国連広報センター ブログ

国連のさまざまな活動を紹介します。 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(11)

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シリーズ第11回は、国連人道問題調整事務所(OCHA)人道問題調整官の高尾裕香さんです。人道支援のための資金不足が深刻な問題となっている中で、災害や人道危機が起きた場合でも迅速な対応ができるよう、OCHAは資金や実施団体集めや資金の効率的な運用において重要な役割を果たしています。内戦後、医療体制が整っていなかったシエラレオネでは、2014年にエボラ出血熱の感染が拡大し、人々は日々の行動が制限されたり、伝統的な埋葬が禁止されたりしました。緊急時の対応計画の策定・能力強化のため、高尾さんは支援機関間、また支援機関と政府間での協力の重要性を指摘しています。

 

                 第11回 国連人道問題調整事務所・人道問題調整官 高尾裕香さん

                                ~人道危機に備えて、国際社会の協調が重要~

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       高尾 裕香(たかお ゆか)人道問題調整官(写真中央)

ニューヨーク市立大学で政治科学学士、ロンドン大学にて暴力、紛争と開発コースで修士号を取得。ウガンダでの村落開発(青年海外協力隊)、ハイチでの震災後の緊急・復興支援(NGO)、スーダンダルフール(OCHA/JPO)での緊急支援を経て2015年6月から現職。

 

シエラレオネ:迅速な資金供給とコーディネーションでいのちを救う

世界人道サミットで議論されるテーマの一つが資金の多様化と最適化です。人道支援のための資金繰りはここ10年で困難を極めています。現在世界が人道支援に必要とする資金は15年前と比べて12倍になったと言われており、2016年には不足額は150億ドルにも上ります。資金が減りニーズが増えていく中、人道支援団体にとって資金元の多様化(アラブ諸国など、従来ドナーではなかった国々を巻き込むなど)、また問題の根本的な解決(防災に力を入れるなど)や人道支援の効率化を図ることが重要になります。

災害や人道危機が起きた場合、迅速な人道支援のため、人道支援機関は早急に資金を調達する必要があります。OCHA(国連人道問題調整事務所)が管理する中央緊急対応基金(Central Emergency Response Fund: CERF)は、そんな時に活用できる運用資金の一つです。こうした基金は自然災害の直後の食糧・水・仮設住居の支援に充てられるほか、難民キャンプに住む子供たちのための医療や栄養支援などに利用されます。

 

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ボンバリ地区にあるエボラ生存者のためのクリニックで、生存者から現在の抱えている問題を聞いているところ。エボラ生存者の多くはエボラ感染が終わってからも様々な健康問題を抱え、差別と闘っている。写真: OCHA

 

シエラレオネでは、CERFから資金がエボラ初期対応のためにUNICEF国連児童機関)、WHO(世界保健機構)、WFP(世界食糧計画)に支給されました。UNHAS(WFPが管理する国連人道支援航空サービス)はこの資金を使用するにあったって優先順位が高いと判断された活動の一つです。

メディアでは医薬品や水、食べ物などの直接救命に結びつく支援が報道されがちで、ロジスティクス(輸送)にはなかなか注目が集まりません。しかし、シエラレオネのように物理的なアクセスが難しい地域が多い国では、人材や支援物資を輸送するサービスが欠かせません。輸送手段がなければ、迅速で効果的な支援は不可能なのです。例えば、医療支援が絶対的に必要な人々がいたとして、医者、医薬品と医療施設が必要になります。この3つを揃えるだけではこの人々が助かる保証はありません。なぜなら、これらの3つが人々のもとに届かない限り、支援が始まらないからです。ロジスティクスは支援が支援を必要としている人々のもとへ届くよう、重要な橋渡しをする役割を担っています。

シエラレオネでは126万ドルがUNHASに支給され、医療従事者を含めた人道支援スタッフと、人道支援に必要な物資の輸送に使われました。複数の航空会社がシエラレオネへの就航を一時停止したため、渡航・輸送のオプションが減る中、UNHASは人・物を輸送しただけでなく、限られた資金を輸送ではなく実際の人道支援に使うことを可能にしたのです。迅速な資金供給と統制の取れた支援により、シエラレオネは2015年11月7日に最初のエボラ終息宣言を迎えることができました。

 

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           人道支援スタッフを輸送したUNHAS航空機。写真:WFP

 

私がエボラ対応のためシエラレオネに赴任したのは2015年の6月で、すでにエボラ感染のピークは過ぎていました。ピーク時の2014年11月には一週間で500件以上も感染が確認されていたのに比べ、到着時は週に10~15件程度。しかし、ピークは過ぎたにも関わらず、行く先々に手洗い場が設けられ、体温チェックを徹底していたのを覚えています。国連機関、NGO、関連省庁、路上検問所のみにとどまらず、スーパーマーケットやレストランでもです。大統領の非常事態宣言により、感染拡大防止のため1年以上スーパーマーケットやレストランは18時に閉店が義務付けられ、人が集まるイベントやスポーツはすべて禁止されていました。夜間にはシエラレオネの警察・軍隊の設置した検問所が多く設置され、各車両に感染者がいないかどうか、または感染の疑いのある遺体を運んでないかをチェックしていました。

 

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              検問所に設けられた手洗い場 写真:OCHA

 

シエラレオネでは様々な埋葬にまつわる伝統的儀式があり、それらは死者をあの世に導くためにとても重要だと考えられています。しかしエボラ犠牲者の遺体は感染力が非常に強いため、死因に関わらずすべての遺体を安全な方法で埋葬することが義務付けられ、伝統的儀式を継続することはできなくなりました。

例えば、シエラレオネでは埋葬前に家族が遺体を洗うことが習慣となっていましたが、感染の危険が非常に高いため許されませんでしたし、早急に埋葬するために、各宗教の指導者を招いて家族で埋葬に参加することも多くのケースでできませんでした。愛する家族が適切な儀式を受けられずボディーバッグ(遺体袋)に入れられ連れていかれる、それは家族にとって受け入れがたい現実だったため、病気になった家族を隠したり、遺体を隠して各家庭で埋葬をすることが多くありました。

 

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       首都フリータウンにあるキングトム墓地。エボラ感染のピーク時、遺体の処理が追いつかず、多くの

       遺体が身元を特定できずに埋葬された。写真:OCHA

 

エボラ感染ピーク時の混乱により、今でも多くのエボラ犠牲者の家族は、彼らの家族がどこに埋葬されたのかわからない状態です。このように、エボラ出血熱は命を奪っただけでなく、人々の生活に様々な影響を与え、心に傷を残しました。

 

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        首都フリータウンにあるキングトム墓地。エボラ流行時に亡くなった6千人以上の遺体が眠っている。

       黒く小さい墓石は子供のもので、多くの5才以下の子供や死産の赤ちゃんが眠っている。写真:OCHA

 

エボラ感染者と接触した疑いのある人は、感染の危険がある期間が終わるまで21日間隔離病棟・施設で暮らさなければなりません。私自身も高熱で国連クリニックに搬送された際、隔離ユニットに入れられ、エボラ検査で陰性が確認されるまで2日間拘束されました。感染のリスクは低いとわかっていても、防護服に身を包んだスタッフが血液採取に来た際は私でも緊張しました。エボラ感染が蔓延していた地域では、突然宇宙人のような、顔も見えない防護服に身を包んだ人たちが訪れる、そのことだけでも恐ろしい出来事だったでしょう。

 

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            隔離中、筆者の血液採取を行った研究所スタッフ 写真:OCHA

 

シエラレオネといえば、日本では残虐な内戦のあった国として記憶されているかもしれません。2002年に終結した10年以上にわたる内戦は、何万人という犠牲者を出しただけではなく、インフラや経済を破壊・疲弊させました。エボラ出血熱が最初に報告された2014年5月、シエラレオネはいまだ内戦の爪痕から回復していた時期であり、医療体制は脆弱でした。エボラ感染以前、人口に対する医療従事者の割合は1万人に対して17.2人であり、最低限のレベルとされる25人に満たない状態でした。エボラ出血熱に対しての準備もなく人的資源が不足する中、多くの医療従事者が患者の命を救うために犠牲になりました。シエラレオネ政府によると、医療従事者の300人以上が感染し、そのうち200人以上が亡くなったと報告されています。そのため、人口に対する医療従事者の割合は1万人に対して3.4人にまで落ち込んだと推定されています。

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    ポートロコ地区にあるエボラ対応施設。防護服に身を包んだ医師が看護師から経口補液を受け取るため

    に待機している。写真: OCHA

 

2014年5月26日、シエラレオネで初めてエボラ出血熱の感染が確認され、7月30日にシエラレオネ政府は非常事態宣言を発令。8月8日にはついに世界保健機構(WHO)が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言しました。以来、8,706人の感染が確認され、3,590人もの人々が命を落としました。2015年11月にWHOがシエラレオネでの人間間のエボラ感染の終息宣言を出したものの、2016年1月14日に再度感染が確認されました。奇しくも、西アフリカ全体におけるエボラ出血熱の終息が宣言されたその日に、新たな感染が報告されたのです。2016年2月24日現在、今回の感染は2例にとどまっています。エボラウイルスは動物界に存在するため根絶することは不可能ですが、感染が確認された場合に早急に対応・感染拡大を防止するための能力強化に力を入れています。2015年11月のエボラ終息宣言の後、シエラレオネ政府と国際社会の焦点はエボラにただ単に対応することではなく、感染症だけでなく災害も含めた緊急時の対応計画の策定・そのための能力強化に移りました。

