできる超小型衛星は地球観測や災害対応などの目的に活用できますから、これを「きぼう」から宇宙に放出できれば、お金を掛けて衛星を打ち上げることのできない国々にも宇宙空間の利用の機会を提供できるのではないか、と。日本独自の宇宙技術を世界にアピールする機会にもなります。関係者を説得してまわって、2015年9月に国連宇宙部とJAXAとで協定を締結することができました。

 

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STS−87ミッション中に行われた船外活動。宇宙ステーションで使われる予定の宇宙クレーンの操作試験を実施している。背景にサハラ砂漠が写っている。 提供:NASA

 

 

根本: 4月に教授に就任なさって、6月から授業をスタートしていらっしゃる京都大学の宇宙ユニットのパンフレットを拝見して、宇宙の研究は、理工学はもちろん、医学、農業、通信、環境、エネルギー、気象、法律、心理学など大変幅広い分野を総合して成り立っているんだなあと感じました。このような総合的な研究は他でも行っていることなんですか?

 

土井: いえ、日本で例がありませんし、世界でも常設の研究ユニットとしては京大が初めてですね。理工学の専門家ばかりではなくて、人文社会科学の専門家、そして芸術家たちも集ってもらって、新しい宇宙総合学を作ろうとしています。1000年の歴史を持つ京都だからこそ、1000年先の未来を見る先見性と京都という場の力を感じます。宇宙ユニットでは、平成28年度後半から、新しいプログラム:有人宇宙活動のための総合科学教育プログラムの開発と実践を始める予定です。これは、有人宇宙活動に必要な新しい学問体系を創り上げ、学生の皆さんに有人宇宙活動、言い換えれば、人間が宇宙空間で行う活動のための基礎知識を教え、新しい事にチャレンジしていく強い心を育てようという教育プログラムです。この教育プログラムを受けた学生の皆さんの中から、将来、日本の宇宙開発を牽引していく人材が育ってくれればと思います。

 

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STS−87ミッション: スペースシャトルコロンビア号のミッドデッキで、宇宙で初めての日の丸弁当を食べる。ストローの付いている容器に入っているのはワカメの味噌汁。 提供:NASA

 

 

根本: マット・デイモン主演の映画『オデッセイ(原題:The Martian)』でも、火星で農業をしていましたね。

 

土井: 現実はあそこまで進んでいるわけではありませんが、もちろん宇宙空間に人間が住もうとすると農業は大切な分野です。農学部や他の学部の先生たちにも僕たちのユニットに関わってもらっています。

 

根本: いろいろなアクターを巻き込むという点では国連で随分と鍛えられたのでは?

 

土井: 宇宙の現場では目標は一つですが、国連の場では国益のぶつかりあいもあるし、必ずしも見ている方向が同じとは言えません(笑)。苦労もありましたが、その分いろいろと鍛えられた。京都では、若い人を育てる今の仕事に新たなやりがいを感じています!若い皆さんは、全員が素晴らしい力を内蔵して、あらゆる事が可能です。ただ、自分の力に気付いていない人が多いようです。その力を全力で何かに注ぐことができたら、素晴らしい仕事をすることができる。そのためには、自分で全身全霊をかけることができる事、自分の大好きな事を見つける手伝いをしたいと思っています。若い皆さんには、世界で自分だけしかできない事をしろ、と言っています(笑)。

 

 以下より、土井さんを含む世界各国の宇宙飛行士から若者に向けてのメッセージがご覧いただけます。

Messages from Space Explorers to future generations

 

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京都大学の土井さんの研究室で ©UNIC Tokyo

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (12・最終回)

シリーズ最終回は、WFP国連世界食糧計画(国連WFP)南スーダン事務所で2012年から政府連携担当官及びプログラム・オフィサーとして勤務している橋本のぞみさんです。南スーダンは独立直後の国家建設の時期を経て、内戦の勃発、和平合意と暫定政府の樹立、さらには紛争の再燃と経済危機と、情勢が激動しています。そのような中、橋本さんが所属する国連WFPは、人々の命と健康を守るために、無条件で食糧を提供する緊急支援と並んで、支援に頼らずに自活していけるようにするための自立支援とを、状況に応じて柔軟に調整することで使い分け、南スーダンにおける支援を継続してきました。

 

第12回 WFP国連世界食糧計画(国連WFP)南スーダン事務所 橋本のぞみさん

飢餓のない南スーダンを目指して〜紛争を乗り越え自立へ〜

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171232j:plain    写真:活動現場出張中の筆者。自立支援プロジェクトの参加者及び同僚と(2016年7月)Photo: WFP 

                                                        橋本 のぞみ(はしもと のぞみ)

                                WFP国連世界食糧計画(国連WFP) 南スーダン事務所 政府連携担当官

東京大学教養学部教養学科卒業後、中国留学を経て中国及び日本にて民間企業勤務。2006年、米国コロンビア大学国際行政学院で国際学修士取得。在ウガンダ日本国大使館で北部ウガンダ復興及びインフラ整備支援に携わった後、2009年より国連WFPに勤務。ウガンダ事務所で政府連携担当官及びプログラム・オフィサーとして勤務した後、2012年1月より、南スーダン事務所勤務

 

2012年1月、私は独立後の興奮さめやらぬ南スーダンに赴任しました。新国家建設に立ち会うという機会を得て、私自身もわくわくと南スーダンへ向かったものです。それから約4年半、独立直後の国家建設の時期を経て、内戦の勃発、和平合意と暫定政府の樹立、さらには紛争の再燃と経済危機と、国の状況は刻々と変化し続け、まるでジェットコースターに乗っているかのようでした。私が勤務するWFP国連世界食糧計画国連WFP)は、飢餓のない世界を目指して食糧支援を行う国連機関ですが、この間、変りゆく情勢に応じていかに最適な支援を実施するかということに腐心してきたように思います。

 