 

OCHAのミッションの一つは防災・緊急時の対応計画策定の促進です。シエラレオネではResident Coordinator (国連常駐調整官)とともにOCHAがInteragency Rapid Response Plan(機関間即応計画)策定をリードしました。この計画はシエラレオネ政府へのサポートという位置づけで策定され、2016年1月のエボラ再来の際には、計画にのっとった感染対応が行われました。エボラ終息宣言により多くの人道支援団体が2015年末で支援終了の意向を示していた中、残存する対応能力を確認し、事前に計画することはとても大切でしたが、道のりは平たんではありませんでした。

第一に、この計画は2016年の一年間を対象としていたため、年間通しての責任を引き受けられる機関・団体が少なかったこと。第二に、ドナーにとってはすでにエボラ対応に相当の資金を注入していたため、人道支援ではない、インパクトがすぐに見えない緊急時計画にお金を出すことが難しかったこと。第三のチャレンジは国連機関、国際機関、NGOとドナー、様々な立場の団体を調整することでした。

OCHAは様々な団体が自分たちの機関のために計画に参加するのではなく、共通の目標を確認、設定し、各団体の強みを最大限に活かせるようリードするという、重要な役割を果たしました。ミーティングを重ね、各活動のリーダーシップを取るべき団体・人物を確認。各活動をリードするスタッフは、出身団体に関わらず、中立な立場で活動を調整すべきという認識を持ってもらうよう働きかけました。資金あるいは実施団体が不足していた場合、問題解決のためにドナーとも話し合いを続けました。これらの努力が、今年1月のエボラ再来に際して、迅速で無駄のない対応へと結びつきました。資金不足の状態では、支援機関間、また支援機関と政府間での協調がお互いの不足を補い、効率よく対応するために特に重要となってきます。シエラレオネ政府と国際社会は、エボラ感染が再度終息するよう、協力して力を尽くしていきます。

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    Interagency Rapid Response Plan(機関間即応計画)のデスクトップシミュレーション中。シナリオに

   沿って各アクターがどう対応するか話し合い、計画に何が足りないのかを確認している様子。写真: OCHA

 

日本はドナーとして、シエラレオネを含む多くの国の人道支援に貢献しています。東日本大震災の経験により、日本人の多くが人道危機は他人事ではないと実感したのではないでしょうか。人道支援対岸の火事としてとらえるのではなく、世界人道サミットが開催されるこの機会に、日本からの寄付金や、個人としての寄付金がどのようにすれば効果的に利用されるのか、日本の皆様にも考えていただけたらと思います。 

 

 

国連人道問題調整事務所(OCHA)について、詳しくはこちらもご覧ください。

 

国連人道問題調整事務所ホームページ

http://www.unocha.org/japan/

 

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シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために - 世界人道サミット5月開催」(10)

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シリーズ第10回は国連広報センターの根本かおる(ねもと かおる)所長による、南スーダンレポートをお届けします。現在国連PKOミッションは世界で16ヵ所展開されており、3番目の規模の国連南スーダンミッション(UNMISS)は唯一、文民を保護区で直接保護しています。5月に開催される世界人道サミットの主要な論点の「全てが凝縮しているマイクロコスモス」と根本所長が語る南スーダンの現場。臨場感あふれるレポートをお読みください。

 

     第10回 国連広報センター所長 根本かおる(ねもと かおる)

     ~南スーダンの人道危機の最前線で、世界人道サミットを考える~

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文民保護区の様々な課題について説明を聞く著者(中央)。左から2人目は、UNMISSベンティウ事務所の平原弘子所長。 ©UNMISS Patrick Orchard

           

東京大学法学部卒。テレビ朝日を経て、米国コロンビア大学大学院より国際関係論修士号を取得。1996年から2011年末までUNHCR国連難民高等弁務官事務所)にて、アジア、アフリカなどで難民支援活動に従事。ジュネーブ本部では政策立案、民間部門からの活動資金調達のコーディネートを担当。WFP(国連世界食糧計画)広報官、国連UNHCR協会事務局長も歴任。フリー・ジャーナリストを経て2013年8月より現職。著書に『日本と出会った難民たち-生き抜くチカラ、支えるチカラ』(英治出版)他。

 

 

監視塔からの眼下に広がる光景に一瞬目を疑った。援助団体のロゴマークが入ったビニールシートがどこまでも続いていた。ここは南スーダンの北部ユニティー地方のベンティウ近郊にある、国連南スーダンミッション文民保護区(Protection of Civilians site、略してPoC site)。筆者が入った2016年3月半ばの時点で、およそ12万人が避難していた。

 

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      ベンティウの文民保護区に12万人が暮らす。雨季に備えて、大きな溝が掘られている。

      ©UNIC Tokyo Kaoru Nemoto

 

逃げ場を失った人々の命を救うための緊急手段として、国連PKOミッションが始まって以来初めて敷地のゲートを開放してから2年あまり。人員・予算の規模で世界で3番目に大きい国連のPKOミッションである国連スーダンミッションは、文民の保護がマンデートの4本柱の一つだが、特筆すべきはミッション全体でおよそ20万人の文民を各地の文民保護区で直接保護していることだ。今でも文民保護区を管轄する国連PKOは南スーダンが唯一であり、あらゆることが前例のない模索になる。ベンティウの文民保護区は南スーダンで最大、つまり世界最大の文民保護区だ。

  

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       国連警察のフランシス・イルバアレ文民保護区調整官(左)©UNMISS Hiroko Hirahara

 

「緊急避難がここまで長期化して、保護区がここまで巨大化した今、一番の課題は他にすることのない若者による窃盗や強盗などの犯罪です。保護区内に24時間体制の監視塔を増やしたり、我々のパトロール体制や保護区の出入り口の荷物検査を強化しています」とガーナ出身の国連警察のフランシス・イルバアレ文民保護区調整官が説明する。

 

スーダンは2013年12月、2011年の独立から2年あまりで紛争に逆戻りし、それが今も北部と北東部ではまだら模様の状態で続く。地域によっては小康状態が続き、最近まだわずかではあるが、文民保護区から故郷に帰還したケースも出てきた。当初人々は切迫した危険から着の身着のままの状態で国連の敷地に逃げ込んできたが、あくまでもここは駆け込み寺だ。人々の帰還に向けた下地づくりが、現在国連スーダンミッションにとっての喫緊の課題の一つとなっている。それには、安全の確保、水衛生・食糧・医療といった当座を支える人道援助、人々の生計を支える支援、法の支配、インフラ整備(フランスとベルギーをあわせた面積の国で、舗装された道路が200キロしかない)などをシームレスに行う中長期的な計画が、国連PKOと人道・開発援助機関とが一体となった連携をベースに、南スーダン政府のリーダーシップで実施されなければならない。そのためには、2015年8月に署名された「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」の遵守と、暫定政府の樹立、そして草の根の和解が不可欠だ。

 

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        配給される食糧援助が人々の命をつなぐ © UNMISS Zenebe Teklewold

 

「ベンティウの文民保護区に最近新たにやって来た人たちは、その理由に身の危険よりもむしろ深刻な食糧不足をあげています」

 

こう語るのは、国連スーダンミッションのベンティウ事務所の平原弘子所長だ。モンゴル軍やガーナ軍などの制服組を含め、総勢2,000人以上を統括し、人道援助機関とも連携する。PKOミッションは南スーダンが4つ目というベテランで、ユニティー地方での国連の顔だ。焦土戦術に加え、安全が確保されないために農作業ができず、収穫がなく、食べる物がない。食糧を緊急支援しようにも不安定な情勢やアクセスの悪さから届けることができない。安全の問題と密接に結びついた複合的な食糧不足だ。

 

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      ベンティウ事務所の平原弘子所長(右)。JICAがかつて整備したベンティウの町の浄水

      施設を、ユニセフが改修している。©UNMISS Zenebe Teklewold

 

「元々暮らしていた場所により近いところで、食糧や水などの緊急人道支援を行い、人々の生活を支える援助を実施するという方向に何とか持っていきたい。地域の人々に安心してもらい、かつ援助関係者の安全を確保するためにはPKOの制服組の活動が不可欠です。そうすれば文民保護区に避難している人たちも、少しずつ元いた場所に戻ってもいいかなという気持ちになってくれるでしょう」

 

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     文民保護区への家路を急ぐ人々に寄り添う形でパトロールする ©UNMISS Patrick Orchard

 

夕方近くになると、周辺の原野をつっきって文民保護区に戻ってくる人の流れが激しくなる。ほとんどが薪の束を頭の上にのせた女性たちだ。その流れを警護する形で、ガーナ軍とモンゴル軍がパトロールする。「以前は幹線道路に沿ったパトロールしか行っていませんでしたが、人々はどうしても近道してわき道を通る。薪集めの行き帰りで襲われる女性たちが後を絶たないので道を人々の往来が激しくなる時間帯にパトロールするようにしました」と、国連平和維持軍でユニティー地方を管轄する北セクターのインド出身のアダルシャ・ヴェルマ副司令官が人々に笑みを返しながら説明してくれた。以前はここまでの人の流れはなかったという。

 

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      UNMISS北セクターのアダルシャ・ベルマ副司令官 ©UNMISS Patrick Orchard

 

スーダンの15歳から24歳までの女性の半数以上がジェンダーに基づく暴力を経験し、ユニティー地方については、2015年4月から6ヶ月の間に1300を超えるレイプ被害が国連などに報告されている。2016年3月11日に公表された国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の調査報告書も、女性を狙った多くの性的暴力とレイプが深刻化していると指摘している。

 

こうした中、パトロールが安心感を与えている。兵隊たちに微笑む人、駆け寄って握手を求める子どもたち、平原所長にすがってきて感謝の言葉を伝えようとする老女。ここでは人々が国連に信頼を寄せていることがひしひしと伝わってくる。

 

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          文民保護区で避難生活を送る女性たち ©UNMISS Patrick Orchard

 

安心感が必要なのは人道援助関係者も同じだ。PKO部隊が文民保護区周辺の町にForward Operating Base (オペレーション用の前線基地) を2015年秋に設けて以降、国連WFP文民保護区外のベンティウの町に避難している人々への食糧配給を拡大し、今では2万人を支援している。ユニセフJICAの支援で90年代にできた浄水施設の修復を行い、2016年2月から国際移住機関(IOM)が地域のお母さんが安心して子どもを産むことのできる、ベーシックな産科病棟を運営するようになった。

 

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          ベンティウの井戸で水を汲む女性達 ©UNMAS Andrew Steele

 

そのすぐ横で、国連WFPとユニセフが協働して子どもと妊婦と子どもを産んだばかりのお母さんへの栄養プログラムを行っている。順調に進めば、4月にも複数の人道援助機関が文民保護区外での活動の拠点とするHumanitarian Hub(人道ハブ)が開設されることになっている。

 

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      ベンティウの町では、人道援助機関の活動拠点となるHumanitarian Hub (人道ハブ)

      の改修が進んでいた ©UNMISS Zenebe Teklewold 

 

前線基地に常駐するモンゴル軍が人道援助団体の活動現場の周辺を車でパトロールし、安全と安心に貢献している。小康状態の中で、緊張感を伴う活動だ。国連スーダンミッションのマンデートの柱の一つである「人道支援実施の環境作り」のまさに最前線。地域住民の安全にもつながる。ただ、これはあくまでも「点」の戦いだ。浸透させるには停戦合意の履行と暫定政府の樹立、そして南スーダンの人々のオーナーシップが欠かせない。

 

文民保護区に暮らす20万人を含め、南スーダンの国内避難民の数は170万人。それに保護を求めて国境を越え、周辺国で難民として暮らす人が70万人近くいる。あわせると人口の2割が家を追われた計算になる。そして人口の半分にあたる600万人あまりが緊急支援を必要としている。こうした国際機関の緊急人道援助の財源は、日本を含む各国政府からの拠出によって支えられている。支援現場の多くで日の丸のステッカーが貼られているのを見た。

 

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                    文民保護区内の給水塔は日本の支援でつくられた

             ©UNMISS Zenebe Teklewold

 

人道アクセスが極めて悪い南スーダンでは物資の輸送コストが高くつく。アクセスの悪さから、輸送機からのエアドロップで届けられないところもある。そのため、2016年に国連などが南スーダンでの人道援助活動全体に必要な財政支援は13億ドルと巨額だが、支援国などから集まった資金は4月半ば時点でまだ全体の2割にも満たない。首都ジュバの国連WFPの倉庫では、エアドロップ用に配給物資の詰め替え作業が急ピッチで行われていた。

 

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         ジュバの国連WFPの倉庫では、エアドロップ仕様に物資の袋づめが

         行われていた ©UNIC Tokyo Kaoru Nemoto

 

国連の見通しでは、前年同期に比べて2倍近くの280万人、人口の4人に一人が食糧援助を緊急に必要とし、特にユニティー地方でおよそ4万人が餓死寸前の危機的な食糧不足にある。

 

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          国連WFPの援助物資のエアドロップ ©UN Photo. Isaac Billy

 

このようなエアドロップもただ空から落とすだけではない。落下地点とそのアクセス道に地雷や不発弾などがないかという確認も必要で、事前確認を国連スーダンミッションの必要不可欠な部門として活動する国連地雷除去サービス(UNMAS)が行う。UNMASの活動は人道アクセスを支えているのだ。

 

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        UNMASは日本政府からの支援を受けて、ベンティウの学校で子どもたち

        を対象に危険回避教育を行っている。2枚共©UNMISS Zenebe Teklewold

 

また、国連南スーダンミッションに参加する日本の自衛隊の工兵部隊が作業に入る前に地雷や不発弾などの危険がないか確認するということをUNMASが行い、自衛隊が整備した道路などはさらに市民の保護につながる活動を支え、人道アクセスの改善につながる。

 

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     道路整備に使用するマラムを搬入するダンプトラック ©陸上自衛隊 中央即応集団

 

スーダン担当のエレン・ロイ事務総長特別代表は、「日本の自衛隊の方々には、乾季には酷暑、雨季には豪雨という工兵作業にとって大変厳しい環境の中で任務にあたっていただいています。彼らのフィールドエンジニアリングでの技術と専門性はプロジェクトの成功に不可欠です。日本隊の貢献は感銘深く、国連スーダンミッションの職員の間のきずなにつながると同時に、国連PKOと南スーダンの人々とのきずなを一層強固なものにしています」と語り、自衛隊の仕事の質の高さをこのように評価する

 

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     世界エイズデーのイベントにて。エレン・ロイ事務総長特別代表と自衛隊員。©UNMISS

 

日本の紀谷昌彦南スーダン大使は、東京の本省では平和構築、国連PKO国連外交を担当し、防衛省にも出向してPKOや民軍協力に携わった経験を持つ。自衛隊が活動する国連スーダンミッションのみならず、日本政府が財政支援している国連の人道援助機関などの活動現場を積極的に視察し、国連との連携をアセットに南スーダンの平和構築に役立つために知恵を絞る。「南スーダンの平和構築に向けて,日本が自らの強みを生かして貢献していく上で,国連PKO国連諸機関との連携は不可欠です。日本は国連と連携することで,平和への貢献を一層強化できることを実感しています」と紀谷大使は説明する。

 

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         地雷除去作業を体験する紀谷大使(右から二人目)©UNMAS

 

自衛隊施設隊が首都ジュバでの国連PKOの活動を支えているのみならず,道路整備を通じて人道支援の効果的実施の一翼を担う点に言及しつつ、こう熱っぽく語る。「日本は国連と連携することで,保健,教育,地雷対策,難民支援,インフラ,人材育成など,日本が重視する分野で諸機関の専門性を活かしながら,国内各地で支援を展開することができます。南スーダン国連諸機関には邦人職員もたくさんいます。また,UNITAR(国連訓練調査研究所)広島事務所と連携して,日本は南スーダンの行政官やNGO職員が,日本の戦後復興の経験から学んで生かすための研修を行っています」

 

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       日本隊との交流の場で談笑するロイ特別代表(右端)と紀谷大使(左端)

        ©UNIC Tokyo Kaoru Nemoto

 

ベンティウの文民保護区でIOMが運営する産婦人科病棟で、前日に生まれたばかりの女の子の赤ちゃんとお母さんに出会った。これが初産というまだあどけなさが残るお母さんは、子どもを「贈り物」を意味するミュイと名付けた。大変な避難生活の中で初めて子どもを産むというのはさぞかし不安だったでしょうと声を掛けたが、お母さんは「全ては神の思召し。そう思うと何も怖くなかった」と、穏やかな表情で答えた。この国の女性の芯の強さを見た。脇ですやすやと眠るミュイちゃんに優しい眼差しを向けるお母さん。家族が住み慣れた土地に戻り、ミュイちゃんが文民保護区外の生活を体験できるようになるのはいつになるだろうか。

 

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       「贈り物」という名の赤ちゃんはこれからどんな環境で育っていくのだろう

        ©UNMISS Zenebe Teklewold

 

私が2009年春にケニアのカクマ難民キャンプを視察した際、キャンプは南スーダン出身の難民たちが長年の隣国での避難生活に終止符を打って故郷に帰ろうという熱気に包まれていた。期待に目を輝かせた人々がなけなしの家財道具をまとめ、彼らが乗ったバスを見送った。その時のことを思うと、今の南スーダンの人々が置かれた状況を見るのは辛い。負のスパイラルに終止符を打ち、将来につなげるためにも、中長期的な視野を持った緊急人道援助が欠かせない。

 

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     文民保護区の子どもたち。彼らの未来が少しでも明るいものになることを祈らずに

     はいられなかった ©UNMISS Patrick Orchard

 

スーダン5月に開催される世界人道サミットの5つの主要な論点(1. 紛争を予防・解決するためのグローバルなリーダーシップ 2. 人道規範を護持する 3. 誰も置き去りにしない 4. 人々の暮らしを変える ― 届ける支援から、人道ニーズ解消に向けた取り組みへ 5. 人道への投資)全てが凝縮しているマイクロコスモスだということを、改めて感じさせられた。世界人道サミットが人道危機の中で生きる人びとに直結して成果をもたらす会議にならなければ、ということを再認識させられる南スーダン訪問となった。

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(3)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第3弾は、三上俊生さんです。国連世界食糧計画国連WFP)と国連本部に20年以上勤め、船や航空機による輸送サービスの調達に従事されてきました。普段、新聞やテレビで目にすることはあまりありませんが、調達部は、国連の活動を裏で支える縁の下の力持ち。救援物資の供給や平和維持活動に必要な発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂などを現地に送る、まさに心臓ポンプの役割をしています。三上さんのお話からは、民間企業で得た仕事に対する厳しい姿勢と、国連という豊かな多様性に裏付けられた貴重な人生論がにじみ出ていました。


                        第3回:国連調達部運輸課 三上俊生(みかみ としお)さん

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【1956年三重県生まれ。1979年関西学院大学経済学部卒。大阪商船三井船舶(現商船三井)に10年勤めた後に1989年より世界食糧計画(本部・ローマ)運輸部門海上輸送課に勤務。10年の勤務後に2000年から2012年まで国連事務局(ニューヨーク)調達部運輸課などに勤務。2012年から2013年まで横浜国立大学非常勤講師。2013年より早稲田大学非常勤講師。】

 

国連職員になるきっかけは何でしたか?