新国家の基盤作り

赴任当初の南スーダンにおいて、最大の課題は新国家の基盤作りでした。40年にわたる独立紛争の結果、南スーダンには社会基盤(インフラ)もこれといった産業もなく、食糧事情にしてみても農業が脆弱で自給自足がおぼつかない状況でした。

 

食糧不足には様々な原因があり、それに応じて最適な援助の形も変わります。紛争や自然災害の発生時には、人々の命と健康を守るため、無条件で食糧を提供する緊急食糧支援が必要です。独立紛争中の南スーダンにおいては、このような支援が主軸となっていました。他方で、ある程度の生活基盤がありつつも慢性的に食糧が不足している場合には、支援に頼らずに自活していけるようにするための自立支援が必要です。この場合には、無条件に食糧を提供するのではなく、公共の役に立つ工事などに参加し肉体労働をすることを条件とし、その労働の対価として食糧を提供する形をとります。私が赴任した当初、国連WFPはまさに緊急人道支援から自立支援へと、大きく援助方法を転換しているところでした。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171431j:plain自立支援プロジェクト。道路建設作業に参加する対価として食糧が提供される(2014年6月)Photo: WFP

 

2013年4月から、希望がかなって私はこの自立支援を担当していました。当時の南スーダンの農村においては、紛争こそ終わったものの、インフラは未整備で、自然災害が多発し、人々の技術や知識は不足しているという、極めて脆弱な状況でした。人々は、雨量の変動に対応できずに不作に襲われ、生活を向上させる学習機会も少なく、今日明日の食糧確保に奔走していたのです。そこで、国連WFPの自立支援プロジェクトでは、農業の効率化、災害への対応力強化、そして地域の基礎インフラづくりなど、自活を助ける支援を行ってきました。例えば、洪水の多い地域には堤防、干ばつに襲われやすい地域にはため池を作ったり、果樹の植林や農地拡大のプロジェクトを実施したりし、働いた人には報酬代わりに食糧を配給しました。こうすることで、人々は目先の食糧探しに奔走することなく、生活を改善する活動に専念できるわけです。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171515j:plain自立支援プロジェクト。ため池の建設作業に参加する対価として食糧が配布される(2013年2月) Photo: WFP/Nozomi Hashimoto)

 

紛争下でも自立支援を継続

2013年12月、紛争が再燃した日も、私たちは翌年に向け、自立支援プロジェクトの準備に邁進していました。しかし、ジュバ市内では激しい戦闘が繰り広げられ、週の終わりには、私や自立支援に携わる同僚は国外へ一時的に退避することを余儀なくされました。

 

それから2年半。戦闘が起きた地域では、被災者の命を守ることが優先されたため、救命に直結しない自立支援は中止となり、緊急食糧支援に切り替えられました。紛争の影響を直接被っていない地域でも、不安定な情勢や職員の配置転換などの影響で、活動を予定通り行うことは難しくなりました。

 

しかし紛争の只中にあっても、可能な範囲で自立支援を継続することはきわめて重要です。緊急食糧支援は一時的には非常に有効な支援ですが、根本的に飢餓を解消するものではありません。それに対し、自立支援は今の食糧不足を補うだけでなく、自給自足に必要な基盤を作るものであり、南スーダンの未来につながります。そのため、国連WFPは、情勢に応じて緊急支援と自立支援を使い分け、実施計画を柔軟に調整することで自立支援を継続してきました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171550j:plain畑で作業する、自立支援プロジェクトの参加者 WFP/Nozomi Hashimoto

 

そのためには、様々な工夫がありました。例えば、全世界の国連WFP事務所から何十人もの職員を緊急招集し、人員不足に対応しました。安全管理の面でも、治安や紛争の状況に関して忍耐強い情報収集を行いました。また、各地で地方自治体や地域社会との協議をおこない、課題や地元の意見を確認しました。資金面では、日本を始めとする支援国が、紛争中にも自立支援への資金援助を続けてくれたおかげで、活動を継続することができました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171630j:plain地元の問題やプロジェクト参加者の要望などの聞き取り (2014年6月)  Photo: German Agro Action

 

またしても紛争再燃、でも諦めない!

昨年から今年の初めに向けて、南スーダン情勢は好転しているように見えました。2015年8月には和平合意が調印され、2016年4月には暫定統一政府が成立、国際社会は早くも紛争後の復興に向けた協議を始めていました。しかし、政治プロセスの前進の影で食糧問題は深刻化していました。内戦の影響で、唯一の国家収入だった原油の生産は落ち込み、世界的な原油安もあって政府の歳入は激減しました。収支バランスの悪化により南スーダンの通貨は暴落し、食糧を含めほとんどの物品を輸入に頼っている南スーダンでは、生活必需品の価格が高騰しました。南スーダン政府統計局によると、現在南スーダンのインフレ率は600%を超え、不名誉にも世界一となっています。そんな中、高騰した食糧を買えない人々は、食糧を求めて近隣国へ難民となって流出しています。紛争が続き非常に厳しい人道状況におかれているスーダンダルフールにさえ、今年に入って7万人もの南スーダン人が難民となって押し寄せているのです。

 

このような経済の崩壊による食糧危機は、2015年までの紛争や自然災害による局地的な危機と違って、南スーダン全国に甚大な影響を及ぼしています。事態を受け、国連WFPは今年、これまで自立支援を中心としてきた地域の一部で、緊急食糧支援を始めました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171707j:plain南スーダンの人々の命綱となっている食糧支援 UN Photo/JC McIlwaine

 

今年7月初旬には首都ジュバで武力衝突があり、さらに事態が悪化しました。商業・流通の中心であったジュバからの供給が絶えた地方都市で、品薄により更に物価が高騰したのです。これ以上の食糧難を防ぐために、国連WFPは大量の食糧を現地に空輸することにしました。ジュバでの戦闘を受け、私を含め数多くの国際職員は再度、近隣国への一時退避を余儀なくされましたが、最も必要な支援を届けるべく、不眠不休の努力を続けています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171753j:plain 緊急食糧支援のため、食糧を空中から投下 UN Photo/Isaac Billy