1980年代後半の日本はバブル景気でした。社会人10年目の私は、当時働いていた会社での仕事のやり方に窮屈さを感じ始めていたので、転職ブームを追い風にして、ダメもとで憧れの対象でしかなかった国際機関への転職を画策しました。日本の企業の海外駐在員のようなひも付きの海外赴任ではなく、自分の力だけで世界を舞台にどのくらい通用するのか試してみたかったのです。2,3年国際機関で働いて、ハクをつけて帰国しようと目論んでいましたが、この目論見は、バブル崩壊で見事に外れました。国連で働き続ける以外家族を養っていく道がなくなってしまい、気づけば日本に戻ることもなく23年も国連に勤めました。

いくつかの国際機関の求人広告に募集をし、ある機関では面接までこぎ着けました。手ごたえがありました。結局、国連世界食糧計画国連WFP)のリクルートメント・ミッションが東京に来たとき、外務省に設けられた試験場で筆記試験、面接を受けました。合格通知の電話は忘れたころに職場にかかってきました。

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                                  国連WFPの援助物資のエアードロップ(UN Photo/Isaac Billy)

 

―学生時代に留学を経験されていませんが、英語力はどこで養ったのですか。

中学時代から英語には力を入れてきました。幼い頃に見たアポロ11号の月面着陸のときの、名人による同時通訳が、幼な心に魔法のように映った記憶があります。大学生の一時期、同時通訳に憧れしばらくの間大阪にある同時通訳養成スクールに通っていたこともあります。しかし、そこでブースに入ってヘッドフォンをつけて、骨子のあらかじめ決まっている国際会議の通訳のまねごとをしているうちに、徐々に自分の求めているものと違うという違和感が生じやめてしまいました。社会人になってからは、幸いにも英語をとても多く使う部署に配属され、日本にいながら仕事で使える骨太の英語を身に着けることができました。夜中まで、電話で石油製品の売り買いの交渉をロンドンのブローカーとやっていて、数字を聞き違えたり、製品のスペックを誤ったりすることが許されない状況でした。相手の言っていることを、分かったふりでやり過ごすことができない、真剣勝負でした。

 

―海運会社の仕事と国連での仕事がどのように関連しているのですか。

海運会社は平たく言えば運送屋。他人の荷物を預かり外航船で別の国まで運び対価として海上運賃を受け取ります。輸送につかう船舶を用船(チャーター)することもあります。

国連WFPは、国連の食糧援助機関。多量の援助食糧を援助国から被援助国に国際海上輸送します。国連WFPでの船積み担当官としての私の仕事は、海運会社の時とは逆に食糧を海運会社に託して輸送してもらうことでした。海運会社が要求する運賃が妥当か、使用される船舶は安全基準や環境基準を満たしているか、などを判断しつつ海運会社と輸送契約を結ぶ仕事をしていました。

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                                ジブチの港で救援物資を積むトラックと船(WFP/Thierry Geenen)

一方、国連事務局の調達部に移ってからは、PKO平和維持活動に関わる輸送が主な仕事でした。平和維持活動に従事する要員は加盟国から航空機で活動拠点に移動しますが、トラック、バス、救急車などの車両、発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂など重くかさばるものは海上プラス陸上輸送せざるを得ません。私のチームは、それらの物資を、公共入札を通じて業者を選定し輸送してもらう仕事をしていました。

また、輸送インフラが整備されていない平和維持活動の拠点では、迅速な輸送を実現するためにヘリコプターや飛行機を使用することが多いです。滑走路が未整備な場合は、ヘリコプターが活躍します。それらの航空機をチャーターするのも私のチームの重要な仕事でした。空と海とで違いはありますが、船のチャーターと航空機のチャーターは似通っているため、商船三井での経験が大いに役に立ちました。

このようにサラリーマン時代、国連WFP時代、国連事務局時代を通じて、国際輸送の仕事をしてきました。職場によって実際の職務内容は異なりますが、10年間のサラリーマン生活で叩き込まれた知識や仕事に対するアプローチが国連での仕事を可能にしていることは疑いがありません。

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                                              国連広報センターにて、インタビューの様子

 

―記憶に残る仕事上の思い出はありますか。

2011年4月4日、国連のチャーター機がコンゴ民主共和国の首都キンシャサ空港で着陸に失敗し乗員・乗客24人のうち23人が死亡するという悲惨な事故がありました。私は国連調達部で航空機のチャーターを担当していたので、事故調査のため技術専門家と監査専門家とともに航空機運航会社の本部のあるコーカサスのジョージアに出張しました。

航空機のチャーターの際には機体の安全性だけでなく、操縦士の飛行時間などを事前に書類審査するのですが、事故機の操縦士、副操縦士ともに最低飛行時間の必要条件を満たしていなかったことが、調査の過程で明らかになりました。この航空会社は、何とか国連とのビジネスを獲得するために国連に提出した書類を改ざんしていたのです。

そのほかにも問題点が見つかり、その会社は国連とビジネスができる業者としての資格の停止処分を受けました。

事故当日は豪雨で視界が悪く、このことが直接的事故原因ではないかというのが専門家の意見でした。しかし、提出された書類の改ざんを見抜く仕組みが国連の側になかったことも事実です。たとえ何パーセントであれ、そのことが事故に繋がったのではないのかと責任を感じました。後日技術部門の専門家とともに再発防止策を検討し上層部に提案しました。


もう一つ、国連WFP時代に思い出深いことがあります。国連WFPでは、現地にスタッフが赴き援助物資が援助を必要とする人々に確実に届いているかをモニターすることになっています。ところが、外国人に国内をあちこち動き回られることを嫌ったある東アジアの国の政府が現地でのモニターの範囲を厳しく制限すると言い出したのです。当時国連WFP事務局長だったアメリカ人女性は、これに驚きの反応を示しました。その国の政府に対し、自由なモニターができないのなら「援助を差し止める」と過剰とも思える通達をしたのです。私たちのチームがチャーターした船舶は、その時援助物資を満載してその国の港に向かっていました。あと数日で港に到着するという時点で、事務局長の通達が出たのです。職場の誰もが初めは外交上よくある口先だけの駆け引きだろうと思っていました。しかし、彼女は港に向かっていた船の目的地を別の国に変えることを指示し、船は本当に舵を切ったのです。私は、本当に援助を差し止めるのか、とビックリしました。船の針路が変わるや相手国側はあわててスタッフの現地入りを許可しました。手荒い方法であったかも知れませんが、そうしなければその国は動かなかったかも知れません。こういう決断力と結果に責任を持てる資質を真のリーダーシップと言うのだと感じました。

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スーダン・北ダルフールの国内避難民キャンプに援助物資を運ぶ国連WFPのトラック(UN Photo/Albert Gonzalez Farran)

 

―日本の若者へ何を期待しますか?

安全や安心ばかりを追い求めないで、もっと冒険してほしい。

今の若者は、私の若いころと比べるとよほどスマートで洗練されています。見知らぬ国に一人旅すると言っても、前もってウェブで調べることもできるので、前の世紀よりリスク回避のレベルが格段に上がります。国連で働きたいという夢を持っている有能な若者が、国連雇用契約期間の短さを知ると安定性に欠けるという理由で、進路を変えてしまう、というケースもあると聞きます。

そんな慎重派の人たちに知ってほしいことは、国連のどんな部署で働こうが仕事から得る満足感は、民間企業では決して得ることができない種類のものだ、ということです。人間には、人の役に立ちたいという根源的な欲求があると思います。偽善とか何かリターンを期待するのではなく、純粋に困っている人を助けたい、という気持ちです。一般的な会社では、会社にどれだけお金をもたらしたかで評価をされますが、国連だと「自分の仕事」に感謝をされると感じるのです。NPOやチャリティーなどでその種の欲求を満たすことも可能ですが、規模の経済、透明性、普遍性などを考えた場合、国連という仕組みほどよくできたものはないと思います。

国連で要求されるのは、ずば抜けた学力ではありません。日本には優れた専門知識、バランス感覚、勤勉さなどを兼ね備えた優秀な人材がたくさんいますが、外に出て行く若者が少ないと感じます。日本ではあまり知られていませんが、学部出身でも関連した職種での実務経験があれば国連に入る資格があります。「明日からオフィスで働いてくれたら自分の仕事が少し楽になるなぁ」と思える即戦力と、きちんとしたコミュニケーションができる人材が国連では求められているのです。

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        選挙物資を運ぶ国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)のスタッフ(UN Photo/Martine Perret)

 

―最後に、国連で一番感謝しているできごとや出会いは何でしょうか?

そうですね。国連のおかげで多くのことを学びました。とても重要なことを学んだなぁと感じるのは、無意識のうちに持っていた偏見や思い込みに気づけたことだと思います。

差別や偏見は悪いということは分かっていても、頭の片隅にステレオタイプや思い込みを多少なりと持っている人は多いと思います。例えば、ルワンダの人と初めて仕事をするときに、私はルワンダ人に会ったことがなかったので、どのくらい仕事を任せて良いものか、不安でした。相手にとっても初めて見る日本人が私だったかもしれないですね。しかし、彼はとても仕事をよくこなす人で、不安だった自分が恥ずかしかったですね。国連でさまざまな国籍の同僚と一緒に仕事をすることで、自分自身の中にあったステレオタイプや思い込みをひとつずつ解きほぐすことができたのは大きな宝だと思います。

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                                                             ルワンダ人のスタッフと

また、国籍もみんなバラバラの新しいチームで働いていたときのことですが、チームに大きな仕事が舞い込んできました。お互いの信頼関係もまだない不安なチームでしたが、厳しい期限に迫られ、ストレスによって、仮面が剝がれていく中で、お互いが素でコミュニケーションをするようになり、信頼が生まれました。仕事を一緒にやり遂げたときは、本当に嬉しかったです。達成感がみんなをひとつにし、チームを信頼することの大事さを肌で感じました。

大事なことをたくさん学ぶことができ、国連には本当に感謝しています。

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    2012年6月退官時の送別会で。スタッフの出身は東南アジアカリブ海、アフリカ、南米とみんな異なる。

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                               三上さんを囲んでインターン 伊藤啓太(左)とインターン 邱山川(右)

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット 5月開催」(9)

f:id:UNIC_Tokyo:20160412105214j:plainシリーズ第9回は、特定非営利活動法人難民を助ける会(AAR)理事長・立教大学大学院教授の長有紀枝(おさ ゆきえ)さんの話をお伝えします。認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム(JPF)の理事も務められる長さんに、日本人が問われている人道支援についてご寄稿いただきました。日本は、世界で2番目に国連の通常予算への拠出金が多く、開発・人道の分野で世界有数のドナー国ですが、一方で、日本の人道支援には改善すべき問題点も多くあると、長さんは指摘します。

 

 第9回 特定非営利活動法人難民を助ける会(AAR)理事長・立教大学大学院教授

             長有紀枝(おさ ゆきえ)さん

       ~世界人道サミットが私たち日本人に問いかけること~ 

            f:id:UNIC_Tokyo:20100219120829j:plain

早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。1990年よりAARにてボランティアを開始、1991年よりAARの専従職員となる。旧ユーゴスラビア駐在代表、常務理事・事務局次長を経て、専務理事・事務局長(00-03年)。この間紛争下の緊急人道支援や、地雷対策、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の地雷廃絶活動に携わる。2003年にAARを退職後、2004年より東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程に在籍し、2007年博士号取得。2006年7月より2011年3月まで認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム(JPF)共同代表理事。現在同理事。2008年7月よりAAR理事長。2009年4月より2010年3月まで立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。2010年4月より立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・立教大学社会学部専任教授。

 

 

5月23-24日の両日、トルコのイスタンブールで「世界人道サミット」が開催されます。日本人にとって今年2016年は、例年にも増して国際社会との関係を意識する年。国連安全保障理事会に、日本は2009~10年末の任期以来5年ぶりに非常任理事国として復帰しました。加盟国最多の11期目になります。また人道サミット直後の5月26-27日には、日本が議長国となり、伊勢志摩G7サミットが開催されます。私たち日本人はこの機会をどうとらえるべきでしょうか。世界規模の紛争が常態化し、難民問題も空前の規模に拡大している現在、国際社会の中の日本の立ち位置、責務を改めて考える機会にすべきではないかと考えます。

 

私は、国際協力NGO・難民を助ける会(AAR Japan)の理事長として、また、NGO、経済界、日本政府が協力・連携して、日本のNGOによる緊急人道支援を支える仕組みであるジャパン・プラットフォーム(JPF)の共同代表理事(2006~2011)や理事(2011~)として、日本の市民社会の一員として、国内外の緊急人道支援に携わってきました。その立場から、この原稿では世界人道サミットと日本の人道支援のかかわりを考えていきたいと思います。

 

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JPFのインド洋津波緊急支援のモニタリングで訪れた、インド・タミルナド州で。津波を乗り越え無事に誕生し、「ツナミちゃん」という名前がついた赤ちゃんと。

 

日本の人道支援NGOを取り巻く2つの課題

難民を助ける会(AAR)創設から37年目、ジャパン・プラットフォームも設立から15年が経過しました。日本のNGO人道支援を取り巻く環境はこれら2つの組織の創設時と比べて格段に整備されてきています。

 

しかし、今日の、ますます深刻化し、常態化する世界の人道危機を考える時、規模は縮小したとはいえ、引き続き国連の通常予算への拠出金世界第2位の国、開発・人道の分野で世界有数のドナー国のNGOとしては、あまりに不釣り合いな、残念な現状も存在します。私たちNGOがまだまだ力不足であることもその一因ではありますが、同様に大きな課題として(1)自然災害への高い関心と対照的な紛争地への低い関心(あるいは紛争地への支援を控えようとする力学)、(2)国際基準から外れた安全基準の2つを挙げることができます。

 

私は、今回の人道サミットが、そうした課題を乗り越える、とまではいかずとも、少しでも改善できる機会となることを強く期待しています。

 

1)災害支援から紛争起因の人道支援

「困った時はお互いさま」。37年前、難民を助ける会の設立に際し、創設者の相馬雪香が広く呼びかけた言葉です。過去20年間、日本のNGOによる人道支援に携わってきましたが、明らかに一般の方々の関心が高まってきたことは実感します。

 

その一方で、一向に変化がない、あるいは第二次世界大戦を経験した人が少なくなる昨今、20年前より状況が悪くなっていると感じることもあります。日本人の関心が、地震津波、サイクロンといった、まさに他人事ではない、大規模な自然災害では大きく高まり、日本人の「人道的関心」や想像力が、余すところなく発揮され、それにより募金の額も増えるのに対して、紛争に起因した人道危機に際しては、反応が大きく鈍るという事実です。これには日本での国際ニュースの少なさも関係しているとは思います。

 

JPFの代表理事として、多くの企業を訪問させていただいた際の経験ですが、自然災害に際しては、発災後きわめて迅速に、大変ありがたいご寄付をくださる企業の方々が、紛争起因の人道危機に際しては、担当者の方は深い理解を示してくださりつつも、「紛争起因の人道危機を支援することに、株主、お客さま、従業員、役員といったステークホルダーの理解が得られない」という趣旨のことを口にされます。「自然災害に際しては、被災者は100%被害者だという認識があり、その支援に反対する人はいない。他方で紛争は自業自得、という感もある。紛争地の難民問題に支援を行うと、自社が政治的と見られる懸念がある」とおっしゃられた方もいます。そしてこれは経済界のみならず、日本全体の傾向でもあるように思います。

 

紛争に起因する危機との距離感。これはもしかしたらシリア難民をはじめとする、難民の受け入れに対して消極的な世論と重なる部分があるのかもしれません。日本人が国際社会の一員として、「名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)、しかるべき国際貢献をしていこうという今こそ解決すべき問題であるように思います。そして人道サミットで議論される課題が、あるいは人道サミットの開催そのものが、こうした傾向を考え直すきっかけになればと思います。

 

2)邦人に対する安全管理の改善

自国の民や同朋を最優先する姿勢は、民主主義国家であればどこの政府も同じです。しかし、現在の日本政府の日本のNGOに対する姿勢は、開発や人道援助分野に多大な貢献をしている先進ドナー諸国のいずれの国とも異なるものです。

 

現在、日本の人道支援NGOに対しては、国連機関や国際機関、他国のNGOが活動している地域であっても、日本政府が退避勧告を出した危険地へは日本のNGOの立ち入りを許可しないという政策がとられています。一般の旅行者と同様の制限が、人道支援を職業とする専門家の集団にも課せられているのです。他方で、国連・国際機関、外国のNGOで働く日本人にはこうした制限は課されていません。日本のNGOに所属する日本人については保護の名目で活動を制限するというこうした姿勢は、人間の命を守るという意味での「人権思想」とは全く異質のものであるように感じます。現に、「人権思想」が根強い欧州、特に北欧の国々では、危険地に自国のNGOを行かせないのではなく、危険地で、いかにNGOが自らの身を守りながら受益者の命を守る活動ができるかという観点から、自国・他国を問わずNGO全般の安全対策に多大な財政支援を行っているからです。

 

危険地での人道支援や難民支援活動に対しては、「日本は国連機関や国際機関にカネだけ出していればよい(その「カネ」・拠出金とて、大きく減額されていますが)」、「日本人は、危険なところに行く必要はない。危険地での人道支援活動は、国連機関や外国人に任せておけばよい」という姿勢では、世界の中の、日本の責任が果たせるでしょうか。

 

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AARがトルコ国境で運営する、シリア難民のためのコミュニティ・センター開所式にて。シリア難民と近隣のトルコの子どもたちと。


もはや日本は一国では生きていけません。東アジアの小さな島国に住む私たちは、石油やガスといったエネルギー、食糧は言うまでもなく、海外から輸入される、おびただしい物資や情報の上に、今の私たち日本人の豊かな日々の暮らしがあります。

 