 

南スーダンにおいては、この4年半、人道危機から早期復興、そして開発へと続く道のりがスムーズに進まず、一進一退を繰り返してきました。よく、「人道支援から復興・開発への継ぎ目のない支援」が大切だといわれますが、それを実現するには、状況を常に把握し、支援方法を変える柔軟性と対応力が必要だと感じています。

 

私たちの最終目標は、「将来国連WFPが南スーダンに必要でなくなること」、すなわち南スーダンの食糧問題が解消されることです。道のりはまだまだ遠いですが、この目標がいつか達成されることを信じて、支援を続けています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160818171829j:plain国連WFPの自立支援プロジェクトの一環として、脱穀作業を行う人々 Photo: WFP/Samson Teka

 

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (11)

シリーズ第11回は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 南スーダン事務所 シニア・プログラムオフィサーの柏富美子さんです。UNHCRは、2011年の独立以前から南スーダンの国内避難民、帰還民、そして南スーダン国内にいる難民のための保護・人道支援活動を行ってきました。150万人を超える国内避難民を抱えて未だ情勢が不安定な南スーダンですが、この国が、同時に27万人を越える周辺国からの難民を受け入れていることを忘れるわけにはいきません。今回は難民の人々のストーリーも交えて、柏さんが所属するUNHCRの南スーダンでの活動をご紹介します。

 

第11回 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 南スーダン事務所

シニアプログラムオフィサー 柏富美子さん

難民の保護・人道支援活動を続ける

 

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                                                                        柏 富美子(かしわ ふみこ

                                                   UNHCR南スーダン事務所 シニア・プログラムオフィサー   

2001年にJPOとしてUNHCRチェコ共和国プラハ事務所で勤務を開始。その後、アフガニスタンカンダハール及びジャララバード事務所、ジュネーブ本部のアジア太平洋地域局での勤務を経て、2014年より南スーダンのジュバ事務所にシニア・プログラムオフィサーとして勤務。

 

2011年に独立した南スーダンは世界で最も新しい国。UNHCRは、独立以前から南スーダンの国内避難民、帰還民、そして南スーダン国内にいる難民のための保護・人道支援活動を行ってきました。

 

2013年12月に勃発した国内紛争、そして引き続き国内各地で起きている戦闘により、現在72万人を超える南スーダンの人々が周辺国(ウガンダ、エチオピア、コンゴ民主共和国、ケニア、スーダン中央アフリカ共和国)に難民として逃れ、さらに150万人以上の人々が国内での避難生活を余儀なくされています。更に、今年7月初旬に起きた首都ジュバでの戦闘の再燃は、これまで比較的安定していたエクアトリア地域から、新たに数万人の難民と国内避難民を生み出しています。独立に際して希望を胸に帰還した南スーダン難民の多くの人々が、わずか数年後に再び難民・国内避難民として家を追われている現状は、非常に胸の痛むものです。この人道危機に対して、UNHCRは南スーダン国内及び難民受け入れ諸国で支援活動を行っています。

 

このように150万人を超える国内避難民を抱え、未だ情勢が不安定な南スーダンですが、この国が、同時に27万人を超える周辺国からの難民を受け入れていることも忘れるわけにはいきません。南スーダンは、国境を開放してホスピタリティの精神を持って、庇護を求める周辺国からの難民を受け入れてきました。2016年前半だけで、すでに7000人を超える難民が南スーダンに庇護を求めています。難民と受け入れコミュニティーの関係に問題が生じることもありますが、南スーダンの人々の難民へのアプローチは、「共感」が基本にあります。これは、政府関係者を含む南スーダン人の多くが、過去に難民であった経験があることに関係しているのでしょう。南スーダンの国内問題を考えると、彼らの難民を受け入れ姿勢は特筆すべきものです。

 

 

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スーダン難民のアマル・バキスは、子どもたちに、アジョントック・キャンプに到着して初めての朝食を作っている。南コルドファンからの長い道のりでは、腐った食べ物しか口にすることができなかった © UNHCR/Rocco Nuri

 

 

南スーダンにいる難民の大多数はスーダン人で、南コルドファン及びブルーナイル州で5年近く続いている紛争を逃れてきています。その他、コンゴ民主共和国、エチオピア、中央アフリカ共和国からの難民が、国内にまたがる8ヶ所所の難民キャンプ、またはジュバその他の地方都市で生活しています。UNHCRは、南スーダン政府、国連機関及びNGO団体と協力し、難民の保護活動、支援物資の配布、その他シェルター、医療、水・衛生、教育、自立促進、女性のエンパワメントなど、多岐にわたる支援活動を行っています。また、難民の存在が長期化し、(紛争によりすでに困難な状況にある)受け入れ地域への負担が増すことを受け、現地コミュニティーへの支援、及び難民との平和的共存を目的とした活動も積極的に行っています。

 

祖国で家を追われ、南スーダンで新たな生活を始める難民の人々の暮らしは、困難の連続です。それでも、彼らの多くが、日本を始めとしたドナー国の人々の支援により、必要最低限の水と食料、教育、医療サービスを受け、キャンプで安全に生活することができています。中でも、人々の将来を築く教育支援は、多くの難民にとって、最も大切な支援の一つです。困難な生活環境にもかかわらず、笑顔で、教育の大切さ、将来への希望と夢を語る難民の人々のレジリエンス・強さには、いつも頭が下がる思いです。

 

そんな難民の人々のストーリーを、UNHCRスタッフが行ったファラとサイラのインタビューを通して紹介したいと思います。

 

 

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カヤ・キャンプに住むファラの夢は、教員資格を取ること ©UNHCR/Eujin Byun.