日本は、この1月から国連安全保障理事会非常任理事国を務めています。また国連憲章の改正や国連改革に注力し、日本の常任理事国入りを目指す方々もおられます。そのような、国際社会の中でしかるべき地位を占めようとする国が、国際の平和と安全に寄与しようという日本の市民の組織・NGOの活動に、ひいては、国際社会の人道支援そのものに、どのように向き合うのか、この世界人道サミットがそれを再考する機会になることを願っています。

 

関連リンク:

特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR Japan)

ウェブサイト:http://www.aarjapan.gr.jp/

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Twitterhttps://twitter.com/aarjapan

 

特定非営利活動法人 ジャパン・プラットフォーム(JPF)

ウェブサイト:http://www.japanplatform.org/

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わたしのJPO時代(14)

 「わたしのJPO時代」第14回は、世界保健機関(WHO)カンボジア事務所の保健システム開発アドバイザー兼上級プログラム管理官である竹内百重さんの話をお届けします。WHO職員の突然の電話から、年齢制限ギリギリでJPOを受験した竹内さん。2人の娘を連れてジュネーブへ渡り、アカデミックな雰囲気の中、専門知識を深めたそうです。その後は正規職員としてWHO本部のプランニングに携わり、現在はフィールドで活躍していらっしゃいます。そうしたキャリアの影には熱心に指導してくれたメンターの存在が欠かせなかった、と竹内さんは語ります。

            

           世界保健機関WHOカンボジア事務所

                          保健システム開発アドバイザー 上級プログラム管理官

                                         竹内 百重(たけうち ももえ)さん

   ~専門分野とマネジメントを軸にしたキャリアパス:メンターが与えてくれた道標~

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                                          WHOカンボジア事務所にて(2016年現在)

 

上智大学大学院比較文化専攻(国際経済と開発論)修士東京大学大学院(保健学)博士。大学院時代はモンゴルやヴェトナムで移行経済と健康についての調査研究を行う。国立病院管理研究所、WHOインターン(欧州地域事務所)、民間シンクタンク、JICA短期専門家(タイ)、私立大学講師などを歴任の後、2001年にJPOとして世界保健機関(WHO)本部に赴任。2003年より同本部でプランニング担当官に着任。以降、WHOバングラデシュ事務所(ポリオ撲滅・予防接種拡大計画)、WHO西太平洋地域事務所(保健システム強化)を経て、2012年よりWHOカンボジア事務所に上級プログラム管理官として赴任。2015年3月より保健システムのチームリーダーと兼任になり、援助協調や国連チームとの調整の他、保健政策支援、保健財政、保健人材、健康と高齢化などのプログラムを通してカンボジアのユニバーサルヘルスカバレージを支援している。

 

 

私のJPO時代の始まりは、思いもかけない一本の電話がきっかけでした。当時私は、日本の地方都市で教職についていましたが、ある日、「WHOジュネーブのK」と名乗る人から突然、連絡がありました。WHO本部の保健財政部門でコーディネーターを務めているというKさんは、私が以前応募したポストの不合格者のファイルから私の履歴書を見つけ出し、興味を持ったとのこと。ただし、彼女の部署には予算がなく、「WHOで働きたければ、まずJPO制度を利用して来てほしい。その後、正規職員になれるよう私が支援もしてあげるから。JPOの応募締め切りが3日後なので、メールでは間に合わないと思い、電話することにした」との説明でした。

 

健康にかかわる国連機関で働きたいという希望はあったものの、なぜかJPOは30歳までの制度だと思い込んでいたうっかり者の私は、そのような成り行きで、当時の年齢制限(32歳)ちょうどの時に、滑り込みでJPOを受験しました。

 

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WHOバングラデシュではポリオ撲滅・予防接種のプログラムに勤務し、全国予防接種デーやキャンペーンのモニタリングで国中を駆け回った(2007年)

 

JPO試験の面接では、配属先が大きな焦点になりましたWHOは、UNICEFなどと比べて正規職員として残ったJPOの前例が少ないという理由から、面接官は、UNICEFのカントリーオフィスを志望すべきだと勧めます。私自身も本来はフィールド志向が強いのですが、今回の応募の経緯と、Kさんのように引っ張ってくれる上司がいるのは稀有な機会だと思うと説明し、理解をいただきました。そして2001年3月末、7歳の長女と生まれたての次女を抱え、初春のジュネーブに赴任したのでした。

 

私の赴任した部局は、保健医療分野での「エビデンスに基づく政策」を推進しており、前年に出版された『世界保健報告』の方法論に従い、各国の保健システム強化の支援に必要な調査研究に当たっていました。このような戦略や指針作成につながる調査・研究、そして統計の整備などの活動は本部の主要な機能のひとつですが、この当時は、学者から転進した新進気鋭の局長がこの部局を率いていたこともあり、非常にアカデミックな雰囲気で、同僚と呼ぶにはおこがましいような、国際的に著名な医療経済学者が集められていました。会議といっても事務的なものではなく、統計解析の方法論などについて真剣な議論が行われるので、イメージしていた国連の仕事とはかなり異なり、これは大学院時代以上にまた勉強しなおさないといけないと、身が引き締まりました。

 

私の場合も、たとえP2レベルであっても専門職員である以上、着任後すぐに自分から着想や研究計画を提言することが求められていました。特に新しく作られたJPOのポストだっただけに、すでに走っているプロジェクトがあるわけではなく、まずは自分で貢献できる分野を見つけて仕事を作っていかなくてはいけない状況でした。

 

試行錯誤で1ヶ月があっという間に過ぎた頃、Kさんから「日本人は真摯に仕事をし、必ず結果を出す、という一番基本的な部分で信頼できるけれど、丁寧にやりすぎてスピードや効率に欠けるところがある。質も大事だけれど、時機を逃したら価値はゼロ。もっとタイムリーに結果を出すことを心がけなさい」という助言がありました。要は、私と同じP2レベルの当時の同僚2人に比べて、私の仕事のペースが遅く見られているという厳しい指摘だったのです。

 

同僚がすでに行っている研究内容の理解や、自分自身の研究テーマを見つけるのにかなり時間を浪費した私にはとても耳に痛い忠告でしたが、率直な指導に感謝しつつ、仕事の質と効率の良い均衡点を徐々に定められるように努力を重ねました。また、世界のトップレベルの仕事をしている同僚や上司との議論や、職務上読む必要のあった膨大な量の文献、また、本部ならではの特典である、内外のいろいろな会議やセミナーに参加したり傍聴できたりすることで、JPOの2年間で大学院何年分にも匹敵する知識の吸収、専門分野の知見が広がりました。

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マニラのWHO西太平洋地域事務局勤務中、ソロモン諸島に出張し、保健システム強化のプロポーザル作成を支援。保健省カウンターパートを海岸でのクリスマスパーティーに招待(2011年)

 

JPO2年目は、研究業務だけでなく、もう少し加盟国の実情を学ぶ仕事もしたいと希望を申し入れ、同じ部局の中で、国毎の保健制度の情報を色々な形にまとめて提供するプロジェクトを行っているチームに配属してもらいました。191の加盟国の保健システムや政策のプロファイル作り、各国の保健指標を一覧にした初めてのカントリーウェブサイトなどを作る仕事を任され、具体的な成果を出すことができたのは良かったと思っています。副産物としても、内部での情報収集の段階で、多くの部署の部長レベルの職員と面識ができ、またWHO内のさまざまなプログラムや保健指標のことを学ぶ機会を得ました。

 

JPO2年目の後半になると、Kさんは当初の言葉通り、正規職員のポストを得るための実践的指導をしてくれました。保健システムの部署は当時財政難だったので、別の部署のポストを狙うように薦められました。「国連で働き続けたいなら、とにかく2年以上の正規職員のポストを取るのが最優先。正規職員になっていれば、保健システムの仕事には必ず戻れるから」というのが理由でした。

 

彼女自身、以前にいた別の国際機関では、ポジションを得るために、人事畑まで経験したといいます。そして、その職務経験は管理職になった今大いに役立っているので、仕事選びも長期的視点を持つべきである、との助言でした。当面の生き残りしか頭になかった当時の私には大変大それた考えのように思われましたが、WHOで働き始めてから15年、予算や人事にも深く関わる立場になった今振り返ると、全てがその通りだったとあらためて敬服しています。

 

結局、履歴書の書き直し、筆記試験対応、模擬面接までを厳しく指導してもらい、応募者300人と聞いた、本部のプランニングの部署で正規職員(P3)のポストに合格することができました。その後3年半勤めたプランニングの部署では、WHO全体の中・長期戦略作りや2年毎の予算計画の策定、実施のモニタリングなどを行いました。この仕事を通し、他の国連機関や援助機関、政府高官たちとの議論にふれる機会があり、大きな刺激になるだけでなく、現在も有用な、国際保健の専門家たちとの強力なネットワークができました。

 

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                     JPOから無事正規職員に昇格した直後の夏、WHO本部の玄関前で、家族と(2003年)

 

そして、このプランニングの仕事をした時の知識と経験が、現在いるカンボジア事務所でのプラグラム管理の仕事にもつながり、また、カントリーオフィスの所長代行としての職務遂行にも大いに役立っています。また、Kさんの予言通り、本部を5年半で飛び出した後は、バングラデシュ、フィリピン、カンボジア、とフィールドに近い仕事に戻り、色々な形で保健システムに深く関わる仕事を続けることができました。このように保健システムの専門分野とマネジメントの両方をうまく組み合わせながら過去15年間をキャリアアップにつなげることができたのは、そのような先見の明をもたせてくれた素晴らしいメンターの適切な助言があったからに他なりません。

 

以上、私自身の個人的体験ではありますが、他のJPO同期や後輩を見ても、WHOのような専門機関の場合、正規職員に残るという目標を優先すると、本部勤務のほうが可能性が高まるケースも多いかと思います。特に、専門分野がかなり特定されている応募者の場合は、本部のほうがその後につながるポストがある、あるいは作ってもらえる可能性が高い場合もありますし、人脈やネットワーク作りにおいても有利な場合も多いでしょう。

 

一方、カントリーレベルで、政府担当者を直接支援し、他のドナーと連携して働く経験は、WHOの仕事の中でももっともやりがいと醍醐味のある部分です。私の場合、すでに学生時代からすでに途上国での経験がありましたが、JPO以前に途上国で働いた経験がない場合は、フィールド経験の重要性も考慮する必要があるとでしょう。またWHOの場合には地域事務所の役割がかなり大きいので、指針作りとカントリー支援の双方をバランス良く体験できる面で、地域レベルの仕事も一考に価するかと思います。

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“赤ちゃんにやさしい病院” に認定されたタケオ州立病院にて、カンボジア保健大臣と共に式典に参加、病院視察(2014年)

 

WHOのみならず、国連をめざす若い方にとって、JPOは、2年間の成長の機会を与えてくれる素晴らしい制度ですので、ぜひ前向きにとらえ、新しい道を切り開くための一歩を踏み出してみてください。

 

WHOについて詳しくはこちら

 

2016年度JPO試験の募集要項はこちら

4月6日は「開発と平和のためのスポーツ国際デー」:スポーツが世界の子どもを救うとき ~ 今なぜスポーツなのか ~

スポーツ無しには子どもの将来は見えないといっても過言ではありません。スポーツは我々が想像する以上に大きな作用をもたらします。ただ健康に良いという認識ではなく、脳科学の視点から脳に良い影響をもたらすことが確認されています。定期的なスポーツは脳内神経ネットワークを形成し、知能発達、情報収集能力を助長させます。それ故、発達の著しい段階にある子ども達にとってスポーツは不可欠です。しかし、世界中の子ども達全員にスポーツをする機会がある訳ではありません。子ども達の成長にとって「教育を受ける権利」と同様、「遊びやスポーツをする権利」が求められている。安全かつ健康な環境で、遊びやリクレーションを楽しむ場の提供の重要性を再認識する必要があるでしょう。今なぜスポーツなのか、 UNICEF東京事務所の 平林 国彦 代表の寄稿をお届けします。

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 ©UNICEF UNI/47750/Cranston

「当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。」小豆島高校の樋本尚也キャプテンの、今年の春の選抜高校野球大会での選手宣誓の言葉は、私の心に強く響いた。憧れの晴れ舞台に立つ子どもたちも、その機会を持てなかった子どもたちも、多くの人たちからの支えを受けて、野球というスポーツを続けてこれたのであろう。実際、スポーツや遊びは、子どもたちの生活に良い変化をもたらす力がある。野球に限らず、陸上競技、サッカー、クリケット、バレー、バスケット、ラグビー、水泳など、世界中で子どもや若者が、様々な形で、スポーツや遊びに魅了され、夢中になっている。これは、子ども時代に誰もが経験すべき、素晴らしい体験であろう。

一方、笹川スポーツ財団が実施した2015年の調査を見て、正直驚いた。日本国内で運動・スポーツを学校以外で1年間「全く実施していない」という4歳から9歳の子どもたちの割合いは、3.7%(私の推計ではおよそ25万人)であるという。以前の調査よりは減少しているということではあるが、依然として憂慮すべき数字である。親の収入と、子どもの学校外スポーツの実施率に相関関係があり、貧困家庭に暮らす子どもたちが、運動・スポーツができていない現状が浮かびあがる。日本人は、多くの努力と犠牲を払って、すべての子どもたちが、楽しく遊び、平和で安心して運動・スポーツができる環境を、戦後の廃墟から着実に築いてきたはずなのにである。

最新の脳科学分野の研究によれば、適切な遊びや、運動・スポーツを定期的に実施する子どもたちは、脳内の神経ネットワークがより多く形成され、知能の発達や新しい情報を取り込む能力に優れている傾向にあることが指摘されている。また、スポーツは、子どもたちや若者に、チームワークの大切さ、集団・組織などにおける行動の規律や、相手を尊重することの重要性など、人としての社会の中で生きる基本的な術を習得する効果があると考えられている。つまり、適切な遊びや運動・スポーツは、教育と同じくらい、子どもたちの人生に大きな影響力を持っている。

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©UNICEF/UNI/106558/Crouch

すべての子どもたちは、「教育を受ける権利」と同様、「遊びやスポーツをする権利」を持っている。日本も1994年に批准した国連子どもの権利条約では、加盟国に対し、全ての子どもたちに、安全かつ健康な環境で、遊びやリクレーションを楽しむ場を与えるよう求めている。UNICEFでは、スポーツが持つ様々な恩恵を通じて、全ての子どもたちが、自らが持つ可能性を最大限発揮できる世界を実現できるよう、日本政府や日本企業などを含む様々なパートナーの方々とともに、世界中で支援活動を行っている。

私は、以前、紛争下にある中東の国で、国連の重いヘルメットと防弾ベストを身にまといながら、戦闘で傷ついたり、戦闘や爆撃から身を守るために避難をしている子どもたちの支援を行っていたことがある。爆撃や地雷の被害にあった子どもたちばかりでなく、家族や友人が目の前で亡くなるのを目撃した子どもたちも多くいた。その中で、両親を失った1人の5歳の女の子のことが、私には気にかかっていた。引き取った親類とともに、その子は近くの学校に避難していたが、顔には生気が全くなく、周りの子どもたちともあまり交わらず、いつも一人でたった一つ残った人形を抱きしめていた。そんなある日、UNICEFが様々な遊び道具とともに、Child Friendly Space(子どもたちが安心して、友達と楽しく遊べる場所)を彼女が暮らしている学校の校庭に設置できることになった。しばらくして、そのChild Friendly Spaceを訪れてみると、彼女は、新しくできたお友達と、楽しそうに絵を描いたり、みんなとフラフープで遊んでいた。彼女に、子どもらしい一面がようやく戻ってきた、と安堵した瞬間でもあった。

日常的に暴力的な行為を受けたり、自然災害や紛争で悲劇を繰り返し目撃することは、子どもたちの脳に不可逆的なダメージ(Toxic Stress)をもたらすことが知られている。人道支援下や様々な暴力を受けた子どもたちに、早期に遊びや、運動・スポーツの機会を与えることで、子どもたちがこのようなストレスを受けるリスクを減少することができる。

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©UNICEF/UNI/197264/Mackenzie

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UNICEFリクレーションキット〈左〉とEarly Childhood Development キットの例 

少数民族や、女の子たちや障がいのある子どもたちなど、差別を受けている子どもたちが、積極的にスポーツに参加することで、公平な社会造りに貢献できることも知られている。さらには、運動やスポーツに積極的に取り組んでいる子どもたちは、何でも話し合える仲間をつくりやすく、少年兵などの誘いや、薬剤やアルコールからの誘惑に打ち勝った事例も多く報告されている。

また、スポーツには、子どもたちやコミュニティを動かす力、そして多くの人たちを巻き込んで強い団結力を築く、不思議な力がある。そして、著名なスポーツ選手は、子どもたちや若者が、苦難を乗り越えたり、成功をつかむための良いモデルとなり、さらには、そのような尊敬を集めるスポーツ選手たちが集うワールドカップやオリンピック・パラリンピックのような大規模なスポーツ大会は、子どもたちにとって重要な問題を世界中の人たちが気づき、そして支援してしてくれる機会を提供してくれる。

しかし、その一方で、スポーツと遊びの場が子どもたちへの体罰や虐待にもつながっているという報告が、近年増加していることも確かである。このような悲劇を根絶させるためにも、すべての国がスポーツに関する暴力から子どもたちを保護し、安全を守るための方法を強化しなくてはならない。

今年の2月25日、以前勤めていたUNICEFアフガニスタン事務所のフェイスブック上で、とてもうれしいニュースを見た。アフガニスタン少数民族のハザラ人の5歳のムルタザ・アフマディ君は、兄がビニール袋で作ってくれたアルゼンチン代表メッシのユニフォームを着てとても喜んでいた。この写真がフェイスブック上に投稿されたことで、「アフガンの小さなメッシ」として有名になり、本物のメッシから直筆サイン入りのユニフォームをプレゼントされたのだ。偉大なスポーツ選手が、紛争や貧困・差別に苦しむ1人の子どものことを対等に見てくれたという事実は、多くの人が彼の行動に共感し、ムルタザ君ばかりでなく、同じような境遇の多くの子どもたちに、夢と希望のメッセージを届けたであろう。

       

スポーツの持つ力は、今年から始まった新しい世界的な開発目標「持続可能な開発のための2030アジェンダ」においても、特に重要視されている。それは、スポーツが持つ、フェアープレーと対戦相手への尊厳の精神、世界中の人の周知を集められる能力、そして若者や社会的弱者である女性や少数民族、障がいのある人たちの参加を促進する力が、持続可能な開発を実現させるためには必須だからである。