 

ファラ(22歳)は2012年にスーダンから逃れてきた難民の一人です。彼は、南スーダン北部マバン州にあるカヤ難民キャンプで、小学生に英語を教えています。キャンプで一番若い先生です。

 

「それまでも僕の村の周りでは、たくさんの人が爆撃により命をなくしてた。でも、ある日爆弾が僕の家の直ぐ近くに落ちたんだ。これ以上はここにいることはできない。そう思って、その日の夜、着の身着のまま自分の家を離れたんだ」

 

紛争のため、ファラは中等教育を終えることができませんでした。ファラは言います。「でも、僕は決して教育を諦めていない。僕の夢は、勉強を終えて、教員の資格を取ることなんだ」

 

「僕は読書が大好き。目を瞑ると、高く積み重なった本の山の上に座って、世界を眺めている自分が見えるくらいだよ。本がバオバブの木に実ればなぁ、なんて思うくらい。そうそう、バオバブの木は、スーダンの家の思い出なんだ。スーダンにいた頃は、学校が終わると、バオバブの木の下で日が暮れるまで何時間も読書をしていた。本を読んでいると、どんな悩みや辛さからも解放されたんだ」とファラは続けます。

 

「キャンプにる僕の生徒には、良い教育を受けることで、将来のリーダーになる道が開けるのだと信じて欲しい。生徒たちが、授業中に他のことに気をとられると、僕はダンスを踊るんだ。これが、魔法のようにうまくいくのさ。最初はみんな笑いだし、でもすぐに静かになって、勉強に集中するんだ。そういえば、スーダンにいた頃も、よくダンスを踊ったよ — 特に雨が降った後には。村のみんなが集まって、雨を祝福して踊るんだ。それは、本当に純粋な喜びの一時だった」 ちょっと遠い目をして、ファラはそう語ってくれました。

 

 

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ドロ・キャンプに住むサイラ(写真右)の夢はパイロットになって、世界中を旅すること ©UNHCR/Eujin Byun.

 

サイラは15歳。マバン州にあるドロ難民キャンプで暮らしています。彼女も、スーダンブルーナイル州で起きた紛争を逃れ、2011年、家族と共に南スーダンに辿り着きました。

 

「今でも、家を離れた日のことははっきりと覚えています。9月6日の午後4時頃でした。爆弾が私たちの町に落ちて、全てが焼き尽くされました。一瞬にして、逃げ出さなければなりませんでした。私は、当時2歳だった妹のダイアナを抱きかかえて、できるだけ速く走りました。教科書も、成績表も全部家に置いたままです。妹を守る以外は、家から何も持ち出すことはできませんでした。食べ物も飲み物もないまま、5日間道なき道を歩き続けました。当時11歳の私にとって、本当に辛すぎる状況でした」

 

サイラは家族と共に、ドロ・キャンプで新しい生活を始めました。UNHCRが最初にキャンプに開設した小学校で、サイラは勉強を再開することもできました。

 

「私は小学校をこのキャンプで終えました。そして、今でも中等教育を続けています。私の両親は、私の一番の理解者です。まだ10代なのに、友達の多くはすでに結婚しています。でも、私のお父さんは、私が好きなだけ勉強して、教育を終えるようにと、励ましてくれます。お父さんは、私と妹にいつも言うのです。教育が一番大切なことだって。お父さんは私たちに学校を卒業して、自分たちで結婚相手を決めて欲しいと言っています。そして何よりも、私たちに、他の女性に希望とインスピレーションを与えるような、強い女性になって欲しいと思っています」

 

「お父さんは、私に学校の先生になって、他の子ども達のロールモデルになって欲しいと言っています。でも私は、パイロットになって、世界中を旅したいのです。学校の授業で、世界には、スーダン南スーダン以外にも沢山の国があることを学びました。私は全部の国を訪ねてみたい。だから、パイロットになるのが、私の夢を叶える一番良い方法だと思うの。難民キャンプの先の世界を見るという夢を」 サイラは、大好きなお父さんと一緒に、笑顔で彼女の夢を語ってくれました。

 

南スーダンにいる難民の大多数は、祖国の情勢が不安定なため帰還の見通しが立たず、人道援助を引き続き必要としています。また、難民を受け入れている南スーダンの人々も、長引く紛争、そしてそれに伴う経済の疲弊、食料不足など相次ぐ試練に直面し、国際社会のさらなる支援を必要としています。

 

彼らは支援の受益者ですが、全く無力な人々ではありません。ファラやサイラのように、一人一人のストーリーがあり、それぞれの苦悩があり、そして困難を克服し夢を実現する可能性・力があるのだと、日々の活動を通して実感しています。

 

難民・国内避難民と一括りで語りがちですが、その裏には、それぞれのニーズとキャパシティーを持つ個別の人々がいる、そのことを忘れずに支援活動を続けていきたいと思います。

 

南スーダンの人々に一日も早く安定した生活が戻ることを祈りつつ。

 

 

UNHCRのホームページはこちら>>>http://www.unhcr.or.jp/html/index.html

 

 

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (10)

シリーズ第10回は、国連人間居住計画(国連ハビタット)を取り上げます。南スーダン国連ハビタットが実施しているプロジェクトには、日本政府が資金を拠出しているものがあります。例えば、紛争で故郷を離れた国内避難民が再定住するための用地を整備したり、道路を修復する国連ハビタットの事業を日本が資金援助し、実際の敷地造成などの作業も日本の派遣施設隊が行うなど、両者が連携し、国づくりを支援しています。

 

第10回 国連人間居住計画(国連ハビタット

~住民参加型の事業を通じた平和構築~

長期にわたる紛争の後、包括和平合意を経て2011年に独立した南スーダンは、今、復興・開発への長い道のりを歩み出しています。この道のりを阻む大きな課題の一つが洪水対策です。度重なる洪水により家屋や穀物が被害を受け、国内避難民たちの定住を困難なものにしているのです。また、安全な水や衛生設備へのアクセス等、居住環境の整備も重要な問題です。国連ハビタットは、南スーダンにおいて日本政府支援を通じた住民参加型の事業を展開しています。国連ハビタットの住民参加型の事業は、ホストコミュニティと国内避難民・帰還民の協力関係を強化し、事業関係者の開発への取組に対するオーナーシップを高めることにより持続性を確保しています。

 

事業では専門家たちを現地に派遣し、洪水に強いコミュニティの構築、きれいな水の供給、衛生状態の改善、生計機会の提供を通じ、国内避難民・帰還民・そして難民を受け入れるホストコミュニティが共に計画と実施に参画しながら再統合を目指すという、迅速かつ確かな支援活動を行っています。

 

国連ハビタットの住民参加型事業を通して、私たちは次世代のために力を合わせるというコミュニティの絆を学びました」と、ジュル川郡コミュニティ開発委員会会長のボン・マギエット氏は言います。

 

国土住宅都市開発省や州政府、地元自治体の協力を得て、ワウやジュバで実施した事業では、洪水管理対策を施し、地域の人々の住宅や農作地を含めた環境を守り、受益者たちの再統合・再定住をも支援しました。特に堤防やダムを建設し、長さ2㎞広さ5,000エーカーの土地を洪水から守り、増えすぎた水を居住地や農地から遠ざけることに成功しました。これは社会的に取り残された何千世帯もの人々に希望をもたらしました。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160526102644j:plain持ち運び可能な太陽光エネルギーを利用した給水システム。日本が支援し、国連ハビタットが実施した洪水予防、水と衛生、生計向上プロジェクトの一部。ワウ地区アレルチョク地域で (UN-Habitat)

 

また、国内避難民や帰還民を受け入れるホストコミュニティを対象に、安全な水や衛生設備へのアクセス向上、健康や生活環境改善を図り、受益者たちの平和的な再統合に寄与しました。 ハンドポンプや井戸そして給水管を整備しても一握りの人々にしか利益をもたらさず、多くの人々は不衛生で安全ではない水での生活を強いられており、開放井戸や池、川からの水に頼っていました。

これに対し、国連ハビタットは給水システムの向上に取り組みました。ボーリング孔を削孔して水の供給容量を増量し、コミュニティへの給水のスケールアップを図ったのです。この取り組みによって、国内避難民、帰還民、そしてホストコミュニティ、約50万人の生活が改善する予定です。

 

「このプロジェクトは神がお与えくださったものだ。私たちコミュニティの女性や子どもは遠くまで水を汲みに行かなくてもよくなった」と、ワウのアレルチョクに住むディエング・ロング氏は言います。

 

「この水と衛生事業は浄水を供給するだけでなく、人々の健康状態を向上させ、子どもたちがコレラやチフスのような病気にかかるリスクを軽減しています。そして、大きな意味で、過去に部族紛争で戦った人々の平和定着に貢献しているのです」と南スーダンを担当する国連ハビタット シニアオフィサーのトーマス・チェランバは言います。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160129231445j:plain住民たちも給水塔の進捗状況を確認 (UN-Habitat)

 

更に、コミュニティ住民たちは本事業への参画を通じて技術を習得することが出来ます。本事業の実施にあたっては、コミュニティと国連ハビタット間でコミュニティ実施協定を結んでおり、その一環として特に若者への技術習得機会を提供し、今後の生活設計に役立てています。

 

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日本の支援を得て開かれた、洪水予防、水と衛生、生計向上のための住民参加型プロジェクト計画の協議会の様子。ワウ地区アレルチョク地域で (UN-Habitat)

 

また、国内避難民、難民、帰還民及びホストコミュニティに対する支援以外に、自治体政府に対し、インフラ整備計画に関する能力向上プログラムも実施します。

 

「この事業を実施するまで、女性や子どもが水を遠くから汲んでくる際にレイプ事件に遭遇したり、部族間の争い巻き込まれて亡くなることで憎しみに発展するケースなど、住民たちは多くの問題で苦しんでいました」と国連ハビタットのプロジェクトマネージャー、オビオラ・アネネは言います。

 

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水汲みに来る住民たちとプロジェクトマネージャーのオビオラ・アネネさん(右端)(UN-Habitat)

 

紛争で立ち退きを余儀なくされた人々が故郷に戻り、生活をやり直すための第一歩を国連ハビタットは日本政府と共に支援しています。人々の意識改善に取り組み、国内避難民、難民、帰還民とホストコミュニティのネットワークを構築しています。同時に、専門家を派遣し、コミュニティと協働して長きにわたり南スーダンの課題である洪水からの影響を最小限に抑える対策をたてています。これにより、気候変動への対応能力を強化するとともに、持続可能な住居、スラム改善、都市開発、政策や調査、衛生や安全な水の供給、生計等慢性的な問題への解決策を提案しているのです。

 

2016年1月29日、在南スーダン日本国大使館の紀谷大使が、南スーダン政府関係者、地方政府、事業の実施パートナーと共に現場を視察しました。現場に出向いていただくことで多くの人々にこの事業を知ってもらう機会となっています。また、南スーダン政府やコミュニティのプロジェクトに対するオーナーシップを高めることを含めよい結果に繋がっています。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20130125094237j:plain南スーダン日本大使館の紀谷昌彦大使による現地視察 (UN-Habitat)

 

今後、更なる平和定着に貢献し持続可能な開発へと南スーダンを導くためにも、国連ハビタットは同プロジェクトの継続と更なるアップスケールを検討していく必要があると考えています。

 

住民参加型の事業を通じてコミュニティへの意識を高めて人々の絆を強める―平和定着への道は簡単ではありませんが、人々の心にある平和への願いと力を私たちは信じています。

 

 

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日本への感謝を表す住民 (UN-Habitat)

 

2016年7月に入り戦闘が激化、治安が不安定な状態となりましたが、ジュバに駐在するプロジェクトマネージャーのオビオラ・アネネは国連安全保安局(UNDSS)と連携し、状況を注意深く見ながら業務を遂行しています。状況が許す限り、南スーダンの人々と協働したいという国連ハビタットの強い意志は変わりません。

 

国連安全保安局(UNDSS)とは

国連の安全管理体制を統合し、強化する目的で2005年に設置された組織であり、運営上の支援、監視を提供し、国連のスタッフや家族の安全確保を行っている。また、世界を通じその計画や活動を安全に、効率よく実施できるように活動している。