このように、多くの子どもたちが、スポーツを楽しめる環境が整備されつつある一方で、2011年から始まったシリア危機は、すでに6年目を迎え、シリアの子どもの3人に1人に相当する推定370万人が、5年前の紛争開始以降に生まれ、暴力や恐怖、避難による影響を受けている。その子どもたちのうち、30万6,000人以上は難民として生まれている。そして、紛争の影響を受けているシリアの子どもたちは、シリアの子ども人口の80%以上にあたる約840万人に上るとUNICEFは推計している。そのような子どもたちは、かつては、豊かでなくとも、安心して学校に通い、友だちと遊びやスポーツを楽しめたが、その故郷はもうない。

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© UNICEF/UN013172/Al-Issa

 2013年9月,国際オリンピック委員会IOC)総会でのプレゼンテーションにおいて,安倍総理は,スポーツ分野における我が国政府の国際貢献策として,Sport for Tomorrow(SFT)プログラムの具体的な内容を発表した。SFTは2014年から2020年までの7年間で開発途上国を始めとする100カ国以上・1000万人以上を対象に、世界のよりよい未来をめざし、スポーツの価値を伝え、オリンピック・パラリンピック・ムーブメントをあらゆる世代の人々に広げていく取組みだ。2019年のラグビーワールドカップや、2020年の夏のオリンピック・パラリンピックを開催する日本。敗戦から立ち上がり、平和と安全な社会を実現してきた日本だからこそ、この大きなスポーツイベントを、単なる観光やビジネスのチャンスと捉えるのではなく、SFTなどを通じ、日本が、安全で平和な世界をつくるためのリーダーシップを発揮できる機会として考えてほしい。そして、暴力や破壊しか知らない子どもたちに、夢や希望をかなえられる世界は実現できる、ということを実感させてほしい。

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©UNICEF/UNI/185317/Page

平林 国彦 (Kunihiko Chris Hirabayashi)

2010年4月よりUNICEF東京事務所代表。

1994年から約10年間、国立国際医療センター国際医療協力局に勤務し、ボリビア、インド、ホンジュラスウズベキスタン南アフリカベトナム等の病院での技術指導、保健省での政策立案支援などを担当。JICA専門家・チーフアドバイザー、WHO短期コンサルタントなどを経て、2003年からUNICEFアフガニスタン事務所(保健省シニア・アドバイザー、UNICEFアフガニスタン事務所保健・栄養部長)、およびレバノン事務所(保健栄養部臨時部長)を歴任。2006年9月から2008年6月までUNICEF東京事務所副代表。2008年7月からUNICEFインド事務所副代表。1984筑波大学医学専門学群卒 医師免許取得、循環器外科を専攻(筑波大学付属病院、茨城こども病院、神奈川子ども医療センターなどで研修)。1994年筑波大学大学院博士課程終了、医学博士取得。

 

 

 

 

シリーズ「今日、そして明日のいのちを救うために ― 世界人道サミット5月開催」(8)

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シリーズ第8回は、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)元難民保護官で現在JICAシニア・アドバイザーの帯刀豊さんです。「難民の数、そのニーズは増え続け、人道支援の許容範囲を越えつつあります。この閉塞的な状況を抜け出すための一つの方策は、難民に出口を提供する仕組みを作ることです」と帯刀さんは強調します。難民と真摯に向き合ってきた帯刀さんが、難民問題の奥深さと、解決への展望を語ります。

 

                     第8回 国連難民高等弁務官事務所・元難民保護官 

                              現JICAシニア・アドバイザー 帯刀豊さん

                       ~人道と開発の連携による難民問題の「解決」に向けて~

 

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              帯刀 豊(たてわき ゆたか)

一橋大学法学部卒業後、東京銀行入行。外務省経済協力局出向、アジア経済研究所開発スクールを経て、エジンバラ大学、オクスフォード大学で国際法と難民・移民に関する修士号を取得。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷勤務を経て、2003年よりUNHCR職員。インド、スーダンイラクアフガニスタン、タイ・ミャンマー国境で難民保護官として勤務後、現在はJICAシニア・アドバイザー。

 

2011年、アフガニスタン北部のとある村でのことです。UNHCRの難民保護官として赴任したばかりの私は、村の長老達と対面しました。タリバン勢力の崩壊とともに進展したアフガン難民の帰還も一段落し、全人口の4分の1に当たる570万人以上の難民がすでに帰還を果たしていました。故郷に帰還した難民の晴れやかな顔を私は想像していましたが、やがて一人の男性が私にこう告げました。「仕事のない私には家庭で居場所がない。昨日、学校にも行けず暇を持て余していた息子が家を出て行った」男性はこう続けました。「パキスタンにいた時の方が幸せだった」

UNHCRは全土で帰還民を対象に緊急サーベイを実施しました。質問は、帰還したという実感はあるか、ということに尽きます。結果は、60%が生活を取り戻すに至っておらず、15%は再び故郷を去っている、というものでした。私はその結果に驚愕しました。帰還民の多くはまだ「難民」のままであったということです。「この過ちは直ぐに正さなければならない」と、当時のUNHCRアフガニスタン代表は表明しました。

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                                                              帰還したアフガン難民と

 

2013年、私はタイ側国境でキャンプ生活を送るミャンマー難民の帰還を準備していました。ミャンマーでは武装勢力が政府との停戦に応じ、誰もが帰還の条件が整いつつあると感じていた時です。UNHCRはまず、難民自身の意思を問う聞き取り調査を実施しました。結果は、90%以上もの多数が帰還を望んでいないというものでした。予想外の結果でした。

何が帰還を思い止まらせるのでしょうか。何度も停戦に裏切られてきた難民の心中は容易に察しが付きます。しかし私が気になったのは、その次の理由、就業と生計への不安、でした。かつてのアフガン男性の顔が目に浮かびました。数か月後、私はキャンプ内で、とあるNGOによる映画上映会に立ち会いました。現実の将来を見通せない難民は映画に希望を見出せるのだろうかと、正直私は懐疑的でした。しかし翌日、私はキャンプ内で活発に動き廻る若者の一団と遭遇しました。「映画を見せるだけでなく、映像の撮り方を教えているのです」とそのNGOの職員が私に言いました。「若者は母国に戻ってニュース番組を立ち上げたいそうです」

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                                      難民を乗せたボートの行き交うタイ・ミャンマー国境の川

 

難民が「難民」でなくなることは容易ではありません。一方で、新たな難民と紛争による国内避難民の数は増え続け、ついに統計を取り始めて以来最大の6000万人に達しました。昨今のシリア情勢でも明らかなように、難民を生み出す紛争に終止符を打つことは政治的にも軍事的にも容易ではありません。難民の数、そのニーズは増え続け、人道支援の許容範囲を越えつつあります。

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                                               スーダンダルフールの避難民キャンプにて

 

この閉塞的な状況を抜け出すための一つの方策は、難民に出口を提供する仕組みを作ることです。実は難民の80%以上が開発途上国で受け入れられ、その半数以上が5年間以上、時に20~30年間もの長い間、難民生活を強いられています。そうした難民は昨今、キャンプでの受け身の生活に甘んじることなく、現地コミュニティに飛び出して自立した生活を志向し始めています。自立のために難民は、コミュニティ内で就業・生計手段の確保や教育の機会を必要としています。就業・教育を通じて継続的に難民をエンパワーメントしていくための支援。その比較優位を持つのは人道機関でなく、開発機関です。そして、難民がコミュニティの中で自立した存在となり得た時、それが受入国での現地統合という形であれ、帰還後の再統合という形であれ、難民が難民でなくなるという可能性が生まれるのです。

難民を生み出す紛争を止めることが難しいのであれば、紛争以外の要因のために長く難民状態に留め置かれた人々に対し難民であることを卒業するための手助けをする。難民問題においてはこれを、保護でも支援でもなく、解決(solution)と位置づけます。これは右肩上がりの難民支援ニーズを緩和することにも繋がり、ここに人道・開発連携の意義の一端が見出されるのです。

 

私は現在UNHCRからJICAへと出向し、この難民問題解決に向けた連携を追及しています。国際社会もまた、連携の動きを加速させています。2014年4月、UNHCRやUNDP等の国連機関、JICA等バイの開発援助機関、難民ホスト国、NGOや民間企業、大学研究機関、その他50以上の政府代表や国際機関が参集し、難民問題解決を目指す連携枠組み、’the Solutions Alliance’(SA) (http://www.endingdisplacement.org) を立ち上げました。UNHCRとJICAは共に、発足当初からこのSAの取組を積極的に支援しています。世界人道サミットにおいてもまた、’Leaving No One Behind: A Commitment to Address Forced Displacement’を旗印とした難民問題の解決、また’Changing People’s Lives: From Delivering Aid to Ending Need’をモットーに、包括的な連携枠組構築が優先分野として強調されています。UNHCRとJICAもその趣旨に強く賛同し、同サミットの場において、難民問題解決に向けた人道・開発連携の実績と提言を積極的に発信することを予定しています。

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2015年、私はザンビアウガンダを訪れました。SAは両国をモデル国に指定し、現地統合を通じた難民問題の解決を支援しています。難民に土地と生計手段を供与し、ホスト・コミュニティと共に国の開発の担い手として育てるという取組。難民問題解決に向けたこの稀有な取組をUNHCR・JICAとしても後押ししています。両国での取組は、世界人道サミットにおいても取り上げられるはずです。まずはこれらの国々で、人道・開発連携の目に見える成果を挙げることができればと、そう考えています。

 

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