国連安全保安局(UNDSS)ホームページはこちら>>> http://www.un.org/undss/?q=home

 

国連ハビタットについて詳しくはこちら>>> http://www.unhabitat.org/

 

 

シリーズ「南スーダンからアフリカ開発会議 (TICAD VI) を考える」 (9)

シリーズ第9回は、JICA南スーダン事務所の大井綾子さんです。 紛争が長く続き、識字率も低い南スーダンで効率的、効果的に広報活動を行うため、JICA南スーダン事務所は社会的影響力の強い広報アドバイザーを迎えました。ファッションアイコンとして若者を中心に人気のアトン・ディマーチさんと、幅広い人々の目に留まる風刺漫画を手がけるアディジャ・アスィユさんの2人を起用することで、JICAは南スーダン社会で平和や開発に関するメッセージの発信に力を入れています。(この寄稿は2016年7月の戦闘再発の前に執筆されたものです)

 

第9回 JICA南スーダン事務所 大井綾子さん

~平和と開発の情報発信を続ける異色の広報アドバイザーたち~

スーダン時代を含めて紛争の経験が長い南スーダンで、いかに国民に適切な情報を伝達できるか、さらに識字率が20パーセント台の国でどうすれば効果的に広報を行えるか模索しています。JICA南スーダン事務所は、あらゆるメディアツールを通じた取り組みを行っており、今回はその中でも異色の経歴を持つ2人の広報アドバイザーを紹介します。

 

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                                            大井綾子(おおいあやこ)  南スーダン事務所員

                                               (写真:2016年1月の全国スポーツ大会にて、現地の記者と)        

慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、日本テレビ放送網株式会社報道局勤務。退社後、イギリスInstitute of Development Studiesでガバナンスと開発修士号取得。UNDP東ティモール事務所で国内避難民の帰還支援、在アフガニスタン日本国大使館で地方復興とガバナンス支援に携わる。2013年、社会人採用でJICA入構。人間開発部を経て、2015年8月より南スーダン事務所勤務。                          

 

トップモデルになるより祖国の発展に貢献したい

アトン・ディマーチさんは、南スーダンの初代ミス・南スーダンとして「ミス・ワールド中国大会(2012年)」に出場し4位に入賞しました。ミス・ワールド・アフリカにも選ばれた後、モデルとして多数のオファーを受けました。しかし、祖国の発展に直接貢献できる道を選択、2015年2月からJICA南スーダン事務所で広報アドバイザーとして働き始めました。国際関係と外交学を学ぶために大学にも通い、南スーダン文化大使も務めています。

 

                            

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                     「祖国の発展に貢献することが使命」と語るアトン・ディマーチさん(JICA)

 

ディマーチさんのファーストネーム「アトン」は「戦争」を意味します。1983年から2005年まで続いたスーダン内戦の最中、1988年に生まれたことから名付けられました。「戦争を忘れてはならないという教訓を込めたこの名前が、私の使命を表している」と話し、祖国の平和を願うその想いは強いものがあります。

 

幼少期からミス・ワールドの舞台に立ちたいという夢を持ち、努力を重ねてきたディマーチさんは、記念すべき独立の年に初代ミス・南スーダンとなり2012年の中国大会に出場。本選でも116か国からの参加者の中で4位入賞を果たすと同時に、「ミス・ワールド・トップモデル賞」と「ミス・ワールド・インタビュー部門最優秀賞」を受賞。その夢を実現させ、「ミス・ワールド・アフリカ」や「アフリカ大陸美の女王」として、国内だけでなく世界中にその名が知られるようになりました。

 

そんなディマーチさんがJICAの広報アドバイザーに就任したのは、知人の紹介でJICA南スーダン事務所員と知り合い、日本の支援を知ったことがきっかけでした。南北包括和平合意(CPA)が署名され、南スーダンに国民統一政府が樹立された2006年にJICAは、南部スーダン向けの初めての協力案件「ジュバ市内・近郊地域緊急生活基盤整備計画調査」を開始しました。その後もインフラ整備や保健、教育など様々な側面から南スーダンの復興を支援してきました。中でも彼女が強い興味を覚えたと話すのは、ナイル架橋計画(南スーダン名ではフリーダム・ブリッジ)です。

 

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サルバ・キール南スーダン大統領(左)も出席したナイル架橋の起工式に出席した              ディマーチさん(右から3人目)    (JICA南スーダン事務所)

 

首都ジュバを東西に分断するナイル川の両岸を結ぶ架橋計画は、国際物流面の円滑化だけでなく、地元の雇用創出、さらには新しい経済活動をも生み出す可能性を持つとその効果に期待を寄せています。また、2013年12月に首都ジュバや各地で暴力行為が深刻化した際もJICAが支援を続けたことも、広報アドバイザーになる決断の後押しになったといいます。

 

ディマーチさんは現在週3回、事務所に勤務しています。地元メディアとの関係構築、プレスリリースなど広報資料作成、イベント企画などの広報業務にあたっており、その知名度と人脈を活かしてJICA事業の広報や農業など開発課題の啓発に大きな成果を挙げています。今後は、ジェンダーへの取り組みにも力を入れ、より多くの人が政府開発援助(ODA)に関心を持ってくれるよう、世界のミス・コンテスト関係者のネットワークを活用した広報活動も行っていきたいと考えています。

 

人気風刺漫画家がメッセージ発信

今年、JICA南スーダン事務所にとても嬉しいニュースが入ってきました。2月13日、主要な市民社会組織Community Empowerment for Progress Organization(CEPO)が毎年発表しているメディア賞漫画家部門で、当事務所の広報素材制作担当官として勤務している風刺漫画家アディジャ・アスィユさんが受賞したのです。この賞は、平和・民主主義・人権などの推進のため、南スーダンの人々に有用な情報発信を行った漫画家に贈られるものです。アスィユさんは、当事務所との契約で農業などの開発課題について南スーダンで発行されている主要英字紙に風刺漫画の連載を行っており、国民にとって重要なテーマを分かりやすく伝えたことが評価されたのでした。

 

f:id:UNIC_Tokyo:20160713144432j:plain灌漑システムを夢みて”

 

当事務所は、開発課題の啓発を含めた広報活動に力を入れています。識字率が20%台と低い南スーダンで、漫画を通じて南スーダンの重要な開発課題を考えてもらうため、人気漫画家であるアスィユさんに2015年6月から広報素材制作担当官として勤務してもらっています。アスィユさんは週4回、農業開発などに関する風刺漫画を掲載しています。国家歳入の98%を依存する石油の代替産業育成として、JICAは農業開発マスタープランの策定などを支援しており、アスィユさんは灌漑整備の重要性と農民の苦労や、これまで産業として十分な育成が行われてこなかった林業および漁業の潜在性などを風刺漫画で伝えてきました。

 

 

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“川には魚がたくさん”

 

識字率は低いものの、南スーダンでは英字紙、アラビア語紙を含め10紙以上が発行されるなど、活字メディアは盛り上がりを見せています。字の読めない人でも掲載されている漫画は見る人も多いとのことで、また、政治家をはじめとする要人もアスィユさんの漫画を見ており反響が寄せられています。例えば、市場で地面に座って物を売る母子を描いた風刺漫画(1)が新聞に掲載された後、南スーダン経済団体連合会の会長が市場の団体にテーブルを寄付してくれました。また、職業訓練センターが農村をつなぐ様子を描写した漫画(2)を掲載した際には、労働省がこの漫画を引用し職業訓練センターの必要性を訴えました。

 

風刺漫画(1)

f:id:UNIC_Tokyo:20160713144650j:plain “品物はテーブルの上に並べたいけど・・

 

 

風刺漫画(2)

f:id:UNIC_Tokyo:20160713144731j:plain職業訓練が農村開発につながる”

 

JICA南スーダン事務所では、引き続きディマーチさんとアスィユさんの知名度を活用した啓発および広報活動を展開していきます。今後は、ディマーチさんによる世界のミスとのネットワークを通じたメッセージ発信や、アクィユさんのこれまでの作品をまとめた本の出版、プロジェクトで策定するガイドラインの漫画の作成などを通じ、重要開発課題やJICAの事業を広く南スーダンの国民に発信していくことも検討しています。

 

 

 

日本の国連加盟60周年記念シリーズ「国連を自分事に」(1)

2016年は国連と日本のあゆみにとって重要な節目の年です。1956年12月18日に日本が80番目の加盟国として国連に加盟してから、今年で60年になります。日本の国際連盟脱退から23年を経ての国連への加盟は、国際社会への復帰の象徴として国民から大変な歓迎を受けたことは、国連のアーカイブ映像からもご覧いただけます。

それから60年 - 日本は加盟の翌々年の1958年にはすでに安全保障理事会非常任理事国となり、今年1月からは加盟国中最多の11回目の非常任理事国としての責務を担っています。日本政府だけではありません。それぞれの立場から国連の理念につながる活動や努力を積み重ねている方々が大勢います。このシリーズでは、バラエティーに富んだ分野から国連を自分事と考えて行動している方々をご紹介します。

 

シリーズ第1回は、国連平和ポスター・コンテストで作品が入選した、奈良県在住のグラフィック・デザイナーの中里久美さんです。たまたま新聞記事でコンテストについて知った父親から勧められ、応募した中里さんは、ニューヨークに短期留学している最中に9.11に遭遇し、それも「平和」について考えるベースになっていると語ります。「反~~」とか「~~をなくす」とか、ネガティブな方向性でのメッセージが多くなりがちな社会的な課題について、それをどのようにポジティブな方向で、ユーモアのある、見て自然と共感できるような形で伝えるかということを考えたいと意欲的です。

国連平和ポスター・コンテスト 受賞・入選作品 パネル展が、国内各地ならびに世界を巡回します。詳しくは記事をご覧ください。

 

第1回 グラフィック・デザイナー 中里久美さん

~デザインで平和を訴える~

国連は設立以来、核兵器をはじめ大量破壊兵器の廃絶を目指しています。1946年に総会で最初に採択された決議は、「原子力の発見に関する問題に対処する委員会の設立」に関するものでした。現在でも、核兵器は人類存続に対する脅威です。

それから70周年の今年、核兵器のない世界への希望を描く「国連平和ポスター・コンテスト」が開催され、奈良県在住の中里久美(なかざと くみ)さんの作品が入選しました。日頃は音楽関係を中心にグラフィック・デザインを手掛け、奈良の大学でデザイン科の学生たちと触れ合いながら仕事をしている中里さんからお話をうかがいました。

 

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                     中里 久美

                    ナカザト クミ 

【2001年奈良芸術短期大学美術科卒。音楽関連のビジュアルデザインをメインに、ブランディング・広告・パッケージ・空間デザイン等を手掛ける。奈良県在住、グラフィックデザイナー】

 

 

根本:入選、おめでとうございます! 国連のコンテストに日本からの応募作品が入選したことは、日本を拠点にしている国連広報センターにとって大変嬉しいニュースです。どのような経緯で応募なさったのでしょうか?

 

中里:ありがとうございます。きっかけは父が新聞でコンテストのことを知って、「やってみたら?」と勧めてくれたんです。両親は私が子どもの頃から世の中のいろいろな問題について家庭で話すほうでして、そうした影響が大きいかと思います。それから、ニューヨークに短期留学している最中に9.11に遭遇して、それも「平和」について考えるきっかけになっていると思います。社会的なメッセージを伝えるデザインに興味があったので、今回参加させていただき、その結果が評価されてとても嬉しいです。

 

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9.11当日/本人撮影

 

根本:中里さんの入選作品は「ゼロ」をモチーフの中心にしていて、大変シンプルですね。このイメージはすぐ思いついたのですか?

 

中里:案としてはいくつか作っていたのですが、比較的早い段階で「これで行こう!」と原案が固まりました。自分の作風が基本「シンプル」で、加えるよりは引き算して単純化していく方向で考えます。「核兵器をなくさなければならない」というところで、突き詰めていくと、「ゼロ」かな、と。また、爆弾はモチーフに不可欠かと思いました。それらを組み合わせ、より簡潔に無駄なものを削ぎ落としていく中で、このようなものになりました。

 

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入賞作品、本人提供

 

 

根本:受賞・入選作品を見ると、中里さんのものが一番スッキリしているかもしれませんね。

 

中里:今回はデザイン・コンテストではなくポスター・コンテストなので、他の方々の作品はどちらかと言うと「アート」だと思うんですが、自分のものはむしろ「デザイン」寄りだと思います。「視覚的にインパクトを持たせ、同時に感覚的にそこにある理念・メッセージがまっすぐ伝わるもの」を念頭に形にしていきました。これはロゴやシンボルデザインの考え方で、今回の題材に関してシンボリックに見せたいという意図は当初からありました。デザインを勉強して、普段はクライアントにハッピーになってもらう商業ベースの仕事をしていて、それももちろん大切ですが、自分の専門性で社会に還元する、影響を与えることは重要だと思います。これからもそんな作品を残していけるといいな、と。

 

 

根本:入選したことに、周りの方々はどんな反応を?

 

中里:自分よりも周りの方が喜んでくれて、それが何より嬉しいですね。恩師、友人、知人はもちろん、全く知らない方からも感想をいただき、大きな励みになっています。特に家族には本当に感謝しています。いつも応援してくれてありがとう!

 

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 ニューヨーク本部から届いた賞状、本人提供

 

 

根本:中里さんはどんなものからインスピレーションを得ていますか?

 

中里:音楽です。音楽は自分から切っても切り離せない存在です。特にレゲエミュージックから大きな影響を受けました。ボブ・マーリーの曲は弱い立場の人々に立ったメッセージ性のある歌詞で、大好きです。その他にもヒップホップやジャズ、R&Bなど仕事中はずっと音楽をかけているのですが、莫大なパワーをもらっています。音楽の力は私の作品に流れ込んでいるんじゃないかと思います。音楽やアート、スポーツなど人種や年齢を超えて伝える、繋がれる力があるものは本当に人間の為す素晴らしい業だと思います。

 

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左:Bob Marley ©The Island Def Jam、右:ゆかいな音楽仲間たち@野外フェス、本人提供

 

 

根本:日本のアーチストでは?

 

中里:宮澤賢治が好きです。言葉選びが美しく、文章にリズムがあって音楽のようで。派手ではないけれど感情の豊かさを感じさせられます。それから彼は文学だけでなく、音楽、農業、自然との交流と、いろいろ手掛けているんですね。実は私も畑で野菜を作っています。デザイン制作のために家にこもりっきりになるんですが、あいまに畑に行って土いじりをして風を感じていると、いい気分転換になって頭がクリアになります。無機質な要素の強い作品を作るうえでも、自然を知ることはいい影響を与えてくれます。仕事で関わる人たちには私が畑をやっていることを「作品から想像できない」と驚かれたりもしますけど、自分にとってはすごくバランスがとれている。

 

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作品:「eclipse」、本人提供

 

 

根本:今後はどんな社会的な作品を手掛けたいですか?

 

中里:社会的なことって、「反~~」とか「~~をなくす」とか、ネガティブな方向性でのメッセージが多いですよね。それをどのようにポジティブな方向で、ユーモアのある、見て自然と共感できるような形で伝えるかということを考えたいと思っています。先にも言いましたがデザインには音楽などのように色んな壁を超えて直に感覚に訴える力があると思うので、それを活かしていきたいです。ところで、選ばれたポスターは日本では展示されないのでしょうか?一般の方々に直接見てもらえる機会があるといいなと思うのですが。

 

根本:国連総会では9月26日を「核兵器廃絶のための国際デー」に定めています。日本人の間で関心の高い課題ですので、市民社会と協力してポスター展を開催できればと考えているところです。楽しみにしていてください!

 

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 インタビュー後の記念撮影(左:中里さん、右:根本所長)©UNIC Tokyo

 

 

国連広報センターの「国連平和ポスター・コンテスト 受賞・入選作品パネル展が、核兵器廃絶日本NGO連絡会の協力で、国内各地ならびに世界を巡回します。当面の予定は以下の通り。今後の予定は核兵器廃絶日本NGO連絡会 | Japan NGO Network for Nuclear Weapons Abolitionのウェブサイトに順次更新されます。
 
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8月2~3日(火水)東京
世界宗教者平和会議(WCRP)国際軍縮 ・安全保障常設委員会特別会議ならびに公開シンポジウム
核兵器による威嚇、使用の合法性関す国際司裁判所 (ICJ) の勧告的意見発表 20 周年に寄せて~
場所:国連大学
問い合わせ:世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会 03-3384-2337
 
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8月5日(金)長崎
核のない世界へ ナガサキから
時間:17:45受付
場所:長崎水辺の森公園 出島岸壁 オーシャンドリーム号 船内
主催・問い合わせ:ピースボート 03-3363-7561
 
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8月6日(土)広島
ヒバクシャ国際署名 8/6 イベント in Hiroshima 
趣旨:広島・長崎の被爆者が呼びかけ、核兵器を禁止し廃絶する条約の締結を求
める国際署名を立ち上げるイベントです。国内外著名人によるリレートークやメッ
セージなど予定。
時間:17:30-記者会見、18:00-イベント
場所:広島県立体育館(グリーンアリーナ)大会議室
主催・問い合わせ:ヒバクシャ国際署名連絡会 03-3438-1897
イベントの詳細についてはこちら
 
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8月18日(木)~11月29日(火)
ピースボート第9回「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」と共に世界21カ国を
回ります。
主催・問い合わせ:ピースボート 03-3363-7561